津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

海坂藩の地図

2005-01-28 17:19:11 | 歴史
 藤沢周平最晩年の著作「静かな木」は、小作品三篇のものだがそれぞれが本当
にいい味を出している。もっともっと読者を、楽しませていただきたかったけれど・・ 
落語家の立川談四楼が、巻末に「海坂藩の地図」という小文を載せている。
読者の頭の中には海坂藩に地図がはいっているというのである。藤沢作品は9割
方読破しているが、私はまだそこまで至っていない。読みようが浅いのか。
誰か「貴方が思う、海坂藩の地図」を募集してみたらどうだろうとフト思った。

追記:後で知ったこと 井上ひさし氏がどうやら地図を作ったらしい。「見たい」
   そして 映画「蝉しぐれ」の公式サイトがなかなか良い。 1/28 21:05記
    http://www.semishigure.jp/html/unasaka.html
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中村甚左衛門の先祖

2005-01-23 15:46:50 | 歴史
 中村甚左衛門という人は、細川幽齋が田辺城に籠城したとき、密命をうけて城を出禁裏への使いを果たしている。「中村甚左衛門田辺城籠城御使者一件」に詳しい。甚左衛門の息の時代に忠興の命により、沢村大学一族と親類同様の交わりをするようにとの思し召し受け、また沢村姓を名乗るようにとの命があった。綿考輯録なども伝える処である。沢村家の先祖附は、この中村甚左衛門を初代としている。

 ぴえーるさんがダイアリーに、「中村一氏の息は忠一か一忠か」と書き込みをされているのに気がついて、本棚から一冊の本を取り出して眺めてみた。熊本藩士で数代にわたり金春流の能楽の師範を務めた中村家は、中村一氏の二男の流れを汲んでいる。幕末の庄左衛門は郡奉行などを勤めた人だが、26年という長きにわたり日記を認めていた。「肥後・中村恕齋日録」として全十二巻のうち一巻のみだが、復刻されている。肥後藩における幕末期の息づかいを間じかに感じることが出来る、貴重な史料である。この本の中に中村家一族の系図が掲載されていた。

一氏の息・忠一(一忠)は米子十八万石の城主であったが、わずか22歳で亡くなり無嗣絶家している。初名が忠一、後に一忠と名乗ったのだろうか。二男正吉が熊本中村家の祖だが日向高城で討ち死にしている。そして系図はその弟として、正重(甚左衛門・田辺籠城、後沢村姓となる)という名前を記していた。

 沢村氏とは当方サイトを通じてご厚誼をいただいている。早速メールでお知らせしたところだが、まったく偶然のことで驚き入ってしまった。沢村家の系図は甚左衛門から、父・駿府城主中村式部少輔一氏、兄・米子城主中村忠一、そして熊本中村家へと大きな広がりをみせてつながった。また一氏の弟の孫に当たるのが、あの歌舞伎の初代中村勘三郎である。

ぴえーるさんのダイアリーを覗いての偶然の出来事、これだから止められない。
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トップページを改修

2005-01-22 18:18:15 | 歴史
 トップページが余りにもお粗末だったので、改修工事に取り掛かった。
リンクを貼るのがちょっとしんどかったが、ひとまずこれで良しとするか。
他のページも、何とかしなくちゃと思うのだけど、もう手が廻りません。
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大仏次郎「天皇の世紀」

2005-01-21 13:28:38 | 歴史
 ちょっとこの本に用があって、久し振りに本棚から取り出した。
膨大な史料を駆使した、大仏氏の代表作・幕末期のドキュメンタリー著作である。
この本は最終巻の巻末に、240数頁に亘って年表・本文索引・氏名索引・史料索引
が掲載されていて、幕末の史料を探すにはもってこいだ。
残念な事にこの本は、病床の中で筆を置かれ、そのご亡くなられたため完結に至っ
ていない。さぞかし無念であったろうと察せられる。幕末期を舞台にした、このよ
うな壮大なドキュメンタリー著作は、又と出てくる事はなかろう。
一つ残念な事は、氏が「上田久兵衛」に関する史料を御存知なかったことだ。

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「宇土細川家侍帳」に・・・

2005-01-17 18:16:11 | 歴史
「慶安五年辰年・宇土細川家侍帳」を眺めていたら、我が家の係累の人
と思われる人についての記述を発見した。江戸詰めの人で、●杢之丞と
いい五石三人扶持・路地役とある。父親は加左衛門、この家は杢之丞で
断絶したらしい。

 何故一族の者が宇土細川家に・・・・思い当たるふしがある。
我が家は元々は毛利家の家臣だったと言うが、下松(山口県)の居宅に、
「江戸へご上下」される三斎公が、度々休憩の為に立ち寄られたという。
その折に初代兄弟がお目に掛り、槙嶋雲庵や清田石見の斡旋で、児小
姓として豊前に召し出されたという。初代(弟)は三斎の八代入りにお供
したとされるが、病身であったらしく嶋原の乱への参加もない。
この初代は本姓磯部を名乗ったが、二代目は母方の姓●を名乗って今
日に至った。三斎の死去後二代目は本藩の禄を頂戴している。

