不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛永より寶暦迄・郡中法令(4)

2018-02-28 07:39:24 | 史料

二六二
   覺
一米穀之通用は今迄之京舛相改ニ不及候、其外酢・酒・味
 噌・醤油・糀・油・雑魚之類、一切舛を以取遣商賣仕候
 品々今度舛を相改、内法四寸九分四方、深貮寸七分之京
 舛、銘々より拵村々在町共ニ庄屋・別當手前ニ差出取
 集、一手永限惣庄屋會所え差出、右之寸法御惣庄屋元
 より相改、舛之四方ハ外輪ニ四所、底ハ舛之内ニ極印を
 打相渡申筈ニ可致坂旨候條、可有其沙汰候
 右之通被仰付候ニ付若心得違之者も可有之哉、一手永
 限、一領一疋・地侍之内仁柄相極、舛寸法極印等見届、
 萬一極印無之舛通用仕候もの有之候ハヽ、其商賣物押
 置、各え相達候様ニ可有御申付候
  但、町廻有之在町之儀ハ、町廻えも右之趣御申付可有
  候、尤五合以下之小舛之儀、是又京舛寸法之通拵せ、
  右同前ニ相改、極印を打相渡候様ニ可有御申付候
一熊本町中通用舛、來ル廿日限相改申事ニ候間、在中之儀
 も右限之通相改候様、右之日限已後極印無之舛を通用
 仕候もの、在中之者たりとも十人組・小路廻之者共見合
 次第其商賣物押置候様被仰付候間、其段相心得候様可有
 御申付候
  但、河尻・高瀬・高橋・八代町之儀、熊本町同前ニ改
  被仰付候間、是又左様相心得候様可有沙汰候
一所々御町より在中え入込候諸商人、來ル廿日已後極印無
 之舛を通用仕候もの有之候ハヽ、被極置候一領一疋・地
 侍・在中廻之者共見逢次第ニ其商賣物押置、各え相達候
 様可有御申付候
 右之趣、御支配御郡中え早々可有御沙汰候、尤一領一
 疋・地侍之儀、仁柄御吟味ニて可有御申付候、以上
   元文元年十二月

二六三
   覺
 在中高持百姓共、二男末子えも心々ニ高を分け遣候ニ
 付、本家共ニ双方小高ニ成、無程潰レニ相成候類多有之  
 候ニ付て、向後高分ケ之儀一切御停止被仰付候、然共大
 高持ニて子供多、無據譯有之者ハ、其段書付を以願出候
 ハヽ御郡奉行委細吟味之上、二男・末子之内へ高拾五石・
 貮拾石分ケ遣候ても本家三拾石以上ニも候ハヽ、品ニよ
 り願之通ニも可被申付候、何れニも貮拾石以下之高分ケ
 之儀は、堅く御停止ニ候間、御支配中惣百姓不洩様御申
 付、承届との受書・判形取置候様早々可有御沙汰旨候事
   以上
   辰十二月          郡方

二六四
  尚々左之給米現高之儀、御郡ニより前々之見合も有之  
  相究事ニ候得は、追て高之不同ハ可有之候條、此段も
  可被申付候
 諸御郡村々百姓共召抱候下人男女共ニ、近年次第ニ高給
 を望、又は脇村ニて高給取り候心當有之者ハ、約束之日
 限より内ニ暇を受候者有之由相聞不届之至ニ候、右之通
 有之候ては、抱高相應之人數召抱候儀も難成、自然ハ耕
 作方手入も麁抹ニ相成事ニ候間、向後は奉公人共高給を
 望不申候様、召抱候ものも前々給米銀之見合せを以召抱
 可申候、尤此已後高給望候奉公人ハ不及申、高級ニて召
 抱候者も急度■方可申付候、且又賃奉公人も年季掛り候           ■扌偏に乄=締
 内世上之高給を心掛、何角と申立暇を受候ものも有之候
 ハヽ是又急度可被申付候、乍然年季之内たりとも高地を
 受返し百姓ニ相成候者ハ、村百姓・御惣庄屋共手前ニ
 て委細遂吟味、各被聞届候上願之通可被申付候、右之
 趣、御支配御郡中え可有御沙汰候、以上
   巳正月五日        奉行所

二六五
   覺
 諸御郡村帳書・肝煎抔之内、他郡・他手永より入込候を
 雇置候村々も有之由、右躰之者共ハ村庄屋又は御惣庄屋
 抔之手ニ付置候由之處ニ、取拵得度無之役儀を差除候
 故、其所ニてハ暮方も難儀ニ付諸方を稼、帳書・肝煎等
 ニ有付、色々と不宜手筋を申聞せ候由、山奥・遠在ハ物
 毎正直ニ有之候所も當時にてハ自然と風儀悪敷相成候ニ
 付て、他所より雇置之儀ハ堅差止、不調法込ニも其所々
 ニて人柄相極候様ニ、他郡より罷越居候帳書・肝煎等ハ
 役儀を差放、元之所え立歸候様可有沙汰旨、御郡奉行衆
   [可缺ヵ]
 より宜有御沙汰候、已上
   二月

