津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

待たれるエッセー

2007-03-29 23:08:40 | 徒然
 吾がサイトでご紹介している「コーヒーブレイク・エッセー」のK氏は、堀部弥兵衛の切腹にあたり介錯を勤めた米良市右衛門のご子孫である。米良家のご一族の愉快な話は、氏のエッセーをお読みいただくことにする。昨日いただいたメールに興味深いことが書かれてあった。堀部家のご子孫に会われたとの事である・・切腹した人とその介錯を勤めた人の子孫の出会いである。随分以前のことだが、ある方のご紹介でお会いになる機会があったらしいが成就しなかったらしい。ある方とはサイト「赤穂義士資料館」のS氏、(サイトは故あって小休止されている)。そんなS氏の顔の広さが伺える今回の出会いであった。楽しみはエッセイストK氏が必ずやチャレンジされるであろう、このことに関するエッセーである。不思議なことに上野介の治療にあたり、又首を縫い合わせたという栗崎道有とも、たどりたどれば関係がお有りらしい。??不思議な「首」つながりだが、私は「首を長くして」エッセーの出来上がりを待つことにしたいと思う。
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今日の熊本は・・・

2007-03-28 23:07:46 | 熊本
 薄墨色の深い霧の中に風景が埋没している。いつもならば川向こうに朝の陽光を受けて輝くビル群も、今日はわずかにそのシルエットを見せているだけである。今日の熊本の朝は、数十メートル先さえ見えないような深い霧に見舞われた。太陽が昇り時間がたつにつれて気温も上がり、日中は汗をかくような暖かさ・・・あちこちの桜が一気に蕾を膨らませ、週末あたりが満開なのだろうか。築城400年の熊本城も賑わいを見せることだろう。
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覚書いろいろ

2007-03-25 14:11:02 | 歴史
 「覚書」とは・・・国語辞典(岩波)によると、「忘れないように書いておくもの」と素っ気ないが、歴史史料としての「覚書」は大変貴重なものである。

  加藤清正事跡について
     清正高麗陣覚書 下川兵太夫
     清正松雲問答
     魚住道庵覚書
  田辺御籠城に関するもの
     北村甚太郎覚書
     田辺御籠城記
     中村甚左衛門田辺籠城御使者一件
     宮村出雲覚書
  ガラシャ夫人の生涯に関するもの
     おしも覚書
     小須賀覚書
  天草島原の乱に関するもの
     有馬討死之面々子孫相続之覚帳
     有馬御褒美之面々子孫相続之分覚帳
     唐津以来之覚書  吉村郷右衛門季行 
     島原天草之儀付覚書
     志方半兵衛覚書
     仲光半助覚書
     並河太左衛門覚書
     山田右衛門作申上覚
  生田又助覚書     細川宗孝の江戸城内御災難に関するもの
  石井茂助覚書     藩内の裁判事件について
  興津才右衛門覚書   軍陣に関すること
  神足掃部青龍寺城にての覚書
  上月文右衛門覚書   旧福島政則臣・広島城明渡しについて
  佐藤伝三郎覚書    林外記を打果したことに関する記録の集めたもの
  鷺絵源三郎覚書    三斎公御茶の湯・見聞筆記録
  沢村大学介覚書    「三斎公御軍忠之儀・・大学書付上ヶ候写」
  沢村大学殿覚書    軍中種々の心得
  青龍寺丹後国以来之面々覚帳
  志水宗加覚書
  志水新之允覚書    水戸様御屋敷火災の際の、
             酒井内記火消し衆との大喧嘩の経緯
  荘林隼人覚書     
  浄勝寺善慶父子武功覚書
  竹内吉兵衛覚書    小西行長の家臣としての戦歴
  忠興公御勲功之覚
  旦夕覚書  堀内傳右衛門  寛文享保時代の武士生活など
  続亀之助覚書     自身の戦歴 明智光秀臣・・石田光成臣・・細川家
  中山宗俊覚書     幽齋公御家系、秀林院様御事、飯河肥後が事など
  長瀬助之進覚書    「妙応院様御備頭え御茶被為頂戴候節御意之覚」
  丹羽亀之允言上之覚  忠興公逝去後の八代家中諸侍の動静
  野田喜兵衛申伝之覚
  堀内傳右衛門覚書   赤穂義士に関するもの
  堀部家覚書      赤穂義士に関するもの
  牧丞太夫覚書     細川忠興の武功を書いたもの
  松山権兵衛覚書
  三尾屋彦右衛門覚書  肥前龍造寺と嶋津中務との合戦の次第 
  幽齋翁聞書 佐方宗佐
  横山藤左衛門覚書   戦国時代合戦覚
  渡辺作之丞覚書    砲術
  
