津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■足のあどが痛うございます・・

2022-01-31 17:48:10 | 徒然

 土日と散歩をさぼったので、今日は少し距離を伸ばそうと思って外へ出た。
ダウンを羽織って歩き出すと、手や耳は冷たいものの快適な感じである。5.2㌔コースの予定だったが、少々足を延ばした。
スマートホンの万歩計が5.7㌔と記録していた。傘寿爺様もまだまだ捨てたものではない。
ところが2/3ほど歩いたころから、兩足のふくらはぎがパンパンに張り、足のあどが痛くなってきた。
少々余計なことだったなあと反省しながら、途中ではダウンもぬいでなんとか完走した。是を75分ほどで歩いた。
時速にすると5㌔を割ってしまった。

 ところで、今月25日に、データを取り始めたスマートホンが勝手に累計が550㌔に達したと報告してきた。
去年の8月1日からである。約5ヶ月、一月当たり110㌔、さぼりがあるからこんなものだろう。
参勤交代の行程もあと半年もすれば達成しそうである。そう思うとさぼってはいかんな~と思うのである。

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■忠利公の土木事業「坪井川川底さらえと白川~加勢川(河尻)間水運計画」

2022-01-31 06:53:18 | 史料

 忠利公の土木事業は城に関する事業は「城のしまりがない」として寛永11年に幕府に対して許可の申し立てをしている。
多くの事案を申し立てながら、実際完成を見たのは1件だけであったと伝えられる。後日取り上げたい。
一方河川については坪井川に於ける舟の運航を容易にするため川底の浚えを申請している。砂がたまり水深が1~2尺しかない為としている。
又、白川から河尻の大川(加勢川)までの高瀬舟による水運を確保するため、既存水路と白川をつなぐ掘削、既存水路の拡幅や浚渫も申し立てた。
(河尻への旧道添いには今でも細い水路が道にそって断続的に続いている。取り込みは蓮台寺橋付近ではなかろうか?)

             

                   申し立てに使われた絵図(南北が逆表示となっている)

堀内傳右衛門の「旦夕覚書」(肥後文献叢書・四 p146)にその経緯が次のように記されている。 

  忠利公御在江戸之時被得上意候て御下国之上にて、白川筋浅き所を御掘せ被成可成事あらば、川尻江着仕候船を熊本長六橋邊に船付候様
  に被成候はば、熊本賑やかに可成と思召候てそろそろと御掘せ被成候由古監物殿へ誰か出入の侍衆咄申候へば、夜中にて御聞被成候て、
  扨々夫は曾て不聞事とて其儘御花畑へ御出候て可得御意儀御座候て、夜中にても罷出候旨被申候へば、其儘被為召何事ぞと御意之時、唯
  今初て承申候 白川筋御ほらせ長六橋邊船着に被成旨私存候ば、今之如く其儘にて川尻船着奉能存候子細は、熊本之町中に駄賃馬持居申者
  ともは川尻往来之駄賃取候故前々ゟ馬を持居申候、長六橋邊に船着候ては駄賃馬少く成可申候、左候ては小身なる侍とも俄に馬を求申儀
  成兼可申候、何卒馬を澤山に持申様に仕度私は存候旨御申上候へば、扨々尤至極に思召候、今度御在江戸之刻御願被成候間、先少々堀候
  て其後ならぬとて御止可被成と御意之旨于今其掘懸申跡御座候由御郡奉行金津助十郎勤申時承申候

堀内傳右衛門の話が本当であれば、この事業はとん挫したことになる。
米田監物が「河尻から熊本へ馬で物資を運ぶ馬子たちの仕事を奪うことになる」として反対したと記している。
私は、戦略的に使用されることを恐れたためと聞いたことがあるが、紙資料が見つからない。奉行所日帳などはどう記載しているのだろうか。

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■高田重孝氏の論考三点

2022-01-30 18:08:54 | 論考

今般は初刊された高田重孝氏著「細川興秋の真実-ガラシャの真実を受け継いだ人々」は、20年の研究と「与五郎(興秋)宛の内記(忠利)書状」の発見によっての成果である。
その経過は、以下三点の論考を以て随時公開がなされてきた。私もその存在は当然承知していたが、今般このような大成果になったことはご同慶の極みである。
同書が私家版であるため入手が困難であるきらいがある。是非ともこの論考もご覧いただきたい。

