津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■すみれ

2014-03-31 10:38:21 | 俳句

                                    菫程な 小さき人に うまれた志  漱石

 熊本市立京陵(けいりょう)中学校の前に、夏目漱石の句碑がある。
この場所は豊前街道への出口に当たり、沢村家(大学吉重流)の屋敷があった。広大な屋敷は京陵中学と、裏手の熊本大学付属小・中学校の校地になっている。
明治29年第五高等学校に赴任する夏目漱石は、池田駅(現・上熊本駅)におりたつと、新坂をのぼりこの場所を通り豊前街道をよこぎって寺原方面へ下りはじめる。
そして眼前に阿蘇を遠望する緑豊かな景色を愛でながら、「熊本は森の都だ」と感嘆したのだという。 

藩政時代には豊前街道添いには勢屯があり道向こうには、家老有吉家の下屋敷があった。そして京町口の構が設けられ夜には有明燈がともされ番人が昼夜を分かたず詰めて通行人を監視していた。現在はここに交番があったりして思わず笑ってしまうのだが・・・・

さて漱石の句碑だが、これが建てられたとき孫聟にあたる作家・半藤一利氏が除幕式に出席されている。半藤氏はこの句を漱石の傑作の句の一つだと言っている。この句の意味するところはいささか難解であるが、わたしは句の末尾の「し」を「志」としたところに、漱石の深い思いを感じる。
この句は30年に作られたとされるが、この頃から、市井にあって自由に生きていきたいという志を決意した句ではないかと、私は勝手に解している。
前を通る小中学生がこの句碑にどう対してくれるか・・・・(京陵中学は、わが三人の子たちの母校である)

                                 

                                              

                                                                  近所の路傍の決まった場所で、毎年健気に小さな菫が顔を出してくれる。

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■清田家の杏葉紋槍

2014-03-31 10:00:16 | 歴史

 昨日は大坂夏の陣で一番鑓の功名をあげた、清田石見守七助に係る珍しい甲冑をご紹介した。その時の活躍ぶりは次のように記録されている。

           * 大阪落城之趣、---被仰遺言候五月七日之御書
             一、鑓つき申候者共、一番ニ七助(以下略)
             一、七助鑓ハさきをつきまげ申候(以下略)
           * (大阪御陳)手ニ合候者--七月朔日御饗応、御褒美被下候
             知行二千五百石・御腰物直綱 鑓を合、高名は無之 (綿考輯録・巻十九) 

清田泰興氏からは甲冑の写真と共に、銀象嵌の杏葉紋が裏表二面に打たれた朱塗の長柄の槍の写真も頂戴した。長さは3mを越えるという。
七助殿も同様の鑓を振り廻して高名されたのであろうが、この鑓先を突き曲げたというのであるから、その戦闘のすさまじさを想像させる。

いつか嘯月閣にお邪魔をして拝見したいと思っている。 

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quiyota xichisuque(清田七助) ・ 二

2014-03-30 11:58:49 | 人物

先に quiyota xichisuque(清田七助) を書いた。熊本歴史学研究会の2013年7月発行の「熊本歴研 史叢 第17号」に掲載された、清田石見が大坂夏の陣における一番鑓を賞されて忠興公から贈られた具足である。当ブログで是非ご紹介したく思い、筆者の清田泰興氏にお手紙を差し上げこの度掲載の快諾をいただいた。厚く御礼を申し上げたい。

誠に見事な眼を見張るようなデザインである。忠興公がお召しになっていたものに手を入れられて、大坂夏の陣の功労に対して贈られたものであろう。
当時としてはめずらしいquiyota xichisuque の文字がデザインされ、兜には清田家の家紋・大伴一族の「杏葉紋」が見事に配置されてすばらしい。
拝見した人たちはさぞかし驚き入ったことであろう。現物は享保年間に焼失したというが、残念の極みである。
             (尚この写真は花岡興輝先生からのご提供であり、その謂れは清田家の研究者であられる狩野輝巳氏ご所蔵の佐方文書による。)

