佐敷より田乃浦へ二里此間に佐敷太郎といふ坂あり
佐敷を出るより壁にのほるようの嶮しき坂ミちにて顔
もふられぬ急なる坂也海邊を船に乗りてまはれ
は坂越へなし
田乃浦漁家はかりのあしき町なり此地より日奈久
江三里此間にも赤松太郎と称す佐敷太郎に劣らぬ
嶮しき坂有り日奈久は大概の町にて熊本侯の御
茶屋も有り温泉も有りて入湯の者も折々は
来る所にて功有る温泉と云人物言語は薩摩よりハ
少し勝れしやふなれとも裸身にて往来せる婦人を
まゝ見かけし事也是らの事にて風俗の賤しきを
察すへし 人のもの云ひかくる時に上方筋中国西国は
アイともヘイともいふに肥後は貴賤ともにナヒ/\と答
つる事にて自身の事もヲドモといふ也買女の通
称をキブシと云ふ何レもきゝなれぬ言故おかしかりき
画1
右の外目なれぬ器多しまた国風にて小麦の粉に
て 図2 図3 かくのことくに四文取の餅ほどにしそれを
鍋のうちへ藁をしきて蒸して食事ともし弁當にハ
竹の皮に包て食■せは竹の皮の包ものハ道へ捨る事
にて入レ物ハ便也貴賤とも弁當は右ことくする故に
竹の皮のミち/\うちちりて有る也豊後より是迄ハ
竹は自由の所也薩州にても肥後につゝきし所地面
よく肥後の水股より八代川尻の辺まて地面よく
五穀のそたち草木まて中国筋にかはりし事なき
風土にて綿も作る所有りあしき国にはあらす
肥後にても町場にては旅人宿と称せる家有りて修
行者はいふに不及猿引ことふれまても木せん廿四銅の
定メにて止宿せる事也薩州と此国はかり旅人宿
と称して乞食まても極りの木銭を出せは止宿
自由なるは他国になき国制なり
八代は熊本侯の一太夫知行三万石長岡何かしの居城治ニ而
大概よき城にて薩摩口の堅メなるへし
八代川よほとの大河にて求摩の人吉まて十六り
余川ふねの往来(有り)
小なるひら城にて天守も
なく外見大概図のことく
図4
相良侯の御旅館有り是ハ
川舟にて下り給ふ所に止宿有る
館と云之八代は古き所にて市中凡
五千余軒の地也然共辺鄙の町ゆへに
諸品自由ならす扨此在/\におゐて名産
と云蜜柑の木を見るに紀州の蜜柑木とは
異にして大樹也 大ひなるは疊之二十疊之敷も有り それにても若/\しき見事なる
ミかんのおひたゝしくなる事也紀州にては若木ならてハ
見事の大なる蜜柑の実くさるゆへに古木を切捨て次第
て次第/\につきほをして若木はかりを植る事なるに
此所にては古木の大樹ならては見事なる蜜柑実
のらすと云々地の利其地のよしあしによつて実なれ
は経済の心あらん人は地の善悪を見其地によく
生せるものを下民に植させ地の利を残りなく
とりて後世のたすけとなし度もの也
宇土は熊本侯の御分家細川 御在所にて大概の
所也昔時は小西摂津守在城せし城にて城地なりしに
今は城と見ゆるやふになく御館ふか/\と見ゆるのミ也
町場/\に隠し買女有り初に云ギブシと云或人の物
語りに古語也今世に藝子藝者といふ通称は
百年此かたの事にて伎舞子と書し古き書有り
といひき