津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松寿庵先生 第140講

2015-04-30 15:17:51 | 史料

                                  冨士山八合目に砲台 ?

                                    玄宅寺と寺本家のお墓

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■藪三左衛門の召し放ち

2015-04-30 07:15:46 | 史料

                          

藪三左衛門は細川家に於いて一万二千石を拝領していた藪内匠の三男である。のち三左衛門は細川家を離れて紀伊徳川家に仕えた。
私は三左衛門自らの意思によるものだと思っていたら、なんとこれが召し放ちであることが分かった。
大坂の陣において三左衛門は、忠興の許で鎗働きで高名を挙げている。
槍つき候衆、一番七助(清田乗栄)、二番縫殿助(村上景則)、藪三左衛門(政三)、佐藤伝右衛門、佐方与左衛門(友信)、吉住半四郎(正景)、續少助(重友)

召し放ちについての記録が見えるのは、元和十年(寛永元年)三月五日の奉行所日帳である。
  一、藪三左衛門被放御扶持候ニ付、御借米・御懸銀等之事、中津御奉行衆ゟ被申越候條、小左衛門・甚丞預り置申候事
       十六日
  一、藪三左衛門役之儀ニ付、中津御奉行衆ゟノ状來ル、本書民ア殿(小笠原長元)へ有之、則、御返叓ニ候間、三人共ニ加判仕候也
       
この後も閏三月中の記事に、借米や懸銀、三左衛門が務めていたと思われる役儀の事(跡継ぎか)、また三左衛門の新田の小作についての事など、中津奉行との書状のやり取りが覗える。召し放ちの理由はうかがい知れないが、三齋の御機嫌を損ねたということではあるまいか。

藪内匠には五人の男子があり三左衛門は三なんである。細川家に二男・図書系に九十郎家・一家、四男・市正系に市太郎家・小吉郎家が明治に至った。
嫡男は不明、五男は男子なく断絶している。女子は長岡主膳信友織田高長に嫁いだ。 

三左衛門についての其後は、堀内傳右衛門の「旦夕覺書」に次のような記事があり、細川家との交流も続いていたことが伺える。
澤村大学も一時召し放ちになったが忠利の斡旋で帰参しているが、三齋とは19年間逢いまみえることはなかった。
三齋の気性の激しさを覗わせている。 

                旦夕覺書・抜粋   

                一、三齋公御代に藪三左衛門殿は御家ゟ立退紀州大納言頼宜公へ三千石にて被召出候由紀州にて毎年正
                  月初に御鷹狩に御出被成候儀御吉例にて御供は大名多く相應/\に人も多く召連銘々場所に結構成
                  るどんす或は絹幕に定紋付け瓣當も長持に魚鳥料理させ荷物も多く持せ給へ申事も埒明不申揃申
                  儀度々延引候 藪三左衛門殿召出候て御供に被召連候て御覧被成候へは布の幕うち主従共に腰瓣
                  當三左衛門は将机にて幕をしほり一番に給仕舞居申候を御覧被成
                  三齋所に居申たる様子顕れ見へ申候 向後何も御家來共絹幕無用布に仕瓣當もかろく三左衛門ことく
                  可仕旨被仰聞候由承及候 親藪内匠殿は豊前米田監物肝煮にて壹萬貮千石にて被召出候由
                   内二千石は與力の様に内匠殿家来にては無之候へ共或は縁者又は所々にて手に付働有之者の内湯浅三太夫は五百石被下候 
                         弟出羽右衛門湯浅角太夫代に御暇被下候 
服部・真野・松村大勢内匠上りと申候        其刻監物殿は六千石にてさのみ

