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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・岩波新書 「村 百姓たちの近世」

2015-03-31 21:37:36 | 先祖附
村 百姓たちの近世〈シリーズ 日本近世史 2〉 (岩波新書)
 
             岩波書店

内容説明

古くさい因習の共同体とイメージされがちな近世の村社会。だがこの時代、百姓たちは生産力の主な担い手であり、互いに支え合いながら田畑を切り拓いて耕し、掟を定めて秩序を保ち、時には国家権力にさえ物申す存在だった―。活力あふれる村の生活を丹念に追うことから近世日本に新たな光を当てる、画期的な一書。

目次

第1章 村の景観(村絵図を読む;村の形;郷帳・国絵図の村)
第2章 村の成立(地侍衆と村衆;村造りと公儀;地元を去る者・残る者)
第3章 百姓と領主(村の掟と村役人;法度と掟;相給村から;触書と願書)
第4章 暮らしと生業(四季の暮らし;草肥農業;農家経営)
第5章 開発と災害(開発の臨界;生業が生む災害;自然史の中の社会史)

著者紹介

水本邦彦[ミズモトクニヒコ] 
1946年群馬県生。1975年京都大学大学院文学研究科博士課程単位修得。愛媛大学助教授、京都府立大学教授、長浜バイオ大学教授を経て、京都府立大学・長浜バイオ大学名誉教授。専攻は日本近世史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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■桜に寄せて

2015-03-31 07:18:40 | 徒然

 熊本の桜は八・九分咲と云ったところだろうか、いささか強引だが桜つながりで・・・・・・・・

熊本藩領・豊後の鶴崎の御舟歌に「桜揃」というものがある。(歌詞の改行については出典の通りとした。)
優美な歌詞の舟歌が、音吐朗々船頭衆・水主衆によってのびやかに鶴崎の湊内に満ちたのであろう。
歌詞だけが残り、メロディー(?)が失われてしまったというが、なんとか聞いてみたい気がする。
ある方から、作詞家星野哲郎氏が周防大島のご出身で、お詳しいのではないかとご教示をいただいたが・・・・・・・・どうしたものか 

         桜揃

         やんれ鶯が声にひかれて見れば見し エイ花なり

         けりや初桜 くる/\春にまた咲いづる 花の錦の

         糸桜 彼岸桜にふけんそう(普賢草) エイ御法の花共

         言ゝつべし たい三ぼくに薄さくら エイ色能キ花の

         枝(に)/\ かさねさくらに八重桜 花をあらしの吹く

         とき といてちらすな樺桜 エイ華なき時の

         塩がまは はまて見事なさくらかな さよ姫の

         小桜の 花もどりなるか宇葉さくら ちるをおし

         むか咲かねて いつも盛はおそざく(ら)咲く時わん

         花のかずにはあらね共 エイちるにはもれぬ山桜

         老をなぐさむ花見の酒宴 うたゑは心も

         若木のさくら サン吉野ゝ山を雪かとみれは 行では

         あらで華のふゞきよの 此とさん(土産)に 花は折

         たしのん エイきは 

色々調べていたら宇久須柴区出崎神社舟歌のサイトによく似た歌詞の「桜揃」を見つけ出した。
静岡県の賀茂郡西伊豆町宇久須というところだが、古くからの湊町らしくこのような舟歌が残されている。
遠く九州の鶴崎とも海路を通じての交流があったのだろう。メロディーは残されているのだろうか・・・・・・ 

         桜揃
         ヤンレ鶯の声にひかれて見れば見し花なりけりや初桜
         来る春にまた咲き出づる花の錦の糸桜彼岸桜に普賢象
         御法の花ともいひつべし泰山府君に雲珠桜色よき花の
         枝に枝かさね桜に八重桜花に嵐の吹きとひて散らすな
         樺桜花なき時の塩竈は葉までみごとな桜かな佐保姫の
         小桜の花もとりどり姥桜散るを悔むか咲きかねていつ
         も盛は遅桜咲く時は花の数にはあらねども散るには漏
         れぬ山桜老をなぐなむ花見の酒宴うたへば心も若木の
         桜ヱンヤヨヱンヤヨコノ嵯峨の桜はヨウ散るか散らぬ
         かヲウランイヨホウ嵐こそ知れ花のふヾきぢやヱント
         サンヨ花はをりたしノウ木は高し離れがたなのサンサ木のもとよ 