 二六六
 御領内町在之者共、商賣又は用事等有之、往来手形所持
 不仕もの共、他御領え罷越申度由、浦々船頭共え内證ニ
 て相頼候得ハ、右往来手形所持不仕候ても水夫抔ニ振
 替、船往来之人數都合仕、他國え渡海仕候様成儀も有之  
 様子ニ相聞候、不届之至ニ候、向後右之通り紛敷仕形有
 之候ハヽ、船頭ハ不及申船主迄も被指通間敷候間、右之
 趣船主幷船頭共えも入念候様ニ稠敷御申渡、判形被取置
 候様ニ可致沙汰旨候條、左様御心得、御支配之御郡中え
 も可有御沙汰候、以上
   七月朔日         奉行所  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■犬の話

2018-02-27 19:05:04 | 書籍・読書

 

犬たちの明治維新 ポチの誕生/仁科邦男ここ数日仁科邦男著「犬たちの明治維新・ポチの誕生」を読んでいる。
O家の膨大な古文書解読も一段落して、ちょっと軽いものをと思って楽しんでいる。
小さいころ祖母につれられて某家を訪ねた際、そこにやけに吠える子犬がいた。今思うと「狆」ではないかと思うが記憶が定かではない。
そして帰り道で祖母が「あれはカメだよ」という。「カメじゃないよ、犬だよ」というと、「洋ものの犬はカメという」という。
へ~と納得して60数年、この本を読んで謎が解けた。祖母の話は嘘ではなかった。

外国人が犬を連れて入国し巷に犬人口が急激に増えたらしい。万延元年の「武州横浜名所図」には辮髪の人の横に犬が描かれていて、「外国戌名ヲ加め」と書き込んでいる。
そして「カメ」の語源を外人さんの「おいで/\=COME IN」からきていると説明している。カムインが日本人には「カメ」と聞こえたというわけである。このカメは日清戦争が始まるころまで「犬」にルビされたという。祖母の生きた時代のことであり間違いではなかった。

また「ポチ」の語源やら、西郷隆盛の犬の事やら、「狆」はなぜ「ちん」と読むか等大いに「萌える」著であった。

そんなことを楽しみながら読んだことであったが、その後熊本藩町政史料(三)を眺めていたら、文政12年6月朔日の事として次のような記事があった。いささか趣は違うが、偶然発見した「犬」に関するものでありご紹介しておこう。

   御家中飼犬を間ニハ町家に預候者有之、夫よりして内輪種々申分も差起候哉ニ相聞候、
   程ニ寄其分ニ難被閣筋も成行候てハ難相濟事ニ付、以来町家に御家中飼犬を預申間敷
   候、たとひ無余儀訳を以預方談有之候とも堅相断候様、此段町中一統可及達旨ニ付小
   前々々ニ至迄不洩様夫々申聞置候様可有通達候、以上
      六月朔日         町方根取中
        市原永一郎殿

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■目白邸について・

2018-02-27 12:11:33 | ご挨拶

松平駿河守上地拝領・目白邸のつづきである。
弘化4年1月24日細川藩白金邸は類焼し、齊樹公の未亡人・蓮性院は2月14日に目白屋敷に移られている。
私は単純に随分以前から「細川家目白邸」なるものが存在し、隣地(?)でもあろうか松平駿河守上地屋敷を拝領したと考えていた。
どうもそうではないらしい・・・
熊本史談会の会員でもあった藤本修氏の研究の成果「藩邸沿革ー自家判・全195頁」を拝見すると、目白の地には蓮性院の御実家・一橋家の下屋敷があった。
一橋民部卿(将軍家斉実父)の下屋敷と紹介されている9,275坪である。

そのうちの一部を蓮性院の夫君・齊樹公の養嗣子齊護公の嫡子慶前君が弘化3年に譲り受けている。
火事の数か月前であり、齊護は先代夫人をかっての実家一橋家の下屋敷を避難場所としたのである。

細川家が松平駿河守の上地を拝領するのは8月22日である。藩邸沿革においても「於御白書院縁側老中列座」の中で申し下されている事が確認できる。
細川家が取得を申し出ての事であろうことは想像に難くない。
この土地を含めて「目白屋敷」とするためだが、どうも場所を特定するのが難しい。
そしてこの土地は、安政三年の「諸向地面取調書」では慶前夫人・鳳臺院の所有する処となっている。夫君・慶前公が死去したためである。
鳳臺院は天保元年四月細川新田藩主利用の子として生まれ、弘化二年十一月に結婚した(16歳)結婚生活は長く続かず嘉永元年四月慶前が死去する。この時期大名屋敷の売買が個人に対して行われているのが興味深い。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■松平駿河守上地拝領・・目白邸

2018-02-27 07:41:29 | 歴史

 旧細川藩目白屋敷は、現在の永青文庫和敬塾肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)などを含む広大な広さをほこっていたが、その一部分(旧・松平駿河守邸)は弘化二年(1845)に拝領されている。
この年の1月24日細川藩白金邸は類焼し、齊樹公の未亡人・蓮性院は2月14日に目白屋敷に移られている。
齊護卿遺事を読むと次の様にある。

