津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

宣紀公女婿・小笠原備前長軌

2011-05-31 08:29:00 | 旦夕覺書

宣紀の十九子は津與、享保十年熊本で生まれた、生母は安野氏・民、同腹の兄弟に 、第9子 女子・勝(夭折・三歳) 、第11子 八代・花(松平讃岐守頼恭室) 、第17子 衛世・悦(長岡助右衛門是福室) 、第20子 興彭(長岡図書興行・養子)がある。寛保元年二月十一日縁組、安永六年八月廿日没、53歳。

女婿・小笠原長軌は小笠原備前家の六代目当主である。長得・長衛、茂道・七郎・大都・備前・美濃、家老・備頭等を勤め安永三年八月致仕。

(註)細川家には二流の小笠原家がある。
 ■備前家 ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎を祖とするもの。当主が備前を名乗る。
 ■多宮家 細川忠利夫人(寿光院)の甥・長賢を祖とするもの。
        小倉藩・中津藩・杵築→三河吉田→岩瀬→遠州掛川→陸奥棚倉→肥前唐津の三藩
        及び杵築の松平家が、寿光院の兄弟としてそれぞれ立藩している。

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宣紀公女婿・長岡(米田)助右衛門是福

2011-05-31 08:26:36 | 歴史

 ちょっと時間的に間が空いてしまったが、「宣紀公女婿」シリーズの続編・・・

 第十七子・悦姫(衛世--壽鏡院)は享保二(1717)年正月十五日熊本で生まれた。寛保二年(1742)八月廿七日に婚礼が行われた。女婿米田是福は代々家老米田家(15,000石 家老二座 称長岡姓)の七代目当主である。父は是直、母は松井家六代寿之女・津勢、岐一郎・是方・是重・是賢、壱岐、監物、助右衛門 元文三年八月部屋住にて家老職 賜二千俵、延享三年(父是直隠居)家督 大組頭、安永三年十二月隠居 賜千石 芳渚と改名、同四年八月十四日没 斎光院仁英芳渚

尚、祖父是庸は細川忠利の末子・南条元知(室・米田是長女・吟)の嫡子であり、是長の養嗣子となった。元知は「陽明学徒追放事件」に際し、藩主綱利(甥)に諫言して不興をかい永蟄居となった。

米田求政-是政-是季-是長=是庸-是直-是福-是知-是睦-是容-是豪=虎雄(是保)

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熊本の梅雨入り

2011-05-30 17:45:33 | 熊本

 熊本が梅雨入りしたという報道はまだ無いようですが・・・
先週はいかにもそれらしいぐずついた天気が続きましたが、台風一過今日は良い天気になり、四五日は雨が降りそうな気配がなく、梅雨入りは来週あたりに持ち越しそうな気配です。