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■秋葉社参詣

2015-03-30 11:31:51 | 徒然

                                                              表示が秋葉社     表示が観音社

■肥後先哲偉蹟から 竹原勘十郎(紫海)8・了 の最後に登場した、治年公の秋葉社・観音社参詣に関わる記事が面白い。
参詣にあたり付き添う人たちが刀を差すか差さぬかの議論である。

この秋葉社、観音社というのは熊本の花畑邸内にある御社である。はっきりしたことは承知しないが、秋葉社は火伏の御社であろうか。
「御問内同然の御庭とは乍申、ちと廣過候得共、太平也」だから、脇差だけでもよかろうという治年周辺の判断の様であるが、竹原玄路には時代の流れには逆らえないというような寂しさが伺えるようだ。花畑邸内とはいえ、殿さまも御居間から庭下駄でちょっとという訳にもいかないのだろう、用人や近習がついて行くについての帯刀の話である。 
絵図(御花畑全図)にあるように秋葉社並びに観音社は花畑邸の南の端に位置する。現在の花畑公園の東、花畑町13番あたりに成るのではなかろうか。
広大な屋敷の約半分は庭づくりが為されており、ゆたかな木々の森があってその中に両社が鎮座している。
すぐ近くには番所が設けられており、藩主が在国中は度々参詣をされたのであろう。
御居間からか玄関からかどこから出られたのか判らないし、どんな道筋であったのかも窺い知れない。


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■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 8・了

2015-03-30 06:57:44 | 史料

                一、年月は覺えず、爾が事を呵(シカ)るもの、多さま/\に申す者、ケ様々々の事は實なる歟と御尋あり、難
                  有事なり、夫はケ様々々、是は無き事なり、是は實なりと、明白に申上ければ、爾豪気の者故不
                  思に人を呵り、人の悪き事を、目前に恥を與へる様の事可慎、口を守る事如瓶せよと、御呵なり、
                  さて此比は爾が事をよく云、推擧する者多し、加録升進の事を聞、爾いかゞ思ふぞと御意あり、玄
                  路申上るは、人として人として加録升進、不望はあるまじきなり、然しながら、君の御為には命を捨て
                  禄を捨つべきなり、今玄路を御取立なされ、厚禄を給はり候はゞ、専身の為に、さま/\に申上
                  て、御意に入候なとゝ、諸人目を附て、様々の事を、風説致すべし、人傑を得給ひては、大禄を給る時
                  は、人心皆是に目を附て、重ずるなるべし、玄路如き愚昧なる者は、大禄を給はり候へば、人の憎
                  みます/\強くなり、上の成され候事も、彼申上候て取計候など申候ては、君徳薄くなり申候、御
                  用に不立愚人なりと、人の云を、予が本望と存ずるなり、必加録し給ふこと勿れと申上るに、功に随
                  ひ勤に因て、禄を増し席を進るは、君の道なり、玄路申上候は、君の御意は、其人に應じられ候こ
                  と第一なり、於玄路器量もなく、才智もなし、御代に食禄の大恩を報じ奉ん為に、見聞の趣、有の
                  儘に申上候なり、是功と云にも非ずと申上候へば、何ぞ望有之やとお尋なり、若や長壽にて隠居仕候
                  はゞ、微禄の子孫、養兼可申候、其節恵み給へと申上ければ、必五十口を扶持し給はん事を約し玉
                  ふなり、予命つれなく其約を果し玉はずして、遂に空しく成給ふなり、此時の御咄に申上候は、今
                  大功ある人は、大禄を給ふなり、然れども、其禄を傳へて、二代三代に至ては大方馬鹿なり、大
                  禄の者の子計、愚に至る譯は無之候へども、家来の手にそだちて人情を知らず、自然と弱く、必愚
                  になり候、今御定高と申は、其身一代高禄にても、子孫は本知にかへり候なりと申上るに、左迄もな
                  らぬものなりと御意なり    同上(竹原玄路書付)
                一、寛政五年正月、御庭秋葉社観音社、御参詣の節、御先立御用人より帯刀の儀に付、竹原勘十郎方へ
                  問合の返書
                      拝見仕候、秋葉社御参詣の節、御先立帯刀之儀、御不審に被思召候由、依て刀は御止可被成思召
                      の由承知仕候、昔は御庭内部で刀を指申候、近年大通の面々武を忘れ、一本に相成、上も
                      御刀は御持せ、一本に被為成候、大詢公の時、専右の通に御座候、霊感公の御若き時分は、御
                      庭も刀をさし申候、私抔御庭内刀を指し、御宮の木の根抔に、刀を立懸置、御庭迄一本に成、
                      御先に立申候、今世は武は入不申候間、いか様御心附の通、御止にても可然哉、御問内同然の
                      御庭とは乍申、ちと廣過候得共、太平也、御廟も前には指申候、御門脇の石の上に刀は差置
                      申候、是も今は一本に成候哉、扨々太平也、武備の衰、可嘆可嘆、思召次第に可被成候、御尤
                      とは於私は不奉存候、以上       記録

