津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三条実美と細川家

2016-06-30 19:20:13 | 歴史

 購読している吉川弘文館のPR誌・本郷(124号)が送られてきた。ここに興味深い文章があった。
刑部芳則氏の「三条実美の個人情報」だが、まさに同氏の著「三条実美・孤独の宰相とその一族」のこぼれは話といったところか。

明治政府の最高官職・太政大臣を務めた実美は、当時の警察官の初任給が6円の時代実美は年俸・交際費・終身年金を合わせ6万円だったという。
しかしながら。交際費や自らが使う人件費などで家計は必ずしも楽ではなかったという。
それゆえ毛利家から無利子で10万円を10年賦で借りたり、縁戚に当たる細川家から1万円をもらったりした。

細川家が縁戚だというのがどうも解せないが、実美の継嗣二男公美の奥方が松平春嶽の娘であるという、廻り回っての縁家ということだろうか。
春嶽夫人は細川家の出である。

同氏の著「三条実美・孤独の宰相とその一族」を読めば答えがあるのか、読んでみようかと思っている。

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■お安く読む・SB新書 「その後」が凄かった!関ヶ原敗将復活への道

2016-06-30 10:23:57 | 書籍・読書
「その後」が凄かった! 関ヶ原敗将復活への道 (SB新書)
   二木謙一著
  SBクリエイティブ

お隣柳川の立花家と熊本の加藤家・細川家の関わりは大変深いものがある。
立花家改易の後、加藤清正はその家臣を受け入れ、又誾千代姫を預かった。
一方細川家は立花宗茂の奇跡の復活に大いに尽力している。
二木先生がこれらにどう触れておられるか、大変興味深い。 津々堂記

内容説明

関ヶ原合戦で徳川家に敵対した大名は約150家。敗者へは主に「改易」という厳しい処分が待っていた。だが、己の才覚と努力、そして運でもって、再び大名に返り咲いた者がいた。現代人も挫折や左遷など憂き目にあうことが多い。逆境にあっても、なお信を貫き、強く生き抜く術は、戦国の「敗者復活型人間」に学べることが多いであろう。本書は大河ドラマ時代考証で有名な著者による、現代人にも通じる異色の歴史教養本。

目次

序章 敗者体験を活かした武将が生き残る
第1章 一日で決した「関ヶ原合戦」敗者の運命
第2章 見事に敗者復活した者たちの処世術
第3章 敗者体験をバネにできた者、できなかった者
第4章 勝者になっても安泰ではない者たち
第5章 「敗者復活」を賭ける最後の舞台になった大坂の陣

 

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■23時14分地震

2016-06-29 23:20:22 | 熊本地震

 23:14 震度4(西原・菊陽)の地震あり、わが東区では3、久しぶりという感じ・・・・・
震源は北緯32.8度/東経130.9度 つまり4月16日の本震の北緯32度45.2分東経130度45.7分 に近いということ。
本震の震源周辺がまだ壊れている。

         経度・緯度の指定によるGoogle Earth/Google Maps/地図の起動

 

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■転居先周辺を地図散歩

2016-06-29 11:44:26 | 地図散歩

 転居した我が家の窓から、自衛隊の西部方面総監部・健軍駐屯地の赤いタワーが見える。直線距離にして最も近い所(西北角)では300メートルほどだろうか。
梅雨が明けたらこの自衛隊敷地を一周する朝の散歩を楽しみたいと思っている。
自衛隊のこの場所はかっての三菱重工業・熊本航空機製作所があった場所だが、広さは約半分ほどである。
ここには終戦まで重爆撃機「飛龍」を生産していたのこぎり屋根の広大な工場が残り、自衛隊の施設として利用されている。
熊本航空機製作所の北側には健軍飛行場があった。現在の日赤熊本病院あたりが滑走路である。
又、自衛隊の敷地の西北角から西に進む道路は、かって豊肥線水前寺駅につながるいわゆる「三菱引っ込み線」の名残である。
私は幼年期大江町本(現在・新大江3丁目)に住んでいたから、「三菱引っ込み線」は格好の遊び場だった。
「九州ヘリテージ」というサイトの中に旧三菱重工業熊本航空機製作所がある。
たくさんの写真や詳細な位置を示す地図などが紹介されていて、この地図を手掛かりに「地図散歩」をしている。

