津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本弁講座

2017-10-31 13:56:29 | 熊本

 ある本を読んでいたら、次のような文(?)が登場した。

      こんどんとんさんなえじいええげなばい
 
 さてどういう意味でしょうか?
これは重賢公が兄君・宗孝公の死去後遺領相続された後、熊本で御百姓衆の間で言い交された会話である。

      こんどとんさんえじいええげなばい

熊本では「~の」を「~ん」と言うから、こんどん=こんどの(今度の)である。
「~な」は「~は」、ゆえに、とんさんな=とんさんは(殿様は)となる。
「えじい」は「怖い、恐ろしい」と解されているようだが、ここでは「恐ろしくすごい」とでも解釈すべきか・・・
「ええげな」の「ええ」は「良い」、「げな」は「~ようだ」
「ばい」は「〜のだ。〜だぞ。〜ぞ。」

つまり  「今度の殿様はすごく良い方のようだぞ」 ということになる。
若い熊本人にはもう判らないかもしれない。

百姓衆の噂通り、重賢公は天下の名君として名を残された。

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■明和繁雑帳・會所舊記から(8)

2017-10-31 11:17:53 | 熊本地震

 八六七
卅八
一御焼物・御料紙、熊本へ持出候節之事
  此儀、御焼物師・御紙漉共ニ御扶持方を被下置、代物手間料等相應ニ被渡下儀ニ御座候處、熊本へ持出之
  候、御差紙を以被差越、賃銀等は不被渡げ、年中束候ては餘計之夫數ニて宿々迷惑仕候、大津御蔵御米熊本
  へ御付取被成候砌、駄賃米被渡下候由ニ御座候間、右之品も夫賃銀被渡下候様有御座度奉願候
[上ノ付札]「此儀、何も夫銀被渡下候條、一ヶ年分取束、翌正月ニ至り御惣庄屋より請取切手御勘定所え差出
      候様可及達旨候事」

 八六八
卅九
高瀬御蔵御用継通皮籠之事
  此儀、高瀬御蔵より日々坂下會所へ継來候ニ付、早速木葉町迄継送相達申儀ニ御座候、坂下之儀格別人馬継
  之所ニても無御座、右継状持夫立用之節も無御座、會所へ手永抱ニて召仕候詰夫ニ持セ差立申儀ニて迷惑仕
  候間、是已後右御蔵定日雇又は御雇夫を以、木葉町え直ニ継送り候様被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、明和七年八月被及御達、御蔵中仕ノ者木葉迄持越候ニ付、其通可被相心得候事」

 八六九
四十
一南郷栃木御入湯之御侍衆・御寺方、御歸之節主人馬之事
  此儀、御指紙付ニて御入湯ニ御越被成候御侍衆・御寺方、御歸之節駕夫・荷物夫幷乗懸荷物等、員數湯亭え被
  仰聞候上、河後田村庄屋え相達、庄屋共より近村え人馬當付差出申候、前々より右之通仕來申候、間ニは人
  馬御差紙御持参無御座候得共、御差紙ニて御入湯之御衆えは相渡申儀ニ御座候、年中積候ては餘程之人馬數 
  ニて御座候、御定之通之賃銀は御渡被成候得共、田畑根付、根さらへ、苅収納之節は餘計之賃銀を出し、日
  雇人馬を差立申候も有之、殊之外迷惑仕候、御出懸と違御歸之砌は葛活・蕨・薯蕷・鶏卵・其時々之土産物
  を出シ申儀ニ御座候、御仁ニより候ては町人百姓召連御一所ニ被召置、右躰之者共荷物迄も付越申儀ニ御座
  候、纔三四ヶ村ニて右之人馬差出申候ニ付、大切成ル時分作方手入抜申候て種々迷惑仕候間、何とそ其時々
  相應之賃銀ニて相對ニ御雇被成候様ニ、被及御達被下度奉存候、尤湯亭ニ世話賃御渡候ハヽ、湯亭世話を以
  雇出申ニて可有御座候と奉存、湯亭世話届兼候ハヽ、湯銭集之内より世話人壹人御抱させ被成候ハヽ此者
  より村々打廻雇立可申と奉存候、右之儀難被為叶御座候ハヽ、湯差紙御一同御郡間より人馬御差紙御出
  可被下候、尤助人馬無シニ御極被下候様有御座度奉存候、左候て御差紙前之人馬ニて不足仕候分は、相對御
  雇ニ相成候様有御座度奉存候、夫共ニ御差紙前之外御雇難成と有之御衆は、荷物懸合御定之通斤目より重
  キ分殘置候様被仰付可被下候、山坂難所ニて御座候得ハ、駕夫も六人程無之候ては相成り不申儀ニ御座候、御
  差紙前之外ニ助人馬出候様ニ御座候ては、際限も無御座候間、駕夫・荷馬共ニ無難澁持越候程之員數御積を
  以、御差紙御出被下候様奉願度奉存候、近比恐多儀ニ御座候得共、駕夫員數、荷物斤目其外萬端共、湯本え
  御定之板札御建被為置被下奉存候
[上ノ付札]「此儀、明和九年・安永二年御達之通ニ候事」

 八七〇
四十一
一小國杖立湯所え被成御越候御入湯之熊本御家人中幷諸役人衆之事
  此儀、御客屋一軒被建置、其外は都て御百姓共自分作事ニて御座候、尤田畑も聢無御座、漸屋敷高迄所持之
  者多、年中入湯人え宿借し、其助力を以家内をも育可也取續居申候、然處、熊本御入湯衆時ニより三頭又は
  五頭も一同ニ御越被成儀間々御座候、前廉ニ御状参候ハヽ湯所近所え宿相極置呉候様ニと申参候ニ付、致
  吟味、御客屋差支申節々は、御百姓借宅え入込居申候旅人を右日積を以脇方え出置申候處、間ニは五日七日
  も延引ニて御越之衆も御座候、左候得は一七日も御入湯ニ十二三日歟又は廿日も借家を明申候て、借家主共
  極々迷惑仕候、其上入湯人は二月三月四月、秋は七月八月九月、右月々別て入込多御座候、熊本より御越之
  衆も右之時分多御座候ニ付、大勢入込居申候節は宿も差し申候程ニ御座候得共、御帳面等参候得は宜敷場所
  え借家を明、御望ニよつて上下四人五人も御座候得は、八疊敷二間も御宿ニ極置申候儀ニ御座候得共、間ニは
  宿銭不被召置又は纔宛被召置候御衆も御座候ニ付、旅人召置申候宿銭之半高も無御座、宜敷借家所持之者
  共別て及難儀申候、依之熊本其外御侍衆・御役人衆え借渡申候宿之儀、旅人え借渡候通之賄物・諸道具差出、
  八疊間一七日ニ付銭六匁宛被渡下候様ニアリ御座度奉願候、尤宜敷道具は所持不仕候、且又旅人儀一日一夜
  ニ付、宿銭十六銅宛相極居申候、是は五人三人も組合申候者共、二組も又は三組も八疊一間ニ召置申候様
  相極置申候ニ付、只今迄之通ニて借家主共勝手ニ宜御座候間、旅人之儀ハ只今迄之通被仰付置日下候様、有
  御座度奉願候
[上ノ付札]「此儀右同断」

