津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■水無川のゴイサギ

2017-08-31 14:15:47 | 徒然

 すぐ近所を流れる健軍川は水無川である。日頃は川底は草ぼうぼうで流れはないが、いったん雨が降ると周辺の水路の水がここに集まり、ごうごうたる濁流になる。
半日もすれば溜水が残る程度で元の水無川に戻る。
今日昼過ぎ、郵便を出すために近所の郵便局へ出かけた帰り道、男の子が川を覗いているのに出会った。
グレーがかったゴイサギが独特の猫背スタイルで、せき止められた水たまりにたたずんでいる。
男の子の隣に立つと彼は私を見上げて、「ここには魚はおらんとに(居ないのに)、ご苦労なこったい(事だ)」とつぶやくと走って去った。ご尤もと思わず笑いが込み上げてきた。日頃は水無川だから水はあっても魚はいない訳で「ご苦労なこと」と相成る。
この川では時折見かけるから同じ鳥ではないかと推測されるが、あまり学習していないなーという感じ・・・

さてゴイサギは「五位鷺」だが、「五位」の位を与えられたという後醍醐天皇の逸話は有名な話である。
私の友人が語るばかばかしい話がある。「なぜ五位なのか」という話。
人間世界では四位以上と五位以下では雲泥の差がある。五位の位の人はなんとか四位下でもよいから昇官したいと運動するのだそうな。
この分かれ目は雨の日笠を被ることができるか出来ないのかというところにある。
御供の際雨が降り出しても濡れっぱなしになるのは、人目もあり屈辱的でもあるという。

ゴイサギは「雨の日は笠はいらんけん(いらないから)五位にさしたったい(したのだ)。四位になったらかえって迷惑」と誠に下らない解説をする。
男の子のつぶやきは誠にご尤もだが、いい大人の友人の話は聞くに堪えない。

 

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■秀吉の普請

2017-08-30 16:04:21 | 書籍・読書

                          No.57 「秀吉の普請」 2016年

 注文しておいた「季刊大林 №57 秀吉の普請」が送られてきた。
この機関誌はゼネコン大手の大林組が出しているものである。1978年創刊というから歴史は古い。
山本博文氏等執筆陣は多彩である。建築・土木の専門の会社であるから、建築を生業としていた私としては歴史ともども、工学の目線も大変興味深い。
一部1,000円(送料別途)内容豊かで読み甲斐がありますよ。バックナンバー

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■二つの死亡事件

2017-08-29 22:11:51 | 歴史

 昨日は玄関のドアを開けることなく、終日我が家にこもりT家に関する史料を読み漁った。
T家に関連する八木田家の先祖附を読んでいるが、八木田家はわが祖母の叔母が嫁いだ家でもあり大変興味深い。
七代の十郎助は新撰事蹟通考三拾余巻を編纂した人物である。
           八木田桃水 名は政名、幼名亥之助。 十郎助と称し晩年桃水と号せり。藩に仕へ食禄
                 二百五十石、八代城付組脇及び鉄砲頭を勤む。弱冠志を興し数十年の効
                 を積み、新撰事蹟通考三拾余巻を編纂す。
(肥後文献叢書・第三巻)
                 弘化四年十月五日没す。享年六十九。墓は春日萬日山。
十郎助は大叔父を養育していたが、この老人若いころはなかなかの元気者であったらしく士席浪人格の者を殺害している。
「(文化二年)同十一月育之大叔父・八木田小三郎儀先年士席浪人被指殺候処其後行状相改数十年堅相慎當年八十□才ニ罷成極老旁格式已前之通被仰付旨如通」とあり、九十歳になった折には「長寿を被遊御祝銀二枚被下置・・・」とある。
どうやらこの事件、小三郎に特段の沙汰があったとも思えず相手方に非があったのであろう。