                                        (了) 

 

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■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 7

2015-03-29 11:28:35 | 史料

                                  「堀平太左衛門」の画像検索結果 堀平太左衛門勝名

                一、寛延三年七月、封事を奉りしなり、數多のヶ條を書て、御直に聞召され候はゞ、申上んと、小川貞
                  之丞を以て差上る、夫より夜毎に召出され、子丑の刻迄聞召されし、數月に及ぶ、御次にては、身の
                  上事を申上候歟、又はよからぬ事を、御勘申上るにやと、或は疑ひ、或は恐るゝ者あり、玄路申上る
                  候は、左様の事に非ず、御先代より、御國の風俗、郡村の事、御役人の贔屓を以て、其任に當らざる
                  人を、御用になる事、賄ひを我勝にして、立身する類、其事實を擧て申上る、玄路手の廻らざる事
                  は、同志の人ありて、助け告知する者あり、寛延四年何月か不覺、政治の御話の折節、不慮に大國
                  を領せられ、今更御行當なり、中々御身様の如き、御気薄き上、御病さへあらせられ候へば、御政道
                  などの事は、難き御事なり、なずはならせられずと、御嘆息なり、玄路申上けるは、夫はいかなる
                  思召に候や、御気薄、御病身とて、御自身の御働はなくとも、人を選び、夫に委ねられ候へば、
                  何ごとか難からん、頼奉りしかひもなく、浅ましの御心かなと、落涙仕候を御覧じ、頼もしき心な
                  り、爾後まで、其心を變ずまじき歟、我眼に耻をかゝすなと御意あり、玄路謹て領承し、命を限り
                  と仕るべしと、申上候へば、さらば本心を語り聞せん、つら/\此國の人を見るに、名利の慾専に
                  して、始末をとぐべき人なし、もしや委任の人有ん歟と御意あり、玄路申上るは、多年心を付て、
                  遠く聞近く交候に、一人も候はず、堀平太左衛門勝名 其時は勝貞 入魂の交を致し候に、此人ならでは、
                  始終を不變に為すべき人なしと申上る、聞召て、余も左は思ふなり、しかし、ケ様々々の事ある由を
                  聞、いかゞや有んと宣ふ、玄路申上けるは、左様の事を申人は、虚俗ならん、思て不言ときは、其
                  事晴る時なし、一人を目附に指添給はらば、玄路参て、虚實を正しく糾て見申さん、若虚にて候は
                  ば、御疑晴れ玉へ、若實事に候はゞ、玄路其席にて指違へ申さんと申上る。爾豪気なり、爾こそ事を
                  遂ましけれ、必豪気を止めよと御意あり、玄路奉命て、勝名小屋に参る、 夜中なり 御不審のヶ條を、
                  有の儘に申述ければ、固より虚説にて一々答へ明白なり、勝名斯る虚名を蒙る事、全く自身行届か
                  ぬ所あるによりてなり、宜く御請は申さぬなりと、怒の顔色なり、早速其由を申上る、夫より君の御
                  心も解させ玉ふ  竹原玄路書付○雑記十三
                   

