津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

追い廻し田畑

2013-07-31 10:09:14 | 史料

 熊本市内のいわゆる飲み屋街に「追い廻し田端」と呼ばれた所がある。現在では通称栄通りといっているが、地名が示す通り追い廻しの馬場やその南側に低湿地が広がる田畑で、侍町(現在の下通り界隈)と一線を画していた。
馬の調教・教練などを見物しようと人などがあって不都合なことも多かったようである。文化二年の記録に次のようにある。

          追廻御馬場山崎之方土手筋垣加■方不宣候付、御掃除方より丈夫ニ御手入致出来候處、間ニは垣を破り入込候者も有之段相聞、
          御所柄不埒之至候、依之以来心得違之者無之候、家来/\末方ニ至迄不洩様精々被申付候様、尤廻り役或ハ御掃除方見■之者
          より右躰之儀見當り候は不及遠慮姓名等承糺シ、様子ニ寄候ては直ニ押方いたし、其段相達候様及達置候、此段一統可及達旨
          候條左様御心得、已下例文
                    十月                   御掃除方御奉行中 
 

付けたし ■は熊本独特の文字で「扌編にメ」と書く。島根県立大学の「e漢字」でも見ることが出来ない。

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齊茲公御家督とその後継者

2013-07-30 18:50:17 | 歴史

 治年公の後継・齊茲公の家督についてはいろいろ問題があったらし事は以前書いた。治年は正室遥臺院(埴)の弟・宇土藩主立禮を養嗣子としたのである。

家督後の「齊茲公天明八年御家督之上御書」の他に、「今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也」とする七月廿三日付の文書がある。
                                                                    (度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19」

    我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
    然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々之掟
    は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

家督の時期、先代治年の三人の男子嫡男年和は九歳、二男應五郎は五歳、三男淨丸はすでにない。上記文書には「應五郎成長迄之内は・・・」とあり、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆している。嫡男年和でないのが不思議だがその理由の詳細を知らない。年和は廿歳、應五郎は六歳でなくなり、次の代は実子の齊樹へ引き継がれることに成る。
齊茲の正式な文書として後継者を應五郎としている貴重な史料である。 

 

   +---宗孝==重賢---治年--+==齊茲---齊樹===齊護
   |                |
   |                +---年和
   |                |
   |                +---應五郎
   +---重賢
   |
   +---清源院
        ∥
   +---興里
   |
   +---興文--+---埴(治年室)
            |
            +---立禮(齊茲)
            |
            +---立之----------------------立政(齊護)

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「選定図書」に・・・

2013-07-30 09:12:09 | 書籍・読書

 皆さまは「選定図書」なるものをご存知であろうか。その目的は「公共図書館・学校図書館・公民館図書室などの読書施設に図書情報を提供すること」であり、日本図書館協会が行っている。年間6万点にも及ぶ新刊書籍の中から、約15~20%が選定図書として選ばれている。

そんな中に「肥後藩参百石米良家・堀部弥兵衛の介錯人米良市右衛門とその系譜」が選ばれた。いささかの関わりを持った私としても、大変うれしいニュースであった。

       私はと云えば我が家の歴史にまったく興味を持たない子供たちの為に、仮題「細川家家臣・擬作壱百石我が家の歴史」を書き始めた。
         これは我が家の忘備録みたいなもので、日の目を見ることは100%ないのだが、上記著書に触発されてのことである。