ベランダに置いた観葉植物の鉢を持ち上げると、底に「なめくじ」がお住まいで家内が悲鳴を上げています。

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「旦夕覺書」 花--11

2011-05-30 10:23:56 | 旦夕覺書

    ■幽齋公被示家臣十一首

   寄合之善友
正直や能者物書學問者貴人年寄余所を見し人

   寄合之悪友
喧嘩好いげん廣言うつけ者人の中垣公事工む人

   薬となる物
朝起や身をはたらかし小食に師親に近く灸を絶すな

   毒となる物
酩酊にぼうまん晝寝遊山好親を不幸に主へ緩急

    人に譽らるヽ物
柔和やかに心をしめて気立能いんきん成にしく物はなし

    人に悪まるヽ物
すいにして物知りたてのさして口ついせう有て自慢する人

    物になる物
算かんや勇力武藝世上かた公儀才覺身を立る人

    物にならざる物
馬鹿無力病者述懐わやく者引籠思案油断不気根

    気高く見らるヽ物
おふよふに慈悲深く身持たてなる人そげひぬる

    下劣に見らるヽ物
賣買の値段つめして慾深く身持たてなる人そげひぬる

    無事に見らるヽ物
何も唯心すなをにうそいはて主を敬ひ儀を守る人

    右は先年同氏(堀内)弾蔵書くれ申候 此御歌も玄旨公と申傳候
きるものも内外しらて着る人ははなれる時に耻をこそかけ


    ■三齋公辞世曰
萬代も直きにすめよ渡り川かへらぬ水のあはれおもはヽ

    ■忠利公木石心なしといへとも私なし人は心あはれと曲りぬれば木石になんおとるといふ心を
道しらぬ人は人にてひとならすけに岩木のもおとるなりけり

    ■光尚公御歌
煙たつ空をあはれと鳴捨てかへるにおしき山ほとヽきす

心やすくする世ありともいかて我つらきけしきを人にみせまし

目釘穴うちおさまれる御代なれは柄は中々なる事もなし

    ■忠興公関ヶ原上杉景勝逆心に付加藤左馬助嘉明・忠興・福島左衛門太夫正則為先鋒
     此時秀林院殿に忠興歌
なひくなよ我ませ垣の女郎花あらぬ方より風は吹くとも

    ■秀林院殿御返歌
なひくまし我ませ垣の女郎花あらぬ方より風は吹くとも

    ■玄旨公御姉宮川様より御妹光壽院様へ
君こむといひし月日もすきぬれは待こそ渡れ天の橋立

    ■若狭より御返し
今はとて忘れなはてそあふ時は心にもあらて程はふるとも

 

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「旦夕覺書」 花--10

2011-05-29 19:34:30 | 旦夕覺書

   綱利公御家督被仰渡候通熊本御一門方へ申参候此書付は■権左衛門方より寫置候

一、慶安三年四月十七日阿部對馬守様(1)より田中主殿(頭)様(2)を以被仰下候は長岡佐渡(3)・長岡勘ケ由左衛門(4)両人明十八日辰の刻主殿頭様被召連城江可罷上之旨被仰聞候 松平阿波守様(5)も上意にて同十八日辰の刻御登城候被成候様にと是又主殿頭様を以被仰付渡候由御座候 依之式部・勘由左衛門(ママ)十八日辰ノ刻主殿頭様御供仕御城江罷上候處に井伊掃部頭様(6)・酒井讃岐守様(7)・堀田加賀守様(8)・松平伊豆守様(9)・阿部豊後守様(10)・阿部對馬守様御列座にて阿波守様も御座敷へ御出被成式部・勘ケ由左衛門被召出為上意讃岐守様被仰候は肥後守(11)儀被成御取立候に付て御奉公をも可仕覺悟と被思召候處に不慮に若年にて相果御不便に被思召候就夫跡目之御仕置き早々可被仰付候處に依御違例唯今被仰出候肥後國之儀御手端其上大國之儀に候(12)事は幼少之儀に候條所替をも可被仰付候へ共三齋関ヶ原之時分奉對御當家一筋に御忠節仕其以後越中御奉公仕度奉存體に被思召候に付被成御取立肥後國へ被遣候處無程相果申候 扨肥後守儀若く候へ共御奉公をも可仕者と被為及御覧候故越中守(13)跡職無相違被仰付彌以肥後守御奉公一筋之志と被思召候就中相果候刻之申置にも御取立之儀に御座候へ共御奉公をも不仕千萬迷惑奉存候然は幼少之世倅に跡式被仰付又候哉御奉公をも不仕上様に御座候へは彌以迷惑至極奉存候條御國之儀は差上申候 世倅両人御座候御奉公をも可使用に罷成候はヽ至其砌被為斗御覧之通被召仕被下候様にと申上候 代々ケ様之御奉公振殊相果候刻御奉公之道も忘却不仕子供之儀にも無構御國を差上申段神妙に被思召因茲儀幼少に候へ共肥後國無相違被仰付候間奉存其旨幼少之事に候へとも此段々具に可申含候 實子無之候へは養子をも仕跡職之儀何角申事も御座候へ共肥後守今度之申上様御取立之肥後守には左に被思召候而如此被仰出候條家頼之者共も難有奉存奉公をも仕候様随分守立可申候 然上は諸事無油断相心得仕置等可申付候小笠原右近太夫(14)儀はと間柄之事に候幸隣國に罷在候間折々肥後國へ見舞候様にと被仰付候間仕置之儀談合仕度儀共相尋可致沙汰候 其上事御懇に被思召候條御目附をも可被遣候間左様可相心得之旨被仰渡御座敷を罷立候得は被召返重て被仰聞候は六丸被召出可被仰聞候へとも幼少之儀候間両人被召出被仰聞候 追付御目見も可被仰付候旨上意之由被仰聞候 右之趣早速國元江遣家頼之者難有奉存諸事精を入候様にと被仰聞候
右上意之趣四月十八日於殿中酒井讃岐守様被為仰聞候 謹て承知仕候て御座敷罷立候 左候て阿波守様・主殿守(ママ)様も被成御退出直に此方上之御座敷江被成御越此両所様と稲葉能登守様と殿様被成御同道掃部頭様・讃岐守様・加賀守様・伊豆守様・豊後守様・對馬守様へ御禮に被成御出式部・勘ケ由左衛門御供に被致参上候 翌十九日之朝田中主殿頭様・曽我丹波守様(15)・同又左衛門様(16)御供仕先讃岐守様へ致伺公候處に御前に被召出昨日之上意其難有可奉存之旨再三被成御意其上にて又被仰聞候は肥後守縁邊之儀越中守存生之時分被候は一筋にご奉公仕度奉存候間肥後守縁者組之儀不被仰付候様にと被申上候に付烏丸息女(17)被致祝言候處彼息女死去に付肥後守代に成縁邊之内證も難有之越中守如申上肥後守儀達而御断被申上依之縁者組を不被仰付候 ケ様之儀も被成上意候へ共上意多候故態讃岐守被仰除候由被仰候 夫より伊豆守様へ致伺公候處御懇被仰候昨日之上意之様子主殿頭様丹波守様へ被成御物語候 此外何も不残御禮に致伺公候
      右讃岐守様被仰聞候通私共如此覺申候御口上之事長く御座候へつる間
      前後為仕儀も可有之候へ共畢竟相違之儀は有御座間敷候以上
         慶安三年四月十八日          長岡勘ケ由左衛門
                            長  岡  式  部

