八三四
五
一御郡醫師居宅
但、貮間ニ九間と承傳候得共斗相分不申候、其所生之醫者自分依願御郡醫師ニ被仰付、先輩之跡宅ニ入込
申候ハヽ、在勤中は家修覆一切自勘仕、若及破損建直之節ハ御山竹木被為拝領、御郡中より取出し相渡、入
目其外ハ自勘ニ仕、退役之節ハ其家有懸一切請持申候御郡引渡退キ御極被仰付置被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、本行之通被相心得候様可及達旨候、尤御郡醫師宅御郡中より造渡シ來候ハヽ、家は貮拾五坪
之間數ニ限り、屋敷は四畝被渡下事極ニて候條、此儀も可被承置候事」
八三五
六
一熊本より被指出置候御山支配役宅
但、貮間ニ七間と承傳候得共右同断
此儀、間數其外共被仰付候御格も可有御座と奉存候得共、私共手前ニ相分不申候、所ニより外向立具等迄御
郡より仕、家内之立具疊等銘々より被仕候も、疊立具一切御郡より仕候も有之、同様ニ無御座候間、諸御郡
共ニ外向之立具は御郡より仕、家内共立具疊等ハ自勘被仕候様、被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、熊本より被差出候御山支配役之儀、屋敷は壹畝貮拾壹歩、居宅は二間ニ七間ニ相極置、竹木
萱等は御山より被渡下、諸入口は已來御出方ニ被仰付筈ニ候、尤立具等之儀は外向立造渡、間内之
立具疊等は都て自勘ニて仕候様、一統被極置筈ニ候、在御家人より被仰付候面々居懸り相勤候分は、
一切自勘可仕儀勿論之事ニ候間、此段可及達旨、右之趣御山支配役えは各より可有通達候事」
八三六
七
一佐敷御番代御用宅内外井戸覆、幷つるへ之事
此儀、右仕替繕共唯今迄は御郡中より仕來申候、右御用宅之儀は一切御出方を以御繕等被仰付候儀ニ付、井
戸覆・つるへ御仕替とも右ニ被准被下度奉存候
[上の付札]「此儀、御郡より仕替之儀は被差止、銘々より取計候様ニ御番代え被及御達候旨ニ候事」
こんな感じでしょうか? ウイキペディア「井戸」から引用
八三七
八
一高瀬御町奉行衆御用宅建直御繕、幷垣廻之事
此儀、町役人立合積方仕候上、竹木萱縄等は切手仕出申儀ニ御座候、左様て御埒之上、御郡より右の品々剪
持出、町役人え引渡申候、垣廻は御郡より繕來申候、御町奉行衆御役宅之儀ニ付、一切御町方より取計候様
有御座度奉存候
[上の付札]「此儀、御用宅垣廻り共竹木萱縄等は、今迄之通御郡より持出町役人え引渡、其上之儀は御出方ニ被
仰付候旨ニ候事」
八三八
九
一八代高田御産物師・宮地村御紙漉職屋之事
此儀、職屋建替繕等之節竹木は御山薮より被渡下事ニ御座候得共、入目銀・縄・萱・夫方共御郡中出方ニて
繕作事等も被仰付、下方迷惑成儀と奉存候、此儀は乍恐御出方を以繕作事等も被仰付度奉存候
[上の付札]「此儀、竹木・萱等は御郡夫を以剪出被渡下、諸入目は御出方被仰付筈ニ候條、其時々明細積書を以
相達候様可及達旨候事」
八三九
十
一御山支配役之事
此儀、熊本より被指出置候面々之儀は御役宅立渡置、年々繕彼是一切御郡より請持、人數多所は別て下方迷
惑仕候ニ付、無支所々は在御家人之内より御山支配役被仰付被下度奉存候、左候得は自分居宅にて相済申候
ニ御座候
[上の付札]「此儀、時宜ニ應し可申事」
八四〇
十一
一津口陸口問屋荷物改之一領一疋之事
此儀、去々年御改正被仰付候節、在御家人御極方御座候、然共去年又々元之御仕法被仰付候得共、御家人改
方は被差止候との御達も無御座候ニ付、御郡ニより今以御家人罷出候得共、何そ御益ニ立候儀相見え不申候
[上の付札]「御家人え及達可申候事」
[又上の付札]「此儀、明和五年三月、津口陸口運上銀之御仕法一統被改、同年十月在御家人之内見■(扌偏に乄=締)之儀も及御
達被置、今以其通ニ候處、同六年又々元之御仕法被仰付候との儀は聞へ兼候、明和六年根請之仕法
一旦被仰付、無程被差止候儀混し被相心得候と存候、右改方御仕法之儀は明和五年三月被仰付置通
ニ候、然處在御家人被差出候儀は、今度一統出方ニ被仰付候條、■方之儀精々可被申付旨ニて候事