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世減の規矩

2013-07-29 11:46:51 | 歴史

 「世減の規矩」についてお尋ねをいただいたので、改めてその概略をここに記す。

宗孝公の不慮の死により家督相続した重賢公は、入国早々の宝暦六年閏十一月次のような「達」を発している。

     士中知行代々相續之儀、大體當國之高に應し古代之定有之處、中古より我等に及迄新知家禄等も總て世禄に申付來候付、
     當國不相應之高に至り、後來勲勞之者有之とも可賞禄乏ク數世背前代之本意候、依之慶安二年以前之知行は舊故之家ニ
     付無相違相續せしめ、右以後之新知は代々相續之高を斟酌し可申付候、尤子孫抜群之功勞によつてハ舊故之家に准し、或
     ハ子孫の材(ママ・才)能によつてハ強に世減すへからす、新地(ママ・知)加禄之儀ニ付ては近年申渡置候趣も有之候條、何レ
     も為存申聞置もの也
              宝暦六年閏十一月御印 

これにより慶安三年時新知の家については次のように改められた。

                             慶安三年以降新知の家(旧知の家は対象外)
                             5,500石~4,500石  500石減
                             4,400石~3,400石  400石減
                             3,300石~2,200石  300石減
                             2,200石~1,200石  200石減
                             1,100石~ 600石  100石減
                               500石~ 150石   50石減
                               100石新知       御擬作 という風に各家の家禄が減らされた。

慶安三年というボーダーラインは、「慶安年間を以て治乱の境界」とし、旧知の家は「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」であるとして一線を引いている。
「宝暦四年此ヨリ減候知行・60,094石程、同28,770石程、右同蔵米擬作取・30,610石程」とある。減知約12万石、重賢の宝暦の改革の第一歩である。 

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祖父廿歳のときの書状

2013-07-28 17:24:56 | 徒然

 

                                                                                                            

中路文書を調べていたら、なんと我が祖父さまの手紙が出てきた。消印がはっきりしないがどうやら明治23年のものらしい。とすると祖父さま廿歳のころのものであり宛名は中路信吾殿となっている。文中に克堂(佐々友房)のことが出てくるが、下働きでもしていたのだろうか。
佐々は西南の役では熊本隊に属して活躍するも捕らえられ、明治12年(1879)1月まで入獄、その後同心学舎(後の済々黌)を設立した。15年には政治結社・紫溟会が結成され顧問となり、明治22年1月熊本国権党を組織し帝国議会の開設に当たり衆議院議員に立候補して当選を果たしている。その翌年の書状である。

祖父は後(1899~)に東亜同文会の平壌日語学校の校長を務めるのだが、学校と東亜同文会の関係が切れた後も、1911年まで何らかの形で学校を存続せしめ関わっている。国立教育研究所紀要(昭和63年3月号 第115号)に掲載されている稲葉継雄氏の論考「旧韓末日語学校の日本人教師」によると、「日露戦争にも積極的行動を興した国士」とある。私が二歳の時に亡くなっているのだが、彼の生き様は要としてつかめない。そんな中でのこの手紙は貴重なものであった。破棄されずに残された中路家関係者に深甚なる感謝を申し上げる。 

 

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番太日記から「ほんおとりの事」

2013-07-28 13:01:20 | 史料

前かとは町方の女子共七つ八つより十三比の子供、六月ぼんおどり、さらしのふりそてにさがらしとゆふて、すそ迄帯をさがらかし、むらさきのをりざきをかぶり、新町より古町におとりかけに行、又古町よりおとりもとしにくるなり。もしおどりもとしよふえんにん(延引)すれは、行て又おとる。其時あとにてのうた。
 ○おとりかけてもや、もどさんもの/\は、川原こしきの乙〃娘、みつよ夫よりはら立てもとしにきて又かけてもどる。
  六月中たがいにもとしつ、かけつするなり。七月に入れはやむ。
   (おとりのあとに心中つくしゆふておどる)
 ○かのみなもと頼光は大江山なる鬼神のたいじ、それをついでに花見の心中。
 ○かのけいせいのとふ山は、松の位をシロジロ(四郎次郎)ゆへに、今はやりてとなり行心中。
 ○十三鐘のはる姫は、鹿をころせしそのとがゆへに、今は十三かねつくしんしゅ アヽソコラレセイおどり一つひとつのの合手 まへは文やふし。
        其比、中唐人町に三よしや善六殿と■(脱字)人、上るり(浄瑠璃)義太夫ぶしはしめにて、かたりならひに行、しんせふ(身上)もひけければ、
        自分に綿売にいてられしゆへ、心中つくしにおとる。始は大綿屋なり。
 ○ 職人町の善六は、ふといしんせよを上るりゆへに、今はわたかごいなるしんしゆ アヽソコラレセイ 
        善六殿は夫より八代に数年ゆき、上るりにてもふけ(儲)出し、びんつけねりならい、又徳ほう丸を仕ならひ、もとりに柏屋ろう(蝋)をかい、びんつけね
        られしゆへ大はん昌。其時分八代に多くろうさらし(蝋晒)有、其内に柏屋が極々上なり。夫よりむすこ小善殿は坪井立町に出見せ(店)して是又はん
        せふ(繁盛)。かうしん(荒神)様の筋むかへなり。 