八木田家には他にも事件がついて回っている。十郎助の嫡子・勝助の代には「去年(天保十一年)五月縁者清田又右衛門育之浪人笠龍之助と申者又右衛門夫婦を始数人及殺害同人宅江閉籠居候段承候ハヽ速ニ罷越」たが、誰かの通報で役方を頼んだらしいが本人は自殺に及んだ。
縁者の清田家の事件であるが、天保十二年閏正月勝助は知行50石を召し上げられている。奥方かご母堂のご実家でもあろうか。
天保八年37歳で家督しているから、40歳の頃の話である。

二つの事件について手持ちの資料をいろいろ調べているが、現況その詳細は判らない。

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■三齋公覚書文案

2017-08-29 12:01:23 | 史料

                     一 市蔵書出竹原ニ無他言様ニ
                       堅申付 人のなき所にてかヽせ
                       可申す候 其方所へよひ候てかヽせ
                       可申候事
                     一 むろも兵へニ百石かそう可遣間
                       宇さ郡荒木村生田権内
                       上り知ノ内これも書出かヽせ可
                       申候 かそうとして百石遣先知
                       合二百石遣と可書付事
                     一 日付ハ両人共ニ明日十六日ニ
                       かヽせ可申事
                     一 代官かへの事書付可上候事
                     一 右知行ノ目録も候ハヽかヽせ
                       可申事
                        已上  次兵へ

 これは寛永元年に三齋が志水次兵衛に対し(若枝)市蔵と室茂兵衛の加増に関し指示したものである。
一行目の竹原とあるのは惟成(墨齋玄可)のことであり、隠密に御書出を作成するように指示している。
市蔵を若枝氏と特定できるのは、八月十三日付の別途の文書で若枝の名前を挙げて同様の指示をしていることによる。

            ○ 室 茂兵衛  三斎様御附中津ニ相詰候衆 二百石 (於豊前小倉御侍帳) 
            ○ 若枝 市蔵  三斎様御附中津ニ相詰候衆 二百石 (於豊前小倉御侍帳)

 寛永九年の三齋公の八代城入城に二人の名前は見えない。

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■寛永十年・細川家法度書(写)

2017-08-28 06:34:49 | 史料

 細川家肥後入国直後の寛永拾年二月五日付けの初の法度書といわれるものである。

                     覚
           一、申聞せ可然於有之ハ 不残心底不計機嫌
             口上ニ而も書付ニ而も可申上事
           一、陣普請之儀不断心ニかけ 自然之時無滞様ニ
             可申付 不及分別事於有之ハ 節々可申聞事
           一、家中之面々其身分際ニ過たる作法仕者
             有之ハ心を付可い戒事
           一、侍共下々ニ至迄覚悟能もの見届聞届
             無依怙可申上事
           一、其身無如在事を 如在有様ニ聞入事 間々
             可在之候 慥聞届無贔負(屓)偏頗可申聞事
           一、國中ゟ一切音信不請様ニ心得可申事
           一、与頭其外役人等申付ノ趣 むハさるやうニ
             心得それ/\の頭立候様ニ可仕事 付り他國
             之出入可令覚悟事
                以上
              寛永拾年二月五日  

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■護貞様の本音

2017-08-27 07:21:22 | 書籍・読書
 陶庵随筆 (中公文庫)
 
  中央公論社

  私の愛読書に勝田龍夫の「重臣たちの昭和史」がある。
「木戸幸一、近衛文麿、そして原田熊雄。三人は元老・西園寺公望門下生で、“園公三羽烏”と称された。時おりしも、政党政治の時代から軍部の台頭へと風雲急を告げていく―。岳父である原田熊雄や、木戸幸一の新証言によって、昭和史の奥の院を描き出す!」(BOOKデータベースから)というものだが、近代史の一面が伺える佳作である。
文庫版の(上)巻の表紙には、車から降りる西園寺に手を貸す秘書の原田熊雄が写されているが、和服の西園寺とスーツにカンカン帽姿の対比が面白い。
原田のおしゃれなファッションセンスは彼がクオーターであることかもしれない。著者はこの原田熊雄の女婿である。