   弘化二年の春、江戸青山より火出て延焼に及び、白金邸第も焦土となりぬ、大夫人には
   先づ假に目白臺なる新邸に移らせ給ひ、白金邸館を造らせ給ふほど、君いたく御心を
   盡させ給へり、いかで速につくり出してよ、大夫人には、ことに雷をきらはせ給へるに、
   目白館はかりそめなる所にて、御心もやすからじと思召せば、かねては倹約をむねと
   守らせ給へども、此度の事は、資用を増してだに、早く作り出してよと、おきてし給へり
   しほどに、初め工匠等が積り申しゝは、秋も半に至らずば落成せじといひしに、思ひの
   外速に成就しぬるは、ひとへに君の御眞實によれるなりとぞ申あへりける、君の萬に
   御心もちひたまへる御有様を、一橋家の御内にて、年老いたる女房達伺ひ奉りて申し
   しには、あはれ蓮性院君には、いみじき御果報こそおはしましけれけれ、守殿のかほどまで
   御奉行ならむには、實の母子も及ばじ、やむごとなきかたがたは、うはべの親しみこそ
   あれ、かたみに打とけさせたがたかめるを、此殿の御中らひには、さる御有様つゆほども
   見えさぬ給はぬなりと感じあへりきとなん

この火事により緊急避難的にこの屋敷に入られたようだが、蓮性院は6月6日新築なったのか、白金邸に帰られた。
その後以下の如く松平駿河守御上地を拝領しているが、これが広大な細川家目白邸のどの部分にあたるのだろうか。

  「太守様先月(八月)廿ニ日依召御登城被遊候処、目白台松平駿河守様御上地千七百八拾弐坪餘 
   被遊御拝領候段御到来有奉恐悦候・・・」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■寛永より寶暦迄・郡中法令(3)

2018-02-26 07:20:06 | 史料

二五七
   覺
 従前々御侍衆え百姓共於道中筋参懸候節、随分慇懃ニ
 仕、少も慮外之躰堅不仕様被仰付置たる儀ニ候、往還筋
 之儀ハ他所御侍中も被罷通事ニ候間、是又参懸之節諸事
 相慎、慮外ヶ間敷義堅仕間敷候、當時ハ在宅人衆も多諸
 獵ニて在中え出被申衆も有之候間、別て諸事入念慮外不
 仕様重疊か被申付候、惣躰奉公人えは乗打等堅不仕様、
 末々迄不洩様村々役人より堅申付候様可有御沙汰候、尤
 不都合之儀有之候ては村役人共迄不通儀候條、委敷可被
 申付候、此段御惣庄屋・町別當共より末々迄承届候様可
 被申付候、以上
   酉ノ七月          郡奉行中

二五八
   覺
 向後他領之百姓在所立退、若御領内へ罷越候節は、いか
 様之譯二ても御國中えは不被差置筈候段、兼て被仰付置
 候ニ付、留置候儀難成段強儀無之様ニ得斗申聞、不差置
 様仕せ可被申候、公儀御大法も右之通之由候間、何國に
 ても可為同前事ニ候、此旨末々迄存居候様ニ沙汰可有候
一右之通申聞候ても承分ヶ不申、御城下ニ罷出可申達なと
 申候ハヽ、勝手次第ニ仕候様ニと申聞差通可申候、又は
 御領内ニは被差置候儀は難成候由候間、御領内を通り他
 領へ罷越か申と申候ハヽ是又勝手次第ニ差通し、其趣早
 々相達候様可被申付候
   八月
 御付札ニ
   本行之通御城下ニ罷出可相達と申候共、大勢連候て
   御城下ニ入込之儀如何敷候ハヽ、尚又随分申聞、夫
   共ニ承引不仕御城下ニ可罷通と申候ハヽ、大勢罷通
   候儀は難成候間、三四人ほども罷通様り候ニと申聞                罷通り候様ニ
   残ル者共ハ其所ニ留置飢ニ不及程迄ニ随分輕く雑穀
   ニて成共粥を拵給せ置可申候
  一他領え罷通り可申と申候共、御城下を通罷越申方ニ
   て候ハヽ、御城下を大勢通候儀は難成事候間、御城
   下を通り不申罷越候様ニと可申聞候

二五九
   覺
 熊本町二て古かね致商賣候者共之儀、前々より被仰付置
 候趣彌堅相守可申候、近年辻々又は途中二て賣買仕候者
 有之候ハヽ、急度御吟味之上曲事ニ可被仰付旨候條、其
 旨可被相心得候事
  但、紙くず買之類小路/\二入込、屋敷内にて拂物を
  調候儀は、拂主相知居候事候得共其通之事ニ候、屋敷
  ニても脇より参居候者抔賣拂候道具等、其屋敷居候も
  のニ立合候て買調可申候事
一古かね道具又は差額等持來候者有之節、不審成品ハ自前
 々及沙汰候通り相改、五人組へ相断候て買取可申事
 右之通堅可相守候、若此已後相背候もの於有之ハ、十人
 組又は小路廻共見出聞出次第押差出申筈候事、以上
 古かね・古道具等商賣仕候もの共之儀ニ付、熊本町ニ被
 仰付候趣、別紙書付差越申候、各尾支配之在町ニて右之
 商賣仕候者之儀も、此書付應し可有御沙汰候、其外出小
 屋等ニ居候者共承届候様可有御申付候、以上
   二月晦日         奉行所