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罰当たりめが

2007-03-21 19:51:49 | 熊本
 若干古いニュースだが、小笠原家のお墓の墓石が倒されていたとの報道があった。60数基の内の約半分との事だから悪質である。細川家の墓所泰勝寺にほど近い処に、ガラシャ夫人の黄泉の国までもお供しようというのか、小笠原少斎のお墓とその子孫の墓がある。10日ほど前の地元TVでの報道であったように記憶するが、発見した地元の人たちが旧に復されたという。
わざわざ訪ねようとしても分かり辛い場所だから、近所の「悪ごろ」の仕業だろうが、それにしても悪戯が過ぎる。警察にも本気で対応してもらいたいものだ。・・・罰当たりめが・・・爺様は怒っている。
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初お目見え

2007-03-18 14:03:19 | 徒然
 サイトを通じてご厚誼をいただいているT氏が、都合五日間の取材のために来熊、昨日の夕方初めてお目にかかり、旧知の友人の如く数時間の楽しい時間を過ごした。氏のご先祖様は、幽齋公と田辺籠城を共にして戦われた名誉の人である。田辺籠城衆の後胤の方々の発見は、そのほとんどが氏のご努力によるものである。氏の家系の枝葉の研究は精緻を極め、今回の熊本訪問の全ての時間を、その研究取材のために費やされる。その忙中閑の楽しいひと時であった。氏の来熊を歓迎する如く良いお天気が続いている。今日も某家を訪ねられて古文書と向き合っておられることだろう。氏の情熱的な勉強振りには驚嘆するし、敬意を表する次第である。県外にお住まい(芦屋市)の氏だが、氏からもたらされる貴重な情報をお伝えするのも、私の務めであろうと思っている。ビッグニュースが到来する予感がする。
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文化十三年御侍帳・・其の弐