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■お安く読む・平凡社新書  「君が代」日本文化史から読み解く

2015-03-29 07:44:50 | 書籍・読書
「君が代」 日本文化史から読み解く (平凡社新書)
 
         平凡社

 

内容(「BOOK」データベースより)

古くから詠い、唄われつづけ、明治になって新しい旋律が付け加えられた「君が代」を、日本文化の伝統のなかに位置づけつつ、社会や政治との関わりとともに考察する。「君が代」を不幸な固定観念から解放し、新しい視点のもとに見直す画期的な試み。
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■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 6

2015-03-28 07:12:39 | 先祖附

                一、竹原玄路翁 霊感公(重賢)の御供にて武域に罷たれし時、波風荒くて御船既に顚らんとしければ、皆
                  人色を失ひ、肝を潰しけるに、公と竹原氏のみ、神色自若として、御座しけり、竹原氏斯なん詠せ
                  られしとぞ
                          住吉の岸の光のあらんかぎり
                               身は沈むとも彌陀は頼まじ  以上池松記録
                一、今年正月二十一日、矢部間強谷と云所にて、御狩有ければ、竹原玄路歌に(寛政三年なり)
                          此里に君の御狩ははじめぞと
                               語り傳へん萬代までに
                  國の守の御巡座しけるを拝し奉らんと、老となく若となく、男となく女となく、幼き童部迄も、群
                  り來り、そこにひれ伏、かしこに蹲り、尊き御粧を拝し奉りけるは、身に餘り難有事にありける
                          たぐひなき君の御影を住民の
                               ちまたにみつる御狩野の道
                  御借を祝して
                          はてしなき君の恵に御狩野の
                               草木もなびく千代の春風 
                  竹原勘十郎、波野原にての歌
                          白妙に菊も尾花も打なびく
                               波野の原の秋の夕風
                  年久敷むつみせし友の東にありけるが、肥後に下りて、又東に歸りけるを、詠て送ける
                          老ぬれば又逢時も難き世と
                               思ふ別れぞ悲しかりける
                  堀大夫(勝名)、江戸に旅立玉ふを送りける
                          事を執る人の心のます鏡
                               くもらば拂へ塵の世の中
                          すなほなる道な迷ひそ朝夕に
                               越ゆる山路は霧深くとも
                          いさぎよき心の剣切拂へ
                               迷ひのきづな世にかゝる時
                  安永の比、竹原東上の節、波荒く□船覆りければ
                          住吉の神しすてじば沖津船
                               磯邊によせよ八重のしほ風
                  されども猶浪風やまざりしければ、道を凝るの歌 前に出づ を詠みたりければ、浪風漸く静まり、住吉の磯
                  に船漂い着しとぞ、此事國に申送られしかば
                  奥方返し
                          住吉の神の恵の無かりせば
                               再び斯る言の葉も見じ             吹寄 

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■室津本陣肥後屋と名村氏

2015-03-27 07:02:49 | 歴史
 永青文庫の諸家先祖附には残念ながら残されていないが、名村左太夫なる人物その他子孫・一族と思われるものが侍帳に度々登場する。
又以下に見るように「御書出」も数通残されている。下は私が各史料からまとめたものだが、これによると名村氏は室津の本陣「肥後屋」を預かると共に、肥後藩から百石の知行を拝領していたことが判る。室津には六軒の本陣があったとされるが、その中でも肥後屋が一番大きかったとされる。
史料からすると色々な情報や書状などがここに届けられ、或時は使者をのせ、或時は早舟を出して小倉や鶴崎に伝達されたものらしい。
単なる本陣を管理した人物ではなかったように思われる。