                  内匠殿におとり不申監物か内匠被召出偖々能き者御家に参候とて歓被申候由御聞候由にて長岡筑後
                  殿御咄候由白木貞右衛門咄申候

                一、光尚公御代江戸にて藪三左衛門被参候へは其儘御逢被成三左今日暇ならは緩々と居語り可被申候御
                  手前にて茶を振舞可申と御意被成三左衛門も忝かり御意にまかせ御茶も被下候て歸被申候刻御送被
                  成偖々三左衛門はおしき者を 三齋の御出し被成候唯今にても歸参可仕ならは一萬石餘も可被下と
                  御意被成候由同苗不白其時分御兒小姓にて見申候 男も如形能く偖又御茶被下候様子 三齋公御側
                  被召仕候と見へ申様に御座候由不白被申候 唯今小納戸役に藪七郎右衛門と御座候は三左衛門殿子孫
                  と承候由十年程以前熊本ゟ紀州へ横山藤左衛門御番頭の時被参候 被歸候て承候 紀州は御家老の外大
                  名は跡へり候て被仰付候に藤左衛門被参候刻も三千石迄は取不被申孫にて候様に被申候 松平安藝守
                  様御家も紀州様同然と承申候

 「御侍帳 元禄五年比カ」に、人持衆并組迯衆に二千石・藪三左衛門とあるが、同名異人で藪一家の四代目の事である。

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■きつねつきの妙薬とは?

2015-04-29 10:31:27 | 歴史

寛永七年十二月の奉行所日帳に興味ある記事がある。林作左衛門なる人が「きつねつき」になり、薬を与えたら本性に戻ったというのである。
その妙薬とはどのようなものであったのだろうか。「於豊前小倉・御侍帳并軽輩末々共ニ」に、切米取りとして拾石弐人扶持として作左衛門の名前が見える。

     十一日 
一、吉田縫殿被申候ハ、林作左衛門尉儀罷帰候、此者儀前かと藪内匠(正照)所ニ居申、ぬい預り候者にて候か、狐ののき申薬與申候ヘハ、
  はや本性ニなり申候由被申候、如前々被 召仕候事ハ如何有御座哉と被申候、返事ニ何も談合可申由申候事

     十六日
一、林作左衛門本生に成申候間、前かとのことく御役儀をも被仰付候様にと、吉田縫殿被申候事、左様ニ候は、御扶持方をも被遣候様ニと
  被申候間、尤請取候て可然と申候事 

私が子供のころ祖母から、「稲荷神の信心深い人が良くなる」と話していたことを思い出す。(本当かしらん・・・・)
我が本籍地にして曾祖父が住んでいた城山下代の近くに、日本五大稲荷の高橋稲荷神社があり、ここは商売の神様として有名で初午の日は参拝者でごった返す御社である。 

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■本で床は抜けるのか

2015-04-29 07:21:31 | 書籍・読書
本で床は抜けるのか
 
  本の雑誌社

 

昔から気になっていて刊本を読んでみようかと思っている。Dr T先生は30,000冊の本や資料に囲まれて生活しておられるが、まだ床が抜けるには至っていない。
しかしながら「どぎゃんかせんといかん」という状態ではあるらしい。
世の中には「表・床抜けに必要な本の冊数」というものを発信している人がいるが、これでは床は抜けませんよ。
どうやら建築基準法にある床の積載荷重180㎏/㎡からはじき出したものらしい。建築基準法の数字は安全率が加味されていますから、ありえません・・・・
 
私は現在RC造のアパート住まいだから床抜けの心配はないが、地震でもあっると頭の上から本が降ってきてお陀仏というケースは有りだなーと思っている。
本屋さんのタナが倒れて女の子が亡くなったことがあったし、随分以前には本にうずもれて亡くなった方がすぐには見付からなかったという事件があった。
床が抜けるよりもこちらの方が確率的には高いかもしれないなー、などと建築屋としては考えるのだが如何だろうか。
奥方は渋い顔をしているが、まだまだ本が増え続けている。やはり本は印刷物で、本棚に並んだものをながめて、内容を思い出してパラパラして目的のものを見つけ出すというのが、私の流儀である。

商品の説明

内容紹介

WEBマガジン「マガジン航」で連載開始するや驚異的なアクセス数を獲得、読書家の間で大きな話題を呼んだ連載『本で床は抜けるのか』が単行本に! 