清田家の御先祖様については幾度となくこのブログでもご紹介してきた。この度資料も頂戴し、大友家と深いつながりがある清田家の家系などを委しくお教えいただいた。当方でかねがね考えていたものとほぼ合致するものであり、下にその略系図を記しておく。
清田家は細川家との係わりが濃密で、そのDNAは忠興と側室・圓通院(清田鎮乗女・幾知)の子、立孝(宇土支藩祖)・興孝(刑部家祖)の両家に現在も脈々と受け継がれている。
また細川宗家も齊茲公・齊護公が共に宇土家から入られているから、同様のDNAが受け継がれている。
加えて言うならば現当主・護煕様の母方の御実家・近衛家もまた、文麿公夫人千代子様は子爵毛利高範の二女であり、この毛利高範が宇土細川家の出身(養子)である。

 

    大友宗麟-----●(ジェスタ)
             ∥
          清田掃部鎮忠----+--鎮隅
                     |
                     +--五郎大夫
                     |
                     |              ガラシャ       (1)                    (8)     (10)
                     |               ∥-------------忠利・・・・・・・・・・・・・・・・・・齊茲・・・・齊護
                     |             細川忠興                     ↑    ↑
                     |               ∥       +--立孝(宇土細川家)・・・・・・立禮・・・・立政    
                     |               ∥--------|
                     |               ∥       +--興孝(刑部家)
                     |           +--幾知(圓通院) 
                     |           |         
                     |           | 石見守   
                     +--主計鎮乗----+--七助乗栄 (室・忠興妹伊与の娘)
                                  |                    
                                  +--与三右衛門(刑部家附)  
                                  |                   
                                  +--左近右衛門

 

氏は元日本航空の主席パイロットで日本一の滞空時間記録を持っておられる。今は現役を引退され、ご自宅の横浜と、熊本のご実家(嘯月閣)を行き来しておられる。
そのご実家は熊本市指定の有形文化財に指定されており、貴重な古文書十点も同様の指定を受けている。
              清田家住宅・熊本市の文化財 

また熊本日日新聞の 生活情報紙「あれんじ」公式サイトでは、清田家並びに泰興氏について詳しく紹介している。

春・秋に見学が可能との事であるから、ぜひともお尋ねをいただきたい。

 

 

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■細川家の借金、金主は万姫様

2014-03-29 07:31:28 | 人物

      一、万取替候銀子貮百貫之儀米ニて必御返候へと申儀ニてハ無之候
         銀子にて返弁一段能候へ共若調りかね候てハとの事ニ候 何にて
         成共貮百貫目之都合元利御返候ヘハ事済候事

寛永二年十月十六日付忠利宛て三齋書状(抜粋)である。忠利が妹・万姫(烏丸光賢簾中)から借り受けた銀子の返還を三齋を通じて求められている。 

さきには三齋が忠利に借金の申し込みを貮百五十貫頼んだことを書いた。(寛永十年二月廿四日付忠利宛て三齋の書状)
「金一両=銀50目」として5,000両としたが、この数字を使うと今回の万姫への借金は4,000両ほどという事に成る。それに金利がついているというから、莫大な金額である。
三齋の万姫に対する愛情は、その知行の大きさでも判る。2,000石である。烏丸家の俸禄は1,000石だというから、その倍である。細川家と烏丸家の代々に亘る良好な関係は、細川家の財政援助がもたらしていることは自明の事である。
万姫様はその莫大な財産の故も有って、当時の京都の女性の浪費家の三本の指に入ると、熊倉功夫氏はその著「後水尾天皇」で指摘している。そして万姫様は、この件に限らず細川家借金の最大の金主である。 

お金貸します も出所は万姫様であることは間違いない。

寛永十二年九月七日・書状 これは忠利から河喜多五郎右衛門に宛てた書状の抜粋だが、ここにも借金の記録がある。

又、二日後の 九月九日書状案によると、細川家はの金銀不足は江戸城普請役を仰せつかっていることによることが判る。とうとう忠利は、三齋を通じて妹の万姫に泣き付いている。万の子供達の分も借り上げようというのであり、事は深刻である。