この本を読んでいるうちに、昔西園寺公望の随筆集を購入したことが有るなーと思い、それこそ押し入れの開かずの段ボールを探しまくったが発見しきれない。WEBで検索してみると写真の「陶庵随筆」であった。
これを早速購入、改めてページをめくると読んだ記憶が全くない。
名随筆だと編者の国木田独歩が称賛しているが、毒気のないさらりとした文章に好感が持てる。
驚いたことに最後に細川護貞様の「陶庵随筆をよんで」という小文があった。これも記憶がないから最初に購入した時全く読んでいないことを証明したようなものだ。
この文章を読んで私はおおいなる衝撃を受けた。名前はないもののその人物が誰であるのかはすぐ理解できる。その人物を罵倒される激しい文章はまさに護貞様の本音であろう。1990年初版の本だから護貞様晩年(2005年没・93歳)の頃の文章である。
西園寺公の随筆、国木田独歩の解説、細川護貞様の心の底の激しい想いを吐露された文章にぜひ触れていただきたい。 

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■口中楽しからず

2017-08-26 10:31:49 | 徒然

 24日ブリッジ装着後の経過を確認するということで一月ぶりに歯医者通い、実はその数日前から治療ヶ所の近くの歯茎が魚の空気袋の様に腫れて誠に気色が悪い。現在痛みは消えたが腫れは残ったままで、処方された化膿止めの薬を毎食後服用している。
どうやら歯周病らしい。
10数年前通った歯医者さんに、「丈夫な歯ですよ、80歳まで自分の歯で食事できますよ」とご託宣をいただいたが、残念ながらそうはいかなかった。
最近では爪楊枝が欠かせなくなり、肉や野菜の繊維分が右の奥歯あたりに詰まって、毎食後悪戦苦闘している。
ついつい歯茎を傷めて痛みを起こすことが有る。齢を重ねると歯並びまで変わるのだろうか?
かわいい衛生士の方が、「糸ようじを使って奇麗にしてくださいね」とおっしゃるが、どこに詰まったかが判らないので始末が悪い。
ただただ爪楊枝の消費量が増える昨今である。


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■神沢杜口の「翁草」

2017-08-25 06:56:38 | 書籍・読書

森鴎外の「阿部一族」は、京都町奉行所与力の神沢杜口(貞観)の著「翁草」にそのヒントを得たとされる。
翁草とは日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によると次のようにある。

 江戸中期の随筆。200巻。神沢杜口(かんざわとこう)(1710―95)著。1792年(寛政4)の西山拙斎(せっさい)の序文、その他によって、
 1760年代後半から90年ごろ(明和(めいわ)から寛政(かんせい)初年)にかけて順次成立したと推定できる。近世に成立した書籍、記録を
 抄録して一書と成したもの。内容は、歴史、地理、文学、芸能、有職故実(ゆうそくこじつ)、美術、工芸、宗教など多岐にわたる。
 杜口が京都町奉行所(まちぶぎょうしょ)与力であったので京都の事件、風俗などについて、また俳人でもあったので江戸中期京都俳壇につ
 いての、それぞれ詳しい記述がみられる。版本『翁草』は5巻の抄出本。『異本翁草』もある。[宗政五十緒]

そして刊本としては、『日本随筆大成 第3期 19~24』(1978・吉川弘文館)に所収されているらしい。
非常に短い文章らしいが、そういうものがあるのならばぜひ確認する必要がある。
ところが熊本県立図書館がこれを所蔵していない。「日本随筆大成」は古本市場ではよく見かけるが、現況『第3期 19~24』は見受けない。
さてどうしたものかと思案中、他の図書館から借り受けてもらう様にしようかしら・・・