           ■天草五和町御領の伝承『細川興秋と專福庵』に関する調査報告

           ■試論:細川興秋公の大坂の陣以後 【大坂の陣以後の行動についての確定事項と推論】

           ■福岡県田川市香春町教育委員会宛 香春町調査報告(不可思議寺など) 

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■阿波局つながり

2022-01-30 09:03:44 | 歴史

 今年の大河「鎌倉殿の十三人」は、三谷幸喜の少々おふざけ振りの脚本を良しとするのか悪しきとするのかは別として興味深く観ている。
北条義時を取り巻く女性の中で、「阿波の方」という人物がいる。どういう経歴の人物なのかと思いウイキペディアで検索している中で、クリックしそこないで、別の「阿波局」に飛んでしまった。
偶然というものは恐ろしい。導かれたのは後水尾天皇に仕えた「阿波局」であった。
私は机の上に中公文庫の熊倉功夫著の「後水尾天皇」を於いて時々目を通している。この中に細川家に仕えた朝山意林庵が登場するが、この人物の姉がこの「阿波局」である。
意林庵は慶長15年(1610年)、豊前に下って小倉藩・細川忠利に仕え、慶長18年(1613年)帰京している。その後また寛永11年(1634年)より、熊本藩に転じていた細川忠利・光尚から500石の賄料を受け取っている。
また、息・朝山景吉 (斎助)が細川忠利、光尚に仕えている。そのご子孫が細川藩士として明治に至った。
細川家に縁の深い朝山家の人物に「阿波の局」のデータで導かれた。

所で義時周辺には、妹の「阿波の方」がおり、あわせて側室に「阿波の方」(泰時生母)がおり、頭がこんがらがってしまう。
略系図でもみながらTVを眺めなければならない。

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■肥後の里山ギャラリーで開催

2022-01-29 15:04:18 | 展覧会

 半年ほど前かと記憶するが、ブログ「江津湖の水辺から」を主宰しておられる方から、江津湖周辺を主題にした展覧会を準備している旨をお聞きしていた。
会場は「肥後の里山ギャラリー」だとお聞きしていたので、注意して眺めていたところその予告が掲載された。
上記ブログは江津湖の魚たちを紹介する秀逸のブログ、幼い頃の遊び場であった江津湖はまさに私の心の故郷である。
開催が待ち遠しい。


                                                           熊本の水と緑展・Ⅵ
                            湧水潤う水辺水前寺・江津湖ー水が育む風景と歴史遺産ー
               豊かな水と緑の都市熊本のシンボル・オアシスとして親しまれる水前寺・江津湖地域の歴史と文化を紹介します。
                                                                  会期:2022年3月19日(土)~5月7日(土)

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■同じ六地蔵さんなのに この違いは・・・

2022-01-29 07:03:06 | 熊本

                                      麻生区 はるひ野・若葉台・黒川の生活事典:黒川の六地蔵さま
              熊本市花園の成道寺の六地蔵          曹洞宗西光寺の六地蔵
                               川崎市麻生区黒川地区の生活情報エンサイクロペディア<はるひ野ドットコム>から引用

 熊本には数百基(?)ともいわれる六地蔵が残されているが、左の写真のような形状のものが殆どである。
笠の下の龕部が六角形になっており、ここに六地蔵様が彫り込まれている。
多くが追分であったり路傍であったりして、通行する人々を見守っておられる。衆生救済のためであり、各地に存在してその信心の深さを著している。
中には熊本にも六基のお地蔵さまが並んだ六地蔵さまもあり、板碑なども存在する。
しかしながら、右のような可愛らしい六地蔵様を見ると、この差は何だろうとも考えてしまう。

どこかに境があるのだろうし、それはどういう理由なのだろうか。

 六地蔵とはブリタニカ国際大百科事典によると「地蔵菩薩の6分身をいう。生前の行為の善悪のいかんによって,人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道の境涯を輪廻,転生するといわれるが,そのそれぞれに,衆生救済のために配される檀陀宝印宝珠持地除蓋障日光の6地蔵をいう。」とある。

 放牛石仏については、その存在は番号が打たれてすべてがリスト化されている。
熊本県下に存在する六地蔵様についても、リスト化されたものはないのだろうか。早急になされてしかるべきだと思うが如何だろうか。

コメント (3)
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■どこいった蟬・・・

2022-01-28 13:33:48 | 徒然

 散歩の途中、真新しい空蟬を見つけました。多分昨日・今日に蝉が生まれたものと思われます。
ここ数日昼間は10度前後で、おおいなる季節はずれの光景です。さすがに桜の狂い咲きは有りません。