二六〇
 在中無高百姓を御侍中幷寺社方家来分ニ仕、居掛之村ニ
 差置支配仕度由之願、近年別て多相改、右之通之者村中
 二居住仕候ては所々村方も不宜、御年貢取立其外御用筋
 之儀ニ付支ヶ間敷義も有之様子ニ相聞申候、依之此已後
 無高百姓を家来共仕度由願被申候節は、如何様之譯有之  
 難見放者故願被申候との儀、委其子細を書付相達可被申
 候、其上ニて譯立候分ハ如願被仰付、何そ押立候譯無之
 家来ニ相成可申筋相見へ不申類ハ、願難叶段沙汰可致旨
 二候、尤無據譯立候分も居掛之村え差置支配被仕候儀
 ハ、向後難成筈ニ候間、左様御心得、此段御仲間中えも
 可有通達候、以上
   十月三日         奉行所

二六一
 在中無高百姓共御侍中幷寺社方家来分ニ仕、居掛之村ニ
 差置支配仕候ては所々■方不宜、御用筋支ヶ間敷有之候         ■扌偏に乄=締
 様子ニ付、押立候譯も無之、家来ニなり可申筋相見へ不
 申類ハ、願難叶段先年及沙汰候處ニ、身躰宜高持百姓共
 之内高地迄子弟ニ譲渡候姿ニ拵、無高者と申出、家来分
 二相成、又ハ一ヶ年奉公之姿ニて在所ニ罷在候由、不届
 之仕形ニ候、右之通之者ハ向後御侍中幷寺社方支配或は
 家来ニ致候儀、縦無據譯有之ものニて屋敷え引取、或は
 住所を替差置度由願達有之候ても堅相成不申候筈ニ候、
 右之通之手段等仕間敷旨稠敷御申付可有之候、以上
   四月           奉行所

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■乞うご教示

2018-02-25 16:16:13 | 徒然

熊本県宇城市三角町郡浦2666(地図)にある郡浦神社の略記である。この中にある一文字偏にが何とも読めずに難儀している。
これは史談会会員K氏が読んでおられるのだが、私方にお問い合わせをいただいたが浅学菲才、とても対応できるものではない。
右の行の中ほどから「中略二十一日辛巳大輔藤原房雄太宰權少貮警備府戎事二十四日乙酉橿日之霊告及肥後(以下略)」とある。
同じ文字が、次の文言の頭に冠していることよりも、干支の下に振られているのが気になっている。
神社にご連絡すればよい話だが、紹介されている電話番号は現在使われていない。皆様のお力にすがろうという次第である。

                 

              

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■寛永より寶暦迄・郡中法令(2)

2018-02-25 14:08:59 | 史料

 二五三
   覺
一在中え小商なと仕候者之儀、兼て御停止之事ニ候、彌稠
 敷吟味仕一村切相改、若右類之者有之候ハヽ宿町へ差出
 可申候、役人をも差出相改させ申筈ニ候間、若右類之者
 隠置候ハヽ、其ものハ不及申五人組・村庄屋迄急度可申
 付候
  但、他之支配請候者ニ右類之者有之候ハヽ其此方え相
  達可被申候
一脇方より在中へ入込候商人、鹽・農具・雑魚之外商賣不
 仕筈ニ候、右之外之品持來候者有之候ハヽ其者荷物共ニ
 押置番人付置、早速御惣庄屋え相達可申候、其上ニて御
 惣庄屋受指圖、庄屋方より向々之庄屋・丁頭付届、請取
 人來候上相渡申筈ニ候、此方より差出候役人見逢候ハヽ、
 其所之村え連越吟味可仕候、其節早速村庄屋・頭百姓共
 罷出諸事無支様可仕候、尤右之通之商人罷越候ハヽ、立
 宿も仕せ申間敷候、勿論御定之外之品買調候者有之候ハ
 ヽ其者ハ不及申五人組・村庄屋共急度可申付候事
一無札之商人來候ハヽ、早速其者荷物ハ押置、番人付置御
 惣庄屋え相達可申候
  但、付届右同断
一支配内より自然他所へ商賣ニ罷越候者有之、向方より付
 届來候切ハ、早速御惣庄屋へ可申達候、御惣庄屋・役人
 差出押置、此方へ可被申達候、其上ニて在牢ニ召籠申筈
 二候事
一他國より來候商物たりとも、一切買調申間敷候事
一百姓衣類之品々其外からかさ・合羽・すけ笠・挑灯等之
 儀、連々御觸有之事候處、猥敷様子相聞候、彌堅可被申
 付候、若相背候者有之候ハヽ、其者ハ不及申五人組・村
 庄屋共ニ差通申間敷候、今度差出候役人え委細申付置候
 間、若見逢候ハヽ遂吟味此方へ申聞筈候事
  但、在町内為火用心挑灯用申筈候
一下方髪月代之儀も従前々令沙汰事ニ候、其節ハ相改候得
 共無程不都合成様子ニ相成候、彌以前々之通御百姓相應
 二可仕事
 右御通従前々度々及沙汰候事候處、近年猥ニ相成候様子
 相聞不届之至ニ候、向後右之趣相背候者於有之ハ急度可
 申付候條、彌以右之通堅相守候様、下方不洩様入念可有
 沙汰候、以上
   享保十三年申ノ八月