         まん銀子之事申越候此方より直ニ申候てかり候筈ニはや申合せ候事
         万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、
         万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とてじだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事

じつは三齋も万姫から三千両の借金をし、こちらは返済することなく他界した。この時は万姫が度量の大きいところを見せて、金はよいから「御道具成とも被下候様に」と、養女・お佐舞(初代宇土細川藩主行考夫人)に申入れをしている。           http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/20166512a0bc7f7e276b4fedc4e56986

これ以降も天草島原の乱や、長崎への外国船来航の警備出役など膨大な出費が細川家を苦しめた。
慢性的な手元不如意は、宝暦の改革で一時期改善されたものの、借金返済が滞り「細川家は怪しからぬお家柄」などと噂された。
鍋・釜などを買ったさいには、紙に「細川」と書き貼りつけると、金気がとれるなどと揶揄された。
この様な状況は藩政時代を通じ改善されることは無かった。
 
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■様変わりする市中心部

2014-03-28 09:55:09 | 熊本

                                 

 この図は随分以前に発表された、桜町・花畑町界隈の開発計画図である。

右手に見える広場は現在産業文化会館がある所、8階建ての建物と隣接する民間の建物の解体撤去工事が始まり、今年中くらいには更地に成ってしまう。
その上部に有るこんもりとした木立がある所が花畑公園(かつての花畑邸の一部)、そのすぐ先にNHKの建物の建築が始まる。
熊本には熊本城天守閣の高さを越える建物の建築は制限されているが、どうやらこれを越す高さの建物が出来るらしい。(放送塔か?) 

この図の左手の一連の大きな建物が描かれている場所にある、デパートや交通センター、同ホテル、サンコー本社やボーリング場、駐車場などが再開発され、国際会議等の開催も可能な大会議室を備えた、複合施設建設の動きも始動し、この辺りは面目を一新することになる。

実際はこんな建物が考えられているようだ。

      001_20140110210428bfd.jpg

 

 また、路面電車の通りを挟んで南側にあった肥後銀行本店は、現在取り壊されて新築工事が行われている。(下図)
こちらはそう遠くない時期に完成だろう。
木々に囲まれた銀行らしからぬ建物になりそうだ。図の奥に日本銀行熊本支店、右手にRKK熊本放送局(阿部一族の屋敷跡)がある。 

 【出典元】→くまもと経済プレス(PDF)

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松寿庵先生 第92講

2014-03-28 07:24:22 | 史料
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さて、どうしましょう・・・・・

2014-03-27 14:25:38 | 新聞

7月から9カ月間休館へ 県立図書館

 
 
 県立図書館(熊本市中央区出水)が改修工事に伴い、7月から約9カ月間休館する。現在地に移転開館して以来初めての大規模改修となるが、26日の県立図書館協議会では、休館中の対応策を求める意見が相次いだ。

 県立図書館は1985年に同市中央区千葉城町から移転し、熊本近代文学館を併設して開館。約30年が経過して老朽化し、貴重資料などの保存環境が悪化しているため、隣接する熊本近代文学館の機能を拡充するにあたり、図書館内にも貴重資料収蔵庫を整備するとともに、館内空調設備を全面改修する。

 県によると、休館は図書館が7月から2015年3月ごろまで、文学館は7月から15年度後半までの予定。県立図書館協議会の委員からは、利用者への休館の周知徹底を求める意見のほか、「臨時の仮設図書館を設けるなど、休館中も一部サービスを継続してほしい」「市町村や学校など他の公共図書館と連携し、利用者への書籍や資料類の情報提供に努めてほしい」など注文が多く出た。

 一方、「休館期間をどう生かすかが大事。市町村など他機関との連携強化や、図書館利用を推進する取り組みを考える期間としてぜひ活用してほしい」「個別資料の保存方法も見直してほしい」といった提案や意見もあった。

 県は現時点で、市町村への配本や出前講座など、施設外で提供できるサービスに力を入れる方針で、「休館中にどのようなサービスを提供できるか検討を進める」と話している。(浪床敬子)
 
 
                                さてこの間、どう過ごしたものかと今から思案している。

 