 八七一
四十ニ
一同所え御越被成候御入湯人馬之儀は、南郷湯之谷之通相對賃銀ニ被仰付被下候様ニ奉願候
[上ノ付札]「右同断」

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■4/18は熊本にあり

2017-10-31 07:13:38 | 歴史
昨日メディアは、歴史的資料を対象にしたユネスコの「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に、群馬県高崎市に残る古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」が登録されたことを報じている。
古代石碑は日本に18基存在するそうだが、そのうちの4基が熊本県宇城市豊野(旧・豊野村)に残されている。
浄水寺(じょうすいじ・きよみずでら)の石碑群だが、2015年3月国の重要文化財に指定された。

宇城市の浄水寺碑など国重文指定へ 仏像3体もの写真、図解 右から燈籠碑、如法経碑、寺領碑(宇城市HPから)

文化遺産オンライン http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/238881
   ■南門碑
    延暦9(790)年
    造寺碑(寺を建立した僧・奘善[じょうぜん]の決意などを記す)
   ■灯籠竿石
    延暦20(801)年
    寄進碑(奘善の後継者薬蘭[やくらん]の名や法華経を記す)
   ■寺領碑
    天長3(826)年
    寺領碑(寺領の範囲を記す、条里制の地割りを示す「十二条苗瀬里七山田七段七十二歩田」の文字もあり)
   ■如法経碑
    康平7(1064)年
    如法経塔(奘善の後継者薬蘭[やくらん]の名や法華経を記す)

熊本地震で被害を受け、南門碑は資料館に移設、ほかの三碑は現場で養生された状態である。尚妙法経碑の笠が落ちている
レプリカに替える話があるようだが、早急に願いたいものだ。
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■明和繁雑帳・會所舊記から(7)

2017-10-30 07:04:30 | 史料


 八六ニ
卅二
一継飛脚之事
  此儀、御役所御用状は勿論、寶暦七年御郡代衆より一統御改被仰付候御用状外ニも、継飛脚當りニて仕出
  有之候御用多、且又近來時付之御用状は、貮人宛差出候様被仰付、往來を請候所は一日之内ニも度々継來候
  事ニ付、迷惑仕所も御座候間、宜様被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、追て可及達候事」

 八六三
卅三
一諸継状之事
  此儀、寶暦九年七月、諸役人衆より方々え継出之御用状は、村継・會所継ニて仕出不被申候様被及御達候間、
  會所/\ニ曽て請取不申様ニと被仰付、其時分は右之継状餘程滅申候處ニ、當時ニ至候ては、諸御役人衆御
  櫨方人置所御用状、都て方角之會所/\え被差越候ニ付、又々前々通相成申候、只今私共より相改候儀も成
  兼申候間、先年御極被仰付置候通、都て御郡間え被差出御継出被仰付可被下候、右継状之内ニは色々頼物等
  之状、上書ニ急用抔と記候も有之様子ニ御座候、此類格別ニ差立候ニ付ては、一入夫方相増申儀ニ御座候、
  且又出在向より諸方え之継状も右ニ准、此節猶又御改被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、追て可及達候事」

 八六四
卅四
一本驛所之外半宿ニて人馬継方之事
  此儀、他國人往來之雇人馬之儀は稀々ニ御座候、雇方御座候節、御格之賃銀を以人馬差出申候、尤右人馬継
  所平日人馬相詰居申候所ニて無御座候、其時々村々より呼出申儀ニ御座候、然處ニ、近年在宅人衆其外御家
  中家來支配等之面々之内ニハ、右之所ニて御定之賃銀を以人馬雇方御座候、左候得は、詰人馬は無御座、農
  業等ニ罷出居申候者共を呼集差出申候、右之通之儀間々ニ有之、下方極々迷惑仕候、依之御役人衆御用人馬
  幷他國人之雇人馬は只今迄之通差立申候ても、在宅人衆幷御家中支配家來之面々、雇人馬差出不申様被仰付
  可被下候、尤無據譯有之節は相對雇、賃銀員數も相對ニ被申談候様ニ、被仰付被下度奉存候
   但、本行之通ニて馳通之衆、俄ニ人馬替等有之候節、農業ニ罷出候を呼返し差立申儀ニ御座候得は、認等
   も隙入、少々延引仕候、左候得は間ニは強儀ニ被申聞、村役人打擲ニ逢申儀ニ有之儀ニ御座候、本驛所
   と違、詰人馬無御座候ニ付ては、忙敷時分は村中ニ人馬居不申、村役人何程悶申候ても急ニ出方成兼候
   儀も御座候、別て御家中家來之衆之中ニ強儀之筋も有之様子ニ御座候、右之継所半宿之儀ニ御座候ニ付、御
   用之外は相對賃銀ニて雇方有之候様ニ、被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、安永三年午十月御達有之候事

 八六五
卅六
一宿々往来之衆中泊之節夜具之事
  此儀、御用ニ付被罷通候輕輩之衆止宿之節、又は御泊之衆家來中より、間ニは蚊屋・布團之類出候様ニ段々
  被申聞候儀御座候、右之品泊之衆入用と申候ては拵置不相候ニ付、村中村方ニて俄才覚仕、所ニより候て
  は、損銀を出し取出申候て迷惑仕候間、已來右躰之儀無御座候様、宜敷被仰付置被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、只今迄之通相心得候様可及達旨候事」

