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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・平凡社新書「牢人たちの戦国時代」

2014-05-31 18:37:46 | 書籍・読書
     牢人たちの戦国時代 (平凡社新書)
 
            平凡社

 

内容説明

戦国時代、武将が戦いに敗れると、仕える武士たちは牢人となった。牢人には、真田幸村、山本勘助、後藤又兵衛などもいたが、多くは、名前を知られることもない武士たちである。主家を失い、「非正規身分」となった武士たちは、どう生きたのか。勝者の歴史に埋もれた敗者の「その後」を、丹念な史料の読み解きから、鮮やかに描きだす。

目次

第1章 牢人の誕生(源平争乱期に現われる;赤松氏牢人の発生とお家再興 ほか)
第2章 戦国争乱期における牢人(尼子氏の盛衰と牢人;名だたる牢人たち/講じられる対策 ほか)
第3章 関ヶ原合戦と牢人(チャンスをうかがう牢人たち;困難な再興、再仕官 ほか)
第4章 大坂の陣と牢人(豊臣家に賭けた牢人たち;敗者たちのその後 ほか)

著者紹介

渡邊大門[ワタナベダイモン] 
1967年神奈川県生まれ。歴史学者。90年関西学院大学文学部史学科日本史学専攻卒業、2008年佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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■秀林院の場所

2014-05-31 16:18:30 | 人物

一、(寛永十二年)七月十二日、乃美主水・河喜多五郎右衛門江被下御書之内

      竹の丸之広間秀林院ニ引候ニ付而書中見候、こけらふきに可申付候事

            此御書を以考候ヘハ、御先代より竹の丸にも少々御間取有之たるなるへし、或語伝に、忠広之時にハ御花畑御殿坪井川のうへを
            廊下つゝきにて、御城より御往来つかへさる御かまへなり、それゆえ妙解院様御本丸御住居之内も、御花畑御広間に御馬廻衆より
            常にかわる/\御番仕候由、御敷台もさつといたしたるとりふきにて、拭板なともなく、竹簾を敷有之たつなり、虚実ハはかりかたし
            元和年中に豊前ニ秀林院被建置候を、当御國に御引被成候と聞へ候共、其年月・寺地之所柄并停廃の事もわかり不申候
            真源院様御代寛永十九年、護国山妙解寺御建立被成候事を、正保之末比に成候而ハ御後悔被遊候との語伝、乍恐深き尊慮被為
            有かと奉存候、御代々之御菩提寺ハ泰勝院一ヶ寺にても可被為済物をとの思召ニ而、御国のため御家の為、後年累とも可成筋ハ
            少にても御省き被遊度との御意を、奉伺たるとの申伝へも有之由、強て考候に、正保二年三齋君御逝去後、八代の泰勝院を熊本に
            御合せ被成候砌なと、秀林院をも一ッに御よせ被成候而、院地ハ御こほち被遊候かと奉存候

 秀林院とはガラシャ夫人の菩提寺のことである。不思議なことに何処にあったのか所在が不明であるが、泰勝寺周辺であろう事は想像できる。
永青文庫の膨大な資料の中に、その真実は埋もれているのであろう。
 

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■真夏日五日目

2014-05-31 13:56:08 | 人物

 五月も今日でおしまいですが、今日で真夏日が五日目に成り、身体が対応しきれずにいるようでなんとも不愉快な日々を送っています。
昨日が32℃、今日は33℃の予想なのですが、TVの報道を見ると全国各地で凄い気温になっているようで驚き入りました。
御地は如何でしょうか。これからうっとうしい梅雨が来ますし、その後の本格的な夏がやってくると思うと、げんなりしてしまいます。
それでも昨年の五月は月の内10日も真夏日があって、なんとか凌いできましたから今年も頑張らねばと思います。

今日のお昼は今年初めての素麺をいただきました。
それに、血圧の為にと思い最近は塩気を随分カットしてきましたが、夏の間は又再開したがよさそうに考えています。
本格的夏をまえに、いささか弱気な72爺です。 

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■松寿庵先生 第101講

2014-05-30 11:12:37 | 史料
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■七つ立ちと御目見

2014-05-30 08:28:20 | 歴史

 「お江戸日本橋七つ立ち・・・」という童謡があるが、町民は木戸が開くのは明け六つで、日本橋の木戸は一刻前の七つ時に開いたのだそうだ。
大名衆の帰国(交代)は木戸が開く時間を待って七つ時に出発をしたという。参勤の方はどうかと言うと、これも七つ時に出発をしている。そして行列を見送る人達は決められた場所へ出向いて行列を待つことに成る。