2007-03-11 14:52:08 | 歴史
 一寸興味をそそられて知行高ランキングを作ってみた。
  
   30,000石  長岡帯刀(代々御家老・松井氏)
   18,500石  有吉織部(代々御家老)
   15,000石  長岡監物(代々御家老・米田氏)
   10,000石  長岡図書(御一門・刑部家)
   10,000石  沢村宇右衛門(沢村大学後胤)
    6,000石  長岡内膳(御一門・内膳家)
    6,000石  小笠原美濃(小笠原備前家・ガラシャ夫人殉死少斎の後胤)
    5,500石  大木相馬
    5,000石  沼田勘解由(細川藤孝室麝香の実家)
    5,000石  三渕永次郎(細川藤孝の実家)
    4,500石  柏原新左衛門
    4,000石  清水縫殿(細川綱利生母・清高院実家)
    3,500石  堀 平太左衛門(宝暦の改革の立役者・家老、大奉行)
    3,200石  松井直記(松井分家)
    3,000石  氏家志摩(氏家卜全の後胤)
    3,000石  郡 九郎太郎(三渕家分流)
    3,000石  尾藤多賀之允(秀吉黄母衣衆尾藤知宣の後胤)
    2,800石  藪 内蔵之允
    2,800石  有吉市郎兵衛(有吉家分家)
    2,800石  溝口蔵人(小笠原多宮家分流)
    2,700石  朽木内匠(三渕家分流)
    2,700石  有吉清九郎(有吉家分流)
    2,700石  木下平馬(日出藩主木下延俊の弟の後胤)
    2,000石  田中大助
    2,000石  松野 匡(大友宗麟の後胤)
    2,000石  木村万之允
    2,000石  平野九郎左衛門
    1,900石  岩間此面(武田信玄の後胤)
    1,900石  小笠原求馬
    1,800石  片山多門
    1,800石  続 繁也
    1,800石  松野八郎右衛門
    1,600石  宮村典太
    1,510石  寺尾志馬 (1,050石カ)
    1,500石  岩越椿十郎
    1,500石  津川一八(管領斯波氏の後胤)
    1,500石  松野亀右衛門(大友宗麟の後胤)
    1,500石  松下清蔵
    1,500石  三宅藤兵衛
    1,500石  志水孫七郎
    1,400石  山本三次郎
    1,400石  沢村才七郎
    1,356石余 横山寿七郎
    1,300石  長岡岩之助
    1,200石  出田作左衛門
    1,200石  奥村弥左衛門
    1,200石  斉藤勘助
    1,200石  志水久馬之助
    1,150石  長谷川七兵衛
    1,150石  益田弥一右衛門
    1,100石  藤崎作右衛門
    1,100石  須佐美十右衛門
    1,000石  西山大衛(足利将軍家の後胤)
    1,000石  遠坂万助
    1,000石  大河原次郎九郎
    1,000石  小阪半之允
    1,000石  鎌田軍助
    1,000石  楯岡七左衛門(最上家の後胤)
    1,000石  谷 権右衛門(田辺城攻め谷氏の後胤)
    1,000石  津田平助(織田信長の後胤)
    1,000石  中村進士(中村一氏の後胤)
    1,000石  中瀬助五郎
    1,000石  中根典助
    1,000石  松山形馬
    1,000石  牧 新吾
    1,000石  芦村冨雄
    1,000石  志水繁助
    1,000石  嶋田嘉津次(1,200石トモ)
    1,000石  下津久馬(下津棒庵の後胤)
    1,000石  住江次郎吉
     950石  上月半下
     900石  堀尾仙太(堀尾茂助の後胤)
     900石  落合弥次兵衛
     900石  高見権右衛門
     900石  宮川慶蔵
     850石  堀 吾右衛門
     800石  磯野又之允
     800石  額田和多利
     800石  神谷源助
     800石  寺本八左衛門
     800石  佐分利権兵衛
     800石  日隈助之進
     750石  小林右七左衛門
     700石  堀 尉右衛門
     700石  堀部右角
     700石  冨田小右衛門(有吉家分家)
     700石  筑紫佚助
     700石  田中為助
     700石  沢村八郎次(佐衛門)
     700石  弓削新助
     700石  三宅八郎右衛門
     700石  嶋 又左衛門
     650石  稲津久兵衛
     650石  河喜多次郎左衛門(ガラシャ夫人殉死河喜多石見の後胤)
     650石  松尾亀次
     650石  木村善九郎
     600石  井上新之允
     600石  林 勘左衛門
     600石  吉住半四郎
     600石  田中小左衛門
     600石  上田宇兵衛
     600石  八木弥次郎
     550石  兼松群太
     550石  兼坂藤右衛門
     550石  曽我三郎兵衛
     550石  仲光善左衛門
     550石  荒木助左衛門(荒木村重の後胤)
     512石余 寺本亀蔵
     500石  丹羽源吾
     500石  沼田子之助 
     500石  奥田小佐衛門
     500石  柏原弥七左衛門
     500石  加藤仲五
     500石  金森格助
     500石  加来七郎左衛門(宇土藩主細川有孝生母お三の方実家)
     500石  河方文次
     500石  吉田次郎左衛門
     500石  吉田淳平
     500石  吉津 仲
     500石  田中平右衛門 
     500石  都築次左衛門 
     500石  松野善右衛門 
     500石  松崎卯平次 
     500石  的場宇兵衛 
     500石  藤本次郎左衛門
     500石  藤田勝助
     500石  不破大作 
     500石  上月平右衛門 
     500石  佐藤仙右衛門
     500石  沢村八郎次
     500石  貴田権内
     500石  三野長右衛門
     500石  水野久左衛門
     500石  水足勘助
     500石  志水一学
     500石  白杉少助
     500石  平野太郎左衛門
     500石  須佐美素雄      
     
         以上(知行高が同じ者についてはイロハ順表記)

500石以上の知行取りは計138人、給地の合計は255,478石となった。
15%にも満たない人が、62%を越す給地を得ていることが分かった。
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文化十三年御侍帳