 八六六
卅七
一相對雇人馬之事
  此儀、御郡間御根取衆より、」人馬継で申候會所へ御書付を以被及御達、差出來申候、尤右御書付、譬は夫何
  人、馬何疋熊本より宇土迄、或は大津迄と御書付被遣候へは、向は何方迄と申儀相知不申候、平日被手馴方は
  継出さへ候得は、其人馬數向寄人馬所之引別ニ差出申所を呑込居被申、何そ望事も無御座候得共、無案内之
  方御根取衆御書付向寄之人馬所え持セ遣不申候ては、人馬継替難澁之節難成候間、御根取衆御書付は通候様
  ニと有之候得共、継出之會所迄ニ當居申候ニ付、是は為念前々より比元え取置來申候段申達候得は、左候ハ
  ヽ向々書付遣呉候様ニと被申聞候ニ付、無據、向々之會所ニ當書付相渡來申候、右之通ニては中途ニて些紛 
  敷筋も御座候間、右御達書付ニ継出之會所より継留之會所迄、統て御當被成御仕出御座候様有御座度奉存候
   但、此相對雇人馬之儀、衣類入等之荷物迄を附、竹木板橎木表物一切之雑具は、付不申格ニ被仰付
   被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、安永三年午十月御達有之候事」

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■明和繁雑帳・會所舊記から(6)

2017-10-29 08:06:42 | 史料

 八五六
廿七
一諸木仕立方ニ付、合志郡竹迫手永平嶋村御山内ニ水足五郎兵衛殿手付御役人衆、詰所小屋被立置候事
  此儀、右役人相詰被申候ニ付ては、仕夫一日ニ壹人宛相詰、且又苗木他郡え付越被申候節、人馬之儀も御定
  之賃銀被相渡候得とも、御定之通ニては迷惑仕申候、此儀宜敷被仰付可被下候
[上ノ付札]「本行之仕夫之儀ハ、抱夫ニ相極給銀は御郡間御山銀之内より可被渡下旨ニ候間、其段可及達候、苗
      木付越人馬銀は御様筋之儀ニ付、御定之外増賃銀等被渡下儀は難叶候事」

 八五七
廿八
一阿蘇谷防中、衆徒・行者御祈祷(所欫カ)掃除夫之事
  此儀、両御祈祷所柄掃除一ヶ月三拾人宛、内牧・坂梨両手永より差出申候、年中積候ては餘計之夫方ニて御
  座候、被為叶御儀ニ御座候ハヽ、御出方を以御抱居之掃除人、衆徒・行者へ相應之人數御渡被為置被下候ハ
  ヽ、一方一廉御救ニ相成可申と奉存候、右之通ニて衆徒・行者方支不申儀ニ御座候ハヽ、宜敷様ニ被仰付被
  下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、當年中先御試之仕法被立置候趣、別ニ及達候事」

 八五八
廿九
一大木ニ成候櫨根浚之事
  此儀、小木之内は根浚可然ニ奉存候得共、大木ニ成候上は根ニ纔計之土をかけ候ても無益之様ニ相見へ申候
[上ノ付札]「此儀、大木ニ成候分ニ、根浚ニ不及旨ニ候事」

 八五九
三十
一御仕立櫨實採方之事
  此儀、櫨方御役人壹人、其手永見■(扌偏に乄=締)之御家人・御山支配役、幷被召連候御山口居手永御山口小頭共人數立合、
  採方之見仕、止宿等之村方若雨天ニて日數懸り申候得は殊之外迷惑仕候、其上御役人採日雇之者熊本より
  數多召連、能房なり仕候木を見立採せ、在方之採夫ニは少シ成候木を引渡、採方甚多少有之、且又右熊本日
  雇ハ御用と称し宿仕候、其間之薪代も相拂不申様子ニ相聞申候、願は三手程ニ分ケ、熊本之者入込不申様、
  其村々無高者共ニ採セ申候ハヽ、十日懸り申所は三日ニも相濟、採賃をも拝領仕勝手ニ相成申候間、宜被 
  仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、櫨方え被及御達、熊本より日雇夫は不被召仕、都て向々ニて在方のもの雇方ニ相成筈ニ候
      間、無支様取計有之候様ニ可及達旨候事」

八六〇
卅一
一櫨實御買上ケ之事
  此儀、近年御百姓共時分仕立之櫨實、高橋町櫨木臘所より先手之者共被差出、在々ニて直買被仰付候、然
  處先手之者とも御用ばり村方ニて権威ニかヽり、直段之極方且又掛目甚強仕候ニ付、御百姓共極々迷惑仕
  候、其上手先之者ニて又手先之者相交村々打廻り、御買上之乍御用下方もあやふミ申趣ニ申聞申候間、以来
  御買上不被仰付候ては難被為叶御座候ハヽ、私共へ被仰付度奉存候、左候ハヽ常々櫨木數見分仕置、買上可
  申候、尤代銀之儀は櫨方納之諸運上銀立用被仰付候ても可然哉と奉存候
[上ノ付札]「此儀、追々及吟味候處、當時は櫨方より之櫨實無之由ニ付、各別不申達候事」

                                   木蝋(もくろう)-文化財を維持する特用林産物

八六一
卅二
 櫨方より御仕立棕梠之事
  此儀、御郡二より御役人被差出、無支所々を見立、棕梠植立被仰付候、然處追々枯木ニも相成申候所、毎歳
  棕梠皮之儀請込御役人衆より定年ニ相拂セ被申候ニ付、枯木ニ相成候段申達候ても、是非拂方え申付候ニ
  付、不足分御百姓共屋舗内・畑畔又は請藪之内等ニ有之候棕梠皮を剥足シ相拂、迷惑仕候間、以來は御仕立
  木數之有皮被召上候様、被仰付度奉存候
[上ノ付札]「此儀、追々吟味有之候處、當時ニては煩敷儀無之由ニ付、其通之事ニ候事」

 

        



 

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■加藤家侍帳

2017-10-28 09:54:52 | 史料

 先にお預かりしたT家の古文書類の中の断簡の一枚である。左端に「小代下総守」とあり、これは加藤家侍帳の断簡であることが判る。
中央に「尾崎藤市」という名前がみえるが、活字化された時習館本・加藤家侍帳に同人の名前があることは承知していたから、特に驚きもしなかったがこんな形でお目にかかるとは思いもしなかった。我が家の六代目・又之允の室が尾崎藤一(市)の娘なのだが、尾崎家の先祖附をさかのぼると、加藤家侍帳の同名藤市に遡っている。
「弐百六拾四石五斗九合」何ともリアルな知行高ではあるが、和紙に手書きされたこのような史料での出会いは、特段の感慨がある。

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■「日出づる国」の山と海: 大和・ 出雲・ 伊勢 ・「東西」「 天地」の信仰軸