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スイゼンジノリ

2013-07-27 21:06:54 | 徒然

 スイゼンジ(水前寺)ノリは、細川家から将軍家への献上品とされた貴重なものであったが、寛政の終わりころには既にその生産が危うくなっている。
本場熊本でも一時期絶滅の危機が訪れたが、現在では水前寺の下流域の水の綺麗な嘉島地区で栽培がなされている。
現在ではその保水力の素晴らしさが認められ、多方面での応用がなされ脚光を浴びている。

    寛政十年御達
    近年清水苔立之乏相成、御献上御用差支候ニ付、色々手入等も被仰付候得共、其験も不相見次第ニ相滅可申様子ニ有之、右之通ニて御献上御用
    指支候様成行候ては難相済事ニ付重畳及吟味候處、何れニ川内荒レ候所より立方滅候と相聞候、依之神水村下川内苔 兼々釣魚留榜示建置候處
    猶又為見違さる間近ニ建方被仰付候條、右榜示内ニて歩釣堅ク不仕様ニ、若犯禁之輩ハ見■役并川方小頭苔師共之内より姓名承届相達候様及達
    置候條、自然心得違之面々等無之様可及達旨候、此段御同役へ御通達、御組々えも可被成御達候、以上
          九月                                 御郡方御奉行中

 
                      奥方が商売をしている取扱い商品もこのスイゼンジノリが使われていて、おかげで私は飢えずに居られるという訳で・・・・感謝 

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季節はずれですが・・・・「たつ」のこと

2013-07-27 18:22:49 | 熊本史談会

 文政十二年五月の達に次のようなものがある。

貮尺(約60センチ)以上のたつ揚申間敷、且又大人加り申間敷との儀付ては去年も別紙之通被及御達置候處、近来又々心得違之もの有之、大人交り大ナルたつを揚候様子相聞、途中往来之妨ニ成候のみならす、御侍其外刀差ニ對し無禮之儀等出来候ては、別て難相濟事候處、去年御達之趣猶又市中一統不洩様申示候様、廻役よりも彌以無油断遂吟味候様被仰付旨、尤當時菜麥収納之折柄ニも有之候付、近在抔ニ罷出妨ニ成不申様ニとの儀も精々申示候、町中え及達候事