 

 (1)阿部重次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E9%87%8D%E6%AC%A1
 (2)田中吉官 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E5%AE%98
 (3)松井寄之 細川忠興末子・松井興長養嗣子
 (4)沼田延元 細川藤孝室・麝香の甥 室は松井寄之生母(忠興側室・再嫁)
 (5)蜂須賀至鎮 細川忠利相婿
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%87%B3%E9%8E%AE
 (6)井伊直孝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%AD%9D
 (7)酒井忠勝
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E5%8B%9D_(%E8%8B%A5%E7%8B%AD%E5%9B%BD%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E8%97%A9%E4%B8%BB)
 (8)堀田正盛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9B%9B
 (9)松平信綱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1
 (10)阿部忠秋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%BF%A0%E7%A7%8B
 (11)細川光尚 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%B0%9A
 (12)細川綱利 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%88%A9
 (13)細川忠利 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%88%A9
 (14)小笠原忠真
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%9C%9F
 (15)曽我古祐
 (16)曽我近祐
 (17)烏丸彌々 細川光尚正室

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家光公御代
     條々
一、家中輩并國中仕置之儀可為如肥後守付町人百姓不窮困様に仕置可申付事
一、萬事家老輩遂相談仕置可申付候 難相談儀於有之は小笠原右近太夫可得差圖依事之品可致言上事
一、於隣國何偏之儀雖令出来無下知而不可出合之右近太夫并目附之面々可受差圖事
一、家中縁邊之儀知行三千石以上は可言上之■雖為小身依其仁體申上之可相慎事
一、貴理師旦宗門之儀最前度々如令制禁彌堅可申付事
  右條々可相守此旨者也
          慶安三癸寅年五月廿九日
                      細川六丸とのへ