 
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■秀頼公御ふらせ候ハゝ・・・

2014-03-27 06:19:33 | 史料

 寛永八年という年は誠に不思議な気象現象がつづき、細川家史料にも多く書き残されている。
この年は。豊臣秀頼の十七回忌の年という事も有って、書かれている記事もいささか腰が引けている感じがする。
実は以前 寛永八年の天変地異 を書いたのだが、五月廿六日の忠利宛て三齋の書状が欠落していたので、一部重複するかもしれないがご紹介したいと思う。

一、日坂ゟ佐世之中山あたり臼井近所之山ニ砂糖ふり候由終ニ不聞珍敷さにて候事
一、去八日江戸かミなり雨にて八王寺ニハ大あられふり孤子狸とひからす数もなく打ちころし候 御鷹場ニ候故鳥けた物御城へ持て上候由是も奇特成儀候 
   あられの大キさ一尺五寸廻未それゟ大キなるも在之由餘之事候 此時鎌倉之海ニて龍水をまきあけ伊豆より通候舟十艘御入候を悉まき上五艘ハ下ヘ
   落人十人たすかるのよし是ハ前代未聞恐敷儀候 残ハまき上られしはらく虚空にわめき候由昔物語ニも無之候 此あたりにも大あられふり家をうちぬき
   死候ものけかを仕候者数多在之由候 不思議成儀候 秀頼様十七回忌殊五月八日にて皆奇特刈り候由我々ハ左様候 秀頼公御ふらせ候ハゝ小米ほと
   成あられにて候ハんと存候事
一、四月六日・五月六日・八日之月有明にて候つる由 爰元も左様ニ候つる哉一切其沙汰無之候 是ハ第一不思議にて候事
一、木曽・飛騨山火出木焼申候由是ハ風吹候ヘハ木と木すりあひ焼申事も御入候 此前一両度も聞申候それハ少つゝにて候 今度之様ニ大焼きとくにて候
   浅草の神木ゟ火出焼申之由猶以不思議成儀候
一、川口之海・増上寺之堂も夜ル/\焼申候由兎角魔の所行たるへく候

まさに奇妙な現象がおこり、秀頼公の祟りとも考えたくなるのだろう。
三齋は否定しながらも、「秀頼公御ふらせ候ハゝ小米ほと成あられにて候ハんと存候事」と書いているのが面白い。  

     
 

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■是は何事・・・・ 中根市左衛門のこと

2014-03-26 19:12:43 | 人物

 いつごろの事か判らない光尚にあてた忠利の次の様な書状がある。内容はこの文章のみである。(熊本県史料・近世編一 p433)

         一筆申候 中根市左衛門事御前相済候哉南光坊へ被
         相尋様子早々可被申越候為其如此候 恐々謹言
                                越中
             十二月廿(日)            忠利 御判
                 肥後殿
                    進之候

 光尚が肥後守を名乗ったのは寛永12年7月23日、この日から忠利が亡くなる同18年3月17日の間の出来事である。
「御前相済」とは一体何事なのか、御前といえば将軍家としか考えられない。

中根家については、ここでも何度か取り上げその出自について調べてきた。 

            
細川家家臣・中根氏
            
細川家家臣・中根氏・・2
            細川家家臣・中根氏・・3
            細川家家臣・中根氏・・4

その出自については、HNぴえーるさんや HN代書屋さんに大変貴重な情報をいただき、その先祖が織田信長の弟(中根忠実)につながることが判った。
そんな家柄からすると将軍家の御前へ伺候する事も有りうるのかもしれない。それゆえ忠利の心配ぶりが理解できる。

その真実とは何か・・・・解決の資料を見つけ出すのにまた相当の時間を要しそうである。 


 

            

 

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■加藤清正の出自と家紋

2014-03-26 08:37:11 | 史料

                                          