「大量の蔵書をどう処分するか」という問題に直面した作家が、同じ問題をかかえた著名人をたずね、それぞれの具体的な対処法を紹介するノンフィクションです。

2012年、著者が仕事場として都内の木造アパートを借りるところから話ははじまります。狭いアパートの床にうず積み上げられた本、本、本。「こんなに部屋中本だらけだと、そのうち床が抜けてしまうのでは?」と不安におそわれた著者は、最良の解決策をもとめて取材を開始。蔵書をまとめて処分した人、蔵書を電子化した人、私設図書館を作った人、大きな書庫を作った人等々。

これらに加えて、「東日本大震災と本棚」「自炊(電子化)代行は違法なのか」など、近年話題となったトピックにもふれ、さまざまな角度から「モノとしての本」をめぐる問題にアプローチします。

「蔵書と仕事」「蔵書と家族」という悩みは、世間の愛書家、読書家にとってもけっして人ごとではないはず。はたして著者は蔵書をどう処分するのか? アパートの床は抜けずにすんだのか?

*目次

はじめに
1 本で床が埋まる
2 床が抜けてしまった人たちを探しにいく
3 本で埋め尽くされた書斎をどうするか
4 地震が起こると本は凶器になってしまうのか
5 持ち主を亡くした本はどこへ行くのか
6 自炊をめぐる逡巡
7 マンガの「館」を訪ねる[前編]
8 マンガの「館」を訪ねる[後編]
9 本を書くたびに増殖する資料の本をどうするか
10 電子化された本棚を訪ねて
11 なぜ人は書庫を作ってまで本を持ちたがるのか
12 床が抜けそうにない「自分だけの部屋」
おわりに
参考文献


 

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■TV番組から

2015-04-28 16:26:33 | 先祖附

一休みしようとTVを付けたら、熊本朝日放送でタイミングよく(16:10頃)「川尻の歴史」が放映されていた。

いろいろ画面を見ながら紹介する中でクイズが出された。
     Ⅰ 明治期に船着き場に造られたレンガ造りの建物の用途は?
     Ⅱ 川尻の船着き場から御船手に8番線(電線)が張られたがその使い道は?
     Ⅲ 某氏がお持ちの寺子屋の手本に書かれた、入塾の覚悟とは?  「  」が「  」の覚悟
     Ⅳ 20万俵の内5万俵を城下に運んだが(15万俵は大坂へ)その主たる運搬方法は?

Ⅰ これは公衆トイレである。初めてここを訪れた時素晴らしいデザインの小さな建物を見て、なおかつこれがトイレだとしって仰天したことを覚えている。

                          

                   メインサイト http://www.shinshindoh.com/yasumi-kawashiri.html 掲載

Ⅱ これは推測で答えたら正解。流れの速い川を流されずに電線をつたって船を横断させた。
Ⅲ これはまったく判らなかったが、「武士が戦場に臨む覚悟」なのだそうな・・・・・
Ⅳ これは馬(2俵)又は水運(約40俵)で運んだそうだが、川尻から広い処では20メートルほども水路を両岸から綱を引いて白川に至ったという。
  これにはいささか疑義を申し立てたい。
  かって ■白川--川尻間の水路開削中止  ■白川--川尻間の水路開削中止 (續) で書いた通りなのだが、「川尻町史」から引用したとしている。
  早速調べなければならない。
  
察するところ薄場橋の下流で大きく右折する流路の左岸から上の郷あたりを、旧道に添って川尻に至る水路がかっての水運路であったのではない
  かと考えているのだが如何・・・

 


 

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■忠利夫人千代姫様

2015-04-28 08:27:03 | 史料

 忠利が千代姫と結婚したのは慶長十四年(1609)の事である。忠利24歳、千代姫14歳である。千代姫は小笠原秀政と家康長男・信康女の娘であり、秀忠の養女として細川家に入った。秀忠から1,000石、忠興から5,000石の化粧料が与えられた。当時はまだ正室の江戸住まいは義務つけられておらず、千代姫は江戸から豊前中津へ下った。大名妻子の江戸居住が求められ、千代姫が小倉を出立したのは元和九年(1623)十月の事であり、14年に及ぶ豊前での生活であった。その間元和五年には嫡子光尚を出産している。