寛永十年九月十二日、忠利公は肥後入国後初の参勤に立たれるが、この時の記録が残されている。

      明日御発駕ニ付御目見之触
   重而申触候、明日 殿様被成御立候を、御侍衆御見立被申候次第
 一、人持衆并御牢人衆ハ熊本より一里半ほと被参、立田山を越、さきのひろミへ御出候而、可有 御目見候事
 一、御弓御鉄炮頭・添頭衆・御物奉行衆ハ、人持衆并御ろう人衆のつき、田津田山之切通シよりさきのひろミへ
   御出候而、可有 御目見候事
 一、御番頭衆ハめん/\の与之御馬廻衆を被召連、御弓御鉄炮頭・添頭衆・御物奉行衆之次、立田山之切通
   より熊本之方之ひろミへ御出候而、可有 御目見候事
 一、御中小姓衆・御留守居衆・御郡奉行衆ハ御馬廻之次、熊本之方之ひろミへ御出候而、可有 御目見候事
 一、殿様明日東しらミに被成御立候間、いつれもの衆ハ七ッ時より被罷出、右書付之所々に可被居候、不及申
   候得共、作毛之中へ下々はいり不申様めん/\被申付、形儀能様ニ可有御沙汰候事
 一、此儀最前申触候ハ、相連候て如是相極候間、其御心得可有候事
        一番 人持衆・御入所之見計奉行              志水伯耆
                                            沢村大学
        二番 御弓御鉄炮頭・添頭衆・御物奉行衆、被居候所見計奉行
                                            佐分利兵大夫
                                            寺本八左衛門
                                            松野七左衛門
        三番 御馬廻衆、被居候所見計奉行            谷 内蔵丞
                                            嶋 又右衛門
                                            松野右京
                                            志賀左門
                                            筑紫左近
        四番 御中小姓衆・御留守居衆・御郡奉行衆、被居候所見計奉行
                                            宇野七右衛門
                                            蒲田次左衛門
                                            沖津作大夫
              以上
            九月十一日                三人

 このように御目見が定められた人たちは、藩主の居館・花畑邸から一里半以上離れた場所へ出向いて行列を待ち、お見送りすることに成る。
 行列の前を駈けて行くわけにはいくまいから、七つ以前にはそれぞれは家を出たのであろう。七つというとこの時期は午前3時くらいだろうか。
 殿様をはじめ御供の衆、そしてお見送りの人達も御苦労さまです・・・・・

                        江戸時代の時刻換算(不定時法)

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・8了

2014-05-29 09:14:02 | 人物

坊中より阿蘇の宮え二里
名高き舊地の阿蘇宮なから至極の僻地其うへ
平地の湿地にてミち/\はいふに不及社地のまはり
に草生へ茂りて見苦舗ク御社も上方筋の社にくらへ
見れは小社にて何を見て目をよろこはせんや
うなし鰯の頭も信心といへと社頭はいかにも結構
なるか山深く瀧雅石なと有りてしん/\粛々と
せざれは信心気生しかたきものにて此御社の地は
田家の中にてもの淋しさいはんかたなし 熊本侯
より地かたにて千石御寄付にて三百石大宮司の食
地とし残る七百石を二十一家の社人九人の巫女配分
して食地とす 高砂のうたいに顕せし友成の子孫
今以て大宮司にて社人の長たり 此家へ立寄り古しへ
の面白き事蹟もあらんやといろ/\と尋聞しに
所の辺鄙なれは人物も俗物にて取り書加ふへき
物語りはなかりし也
豊後と肥後の界は片股村といふに有り
坂なしといふ所に肥後へ入関所有りて此口にて往来を改るよし土人の方言に大坂に      引用した文書ではこの部分が欠落している
坂なし坂なしに坂有りとて豊後より坂なしへ入る
には片坂にて険阻の下り一里半豊後の国は肥後の
国より高き土地と云之 九州は南海の帯せし国に
て暖国のことと思ひしに阿蘇郡は冬月になれは
年によりて雪の積ム事七八尺におよふと土人
おの/\のかたる事也 雪は山岳のかまへによりてつ
むと聞しが左もある事なり 九州のうちにて雪の
八尺もつむとは珍しき事也 在家に入りてよき
家を撰りて止宿せる事なから夏にても蚊屋
をつるといふもなし 青草を大竈の下へ入レて
家内をふすへて打倒/\寝る事にて戸もなく
壁もなく気さんしなる身のうへなり 此書を見
る人いつはりと思ふべけれど筆にては書とり
かたき僻地也 寒盡れとも春を知らすとはかゝる所
なるへし
阿蘇の宮より熊本の城まて行程十三里余此辺
数里のうちには名所舊地もなきと聞きて元の
ミちへ引かへしぬ
肥後のひょうたん鍬とて 図□ かくのことし土地に
よりて便なるや他国にて不見
阿蘇郡草はかりの山おゝく牧場有る事也
肥後と薩州何レか勝レる国ならんとミち/\思ひくら
へしに肥後劣れりいかゝの事と知らざれとも肥後
に入りては百姓の家居あしく所/\に崩レ家多
し田所の高免なるか働のあしきなるやいまた
委しからざりし