 二五四
一宗門御觸状幷浦御觸状共ニ村庄屋・頭百姓共會所え召寄
 せ委敷申渡、判形取置申候、尤惣庄屋えは村庄屋より申
 渡候事
一私共抱内之男女・乞食・・盲等ニ至迄、他所より入
                [不缺ヵ]
 人随分入念吟味仕、人たるは壹人も殘隠、影踏帳ニ書出
 踏せ可申候、若紛敷儀仕候ハヽ私共ハ不及申五人組迄如
 何様之越度ニも可被仰付候事
一奉公人幷病人又は他所行家番等ニ至迄、重疊入念吟味仕
 相違無御座候様相極、影踏帳ニ付札仕、右帳面別紙相調差
 出可申事
一病人ニて無御座者を病人と書上、又は多國え稼ニ出居申
 候者ともを他所行と書上申様成紛敷儀堅仕間敷候、病人
 ハ醫師何某之薬用ひ申との儀無相違書上可申旨、委細被
 仰付奉得其意候、重疊入念吟味仕、醫師より之書付を取
 差上可申事
一他所より入込幷八歳之男女、奉公を止引込申者共入念吟
 味仕、壹人も不洩如毎誓詞書物書出可申事
一諸浪人幷御侍衆之家来、支配方より證文を以影踏被差除
 候分は入念相改、支配方より證文を取影踏前差上可申事
一兼て被仰付置候十ヶ条之趣、月々無懈怠人別讀聞せ、判
 形取置可申事
一男女風俗之儀、其外去ル辰冬御書付を以委細被仰付、尚
 又追々被仰渡候趣無断絶申聞、右御書付寫私共手前ニ張
 置、重疊入念相守可申旨度々被仰渡候上、右之儀ニ付今
 度又々被仰付候趣、委細被仰渡一々奉得其意候、右心得
 違之者有之風俗目立申者御座候ハヽ、御吟味之上五人組
 迄越度可被仰付候事
 右之條々被召寄委細被仰渡候趣、一々奉得其意候、彌以
 諸事堅相守可申候、若於違背仕者
 忝も
  神文
   年號月
               何村庄屋
                  何某(印判・血判)  
               何村頭百姓
                  何某(印判・血判)
            御惣庄屋當
          御郡代當

 二五五
一在中諸役人役替之節堅メ之誓詞書物仕せ、判形見届候事
一地神經讀、盲官位・院號・袈裟衣御停止之儀、先年被仰
 出候處、遠國二てハ猥二成候と相聞候間、向後在々所々
 二至迄猥無之候様急度佳被申付候、以上
   九月

 二五六
 御領内百姓對給人若不届之仕形有之、追放等被仕度者之
 儀ハ、其段御奉行所へ被相達被受指圖候様、前々被仰付
 今以其通之事ニ候、且又百姓共給人又は對役人申分有之  
 候者共ハ其趣手前を以可申出候、其儀無之不心得之仕方
 有之候ては、品ニより上之御難題相成候事ニ候間、此所
 を致了簡候様ニ寄々頭立候者共へ御惣庄屋より申合候様
 ニ可有御沙汰候事
   以上
   三月

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■膝事情

2018-02-25 09:55:20 | 俳句

 昨日は史談会を終え、3・4月の会場をお借りするために熊本総合福祉会館まで約2キロ程を歩いてみた。
下通りから上通りをぬけいささか汗ばむほどの暖かさだったが、途中で本屋さんにより、街中の風景を楽しんだりしての事であった。
ふと今は亡き永六輔氏の「上通り下通り抜け 春の風」という句を思い出した。
まさに昨日のような春の陽気に満ちた日に永氏は上通りから下通りを散策されたのだろう。
決して上手な句とは思えないが、永氏の暖かい人柄をうかがわせる良い句だと思う。

歩いているうちに案の定ひざ痛が起こり、なんとか足を引きずりながら目的地にたどり着き用を果たした。
それからバス停まで500mほどをなんとか歩いて帰路に就いた。真剣に折りたたみ式の杖を購入しようと考えている。

         杖を頼りに歩く通りや 春の風  津々

こんなことになりそうな最近の私の膝事情である。お粗末さま・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■申し訳ない間違い

2018-02-25 09:29:44 | 徒然

先にご紹介した■熊日新書・新刊「細川侯五代逸話集 ―幽斎・忠興・忠利・光尚・綱利―」、私のサイトが何かのお役に立っていたらしく、「参考URL」としてご紹介いただいていることに気が付いた。
ところが筆者は大変な間違いをされており、頭に「松本寿三郎」と冠されていた。
松本先生には大変申し訳ない次第である。しかしながら本著に何らかのお役に立てたのであれば誠にありがたい事ではある。

この著は「随聞録」全55話を読み解き、現代語訳をつけ、細川家五代の逸話を平明に解説された佳書である。
私もこの「随聞録」からは、いろいろ引用してご紹介してきたが、改めてこの著を拝見すると未読の部分があり、楽しんで拝読してる。
ご一読をお勧めする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■加勢以多