江戸へ旅立つ直前のあわただしい時期の面白い記事がある。千代姫の家臣に対する貸米・貸銀に関するものだが、出立するに当たり精算が図られたものであろう。
    九月十三日矢野利齊奉り
  一、御上様之御米、元十石、先年小林勘右衛門ニ借被下候ヲ、于近、元利共返上不仕候間、元分十石ハ、
    従 殿様御米ニて、被返進候間、来年ヨリハ、御上様御米ヲ相加へ、借付可申事
    同日、同人奉り                                               元利共ニ
  一、御上様御銀子、窪田善介ニ、先年借被下候ヲ、年々相調、残未進御座候ヲ、殿様御銀子ニテて、○
    御返進被成候算用ニして、来年ヨリハ、御上様御■■銀子ニ加へ、借付可申事           (福岡県史 近世史料編・細川小倉藩・三 p245)

小林勘右衛門の借米と窪田善介の借銀の残りは忠利が精算をし、千代姫の借米・借銀を完済した形をとっている。当然ながら両人は残分を殿さまに返すことに成る。その後も千代姫の財産は運用が続けられるようだ。というよりも厳しい財政状況にある細川家に於いては、千代姫の財産をも拝借を願わなければならなかったということでもある。
   

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■なみなし丸

2015-04-27 07:22:28 | 歴史

 細川藩主の御召船の第一号は小倉時代に忠興公の命によりつくられたという説や、万治元年に川尻で作られたとか諸説あり決定的ではなさそうである。いわゆる「波奈之丸」のことだが、命名したのは綱利公だとされている。「重要文化財細川家舟形修理工事報告書」において、第五節 史的調査にそう記載されている。もしそれが本当であれば漢字をあてはめただけではなかろうか。

「福岡県史 近世史料編・細川小倉藩(一)の寛永元年八月五日の項に「鏡善右衛門登城、波無丸かち取甚介と申者、新参ニ被召置候、(以下略)」とあり、「なみなし丸」という船がこの時期存在したことになる。
そうすると先の報告書にもふれられている、「忠興が豊前の中津で御召舟を新造することを命令し、元和九年造替えて翌寛永元年に完成し中津へ常置した」という説明が真実に近いと考えられる。 
元和九年八月十八日に「十九日ニ出舟新造拾端抓(帆)御召舟・新造九端抓御風呂舟、内新造拾端抓ニ主殿(桑原)・半兵衛(志方)乗上り申候也」という記事が ある。廿日の記事で「六十丁立」とある。閏八月十一日には、「御召舟六十丁立ノかこい、明日ゟ申付へき事」「御加子ノそろいかたひら百六拾九可申付へき事」という記事も見え、これが新造の波無丸のことであることは間違いなさそうである。

こういう記事を発見してわくわくしている。

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■稲津弥右衛門と「けにけち」

2015-04-26 13:48:24 | 歴史

 宝暦五年(1755)六月初頭、球磨地方は数日間大雨にさらされ六月九日に山が崩れ川をせき止め、激流はこれを乗り越えて河口に至った。
元和五年(1619)時の八代城主加藤右馬允が、八代城の築城に並行して、城下を洪水から守るためにと球磨川に延長6.2キロに及ぶ堤防を作らせたが、このときそのうちの1キロが決壊した。
八代御目附の稲津弥右衛門が自ら志願して、この復旧工事にあたり松尾常太郎が献じた七百貫の現銭を雇人夫に分け与えるなどして陣頭指揮をし、見事に復旧の任を果たした。のちに人々は「あのや稲津様は佛か神か 死ぬるいのちををたすけたも」と唄いその功績を称えた。

                            「八代 萩原の堤」の画像検索結果

伊形霊雨が「庶民の人情風俗を歌い且つ其歌意を説明」編輯した「民草婦利」に、特に八代・芦北に関して「附録」をだしているが、ここにこの事業に関わる歌が扱われている。
        ・熊川の水かさまされる五月雨に松江の城は沖の中島
        ・たらちねの行衛をとへばしら浪の八百の汐合に立ちさはぐみゆ
        ・ゆく川の此水底は父の里母の住家とときくはまことか
民人の悲しみの心情がうたわれている。
また弥右衛門の偉業をたたえる歌も見える
        ・秋の田の稲津の神のなかりせばしぬるいのちを誰れたすけん
そんな中でこの工事がきれいごとばかりではなかったことを伺わせる歌が残されている。