2017-10-28 09:01:46 | 書籍・読書

 建築評論家・川添登の名著「伊勢神宮ー森と平和の神殿」を読み直してのち、伊勢神宮や出雲大社についての著作を探していて見つけ出した本である。
建築を生業としてきたものとして、伊勢神宮や出雲大社、諏訪大社の「柱」のあり様は不可解であるがゆえに大変興味深い。
本著はそんな私のいまだ晴れない疑問に答えてくれるのではないかと注文した。
これが面白かったら同氏の著「伊勢神宮―杜に年を祈るアマテラスの首飾り」も読んでみたいと思っている。

 

 「日出づる国」の山と海: 大和・ 出雲・ 伊勢 ・「東西」「 天地」の信仰軸      

 

       伊藤 通子著

      サンライズ出版

 

内容説明

「日出づる国」日本の「東西観(東西信仰)」と、天地を結ぶ「柱を立てる」祭祀は、どのように生まれ、受け継がれてきたのか。纒向遺跡や土偶「縄文のビーナス」、諏訪大社の御柱祭、出雲大社の高層神殿、伊勢における夏至と冬至の太陽などから、そのルーツをたどり、それらが生み出した生活文化「神道」と稲作との密接な関係にふれるダイナミックで画期的な論考。

目次

序章 「日出づる国」へようこそ
第1章 「日出づる国」の成立
第2章 「太陽を仰ぎみること」―信仰のルーツ
第3章 「柱を立てること」―もう一つのルーツ
第4章 「柱を立てること」―その発展
第5章 出雲大社―西の聖地
第6章 伊勢神宮―東の聖地
第7章 生活文化の中に固有信仰―神道

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■明和繁雑帳・會所舊記から(5)

2017-10-27 07:47:31 | 史料

 八五三
廿四
一御役人衆仕夫之事  但、熊本は除ク
一御山方御横目仕夫
一高橋御財(材)木方え被差出候御役人仕夫
一川尻川口御米船改御勝手方御横目仕夫
一御鹽硝蔵御繕之節被差出候御役人仕夫
一御蔵増支配役仕夫
一御物書仕夫
一増物書仕夫
一増御横目仕夫
一御蔵御番人仕夫
一御米山番人仕夫
一御蔵加番人仕夫
一御蔵斤量取仕夫
一御蔵御繕之節被差出候御作事所御役人、幷諸職人仕夫
一川尻御作事所御役人仕夫
一同所御横目仕夫
一同所御物書仕夫
一同所人仕之足輕仕夫
一同所御門番人仕夫
一同所御船疊替之節御作事所御横目、幷同所御役人御疊差張方仕夫
一御茶屋御繕之節作事所御役人、幷諸職人仕夫
一薩摩守様御本陣御繕節右同断
一御客屋御作事之節右同断
一高橋御薪蔵御繕之節右同断
一同所御町奉行御用宅御繕之節右同断
一小嶋・高橋・川尻・川口御番所御繕之節右同断
一御出獵向々所々御休所御繕之節右同断
  此儀、現夫ニ薪・野菜為持差出申儀ニ御座候得共、不案内之在夫ニては不便利ニ御座候ニ付、雇夫仕候様ニ
  との儀、いつとなく癖ニ相成り、宿主共受込夫壹人ニ付壹匁貮歩又ハ時所二より壹匁程取來申候、人數餘
  計之儀二て御百姓共迷惑仕候間、何とそ譯を御立被下候様有御座度奉存候
[上ノ付札]「此儀、已來雇夫不仕現府可差出旨候、若難澁之儀申募候族も有之候ハヽ相達候様可被申付置候事」

 八五四
廿五
一在々所々え被差出候御役人衆、往來人馬之事
  此儀、御郡割合ニて宿々え詰人馬仕候處も有之、又は手永限ニて請持、御役人勝手之會所/\え御差紙を付、
  人馬被請取候ニ付、手永ニより殊之外人馬之立方優劣有之迷惑仕候、惣躰近年出在之御役人衆増方ニ相成、
  水夫高役引方御改正已來、手永ニより上之役は村々別て公役高ニ罷成、甚迷惑仕候、為御見合近年増方ニ出
  在之御役人衆、左ニ書列差上候
 一馬貮疋宛     櫨方御役人衆
 一夫六人馬二疋   田添源次郎
 一同五人馬二疋   緒方九郎左衛門
 一同壹人馬壹疋   岩崎次左衛門
 一同三人馬一疋   藤井源兵衛
 一夫壹人馬三疋宛  御勝手方御横目、或は馬二疋宛ニて夫方出し不申
 一同拾人馬壹疋   水足五郎兵衛殿
   但、去年より乗下壹疋・荷馬壹疋・夫貮人、間ニは本行之通り出シ申候
 一夫壹人馬一疋宛  西村作左衛門殿御手付横目拾貮人
 一同四人馬壹疋   古澤奥右衛門
[上ノ付札]「此儀、御役人出在ニ付て之人馬は、於御郡間吟味之上、極之通ニ差紙前之人馬差出可申儀勿論ニ候
      右之外増人馬等差出可申譯は無之候間、及其達可申旨ニ候、依之向後不都合之筋も有之候ハヽ、其
      段相達候様ニ可被申付置候、則飽田・託麻より出候書付え付札有之候を入披見候事」

  (以下相当の記事があるが重複するものが多くこれを略す)

 八五五
廿六
一葦北御郡中、所々潮塘御用石船御抱夫之事
  此儀、右船貮艘抱夫六人、壹人ニ付給銀貮百匁宛、都合壹貫貮百匁、年々御郡中御割賦を以被渡下候、右石
  船強て御用ニ相立申様ニも無御座候間、抱夫之儀被差止被下候様有御座度奉存候、左候て右船之儀は御圍置
  御普請奉願候、所々より船心得候者を雇、石漕寄御普請仕候様、石方馴不申所々は、其時々石手心候者雇出御
  普請仕せ、右賃銀追て村出銀奉願候様仕度奉存候、左候へは一廉御郡中出銀減方ニ相成可申と奉存候
[上ノ付札]「此儀、抱夫被差止、石船は御惣庄屋預ニて圍置、本紙之通り取計候様夫々可及達旨候事 