             

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■細川興秋と米田是季(略系図)

2022-01-28 12:59:57 | 歴史

                                         米田是政
                                                ‖ ーーーーーー+ーーー 是季 天正14年(1586)生~万治元年(1658)1月8日歿・73歳
                                            雲仙尼    |
                      +ーーー
                        ‖ 
     飯河山城守信堅ーーー飯河豊前宗祐ーーーー長岡肥後宗信
                             ‖                                                
         +ーーー ●     
       |
  沼田光兼ーーー+ーーー清延
       |             +ーーー 忠隆     
       |             |
       |             +ーーー 興秋 天正11年(1583)生~寛永19年(1642)6月19日天草で歿・59歳
        +ーーー麝香          |      
          ‖ーーーーーーーーー忠興ーーーーーーー+ーーー 忠利
       細川藤孝

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■細川興秋と米田是季

2022-01-28 07:13:22 | 歴史

 細川興秋が弟・忠利に代り江戸證人に父・忠興から命ぜられ出発したが、京都に於いて僧形となって出奔した。
慶長九年(1604)十一月十九日の事であり22歳であった。
この事件はその後細川家の黒歴史を生み出す。興秋付の飯河豊前・長岡肥後父子の誅伐事件である。興秋の出奔から一年八か月後の慶長十一年(1606)七月二十七日の事である。
飯河豊前(3,000石)本姓・篠山五右衛門宗祐)は細川幽齋室・麝香の姉(飯河山城守信堅室)の子であり、細川忠興とは従兄弟の関係に当たる。
息・長岡肥後は本名篠山与四郎、忠興から長岡姓を与えられて長岡肥後宗信と名乗った(6,000石)。


 一方、長岡肥後室は米田是政と雲仙尼の長女である。雲仙尼は明智光秀の姪にあたり、米田是季の姉になる。
飯河肥後とは結婚後疎遠であったとされるが、肥後の最後にあたり駆け付け、最期を共にした貞女である。

この是季がこの誅伐事件に抗議する如くして細川家を去る事になる。慶長十二年(1607)の事である。
慶長十九年には豊臣秀頼の乞いにより大阪城に入城、興秋とも行動を共にしたのかもしれない。
是季が細川忠利の要請を受けて豊前に帰るのは出奔から15年後の元和八年(1622)の春の事である。

大阪城に入城した興秋は、元和元年(1615)西軍の負けが決まるといづ方かに潜んでいたが、徳川家を慮ってか父・忠興から自刃をめいぜられて、伏見の東林院で切腹したとされる。
しかし伝えられる東林院の存在は確認されないし、介錯役をつとめたとされる松井左近のその後の行方も判っていない。
今般、その後の興秋の生存を確定する忠利の書状がでた。その日付は元和七年(1621)五月廿一日であることからすると、米田是季の動きと重なる部分が見え、二人が何らかの形で機密を講じながら行動をしていたことが伺える。

二人は誰かに仕えるでもなく長い年月をどこで過ごしたのであろうか。
興秋は祖父・幽齋の庇護を受けていたであろう。是季は母・雲仙尼の父・真賀法院を頼ったかもしれない。
真賀法院は、明智家ゆかりの坂本の西教寺の関係者だと思われる。米田家のお墓も又この西教寺にある。

興秋生存の書状や是季の帰参が共に、忠興の隠居後、まさしく忠利の代に入ってからの事である。
この時期の忠興は病に倒れ生死が危ぶまれるほどであったと伝えられるし、眼病がひどく書状も認めることが出来なかった。
其の後の興秋の天草移動の状況などを考えると、米田是季の助力がなければでき得なかった。

これまでに記した人間関係が、二人のきずなを確固たるものにして、興秋が天草を安住の地としたことが伺える。
そして、天草島原の乱の勃発迄の間には、三宅藤兵衛との幾たびかの接触も行われていたことであろう。
この後、これらを補強する新たな資料が出てくることを祈りたい。

(只今、略系図作成中)

 

  

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■三斎忠興の正室・側室・その他

2022-01-27 07:04:14 | 先祖附

 これは三斎忠興の正室・側室その他の人の没年順に記してみた。
「御小上様」と呼ばれた人物が何者なのかを調べているが、子はなされていないが豊前城内に於いて、力を持った人物だと思われる。