稲津某の下司に、いとはらあしきをとこなん有りける、ともすれば腹だちて、杖をふり立てつゝ、怒りけるにおそれて、うたを作れり、それが名をばけにけちとなん呼びければ、うたの頭におきて
        ・はしくも晝飯くふ間もおそしとや杖ふり立てて怒る君かも
        ・なひかね引きかねにける石よりも君が心の角ぞはげしき
        ・ずるともあくるともなき黒髪のとけぬ恨はいふかひもなし
        ・ゝ母の撫てし我身ぞあらちをのあらきたぶさの杖なふれそね
かのけにけち、民をいたはる心なしとて、稲津の神いましめ給ひしかば、畏まり居たりけるに、民また彼が名を呼ひかへて、そこの石ぶしとぞ云ひたりける
        ・流れよる水のみくずにかくろひてかしらなあけそそこの石ぶし
民のにくみしこと、かくなんありける。 

そんな中にも心洗われるような歌が見える。
            ・萩原の塘つく少女いとまなみ花すり衣袖をまくりして
            ・赤のたすきあゐの前垂誰とだに知られぬ人を懸けて戀ひつゝ 

球磨川堤防の改修に神とも慕われた弥右衛門であるが、厳しい仕事ゆえに雇人夫の恨みをかう人物もあった中で、女性の働き手も出て和らぎの気持ちが見えていたことがほっとさせられる。  

 

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■玄与日記が見つからぬ

2015-04-25 10:11:47 | 史料

                             
 阿蘇氏を勉強している中で、玄与日記を再度読みたいと思いコピーを一生懸命探しているが、なかなか見つからない。
全文どこかにUPされていないかとぐぐってみたが、そうは問屋がおろさず・・・ただ鹿児島大学のサイトに上記写真が掲載されていた。
この玄与日記とは、近衛信尹が文禄三年四月後陽成天皇の勅勘を得て、薩摩の坊津に配流となったが、慶長元年に勅許が下され帰京するにあたり、黒齋玄与もこれに随伴しまた薩摩へ帰国するまでの記録である。
黒齋玄与とは阿蘇惟前の嫡子惟賢のことであるが、惟前の父・惟長が肥後の守護職たらんと大宮司職を弟・惟豊に譲って菊池氏を継いだ。しかしこれがうまくいかず再び大宮司職に戻ろうと惟豊を攻めたが失敗した。惟前も同調しての事であったが、堅志田城の戦いで敗北した。
惟賢も父・惟前に伴われて島津忠平(義久)の許へ逃れた。その後の消息がこの玄与日記によって知れるのである。

新撰事蹟通考巻之十八、系圖之六「阿蘇」に惟賢について次のように記されている。

惟賢(阿蘇内記)
穪新里 賢又用堅字國訓相通 後祝髪號黒齋玄與 惟賢従居甲佐穪阿蘇内記 惟將之姉之子也 天正十三年乙酉秋島津兵庫頭忠平來責阿蘇益城城
惟賢諸書多作惟前誤也早属忠平 其後阿蘇領悉為薩摩之旗下 十五年夏豊臣秀吉征九國忠平退豊後府内次玖珠郡野上招惟賢 委導惟賢擻道遂敵饗薩
軍 鎮西悉平明年惟賢往薩摩永止矣 其後贈阿蘇誓書

誓書とあるのは上記文につづく「起請文」の事であると思われるが、阿蘇大宮司・阿蘇惟光にたいしての天正十八年卯月の天罰起請文である。
この起請文の中では阿蘇氏ではなく宇治氏を名乗ったうえで「某遠国(薩摩)に逗留仕候・・・」とある。この時期島津忠平(後・義久)の許に在ったことが判るが、薩摩へ下った詳細な時期については定かではない。(天正十五年か)

