津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■投票の行方

2021-10-31 10:53:38 | 徒然

 相変わらず胸が痛い。選挙がなければじっとしていたい心境だが、そういう訳にも行かず散歩がてら出かける。
投票所までは1㌔弱、尺取り虫のように歩いて大役をすます。
3年前の市長選挙の時は一番乗りをして、投票箱のチェックをさせられたことを思い出すが・・・
投票を済ましてそのまま折り返すと、あまりにも距離が短いから自衛隊通り迄出て引き返す。
都合2.6㌔、それでも汗をかいて帰宅する。

過日届いた選挙公報を見ていたら、熊本一区の二人の候補者は50歳と51歳で熊本市立出水南小学校の出身で、多分中学も同窓だろう。
高校は熊本の名門、熊本高校と濟々黌高校と別れているが、ところが大学は二人とも早稲田大学という偶然がある。
自民現職が優勢なのだろうか、果たして結果はどうなるのか大変興味深い。
いつもながらだが、偏屈者の私は政党では入れない。比例区に至っては各党首の応援演説をよく聞いて入れることにしているが、今回も同様である。
今日の晩はTVにかじりついて観戦に及ぶことになる。当落で悲喜こもごものドラマチックな場面を見ることが出来そうだ。
私は今度のこの選挙で、若い人たちの投票行動がいろいろ影響して、与野党の勢力が伯仲する形が固まっていくのではないかと思っているが如何だろう。
仮に与党政権ができたとしても、伯仲する状況で緊張感が生まれることを大いに期待している。
大物のお爺様たちは引退して、若い世代の生きのよい政治の世界を望みたいものだ。

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■川田順著「幽齋大居士」三一、古今傳授

2021-10-31 06:34:02 | 先祖附

     三一、古今傳授

 前記の如く、敵中の孤城で古今傳授が行なはれた。この日、勅使として下向した
條西實條
は幽齋の右筆中村及以といふ者の案内で寄手の中を通り、城主居館の書院
に請ぜられた。實條は床の間をうしろにして南面して坐し、幽齋及び籠城の諸將に勅
諚を傳へた。それがすむと、諸將は引下つて、主客二人だけとなつた。公けの事が終
つたので、古今傳授に移らうとするのだ。
 時雨文臺といふを中央に据ゑ、實條が北面して坐つた。師弟の禮をとつたのであ
る。秋は未だ暮れぬながら、北國のならひとて、早くも時雨の來さうな寒さ、十分に
炭火を入れた火桶から香の匂ひが立つてゐる。幽齋は、上差の矢の羽で、文臺の塵を
しづかに拂つた。さすがに勅使在城中とて、今日は鐵砲の音一つせず、籠城五旬、は
じめての静けさである。一時間ばかりして書院の襖が開いた。幽齋は、昨日までの如
く具足を著けに、居間へ戻つたのであつた。何を授け、何を受けたのか、「秘傳」な
つがゆゑに内容を語るよしもない。
 幽齋は二十八年以前に、三條西實枝から古今傳授をうけた。實條は實枝の孫であ
る。すなはち、恩師の孫に傳授を「返し」たのであつた。重圍の中に在つて明日のい
のちも知らぬ幽齋、これで思ひ殘すことが無くなつた。三木を傳へ、三鳥を授けたか
らとて、今日から實條の作歌技倆が一歩でも進むものとは考へない。「秘傳」は歴史
である。歴史を傳へるといふことが即ち此の傳授の存在意義であると幽齋は信じてゐ
た。
 實條は數人の武士に護られ、騎馬で京都へ歸つて行つた。途すがら馬上で感慨に耽
つた。當今堂上の歌人には中院通勝が居る。烏丸光賢が居る。近衛信尹が居る。不肖
ながら自分も居る。少しく遡れば、父の公國も居つた。九條稙通も居つた。誰も居つ
た。彼れも居つた。然るに、定家卿直系の二條派歌學は、一武將なる幽齋に實權を掌
握されてしまつた。幽齋は職業歌人ではない。佛道で申せば居士に過ぎない。居士で
はあるが、維摩大居士だ。悲しい哉、われ等歌人と申す者の中に、文殊菩薩はおろか
のこと、迦葉も居らず、舎利佛も居らず、富樓那も、離娑多も、離陀も、阿離陀も居
ない。問答どころの沙汰ではなく、唯々諾々として「秘傳」を授かるのが關の山だ。

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■逆流性食道炎

2021-10-30 16:09:40 | 徒然

 一年ほど前病院での定期検査の折、胃痛があることを申告したら、「逆流性食道炎」だとの診断で、すごく飲みにくい漢方の薬を処方された。ㇳ
一ㇳ月にも満たない薬用で痛みは消えてしまつたが、一週間ほど前からまたぞろ同じ症状が出て不愉快極まりない。
今日も欠かさず散歩に出たが、この痛さで途中で引っ返そうかと思ったほどである。
病院も休みだし、これは市販の薬を買おうと決心した。が、気分が悪く出かけようという気にならない。
そこで、奥方にメモ書きをして買ってくれるように依頼をした。
「明日、選挙の帰りにね」とあしらわれてしまつた。実は奥方、ようやくコロナワクチン接種の一回目を一昨日にうけて、少々頭痛がすると言っている。(娘から、孫には会えないよといわれてのことだが・・・)
そうなると無理強いできない。mmmm  あと一日我慢だ。

