津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

安場保和(一平)の刀

2008-06-30 10:06:28 | 書籍・読書
 勝海舟をして「横井小楠門下第一の人物」と言わしめた、安場保和に関する「安場保和伝」を読んでいる。編者の安場保吉氏はお名前から察せられる通り、安場保和(一平)の曾孫であられる。東京大学卒、京都大学・大阪大学の教授を勤めた経済史学者である。この本は、10人の著者が保和が生きた夫々の時代を担当して構成されている。同じ曾孫・鶴見俊輔氏の「安場咬菜管見」が肩のこらない文章でほっとする。

 表紙に安場保和の大礼服を着た一枚の写真がある。よくみると少し場違いに日本刀を手にしている。保和は初名は一平、先祖に同名の人がいる。編者安場保吉氏は「四代目一平にいたって、安場家はいきなり日本史の全面に出ることになる。赤穂四十七士の吉良邸討入りに伴う細川邸での大石内蔵助良雄切腹に当って、一平が介錯を仰せつけられたからである」と記す。

 かって一平の直系のご子孫が「なんでも鑑定団」に、この介錯の刀を持ち出されたことがある。(幾らであったのかは承知しないが・・)保和が手にしている日本刀は、若しかしたら、安場家のお宝とも云うべき、あの大石内蔵助介錯の刀ではないのか・・・。

 編者は、私のような俗っぽい話しには見向きもされていないが、知りたくなるではないか。安場保吉氏はこの本の出版(2006初版)をみられないまま、2005年に亡くなった。
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細川氏動向--兼見卿記から(5)

2008-06-30 09:06:57 | 歴史
天正七年(1679)
■正月十三日:(略)長岡兵部大輔(細川藤孝)在京、滞留清少納言也、先罷向、面会、後刻□□来小笠原会席、参徳大寺殿、盛方院へ貳十疋、□□、同道長兵(藤孝)向南豊軒、貳十疋持参、向長兵(藤孝)、同道牧庵□也、参寶鏡院殿、同道長兵、即御對面、御盃(略)
■正月十六日:長兵求得定家色紙、今日於紹巴所一会張行云々
■正月廿一日:□□□長兵来、焼風呂、佐竹羽州来、□□□□加々入道百首詠之点之事、自旧冬申遣長兵、今夜桃井方一覧之、加点卅五首、此内長(藤孝)一首、及深更相□了、三條亞相此間所労既相極、今明之間也、依此儀長兵□(上カ)洛云々(略)
■二月三日:(略)祇園山本加々、長兵へ名香令約約束到来之間、今日勝龍寺へ持遣之、有返状、山加へ一首送遣わ短冊之間、直持遣祇園了
■六月十八日:長兵来云、今度三條亞相へ傳授古今、依□義在京、今夜滞留、相談了
■六月十九日:神龍大明神社参、齋了長兵皈京、予同道向村長、面会、将碁、向長兵旅宿、面会(略)
■十一月十五日:親王(誠仁)方へ信長殿(二條第)御進上云々
■十二月十一日:(略)攝州荒木(村重)女共、其外七百余人生捕上洛云々、彼女共置此寺之間普請云々
■十二月廿七日:為長岡兵部大輔見廻下向勝龍寺
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思い出せない・・・

2008-06-29 16:55:42 | 徒然
 天正六年四月八日、「丹州亀山惟任日向守(明智光秀)城にて初て興行の一座」での、藤孝(幽齋)の御発句に次のようなものが記されてある。

   亀の尾の みとりも山の 茂りかな

 この句を綿孝輯録で見つけて、「あっ、これにそっくりの句がある」とぴんと来た。
さあそれがどこに有ったのかが分からないで、数時間俳句関係の本をチェックしているが見つけ出せないでいる。
  「□□□□や 緑も山の 茂りかな」 だったように思うのだが・・・

 「これを見つけ出したら凄いぞー」と思いながらも、疲れ果ててしまった。
もし見つけ出したら「見つけましたー」とご報告したい。・・さて見つかるか・・?
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宮崎龍介と柳原白蓮