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■同房三人

2017-10-26 16:22:57 | 歴史

 明治期、美当一調という軍談師(?)がいた。細川藩士・三千石の尾藤家の分家(350石)の出である。
サイト内の「新・細川藩侍帳」の尾藤氏の項に「軍談師・美当一蝶(調)についてご存知の方、お知らせください。」と書いた。
その後、井上智重氏の「異風者(いひゅうもん)伝」が発刊され、一調の事については大方の知識を得ることができた。
最近 J 家のご子孫から美当一調にかんする情報がもたらされた。J 家の曾祖父にあたられる方が西南の役で熊本隊の一員として出陣され長崎の獄に入れられたということであった。そのご子息にあたられる方が私家版の本を発刊されておりここに面白い事実が披露されていた。
熊本隊の隊長・佐々友房、そして尾藤新也(後の一調)、もう一人が J 氏この三人が同房で過ごしたというのである。
この本によると、長崎監獄は普通のしもたやの二階であったそうだが、近所には女郎街があり、物干し場には女郎さんの腰巻などが干され、時には向こうから手を振ったり投げキッスを送られたり、16歳であったという J 少年にとっては中々の経験であったらしい。
詳細はさておくが、佐々氏は熊本政界の大物になった。尾藤新也は軍談語りの浪曲師となり天下に名をならしめた。
J 少年については個人情報にすぎるからここで触れないことにしておこう。

案外一調は長崎監獄での話などを、面白おかしく語ったのかもしれない。
新也が軍談師になろうとして芸人の鑑札取得のために県に願出たら、県令安岡良亮に「士族の面汚しになる」として許可されなかったという。
ならば士族をやめようといいだし実際平民となった。(出典:異風者伝)佐々友房も反対したというが、何のことはない長崎監獄仲間である。
なるほど有禄士族基本帳を見ると、弟・正節が相続している。

あちこちから、いろんな資料を頂戴すると、当事者以外では窺い知ることのできない事柄に遭遇し、誠に至福の事ではある。感謝。


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■明和繁雑帳・會所舊記から(4)

2017-10-26 07:19:58 | 史料

 八四六
十七
一久住御茶屋御門番之事
  此儀、御百姓中より壹人御立被成、給米村出来ニて被渡下候、然處、脇御郡御茶屋/\御門番無之之様子ニ御
  座候間、久住之儀も被差止被下候様ニ有御座度奉存候、尤御茶屋口掃除は間々ニは仕候儀ニ御座候共、平日
  無用ニ居申候、御茶屋内外共ニ掃除夫之儀は、當時迄久住宿抱夫之内より差出來申候ニ付、右之通被仰付候
  得は下方為ニ相成申候間、何とそ宜敷様被仰付被下候様ニ有御座度奉願候
   但、外聞之儀も近年兼役ニ被仰付置候、給米之儀、御門番三石六斗、外聞役壹石ニて御座候、右被差止
   候ハヽ外聞之儀は小頭兼ニ相勤サセ申度奉存候
[上ノ付札]「此儀、御門番被差止候條、御茶屋口掃除幷外聞之儀も本行之通取計、尤平日不■(扌偏に乄=締)之儀
      無之様、御茶屋番御惣庄屋より心を付候様可及達旨候事」

 八四七
十八
一宇土・葦北御牧山犬打之事
  此儀、宇土御牧之儀は、前廉より有來ル人數之外ニ追手六人御増方ニ相成、壹人ニ廿五人宛引夫六人分都合
  百五拾人、毎歳宇土両手永ニて引方ニ相成り、下方迷惑仕申候、且又葦北之儀も前廉より相極居候外ニ、近
  年御郡筒より日々三人宛、二月より六月迄被差出候、御牧放レ之所々より罷出候御郡筒、着替持夫相渡申候
  ニ付下方迷惑仕候、御郡筒之儀も色々御用ニ被召仕候處、右犬打方ニ被差出候ては、宇土・葦北共ニ彌増勤
  方繁ク、農業之支ニも相成迷惑仕候間、宇土・葦北共此間之通被仰付、増人之儀は被差止被下候様ニ御座度
  奉存候
[上ノ付札]「此儀、近年仕法改候儀も有之、當時ニては在方迷惑之筋も無之様子ニ付、今迄之通被仰付置旨ニ候事」

 八四八
十九
一御家老衆より薩州御家老え御取遣之御文箱、葦北御郡筒より持継候事
  此儀、前々は御飛脚を以差越被來候處、近年は水俣より薩州米之津迄葦北御郡筒之者持越候ニ付、右賃銀葦
  北御郡中御郡筒割合を以相渡申候、御郡筒之儀、御郡中諸御用勤方繁、殊ニ至極難儀之者多迷惑仕候間、右
  賃銀乍恐御出方を以被渡下候様有御座度奉存候
[上ノ付札]「此儀、安永二年より御出方被仰付候段被及御達候事」

 八四九
廿
一佐敷詰御侍衆明屋敷番之事
  此儀、右御侍衆組替ニて屋敷明申候節、跡詰被仰付御引越迄は御郡中割賦を以、右明屋敷番晝壹人・夜貮
  人宛詰方被仰付來候、浦々三年之詰之御番ニ被引越候御衆跡明屋敷ニは、番人御附不被置候、右ニ被准、跡
  屋敷之儀被相止被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、明屋敷被差止候儀、明和九年十月及達候通候事」

 八五〇
廿一
一御百姓共被仕様之事
  此儀、何とそ貞享年中御郡間御記録前之通被仰付被下度奉存候、夫仕多御座候ては御百姓共農業之時を失
  ひ、氣毒ニ奉存候
[上ノ付札]「此儀、追て可及達事」

 八五一
廿ニ
一川尻水夫柄割賦之事
  此儀、當時迄川尻水夫惣代共より遠近共ニ割賦仕出來孟候得共、間ニは追て割直シ申様成ル儀も有之候、且
  又御上下之節、水夫之内惣代共より差圖之雇柄も有之、割賦方之不同も有之様ニ相見へ申由ニて、水夫村々色
  々疑ハ敷評判仕、落着不申様子ニ御座候間、右水夫柄割賦方之儀、なにとそ御郡間より御郡限ニ御割賦被仰付
  被下候様奉願候
[上ノ付札]「此儀、水夫割賦之儀は前々より格合有之、今以其通之仕法被立置候、川尻惣代共手前被及御吟味候
      處、不同割方は不相聞由、畢竟村方譯筋不存所より不審も可有之哉、若不審之儀有之節は各より惣
      代共え得斗被承合、様子も有之候ハヽ猶又可被相達候、惣代共えも其段御郡間より被及御達旨候事」