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■有吉英貴銀子預状

2017-08-24 06:57:25 | 史料

                    預り申銀子之叓
                     合貮貫目者(黒印)丁銀也

                   右者其方母儀ゆづりニ遣即母儀被申分者此銀其方
                   親子之具足箱ニ入置 うゑニ及候共遣不申 自然俄ニ
                   御陳等之時馬人ニ仕御用ニ可立と被申渡候ニ付嗜
                   被申候へ共 御國替以後知行悪敷候ニ付而我等ニ預ケ
                   年々利足を壹ケ月壹貫目ニ付拾五匁宛出シ候へ
                   是を以積申様ニ被仕度候 京都ニ被召置候内者
                   殿様へ御出入仕者二銀子壹分ニても無心被申間敷覚悟ニ
                   付 我等ニ預ケ被申由ニ候 近比無心ニ候へ共被申懸候間預り
                   申候 然上者御陳事之剋者不及申 又年々之利足
                   遣可申候 右之理り聞届候て預り候上者何時成共其方
                   被申次第ニ渡可申候 為其一筆如件
                     寛永拾三年十二月朔日    有吉頼母 花押(黒印)
                            佐藤少左衛門殿
                            同  勝三郎殿

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■自祝

2017-08-23 10:19:57 | 徒然

 わがサイト「肥後細川藩拾遺」2003年8月22日に立ち上げてから昨日で14歳と相成った。すごいなーと自分自身で驚いている。
ブログの方はPCのトラブルで前半の方は消去されてしまったが、2004年7月に再スタート、訪問者がそろそろ100万に近ずいてきた。
閲覧数は600万回を超えているから、御一人の方が6回御覧になっているという勘定である。ただただ感謝である。
いまはひたすらブログをつづる毎日だが、本家のサイトの方も充実させたいとあせるばかりである。
そして大いに健康に留意して、一日も長く頑張ろうと思う昨今である。 本当にありがとうございます。

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■雲か山か呉か越か・・頼山陽、来熊

2017-08-23 08:12:52 | 徒然

 文政元年八月の今日、頼山陽は長崎の茂木から出発天草の富岡に渡る予定が、海が荒れたため遠く大矢野に流され、その後千々岩を経てようやく富岡に入ったとされる。
有名な「泊天草洋」はその富岡の地で作られたものである。小学生のころ教えられてうろ覚えであるが、何度か口ずさんでいると記憶がよみがえってくる。

                泊天草洋 頼 山陽
                             ご  えつ
               雲耶山耶呉耶越   雲か山か呉か越か
                         すいてんほうふつ せいいっぱつ

               水天髣髴青一髪   水天髣髴  青一髪
                              はく     なだ

               万里泊舟天草洋   万里 舟を泊す天草の洋
                           ほうそう        ようや

               煙横蓬窓日漸没   煙は蓬窓に横たわって日漸く没す
                         べっけん     はかん おど

               瞥見大魚波間跳   瞥見す大魚の波間に跳るを
                         たいはく    あたりて 
               太白当船明似月   太白 船に当りて 明るきこと月に似たり


 また、一月余熊本で過ごした頼山陽は、熊本から竹田へ向かう際、遠くなる熊本城や杉並木越しに見える阿蘇の雄大さに感じ入って作った詩もなじみ深い。

               大道平々砥不如   大道平々砥もしかず 
               熊城東去総青蕪   熊城東に去されば総て青蕪       熊城=ゆうじょう=熊本城
               老杉爽路無他樹   老杉路を挟んで他樹無し 
               缺處時々見阿蘇   欠くる処時々阿蘇を見る

 

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■熊本の洋館建築の安否

2017-08-22 10:09:21 | 建築

 熊本城・須戸口門を右手に坪井川越に見た旧市役所庁舎だが、これは、押し入れ整理中開かずの段ボールから出てきた「都市住宅7406」掲載の写真である。
こうして改めて見ると懐かしく又風情ある建物だと感じさせる。

