津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

年末雑感

2005-12-31 10:59:47 | 徒然
妻と二人、ささやかな年越しの買い物に出かける。
何となく明るさが戻りつつあることが実感できる。
家の回りを掃き掃除し、松飾を設えると何とか晦日気分・・・
わが生業の設計業界は、あの構造計算偽装事件で大揺れに揺れた。
主役の建築業者が、熊本の業者であったことも気持ちを重くさせる。
度重なるJRの事故や、児童が対象となった悪質な事件、地震や風水害、
そして姉歯事件。安心安全が根元から揺らいだ一年だった。
郵政改革を旗印にした、小泉首相の衆院選挙の大勝は、反対者を切り
捨てるという強権が政治情勢を一変させた。吉と出るか、凶と出るか?
あちこちのTV局の、政治を主題とする番組が話題を読んでいる。
面白おかしい演出はいかがかと思うが、お茶の間に政治の話題が日常
的に入り込んだ事はまずは喜ぶべきことだろう。

 わがサイトも、いろんな方々からご協力をいただいての、思いがけない
広がりに些かの戸惑いを感じている。皆様にはただただ感謝・・・・

 わが愛犬も来年は18歳、耳がすっかり聞こえなくなったが、まだ足腰
は大丈夫。愛犬に「来年も頑張ろうな」と呼びかける・・自分自身にも。

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三斎好み茶室

2005-12-29 16:47:42 | 歴史
 かって、天龍寺の塔頭として存在したという真乗院は、細川頼之の建立
だと云う。寛永年間、三斎が再興に尽力しているが今はない。
そのなかに「三斎好み」と伝えられる茶邸がある。(「茶室おこし絵図集」
所収)四畳台目の非常に変わった間取りである。
にじりを入ると三枚の畳がしかれてあり、正面に床がある。
床前の畳から左へ伸びるように一畳これに炉が切られ、上方向に手前座
の台目畳が敷きこまれている。主客の座す位置にもよろうが、御手前は
なかなか見辛いことになる。

 細川家菩提寺泰勝寺のなかにある茶室「仰松軒」は、この真乗院茶室
の写しであろう、まったく同じ間取りである。勝手を挟んで「鎖の間」がつ
なげられているが、真乗院の茶室もこのような風情であったのだろう。
この茶室は「三斎好み」を体感できる素晴らしい茶室なのだが、一般には
開放されていない。もう何年も茶会に出席していない小生だが、来年は少
し体重をへらして三十分位は正座が出来るようにして、今一度あの空間の
中に身を置きたいと考えている。
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「阿部一族」番外編

2005-12-27 11:30:26 | 歴史
 森鷗外の小説「阿部一族」は、阿部家の隣人栖本又七郎が書いた「阿部茶
事談」が底本になっている。内容はいささか「はしゃぎすぎ」のきらいがある。
山本博文氏もその著「武士と世間」の「あとがき」で、栖本の「阿部一族の討ち
取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子」の発言は納得出来ないし、死者への
礼儀を失していると記されている。
「御意」を破ったにもかかわらず、栖本又七郎はこの一事で名を上げた。
というよりも、鷗外がそうしたともいえる。
討手の大将竹内数馬の兄も「私」で参加したが、閉門となった。一方当番を免
ぜられ「御意」を守って「火の始末」にはげんだ近隣の某は、「人口悪敷聞へ候
間」思召しに背いたと思い「お暇」を願い出るが、藩主光尚から留められている。
某は光尚の死に当たり殉死した。
某こと山中又兵衛ニ百石、あの山中鹿之助の胤である。

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築山という家

2005-12-25 10:57:57 | 歴史
 細川の根本家臣を考える時、忘れては成らない家に築山家がある。
細川家との付き合いは古く、細川頼之の時代まで遡っている。
先祖附に詳細な「築山家系」なる系図が添えられているが、頼之の代
に「松笠菱御紋附之御具足拝領」して子孫代々家紋に用いるよう仰せ
があったと伝えている。初代築山保俊の室は頼之庶女高秋院(福)で
ある。五代下った貞俊は、将軍義晴の命を受け沼田上野助とともに、
藤孝誕生前の生母の御附をつとめている。綿考輯録にも詳しいところ
である。貞俊の妻は沼田上野介(光兼)女であり、藤孝とは相婿とい
うことになる。「細川家家臣略歴」では五家の築山家を確認できる。
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宮本武蔵研究第ニ集・・武州傳来記

2005-12-23 10:04:23 | 書籍・読書
 熊本在住の武蔵研究家・福田正秀氏から新刊書をお送りいただいた。
380数頁にわたる大作で、氏の並々ならぬご努力の跡がうかがい知れる。
福岡黒田藩の丹治峯均による、宮本武蔵や二天一流に関する筆記「武州
傳来記」に関する研究著作である。二天一流の後継者、元肥後藩士・柴
任三左衛門は肥後を離れ黒田藩に仕えたが、「武州傳来記」はこの柴任
の話として伝えられた貴重な文書である。福田氏は武蔵研究に関するあ
らゆる著作研究書を読破され、より深く研究をなされて新たな事実に光
を当てられた。関係文書の発掘や現場調査、関係者に面談しての聞き取
りなど精力的な行動が、この著作を魅力的なものにしている。
「講談的」な一部武蔵研究書には、退場をお願いしなければならない。
完読するにはいささかの時間を要する大作だが、説得力のある筆致は読
者を飽きさせることはない。
二年前に発刊された「宮本武蔵研究論文集」と共に、武蔵を愛する人達
にはたまらない著作である。ご努力に敬意を表する次第である。