熊本より山鹿まての宿/\至て見苦敷事也 高
瀬通り山鹿通りと弐通有り 南の関江出るに行程
遠近なし 薩摩侯求摩侯は山鹿通り御往来なり
山鹿は大概町にて南に山鹿川と云有り 舟渡
しの川也 町の中に温泉有り初にいふことく肥後
には温泉数ヶ所有り有り何れも入り心よき温泉なから
他国より入湯せる人の来らさるは功なきゆへなる
へし
南の関に至る古しへは松風の関といひし所にて
當国の名所也 また小流の川有り墨摺川といふ
是も名所のよし宿のあるじ少し風流有りて哥よめ
といふ拙き身にて叶ふましと辞せしに強ての
そみしゆへに

   うち渡る墨すり川は名のみして古ならぬ御代に

                   すめる里人

   いつしかに秋知りそめて吹かゆら音にも高し
                   松風の関

少し北の方に肥後筑後の国界有りて熊本侯
の御番所有り国界の南北に標木有り是より
熊本札の辻まて十一里八町九間と有りしかれは
薩州の国界より何族卅六里十町十八間の国に
て東西は米良・五ヶの庄・日向につゝきて深山幽
谷其界未詳大概をいはゝ廿七八里もあらんか
豊後より日向・大隅・薩摩此四州上方中国筋に
くらへ見れは甚タ劣りし下国にて人の気象
は質朴なるへし
六月十八日當国水股に入りて爰かしこに滞し
て七月朔日筑後の圀に入る也

西遊雑記五之巻終 大尾

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■借金の申し込み

2014-05-29 08:10:52 | 史料

 借金に関する史料に出くわすと誠に心が痛む。年代から考えると天下普請に関する資金の調達であろう。(綿考輯録・第四巻 忠利公・上 p459~460)

                   わさとひきゃくを以申入候、来年御普請のため、金子ならハ五千両、銀子ならハ三百貫目かり申たく候、
                   壱年三歩之利息にて来年中に元利すまし可申候、はやく銀子とゝのひ候ハゝ、その月にしたかひ右之
                   りぶんのさん用にすまし可申候、しゃく状あて所ハそもしあて候ましく候、くはしき事ハ 三齋さまより御
                   申候へくそうろう、かしこ
                       (寛永十二年)八月十二日
                              あら川殿
                   (御自筆)
                   尚々、わけ見へ申様ニ人にかゝせ申候、金子ハ五千両にてハこれなく候、くハしくはしゃく状にかき申候
                   事ニ候、已上 

この借金の申入れ先は、忠利の妹で烏丸光賢室・万姫に対してである。あら川とは万姫付の老女で、細川家から付けられた人であろう。
本文は祐筆が書き、尚々書は忠利に自筆であるが、本当の借金の額は違った額でまだ多額なのであろう。

寛永十三年の普請の詳細については、銭亀橋と御成橋見付枡形で書いた。

御成橋見付桝形は幸橋門として紹介されている。(細川家は石垣のみ、櫓は津軽家が担当)

                                       江戸城三十六見附から


 

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・7

2014-05-28 06:05:56 | 史料

阿蘇の宮阿蘇嶽一見せしと大津へ志し出立熊本
より大津まで五里此道は平地にして街道廣サ三
拾間ばかり左右に土手有り並木ミな/\大樹にて
もみ此外雑樹も多し 云ヒ傳ふ清正朝臣奉行
して此道をつくりけると云之其時より道も狭く
せす並木もきらすして其まゝのかた也日本第一と
いはんひろ/\せし街道也 太守御参勤交代此
ミち筋より豊後の鶴崎へ御往来有り所/\に見
苦敷小家も多し茶屋も稀にて淋しき道也 大津ハ
三百軒はかりの在町也大津より東二里半にかふの水
と云登り下り一里半の坂有峠より西のかたに肥後
肥前の海を見る 阿蘇郡に入りては一国のうちな
から風土大ひに替りて甚タあしき所にて百姓家に
戸をたてし家は稀にて竹のくミ戸を図のことく
して土間住にて見るも哀れの躰也
     草ふきに竹のあみ戸にて雅にも見ゆれ
     とも壁もなくかやをかきつけてうちのてひは
     上方筋の乞食ごやのことし

