津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鳩野宗巴の西南の役観察‐高平社鼓

2023-04-04 10:00:01 | 先祖附

           

        高平社鼓

        老樹高平社      老樹高平社        老樹が生い茂る高平社は
        朝昏親鼓声      朝昏鼓声に親しむ     近隣の村人が朝夕に時を告げる太鼓の音に親しんできた
        雌雄猶未決      雌雄猶未だ決せず     戦況はいまだどちらがどうともいえない状況であり
        所祈□為情      祈る所は□情たり     私はただ□を祈るのみである。 
       
            壷渓


        熊本市北区高平3丁目11-33にある、現・高平神社は寛平二年(890)創建されたという古い歴史を持つ。
        清水村十三か村の産土神として、元弘元年(1331)菊池武重公によって国家鎮護を祈願して祀られたという。
        夏は朝五時、冬は六時に時を告げる太鼓が鳴らされ、これは太平洋戦争が始まる事まで続けられていたという。

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■鳩野宗巴の西南の役観察‐城内忙中有閑

2023-04-04 09:01:45 | 史料

                                 

               雲霞よ須るかたきの矢さけひ耳              須=す 耳=に
                はるの眺めの
                  心ゆた介さ                    介=け
                       長貴                                                                 長貴=鳩野宗巴

               うんかの如く攻めてくる敵の砲弾があたり勇ましい声がする
                一方では城中の兵たちは凧を揚げたりするものもいて
                  心ゆったり長閑であることよ   

 長い籠城戦の一端を伺わせる。食料も段々底をついてきているのだろう馬が解体されている。
旭日旗がたなびき、県令の視察の姿が見られる中、凧を揚げる者も居て忙中閑ありの風景とも見て取れるが、援軍を待つ必死の防衛戰があった。


 

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■桜を切った不届者と「耇姫」

2023-04-04 06:57:18 | 史料

 「度支彙凾 文政六より十迄 法令條諭・二十(九六〇)」に文政6年(1821)4月4日付けの奉行所の「達」が紹介されている。

  一陣橋より牧崎村邊迄、道之左右櫻植込被仰付置候處、下賤無辨之者之仕業ニも可有之哉、數本切損し候様子相見
   不都合之儀ニ候、依之在御家人幷村方え見■(扌偏に乄=締)被仰付候間、見當相達候得は屹ㇳ被仰付筋も可有
   之候條、右躰之儀無之様家來々々えも精々被申付置候様可及達旨候條、左様被相心得、已下例文
      四月四日            御奉行中

 陣橋とは熊本城の北西の角(森本櫓)下あたりを蛇行していた旧・井芹川に掛けられていた橋で、城内から本妙寺方面への重要な通路であった。
現在、花園2丁目と3丁目の境となっている道筋がこのに書かれている「陣橋より牧崎村邊迄」の道筋で、その一部は杉塘と呼ばれ、杉並木があってその名を今に残している。
現在「刑部邸」がある辺りには、かって細川内膳家の屋敷があった。細川齊茲は隠居後本山に新しい屋敷を作ったが、当時は周辺には何もないところで、風が寒く閉口したらしい。
この年の二月ここでかわいい末娘・耇姫が生まれている。
そこで齊茲は内膳屋敷を牧崎にうっつて貰うことにして、その場所に本山屋敷を移したのである。後は何度も手が入れられ「二の丸御屋敷」と呼ばれることになる。
牧崎の内膳屋敷とは、花園3丁目辺りに位置するが、陣橋からこの辺りまで道の両側に桜が植えられたことが判る。
丁度新しくたった二の丸屋敷からは、北西方向の眼下に満開の桜並木が見えることになる。
私はこの「達」の意味するものは、耇姫の誕生に関係しているのではないかと考えている。
耇姫の目を楽しませるために植えられた桜ではなかったか?、これを何者かが切り損じたというのである。
犯人が捕まったかどうか資料は見いだせないが、そんな雰囲気が見て取れる。
齊茲自信が書き遺した「耇姫像」は本当にかわいらしい。
しかし、この「達」の三年後の文政九年十二月、耇姫は亡くなった。
本妙寺の西・小山田あたりに耇姫は出浮きに出たりもしたというから、まさにこの道を通って出かけている。
桜が咲き乱れたあたたかな一日であったろう。

                

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