 八五ニ
廿三
一所々御口屋浦御番御侍衆幷御扶持人・御蔵方御役人、其外一切引越人馬之事
  此儀、御記録前之御差紙之人馬御渡被成、外ニ人足何拾何人、馬何疋差出候様ニと御達御座候得共、御達之
  人馬數ニては相濟不申、餘計之増夫を入申儀ニ御座候、尤同格衆ニも大分人馬數不同有之候、右之通莫大之人
  馬ニ罷成申候て、御百姓共迷惑仕候間、御達前より外ニ人馬は相對賃銀被相渡候様、被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、已來ハ前以夫積之小頭より荷數ニ應し、委ク致夫積、明細之書付差出候様、左候ハヽ有前之
      人馬差紙御郡間より相渡、其外増夫方は決て差出不申様、左候て引替り罷歸り被申候節は、最前引
      越候節之人馬數相渡、若荷物増候て引越之節之人馬數ニて持越難成、増人馬願有之候ハヽ、其節は
      相對之賃銀を以雇人馬之可被及御達旨候事
       但、御扶持人・御蔵方御役人等之輕キ面々は、年限を以代り合被仰付ニては無之、數年相詰申事ニ
       付、其間ニ家内之人數増減、家財も同前之事ニて、熊本へ引出候節、引越候節之人馬數定規ニは
       成兼候道理ニ付、此分は人用たけ之人馬有前を以可被渡下旨候事」

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■山折哲雄著「勿体なや祖師は紙衣の九十年」

2017-10-25 16:14:42 | 書籍・読書

 

 勿体なや祖師は紙衣の九十年 - 大谷句仏 (中公叢書)
 
         中央公論新社


近くの書店まで出かけ30分ほどぶらぶらするが、買いたいと思う本がない。来年の手帳を買おうとレジに向かうときこの本が目に入り即決・・・
久しぶりに俳句に関する本を購入した。東本願寺第二十三世法主・大谷光演(俳名・句仏)を取り上げた山折哲雄の著である。
秋の夜長に読むにはもってこいの本である。


内容紹介

東本願寺第二十三世の法主、大谷光演(1875~1943)にはもう一つの顔があった。書画、俳諧をよくし、「句仏」の俳号をもつ俳人でもあった。句集に『夢の跡』『我は我』『句仏上人俳句抄』などがあり、没後には『句仏句集』(1959年、読売新聞社)が刊行されている。 
日本画は竹内栖鳳に、俳句は正岡子規に私淑し、子規門下の河東碧梧桐、高浜虚子と親しく交流した。生涯に約二万句の俳句を残している。
「勿体なや祖師は紙衣の九十年」は句仏の代表作。「祖師」は親鸞、「九十年」はその波瀾の生涯を指す。この句に触発された著者は、清沢満之、暁烏敏らによる真宗近代化、正岡子規門下の俳句革新の二つの運動に関わりつつ句作活動を深めていった句仏の生涯をたどる。 
巻末に著者が選んだ「句仏の五十首」と略年譜を収録。

 

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■明和繁雑帳・會所舊記から(3)

2017-10-25 07:23:08 | 史料

 八四一
十二
一惣塘支配役衆出在之事
  此儀、手永/\御普請之儀は、私共引請取計勿論之儀ニ御座候得共、御用多御座候故御普請所ニ附居候儀差
  支、在御家人内より助役を願、右助役年中所々罷出石場ニ被相詰、御普請之仕法等も附被申候、右仕法私共
  了簡ニ随引可被申様ニ無御座候得共、一概之申分ニて和し兼候儀有之、却て御普請敢果取兼、夫仕イも相増、
  諸失墜御座候ニ付、惣塘支配役衆之儀は、所々御普請出來候上、一通見分被仕候様有御座度奉存候
   但、上より被仰付候御普請之儀は格別之儀ニ御座候
[上ノ付札]「此段、村用水土手御普請年々積帳相達來候處ニ、御郡代承届ニて相濟、惣塘支配役中印をも被差止候
      段明和八年及達、其已後右之類は惣塘支配役は携り不申候、積書被相達御詮議之上、御普請被仰付候
      場所見分等之儀ハ今迄之通之由ニ候事」

 八四二
十三
一上地御内検衆付走番之事
  此儀、前廉も上地御内検衆え、走番限て相濟不申様ニ被仰付、暫は用捨被仕候得共頓て召仕被申、當時ニ到り
  候ては銘々ニ壹人宛付申候ニ付、纔之走番ニて至極差支申候、尤人ニより心持格別之衆も御座候得共、大概
  右躰之面々多御座候、地御内検衆は出在中仕夫被渡下事ニ付、右仕夫は止方ニ被仰付、走番壹人差添候被
  仰付被下度奉存候、左様無御座候ては詰小屋/\給物等日代り仕夫ニ打任候儀も難成、第一御所労方之時分
  は入込之所え諸帳・書附・筆・紙・墨等も取散置候ニ付、無用心ニも御座候、且又上見衆出在之節は地御内
  検衆同宿之事ニ付、走番相合ニ召仕被申ても支申間敷間、左様之儀用捨被仕候様ニ被仰下度奉存候
   但、棚がニより御内検衆小屋と會所引放居候所は、状持夫入申候ニ付、唯今迄之通ニ無御座候ては差支
   申候
[上ノ付札]「此儀、本行之通相心得候様可及達旨、上地御内検衆えも御郡間より可被及達旨ニ候事」

 八四三
十四
一御免放ニ差出候手付役人共之事
  此儀、御内検衆迄ニは付置不申、御免方一切之御用ニ御内検小屋え居へ置申候、然處上地御内検中地方ニ掛
  り候見分等之節、私共立會之儀被申聞、差支候得は會所手代之内より差出申候、且又上地御内検衆、田方毛
  上見分等ニ村々打廻り被申候節も、時ニより名代差出候様ニと儀ニ付、不得止事手代會所詰之内差出來申
  候、右小屋詰手代之上ニ手代會所詰之内より壹人差出申候得は、両人被召連候、右躰之節は勘辨御座候て、
  物事手輕ク相濟候様ニ有御座度奉存候、勿論両人不罷出候て難成儀は只今迄之通可仕候、格別押立候御見分
  之外は、御免方手付役人迄ニて相濟候様ニ有御座度奉存候
[上ノ付札]「此儀、本行之通相心得候様可及達旨、上地御内検衆えも其趣被及御達旨候事」