 「たつ」とは「凧」のことだが、二尺以上の大きなものは揚げてはならないというのである。番太日記を読むと「たつあげ」が随分流行っていたことが判る。

春はよふ気うへにのほるゆへ、うへをむけいきをつかするゆへ、身の保養になりそく才なり。其ゆへに辰(たつ)をあけさする。又娘子にははね羽子板にてうへをむかせいきつき、はねをつくなり。たつ殊の外はやり方々にたゝみ壱枚敷、又二枚敷のあり、方々にあけに行。見物人多し。古かぢや町松屋達磨殿のたつは、たゝみにつもり八丈敷程有。其比本山村に鉢ち僧主休西とゆふ大ぼうずあり。是をたつにつくる。みな人休西だつとゆふ。夫にさし渡し四五尺のとふ(尾)五ツゆひつけあくる。其音きんごふ(近郷)はひゝき渡り、糸は細引のよふにあり、四斗俵に結つけおけば米を引きて行也。米俵にこしかけ見物する。扨おろす時■■(虫損)しんとふしておろす。方々畑作をそ■■願にてきひしき御法度になり、もし■■其時分にわやく咄あり■■御役人松屋にかよふなる辰をつくる■■松屋殿私の儀は御用達にて御座候と申上られたれは、御役人しからは手のだるまで、あけらるべしと被仰候とゆふはなしあり。(以下略)

 たつを揚げるにしろ、羽子板ではねを突くにしても「上を向く」ことでけいきを付かせるというのだが、面白い考えである。二尺以上はご法度と云いながらも、たたみ八丈(畳)敷きとは恐れ入る。番太日記は原本は失われ明治二十三年に書かれた甲斐道隆氏の書写によるものが残されている。内容は幕末の物だと推察されるが、文政の「達」からするとずいぶん後代のものであろう。 

 

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奉公人について「口上書」

2013-07-26 19:00:42 | 史料

一 例春御家中下々奉公人出替之儀、男ハ二月二日、女は三月十日出替可被申付候、地居及旅へ被召仕候給銀高、其外共連々及沙汰趣を以被申付、
   違背之者於有之は急度御奉行所へ可被相達事
一 例年之通、増奉公人相渡申筈候條、被召抱度面々ハ、例年之通被相願候、増奉公人給銀當時迄三拾日宛て候へ共、五拾目宛可被相渡候事
一 増奉公人、人置所より割付抱被申候面々、其奉公人先早連村方へ差越何某へ有付候段村庄屋へ相答、村庄屋より何村奉公人何某、受人何某/\
   との書附を取相達候上、右庄屋書附前之通無相違様抱差出調て、人置所へ可被相達事
一 人置所出入割付差越候節、夫々屋敷尋合不申も有之由候間、熊本居在宅之面々共、望指出被相達候節、右指出ニ屋敷所附を調加エ可被相達候事
一 増奉公人割付有之候節、人置所より之手札ニ召抱候との裏書區々ニ有之、紛敷様子も有之候、依之以来御城代衆以上ハ、乙名役より裏書調之致判
   形、人置所げ指出可申候、組外衆以下ハ銘々裏書ニて判形有之、人置所へ可被指出事
一 二月二日、奉公人暇指出、人置所へ被相達候節、向後は其奉公人共え右指出を持せ、人置所え可被指出候事
一 後年共右之通仰付候ニ付、来年よりは相觸不申候、尤出替之日限又は給銀之欠銀等違候ハゝ、其節ハ可及沙汰候事

            寶暦六年正月                          御奉行所 

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国家と大衆芸能・軍事講談師美當一調の軌跡

2013-07-26 06:42:45 | 書籍・読書

 細川家家臣尾藤家は尾藤金左衛門を初代とする大尾藤家(3,000石)とその分流小尾藤家(150石)がある。
この本の主人公は小尾藤家の藩政時代の最期の当主・尾藤権之助(友雲)である。
「弓馬の家に生まれながら遊芸人の真似をするなどけしからん」と、親戚・知己・朋友は大反対したと一調は語るが、自ら平民に身を落としてまで鑑札発行をえて、美當一調の名を以て出発するのである。尾藤を美當としたところに、彼の苦悩がみてとれる。
その活躍ぶりは本書を読んでいただきたいと思うが、天皇の前で語るという栄誉を得ている。
 

 

                      

                                三弥井書店発行 7,500円

 

日清・日露の戦争談を語った軍事講談師、美當一調の生涯と、戦役を語る講談、浪花節、浪曲を通して大衆への軍国教育をめざす内務省や軍部など、国家と大衆芸能との関わりを美當一調を中心として、歴史的に解説した本。