島津義久は歌道をもって細川幽齋と親しい間柄である。文禄四年幽齋は秀吉の命により薩摩・大隅・日向の検地の為に薩州を訪れている。
この時期坊津には近衛信尹がおり、当然のことながら旧交を温めたことであろう。
黒齋玄与も御目見の機会があったかもしれない。慶長元年信尹の帰洛にあたっては幽齋が早々に面会していることが兼見卿記に伺える。 

             菊池武経
     阿蘇惟憲---+---惟長--------惟前---惟賢黒齋玄与
          |               
          |     +-----●
          |              |
          +---惟豊---+---惟将
                
                +---惟種---+---惟光(大宮司)
                      |
                      +---惟善(阿蘇神主) 

付け足し:
文禄四年幽齋は島津義久の家来・竹原市蔵なる少年を貰い受けて連れ帰っている。
竹原氏も惟賢と同様宇治氏であり阿蘇氏の庶流である。惟賢が薩摩に下るとき随伴したものであろう。のちに墨齋玄可と号するが、旧の主黒齋玄与に通ずるよく似た名乗りである。その竹原氏は宝暦期、明君細川重賢に堀平太左衛門を推挙した竹原勘十郎の祖先である。
薩摩へ下り、幽齋と共に京洛にあり、忠興の豊前入り、忠利の肥後入り共に随伴して竹原氏はなつかしい父祖の地へ帰ってくるのである。
時代の巡り会わせが面白い。 

(玄与日記の捜索は四日目に入るが依然として所在不明である。再度図書館へ出向いてコピーした方が早い気がする。)

追記:ぴえーる様からコメントをいただき、近代デジタルライブラリーにあることをご教示いただきました。深謝
                            http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879776/348
                    

 

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■福地平左衛門死して福永・地本両家を残す

2015-04-24 08:17:26 | 史料

 「肥後文献解題」をみると、堀平太左衛門が書き残したとされる「福知一件」というものが次のように紹介されている。

  「梅の匂、梅原福知一件等の別名がある。慶安二年十二月廿六日細川光尚公御逝去後、肥後国を両分して幼主綱利公
   と宇土丹後守殿とに分け与えんとの噂があった時、松井佐渡守は梅原九兵衛を以て酒井雅楽頭を説き、本領安堵を得
   しめた。一方宇土侯では福知平左衛門が江戸に急行して丹後守殿を諫諍し遂に御手討にあった事をかいてある。」 

一 此砌宇土丹後守様行孝御手寄之御老中江御密事之筋有之候肥後半國御分知ニ相成 六丸様御後見と
  可被仰出段 大形御手遣出来寄候由 早打飛脚を以宇土江到来 彼方御家老を初 役人中会所江出勤 右之御左右
  承知仕 何も恐悦至極と歓候處 福地平左衛門者 扨々是者大切至極之出来ニ而 御家之滅亡此節ニ極り候
  程 次第ニて御本家ニも可被為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届き千万 拙者直ニ是より江戸へ罷越 身命

  を差上奉諌とて直ニ行立 極々早打ニ而 十三四日振ニ茂江戸江着候由 左候而小屋ニ不寄 直ニ御館へ罷出
  御目見を願 御直ニ奉諫候由 然共曽而御承引無之 小屋ニ引込居候様被仰付候ニ付 不得止引退 翌日尚
  又出勤 押手御目見奉願 如前日強而御諌申上候処 御立腹ニ而御手打被仰付候由

     一説ニ者 翌日御呼出ニ而御手討被仰付候共申候共申候 切殺候人者 釼術者浪人名を失念益々御意ニ叶 常々
     御座之側ニ罷在候由 其節も御差図ニ而 右之浪人切候由 初太刀ハ切損 二刀二切留候由也