  東京大学史料編纂所に「美濃国諸家系譜」というものがある。ここに加藤伊勢守光高を家祖とする加藤清正の系図がある。家紋を虵(蛇)之目と記す。
肥後加藤家は蛇の目紋と共に桔梗紋もあわせて使っているが、これは讃岐城主・尾藤知宣の没落に伴い、武具一式を受け継いだことによるとされる。
この説明には少々舌足らずの処がある。そもそも加藤氏は土岐氏であり以前から桔梗紋を使っている。
尾藤氏没落の時秀吉の許しを得て、加藤家と同じ桔梗紋が施された武具その他を受け継いだと解するべきであろう。

                光高---光虎---虎時---義時---正時---正吉---頼方---清方---清信---清忠---清正

加藤頼方という人物について次のようにある。
                                             

 土岐郡明智城主明智頼常の四男頼方が正吉の婿養子として加藤家に入り、土岐氏の桔梗紋を蛇の目紋と共に使い始めた。
清正は頼方から四代目の孫ということになる。
祖父・清信は若くして死に、ときに五歳であった父・清忠も35歳で亡くなっており、清正を語る時このような正統の出自に触られることがない。

関係する機関のホームページなど、加藤家の出自・桔梗紋使用の由来など正確な紹介をお願いしたいものである。
尾藤家の武具を譲り受け、その桔梗紋が加藤家の紋となったという誤った認識は大間違いである。 

 

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■肥後天草--富岡藩主・山崎家治

2014-03-26 07:38:00 | 人物

 寛永16年のものと思われる、卯月廿七日付山崎甲斐守宛ての忠利書状がある。天草島原の乱後、肥後天草の富岡藩主となったのが山崎甲斐守・家治である。
赴任早々切支丹狩りなどを行い四五人を捕まえたことや、城の修復にかかる苦労などを称えると共に、江戸の情報を伝えたりしている。(熊本県史料・近世編1 p206)
家治は中々の能吏であったらしく、父親の若桜藩(30,000石)を継ぎ、成羽藩(35,000石)から富岡(40,000石)へと移封を重ねる毎に加増されている。荒れ果てた富岡の復興や、城の修復、離散した農民の帰参に尽力し、その功が認められて丸亀(53,000石)藩主となっている。室は池田長政養女(長吉・女)、継室は木下勝俊女である。 


家治の父親の家盛は、攝津三田の城主で慶長五年には西軍に在って、幽齋がこもる田邊城の攻撃陣の一人として働いた。
代々播磨の池田家との婚姻関係がある。家盛などは西軍であったにもかかわらず、岳父・池田恒興のとりなしも有って加増されて初代・若桜藩主と成っている。
祖父は片家、その妹は加藤清正の糟糠の妻、弟は清正の養子と成り後に離縁となった百助である。ウィキペディアを見ると、その妻は明智光秀女とあるが、これは確認のしようがないでいる。

まさに戦国の荒波を乗り越えて名を成した山崎家だが、数代後継嗣たる男子が早世し絶家した。傍流が旗本として明治に至った。

加藤清正に係る家柄であり、田辺城攻撃の一員であり、天草富岡の復興に尽力した人であり山崎家の存在は忘れがたいものがある。

 

                 志摩守      左馬允     甲斐守
       +---片家-------家盛-------家治

      |
       +---- ●
      |   ∥
      | 加藤清正===百助
      |          ↑
       +---百助-------・ 

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■知道会発会記念講演会 ご案内

2014-03-25 13:55:29 | 熊本

                                             論語教育の普及活動に尽力されている知道会が、今般発会を記念して講演会を催されます。
                                              申込が必要です。上記パンフに有りますように ハガキ FAX E-mail のいずれかでお申し込みください。

 

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■ふくろうの狂言のことくにて候こと

2014-03-25 07:24:24 | 史料

先に書いた忠利公の気に成る書状・・・だが、これは主だったところを取り上げ全文を挙げてはいなかった。
この書状の相手は、榊原飛騨守(職直)である。書状の頭書きに「十月八日・同十八日之御報相届申候」とあり、その返事であることが判るが、その日付が十一月五日であり、随分遅いこの返事全体から忠利の気鬱ぶりが伺える。
本当に気に成る書状で、コピーを撮ったりしているのだが、ある一項を書き落としていた。これも非常に気に成る文章である。 

       来年罷下時いかにもかろく可仕由此儀尤至極候
       更ともふくろうの狂言のことくにて候事

上の文章も職直のある意見に対する返答であることが判るが、「ふくろうの狂言」とはいったい何を差すのだろうか?