【目次】
浪曲史における美當一調
一 一調の生涯 従来の一調像/通説の再検討
二 軍談語り美當一調 軍談師一調/日清戦争談/偕行社講演/北清事変談/日露戦争談
三 軍事教育家尾藤新也の誕生 慈善活動/軍談語りから軍事講談へ/軍事教育家尾藤新也
美當軍談をめぐる人々
引用文献
あとがき

著者 安田宗生(熊本大学大学院社会文化科学研究科教授・文学博士)


 

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皆さまもご注意を

2013-07-25 07:04:40 | 徒然

                                            血圧 正常値・適正値、成人における血圧値の分類。収縮期血圧、上の血圧。血圧上。拡張期血圧。血圧下。下の血圧。至適正値、正常血圧、正常高値血圧、I度高血圧、軽症、II度高血圧、中等症、III度高血圧、重症、出典:高血圧ガイドライン2009

 昨日所用で出かけた所に血圧計が置かれていたので腕を突っ込んでみた。163・88 と出た。 
下の方はまあまあだが上が高い。中等症のⅡ度高血圧である。これはちょっとまずい。次の六つに注意が必要とするが・・・・・・・

     ・減塩       これはこの時期だから少々取りすぎかもしれない。
     ・栄養素     最近はベジタリアンである。
     ・減量      BMI=体重(kg) ÷ {身長(m) X 身長(m)}   25以下が望ましいそうだが25.9とやや高い。あと2~3キロ落とす必要あり。
     ・運動       運動不足、減量の為に4キロ散歩を再開しようかと思っているが、ひざが大丈夫かしら・・・・
     ・節酒       若いころはうわばみだったが、現在は優等生
     ・禁煙       禁煙して30年位かな・・・

毎日厳しい暑さが続いていて運動不足は否めない。もう少し長生きしたいので生活習慣を改善しようと思っている。

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河方家系図

2013-07-25 06:23:41 | オークション

 オークション(ヤフオク)に細川家家臣・河方家のものとする系図が出品されている。下図をみるかぎり接点が見いだせないが・・・・・

                       ★肥後熊本藩細川家家臣★河方氏家譜/古文書/系図./2.4メートル

 

                  ★肥後熊本藩細川家家臣★河方氏家譜/古文書/系図./2.4メートル

 ちなみに熊本の河方家は以下の如く松下民部少輔述久を家祖としている。勘兵衛という人物の名前も確認できない。さてさて・・・・・・・・・・・・・

    1、松下民部少輔述久
          
或記に松下民部小輔述久、古今箱禁裏に持参仕候由、田辺御出城の刻も御忠節申上候と云々、
        何れもいふかし、右松下は加茂の神主の弟也、述久は従五位下、禁裏に勤居たり、鞠歌の御伽として、
          幽齋君御懇に有之、内々御和睦をも御取持仕候段は、先祖附にも段々書加来候、後に五百石にて御家
          に来、
                    (綿考輯録・巻五)
         
参考:時慶記に消息が見える (ブログたわごと日録2006/5/13項参照)
              慶長5年、2/5、3/19、3/22、8/25 慶長7年7/9、10/19 (時慶記 第二巻)
         参考:玄旨公(幽齋)より松下民部への御歌 (盤桓随筆・巻42所収)

    2、松下掃部助(安右衛門)
          
其子松下掃部助事河方安右衛門と改、曽我丹波守殿妹を忠興君御養女に被成、被嫁之、其後
          代々御奉公相勤・・・・・                    (綿考輯録・巻五)

            二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・河方安右衛門
          
原城にて武功被賞 御加増五百石 十五年七月比カ (綿考輯録・巻五十)
    3、河方半四郎(安右衛門) 
            有吉頼母允組 五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
            御詰衆・十一番西山八郎兵衛組 五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)