肥後の国町場/\の入り口に    如斯の竹のあげ
戸有り何故と尋しに古へよりも町の有りしといふ
しるしと云之 盗むへきものもなき百姓の家居に而
盗賊なとゝいふはなし 村/\に太鼓有り是も上方
中国筋の製とは異なり
     かくのことくくさひを以皮をとじし
     ものにて素人ばりにせし太鼓なり
阿蘇一郡にて今二万八千石の地といへとも東西凡十里
余廣大なりといへとも山はかりにて原野も数多ニて
笹倉なとゝいふ原はむかしの武さしのの原と称せ
しはかゝる原ならんと思ふはかりの廣/\とせし
所也土人の物語には開田せは阿蘇郡にて十余万
石も出来すへき平地有る所なから人のなき故に
古田も年/\にあれ果るといひき 近年うち続き
凶年にて餓死せしもの数多有りしといふ いかにも
實事と見へ住捨し明家も爰かしこに有りし也
他国の評はんには當国の守は賢君にて経済役堀
平太左衛門といへる良臣のやふに聞侍りしに阿蘇郡
のもやう民家数人飢餓し死におよふまても救ひ
給はざりしにいかゞの事にや虚説もあらんかと
委しく尋聞しに熊本へ出て乞食せんとて老
たるもおさなきもうちつれ出しミち/\にても■路に
倒れふして死せしものも有りしに違ひなき実事也 予
茂爰におゐて疑惑しに仁政はなかりしものと
思ひき卑賤の身をしてかく記し置は高貴を
誹謗恐レ有りといへとも実事を聞て記せさるもまた
諭ふに似たれは僅にしるすならし 此辺は幾里行
ても華咲草木もなく土色は黒く水のなかれも濁
水にて清からす谷/\におゐて菖蒲の花を見し
はかりにて日本のうちにもかゝる下々風土も有る
ものかなと驚し所なりし

阿蘇山はさしての高山にはあらされとも古しへゟ
も燃る山にて其名世ニ知る事也すへて燃る山は
硫黄山にして臭気甚し数年燃ては大山にせ
よ尽へきに造物主のなす事にして尽る事
さらになし小かしこき人の癖として天地の事に
いろ/\の理をつけ理をうかちて大言をいふ事
有り何れを聞ても尤のやふにてミなし此方より
付し理にして世に云私なるへし 坊中の町より
休所のこやまて曲道六十余丁といふ休所に至り
て見るに煙を吹出せる洞数百間真黒に見へて
煙を吹出せる勢ひおそろしけに見ゆ 春秋はつよく
燃へ夏ハよはしと云闇夜は火のひかり有りて
晝は煙はかり也凡四五里の間へは煙を見る事也
土人の物語りに今年より四年以前地うごき
なりて煙に交りて灰を出す事おひたゝしく
地上五六寸もつもり山のうち雷のことくになり
ひびく故阿蘇郡の村/\逃去らんやいかゝせんやと
爰にも集りかしこへも群集して日/\いかゝせんと
人心もなかりしにさすかすミなれし家宅を捨て
他方も行がたく死なは一■と忙/\とくらせし
うちにいつとなく山もしつまりし故安堵の思ひ
有りしに牛馬は山近き村/\にてハミな/\死せし
事也 是は灰のふりかゝりし草を喰ひし故と云之
此辺の石は赤色にて他国の石とは異也図せる所の
草木なき山はふすほりしやうに見ゆる事なり
山形も嶮にして信州浅間山とは違へり麓に山伏
寺卅家頭は座主と称して熊本侯より百六十石
之御寄付地有り坊中といふ僅の町有り宿屋も
見へ侍りし也此山の開祖は元三大師にていろ/\
の宝物も有るよし常に参詣も有る所なり 燃る
洞を上宮と称して山の霊を祭りて願望せると
云 少し解せず
坊中へ下らすして休所より南の谷へ下れは湯谷
といふ所へ至る此地には温泉有りといへりそれ
よりやまつゝきに皿山と称せる有り此山の岩は
大小ともに凹にして丸きはなし 予此所へは行
す坊中の町にて皿石と称せる小なる石を三ッもら
ひて国のミやけにせし也 すべて肥後は大国ゆへ
に奇石の出る山多し こなたの麓より西のかたを
千里か原といふ 三里の荒原なり 土人の物語り
に怪談有り 爰に略之世に云住は都にてかゝる所にも
人里の有る事やと首(こうべ)をたれて古郷を想ふ情有りき