2008-06-29 13:35:54 | 歴史

 
 明治三十年夏目漱石は小天温泉(熊本県玉名市小天町)の、前田案山子の別荘に遊んでいる。後年ここでの出来事を題材にした著作が「草枕」である。前田家は小天の名士として知られ、案山子は第一回の衆議院議員になっている。案山子の三女が、中国の革命家孫文と共に辛亥革命に奔走した宮崎滔天に嫁いだ。その子供が龍介で、父親が留守勝ちであるため、彼は母の実家である前田家で学校に通い育っている。その龍介と柳原白蓮に関する新聞記事を見て、いたずら心で「略系図」を作ってみた。

 柳原隆光----光愛---+--前光---+--義光(貴族院議員・この事件により辞職)
               |       |
               |       +--柳原(子)白蓮
               |          | | |
               |          | | 北小路資武---●
               |          | |
               |          | 伊藤傳右衛門
               |          |
               |  宮崎滔天---龍介---+--●香織(戦死)
               |                |   ふきこ
               |                +--○蕗冬
               | 一位局
               +--愛子
                   |
               明治天皇-------大正天皇

 白蓮と大正天皇とは、大正天皇生母一位局を通じていとこの間柄である。伊藤傳右衛門という夫ある身での龍介との激しい愛、そして子供の出産など「不良華族事件」として騒がれた。

  柳原白蓮  ja.wikipedia.org/wiki/柳原白蓮
  宮崎滔天  ja.wikipedia.org/wiki/宮崎滔天
  宮崎兄弟資料館  www.city.arao.kumamoto.jp/miyazaki/index.html
  

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改正博物館法に思う

2008-06-28 14:22:04 | 新聞
 平成20年6月11日博物館法が改正されたと新聞が報じている。その要点は、「展示を柱とした従来の役割に加え、住民による研究発表の支援や、教育機会を提供する機能の強化」である。そのために「対応するには、学芸員の質を高める事が必要」として、文部科学省は教育内容の見直す方針を固めたという。
 永青文庫という日本の至宝ともいうべき「お宝」が、人手不足で「死蔵状態」である。民間に門戸を開き、研究者を育てるためにも大変結構ではないか。福田内閣の一番の功績だ・・? 熊本は言わずもがなの財政難で、博物館建設の話しが頓挫して久しい。一日も早くお願いしたいものだが、さて何時のことになるのか・・?
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石垣普請

2008-06-28 13:23:57 | 徒然
 森鷗外の小説「都甲太兵衛」の中に、石垣普請の為の石材の調達に苦労する太兵衛の逸事が紹介されている。(当サイト--津々堂・電子図書館をどうぞ)
この事の真偽の程は定かではないが、鴎外はどこからこのような話しを手に入れたのだろうか。

 この逸事でも分かるように、膨大な石材の調達にはどの家中も大変苦労している。大阪城内に、「あしや」と書かれた細川家が調達した石材が残されている。これ迄豊前の芦屋のものと考えられてきたが、今般兵庫県芦屋市の旧石切り場跡から、細川九曜が穿たれた石が発見され、「あしや」が兵庫県芦屋のものであることが確定的に成ったという。(6/27・熊本日日新聞から)

 巨大な石材が海を越えて運ばれている。豊前領内に芦屋があることから、今までそう考えられてきたのだろうが、どうやら一件落着である。

 蛇足:ちなみに茶道で有名な「芦屋釜」は、これはれっきとした豊前芦屋(福岡県遠賀郡芦屋)の産である。   www.town.ashiya.fukuoka.jp/hp/page000000400/hpg000000336.htm
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重成の子孫

2008-06-28 12:50:13 | 歴史
 鈴木重成という人がいる。天草の代官だった人だが、命をかけて(本当に切腹した)天草の窮状を幕府に訴えた。天草の人にとっては神様である。
 
     ja.wikipedia.org/wiki/鈴木重成 『ウィキペディア(Wikipedia)』

 「嗣蔭令」は、肥後細川藩の座班を定めたものだが、その中に特別扱いの家が数家見受けられる。「着座」(上・中・比共)十二家である。
その他に、特に「鈴木平十郎・同才四郎・同富八郎・同彦右衛門・同源吾の五家」は、「世々知行取格留守居番頭支配ニ申付候事」とある。
この五家は全て木村重成の子孫である。今でこそ天草は熊本県の一部であるが、鈴木重成が天草代官であったように、幕府直轄地である。頭書の如く重成は切腹して、旗本鈴木家は絶家したようだ。その鈴木一族を細川家は召し出した。その経緯は承知していないが、重成の善政が熊本に聞えていた事は疑うべきもない。細川藩もなかなか乙な事をする。