                                  以下略
   

 

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亡くなる年の正月の書状から

2013-07-24 05:48:31 | 歴史

 寛永十八年正月五日の息光尚宛て忠利の書状(抜粋)

   當春目出度申納候
  一 寒之内我等気色為見廻被越飛脚椎小俵壱ツ・筋子一桶被越候 爰元珍物別而満足申候 旧冬十二月九日之書状具披見申候
     寒中我々気色能日々鷹を使食事も能進申候 今以其通り候間気遣有之間敷候
        (六項目 略)
  一 松平出羽守殿屋敷火事出来候由被申越候 雲州へ飛脚進候事
  一 十二月七日阿部豊後殿ゟ留守居共御評定場へ差出可申候由被仰越付而須佐美権丞遣被被申候處ニ加〃爪民少・山崎権八
     申渡候ハ江戸廻火事之事之時火元ニ人多ニ候而猥ニ有之様ニ被聞召候 火事之儀ニ付而前廉被仰出御座候弥相守其旨向
     後御役人之外猥人を出間敷之旨壹万石已上之留守居衆へ被仰渡候よし得其意候 其元弥万事堅可被申候事
  一 井掃部殿へ十二月五日ニ御成被成御機嫌能御座候つる由掃部殿拝領物并進物之書付別帋ニ被指越見届申候 就夫御成前ニ
     八代蜜柑掃部殿へ遣被申候處ニ奏者請取不申其後掃部殿ゟ状参候よし承届候事
        (二項目 略)
  一 我々下屋敷しき臺間之内繪なと書金ニ仕義讃岐殿へ被尋様子被申越候 又讃岐殿ゟ其方へ之状被越得其意候事
  一 三齋様弥御息災其方へ旧冬之御返事参候間此度遣候 又奥(保壽院)へ歳暮之銀子如嘉例被遣候間可被届候 奥之気色其外
     何も無事由珍重候 又鷹之壱・わな一并塩鴨五十分之身進し候 尚追而可申候 恐々謹言
          正月五日                              (忠利)
               肥後殿
                  御返事

     猶/\八代へ年頭之御礼ニ参候事十五日過候而可被参候由被仰越候故あなた次第ニ仕候以上
     沢庵御座候うらの山ニいちこを植させ可進候と御約束申候つる時分も二月初可然かと存候間何方ニ而もほりよせ植候而可進
     之候 

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半井通仙死す

2013-07-23 21:57:49 | 史料

 細川孝之の舅・半井通仙の死に関わる記事がある。寛永十六年卯月十八日付忠利から肥後(光尚)への書状

      半井通仙遠行之由候 其方被召連候馬乗被被申付為香典銀廿枚此書状ニ相添半井琢庵へ吊ニ我等ゟ
      使者遣候由被申付遣可被申候 銀子ハ佐藤少左衛門所ゟ渡候得と其方ゟ被申付候事 

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一行の記事から・・・半井氏

2013-07-23 07:21:35 | 歴史

 寛永五年(カ)九月三日の忠利の書状に次の記事がある。

         休斎御内儀并小万湯治之由得其意候叓

休斎とは忠興の弟・孝之である。かつての豊前香春城主(25,000)である。この時期は忠利から三百人扶持を与えられている。小万とはその娘(小笠原民部室)であり、寛永十三年に亡くなっている。休斎内儀とは通仙院瑞策(半井氏)女である。
上記の記事は、「休斎の内儀とその娘でが湯治に出向くことについて了承した」というのである。母子二人が仲良く湯治に出かけた(小万の療養の為か・・)ことが判る。細川家の事を調べ出して7~8年に成るがどうやら見過ごしていたらしい。細川家と半井氏の深い繋がりは姻戚関係に及んでいた。

さてこの通仙院瑞策とは曲直瀬道三の孫にあたる半井光直のことである。寛政重修諸家譜から半井氏を勉強しなければならない。

 

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