坊中より阿蘇の宮え二里
名高き舊地の阿蘇宮なから至極の僻地其うへ
平地の湿地にてミち/\はいふに不及社地のまはり
に草生へ茂りて見苦舗ク御社も上方筋の社にくらへ
見れは小社にて何を見て目をよろこはせんや
うなし鰯の頭も信心といへと社頭はいかにも結構
なるか山深く瀧雅石なと有りてしん/\粛々と
せざれは信心気生しかたきものにて此御社の地は
田家の中にてもの淋しさいはんかたなし 熊本侯
より地かたにて千石御寄付にて三百石大宮司の食
地とし残る七百石を二十一家の社人九人の巫女配分
して食地とす 高砂のうたいに顕せし友成の子孫
今以て大宮司にて社人の長たり 此家へ立寄り古しへ
の面白き事蹟もあらんやといろ/\と尋聞しに
所の辺鄙なれは人物も俗物にて取り書加ふへき
物語りはなかりし也

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■米田新十郎という人

2014-05-28 06:04:38 | 人物

寛永十年九月十二日、忠利は肥後入国後初の参勤に出立するに当たり、證人として米田監物是季の二男新十郎を召連れている。
是季は慶長十五年、忠興の御意に叶わぬ事があり小倉を出奔、大坂の陣では西方に付くなどし、元和八年忠利が帰参させた。
米田是季の再仕官に詳しく書いたが、この時期二男新十郎は生まれていない。寛永三年の生まれだろうか。

  新十郎、幼名宮松後助右衛門是正と云、当年八歳也、於江戸光尚君甚御懇ニ被仰付候、寛永十二年正月疱瘡煩候ニ付、公儀之御医師徹斎御紹
  御薬服用仕、光尚君御疱瘡軽ㇰ御仕廻被成候、御吉例とて兎之足拝領、病中日々御使被下候、同十五年之秋十三歳之時、御下屋敷ニ而囚人を
  新十郎ニ御きらせ被成候、公儀之人斬と光尚君御差図ニ而首尾能相仕廻、御機嫌能被成御座候、惣而色々御懇共にて小屋にも度々被為入、拝領
  物度々被仰付、忠利君よりも拝領物被仰付候、慶安五年弟米田宮内証人かはりとして罷越候ニ付、新十郎ハ御国ニくたり申候、翌承応二年七月新
  知千五百石拝領、寛文七年七月三千五百石御加増、五千石ニ而御家老ニ被仰付、大組をも御あつけ被成旨、長岡左近(忠利弟・南条元知)を以被
  仰付、名を助右衛門と改申旨被仰出候、惣而綱利公種々御懇ニ而、拝領之品数度被仰付、屋敷ニも度々被為入候、延宝七年病身ニ成、御役御断
  申上、願之通隠居被仰付、弐百人扶持に千俵拝領、飽託郡宝還村野屋敷ニ引移、剃髪して助入と改、天和二年六月十一日五十七歳ニ而病死、法
  名法成寺雄岩助入と云、子孫無之名跡断絶 

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■有吉家のシヤミとは・・・・

2014-05-27 17:03:14 | 人物

綿考輯録・第四巻 忠利公(上)p472の本文の最後尾にある記事である。

  ■今年、有吉頼母佐証人江戸江差越候也、シヤミ四歳と有之

たったこれだけの文章だが、シヤミとは沙弥であろうが、仏門にあった訳ではなく頭を丸めた童というような意味だと解しているが、どうだろうか・・・・
頼母佐とは有吉本家五代・英貴であり、「今年」とは寛永十二年の事なのだが、当年四歳というと生まれは寛永九年(1632)である。
この時期に頼母佐にこのような年齢に該当するような男子はない。つまり、頼母佐の嫡男で本家六代を継いだ英安は寛文二年(1662)26歳で亡くなっており、逆算すると生年は寛永十四年(1637)頃である。
本家四代で頼母佐の兄・興道は元和四年(1618)に亡くなっており、その二人の息も該当しない。
さてこの「シヤミ」と呼ばれ江戸証人となったとされる人物とは一体何方なのか・・・・・この解明は難問である。 