  (嗣蔭令をご紹介しようと頑張っているが、只今進捗率70%、今しばらくのご猶予を・・・)
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右腕痛・・・

2008-06-27 12:17:22 | 徒然
 雨の中を傘をさして歩いて、右手で持つのに耐えられなくなって、左手に持ち直す。処が右腕が固まって下に降りなくなった。激痛とまではいかないが、なんとも不愉快な感じである。毎日沢山の資料をタイピングしているが、どうもそのせいだと思われる。右腕の痛みが慢性化し、おまけに腕の付け根に痛みが出始めた。
 腕をぐるぐる廻したり、按摩をしたりしていると、奥方が怪訝な顔をする。本当の所は話せないではないか。すぐ「歴史狂」を咎められてしまう事は、目に見えている。奥方の「お昼よー」の声が掛かったが、素知らぬ振りをして参らねば成らぬ。しかし・・痛い。
なんだか右の脇腹の方迄痛くなってきた。職業病(?)と相成った。
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合点のいかぬこと(Ⅱ)

2008-06-27 08:50:31 | 歴史
 細川藤孝と将軍義昭の寵臣・上野清信(中務少輔)の不和の原因は、永禄十二年の御所造営の現場が発端である。惣奉行を勤める上野清信の手の者と、藤孝甥・荒川少兵衛輝宗の手の者との喧嘩である。藤孝が収拾に奔走するが、義昭は清信の讒言により「藤孝君を疎ミ給ひ、終にハ可被誅かとの趣にて、御館に御蟄居被成候、此時将軍家より信長江細川誅伐の命を下さる」と綿孝輯録は記す(巻二・p47)驚いた信長は諫言、義昭も「理に服し」たという。

 「義昭公清信を愛せられ候訳は、清信に女子有、甚美にして義昭公是を御寵愛、其上男子なけれはとて、一乗院におはしましける時よりの寵童堀孫八郎と云うものを清信が養子とせらる、後上野大和守秀政と云」(巻二・p48)

                 足利義昭
                    |
 上野清信(中務少輔)---+--●
                 |   堀孫八郎
                 +==大和守秀政----→(細川藩士・郡家)
                        |
       槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)---●

 この様な図式が得られるのだが、綿孝輯録の記述は「清信と秀正を混同している」と考えるのが確かだろう。清信は「義昭公御法体無程病死」とする「室町日記」が真実のようだ。そうすると「合点のいかぬこと」で書いた、(Ⅰ)の項が誤りであろう。---これでようやく合点がいくというものだ。---
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昭和28年の今日

2008-06-26 18:15:12 | 熊本
 毎年の事だが六月廿六日という日は、55年前の大水害が思い出されて気持ちが暗くなる。何もする気がせず、所在無くただ黙然とするのみである。
ブログを書く気にもなれないでいる。
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セメントを撒く

2008-06-25 12:59:40 | 徒然
 十日ばかり前(?)のYahooトピックスに、モスクワ(?)の住宅街に、セメント袋が空から落ちてきた事が紹介されていた。モスクワではいろんな記念式典が催される時、雨が降るのを止める為に上空でセメントを撒くというのである。その一袋が落下して住宅の屋根を壊した。「ほんまかいな」と笑ってしまった。正直「藩校サミット」の当日にやったらどうなっただろうと思ったりする。ロシアが本気でやっているのだから、科学的根拠に副うものだろうが、建築が専門の私としては首を傾げざるを得ない。
 熊本は23日太陽をみたが、前後ずっと雨である。建設業界が不況の中、セメントの需要拡大の為に空に進出しては如何と思ったりする。それにしてもよく降る。昭和28年の熊本大水害は6月26日、55年の歳月が流れたが私のトラウマは消えない。
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合点のいかぬこと