2018-02-24 17:23:45 | 熊本

 ちょっと古いが2月17日の熊本日日新聞の記事である。
現在熊本の著名菓子房から同名のお菓子「加勢以多」が発売されているが、これは本来の材料をアレンジしてカリンジャムを使って居られるらしい。
上記新聞記事によると、江戸時代この地で栽培されていたというマルメロを使っての本来の姿を復元された。
このお菓子については細川護貞様が御著「怡園随筆 茶・花・史」に「加世以多」という項をたてて、記されている。
それによると大正十年ごろ初めて食されたとある。曲物に入っており薄く切って食べたと記されている。
まさに新聞記事にある写真のような状態であったのだろう。復元製作された方々も、この護貞様の文章をお読みになったことであろう。
この商品がどのような形で手に入れることが出来るのか判らないが、大いに気になる商品である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■寛永より寶暦迄・郡中法令(1)

2018-02-24 07:07:05 | 史料

  ■寛永年以降・郡中法令(18ー了)  が終了いたしましたので、連番で「寛永より寶暦迄・郡中法令」を引き続きご紹介してまいります。
  こちらは相当量ありますので、30回程度になるのではないかと思います。よろしくお付き合いください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

   〇寶永より寶暦迄御郡中
     追々御達之趣堅相守可申事
 二五一
   覺
一諸獵之儀、御山場之内ニて堅不仕筈ニ候、鐵炮獵師共へ
 も御山場之内ニては猪・鹿之外諸鳥堅打不申筈ニ候事
一鐵炮獵も此間仕候様相聞候、時分ハ不及申末々迄堅不仕
 様可被申付候事
一鐵炮獵師共請取居候札堅脇え貸不申筈ニ候、若獵師ニて
 無之もの内證ニて札を借鐵炮打候ハヽ吟味有之筈ニ候事
一締差共諸御郡内請場之所々内證ニて下請ニ渡置候由ニ
 候、依之御侍中家来、或支配之者、或家来分ニ成居候者
 共、町在之者名負ニて下請仕居、下方如何敷様子ニ相聞
 向後町在之者下請仕、自身致獵候は各別、御侍中之家来
 幷支配之者ハ不及申、總て名負之下請堅不成筈ニ候、今
 迄名負ニて下請仕居候者も、在中ハ御惣庄屋、町方ハ町別
 當より吟味仕、急度札を取上ケ申筈候間可有御沙汰候事
一御侍中之家来、又は支配之者、若直下請仕居候分ハ主人
 より申付、其所支配之御惣庄屋歟町別當迄獵札差戻申筈
 候間、締差手前より下請之名付取立、若及延引候者各迄
 相達候様被申付、御奉行所え加被相達候事
一此以後下請之儀締差共相對迄ニて不仕、御惣庄屋又は町
 別當遂吟味、名負ニて無之段書物申付取置候上、下請仕
 せ候様加被申渡候事
一御侍中家来又は支配之者、名負ニて下請仕居候ものより
 出置銀子ハ捨ニ成可申事
一所々御山場之内ニて慰獵、前々之通一切不仕筈ニ候事
  但、請締差共ハ各別ニ候事
一御家中拝領之鷹場、住前々極居申候事ニ候、脇方より猥
 獵仕間敷事
一鳫以上之大鳥、従前々之通取申間敷旨ニ候事
一御用ニて御飼鳥なと御取せ被成り候切ハ、札を相渡申筈ニ
 候間、自然無札之者共御用之由偽獵仕候ハヽ、押遂吟味
 候様下方へ可被申付候事
一漁獵之儀、御堀・御立川・御立池・御築ニて、御用之外
 一切漁不仕筈之事
一締差幷下請之者、今度改札を相渡申筈ニ候、勿論村々庄
 屋も合印之札渡置遂吟味、自然似せ札等仕候者於有之ハ
 即刻御奉行所え相達申筈ニ候事
 右之通可致沙汰旨、御家老中被仰渡、横目をも被差出筈
 候ニ間、彌入念候様各支配之御郡中え急度可有沙汰候
 以上
   寶永七年十二月十四日    奉行所

 二五二
   覺
 在々所々え前々より建居候堂宮ニ堂守・宮守無之所は、
 堂守・宮守召置度由願、近年段々多罷成候、堂宮狭、朝
 夕之認所も無之所ハ、堂宮之脇ニ小屋建添居申様子ニ候、
 右建添之家最初ハ九尺ニ三四間程之願置、少シハ梁間・
 桁行延建又は庇等を付恰好宜見せ申様子ニ相聞候、總て
 寛文八年以来新寺社は建立難成旨、先年従公義被仰出も
 有之候處、恰好宜敷有之候者いつとなく寺庵號なと唱候
 様相成可申哉無心元候、前々より堂宮守差置相續仕來候
 者、其通今迄堂宮守居不申所は差置候儀難叶候、乍然村
 離之所ニて差置不申候て難叶譯も有之候ハヽ、其旨趣御
 郡奉行衆委細被承届之、譯立候儀ニて候ハヽ、格之通下
 方より之願書付支配方より之證文等相添、御郡奉行衆よ
 りも被致吟味候趣書付相添、御奉行所え被差出埒明候上
 二て、建添之家向後ハ九尺三四間之格ニ被極置、夫より
 内ハ勝手次第ニ仕、建添之節ハ其所之庄屋・組頭立合裁
 判仕建させ、若格之外ニ間數を延建候ハヽ其家を早速取
 崩せ、堂宮守幷庄屋・組頭ともニ不差通筈ニ候間、此段
 堅申付差出候様ニ可有御沙汰候事
   以上
   正徳六年二月