 八四四
十五
一御餌差衆之事
  此儀、出在向より御鷹之餌を熊本え被差出候節、御差紙を以村々え直々ニ持夫被申付事ニ御座候處、間ニは
  一度持貮人宛之夫方を三ケ村も五ケ村ニも一同ニ被申付、其内ニて多クハ雇銀之相談ニ成、賃銀請取被申、
  所ニより度々重り迷惑仕候由、内々及承申候、宜敷被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、御仕法相立御達方相濟候由、右は夜鳥追餌持夫之儀ニ付、去巳ノ年飽田・託麻より相達候處、
      夫差紙見届不申猥ニ差出候儀、下方心得違ニ付、已來御餌差夫方入用之時々、御餌差壹人ニ鳥持夫
      壹人宛相渡す申筈指紙被渡置候ニ付、右差紙見届候上夫方相渡已來下方心得違不仕様可申付旨被及
      御達、此節より諸御郡一統右之趣を以村々委ク及達被申、心得違不仕様ニ堅ク可被申付置候事」

 八四五
十六
一水前寺苔見(扌偏に乄=締)之事
 此儀、已前は受込ニ被仰付置候處、見(扌偏に乄=締)届不申候ニ付御免被成、熊本より御役人被差出候由、然處、懸勤ニて
 は是又見届兼、其外煩敷儀も御座候ニ付被差止、又々近年御惣庄屋受ニ被仰付候得共、御用多何分届兼申
 候ニ付、其段申上、去々年田中幸右衛門ニ見被仰付、必多度罷出申候、元より無給扶持之者ニて御座候ニ付、
 難相勤由申出候ニ付其段申上候處、為御心附毎歳百ハ拾目宛飽田・託麻ニて六手永出銀ニ被仰付、割合を以
 相渡申候、此儀は纔之事ニは御座候得共色々出方多、殊ニ年々無果出方之儀ニ御座候間、何とそ出銀被成御
 免、御出方ニ被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、安永元年御出方被仰付候事」

      
  

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■續家略系図を更新

2017-10-24 11:23:21 | 人物

 續家に関する文書を読んでいるが、五家の流れが良く理解できず、先祖附を精読の上、随分以前に書いた略系図に手を入れてみた。
嫡家は少助家(弾右衛門家)、初代弾右衛門は藩主綱利の側近として覚え目出度く養父(兄)の不祥事を乗り越え、一代で2,000石の大身に上り詰めた。
綱利からいわゆる「杖の先」とよばれる「釣耕園」という御茶屋を拝領している。
本姓中村氏、安藝守の働きにより「後にツヅク者なし」と足利将軍家より「つづき」の苗字を給わった。
亀助(重政)は石田治部少に仕え500石、石田家没落後も関ケ原で働き、その様子をご覧になった忠興公が召出され1,500石、嫡男・少助は大坂之陣で活躍のち800石、しかし忠興公の御機嫌を損ね知行召し上げ、その後忠利公のお取りなしにより旧に復した。
嫡流ながら十助が乱心、知行を差し上げたため、弟・弾右衛門をもって初代としている。
亀助二男が次太夫(毎家)三男庄右衛門の流れに(才七郎家)(三郎家)(庄之允家)と枝葉を広げている。

                        乱心知行差上 
   續安藝守---亀介---+---少助-----猪兵衛---+---十助 
                                |                            |    
           |           +---弾右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 少助家(1,800石)

           |  500石         初代2,000石
           +---次太夫(権六)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ → 毎家(御中小姓)

           | 
           |  養子、実・亀助兄内藤出羽忰                              70石庄之員家ニ内分

           +==庄右衛門ーーー+---庄右衛門‐‐+---庄兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 才七郎家(200石)
             200石    |       |                          
                    |       +ーーー園右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・ → 三郎家(150石)
                    | 兄分知70石
                    +---庄之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 庄之允家

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■明和繁雑帳・會所舊記から(2)

2017-10-24 07:23:03 | 熊本地震

 八三四

一御郡醫師居宅
  但、貮間ニ九間と承傳候得共斗相分不申候、其所生之醫者自分依願御郡醫師ニ被仰付、先輩之跡宅ニ入込
  申候ハヽ、在勤中は家修覆一切自勘仕、若及破損建直之節ハ御山竹木被為拝領、御郡中より取出し相渡、入
  目其外ハ自勘ニ仕、退役之節ハ其家有懸一切請持申候御郡引渡退キ御極被仰付置被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、本行之通被相心得候様可及達旨候、尤御郡醫師宅御郡中より造渡シ來候ハヽ、家は貮拾五坪
      之間數ニ限り、屋敷は四畝被渡下事極ニて候條、此儀も可被承置候事」

 八三五

一熊本より被指出置候御山支配役宅
  但、貮間ニ七間と承傳候得共右同断
  此儀、間數其外共被仰付候御格も可有御座と奉存候得共、私共手前ニ相分不申候、所ニより外向立具等迄御
  郡より仕、家内之立具疊等銘々より被仕候も、疊立具一切御郡より仕候も有之、同様ニ無御座候間、諸御郡
  共ニ外向之立具は御郡より仕、家内共立具疊等ハ自勘被仕候様、被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、熊本より被差出候御山支配役之儀、屋敷は壹畝貮拾壹歩、居宅は二間ニ七間ニ相極置、竹木
      萱等は御山より被渡下、諸入口は已來御出方ニ被仰付筈ニ候、尤立具等之儀は外向立造渡、間内之
      立具疊等は都て自勘ニて仕候様、一統被極置筈ニ候、在御家人より被仰付候面々居懸り相勤候分は、
      一切自勘可仕儀勿論之事ニ候間、此段可及達旨、右之趣御山支配役えは各より可有通達候事」

 八三六

一佐敷御番代御用宅内外井戸覆、幷つるへ之事
  此儀、右仕替繕共唯今迄は御郡中より仕來申候、右御用宅之儀は一切御出方を以御繕等被仰付候儀ニ付、井
  戸覆・つるへ御仕替とも右ニ被准被下度奉存候
[上の付札]「此儀、御郡より仕替之儀は被差止、銘々より取計候様ニ御番代え被及御達候旨ニ候事」

                   こんな感じでしょうか? ウイキペディア「井戸」から引用

 八三七

一高瀬御町奉行衆御用宅建直御繕、幷垣廻之事
  此儀、町役人立合積方仕候上、竹木萱縄等は切手仕出申儀ニ御座候、左様て御埒之上、御郡より右の品々剪
  持出、町役人え引渡申候、垣廻は御郡より繕來申候、御町奉行衆御役宅之儀ニ付、一切御町方より取計候様
  有御座度奉存候
[上の付札]「此儀、御用宅垣廻り共竹木萱縄等は、今迄之通御郡より持出町役人え引渡、其上之儀は御出方ニ被
      仰付候旨ニ候事」