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有吉家文書「年中行事抜粋」(三十二)八後申渡之式

2011-05-29 09:41:18 | 有吉家文書

一、御用有之候段者即日及達候間達紙
  面者手廻之ため前日之御用番より致
  披見置候事
一、親類身分伺之稜付者兼而銘々之宅江
  有之候付異候節まて佐弐役より受取候
  事
一、申渡之人有之候間列座可有之候間御奉行
  御目附江相渡候書付御奉行より御用番江
  差出候間一通宛両御役江相渡候事
一、刀者加番退出之上右襖之内江直し
  置硯箱煙草盆等皆片付候事
一、当人出答(ママ)有之八時打候上直ニ繰出之        八(ツ)時・・・午後二時
  書付ト申渡之書附御奉行より
  御用番江差出候事
一、夫より繰出書付を御目附江相渡御用
  番ハ申渡之席ニ直り候事
     但上之御間境敷居より壱間を前ニ
     当南より横畳三枚目東向ニ座着
     之事
一、御目附当人を口之間江繰付置其段
  御用番江申達候得者繰出可有之旨
  返答に及候左候而当番之御奉行
  北側南向ニ坐着右之御目附ハ当人ハ
  繰出候而直ニ御奉行之次ニ列座之事
一、夫より頭当人を同道詰間敷居之内ニ入
  東之壁付南頭ニ罷出候申渡相済
  其席ニ而申渡之書付御奉行江相渡
  候之事
朱之印ココニ在
一、当人病中ニ而不罷出節ハ達書を以頭又組脇
  同役等江口達ニ及ひ申渡之書付相渡候
  左候得者右之面々当人之宅江罷越申
  渡ニ而御請之趣ハ御用番江相渡
  候之事
     但御知行被召上其タ右之子弟之内江
     相続被仰付候類之儀有之節政府へ
     相滞居頭等より御請相達右子
     弟之内を致同道候間前条之通之
     式ニて猶申渡候事
一、御目附御咎之節不罷出候ハヽ御小姓頭
  当人宅江罷越候而御目附之内一人同道
  有之候事
一、御用番於御殿九ツ半時を承直政府へ          九ツ半時・・午後一時
  出席之事
     但八ツ迄之内ハ加番より御用取計候事
一、刀は直ニ詰間之上之間一枚襖之内ニ置
  候之事
一、出席之段坊主を以御奉行江為知候事
一、夫より列座有之候様ニとの儀御奉行御目付江
  相渡筈之書付并繰出し申渡御請等
  之諸書付一同ニ御奉行より御用番江差
  出候間列座有之候様との書付ハ直ニ御奉行江
  相渡御目附江も右同且又繰出之書付も
  一同ニ相渡候事
     但御請書ハ御奉行返し置候へハ申渡
     相済御殿江仕出せ候若本人出方無之
     節ハ御請書を御用番物書ニ迄
     佐弐役より差廻置御請之趣御用
     番宅江支配頭より相達候上御
     用人江仕出之事
一、士席浪人御咎之節ハ頭又は組脇江
  口之間ニおゐて書付相渡候繰出しハ
  御目附ニ而候事
口之印ニ付付紙
  ○八後申渡之其身病中ニて出方無之時ハ書付を組
  頭へ相渡是も御目附繰出ニて於詰間渡本人
  出方無之時ハ組頭へ本人何某へ申渡之書付ト
  ********(この一行判読不可)

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有吉家文書「年中行事抜粋」(三十一)孝心御賞美之手数

2011-05-29 09:40:38 | 有吉家文書

一、当代之人拝領物被仰付候ハ鷹之御間
  申渡之節於同御間頭同道渡候拝領
  物無之ハ当人出方無之組頭江同御間ニ而
  書付相渡候事
一、無足拝領物被仰付候節ハ父兄同道中
  之間ニて申渡候拝領物無之ハ同御間ニ而
  組頭江書付相渡候
    但中之御間之節御目附列座者無
    之候事
一、家類之分は却而口之間ニ而組頭等江書付
  相渡候事
  右之通文化十年八月相究候事

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松濱軒の菖蒲

2011-05-28 11:08:46 | 徒然

 八代松井家の松濱軒(ショウヒンケン)の菖蒲はいまどんな具合だろうとぐぐってみたら、思いがけないサイトに出くわした。まったく気づかないでいた。内田百間の「阿房列車」に松濱軒が度々登場している。よくぞこれだけまとめられたと感心している。

        http://www.geocities.co.jp/wakame_01/memo_data/shohinken.htm

昭和24年天皇陛下の御巡行の折、松井家に宿をお取りになった。細川護貞様は松井明之(ハルユキ)の女婿として八代でお出迎えを為さった。陛下は翌朝松濱軒のお庭に出られ菖蒲を愛でられたが、「これは菖蒲である。あれは杜若である」と誰に仰るわけではなくつぶやかれたそうだ。

上記サイトによると御巡幸後旅館になったらしい。内田百間が都合九回も松濱軒を訪れているということを始めて知ったが、よほどお気に入りのことであったのだろう。昭和26年から33年までの時代の有様が垣間見えて大変面白い。「ご當地さん」などという言葉もいまは死語となった良い言葉である。

        http://www.yado.co.jp/hana/kumamoto/syohinken/syohinken.htm
熊本はまだ梅雨入りに至っていないが、ここ数日ぐづついた雨模様で台風も心配されるが、通過後梅雨入りの発表があるのだろう。お向かいの「未来の森ミュージアム」では、「九州焼物紀行・田中丸コレクション」の展示が行われている。あわせて菖蒲のお庭を拝見にお訪ねしたいと思っている。
        http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/index.jsp

 

        (ちなみに内田百間の「けん」は門構えに月が本当らしい)

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「旦夕覺書」 花--9

2011-05-28 08:59:12 | 旦夕覺書

   眞源院様(光尚)は六丸様と申御十七御元服の刻従江戸熊本へ妙解院様(忠利)より御一門中江被仰遣候寫也
家光公御代
  態飛脚を下候
一、七月廿三日に六元服被仰付肥後守に成申候 先六と我等先へ御前へ罷出候處に越中事御取立被成
  肥後の守に被為置候肥後守事も不相替御心安可被召仕候間其心得仕御奉公可致由御直に被仰
  聞其上にて御名乗之御字光之字を被下光忠之御腰物拝領扨官も侍従に可被任由被仰出候 扨御
  盃献々之御酒被下候上我等へ名物之政宗之御脇差拝領申候 扨三齋様被召出御年被寄候へ共能
  時分御下被成ケ様之祝儀に御逢候事御満足可被成とて又御酒を被出左文字之御脇差御拝領御
  座敷之様子外聞實儀無残所候可被心安候 就夫家中之者共祝儀可申候御成橋普請前に候間人な
  とも何も下候儀無用候 佐渡・頼母・監物より歩之者一人宛可被下候 扨高より五千石迄馬太刀其外
  は此方にて一度に祝儀調せ可申候間歩之者三人迄可被げ候 樽銭銀子迄爰元に候間人迄可下候
一、一門之女房方目出度とて文迄下し可申候 是又右同前に此方にて樽代も取替させ可申候 立允所より
  も歩之者一人下候様三齋様より被仰遣候様にと申候
一、熊本町中より祝儀可申候是又いかにもかろく右三人之者に言傳候様に飛脚同前に町人を一人下候様
  に可申付候以上

右之通先年於江戸與一郎様御十四之年御官位之御沙汰御座候砌會而知不申候由小笠原素心被申候 其後拙者罷下休息之内前田素閑所へ参候へは拙者は古き事數寄候とて此書付見せ被申候 素閑親其時分歩之御小姓を承及候就夫此口上書之様に當所茂無御座候つる右之時分熊本へ御使に参候かと存候 十左衛門殿へ見せ候へは扨も/\と御申物書に寫させ具に控書留候へと御申付候 舎人殿へ右之趣物語見せ候へは如此之書付は皆共役之扣に有之候 若無之は寫置可申と其儘御寫させ候 如此御両人之替り有之候 此政宗名物と御座候は鎌倉へ参候て打候時より正の字近江國生國にて政宗と打たる由承候 何事も本を致賞玩候故わかき時打たる故かと存候

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信長公記

2011-05-27 09:31:10 | 歴史

 以前ご紹介したが「信長学起動」というサイトがある。
          http://nobunagagaku.com/index.html

この中に 『信長公記』と心中しなさい~信長公記主義者宣言~ という谷口克広氏のエッセイがある。
ご尤もなお説と思い、中川太古訳の新人物往来社の「信長公記」を読んでいる。原文との対比訳ではないので牛一本来のニュアンスが判らない。ならばとPC画面に「町田本」釈文を出して読み比べしたりしている。
          http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
こういうサイトは本当にありがたい。

いろいろぐぐっていたら、早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」に、「慶長十七年五月吉日 小瀬甫庵道喜」の書き込みが有る、いわゆる「甫庵信長記」があることを知った。
                  http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_06523/index.html
甫庵の「信長記」はいろいろ議論のあるところで、谷口克広先生は「お止めなさい」と仰りそうだが、甫庵がどう脚色してこの著を作ったのかを見極めるのも、又面白いのではないかと思っている。

*コメントをいただきました。(感謝)
国会図書館の近代ライブラリーで「信長公記」と入力すれば、「原文」がご覧になれると思います。
          http://kindai.ndl.go.jp/index.html

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「旦夕覺書」 花--8

2011-05-27 08:28:38 | 旦夕覺書

妙解院様(忠利)御代に津川四郎右衛(ママ)(辰珍-管領斯波義近次男)思へは小身者別而不便に思召候 大身成者は屋敷も廣く萬事自由能料理も朝夕思ふ様に給申候 何その時御用に立事は大小身共に同意に思召との儀に候 櫻馬場御通候刻は必々三盛・竹村彌右衛門二百石三盛隣のよし御言葉掛り申候由老母被申候 いか様大身は末々おこり付近年別而病死多く懈怠多く家も潰れたる多く候 小身は多く候へ共家潰れ申は多く無之候 おこりは天の憎む事と申傳候 能々心を付可受申候事

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三齋様丹後國宮津(田邊城)籠城之衆中之御書寫 
   以上
 昨日廿日亀山迄令着候處に城可相渡由申候得共徳善院事に候間可成程馳走可申と様子内府へ申入候 其御返事次第可下國候 扨々二度逢候はん事夢とのみ思ふ事に候 面々籠城さへ奇特と存候にかせき共のよし無比類にけおち候やつらは餘りの事ににくけなくおかしく候恐々謹言
    九月廿一日           越中興
          宮津(田邊城)
            籠城之衆中    右は鎌田五左衛門所持筑後殿御所望候へとも遣不申候
                              大洞彌一兵衛所にて見申候鎌田氏は大洞氏聟也

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同島原之時利根川道孝(大友宗麟次男)に被遣候御書寫
   正月十二日之御一ツ書具に披見仕候
一、我等気色能候江戸江参候尋に遣候其返事未参候間知不申候事
一、正月廿五日道家方より之便宜に煎薬清心丹又進候條此度は不進候能事分又跡より可進候事
一、島原の儀如仰不慮にて候 みづぼがれうちわるく候て大たうがさに成申候 大事の事不珍候 一揆の枝
  葉つよきにては一切無之候 其子細は松倉長門留守居共と二三度もせり合仕候 其トキ長門留守居纔
  の小勢にて候つるに勝つ負つ仕たるにて手並は知れ申候 され共今の寄手何も初心にて城のかつ様
  に仕なしたち存候 今又れき/\被下候へ共立花飛騨守殿の外はわらへと同事にて候間又不慮出
  来可申とあふなきせうしさ心もとなさ申斗無之候 不入事ながら是を案じ此頃はむねもいたく右のかた
  の乳はれ出煩申候 心中可有御推量候 何も大名衆一揆と申も人にて候 野あひの合戦にては候はヽ
  手に立申間敷候へ共城に取籠候故不成とのわけを未何もかてん不参と見へ申候 信長以来の事覺へ
  申候 城の中に一萬二三千の人數を入一たんせめに仕候事終に承も不及見申たる事も無之候 此所會
  て辨へられぬ大名衆にて候間扨々あふなき儀に候事
一、御養生之事御油断無之由尤に候 乍去心を長く可有御持事惣一の養生にて可有其心得事
一、此書中之通道家にも可有御物語候 京之落書寫進候 御なくさみに可有御覧候此外いくつも御入候へ
  共餘りこくう成事にて候間書て不進候 大名衆之はじかきと可有御心得笑敷候恐惶謹言
        二月七日                   三齋  利根川道孝は松野氏先祖
                 道孝老
                    御返事     



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有吉家文書「年中行事抜粋」(三十)犬追物御賞賜申渡之式

2011-05-26 12:46:10 | 有吉家文書

一、御殿之中之御間ニ而此申渡於政府は無之申渡御間取平常之通
一、書付者例之通御奉行より差出之事
一、繰出名附御小姓頭江相渡目録ハ御目附相渡候事
     但御小姓頭繰出ニて繰付共御使番口之間江罷出取計之事
一、御小姓頭より案内有之西之入口より入例之座ニ坐着之事
一、御奉行・御目附列座有之西之二枚襖之所ニ東向南頭ニ坐着之事
一、相済申渡之書附ハ其坐ニて御奉行へ相渡候事 此書付ハ御品物引渡等之しらへ有
                                            之由ニ付無間違様相渡可申候
     但御小姓頭被相渡候書付者無之
     候之事
一、相済候段御小姓頭より知らせ無之御目附江者御用番より為知候事
一、御請書差上候事


(註)犬追物
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E8%BF%BD%E7%89%A9
    

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五月・駄句

2011-05-26 11:14:52 | 俳句

              竹の子の衣をぬいで五六尺

              一茎の菖蒲を買うて男かな

              しょうぶ葺くひげの店主やジャズ喫茶

              火の酒や胸の奥なる埒をあけ

              一息の雨の馳走や吊しのぶ

 水盤に植えてある「おもだか」が四五本芽を出しました。昨年は花を咲かせるまでには至らず、今年は管理に気をつけて、可愛い花を是非見たいと思っています。
よくよく見るとミジンコが元気に泳ぎ回っています。

 去年「ささげ」を頂戴仕、おいしく頂きました。種として残した十数粒を鉢に植えました。今は高さ五六センチの双葉の状態になり順調に育っています。四葉になったら植え替えようと思いますが、グリーンカーテンにして省エネに励むつもりです。扨どうなりますことやら・・・

 二つともネットを通じてご厚誼いただいている方からの頂戴ものです。
ありがたく思いますし、大事に育てなくてはと思っています。
南九州はすでに梅雨入りしていますが、熊本もそろそろでしょうか。

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「旦夕覺書」 花--7

2011-05-26 09:16:58 | 旦夕覺書

妙應院様(綱利)御代四十七八年以前に熊本御發駕十日斗前に江戸御供に被召連候御中小姓以上に御直に被仰渡候は今度船中道中於江戸公儀御法度之趣堅相守可申候且又御自分より被仰付候趣末々之者共に堅可申付候 惣躰御家の儀は脇より見まねを仕由前々より御聞及被成候 若狭守(綱利弟・利重) 丹後守(宇土細川家・行孝)家来共にもむつましく申合候様にと思召候 必々末々より何角兎有之候ては上々の御苦身に成候事世上に多く有之候 斯様に不残被召出被仰聞候はひつきょう何も不便に被思召候故被仰聞候とて御立被遊候刻佐藤四郎右衛門何も跡にて能く申聞候へとて御立被遊候 御跡にて佐藤殿御申候は唯今之御意之趣何も入念勤可被申候唯今も被仰聞候様に御家之儀は前々より他所にも見習手本に仕事に候 江戸に面は御發駕前に五ツ過に被仰聞候 其刻老母に申聞候は御先代之咄度々老父被申聞候へ共御側近く御懇頃之衆老父初として涙を流し忝かり被申候事今以少も失念不仕候

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眞源院様(光尚)御代九年之内七年虫くひ何やかやにて不作にて御勝手差支申に付御番頭十二人に被仰付難被召仕者共吟味仕候而申上候様被仰付候 其後何も被召寄御家老中御吟味之時薮圖書(二代・正成)被申候は私組中吟味仕候所に不調法にて差當役儀等は勤兼可申哉御軍用に立不申者一人も無御座候御かって差支及御難儀今幸私嫡子右衛門(三代政基)三百石・次男島之助二百石三左衛門殿父・三男熊之允三百石三人之者江被下置候御知行差上させ可申候夫にても不足に思召候はヽ私江被為拝領候貮千石之内千石差上可申由被申候 同市正(薮正成・弟)・槙島半之允兎角三人ならては如此申候者無御座候 残衆は書付なと持参之衆も有之由尤即刻達御耳圖書書申所尤至極に思召由其刻薮内匠(初代・正照 12,000石)子相應之申様とて御家中末々迄感申候由老父咄申候 今の三左衛門殿(四代・正武)にも度々咄申候 何事も人の為に能殊に組親と昔より申傳候 拙者幼少之時覺へ申候 今之清助屋敷にて候いつにても門前に馬鑓たへす御番頭随一と申たる由

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同時代歳暮に御一門之御女中より御頭巾を上ケ申候時老人之御伽衆何も居申候所にて扨々是は老人共には幸の事とらせ度思へ共不勝手にて家中之侍共にも無心申儀何も可存候  側之者共に少にても物をとらするなと外様の侍共批判可仕候 納戸に置ケと御意被成候 御家中末々迄承申候て扨々忝御意奉成候由同名文左衛門咄にて候つる事

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藤村紫朗というひと

2011-05-25 12:22:58 | 徒然

以前、高祖父が書き残した「吉田傳太復仇現聞録」をご紹介した。史談会のN様に興味を持っていただいており、今朝ほど「藤村紫朗て知っとるですか」と電話をいただいた。

藤村紫朗は旧姓黒瀬、吉田傳太復仇現聞録に登場する黒瀬市郎助の実弟である。初代の官選山梨県知事であり、後男爵となった人だが、建築を生業とする私としては「藤村式建築」と称される擬洋風建築を数多くたてた人物として承知している。
熊本出身の明治初期の地方政治家として、熊本でも顕彰されるべき人物だと思うが、意外と熊本人はこの人の事を知らない。藤村氏自身が兄・黒瀬市郎助のことについては封印してしまったのかもしれなし、このことが原因して故里との交流も途絶えたのかもしれない。

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【藤村紫朗】
生年: 弘化2.3.1 (1845.4.7) ~没年: 明治42.1.5 (1909) 
明治期の地方行政官。熊本藩士黒瀬市右衛門,登千の次男。萱野太平養子となる。初め嘉右衛門と称した。尊王志士として国事奔走,文久3(1863)年七卿落ちに同行し,翌元治1(1864)年脱藩して長州軍に参加慶応3(1867)年王政復古クーデタに呼応して高野山挙兵倒幕活動の間,多く変名を用いたが,維新藤村紫朗に定める。明治1(1868)年明治新政府の徴士となり,多くの官職歴任。6年1月,山梨県に権令として赴任し,7年10月同県令に昇進,20年3月愛媛県知事に転じるまでの約14年間山梨県の行政を指揮教育,勧業,土木事業など多方面で急進的な文明開化政策一貫して進める。その際,棟梁小宮山弥太郎,松木輝殷らを登用して,「藤村式」と称される擬洋風建築を数十棟建設した。23年貴族院議員,29年男爵。実業家・政治家の藤村義朗は長男。  <参考文献>植松光宏『山梨の洋風建築』 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E7%B4%AB%E6%9C%97

http://kaz794889.exblog.jp/i14/

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