この件について有吉家のご当主からコメントを頂戴しました。
基本的な間違いは、男子とばかりに思い込んでいたことですが、頼母佐(英貴)殿の四女・志弥美様であることが判明しました。
詳しくはコメントをお読みください。




 

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・6

2014-05-27 15:13:57 | 史料

是より熊本城下へ僅に
一里余熊本は思ひし外廣大に見へ城は加藤清正朝臣
の築きたりし城にて外見目を驚せし事也石垣は
云ひ傳ふ清正を初メ加藤清正庄林何かし飯田角兵衛
三宅角左衛門なとゝ云ひし武勇の士人夫に交りておの/\
自から築しと云う 南方の石垣高サ数丈海内において
かくのこときの大丈夫なる石垣いまた予不見ひら城
とも山城とも称しかたし小山のうへを平らかにひらき
て縄張をし給ひし事と云ひ傳ふ

 

             清正権現之社
              社領千石別當寺を本妙寺
              と云大寺ニ而寺所十四ヶ寺
              二王門より社前まて八丁
              左右櫻樹数百本華ノ頃
              を思へし平生参詣の人
              数多なる故ニ茶店も有り
              六月廿一日より廿四日まての
              祭事ありて國中の貴
              賤群集一山法華宗にて
              他方にても末寺末社有り

              左右ニ画く山ハ小山にて頂
              の上に社を建しもの也 

 

城内はしらされとも外見仰山なる城にて其初ハ八方に
八門有りし事にて本丸と二の丸の間を往来とし
旅人の通行北より来る者は東の門より入て西の門へ
出南より来る者は西の門より入りて東の門に出る
其間数丁にて城門幾重も通る事にて左右高石垣
にて箱の内を行かことく前後もやくら門にてにて其門を
閉す時はいかんともなしかたき所なり 土人の物語りに薩
州侯の御往来の節此所にて前後左右を見給ひ大名の
通るへき所にあらすかゝる地を往来とせしは
心なき事と御いかり色見せしと云之 定て
虚説の事とは察しなからいかにも高貴の人の通行
すへき城内にあらす鳥をとめ籠へ入るゝやふの所也
市中凡をいふといふ東都の町わりのことく城を
中にして武家町商町を以てくる/\と取ま
はして家居有り城内には幾重も塀の有へ
けれとも城内の事を語るは国禁にて知れす 予
此城をめくりて水道の地理を考へ思ふ水の手
少しは不足ならんものか市中へも川の流れを
堰してかけ樋にて取りし所有り堀にも水沢山に
見ゆれとも溜り水也定而城中にハ井も有りて
水に不足なき用意有へし 西のかたに小高き山
有り此山の頂より遠目かねなとを以て見る時は
城内見すかす事もあらんか予此山へ不行遠見の推
量なり此二つの事なくは城におひては海内におゐて
双ふへき城有まし 第一要害堅固にして大城なり城外
凡五里余も原野ひらけ海遠からす国また大国也
清正朝臣は世人たゝ強勇のミの大将とのミ心得て
其実を知らす戦場のかけ引兵の用ひやふ智勇の
将なり遠きハ定かならす天文天正の比より慶長
初年まての爰かしこの戦ひを考へ思ふに恐れ有る
事なから
東照権現公は日本開闢の御名君にして後世とて
も有へきにあらす遥に劣りしとは云へとも毛利元就
上杉謙信此清正の合戦におゐては智謀計略も有り
て義も加はり合戦のしやふ感せる事有り而面白し
此外の戦は十にして七ッ八ッまても力くらへの合戦
にて感せる所稀なり 今は清正権現と称して此地に
はんしやう有る事其理り有て尤あがむへき社也
さて市中残りなく見めくりしに藝州廣島備前
岡山よりも甚タ廣くして商人も多く豪家も有る
所なから間/\に草ふきの貧家も交る町にて見苦敷
町有り 人の通行も廣嶋岡山ほとはなくて淋敷人物
言語も少かりしやふに見へ何となくて辺鄙の風俗有り

人物には薮茂次郎といへる大儒有りて學文も流行し
醫師には村井椿壽といふ學醫此外市中にも人物
なきにあらす繁栄の地と称すへき所也 堀うし
の名臣なる事は世に知る事故に爰に
略しぬ
名産はひゃうたん細工にいろ/\の上品有りて
他国におゐて稀也とすまた真珠丸といふ小児の
諸病に功有る名法有り是も他国にはなし