ちなみに、柴任三左衛門は細川忠利に殉死した「本庄喜助」の二男である。
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積雪3㎝

2005-12-22 09:00:58 | 徒然
 真新しい雪に、わが愛犬の可愛い足跡がしるされていく。
昨晩から降りだした雪は2~3㎝ほどになっている。何年ぶりの
積雪だろうか?。悪いことに昨日降った雨の上への積雪だから、
路面はカチカチに凍っている。南国熊本ではスパイクをつける
ことは無いし、チェーンを持っている人もそうそういない。
皆「おっかなびっくり」状態でのろのろ運転で出勤している。
年末では有るけれども、平日の5倍・6倍の時間を掛けて出勤
されるのだろう。ご苦労様・・・自営業者はそんな朝の風景を
ながめながら、人様が転ばないようささやかな雪かきをする。
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島原の乱働きの証人の依頼文

2005-12-17 12:44:03 | 歴史
 東京在住の沢村様から、「肥後熊本藩藩士・沢村家史料集成」三巻の
贈呈を受けた。沢村家は、田辺城籠城に際し幽斎の密命をうけ、包囲網
を突破して禁裏への使いを果たした中村甚左衛門の後胤である。
甚左衛門の父は中村一氏。のち君命で沢村を名乗り、沢村大学吉重と一
門同様の付き合いを命ぜられている。沢山の史料が残されており今般こ
れらをまとめられて、上記の史料集としてまとめられた。

 この中に島原の乱後、当時の当主権十郎が、いろいろの人の働きにつ
いての証言を求められた書状が何点か含まれている。あの「阿部一族」
の阿部権兵衛などの消息なども伺える。又権十郎の働きに対する証言の
文も有る。大変貴重で面白い。

 1、沢村権十郎働きに対して 与頭・谷主膳宛 郡安左衛門書状
 1、稲津九郎兵衛働きについての証言について 稲津九郎兵衛・礼状
 1、杉山瀬兵衛働きに対しての証言依頼    小笠原備前書状
 1、矢野吉之丞    同上         長岡佐渡書状
 1、飯田安兵衛    同上         志水新之丞書状
 1、阿部権兵衛    同上         清田石見書状
 1、郡安左衛門    同上         長岡右馬助書状
 1、永良弥覚     同上         小笠原備前書状
 1、杉山瀬兵衛    同上         谷主膳書状
 1、稲津九郎兵衛   同上         長岡佐渡書状
 1、一緒に行動した状況の旨の報告      樹下山三郎書状
 1、沢村大学宛   同上内容報告        同上

  殆んどが切り紙に認められ、ローマ字印(佐渡、石見、右馬助)が
  押されているものもある。時の息吹を感じる文書である。
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根本家臣の出自

2005-12-16 18:36:52 | 歴史
 細川家の家臣団は、知行取約1000家、切米・扶持米取3000~4000家と
云われる。その根本家臣は「青龍寺以来」「丹後以来」と称する家である。
ある資料によると、「青龍寺以来」は27氏・59家、「丹後以来」は74氏・126
家とされている。その出自は丹後・若狭等を主とし、その周辺各地に及んで
いる。その出自を辿ろうとすると、熊本における資料ではその詳細にはたど
り着けない。資料不足だー。
夢・・金と時間を作って丹後・若狭・越前に関する資料閲覧の旅をしたいなー。
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姉妹都市

2005-12-16 18:17:48 | 熊本
 熊本市の姉妹都市は福井市。細川家の勇姫が松平春嶽に嫁ついでいるし、
春嶽が肥後藩士横井小楠を福井藩に招聘している。どういうレベルで、どの
ような交流が行われているのか、恥ずかしながら知らない。
細川藩を調べる人間としては、福井の勉強はしっかりしなければならない。

 山鹿市の姉妹都市は、赤穂義士つながりで赤穂市である。
赤穂義士を預かった細川藩に於て、世話役を務めた堀内傳右衛門の菩提寺日
輪寺がここにある。「傳右衛門覚書」は、赤穂義士にかんする研究には欠か
せない。知行地が山鹿であったらしいが、日輪寺境内はつつじの頃花見客で
賑わいを見せる。義士祭りなども行われている。

 県南人吉地方と隣り合わせの宮崎県西米良町が、菊池市の姉妹都市。
菊池義武の時菊池氏は断絶するが、傍流重為の孫(?)が西米良に逃れ後米
良氏を名乗った。相良藩に仕えた米良氏は「交代寄合」という家格をもって
参勤している。
(何故だか不思議・・「KUBOの家系城郭研究所-寄合交代」で勉強しました)
明治になって菊池氏に復姓し男爵となった。西米良や椎葉などは明治初期の
一時期人吉県に取り込まれたこともある。菊池氏つながりの姉妹都市である。