「ふくろうの狂言」をぐぐってみると、goo辞書に次のようにある。
 狂言。弟のようすがおかしいので、兄が山伏に加持を頼むが、祈るうちに弟に憑(つ)いていた梟が、兄や山伏にまで取り憑く。別名「梟山伏(ふくろやまぶし) 

更に「狂言演目紹介」というサイトを見ると次の様にある。
 
梟山伏 ~ふくろやまぶし~
昔、万物には霊魂が宿っていると信じられ、これを畏怖する心厚いものがありました。精神を病んだ人を「狐つき」と言って怖れたのも、そんなに遠いことではありません。さて、山から帰ってきた弟が、何やら物の怪(もののけ)にとり憑かれたようなので、山伏に加持祈祷を頼みます。 山伏は、難行苦行の果てに超能力が備わり、難病奇病もたちどころに調伏できる者として当時の尊敬を集めていました。この山伏が尊大に構え、いかがわしい呪文を唱え、盛んに祈るのですが一向に効き目がなく、兄まで奇妙な声を出し始めます。フクロウの祟りで気がふれたと見て、ますます精根をかたむけ、印を結び数珠を揉んで祈りに祈ったところが・・・・・(肝心の所が書いてない)
ユーモラスな結末のうちに、権威失墜の一抹の哀れさが漂います。

立場からすると職直が兄であり、忠利が弟と考えられる。
因みに忠利と職直の非常に親しい関係を伺わせる次のような書状がある。
寛永九年六月十三日榊原職直宛書状


さて忠利は職直に対して何を言わんとしているのか・・・・・権威失墜とは一体何なのか
全く門外漢である「狂言」を勉強しなければならない。

どなたかご示教給われば幸甚の極みである。 

 

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■素人治療・・?

2014-03-24 07:24:39 | 徒然

 私は全く経験がないのだが、針治療というものがある。この針治療については、昔忘れられない記事に出会った事があった。
話の出所は「福岡県史・近世史料偏--細川小倉藩」だと思うのだが、いまは見つけ出せないでいるのだが・・・・・

細川藩士・某は、奥方の病を治すべく自ら治療に当たった。なんと咽喉に針治療をしたというのだ。手元が狂って少し深く入りすぎてしまい、結果は奥方は亡くなったというのである。
素人療法怪我の元というが、ここまでくるとそれどころではない。


寛永十三年七月廿七日の、忠利宛て三齋の書状にも針に関する話がある。(熊本県史近世編1・p431)

      腹ニ針立おり候もの共爰元かすえ候へハ五六人御入候 何も我等昨日返事如申ニ申候
      卒度もかまいニ成物ニてハ無之と見へ申候 結句積之ためニハよきと申態おれめをこし
      らへ打こミ候てから態おらして置たる者も御入候 それハ半年程積覚不申由申候へとも
      ならぬ療治とわらひ申候

「積」によいというのだが、「積」とはどのような症状なのだろうか・・・よく判らない。
それは腹に針を立てるというのだが、打ちこみ過ぎないように折れ目を拵えてあるなど、三齋公ならずとも笑ってしまうではないか。
それで半年の治療効果があるというのだが・・・針に委しい方の御見解を伺いたいものだ。   

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■今日の春風景

2014-03-23 22:14:50 | 徒然

今日は昼食後久しぶりに30分散歩に出てみました。
今月に入って血圧が高くて、ふらふらする状態がつづいていてちょっと足元がおぼつかないのですが、陽気に誘われて桜見物と成りました。
道端でスミレを発見してデジカメ撮影、我が家のスミレもついでに御披露・・・・ 

  

     我が家近くの老木の桜・・・5分咲といったところ                こちらは30分散歩道で              

 

  道端の野スミレ

  
  我が家のプランターのスミレ

    同上 白スミレ

                                 

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