この地図を眺めていると、健軍飛行場の周辺の道路や水路の名残が今でも確認できてなるほどと合点させられる。
自衛隊の南に位置する沢山の公共施設や、学校、商業施設、公務員住宅や県・市営住宅などが、三菱熊本航空機製作所敷地であったのだ。
そして現在は市電の終点につながっている。

これら健軍飛行場・三菱熊本航空機製作所の跡は、新興住宅地となっているが、かってこの様な施設があったが故に熊本大空襲にさらさた事をご存知の方はどれほどおいでになるだろうか。
私は一応大空襲の経験者である。 

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■宗嚴寺と大寧寺、流長院

2016-06-29 08:32:47 | 歴史

 先に■「肥後名家墳墓録」からを書いた。我が遠祖庄左衛門の兄・長五郎の娘・熊のことが書かれている。
その熊(龍源院)がお寺を創建したのだというから驚きだが、残念なことに明治十年の西南の役で焼失したと思われ、廃寺となった。
熊の関係者のお墓などあったものと思われるが、詳しいことはようとして知れない。

「肥後名家墳墓録」を読むと、「建九重石塔於流長精舎」とある。流長精舎とは現在の流長院だと考えられるが、この九重の石塔は現存するのだろうか。
流長院のあたりは、かっての坪井川の流路が大きく変更され現在に至っているから、ひょっとすると現存していないかもしれない。

随分以前清正公の遺産・瀬田井樋修復を書いた折、その文中にこの石塔のことを書いた。寛政八年の大水害に関することである。 

「寛政八年(1796)六月十一日に熊本を襲った大洪水(辰の年の水害)は、熊本藩年表稿によると高さ1丈6尺(約4.8メートル)の古今未曾有の洪水と成り、熊本府内京町山崎の外全域浸水、潰家2,927軒、田畑15、202町、損毛362,000石に達したとある。
内坪井の流長院では九重の石塔の六番目、約6メートルの高さに達したという。」
ここに九重の石塔が登場する。
何故流長院に石塔を建立したのか?。肥後国誌によると龍源院は寛文十一年(1671)
寺原の地に宅地を求めて一宇を興し、流長院三世船若和尚の弟子恵日を庵主とした。ここに流長院との関係が見て取れる。 

寛文十一年(1671)このお寺宗嚴寺を創建するにあたって、遠く長州の大寧寺(タイネイジ)の末寺となった。大寧寺二十五世悦源を開山とする。恵日を二世とした。
なぜ長州長門のお寺なのかと不思議に思えたのだが、もともと磯部氏は毛利家の家臣であった。長門に住んでいたのだろうか。
もっとも長五郎・庄左衛門は父・磯部市右衛門とともに下松に浪居しているところに、京や江戸へ登られる忠興公一行が度々立ち寄られ、その後兄弟二人が豊前へ召し寄せられたという経緯がある。どうも長門へは結びつかないが今後の課題である。

断片的な資料を集めながら、これらをつなぎ合わせて「お熊さん」に迫ってみようともがいている。


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■めっけ・・グーグルマップの間違い

2016-06-28 10:28:53 | 徒然

 グーグルマップを眺めていたら間違い発見、井芹川の表示が坪井川になっている。
地図を上流側へさかのぼっていくと、西区池田4丁目と釜尾町の境あたりで上流側を井芹川、下流側を坪井川と表記してある。
そして西区上高橋1丁目あたりで坪井川本流(?)に合流するまで、ずっと誤記されていた。
教えてあげようと思うがどうすればよいのかよくわからない。いろいろぐぐっていたらGoogle Mobile Helpを見つけた。
べつにあわてることもない。その内にチャレンジしてみましょう・・・・

16:35フイードバックしました。ところが「現在日本では、一部地図データの修正対応をすることができません(例 : 道路、ビルなどの名称)。データ提供元と協力して、定期的に地図情報を更新していきますので、あらかじめご了承ください。」とある。
さていつ修正されるか、ときどきチェックしてみましょう。