                          慶長5年(1600)7月17日死去38歳 
玉(ガラシャ)明智光秀女       ・・・・    忠隆(1580)・興秋(1583)・忠利(1586)・長(*1582) 生母
                         秀林院華屋宗玉                        *九州大学図書館藏・系図による                        

                                                                                             元和6年(1620)6月17日死去
小御上様                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                                     西光院法樹栄林

                                                                                                          寛永6年(1629)6月19日死去
藤(松の丸)郡主馬首宗保女    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古保(1582)(松井興長室)生母
                                 多羅(1588)(稲葉一通室)生母 *永源師壇紀年録による

                                                                                                                  寛永12年(1635)11月19日死去
小也々 明智次右衛門光忠女          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  万(1698)(烏丸光賢簾中)生母

                                          周岳院雪山宗広

                                                                                                                                                                   寛文3年(1663)7月2日死去
幾知  清田主計鎮乗女          ・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 立孝(1615)宇土家・興孝(1617)刑部家・生母
                                                                                                                                                                    圓通院玉岑宗雲 

真下梶之助元重女・才    没年不明    巖千代・松井寄之(1614)生母
  長岡勘解由延元再嫁

立法院 加来氏       没年不詳    忠興養女、細川有孝室・佐舞(三)の叔母、養育

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■公開講演会 第15回永青文庫セミナー/「熊本城廃棄申請書の成立事情と『御城拝見』」

2022-01-26 19:52:14 | 講演会

                                     公開講演会 第15回永青文庫セミナー/「熊本城廃棄申請書の成立事情と『御城拝見』」

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■小宰相という人物

2022-01-26 07:25:13 | 人物

 先に■志賀休也御誅伐を書いたあと、高田重孝氏の著「小笠原玄也と加賀山隼人の殉教」を読んだ。
その中に「志賀休也」という項が立てられ、小笠原玄也一族16人の誅伐と共に同時に誅伐された「志賀休也とこさいしょう」が取り上げられている。
特に「こさいしょう=小宰相」について、高田氏は小笠原玄也に関連付けて論陣を張っておられる。
小宰相の名前は、細川興秋が弟・忠利にかわり、父・忠興から江戸證人として江戸へ赴くように命令された折、抵抗した際に説得した人物として登場する。
親身の説得だったとみられ、これに対する興秋の素直な気持ちを記した書状が残されている。
日付はまさに忠興に対する起請文と同日である。しかし出立した興秋は京都で僧形となり家臣を驚かせた。興秋は父・忠興の意に叛いたのである。
この小宰相という人物、資料に出てくるのはこの興秋にからむこの件と、主題であるこの誅伐に関する当事者としての二件である。
この大仰な名前の人物はいったい何者なのだろうか。

 高田重孝氏はこの人物を「小也々」と比定されているようだが、これは明らかに間違いである。
小也々は忠興の愛娘・萬姫(烏丸光賢簾中)の生母であり、没年は寛永十二年十一月十九日、八代城内で亡くなっている。
京都に在った三斎の許に急使が派遣され、三斎は飛んで帰っている。
■八代万母儀煩之様子書中見申候
   寛永十二年九月江戸に在った三齋は、七日江戸発駕十八日京都に入った。二十三日酒井讃岐守・土井大炊頭宛て、「当地にてゆるゆると
  養生可仕と存候処、在所より急用申越候ニ付、今月廿三(日)罷下候」と書状を発している。その急用とは、「周岳院殿以外之煩之由」
  とあり「八代より注進有之候間、早々京を御立被成候」とある。続いて「周岳院殿ハ十一月十九日死去なり明智次右衛門女ニテ御万様御
  妾母也、少名少也々と云、五十八歳周岳院雪山宗広」とある。(綿孝輯録巻二十三 忠興公(下)p224)

綿考輯録編纂者の小野武次郎は紫野の細川家菩提寺高桐院を訪れて調査をしているが、住職から完全否定されている。小野武次郎は合点の行かぬ様子であるが、この周岳院という人物は「平成宇土細川家家譜」によると、宇土細川家の祖である細川立孝の養母であると紹介されている。三斎が愛息・立孝の為に小也々を養母たらしめたということはあり得ないか?
小也々の墓所の存在が知れない。あるいは愛娘・烏丸萬が引き取ったのかもしれない。