  右之事御母上様被聞召 以之外逆鱗ニ而 御目通ニ不被成御出と被仰 一年餘も御對面不被成由 左候
  而丹後守様従 公義被為召候ニ付 御出仕之御支度ニ而御式台迄御出被成候處 平左衛門か亡霊切害被仰付候節
  之通ニ而 御式台之真中御通筋ニ 屹座着罷在候を被御覧候故 忽チ御気絶候様ニ被為見 御出仕相止候而
  其後御気分不勝 終ニ御出仕無之由 彼方ニ而ハ極々密事なから いかゝして式部殿被成御聞候歟 其節
  段々御手寄之御老中様江 仰達候様共有之八代ニ者 委敷御記録も有之候由咄傳申候 左候而 其以後御
  末家より御代替ニ而 奉對 御本家 隔意を企申間敷段 八代江誓紙を被有御取候由ニ候

     但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて明屋敷ニ成居申候
一 月翁様(細川興文)之御時 芦田瀬兵衛二男 三五兵衛と申者を福永と改名被仰付 福永平太夫と申候 外ニ今一人 柴崎勘左衛
  門二男 地本常右衛門と改名被仰付 両人共百五拾石宛江戸・宇土ニ分ケ 新規ニ被召出候 福地之名字
  を二ツニ分ケ 其跡御立被成候 芦田・柴崎共ニ家老職也

一 丹後守様 福地主霊を神ニ祀 江戸二本榎御下屋敷内ニ小社を建立 霊神宮と崇メ今以御尊敬有之申候 祭日者
  六月三日也

 この一件は「秘書」として伏せられており、長く知られることがなかったものと思われる。堀平太左衛門の記録の存在が知られるに及び
 この不幸な事件が知られるようになった。丹後守とあるのは宇土細川家二代行孝公(初代藩主)のことである。
 寛永十四年(1637)生まれ、事件当時(1650)十四歳であるため事の信憑性にいささかの疑問もあるところだが、宇土細川家侍帳に
 福永・地本両氏の名前が覗える。 

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■松寿庵先生 第139講

2015-04-24 06:42:40 | 史料

                                

                                   住宅建築などで鬼門を気になさる方はいまでも沢山居られますね。

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■九州国立博物館

2015-04-23 08:17:00 | 展覧会

                       戦国大名 - 九州の群雄とアジアの波涛 -

 九州国立博物館が開館10周年を迎え、記念特別展が21日から始まった。
出品目録を眺めてみると素晴らしいものばかりである。季節もよし膝の痛みが心配だが、これは是非とも見に行かねば・・・・・ 

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■知らなかった「一本竹町」

2015-04-23 07:16:10 | 随想

 熊本に於いては侍が住んでいたところには町名がなかった。水道町周辺にあった旧町名、被分町・明円寺町・比丘尼町・一本竹町・黒鍬町・桜井町・長安寺町など明治に至って付けられたものである。いずれも下級武士の住まいがあったところである。いまでは何れも正式には使用されていない。
先に黒鍬衆の事を書いたが、黒鍬町の今一つ北の通りを一本竹町といったらしい。私はまったく知らなかった。
我々が史談会の会合で使う熊本市中央公民館の前を、三号線を越えて直進する道である。(但し水道町交差点から北進して左折する一方通行の細い道である)
何でこのような名称となったのか、いろいろ資料を眺めているが現況全く分からない。
神風連の乱に知事・安岡良亮を殺害した高津運記が、事前に友人某宅に母親と愛娘を呼出して、任地人吉の青井阿蘇神社に帰る旨をつたえ永の暇を告げている。
その友人宅が一本竹町にあったという。

この通りは切米取りや長柄衆などが多いのだが、現在の上通りに出た四つ角には中級武士の屋敷が連なっている。その某氏のお宅が何所にあったのかは判らない。
まっすぐ抜けると現在は千葉城橋からNHKの前を通って美術館分館の脇をへて熊本城へと至っている。

又一つ宿題が出来たが、この一本竹町の由来についてご存知の方はご教示給われば幸いである。 

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■一年後は薬師寺

2015-04-22 22:04:25 | 先祖附
 
細川元首相の襖絵公開 京都・建仁寺で特別展

細川元首相の襖絵公開 京都・建仁寺で特別展   朝日新聞デジタル 久保智祥2014年4月21日23時12分                   ...
 