ちなみに
国土地理院地図で距離を測ってみたら7.9キロにわたり誤記されておりました。ひまだね~

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■堅山南風 筆/朝顔図絹本マクリ/芸術院会員/熊本県生

2016-06-28 07:05:42 | オークション

堅山南風 筆/朝顔図絹本マクリ/芸術院会員/熊本県生   堅山南風 筆/朝顔図絹本マクリ/芸術院会員/熊本県生

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■罹災証明

2016-06-27 17:44:14 | 熊本地震

 ようやく罹災証明発行の為の現場調査が入った。地震発生から74日目である。この判定については結果のみが知らせられ、その判定の過程が知らされず不明瞭であるため、判定に不服な方々が再調査を依頼するケースが跡を絶たない。まだまだ時間がかかりそうだ。

改めて物がなにもない部屋に入ってみると、外壁の貫通した大きな亀裂や、壁の傾き、それにともなうサッシュの変形などが見えて、地震の威力の凄まじかったことを改めて実感した。
結果は二週間後に知らされるとのことだが、今は「まな板の鯉」の状態である。
結果をふまえてそろそろ地震の後遺症から立ち上がらなければならない。鬱陶しい梅雨が明けるころ、気持もいっしょに晴ればれとしたいと強く思っている。 

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■沼山津方面

2016-06-27 07:41:18 | 熊本地震

 昨日は昼食後地震被害が大きい沼山津(ヌヤマズ)から、益城方面の状況を見ようとチャリンコで出かける。
まずは沼山津へ入ると倒壊した住宅が多々見受けられる。大きな屋敷の住宅が重機で壊されているが、掛け軸がかかったままの立派な床の間がある部屋が、いきなり目に飛び込んできて何とも痛々しい。さらに奥へ進むとすでに母屋は取り壊されたと見えるお宅は、納屋に使われていたと思われる建物の外壁部分にシートを下げて、多分ここで仮住まいをしておられるのだろう。又建って間もないと思われる6~7階建てのきれいなマンションが、壁・柱に大きな亀裂が入っており、住人の姿はまったくなく多分解体されるのであろう。
横井小楠記念館も被害を受けており入口は閉鎖されている。その奥に「四時軒」の無残な姿がなんとも痛々しい。

なんとか復旧再建を望みたいものだ。 (震災に遭った横井小楠旧居「四時軒」【熊本の話題】 をご覧ください。)
周辺の道路はチャリンコで走るのに難儀するほど波打っている。秋津川が近くかっては田んぼが広がっていた地域で、地盤も弱いのだろう。

それから益城の街中へ進もうと思ったが、だんだん気が重くなってくる。照りつける太陽で疲れも増し、益城の入口まで進んだところで引き返す。
都合3時間疲労に加えて、あちこちの被害のありさまに帰宅しても心が重く気分は晴れない。
ただただ被災された皆様の安寧をお祈りするばかりである。 

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■試練

2016-06-26 18:41:42 | 熊本

 今日は昭和28年に大水害に見舞われた日である。今年も大変な大雨に見舞われたが、昭和28年は雨が長期に及び累計雨量は比べ物にならないほどであった。
あの水害で命を拾い、今度の地震でまた命を拾い・・・・長生きするよと人がいう。

考えてみると私は、昭和20年7月の熊本大空襲も体験している。庭に掘った防空壕に祖母たちと逃げこんだ。
洗濯をしていた母は機銃掃射を受けたが幸いに無事だった。お隣のYさんのお宅には焼夷弾の火のついた油布が落ちてきたが、こちらも大事には至らなかった。3歳6ヶ月の子供だから覚えているわけではないが、祖母や母たちの話である。

二度目の災難が上記の水害、床上1.8メートルの大被害で家も少し傾いた。財産の粗方が流失した。

三度目は平成3年の台風19号、直接の被害はなかったが随分長いあいだ電気がつうじず難儀した。
被害調査にかり出されて二・三か月熊本県下の被災住宅を調べて歩いた。

二度あることは三度あって、四度目まで体験することになった。
四度あることも五度目はなかろうと信じて疑わないが、一間先は闇の中である。 

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■悲惨な東十八間櫓

2016-06-25 19:48:19 | 熊本地震

 熊本史談会6月例会出席。バスで熊本市役所前まで行き、それから会場の伝統工芸館まで歩いて5~6分。
左手熊本大神宮の裏手に崩壊した無残な姿の東十八間櫓が目に飛び込んでくる。雨の中前を通る人たちは、歩みを止めて一様に見入っている。
石垣が崩れ落ち櫓の残骸が痛々しい。石垣には明らかに亀裂が伺えるが、ここ数日の大雨でまた崩壊が進むのではないかと懸念される。