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■大変・・日にちを一日間違えた

2018-02-23 07:58:02 | 徒然

 昨晩ベッドに入ってから土曜日の史談会の資料を200枚程コピーして仕訳をしなければならないことなどを考えていた。
まだ二日あると思っていたが、日にちを一日間違えていた。これはまずい・・・
コピーはさることながら、資料を十分読み込んでいない。こちらは相当まずい・・・
起き出して史料読みをしようかと考えたが、まあ何とかなるだろうと全く能天気である。

資料出典の「続日本紀(延暦四年癸酉)」「平家物語・第八巻(緒環・大宰府落)」「肥後古記集覧(合志川芥)」等である。
頭注をしっかり読んで頭に入れなければならない。最悪現実を白状してお許しいただくことにしよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

付足し 朝食後、コピーを始めたところトナーが切れてしまった。二本ストックがあるので交換するが二本とも調子が悪い。
「これはいかん」と近所のコンビニに出かけて約100枚をコピー、帰宅後仕分けして15部の史料を作る。
昼食後は史料の読み込みだが、まずは一安心・・・うろうろしたせいで、左ひざが強烈に痛み出した。明日は大丈夫かしらん?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■トミカ御前コレクション 細川ガラシャ(ダイハツ コペン)・落札

2018-02-23 07:39:55 | オークション

                      送料120円~流通限定トミカ御前コレクション 細川ガラシャ(ダイハツ コペン)

     日前オークションにこの品物が出品されているのを発見、マニアが多いからまずは駄目だろうとお遊びで入札、
    ところが応札者がなく今日の未明落札と相成りました。デスクの上にでも飾りましょうか・・

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■寛永年以降・郡中法令(18ー了)

2018-02-22 13:15:03 | ご挨拶

 二四八
  此書付明暦三年七月十八日式部殿・頼母殿・助右衛門
  殿・勘解由殿・式部殿二て御寄合之時相極候也
   覺
   「家主と河尻のあやと借家受ニ立、たゝさる所町奉行手前ニ
    て聞届、町之作法のことく可申付由、御老中被仰付候也」
一嶋原え走り参候を被召戻候京町市郎右衛門儀、別當之謀
 判を仕、川口を罷出申候、彼者手前御穿鑿御奉行加被仰
 付候哉、得御意候事
   「元来百姓地ならばもとへ戻し、それより望の者年貢を出
    しかり候ハヽ心次第、家道具ナトハ上り申ニて可有之候、町奉
    行共相計可然様ニ可申付候由、御老中被仰候也」
一此度辻切ニ逢申候法華坊主妙乗寺屋敷惣て地子屋敷ニて
 御座候、住持無御座候ニ付、五人組ニ申渡番等仕せ候、
 彼寺を預り申候五人組迷惑かり申候、然ハ顯應院・久
 本寺・中正院此三ケ寺より時分之屋敷せはく御座候又隠
 居所ニ仕度候間、妙乗寺を被為拝領候様申上呉候へと、
 私共迄書を出し申候、此三ケ寺も法華寺ニて御座候、地
 子ニて御渡置加被成候哉、得御意申候、屋敷之間數、軒
 數帳ニ仕置、寺内之道具迚も無御座候、朝夕をも續兼申
 たる寺ニて御座候由承候事
    「町ニ召置、町奉行共計ニ三年程宛あれこれニ渡置
     様ニ他しか成者ニ預置ニて可然旨、御老中被仰付候也」
一年々御町々集り候て有之銀子只今拾五貫目餘御座候、今
 迄ハ一年ニ八歩之利足ニ定、其町々ニて預り嘉申と申
 者ニ渡し置申候、いつまても一人の手前ニ召置申候へ
 ハかさなり候て其者も出し兼申筈ニ御座候、通最前得御
 意取集置申候、然は本座・新座両所ニも相應程預置候
 ハヽ、座之為ニも能可有御座と被思召て被仰聞候ニ付、
 私共として座中之頭立たる者ニ申聞候得は、公儀之銀子
 預り申儀大事ニ奉存候間、理申候間右之銀子御奉行所得
 差上可申哉、今迄之ことく御町ニ召置慥成者ニ五年・三
 年ツヽニまわして預ケ置申候様ニ可仕哉、得御意候事
     「可然思召之候間嘉申付旨被仰付候也」
一御町ニ居申候くすし了寶玄起儀、町くすし御用之時方々
 被召仕候ニ付、前々より軒役御赦免被成候、玄昌・甫庵
 抔切々御用之儀申付候、玄昌ハ去年天草・鶴崎へ被遣候
 時、軒役をも引候て遣候へと被頬説懸、三年已前より御
 赦免被成候、今三人右之者共並ニ軒役御赦免被成召仕御用
 之時まわり/\申渡候様ニ可仕哉、得御意候事
     「右同断」
一町籠ニ被召籠候國人共切々煩申候ニ付、くすしを付申候
 時、籠屋近所之くすしニ申付候、何も御用之儀ニて御座
 候得共、籠屋ニハ参兼申候、切々此御用を申付、せいを
 出し候くすしには、折々私共より薬代をも相渡候様ニ御
 座候ハヽ、一入精を出し可申と奉存候、御町々ニ當時々
 々之過怠銀抔少宛集り候て御座候をはからひ候て可遣候
 哉、得御意候事
一長六橋之向側、下之方之河へり四五間程の間、明地御座
 候、今迄はむかふがわ計ニてかた原町ニて御座候を、川
 へり四拾間程之分御借被成被下候ハヽ長屋作りニ家をた
 て、もろ町ニ仕あきなひを仕度奉存候由御町人共申候、
 此儀は去々年御寄合被成候時得御意候得共、道筋せまく
 成つかへ申間敷候ハヽくるしかるましく候と被思召候旨
 被仰聞候間、相尋申候處ニ少も往来閊(ツカエ)申様ニハ仕間敷候
 由申候、今度又右之通申上候、如何可有御座候哉、得御
 意候事
   已上
   七月五日             國   津
                    吉   傳