2008-06-25 12:32:05 | 歴史
 綿孝輯録に、槙嶋玄蕃頭昭光(昨日のブログ参照)に係わる「似て非」なる二つの文章がある。

(Ⅰ)上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙嶋玄蕃頭両人ニ而討果申候 
   此儀備後国仙水山合戦之砌と言伝 と云々(綿孝輯録巻二・p70)
(Ⅱ)上野大和守・秀政
   秀政重々の非義ありける故、義昭公御法体以後、槙嶋玄蕃昭光に仰て、泉水山にて誅せられ
   候、秀政は昭光か婿成ゆへ、秀政が子を育ミ置、後ニ忠興君に達して、御家人と被成候、其時
   の御意に、上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰、郡主馬名字をあたへ郡勘右衛
   門と名乗候なり(綿考輯禄巻□・p□□)

 諸資料をみると、上野清信と上野秀政は同一人物とは考えにくい。
名前をさておき(Ⅰ)(Ⅱ)の文章を検証すると、内容は合致しているように思える。
「備後国仙水山合戦」というものの資料がなく、如何なるものであったのか窺い知れないでいる。

 さて槙嶋家の菩提寺禅定寺の資料によると、槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)の室は上野清信の姉とされている。仮に二人が同一人物だとすると、上記(Ⅱ)に「秀政は昭光か婿成ゆへ」とあり、いささかの違和感がある。その遺児を昭光が育てて、後「郡」の苗字に変えさせて御家人としたというのである。(Ⅱ)の郡主馬とは、細川忠興女・古保(長岡佐渡興長室)の生母が、郡主馬宗保女であることから宗保と推測している。(確証なし)
上野清信(=秀政?)に痛めつけられた、幽齋・忠興親子の気持ちが伺えて興味深い。

参考:郡主馬宗保
 細川忠興側室(古保生母)藤(松の丸)の父  
 伊丹親保の子、荒木村重臣。村重没落後は豊臣秀吉に仕え、馬廻り衆三千石。
 大阪陣では西軍において働くも後自害。子孫は黒田家に仕えた。
 村重一族誅伐の折り宗保女、乳母の隠し置き難を逃れ、後織田信澄に仕え、忠興妾となる。
 尚三渕伯耆守(藤英孫)の室は郡宗保母と云う(肥後藩主要系図・三渕家)
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細川家家臣・槙嶋云庵のこと

2008-06-24 19:49:19 | 歴史
 槙嶋玄蕃頭昭光は云庵と号す。雲庵と記するものがあるが「うんあん」と読むのであろう。言庵とするものがあるが「云」が「言」に変じたものであろう。

 綿孝輯録巻二は、玄蕃頭昭光を次のように紹介している。
「将軍家執権職・宇治槙嶋城主、天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う 玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、剃髪の名言庵と云」

 槙嶋家記は、「槙嶋玄蕃頭儀、幽齋様・三齋様御懇意被思召上候訳は、幽齋様、公方義昭公江御奉公被遊候時分、玄蕃頭ハ将軍家執権職を勤め、義昭公今出川の館を修造有し砌、幽齋様御家人と上野清信か家人を争論の事あり、其後清信右之儀を鬱憤に含ミ、幽齋様御逆心有之旨を讒す、義昭公御信用あり、依而玄蕃頭、幽齋様御逆心無之旨を諫、いかれ共讒口猶不止と云々、京乱之節幽齋様御家人屏裡にて旗を振、敵を招き御逆心と見申由、横目言上す此横目を清信共云、其節玄蕃頭、義昭公御前に居申候て、幽齋様兼而之御忠誠何事に依て只今御別心可被遊哉と申上、玄蕃頭直に攻口に参、御様子見届、御別心無御座むねを言上す、其節幽齋様急難御遁れ被遊候よし、右体の訳を三齋様委御存知被成、玄蕃頭儀到て御懇意被仰付候、右義昭公御逝去已後太閤様・秀頼公江御奉公仕候、秀頼公御生害以後、正覚院と申寺中に浪人仕居申候を、三齋様・加藤左馬介殿御両名にて権現様江御免之儀御願被遊、正覚院江三齋様直ニ御出被遊、御国江被召寄候旨申伝候、右上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙嶋玄蕃頭両人ニ而討果申候と云々」
                      