 小宰相という女房名は、土御門院小宰相や平通盛の悲恋の「小宰相の局」が有名であり、朝倉義景室「小宰相」や大熊朝秀室の「小宰相の局」などが居られる。
男たちが私称として□□守と名乗ったものと同じなのかもしれない。(私の先祖さえ越前守を名乗っている。図々しいのも程がある)
由緒ある(?)女房名をもった人物で、忠興の子をなした側室はその存在は認められない。興秋周辺の人物ではなかろうか。
ひょっとしたらガラシャ周辺の侍女などでもあったかもしれない。
興秋が豊前に入国ししばらく香春に隠れ住んでいたことが明らかになってきた。小宰相も興秋と共にすごし熊本に入国したのだろうか。
興秋は無事に天草に入ったが、小宰相は残念ながらとらえられたのか?
まったくその身分が明かされないまま、誅伐に至っていることは、興秋の天草入りを隠匿するために何らかの力が働いていることさえ伺わせる。
此の謎解きは回答を得ることは難しい気がしている。

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■TVクルーのお出まし

2022-01-25 12:42:09 | 熊本

 散歩コースの健軍自衛隊前の桜並木の植え替えが月初めに看板で告知された。
数日前から切り倒す木の枝払いが行われていたようだが、今日散歩に出てみると西北角の木が根元からばっさりやられていた。
そしてTVクルーが撮影の準備をしている。歩きながら数えてみると10本ほどが切り倒されるみたいだ。1/4位だろうか。
其の後伐根したうえで、新しい木が植えこまれるのだろうが、今年の開花は当然望めない。数年は残った桜を大事にしなければならない。

                                

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■まずわが歳の傘の文字

2022-01-25 08:46:40 | 徒然

 山崎貞士氏著の「熊本文学散歩」を読んでいる。
東籬または菊山人と号する俳人がいる。先祖は菊池家二十四将の一人と言われた宗氏だそうな。菊池氏没落後、農業や商いで菊池第一の冨家を築いた。
その27代目が宗伝次、東籬その人である。俳句を詠み、狂歌も巧みであった。
その中に「書初や先わが歳の米の文字」というのがある。知ったかぶりで書いているが、何のことはない友人から教えられたものである。
その友人の長兄がこの本の中からこの句を見付け、「88まで生きて書初めをしたい」と言っていたそうだが、残念ながらその希望はかなえられなかった。
それで友人が「俺があとを継ぐ」と言っている。「健康に注意して長生きしろ」と言っておいたが、ことし「傘」の字を予行演習で書いておけと
余計なことを言ってしまった。
「お前、俺を殺す気か」と友人が電話口で気色ばんでいる。さすがにまずいと思い「おれも『書初や先ずわが歳の傘の文字』で書いてみるよ」とお茶を濁しておいた。
「八十だから『傘』ではなく『仐』にしとけヨ」とは機嫌を直した友の言葉である。

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■硬貨どうしてらっしゃいますか

2022-01-24 10:59:30 | 些事奏論

 先日郵貯銀行が硬貨の交換の有料化を発表した。
これを受けて奥方は駆け込みで、500円玉貯金を定期に入金しようと銀行に出かけたが、限の良い金額にしたのでまだ数十枚の硬貨が残っている。
500円硬貨であればまだ厭な顔をされることもなく使用できるが、一昨日スーパーに買い物に出かけた奥方は、財布の小銭をへらそうと端の9円までそろえて、自動精算口に投入した所エラーがでたそうな。
何やら音がなり店員が駆け付けたという。「一円玉・五円玉の投入はお断りしています」というのだ。
もう一つ奥方情報によると、某スーパーではこの際小銭を使い切ろうと、多くの客が小銭を持ち込み支払いに使ったため、夕方には機械に不具合が出たらしいことであった。
膨大にたまった小銭はスーパーにとっても頭が痛いことだろう。
消費者は小銭が使えないとなると仕方なく桁上の硬貨を投入することになる。当然ながらそのおつりに小銭硬貨が出てくることになる。
少額硬貨は消費者に押し付けようということになる。

 その内には1円玉、5円玉は製造コストの上でも赤字らしいから、これをなくすべく消費税をすべて10%にしようという極端な話が出る可能性もありうる。
キャッシュレス決済という世界へ誘導されていく感が強くなってきた。
街頭募金や神社さんや、□□時間TVに寄せられる子供さんたちが集めて寄付される浄財など、この後どうなっていくのだろうか。

「些事奏論」というカテゴリーでこの記事を記したが、これは些事とは出来ない一大事であろう。国会などで議論されるべき問題ではないのか・・・

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