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現行法不適格建築

2005-12-11 10:57:05 | 徒然
 1981年新耐震基準が施行されたとき、我々建築関係者はあまりの変わりように唖然としたものだった。「今までの基準は何だったのか?」そして1995年、阪神淡路大震災における大被害に、新耐震基準でも大地震には対応できなかったことに茫然となった。今回の「姉歯事件」は、殺人未遂事件として捉えるべきではないのか。被害の渦中にあられる方々の、心中を察するに余り有るものがあるが、適法建築として存在する膨大な数の、「新耐震基準施行以前の建物=現行法不適格建築」の存在を考えなければならない。「建替えの促進」など真剣に考えないと、忍びつつある大地震を前に不安は募るばかりである。
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本庄喜助

2005-12-10 21:38:24 | 歴史
 どこにもテレビ仕立てにしたらいいような話がある。肥後細川に於ても、藩主宣紀の寵愛を良いことに専権を極めた用人がいた。(ご子孫が居られるので名を伏せる)
御小姓頭平野某、また江戸家老木村某は抗議の意をもって職を辞し、御物頭本庄角兵衛(喜助)は組下救済の道に窮して切腹自栽した。書置きを認めたが握りつぶされ乱心とさた。享保十二年のことである。
 この角兵衛こそが、赤穂義士間瀬久太夫の切腹にあたり、介錯を勤めた本庄喜助でる。先祖本庄喜助は忠利に殉死。嫡男は別禄を拝領していたため、跡式は二男熊介が継いだ。この熊介は後熊本を離れ黒田家に仕え、宮本武蔵の二天一流の後継者として名をはせた柴任三左衛門である。本庄角兵衛は初名柴任喜助、元禄三年二百石を領し、御馬廻組より御小姓組となる。本庄氏に復す。
元禄十六年二月赤穂義士の切腹にあたり介錯役を務め(29歳)、宝永五年御小姓組脇、正徳五年歩小姓頭、享保五年御弓二十挺頭、同九年御鉄炮二十挺頭となった。
華やかな元禄の頃に比べると、細川の財政は破綻して藩士は困窮を極めたという。そんな時におきた不幸な事件、赤穂義士切腹から24年後のことである。
 ご子孫本庄家は忠利殉死の初代喜助とともに、この角兵衛(喜助)を名誉の人としておられる。
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半井さん

2005-12-09 16:50:23 | 徒然
 「寛文四年六月・御侍帳」に御医師半井仲庵という名前が見える。
NHKのお天気キャスターに「半井さん」という方が居られるらしいが、
「なからい」と読むのだそうな。代々典薬頭をつとめる半井家であるが、
仲庵もその一族であろう。
立花京子著「信長と十字架」によると、永禄十三年に上洛した信長は
半井驢庵の家を宿所としたという。一族の堺半井云也は津田宗及の
娘を室としている。数年後幽斎は足利義昭と手を切り、信長との関係
が深まって行く。幽斎もこの頃半井と出会ったのだろうか。下ること九
十年、細川家に半井の名前があった。
しかしながら、それ以後侍帳に「半井」の名前は登場しない。

追記 半井家は和気清麻呂の後胤といわれるが、細川家侍帳には
    「和気」氏の名前も見える。
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家紋

2005-12-03 13:24:19 | 徒然
 肥後細川藩には、家紋が書き込まれた「肥陽諸士鑑」「家紋入り侍帳」と
いう二つの侍帳が存在する。出自を辿る上で貴重な史料である。
わが「新・肥後細川藩侍帳」に於ても、家紋を表示しようと試みたが、紋帳
に記載無いものが沢山あり、一部表示してお茶を濁している。
当方の家紋にしてからが紋帳には記載がない。隅入り角紋に立鼓(りゅうこ)
が合わされている、「隅入り角・立鼓紋」とでも言うのだろうか。
かって、妻が三つ紋の着物を作るとき呉服屋さんから家紋を聞かれたが、紋
帳にないので、方眼紙に書いて手渡した。簡単な紋だから出来たことだが、
複雑な家紋であればそうはいかない。古い木製の家紋印判が残されていた
のが幸いした。しかし妻がその着物に袖を通した事をしらない。祝儀、不祝
儀が洋式化してしまって、着付けを必要とする着物は敬遠されてしまった。
家紋はお墓だけのものになってしまうのだろうか。
お墓に於ても、「格好がいいから」とご先祖には全く関係ない家紋を依頼す
る人が多くなったと聞く。           嘆かわしいことだ。
しかし「肥陽諸士鑑」や「家紋入り侍帳」を見ても、本家を慮ってか本家紋
にいろいろ手を加えたものが多いのに気がつく。それを思うと現代に於ては
仕方ないことかもしれない。そのうちには西欧のエンブレムがお墓に登場す
るかもしれないなー。

今度の正月には着物を引っ張り出して、袖を通してみようか。
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