さてこの写真が掲載されていた雑誌「都市住宅」は、私が20数年間毎月購入していた建築関係の月刊誌4冊の中で、唯一棄てずにとっておいたものである。
それはこの74年06月号で「発掘文化都市熊本」特集されていたものだからである。
                      
41年前のものだから建築関係者でも余りお持ちになっていないのではないかと自負している。
当時熊本にあったいわゆる「洋館建築」が特集されている。
当時熊本大学工学部建築学科助教授の木島安史氏(熊大教授→千葉大教授・故人)や、武蔵野美大講師の長谷川尭氏(現・同大名誉教授、建築史家、評論家)などが調査などに関わられた結果、特集発刊されて当時は大いに評判になったものである。

懐かしいこの本のページをめくる時、今回の熊本地震でこれらの建物は生きながらえているのだろうかという想いが頭をよぎった。


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■老松町の殿様

2017-08-21 11:19:08 | オークション

               オ6[老松町の殿様]石田茂作 細川護立 昭和46年 非売品

 この本の存在はとうの昔から知っていて、何とか手に入れたいと思っていた。殿様とは「護立侯」のことである。
私が生まれる前の年に亡くなった祖父がお仕えしていた。
この本は最近では「日本の古本屋」に二点ほど見受けられるし、2,100円程である。慌てることはないな~なんて思っていたら、今回ヤフオクに出品されていてすごく安価にて落札することができた。ラッキー・・・
一年ほど前にもヤフオクに出品されていて、この時は競り負けてしまった。というのは相手の人にぎりぎりで出し抜かれてしまった。
その時はまだ高かったような気がする。

昭46年1月、大塚工藝社というところから出版されている。石田茂作氏編集とあるが、護貞様も関わっておられるように記憶している。
高田老松町は私の生まれたところでもあるから、何となく郷愁めいた想いもある。

 

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■コネ仕官

2017-08-21 08:08:49 | 歴史

 熊本藩年表稿を眺めていたら、寛文六年八月の項に、「是月、八木一郎右衛門北条新蔵より御頼に付300石にて召出さる」とある。
典型的なコネ仕官の例だが、この北条新蔵とは北条流兵法の祖と言われた同・氏長のことである。
一郎右衛門は息・市大夫を伴って仕官しているが、「諸師役流儀系図」によるとこの市大夫が「妙解院様御代御家中師範被仰付候」とある。
妙解院とあるが妙応院の誤りである。(私の写し間違いではない)
つまり北条流の開祖である北条新蔵氏長が、弟子である市大夫とその父を綱利に就職あっせんしたということである。
寛文六年の仕官は細川家ではかなり新しい。新規の仕官が極力抑えられていた時期であるから、こういうかなり強力なコネがないとなかなか成り立たないことであったことは想像に難くない。
そして八木家の侍帳を見ると、八木但馬守という記載が見えるが、山田奉行を勤めた八木宗直のことと推察される。
また家紋が三ツ盛木瓜であり、但馬八木氏の一族であろうことが推量される。
この八木氏、綱利公に重用され1,000石側用人まで上り詰めた。


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■御恵贈御礼「隣人 第30号」

2017-08-20 10:24:46 | 書籍・読書

 ご厚誼をいただいている東京在住の近代史家・佐藤誠氏から、氏の論考が掲載された「隣人 第30号」をお送りいただいた。
毎々のことで厚くお礼を申し上げる。今回は 赤穂分家若狭浅野家の家老 前田市右衛門ー新出史料「前田亮正奥書」の紹介を兼ねてー である。
論考から判るように、氏は赤穂義士の研究に携わっておられる。我々が知る表面的な義士に関わる話は勿論、ここから派生する色々な情報を精査されて、この事件の真実を探求されている。益々のご活躍を願うばかりである。
こちらも長生きをして、氏の更なるご研究の成果に触れたいと思う。御恵贈に感謝申し上げる。

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