 又、最期の将軍義昭が慶長二年八月廿八日に薨じたさい、「秀吉公より、其旧臣槙嶋玄蕃頭昭光に命し、等持院の御葬送」と、綿孝輯録巻五は記す。

 大日本近世史料・細川家史料(10-462)には、「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」という、寛永八年十月二日書状案がある。
「云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる儀にて候間、被仰出御尤奉存候事」三齋の暖かい思いやりが伺える。

 我が先祖は、そんな槙嶋云庵や清田石見の推挙により、豊前に召出された。
          
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米田家分家のこと

2008-06-24 14:09:22 | 歴史

 代々家老米田家の略系図を示すと次の如くである。

         細川忠利---+--光尚
                 |
                 +--長岡元知---是庸
                             ↓
 橘求政---+--是政----是季----是長---是庸--(本家)
        | 藤十郎・与右衛門
        +--貞正----+--貞之(左兵衛)--→(藤十郎家)
                 |
                 +--貞友(甚左衛門)--→(甚左衛門家)

 元亀元年十一月廿三日、藤孝は米田求政の妻の安産祈願の祈祷の為に求政宅に入っている。求政の継室は藤孝養女(北畠左衛門教正と麝香・妹の息女)である。翌元亀二年青龍寺城中で誕生、藤十郎と名づけられ幼年の間はお側で育てられたという。天正十二年八月には病となり、本復祈願の為祈祷・百韻連歌興行が丹後国橋立文殊堂で行われるなど、藤孝の愛育振りが伺える。成長の後は知行五百石、村上八郎左衛門とともに奉行、その後忠利の元で御家老列、のち「御意に違候儀有之」て知行召し上げとなった。

 寛永六年五月六日「日帳」(福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・二)には次のようにある。
    米田與右衛門尉殿より、吉田縫殿を以被仰越候ハ、私知行被召上候、
    左様ニ御座候へハ私家を上ケ申度候間、御年寄衆談合仕、請取候様
    ニとの儀候、篠崎(規矩郡)三ノ丸辺にて候ハヽ、か様ニハ申上間敷候
    へ共、御本丸同前之やしきにて候間、上申度と存候との事也、兵庫
    (田中氏次)返事申候ハ、修理ハましをたへられ、登城被仕筈候、上り
    被申次第、其通可申候、先心得申候と申候事

 忠利の「御意ニ違候」理由は
    小倉大橋御普請之儀、林弥五右衛門被仰付置候所、人足出し候様ニと
    の儀を弥五右衛門より与右衛門に申候由、然処御印を以不被仰出にハ
    人足出し申間敷旨、兼て被仰付置候二付、その段申聞、人足出し不申
    候、忠利君御帰国之上、大橋御普請遅滞之儀を被仰出候得は、弥五右
    衛門右之訳を委細に不申上、与右衛門人足を出し不申故、御普請出来
    不申と申上候ニ付、御機嫌損し、御役被差除、御知行も被召上候と云々

 つまりは、ぬれ衣を蒙ったわけだが、本家の是季(甥)の元で剃髪宗伯と改めた。三年後62歳で亡くなった。左兵衛、甚左衛門兄弟は部屋住みの内に夫々弐百石で召し出されている。

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梅雨の合間の図書館浴

2008-06-23 18:47:35 | 徒然
 朝から久しぶりの太陽が顔を出した。向こう三軒両隣、待ってましたとばかり洗濯物の満艦飾である。相も変わらず自転車をこいで図書館行き、空気が洗われて清々しい。
某家の資料を探し出してコピーする。横井小楠関係で、三上一夫氏の「幕末維新の松平春嶽」を借りる。又、勝海舟に「小楠のよい弟子といったら、安場保和ひとり」と言わしめた、旧肥後藩士・安場一平に関する著「安場保和伝」にも心が動き借り入れる。
季刊誌「季刊永青文庫」を拝見、購入は出来ないようなので、入手方法を別途ご紹介した。「藩校サミット」の話しが飛び交っていて、頬がゆるむ。皆さん関心がおありだったようだが、如何せん大雨が災いしている。あれで天気がよかったら、会場は入場規制でもしなければいけなかったかもしれない(本当・・)
いい気分でご帰還である。
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