私はこの櫓にはいささかの思い入れがある。我が先祖四代目の吉右衛門がこの櫓の櫓番を仰せつけられていたからだ。
「ご先祖様、あなたがお守りしていた櫓は、今無残なすがたに変わり果て涙雨に打たれています。どうぞ早く元の雄渾な姿に復元されますようお祈りください。」
如何ともし難い現状であるが、ただただ祈るばかりである。 

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■ij34_細川家 九曜紋 長崎螺鈿文箱 桜透金具

2016-06-25 18:16:19 | オークション

   ij34_細川家 九曜紋 長崎螺鈿文箱 桜透金具  ij34_細川家 九曜紋 長崎螺鈿文箱 桜透金具


    こんな美しい文箱、手元に置きたいな~とちょっと気持が動きますね。高値に成りそうな感じ・・・・



   慶應◆細川家伝来 九曜紋散朱塗螺鈿象嵌大名箪笥 唐銅菊花金具  慶應◆細川家伝来 九曜紋散朱塗螺鈿象嵌大名箪笥 唐銅菊花金具

 

   黒漆の地に春慶のような風合いの朱色の漆を重ねて九曜紋を浮き立たせている。又きらびやかなあこや貝(?)の象嵌が印象的。
   落札されたら何をお入れになりますか・・・・・
    

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■熊本史談会誌・第一号 できました

2016-06-24 10:36:10 | 熊本史談会

                       

 

 ここ数日悪戦苦闘してきた「熊本史談会報・第一号」がようやく出来上がった。明日の六月例会に滑り込みセーフである。
両面コピーを約400枚ほどして21部作成、手作りである。
製本機を購入したものの使い物にならず物入れにおさまっている。
製本だけ専門の店に持ち込もうと思ったが、なんとかやれるだろうとチャレンジ・・・なんとか成った。
会員の貴重な会費で運営しているので、出費はなるだけ抑えなければならない。
今回はよい経験だった。原稿さえ集まればなんとかやれる自信がついた。問題は皆様がどう評価して下さるかだ。
地震のために4・5月の例会はお休みとしたが、明日は皆さんの苦労話をお聞きすることになる。

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■今朝の目覚め

2016-06-24 06:54:22 | 徒然

 今朝の起床は5時半まえ、地震でも大雨の音でもなく・・・・強烈な「こむら返り」である。
あまりの痛さにベッドから起き上がることもできず、しばらくの悶絶状態から転げ落ちるようにしてベッドから下りた。
最近チャリンコでうろうろしているせいで、足の筋肉が「にほん縦断・こころ旅」の火野正平なみ(?)になっている。
正平さんは「こむら返り」は起こさないのだろうかと思うのだが、スタッフもついてちゃんとケアもなさっているのだろう。
シンクロナイズドスイミングや高飛び込みや、体操の選手などの美しく「つま先を伸ばす」動作をやれば、たった今でも「こむら返り」を起こさせることは簡単である。

PCのキーを叩きながら、つま先を強く床に押し当てて予防している。

今日はまた大雨の一日になるらしい。チャリンコに乗ることもなく、ふくらはぎ休養の日と相成る。 

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■梅雨の中休み

2016-06-23 18:47:10 | 徒然

 記録的な大雨で地震の被災地を含めあちこちで大きな被害が出ている。
今日は梅雨の中休みで、お昼過ぎからは太陽も顔を出し熱い一日となった。

そんな中所用で区役所まで出かける。熊本市は70歳以上の高齢者に対し市の公共施設の入場料を免除する「さくらカード」を発行している。
また熊本市内を走る公共交通機関の料金が1/5ですむ「おでかけIC」なるカードがある。
予め金額をチャージしておき、バスや市電で「さくらカード」を示してICカードで1/5の料金を支払うという訳だ。

このカードを作ろうと出かけた訳だが、証明写真が必要なので写真屋で撮影・・・
出来あがった 写真を見てびっくり・・・・頭がない~~~、バックが白い処にもってきて私が100%に近い白髪の故だ。
これは人様には見せられないな~と思いながら、カードを作ってもらった。(運転免許の写真も変な感じだし・・・・)

葬式用にちゃんと頭がある写真を準備しておく必要があると真剣に思った・・・・・・

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