 ちょうど一年前の記事である。細川護煕様の襖絵が京都建仁寺で公開された。

一昨日薬師寺に於いて護煕様のやはり襖絵が薬師寺で公開された記事が発表されていた。不思議な巡り合わせ、それにしてもそのご活躍ぶりにはおどろかされる。

 

細川元首相、薬師寺に襖絵など奉納へ…下絵公開   2015年04月19日 15時32分

  • 下絵に見入る細川さん(奈良市の薬師寺で)
    下絵に見入る細川さん(奈良市の薬師寺で) 

 奈良市の薬師寺で18日、元首相の細川護煕さん(77)が、同寺慈恩殿じおんでんに奉納する襖絵ふすまえと障壁画の下絵を報道陣に披露した。

 22面に天女や楽人を華やかに描いており、19日~5月10日に一般公開される。入場無料。

 細川さんは、山田法胤ほういん管主からの依頼を受けて、2013年から東京都内のアトリエで制作を開始。同寺ゆかりの玄奘三蔵が旅したシルクロードをイメージして、中国・西安の石仏に描かれた天女や正倉院宝物を参考に、異国情緒あふれる作品を描きあげた。

 本画は17年4月に完成予定で、下絵を目にした山田管主は「国際性豊かな西域を感じてもらえる空間になるだろう」と期待。細川さんは「大作なのでやりがいがある。試行錯誤を続けてよりよい作品を完成させたい」と意気込んでいた。

 19日、29日、5月5日の午前11時と午後2時には、細川さんによる作品解説もある。問い合わせは同寺(0742・33・6001)。

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■黒鍬衆は隠密・・・?

2015-04-22 06:53:34 | 歴史

                                                               細川家白銀邸の前に魚籃観音がある。右下にあるのは田町邸。

 江戸白銀の細川家下屋敷の近くに徳川家の黒鍬衆の屋敷がある。「 魚籃坂下交差点を桜田通りに左折すると右手一帯」である。
この黒鍬衆については、その発祥は細川家の松井氏だとする記述が綿考輯録にある。
天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。
このことから黒鍬衆は工兵隊といった意味合いを持つ集団であることが判る。

「天草出身の忍びの者」でも書いたように、「妙解院忠利公御代於豊前小倉・御侍衆并軽輩末々共ニ」によると、「忍之者」として七人の名前が挙げられている。
                       拾五石五人扶持     吉田助右衛門

                       同              野田喜兵衛
                       知行五十石        沢 吉右衛門
                       拾石二人扶持       福川小右衛門
                       同              松山小兵衛
                       同              下川嘉兵衛
                       同              上野又右衛門

忠利は肥後入国後どういう思いがあったのか、寛永十年忍之衆の増員を言いだしている。天草島原の乱を予見するような動きである。

       ■      覚
         一、しのびの者今十五人程度抱度由申候何そ役可在之候哉
              寛永拾年九月十日
       
       ■ 一、十五人しのひ之者抱たし候と助右衛門尉ニ可申候 切米拾石ニ三人扶持にて可然候以上 御印
         一、なにもしのひ之者何にても助右衛門尉相談候而召遣可申候以上 御印

しかしながら天草島原の乱ではその働きはあまり芳しいものではなかったようである。

又、息・光尚公の時代になっても忍之衆は存在し、27人もいたことが「正保五年御扶持方御切米帳」によって確認できる。
この二つの史料の両方に名前が残っている人物は唯一、吉田助右衛門と云う人物である。両方とも筆頭に名前がある所を見ると「頭」でもあったのだろう。その後忍の者についての主だった情報は見えない。

熊本の城下にも黒鍬町があった。熊本地名研究会編著「くまもと城下の地名」において、「黒鍬町」の項を担当された小崎龍也氏は「細川藩にも隠密は居たであろうがその証はない」としながら、黒鍬衆を「隠密」だと断定しておられる。
「隠密=忍の者」かどうか浅学菲才の私には判断できないが、いずれにしても平和な時代に成ると無用の存在となったし、黒鍬衆とはまさしく土木工事に於いて知識や技能をたずさえ活躍をした一団だと私は理解している。 

コメント (2)
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