2007-03-11 09:51:11 | 歴史
 文化十三年の御侍帳「肥後細川様家中御知行扣・全」によると、927名の名前がいろは順に記され「(い)○○家合計○○石」と表記してある。計算してみるとその惣高は408,990石余となる。平均すると440石余である。「度支彙凾」によると、文化八年の給地高は407,296石とあるからほとんど差異はない。ちなみに蔵納高は309,154石であり、現高は716,000石余となる。文化十一年の侍帳の6,799人との差が余りにも大きすぎるが、5,800余人の扶持は微々たるものであったろう。
 平均高が440石というのは驚きだが、あるデータによると知行高500石以上の人177人の(人数割合20%)の給地合計は、314,773石(給地割合68.1%)というものがある。
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文化十一年「御侍帳」

2007-03-10 23:51:17 | 歴史
 肥後文献解題によると、文化十一年の御侍帳は惣人数6,799人だという。これによると御知行取1,123人、御中小姓370人、残り5,306人は軽輩以下とある。これはぜひ見てみたいと思うのだが、はたして何処にあるのだろうか。なんとか「有禄士族基本帳」と、結びつかないかと考えている。
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近況

2007-03-08 22:52:53 | 徒然
 1、「有禄士族基本帳」頑張れのメールを数件戴き感激
 1、サイトについて取材の申し込みあり・・・柄じゃないからお断りする
 1、田辺籠城衆のご子孫T氏17日来熊、初めてお目にかかるがもちろんお顔
    も存じ上げない。楽しみ楽しみ・・・
 1、わが愛犬「ごえもん」が満18歳の誕生日を迎える。
    人様だと100歳を越えたか?
 1、一旦停車違反でパトカーに追いかけられた。7000円也
 1、花粉症で鼻水たらたら・・・鼻のまわりガバガバ・・・
    目はドライアイみたい
         こんな状態ですが、どうやら元気です
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細川家の「武田信玄の孫」

2007-03-04 10:44:30 | 歴史
 細川忠利の正室は、小笠原秀政の女千代姫である。千代姫の生母は徳川家康の嫡男信康の女であるから、千代姫は家康にとっては孫娘、故に息秀忠の養女として忠利に嫁がせた。輿入れにお供したのが、武田信玄の孫にあたる武田六兵衛であり細川家臣となった。後の「岩間家」である。かって訪ねた本妙寺横の広大な花園墓苑の中に岩間家のお墓がある。2メートルを超える大きな墓石が、真四角にお互い向かい合うように立ち並んでいるのは壮観である。六兵衛の父(信玄の嫡男)義信は、正室が今川義元の女であることから、信玄に疎んじられ死に至る。武田家の没落に伴い、幼い六兵衛は母親とともに落ち延び、小笠原家の援助を受ける。家名「岩間」の所以は、武田家家臣岩間大蔵左兵衛正頼の養子となっていたからであるが、この岩間大蔵については面白い話がある。合戦に出ると怯えて癪を起こすという随分な臆病者であったようだ。信玄は「人は使いようだ」と、大蔵を「隠し目付け」とした。大蔵は家中の万事に心配りして信玄に報告したという。由緒ある家は明治にいたり、家名を旧に復する事があったが、岩間家は「武田」を名乗ることはされなかったようだ。しかし、お墓の家紋「武田菱」は誇らしげに見えた。

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「肥後文献解題」

2007-03-03 22:32:21 | 書籍・読書
 私が所有する本は昭和61年の新訂版だが、元々は昭和31年日本談義社から発行されている。著者はあの上妻博之先生である。熊本県立図書館の「上妻文庫」でいつもお世話になっている。この「肥後文献解題」をみると、私の道楽も「チャンチャラおかしい」と上妻先生に言われそうな気がする。ページをめくっていると、あれも見たい、これを読みたいと思うのだが、とても読み切れる量ではない。あと十年元気で頑張ったとして、どれだけのことが出来るのか・・・・。それにしても上妻先生という方は凄い人だ・・・。先生の偉大な功績に報いるのは、その史料を多いに活用することだろうと思う。PCのトラブル以来ちょっと気合抜けしている自分自身に鞭を入れなければいけない。
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赤ちゃんポスト

2007-03-01 23:35:36 | 徒然
 熊本のある病院の「赤ちゃんポスト」が、全国区の賑わいを見せている。このことの是非は事が難しすぎて私にはよく分からない。厚労省はOKの意向のようだが、安倍総理が反対の意向を示した。熊本市長は厚労省の意向を受けて、前向きな考えのようだ。結構じゃないか。総理が反対だからといってびびる事はない。まさに地方自治の手本と成るような決断が望まれる。
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