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・5

2014-05-27 07:14:48 | 史料

九州にて名高き熊本侯の御別館水前寺の
御茶屋見まく 水前寺は地名にて寺にはあらす 宇土より四里此間
に川尻と云よき湊有り諸州の商船肥後に来れハ
必す此浦に船を繋く所也大坂登しの肥後米こと
/\く川尻より積だす湊故に御米蔵も数多にて町
淋しからぬよき町也

土人相傳ふ天草一揆の時に賊此地の米を奪ひて
糧米にせんとて夜に入りて此濱へ渡らんとす此事
を川尻へ告るもの有りしに事急にしていかんとも
なしかたく不意の事にて熊本へ援兵を乞ふト云
まもなくすてに賊船海上僅に見ゆる故にこはいかゝ
せんと人/\うへを下へと騒動せしに蔵奉行何かし
智才有る人にて町中の火縄数百筋集メ是をかづ/\
に切て火をつけこれを三四尺斗の竹に結付て海
濱数十丁に立ならへしに折ふし闇夜なりしかは
火のひかり鉄炮の火なわのことし 賊船より此火を見て
熊本より堅めの士数千人備へたれは小人数にて叶ふ
ましと十町はかりにて船をかへして危ふき難を
のかれし事なり 全く蔵奉行一人の智謀にて数千
石の米を奪れざりしとの物語り有りき 予按に此
蔵奉行将の器量有る人なりしかるに其名さへ
詳ならす今にてもかゝる人もあらんに其事に預ら
されはむなしく世をふるのミ也

川尻より水前寺まて二里在道にて村数多し
と云へとも一家として豪家も見へす上方筋のことく
白壁にてぬりし土蔵なとも遠目にも見かけす
委しく土人に聞しに地所免にてむかしより
此辺にては百姓ばかりしてかね持には決てなら
らぬ所といへり左も見へし所なり 水前寺の有る
所を今村といふ予止宿せしは水前寺の御庭奉
行田中幸右衛門といひし人の家にて御庭一見の事を
願しに他国者は御法度にして一見ならす 物語り
のミ聞しに御庭の惣名を成趣園と称す御茶屋
を砕月亭と号してふじ山の形をつくりし
芝山有り此地はいかゝの事にや地中より清水を
吹出す事おびただしく其流レ川となりて川尻へ
落ル近江の醒井のことし當国の名産御献上となる
水前寺海苔は此川の流れに生せる海苔なり年に
よりて多少有りといへとも三千枚と五千枚は年/\に
生せる事にて左もなくては御献上の撰り海苔出来
かねるよし しかるに大坂におゐて水前寺海苔と
称せる海苔賣買ニ有る故に大坂蔵屋敷の役人へ
被仰付かの賣買したる水前寺海苔を調へ有りて
御吟味有りしに製しやふも仕たてやふも違ひ
し事なれとも海苔はまきれなき水前寺海苔ゆへ
海苔のつく川筋を御せんぎ有りけるに川下へ流し落ル
事数多にてそれを川筋の百姓取り製し所にて
賣は六つかしき故に内/\に大坂へ登してうりし事也
盗といふニもあらざれはさしての御咎もなく夫より
取る事の御法度となりしのミなり 成趣園の地方
凡そ八町四方泉水浅き所には飛石をつたひて亭に
至るふじの芝山より三保の松はらのもやふも有る
よし 泉水には鯉鮒数多にて夏中尤よしと
田中うじの物語なりし 門前まて行て入る事
不叶残念に思ひし事なりき 国分寺此村に有り見
るへきもなき小院なりし

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■二つの花の事

2014-05-26 10:00:11 | 史料

 寛永七年三月十七日付、忠利に宛てた三齋の書状に花に関する二つの記事がある。(綿考輯録・第三巻 忠興公・下 p151)

   一、紫蘭のことく白キらん所望の由候間、此者之便宜ニほりて遣候へと河内所江申遣候、定而可参候、我等所ニ在之候は地震屋ニ植置候間、女之
      細工ニハ能ほり候事中々成間敷と、下々の持候をほらせ進候と申付候、それ悪敷候は、我等げ次第ほらせ、地震屋之を可進候事 

                                                                

   一、唐よりるかうと申花被取寄由候而、種を五十給候、もよう絵ニ被書候て、能合点参候、事之外見事なる花にて候、我等上屋敷ニ二十、下屋敷ニ
      三十、去十三日四日ニうへさせ候、時分能、下地も能こしらへ申候間、つき可申と満足候(以下略)
      (なおこの書状の説明として、るかうハ蜈蚣草と申よし、葉むかての足に似たるゆへかと九月廿三日之御書之内ニあり、とある)

                                                               

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■御花入・車僧

2014-05-26 06:55:06 | 史料

 随分以前 1/36 車僧 を書いた。最近綿考輯録・第三巻(忠興公・下)p391 に、「御家名物之大概」にこの「車僧(くるまぞう)」が記されていた。

    一、車僧
      此花入ハ小田原陳之時利休ニ御切せ、御名を車僧と利休付申候、わけハ 
      浮世をハめくらぬものを車僧のりもうるへきわかあらハこそ       (浮世をは巡(廻)らぬものを車僧 乗りも得るへき輪が有らはこそ)
      元和六年、忠興君より人も存たる花入ニ而一廉之御数寄道具之由、忠利
      君江被進候御書あり、其後何方江参候哉不知

レファレンス協同データベースに、「車僧は華道と関係のある言葉のようだが、どんな意味か。」に対する回答が見えるが、引用の和歌の部分に違いがみられるのが不思議である。

          

 

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■西遊雑記巻之五(肥後) ・4

2014-05-25 09:26:49 | 史料

佐敷より田乃浦へ二里此間に佐敷太郎といふ坂あり
佐敷を出るより壁にのほるようの嶮しき坂ミちにて顔
もふられぬ急なる坂也海邊を船に乗りてまはれ
は坂越へなし
田乃浦漁家はかりのあしき町なり此地より日奈久
江三里此間にも赤松太郎と称す佐敷太郎に劣らぬ
嶮しき坂有り日奈久は大概の町にて熊本侯の御
茶屋も有り温泉も有りて入湯の者も折々は
来る所にて功有る温泉と云人物言語は薩摩よりハ
少し勝れしやふなれとも裸身にて往来せる婦人を
まゝ見かけし事也是らの事にて風俗の賤しきを
察すへし 人のもの云ひかくる時に上方筋中国西国は
アイともヘイともいふに肥後は貴賤ともにナヒ/\と答
つる事にて自身の事もヲドモといふ也買女の通
称をキブシと云ふ何レもきゝなれぬ言故おかしかりき

                 画1

右の外目なれぬ器多しまた国風にて小麦の粉に
て 図2 図3 かくのことくに四文取の餅ほどにしそれを
鍋のうちへ藁をしきて蒸して食事ともし弁當にハ
竹の皮に包て食■せは竹の皮の包ものハ道へ捨る事
にて入レ物ハ便也貴賤とも弁當は右ことくする故に
竹の皮のミち/\うちちりて有る也豊後より是迄ハ
竹は自由の所也薩州にても肥後につゝきし所地面
よく肥後の水股より八代川尻の辺まて地面よく
五穀のそたち草木まて中国筋にかはりし事なき
風土にて綿も作る所有りあしき国にはあらす

肥後にても町場にては旅人宿と称せる家有りて修
行者はいふに不及猿引ことふれまても木せん廿四銅の
定メにて止宿せる事也薩州と此国はかり旅人宿
と称して乞食まても極りの木銭を出せは止宿
自由なるは他国になき国制なり
八代は熊本侯の一太夫知行三万石長岡何かしの居城治ニ而
大概よき城にて薩摩口の堅メなるへし
八代川よほとの大河にて求摩の人吉まて十六り
余川ふねの往来(有り)
小なるひら城にて天守も
なく外見大概図のことく

   図4

相良侯の御旅館有り是ハ
川舟にて下り給ふ所に止宿有る
館と云之八代は古き所にて市中凡
五千余軒の地也然共辺鄙の町ゆへに
諸品自由ならす扨此在/\におゐて名産
と云蜜柑の木を見るに紀州の蜜柑木とは
異にして大樹也 大ひなるは疊之二十疊之敷も有り それにても若/\しき見事なる
ミかんのおひたゝしくなる事也紀州にては若木ならてハ
見事の大なる蜜柑の実くさるゆへに古木を切捨て次第
て次第/\につきほをして若木はかりを植る事なるに
此所にては古木の大樹ならては見事なる蜜柑実
のらすと云々地の利其地のよしあしによつて実なれ
は経済の心あらん人は地の善悪を見其地によく
生せるものを下民に植させ地の利を残りなく
とりて後世のたすけとなし度もの也

宇土は熊本侯の御分家細川 御在所にて大概の
所也昔時は小西摂津守在城せし城にて城地なりしに
今は城と見ゆるやふになく御館ふか/\と見ゆるのミ也
町場/\に隠し買女有り初に云ギブシと云或人の物
語りに古語也今世に藝子藝者といふ通称は
百年此かたの事にて伎舞子と書し古き書有り
といひき

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