先の●加左衛門は我が家の二代目の弟ではないのか。
宇土支藩の立藩に伴いお供をしたのではないのか。

 いずれにしても、宇土細川藩●家は断絶しているので、調べようもない。
また、初代の兄・磯部長五郎(三斎殉死の蓑田平七を介錯)の胤の行方
も知れない。
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お金とるの・・・

2005-01-16 15:59:07 | 歴史
 「御知行折紙拝領筆功の覚」によると、御書出を頂くについては、お金を取
られたらしい。

1、百石下ハ      拾疋 但京銭壱貫文弐拾目ニシテ
1、百石より五百石迄ハ     二拾疋
1、五百石より千五百石迄ハ   五拾疋
1、千五百石より四千五百石迄ハ 銀壱枚
1、四千五百石より壱万石迄ハ  同二枚
1、一万石より上ハ       同三枚  
     右の分御定也
      寛永十九年十一月廿五日 御奉行中  (綿考輯録巻六十・所収)

  いつの世も、せちがらいねー。
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池宮彰一郎の「本能寺」

2005-01-13 20:34:13 | 歴史
 最近布団の中で読んでいるのが上記「本能寺」。
殺戮者とよばれる信長の思いは、本当にそうだったのかもしれないなと、
妙に納得させらてしまう。この遅咲きの作家は、次々と佳作を発表して
いるが、いずれの著作も斬新的な解釈で面白い。
「私の好きな著作者ベスト10」に加えようかなと考えている。
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住宅地図

2005-01-12 10:55:42 | 歴史
 ご一新前、熊本市内の今では一等地にわが家はあった。当時の住宅地図がそれ
を教えてくれる。今では大きなデパートが建っているあたりだ。熊本城は眼前にある。
道を挟んで東側には、ご大身の大きな屋敷がつらなっている。白川の上流から取り
込まれた水路があったらしく、その末端部に当たるこのあたりを水道町といって、そ
の名残を地名に留めている。

新熊本市史の「別冊・地図絵図編」は、貴重な地図絵図を沢山掲載しているが、ゼ
ンリンにも劣らぬ住宅地図が載せられていて、頭やすめに覗いていると大変面白い。
道路の状態は今でも殆ど変っていないし、地図を片手に現場を訪ねてしばし佇み往
時のことに思いをはせるのも、また一興である。

 この一等地の百数十坪の土地を今所有していれば・・・と思うのだが、所詮藩から
借り受けたものでる。曽祖父の代から、幾度となく転居しての現在地は、残念ながら
熊本城を望むことはできない。
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同田貫考

2005-01-07 12:39:25 | 歴史
 昨年末、あと数日でお正月という日に義兄が亡くなった。
その義兄が一振りの刀を持っている。あの剛刀「同田貫」である。
義兄の家は、同田貫を造った刀工小山氏の末裔だが、住まいしていた処はか
って作刀をしていた場所で、いまでも裏の畑からタタラで作られた鋼の残滓が
出てくるという。かって私も一度だけその「同田貫」を見たことが有る。
身幅がやや広く反りが少ない、いかにも実戦向きのその刀は、鈍い光をたたえ
てずっしりとその重みを私の手に伝えた。
1月6日の地元熊本日日新聞は、刀鍛冶同田貫が造ったとする江戸末期の火
縄銃「同田貫銃」を、玉名市立博物館が購入したことを伝えている。
5月には「同田貫」の企画展が、同博物館で開かれるという。ぜひこの眼で確
かめたいと思う。
この剛刀同田貫についても、わがサイトで何らかの形でアップしたいと願ってい
たが、力が至らず義兄の急死に遭遇し、いささかの悔いを感じている。

http://lets.kumanichi.com/kumamoto_rena/simen/02/040526/

ちなみに、胴田貫と表記しているものが多々あるが、同田貫が本当で、殆どの
刀にそのように刻されている。
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新春雑感

2005-01-02 12:01:22 | 歴史
 そろそろ孫たちがやって来る。その前に箱根駅伝を気にしながら初書込み・・・・

去年のわが家は、長男に待望の男の子が誕生(十三代目)して一安心、でかした・・
一方このブログが縁で、玄祖父(上田久兵衛)を同じくする、スウェーデン在住の
Jakobsson上田香さんと出会い、彼女の来日に際しお目にかかることが出来た。
その後はすっかりメル友、そして膨大な玄祖父の未解読(原本・東大史料編纂所に
寄贈)日記のコピーを頂戴した。そしてその解読のお手伝いをすることになった。
漢文で書かれているため、文字をなぞるだけで意味の読み解きまでには至らない。
タイピングは70数頁に達したが未だ15%位の進捗状態だろうか。
しかし、読書百遍なんとやらで、何度も読んでいると次第に理解が進んでくる。
そんな文章の中に、曽祖父や曽祖母の行動が垣間見られ、驚きと感動に満たされる。
はたして何年かかるか分らないが、なんとか読み解きたいと思っている。

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