 八三八

一八代高田御産物師・宮地村御紙漉職屋之事
  此儀、職屋建替繕等之節竹木は御山薮より被渡下事ニ御座候得共、入目銀・縄・萱・夫方共御郡中出方ニて
  繕作事等も被仰付、下方迷惑成儀と奉存候、此儀は乍恐御出方を以繕作事等も被仰付度奉存候
[上の付札]「此儀、竹木・萱等は御郡夫を以剪出被渡下、諸入目は御出方被仰付筈ニ候條、其時々明細積書を以
      相達候様可及達旨候事」

 八三九

一御山支配役之事
  此儀、熊本より被指出置候面々之儀は御役宅立渡置、年々繕彼是一切御郡より請持、人數多所は別て下方迷
  惑仕候ニ付、無支所々は在御家人之内より御山支配役被仰付被下度奉存候、左候得は自分居宅にて相済申候
  ニ御座候
[上の付札]「此儀、時宜ニ應し可申事」

 八四〇
十一
一津口陸口問屋荷物改之一領一疋之事
  此儀、去々年御改正被仰付候節、在御家人御極方御座候、然共去年又々元之御仕法被仰付候得共、御家人改
  方は被差止候との御達も無御座候ニ付、御郡ニより今以御家人罷出候得共、何そ御益ニ立候儀相見え不申候
[上の付札]「御家人え及達可申候事」
[又上の付札]「此儀、明和五年三月、津口陸口運上銀之御仕法一統被改、同年十月在御家人之内見■(扌偏に乄=締)之儀も及御
       達被置、今以其通ニ候處、同六年又々元之御仕法被仰付候との儀は聞へ兼候、明和六年根請之仕法
       一旦被仰付、無程被差止候儀混し被相心得候と存候、右改方御仕法之儀は明和五年三月被仰付置通
       ニ候、然處在御家人被差出候儀は、今度一統出方ニ被仰付候條、■方之儀精々可被申付旨ニて候事

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■明和繁雑帳・會所舊記から(1)

2017-10-23 06:51:01 | 史料

 藩法7熊本藩の「井田衍義」にある「明和繁雑帳・會所舊記」を読んでいるとなかなか面白い。
また頑張って数日にわたりご紹介しようと思う。
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明和繁雑帳・會所舊記 廿四・廿五

 八三〇

一御高札場之事
  此儀、御町内ニ御座候所々は、御出方を以被仰付候由、御郡内ニ御座候分は、御郡中より出銀を以建替修復等
  仕來り申候、御郡と御町と不對ニ御座候ニ付、御町と同様ニ被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「此儀、熊本御高札場之儀も、新規修復共、従前々竹木は被渡下、作料其外一式入目銀は町中より割賦
      被仰付事ニ付、御郡在町共ニ竹木は御山より被渡下、諸入目は御郡より出銀を以取計可申旨ニ付、其
      通可被相心得候事
        但、川尻・八等之町々も同前ニ候事」

 八三一

一所々川口水尾木之事
  此儀、川口有之御郡限請持、水尾木剪出建方共ニ御郡夫を以仕申候、長四間より六間迄、末口六寸之生木ニて
  御座候ニ付、山出より建方迄ニ木壹本ニ夫方六拾人程召仕申候、所々之川口ニては木數多、大勢之夫數ニて
  御百姓共迷惑仕候、水尾木ハ専、船旅之目印ニ建方被仰付置候、右之船着岸之御町/\は利益を得申事ニ御
  座候得共、御郡ニは益ニ成申儀無御座候ニ付、水尾木建方一巻ハ御郡と御町催合建方被仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「水尾木之儀、下方損益ニ拘候儀ニては無之、道橋同前之事ニ付、其懸/\御郡より取計可申儀勿論
      ニ候、然建方麁略ニは無之哉、流失多、間々欫居候も有之様子ニ相聞候條、随分念を入、丈夫ニ致
      建方候様可申付旨ニ候事」

                                            右端に見えるのが水尾木(澪標=みおつくし)

                                                  日本財団図書館のHPから引用 

 八三ニ

筒口御屋敷垣廻幷御門前道造之事
  此儀、前々は御掃除方受ニて御座候由、以前竹木縄等之類相拂候儀も無御座候、然處清記様御屋敷ニ相成候
  以後、池田横手より受持、毎歳暮ニ至千六七百人之夫仕、竹木縄等餘計之入方ニて、両手永殊之外迷惑仕候ニ
  付、依願去寅之年より飽田四手永受ニ被仰付候得共、飽田之儀は御本丸・御花畑御門松、其外御蔵米取衆願
  之門松等追年相増、夫役差つかひ、其上右御屋敷御役人衆色々差圖高ニ有之、小頭共取計も不任心、竹木之
  費も御座候様子ニ相聞申候、夫ニ付竹木等之儀は御達を請、飽田より御山取仕御屋敷え相拂可申候間、垣廻仕
  直等之儀は、何卒御掃除方受ニ被仰付被下度奉存候、道造之儀は在中より受持申ニて可有御座候、併彼邊土
  取場一向無御座、御百姓抱地之内より土を買道造仕候間、土之儀は御作事御用横手原之土場より被渡下候様
  有御座奉存候
[上ノ付札]「此儀、御掃除方受ニ被仰付候段、去ル卯二月御達有之候、且又土之儀ハ金ヶ淵灰石屑を取、道造仕
      候様被仰付候事」
                  清記様とあるのは、重賢公の弟・紀休(のりやす)伊三郎・紀豊・織部。宜紀公第16子。
                  享保八年十一月十一日江戸に生る。寛保三年六月七日病のため下国、飽田郡筒口村別荘
                  に入る。天明七年九月廿ニ日筒口邸にて卒す。年65、妙解寺に葬る。浄観院智海宗眞。

 八三三

一御郡所々浦々口々御番所幷御番人宅共ニ
一同御茶屋右同断
一同御客屋
一同御蔵幷御會所・御蔵支配御勝手方附御横目差子宅共
一同所々在町廻宅
  此儀、御作事御修覆共御出方之所も有之、又は御郡請持ニ被仰付置所も有之、區々ニ御座候間、一統ニ被
  仰付被下度奉存候
[上ノ付札]「本行之條々、所ニより不同有來ニ付、委ク御詮議之上追て可被及御達旨ニ候事」



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