 二四九
  萬治二年七月五日式部殿へ頼母殿・當けん物殿・御奉
  行御集候所ニ得御意候、告書随分返辨可申付候由被仰
  候也
   覺
一大坂町人河尻へ酒樽を持下り、爰元之町人ニ賣渡申候、
 買申候町人手前ひつはく仕候ニ付代銀濟シ不申候故、樽
 主熊本へ罷出、町奉行共迄申理と可申候由、河尻町奉
 行より私共方へ被申聞候ニ付て、買主ニ何レ之道ニも埒
 明申候様ニ申付候得共、ひつはく仕候故代銀拂兼申候、
 小家をも持たる者共ニて御座候間家をも賣せ候て成共相
 濟申候様可申付候哉、得御意候事
一御家中侍衆之米を當町人共買申候て代銀いつ切ニ相渡可
 申と書物を仕受人を立、米を受取下ニて寄合四五人にて
 わけ買申候、人數之内壹両人も手前ひつはく仕候ニ付代
 銀滞申候、米主よりハ書之判形と受人と両人之外ニは
 米を渡たる相手無之候間、やくそくのことく判形人より
 代銀出させ下ニてわけて買申候者共之内ひつはくの者共
 は、家をもうらせ候て成共取込申候分之代銀を判形人え
 もとさせ可申候、得其意候事
   七月          町奉行
  御老中ニ伺申候覺書       吉住傳右衛門
  寛文三年七月          國友半右衛門
                  中村市郎右衛門

 二五〇
   奉得御意候
 此旨書之通最前口上ニて御老中へ伺申候、一段尤ニ被思召候旨
 二て其已後
一御町中別當役仕候者共之内、殊之外病者御座候か、又身
 代をひしと不罷成御用相勤申儀成不申者共迄断を申、其
 外預り之町内をもしめかね申者も御座候間差除、餘人可
 申渡と奉存候事
一私共え被為付置候歩之御小姓幷十人與之者共ニよらす、
 町共ニなしミ不申様ニ常々申付候、左様之覺悟無之者共
 差替可申と奉存候事
一御町中別當之下ニ、町頭と申候て大小町ニよらす両人宛
 別當共として仕立召置、町内之取次を申付候、町ニより
 丁頭無御座候て通り申候も御座候、今迄町頭御町中ニ百
 三人、此者とも御町役をも町内よりゆるし召置申候、約
 儀等もわきの者ともかぶりニ成申候、其丁頭ニ付、下ニ
 て出入御座候通承付申候丁頭無御座候て不叶儀ニ御座候
 ハヽ、一人宛申付候様ニ可被仕と奉存候事、以上
   寛文三年七月廿九日    町奉行

          (了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■重賢公と山縣大貮

2018-02-22 09:26:28 | 歴史

 嶋田嘉津次という人がある。「名は貞孚、嘉津次と称し、撫松と号す。幼より聡明なる上に刻苦勉励しければ才名漸く高し。後身を藩政に致し家老職兼大奉行となる。禄千弐百石。宝暦の改正を成就するに最力あり。文政二年十月二日没す。年六十五。墓は本庄静安寺。」
文化十二年七月、時の藩主齊茲公の乞うところにより、先の大奉行で宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門の業績について書き残している。

「堀殿行状」と呼ばれるものである。ご紹介する史料は上妻博之先生の書写によるものである。(上妻文庫)

これはそのほんの一部分である。
   
        重賢公ニ平太左衛門御不遇と申たれは山縣大貮と申者投文之
        砌之儀に而御平常を御変化之御内宴等初り候時分之儀と
        承り申候是は御晦迹之御深慮二而有之候由(以下略)

この文章は重賢公の生活が少々乱れた時期を説明するため、それは山縣大貮が御屋敷に投文をした時期だとしている。
晦迹とは姿をくらますこと。 世を逃れて人に知られないようにすること。」とあるから、何らかの理由でそういう振舞をされたという事であろうか。それは山縣大貮の事件がからんでいるのだろうか?
「明和事件」とよばれ、幕府に対する謀反などの罪で大貮等は処刑(明和四年八月廿二日)されている。

大貮は重賢公に何を伝えようとしたのか、内容を知りたいところだが、資料が見えない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする