津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■忠利の腹

2022-08-31 10:11:46 | 歴史

 加藤忠廣の改易による大国肥後の新しい国主について、隣国豊前の細川ではないかとの噂は早い段階でちらほらあったようだ。

寛永九年八月十六日の忠利が内藤正重(秀忠側近・5,000石)に宛てた書状(1726-抜粋)には次のようにある。

            肥後之國我等ニ被下度由 かやうの大國ハいつかたにても所望ニ
                       (かえって)
            御座候へ共 ゆゑなく拝領ハ卻而餘のそしりいやにて候間
            もとのまゝがましかと存候 おかしく候 恐惶謹言
                八月十六日

                内外記様
                     御報

噂話であるからそうそう嬉しがって返書を認めるわけにも行かず、一応殊勝な感じである。
実はこれ以前、忠利が肥後國を希望する書状が存在するのである。畏友榊原職直(当時・御書院番頭、後・長崎奉行)に宛てた六月十三日の書状(1589- 抜粋)がある。

           肥後ノ國へハ誰が可被遣候哉 是ハ能々被成御思案可被仰付と存
           候 御仕置ハ此國主ニ而大かたかたまり可申と内々存候 と角か様
           ニ遠國ニ居申候は 肥後へ参度候 御出頭候而可頂御取合ニ候 さ
           れとも我等ごときの草臥もの彼國へ参候ハゝ 御ためニも成ましきと
           存笑申候 此國主ハおそく候ても 末々まて可然様ニ仕度事ニ候事

親しい間柄の人物とはいえ、幕府の要職にある人に対しての書状としては、いささか軽口のそしりはまぬがれないところであろう。
三齋が知ったら大目玉ものである。 

そして十月四日江戸城にて忠利に肥後転封が命ぜられるのである。
予想していたとはいえ、自ら望んだ大國熊本を拝領した忠利の気持ちは如何ばかりであったろうか。
この時期の忠利の書状は到って少ない。自らが江戸に在る事によるのだろう。 

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■「長生きはしないな」という実感

2022-08-31 07:30:45 | 徒然

 二回目のワクチン接種後あたりからの肩の痛みと、先々週の熊本史談会後の背中の痛み(リックの重い荷物)、先週金曜日の自転車での図書館往復後のふくらはぎの張り・・・傘寿爺様の身体は悲鳴を上げている。
こんな按配だから、深い睡眠がとれず連日睡眠不足状態が続いている処に、今朝は夜明け前、右足に強烈なこむら返りが起った。
何とまあ痛い事・・・4.5時間ほど経過したが足を引きずって歩いている。今日は朝散歩は取りやめ。
金曜日に図書館に出かけて休館日だったから、今日出かけようと予定していたが、それどころの話ではない。

 肩はズキンズキンするわけではなく「肩が上がらない」という症状、無理をすると痛みが来る。
重い本を左手で持っていたら、肩にこむら返り同様の痛みが来たことがあった。シャワーで熱目のお湯を肩にかけると少々改善する。
冷房を左肩に受けているから、これもよろしくないから長袖シャツを着るという有様である。
少々左手に痺れがあり、タイピングの合間に「グー・チョキ・パー」をやっている。

「長生きはしねえなー」と実感する昨今である。

 

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■重箱ばゝあ

2022-08-30 06:34:40 | 先祖附

「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」の最後に、善蔵さんはもったいを付けたように「お城のやうかい(妖怪)のはなしなんきゃ、人にはけつしてはなしちゃならんけん、ゆうなよゑゝかい」と話してこの聞覺控は終わっている。
さてこの妖怪の話とはどんな話だろうか?一二話があるようだが、「ノッペラボウの婆さんが石を担がせる」というものもあるが、私はこの「重箱婆」がそうではないかと考えている。日本民話の熊本編にあるものを、方言を交えてアレンジしてみた。


           重箱婆         

      むかしむかしゃ、熊本城ん近くの法華坂は、そらぁさみしいかところだった。
     そん坂ん上と下に茶店があってな、ある日ん夕方、一人の旅人が坂ん上ん茶店に立ち寄らしたげな。
     こん坂にゃ重箱婆ちゅう、ばけもんのでるちう話があったが、或る旅ん人がここば通りかゝらした。

     「もしおかみさん、こん坂が法華坂たいね」
     旅ん人は団子ば注文すると、店ん奥におるおかみさんに向うてこぎゃん聞かした。
     向こうば向いとらすおかみさんな、
     「はい、そぎゃんですたい」と答えらした。
     「ここにゃ、重箱婆が出るちゅう噂は本なこつかい」
     「はい、出ますばい」 
     「ほう、そらいったいどぎゃんもんな」 
     旅ん人は身をのりだして、向こうを向いとるおかみさんに聞いてみっと・・
     すっと、おかみさんな突然、
     「重箱婆ちゅーは、こぎゃんとですたい」と、くるっと旅人ん方ば振り向かした、

     なんちゅうこつかい・・

     そん顔は、目も鼻も口もなか、ノッペラボーじゃぁなかかい、
     旅ん人はたまがって、むちゅうで坂をかけおり、下ん茶店に飛び込ましたげな。
     中じゃ娘が一人、忙しそうにしとらした。
     そん旅ん人は真青になって娘にいうたげな。
     「ああ恐ろしか、ねえさん、わしゃ、重箱婆ちゅうもんば初めて見た」したら娘は、
     「お客さん、その重箱婆ちゅうは、こぎゃんとだったですど」と言うて振り向かした。

     なんちゅうこつかい・・、
     見っとこん娘も又ノッペラボーだったげな、
     そん旅ん人はもうやっとん事で、そこば逃げ出したげな。むげえ目に逢わしたこったい。
     上の婆さんと下の娘は親子だったっだろな。

                      (了)

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■三斎真筆の「高桐院清巌和尚宛」書状

2022-08-29 08:39:14 | オークション

慶應◆本物保証 安土桃山~江戸前期の大名茶人【細川三斎(忠興)】真筆 大徳寺塔頭高桐院(清巌和尚)宛の手紙 細川九曜紋表装 宇野東風読下

          

 宇野東風先生(当時細川侯爵家記編纂員・従五位)の読み下し文が付いた、真筆間違いなしの高桐院・清巌和尚宛の三斎公の書状である。
三斎の筆跡を集めている私としては、大いに有難い史料である。感謝。

                  御逗留中茶在之間敷候間
                  夏切之壷一ツ進之候此袋
                  茶ハ吉田壷へ入ル心見ニて候間
                  鷹ノ爪ノ袋三分一取出申候
                  一段能覺申候也
                               三斎
                   高桐院
                       参

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■消えてはいなかった光尚再婚の話ー4

2022-08-29 06:43:26 | 歴史

 先にも書いたが、「大日本近世史料-細川家史料」は、既刊は26巻が現況最終巻となっている。
その26巻の(5680)寛永17年7月13日・小笠原忠知宛書状に光尚縁邊に係わる記事がある。

    七月十二日之御飛札、十三日ニ拝見仕候、
          (中略)
   一、肥後守縁邊之儀、八條殿御息女之儀ハ無用と八條殿へ被仰出之由候事
   一、右近殿御息女之儀、右ゟ如御存知、讃岐殿(酒井忠勝)へ我等も右近殿も如御存知、讃州へ申入候間、定而何
     とそ御返事も御座候ハんかと聞耳を立て居申迄ニ候、時分も御座候ハんに、むさと申わけにても無御ぞ候故、
     讃岐殿次第ニして居申候
          (後略)
         七月十三日

         小壹岐様
             御報

 八條宮智仁親王の妹姫については、幕府から「無用」の知らせがなされたのであろう。
忠利としては一安心といった処であろうが、肝腎の小笠原家とのことに就いては一向に進展がない。
当時の忠勝は老中職をとかれ大老職であり、大事を議する日のみに登城したとされる。忠利としては只々待つ他手立てはない。
新たな「大日本近世史料-細川家史料」の発刊を待たねばならないが、忠利は寛永8年3月17日に死去するが、この小笠原家との婚姻の話は「忠利死去」を以て頓挫したのではなかろうか。
光尚は父・忠利の死去に伴い遺領相続、寛永20年1月8日には、側室・清高院とのあいだに嫡子・六丸(綱利)が誕生することになる。



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■ひつしのあゆミのひまもはやく候て

2022-08-28 07:29:04 | 徒然

 「羊の歩みの暇も早く候て」これは、細川忠利が最晩年の頃ある人への書状に記したものだが、頭注には「年よりにて光陰足早におぼゆ」とあった。
慣用句として存在してるようには思えないが、「羊の歩み」とは「歳月、光陰」などの意とともに、「死が次第に近づいている例え」などとされるから、島原の乱後体調のすぐれない忠利は、自らの死の足音を感じていたのかもしれない。
息・光尚の後室を迎えるために、大いに努力していた忠利だが、事の進展は牛の歩みのようであり、終に事は成就しなかった。

「年寄りにて光陰足早におぼゆ」のは、年寄りは誰でも思う事だろうが、本当に気が付けば一年なんてあっという間に通り過ぎる。
いろいろな思いを成就させるために、時間を有効に凄さなければならない。急がなければこちらの意に反して、お迎えがやってくる。

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■三の丸ニ坪井川と申川御座候

2022-08-27 17:26:56 | 徒然

 数か月前熊本史談会では「熊本城に三の丸はあったか、なかったか」という題で論議したことがある。
古い絵図を見ると「三の丸」の書き込みはあるが、時代と共にあちこちに動き回り、細川時代のある時期になると書き込みが途絶えている。
処が現代に至り、三の丸駐車場なる公共の施設が出来るに及んで、目の前に二の丸御館があったにもかかわらず、ここは三の丸なのかという素朴な疑問から発した疑問であった。

 寛永十七年にいたり、天草島原の乱により頓挫していた熊本城の修復その他が動き出している。
その中に城の内堀の役目を担う、坪井川の浚渫が始まった。関係文書では「三の丸ニ坪井川と申す河御座候」とあるから、これが又混乱に拍車をかけた。
八月十六日、島原の乱後嶋原藩主として移封された高力忠房に対して宛てた書状に、これらの事情が記されている。

                  (前略)
   一、罷有候熊本三ノ丸ニ坪井川と申川御座候、所々ニふかき所も御座候、大方ハひざぶしたけも無之所のミにて、
     水出候度々ニすな上り候へ共、三の丸にて候故、其すなを用ニ仕候事も延慮仕候間、得 御意候へハ、何時も
     土取仕可申之由、又、河尻ゟ熊本へはゞ二間計之壹尺ふかさ御座候井手御座候、是を高瀬舟を通シ度候へ共、
     はゝせはく候て、船ノ引ちかひ成不申候間、是又はゞをひろけ、舟ゆきゝ仕候様ニ仕度候よし申上候へハ、何
     も可申付よし奉書被下、か様之まんそく仕候儀無御座候、殊外右之通申付候ヘハ、自由ニ罷成候、忝候事、
                  (後略)
          八月十六日

          高力攝津守様
               人々御中

 この高力攝津守は、乱後の島原の復興に実績を上げたため、將軍家光の信頼を得、長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたといわれ、このような報告をしたものと思われる。

 ここにある、「三の丸ニ坪井川と申す川御座候」という文言は、三の丸の定義が不確かであるためどこを浚渫したのかはっきりしない。一つ考えられるのは「内坪井地区」である。土居や水堀に囲まれたこの地区は熊本城の東側のがけ下に広がる地域だが、ここにはがけ下に坪井川が流れていた。但しこの地域を「三の丸」とした古地図に出合わないので、単なる妄想の話となっている。

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■消えてはいなかった光尚再婚の話ー3

2022-08-27 09:08:16 | 歴史

 年が変わった寛永十六年正月十六日の小笠原忠知宛の書状に於いては、年末の忠知への申し入れに少々の反応があったことが伺える。
小笠原忠真の動きが見えてきたようだ。(大日本近世史料‐細川家史料25 5178)

   (前略)、肥後縁邊之儀、右近殿へ御尋候處、右近殿ゟの御狀持せ被下候、か様ニ御座候得は、安堵仕候、我等計ニ
   此儀御申させ候へは、事之外首尾違申候條、重而左様ニ候ハゝ、成次第ニ仕より外は御座有間敷存候故、餘不審ニ存、
   くど/\御尋申候ツる、御六ヶ敷御座候ハんニ、具右近殿へ被仰入、忝存候、又、大炊殿ハ正月二日中風之由承、無
   御心元儀と存候、尚期後音候、恐惶謹言
         正月十六日

         小壹岐様
            御報

     尚々、肥後縁邊之儀、我等罷下儀間無御座候間、彌御直談可有之由申來候、方々ゟ肥後へ縁邊之儀被申候由ニ候、
     わきを留可申様ハ無御座コトにて候間、何と 上意御座候ハんかと、難事はかりに候、以上

 この間、小笠原忠真に対しては忠利の書状は数件見当たるが、この婚姻については一切直接のやり取りはない。
すべて忠知を通して話が進められていることになる。上記書状に於いても忠真(右近)の御狀は直接はもたらされてはおらず、やはり忠知を通していることが判る。

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■稲葉彦六宛忠興書状

2022-08-27 07:05:34 | オークション

慶應◆本物保証 安土桃山~江戸前期の大名茶人【細川三斎(忠興)】真筆 豊後国臼杵藩主「稲葉信通」宛の手紙 書状断簡 消息文 掛軸 読下し付           

                                 

 表題にある如く読み下し文が付けられている。

                                                 尚々森美作殿へ明日得意
                 御礼申入候 以上
               御捻令拝見候 被入御精早速
               森美作殿へ先刻之趣被仰
               入 御返事見せ被下候 廿二日之
               朝可存御出之由本望此事ニ候
               必貴様も御同道奉待候 期
               面上候 恐々謹言
                 八月廿日     花押
                         細越中
                  稲彦六様
                     御返報

 稲彦六とは杵築藩56,000石初代藩主・稲葉貞通のことである。孫の一通夫人が忠興の三女・多羅である。
貞通は慶長8年(1603)9月に57歳で死去している。
文中の森美作とは、信長の小姓・森蘭丸の弟で、美作国津山藩の初代藩主・森忠政だと思われるが、前任地の信濃川中嶋藩から津山に移封になったのは、慶長8年だとされる。
そうすると、年代的接点は慶長8年のわずかの時期である。忠興と森忠政は大変仲が良かったと伝わる。
津山城建設に当たっては伝承があり、小倉城を忠政配下の者が海上より偵察していることを知った忠興が、城内に招き入れて見せたと伝わる。完成に当たっては、九曜の紋いりの南蛮鐘が祝いとして贈られて今でも現存する。
この書状の事柄はいったい何事であったろうか。
筆跡からすると祐筆によるものであろう。

 


            

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■何ということでしょうか・・

2022-08-26 11:03:03 | 徒然

 100枚ほどコピーをしようと1,000円札をポケットに入れて図書館に向かった。
最期の信号でとまっていたら、ふと今日は何曜日かと頭をよぎった。毎月の最後の週の金曜日は図書館の定休日なのだ。
あと200mばかり、なんだかペダルが重く感じられる。やっぱり休館日・・返却ポストに本を放りこみ、さてどうしようかと考えた。
このまま帰るとまた奥方に「馬鹿者」扱いにされてしまう。時間をつぶして帰ろうと江津湖畔にまわる。
今日は強い日照りがなく、川風が気持ちよい。あちこちに寄り道してスマートホンで写真を撮ってみた。

 
 釣りをする男性の横に、おこぼれ頂戴とばかりにアオサギが控えています       名前は判りません

  
 何方の句碑か判りません。俳誌・阿蘇とありました。    こちらは中村汀女さんの句碑、とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな お上手ですね・・
句も草に隠れて見えませんが、産卵の鯉の刎けり江津■とありました。

 
 沢山の子供たちの嬌声が聞こえます。清らかな湧き水に満たされた浅い天然プールです。         木陰にポツンと一つありました。

 
  スイゼンジノリ発祥の地の碑        将軍家に献上されたノリもここで作られたのでしょうか?

 

 アートポリス作品のトイレ


 芭蕉林の先の森が熊本県立図書館、かっての細川家別邸跡、芭蕉林の右奥には池があり時折カワセミが飛来します。
水深20㎝ほど(?)の浅い湧き水の池です。
今日もシャッターチャンスをものにしようと、お一人カメラを構えて頑張っておられました。ごくろうさん・・・
 

 

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■再び古文書の世界へ

2022-08-26 08:09:27 | 徒然

 長いコロナ禍の中で、図書館が閉館したりまた出かけるのに躊躇する期間が長かったせいで、随分古文書に親しむことがなかった。
そろそろ、いろんな古文書史料を読んでみようと思っている。
私は正史よりも、その裏側に隠れた事件やその他、稗史などがお好みで、「上妻文庫」「盤桓随筆」「吹奇与勢」「雑撰録」等から史料を見つけては楽しんできた。
四苦八苦して古文書史料を読み、いろんな時代の息吹を感じる記述などに遭遇すると、それはまさに至福の時である。
大先生方の刊本で得るものとは違う、私自身のみが知る情報という感が楽しい。
今日は図書館へ出かけそんな古文書史料を見付けようと思っている。気温が上がらないうちにチャリンコで出発することにしようと思うが、開館が9時半と遅いので夏はこれがいただけない。
以前出かけた時は財布を忘れ、コピーが出来なかったから、財布を確認・・準備万端整いまして今から出発です。

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■消えてはいなかった光尚再婚の話ー2

2022-08-25 08:53:07 | 先祖附

 先の■消えてはいなかった光尚再婚の話に於ける記事は、「大日本近世史料-細川家史料24」から引用したものである。
( )書きの四桁数字は、膨大な資料の資料番号を示している。
光尚の再婚話は細川家側から小笠原家側に対して申し込まれたものと思われる。大名同士の婚姻については将軍家の同意は勿論のことである。
遡ってみると過去に次のような記事を書いている。

    光尚の再婚話・・書状-1   2008-07-12
    光尚の再婚話・・書状-2   2008-07-13
    光尚の再婚話・・書状-3   2008-07-14
    光尚の再婚話・・書状-4   2010-09-01

 これらを読む限り、忠利の思惑とは別に八條家からの姫君輿入れの申し入れがあったもののようだ。
細川家史料の既刊は25・26巻まで発刊されているが、25巻(寛永15年12月1日~寛永16年12月19日)に於いては、小笠原忠知宛の次のような書状が目に付く。(5111)
小笠原忠知は当時杵築藩40,000石の藩主、小笠原忠真の次弟であり、この縁談は忠知を通じて進められている。
忠利から忠真に宛てた書状は多く見受けられるが、この縁談についての直接のやり取りは皆無といっていいほど見受けられない。

   態申入候、仍右近殿(小笠原忠真)御息女と肥後守(光尚)と縁邊(婚姻)之儀、右近殿へ御内談如申候、 御前
   不苦候ハゝ、御取成被成可被下由、我等も讃岐殿(坂井忠勝)へ可申候、右近殿も可被仰由、貴様御使にて被仰聞
   候間、如其則江戸にて我等は讃岐殿へ申入候、其段又貴様へ申入候ツる、其後又在所ゟも申入候ツる、然處ニ右近
   殿ゟハ讃岐殿ヘハ此儀不被仰候様ニ沙汰承候、左候ハゝ、無首尾成儀を我等申候様ニ成候て、迷惑仕候、但、如何
   御座候哉、若讃岐殿へ右近殿終不被仰儀事實ニ候ハゝ、我等方から計申候事も無首尾と申、如何ニ候間、肥後縁邊
   之儀何方へ成共成次第ニ可仕候哉、但、右近殿も江戸にて讃州へ被仰候ハゝ、首尾も相申候間、満足仕候、御報に
   被仰越可被下候、恐惶謹言
         十二月十八日
          (小笠原忠知)         
          小壹岐様
             人々御中

      尚々、先書ニも御理如申入候、從八條殿御妹肥後ニ被遣度由被仰越候へ共、聊以八條様を嫌申にてハ無御座
      候へ共、縁者中へ内談申候方御座候間、それを差置御請は不罷成候由申入候ツる、是又無御失念様ニ頼入申
      候、以上

 この書状に於いては忠真が直接行動をしないことに対し、忠利のいら立ちが見て取れる。
一方八條家からの婚姻の申し出は、忠利にとっては頭の痛い事で、小笠原家は縁者だから先んじて話を進めているという事を八條家には伝えていると弁明する。
いずれにしても、大名同士の婚姻は将軍の裁可事項である。先の書状からは三ヶ月経過しているが、事は全く進展していない。江戸と九州の距離感も感じられる。

 

 

 

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■沢潟には非ず「沢瀉」が正解

2022-08-25 07:03:27 | 家紋

 我が家の「沢潟=おもだか」は、近年は全く花を付けなかった。処が昨夕ベランダに出て眺めていると、ちいさな蕾が見えて感激した事であった。
一応気を付けて施肥したことが効を奏したようだ。

                                                      今朝の写真

 そしてふと思ったことがある。

沢潟の「潟=だか」は新潟の「潟=がた」と字は同じなのに、何故読みが違うのか、一瞬沢潟は「おもがた」と読むのが正解かとさえ思った。

 私同様不思議に思った方が居られるようで、見事な解説を見つけ出した。
「日本の名字を数える」というサイトに、「と沢に関して」があった。
この解説によると本来は沢瀉であり、これが沢潟へと変化した物らしい。「誤記定着型」というのだそうな。
ヒントは家紋の「沢瀉」だったそうだが、私はこの家紋サイトは何度も眺めているのに、全く今まで気づかなかった。
潟と瀉は似て非なるものだが、「がた」と「だか」であると、そうとも言い難い。
「瀉」は「① 水などがそそぐ。ながれくだる。 ② 下痢(げり)をする。くだる。 ... ① 水などを流す。まき散らす。 ② 腹の中の食物などを吐き出す。吐く。」等の意味があり、「おもだか」には「潟」の方が字義的には合っているように思える。

 さて今後はどうしようかと考えると、家紋だけは正式に「沢瀉」にしていこうと思った。
過去のブログも検索して随時訂正しようと思う。さて花をつけてくれない我が家の「おもだか」は「沢潟」のままで行こうかしらと思ったりしている。
日本語は難しい。

 

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■国宝「蒙古襲来絵詞」の新安住地

2022-08-24 09:32:28 | 新聞

  「蒙古襲来絵詞」は、私たち熊本史談会会員にとっては大変身近にある。
それというのも現在宮内庁所管の「国宝・蒙古襲来絵詞」の元の所有者・大矢野家の現当主が熊本史談会の副会長であるからだ。
大矢野家には「白描図」が残されており、二年毎くらいに二本の長い絵巻物をお持ちいただき展示していただいている。
「白描図」には「国宝図」には見られない欠落図があったりして、大変興味深い。
今般、三の丸尚蔵館の管理と運営が、2023年10月1日から「国立文化財機構」に移管されるという報道があった。毎日新聞の記事を引用させていただく。
建物も整備され、「蒙古襲来絵詞」をはじめ、皇室に係わる収蔵品が新たな安住の地をえる。
そうなると公開の機会も増えることだろう。多くの皆様に見ていただきたいものだ。
我が史談会でも来年あたりには又展観の催しが企画されるのではないか。大いに楽しみではある。


 皇居・三の丸尚蔵館、宮内庁から国立文化財機構に移管 拡充工事中   配信

建て替え後の三の丸尚蔵館のイメージ図=宮内庁提供
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■消えてはいなかった光尚再婚の話

2022-08-24 06:36:01 | 先祖附

 かって光尚の再婚話・・書状-4をかいた。八條宮家の御息女と、光尚生母の実家・豊前小笠原家息女が同時に候補にあがり忠利が苦悩していたが、天草島原の乱の勃発により立ち消えになったと思っていた。
処が寛永十五年九月十五日の坂井忠勝宛書状(4859)を見ると、どうやらこの話は生きていた。

   一筆令啓上候、仍早晩哉、肥後守(光尚)縁邊之儀、小笠原(忠真)殿息女と申合候ハゝ、只今右近殿と我等との
   間同前之儀ニ御座候、御次而之刻尾取成被成可被下候哉と内々申入候ツる、右近殿ゟも其段貴様へ可申上由、壹岐
   (小笠原忠知)殿を以御申候ツる、其分にて御座候哉、重而 上意御座候ヘハ、不及申何之道にも御理りハ不成わ
   けと奉存候ニ付而、先立右之段申入候ツる、其刻ゟ如申入、大名衆ニ而無御座候ヘハ、何れにても忝存事候、次、
   當八條殿(智忠親王)より古八條殿(智仁親王)殿御息女肥後守と一所ニ被成度由被仰越候、貴様へも被仰候由被
                                        御座候間、申なをし申候儀

   仰聞候、御人持にても無御座候間、同心にて御座候へ共、右ゟ貴様へ内々申置候儀〇ハ不罷成由御返事申上候、右
   内々申入候方不成様ニ候ハゝ、我等方ゟハ言上不成わけにて御座候へ共、八條殿なとの被仰分ハ御披露も被成能候
   ハん間、從八條殿之被仰分相調候様ニ被仰上可被下候、又、いつれそ被 仰出候てからハ不成儀ニ御座候間、存通
   如此候、恐惶謹言
         九月十五日

         酒井讃岐守様
             人々御中

家光の内意がなければ小笠原家に断りも入れられず、又八條家の申し入れもあり、内約がなされなければこの件についても家光に披露してもらいたいと言っている。

又、このことに就いては京極主膳(高通)にも書状が発せられている。(4860)
これは八条家からの申し入れについて京極高通が親王の意を取り次いできたことによる。
それは八條宮智仁親王の室(智忠親王生母)が、京極高知女であることによるのだろう。
忠利はその経過を縷々説明をしている。忠利にとっては家光の内意をまつのみである。
光尚の生母は小笠原氏、養女ながら家康の孫である。家光とは従兄妹の間柄である。
その結果がどういうものであったのか、種々資料を見つけなければならない。
ただし、結果としては側室・清高院に男子(六丸=綱利)が生まれ、正室を迎えることはなかった。

 

  

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