● 名村九大夫    播州室御宿 百石 (於豊前小倉御侍帳) 
● 名村左大夫
    1、左大夫  江戸京大坂衆 百石 (真源院様御代御侍名附)
             百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・佐大夫
    2、左大夫  百石 幡州室津御宿

    何代か不明   他所御合力御扶持方等被遺衆 百石
               
            細川綱利公御書出(寛文元年)百石
            細川宗孝公御書出(享保十九年)百石
            細川重賢公御書出(寛延元年)百石
            名村左大夫知行(年代不詳)
 
名村氏についていろいろ調べていたら、広島大学の鴨頭俊宏教授の次のような論考が公開されていた。

               瀬戸内海の公用通行に関わる情報と播磨室津・名村氏 : 長崎上使御下向の事例を手掛かりに

この名村次兵衛なる人物も室津の人である。大変興味深い論考で、瀬戸内の海路を経て諸藩が緊急の情報を得るについて重要な役割をしていたものと思われる。名村次兵衛と本陣・肥後屋の名村左太夫との接点を知りたいところだし、名村左太夫が100石の知行を頂戴してどのような働きをしたのか、大変興味深いものがある。しかしながら永青文庫の史料には手が届かず、なんともくやしい。
熊大の学生さんが調べてくれないだろうか・・・・・・・・
 

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■松寿庵先生 第136講 (本になりました)

2015-03-27 07:00:42 | 史料
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■翁と河勝

2015-03-26 09:17:47 | 書籍・読書

                                                                      

 細川藩の参勤の瀬戸内のルートを見ていると、赤穂の坂越に船が入ることがある。寛延二年の重賢公の参勤の記録では「しゃくし」と書かれているが、坂越の事である。
「しゃくし(じ)=尺師又は釈師」なのだそうだが、ここには興味深い伝説がある。
秦河勝が「うつぼ船」にのって漂着した地とされ、ここに
大避(おおさけ)神社が建立されている。
うつぼ船についてはUFOめいた言い伝えが各地にあるようで、加門正一著の『えど「うつろ舟」ミステリー』等と云う興味深い著作がある。
梅原猛の著作に「うつぼ舟」シリーズがあるが、その最初の著作が「うつぼ舟1・翁と河勝」である。
能楽の祖といわれる河勝について、世阿弥の「風姿花伝」の一節に興味を抱いた事から始まり、「翁は河勝なり」という一文から最初の著作の「翁は河勝」に至っている。
ちょっと興味をそそるので購入の手配をした。

能 翁 http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_067.html 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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・・うつぼ舟1 翁と河勝 梅原猛 角川学芸出版・・

“翁、摩多羅神、ディオニソス。
中世の神々が降りて来た。その容《すがた》、滑稽で、恐しく、妖しい。
梅原猛の中世―歴史・文学・宗教から読み解く画期的能芸論”(帯文)

“梅原猛に“もの”が取り憑いた。八十三歳。能の創始者・秦河勝は、流されて、大荒大明神という、怨霊となった。その齢、八十三。
梅原猛の初めての能芸論は、秦河勝の悲劇に始まる。
「“もの”が憑かねば“もの”は、書けぬ」―梅原猛自身が怨霊と化して、この「物語」は書かれた。”(帯裏紹介文)

目次:
第一章 大荒大明神になった秦河勝
 {河勝誕生譚―「化人跡を留めぬ」/世阿弥のうつぼ舟―能楽の源流へ/赤穂・坂越・大避神社―うつぼ舟の漂着地・生島/船渡御―ひとつもの・歌船/河勝の孫・東儀氏―先祖供養}
第二章 広隆寺と牛祭と秦氏
 {大避神社「船渡御」・広隆寺「牛祭」―十二日という“日“/蜂岡寺から広隆寺へ―秦河勝の里・葛野/二体の弥勒―宝髻弥勒の秘密/奇祭・牛祭―祭文の奇妙/「天照」の謎―若王子の「天照神力」/摩多羅神と二童子―芸能の神と牛祭り/半跏像と半島の神―「天照」の御正体/秦氏と平安京―薬師信仰とキリスト教}
第三章 川勝一族の里・田原本
 {秦薬寺・川勝の寺―長男・川次の誕生寺/補巌寺・観音信仰の寺―至翁禅門・寿椿禅尼}
第四章 三人翁・奈良豆比古神社
 {日本中世が降りて来た―室町憑依/文献とフィールド―吉川幸次郎と梅棹忠夫/大和の金春―金春欣三氏/おそろし殿―しゅく神を祀る/奈良豆比古神社へ―病平癒の神舞・翁舞}
第五章 呪術としての翁舞
 {三十三身から六十六番―翁舞の誕生/黒男の呪力―業病平癒}
第六章 黒い翁の呪力
 {翁舞を見る―「あげまきやとんどや」/黒い翁の正体―奈良豆比古神社の「黒男」}
第七章 ディオニソスの熱狂
 {翁舞と『悲劇の誕生』―ディオニソスとアポロン/三番叟の異形―コブ持つ黒い翁/宿神―坂・境という“呪場”/林羅山「二荒山神伝」―摩多羅神は神か仏か}
第八章 摩多羅神と芸能
 {師と弟子の秘儀―即身成仏の修法/多武峰の翁―摩多羅神面/太陽信仰―ハスの道}
引用参考文献一覧
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■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 5

2015-03-26 07:28:40 | 史料

                一、一年、君江戸へ御上りの御道中、御馬上に而御通り遊ばされ候、御茶瓣當殊の外後れ申候、素よ
                  り此所は水の少なき處にて、折節御咽乾き、水水と召候へば、御近習衆走り廻り、水を求候へ
                  ども、近邊には水なし、漸御茶瓣當追付奉り候間、御茶差上候處、後れ候とて、御茶道御叱遊され候
                  節、竹原勘十郎漸追付申され、御茶道に申され候は、迷惑致されな、君は御馬にこそあれ、歩行の
                  御供、追付ものか、殊に水なき所とは、君にも兼て知召候、御馬に後れじとは無理なり、斯る時は、
                  馬のばりでも差上よと、うろけに申され候間、皆皆餘りの言様哉とてひそまり居候へども、君に
                  は御聞遊されざる體にて、在せられ候、其節江戸御着即下、上野出火にて、人數差出され候處、御
                  自身も、御出馬にて、火事場へ御乗付遊ばされ、段々御手配、御指圖仰付られ候 中略 餘り御指圖遊
                  ばされ、御咽乾かせられ、水を々々と御意遊ばされ候故、御馬ひしやくに汲、差上候時、勘十郎
                  を御呼遊ばされ、何時ぞや其方が叱りし如く、ケ様の時は、馬のばりにても不苦と御意遊ばさ
                  れ候由、斯る時に恐敷御意にて、皆々承り候者、感入り奉り、泪を流し難有がり申候由  槇集記
                一、御鉢植の花仰付られ候 鉢植甚麁末に有之候間、竹原勘十郎殿、御鉢甚麁末に有之候由申上られ
                  鉢を替申すべしと申上候へば、御意に、勘十郎は鉢を見るか、我等は花を見るぞと御笑遊ばされ
                  候由   同上
                一、竹原翁、堀老(勝名)を進められし初に、御加増は堅く御断申上置れしが、感公(重賢)より再三命ありて、堀もも
                  はや三千石遣したり、其方にも必加増遣すべしとありければ、翁猶も辞せらるゝにより、公御不興
                  気にて、御入遊ばさんと成されしを、翁御裾を引留られ、辞退の理由を陳述されしかば、直に京
                  元吉の御枕刀に左の御書を添て賜りしとぞ
                          夫忠臣進諫者 固不顧其身也 而人主拒諫者 亦不顧其身也    家記
                一、重賢公御前に、或時竹原勘十郎罷出居候處、御袖に虱這ひ居候を、鳥渡取候て捨候處、夫は何歟と
                  仰られ候に付、虫にてござ候と申上候處、いかに細き虫にても、夫々に名はあるなりと御意に付、
                  あけぼの虫と申上候へば、朝虱と云事じやなあと、御意遊ばされ候由     新美氏記録
                一、竹原勘十郎殿、紀州の御館に御に行れける時、書院に控へあられるが、折節楠公の畫像の掛り
                  たるを、観居られしに、彼方の衆、御使の御名元はと申しければ、何心なく、楠多門兵衛といらへ
                  らる、彼人不審にて、押て又尋られければ、楠木田 門兵衛にて候と申されけるとなり

                                     つづく

                                           

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■散歩10分

2015-03-25 16:02:37 | 徒然

 

良い天気に成ったので近所の桜を眺めようと思い散歩に出てみる。一回りして近くのコンビニまで足を延ばして歩くうちに、左足の膝うらに強烈な痛みが走って、しばし片足立ちで痛みが静まるのをまつ。いま一つ用事があったのだが取りやめ帰ることにする。横断歩道をケンケンしながらわたっていると、私より随分年上のご婦人が「ひざを痛められましたか」と声を掛けられる。「完全に良くなってからでないと動いちゃだめですよ」と仰る。ご尤もとお礼を申し上げて何とか帰り着く。30分ほどゆっくり歩くつもりが、わずか10分の散歩と相成った。
夏を前にウエストを少々落したいと思っているが、散歩もできないこの有様ではとても目的達成は程遠い。
 

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■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 4

2015-03-25 08:24:43 | 史料

                一、或時竹原勘十郎御咄の内に、勘十郎は切鎌じゃと云物と聞たり、餘り切廻しければ、足元か手元へ
                  切込ぞと仰せられければ、勘十郎直に御請申上けるは、不肖ながら御侍の御人數に入れ置かるゝ此
                  勘十郎にてござ候へば、刀にても脇差にても相應に所持は致居申候、何しに鎌ぐらゐを頼みに存ず
                  る、百姓心は無御座候、兎角に君の御機嫌を取り、虎の威を借る狐共の自慢くさき鼻の先を、腕骨の
                  續く限り切廻して、振りはづしたら、手足のみか、此しわ腹に切込候ても支へ申さず、是兼て心に存
                  る計りの覺悟にてござ候と、滞る處無く申上ければ、君笑はせ玉ひて仰せられけるは、勘十郎は目
                  差向ふの鼻の先位と、主人の一大事に捨べき大切なる命と、たやすく替んと思ふか、腹を切らば
                  むだ腹は無用にせよと仰せられき  肥後落穂集
                一、竹原玄路翁、和歌は東武久志本常典門人なり、常典子常夏、玄路翁の噺せし序に、國にて或者玄路
                  翁に古歌を自分に詠たる歌とて、添削を請ければ、散々に直し申したる由咄しければ、常夏申ける
                  は、太宰彌右衛門、阿弥陀経を直したり、増上寺にて阿弥陀経勿體なくも修纂して、無間地獄に堕
                  罪彌右衛門と云狂歌をして笑ひけるを、彌右衛門聞て、梵字にて書たる物ならば知らず、凡漢字に
                  書くものには、文章の規格あり、規格に合ざる故に直すなりと云し、されば和歌にも企画あり、規
                  格に合ざる古歌は直しても害あるまじと云し、玄路翁の事跡銀䑓遺事に委し  残疑物語
                一、竹原勘十郎殿は和歌の達人なり、その病褥にあるや他の思念なし、只心中に和歌を詠ずるのみ、是を
                  以て病苦を忘れんと云、いや自ら書せんと云れしが、終に夫に及ばずして、逝せられしとぞ  霊从堂秘録
                一、霊感公薨じ玉ひ、大詢公御代になりて、佞人の輩事を執事ありしかば、霊感公御小祥忌の時、竹原
                  勘十郎玄路の歌
                           物換り星移る世の有様を
                                 君は草葉のかげに見るらん      塵籠
                一、竹原勘十郎玄路一名惟親、紫海又廣陵と號す、隠居後穀齋と穪す、墓は出町往生院にあり、墓石に最勝
                  院穀齋玄路居士、寛政甲寅歳十一月九日とあり、甲寅は六年なり

                                      つづく 

                   

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■天草四郎切支丹『島原の乱5冊揃』

2015-03-24 21:27:08 | オークション

                                    ■天草四郎切支丹『島原の乱5冊揃』江戸写本和本古文書浮世絵■

                                      ■天草四郎切支丹『島原の乱5冊揃』江戸写本和本古文書浮世絵■

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■肥後先哲偉蹟から  竹原勘十郎(紫海) 3

2015-03-24 07:48:12 | 史料

                一、竹原勘十郎先生、元は何某とか云人の弟にて、浪人にて須屋在宅、茶びんにて飯を焼候程の至貧に
                  て侍りし由、實名は宇治惟親、號紫海翁、法號最勝院穀齋玄路居士、此翁豪邁なるは世の知る處な
                  れとも、纔の書簡一ツにても、屹と机に懸り認られ候由、冬は炬燵机とて、やぐらに丁度はまる程
                  の机にて、いつも認られ、我手なれとも我思ふ處には、ゆかぬものなりと常に云れしとぞ 鎌田氏記録
                一、或時竹原勘十郎に、御前様御意遊され候は、どうかい勘十郎、殿様御事、世上にも御明君の由沙
                  汰致す由承りぬ、何分難有事也と仰られければ、だいのねじごと人にて、どうもなりませぬ、何に
                  つけ、かにつけ、物事ねじ事が御座候故、平太左衛門と私と、ため直して、漸唯今の如くにも成し
                  奉りましたと申上られ候由、其後 公聞召上られ、けしからず御笑遊され候 同上
                一、御用人朽木内匠、竹原氏同道御裏へ参られ、御老女を初て御女中名前など承られ候砌、其座にて内匠
                  より馬の名の様なる名計にて、甚覺悪く有之候段申されければ、竹原氏言下に、其事にて、すべて御
                  乗替なければとぞ申されけるとなん 同上
                一、何方にてか堀殿、竹原殿、其外歴々寄合の席にて、堀殿より竹原殿へ目鏡を注文致置候處、近日参申
                  候、如何なる品にて有之候やとて、出し見せ申されければ、勘十郎殿手に取て、見事に出来候、申
                  分無之との事に付、堀殿より此目鏡は代料壹歩にて相求候、然るに見事にて申分無之との御噂に御
                  座候處、貴様兼て用られ候品は荘厳を取飾られ、代料も餘計に出し申され候由、目鏡は能見へさへ
                  致候はゞ、荘厳は無用の事に付、以来は無申分見事にも有之候へば、此品位の處を相用られ
                  度段、申述に相成候處、不興気ながら承知の返答致居られ、無程堀殿何か用事にて次の間へ立たれ、
                  未だ其間を出離も無之程の處にて、竹原殿申されけるは、今日の目鏡のきたなさよ、あれはなら
                  では可持品にては無之由申されけるとぞ、さすが堀殿の目前は、竹原殿も憚られしに、堀殿も聞え
                  ぬ程にも無けれども、見返もせず、参られしとなん 同上
                一、霊感公の御時、唐墨の高價なるを御目に懸ければ、御意に難渋にて中々求め難し、勘十郎に見せよ、
                  定めて求べしと、勘十郎殿に見せければ直に求められしとぞ、其後御席書抔の度毎に、御近習を御
                  使に差立られ、御借遊されしに、上はしわくてならぬと云て、御使に渡されし由 同上
                一、少将様御難船の時、皆人念佛など唱ける時、竹原勘十郎も御供にて有けるが
                          道に凝る心は波のそこつゝを
                               よし沈むとも彌陀は頼まじ              雑録
                  
                   

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