この症状はどうやら繰り返すらしい。常備薬になりそうな気配である。

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■こんたつ

2021-10-30 10:23:11 | 歴史

 「部分(ぶわけ)御舊記・軍事部‐八」という史料に於いては、「有馬一件ニ付武功御吟味并働之面々覚書」を掲載しているが、ここにある個々人の記録を、現在「新・肥後細川藩侍帳」に反映させるべく作業を進めている。
その成果は一々提示することは不可能なので、又長きにわたるが近々、せめてその内容をご紹介したいと考えている。
お付き合いをお願い申し上げる。

 「有馬一件」とは、天草島原の戦いのことだが、この資料はこの戦いに於ける細川藩士の働きを詳細に書き上げている。
このような資料を眺めていると、思いがけない文言が出てきて驚かされたり、その一言が深い意味合いを語り掛けてくる。

 寺尾元馬なる人物は、「二丸ニ而鑓合頸取申者」の12人のうちの1人として紹介されているが、その文章は「一、二月廿七日二ノ丸ニ乗込敵ト鑓合鼻とこんたつを取申候 藪熊之允見申候 證人口相違無御座候以上」とある。
他の史料でも見られるが、この戦いに於いてはいわゆる功名として敵の首を取る事はしていない。「捨て置」としてただその行為は證人の証明によって後の加増や褒賞に係わる事になる。
相手は侍ではなく、一揆の衆徒であると判断したのであろうか、元馬は証拠として「鼻」を切り落とし、「こんたつを取」と記している。
まさにその相手が切支丹であることを示す「こんたつ」を取っている。「こんたつ」とは「ロザリオ」のことである。
数万の人々がすべて殺されたとされるこの戦いには、武器も持たぬ人々も多くいたであろうし、ロザリオを首に掛け、また握りしめてむなしい抵抗をしながら死んで行ったのであろう。
そしてそのロザリオは華やかなものではなく、紙のこよりや、麻の紐に通された粗末なものであったかもしれない。
この一言をして、この戦いの無残さを語っているように思える。

    鉛の十字架  サイト「おらしょ・こころ旅」から引用

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■川田順著「幽齋大居士」三〇、籠城

2021-10-30 06:15:03 | 書籍・読書

      三〇、籠 城

 慶長五年夏、會津上杉氏討伐の爲家康の出發した虡を狙つて、石田三成等大坂に擧
兵を畫策した。三成は幽齋父子を説いたが、無効に終つた。元來、忠興は三成と善く
なかつたやうである。やがて忠興の夫人は、大坂で襲殺された。父の幽齋、憤然とし
て東軍に投じた。
 かう簡単にいふと、幽齋は私怨によつて去就を決した如く聞えようが、ゆめゆめさ
うではない。治國平天下の悲願から觀て、三成を與すべからざる人間と考へたゆゑで
あつたらしい。筆者は若い頃から三成贔屓だが、こゝで筆を曲げるわけには行かぬ。
彼は知慧者であり、快男兒であり、英雄であつたけれども、人格の上に何か缼陥の
あつたことも爭ひ難き事實らしい。前年、前田利家薨去の後、加藤、福島、淺野、池
田等の七將が三成を彈劾した事件が起つた。これは單に武功派と文治派との立場の相
違といふことだけではあるまい。三成の人格に、何か信ずべからざるものが看取され
たからだ。元來、加藤や福島は拳固ばかり強くて脳味噌の足らぬ連中だと論ずる一部
の人があるけれども、筆者は、いくら三成贔屓でも、さうは考へない。我が幽齋も、
必ずや、三成では天下は治まらぬ、と洞察したのであつた。
 於是幽齋は寡兵を率ゐ、眇たる田邊城に楯籠つた。六十七歳の老軀に鎗を提げて、
「さあ來い」と身構へた。昔とつた杵柄の「藤孝」がよみがへつたのである。西軍こ
れを圍むこと五旬餘にして陥らない。彼は愛藏するところの和歌相傳、二十一代集、
源氏物語などが戰火の灰とならんことを惜み、
 いにしへも今もかはらぬ世の中に心の種を殘す言の葉
  もしほ草かきあつめたる跡とめて昔にかへれ和歌の浦浪
の二首を副へ、門弟の三條西實條に託して、これらの古典を禁裏及び式部卿智仁親王
に獻上した。朝廷におかせられては又「達道の國材」幽齋死なば歌道衰へ、古今傳授
も廢絶せん、宜しく彼を救ふべしと、大坂の秀頼まで勅旨を傳へられた。秀頼謹んで
急使を馳せ、圍みを撤すべしと命令したが、兩軍決戰の無我夢中で、耳に這入らな
い。この事また天聽に達し、實條が勅旨として直接丹後に遣された。幽齋は彼を城中
に迎へ、畏みて古今傳授の型を行つた。九月十二日、やつと休戰したが、それは關ヶ
原役の三日前であつた。幽齋去つて高野山に入る。
 老幽齋の健闘ぶりは田邊城合戰記や關東軍記大成などに精しく書いてあるが、敢へ
て孫引は致さぬことにしよう。

 

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■シャッターチャンス

2021-10-29 14:11:01 | 徒然

 朝10時過ぎに散歩に出る。一つの雲もないような晴天である。
飛行機の音に空を見上げると、やや西寄りの南の空に月が白くうっすらと見え、偶然に飛行機が重なっていた。
スマートホンで撮影してみようかと思ったが、既に機影は大きく離れていた。
今日の月齢は22日下弦の月だ。黄色い月は青空のフイルターで白く見えるらしいが、なかなか幻想的である。
月の位置は一日ではあまり違いはなかろうから、明日同じ時刻にまた同じ航路で飛行機が飛んできてくれるとシャッターチャンスがありそうだ。
さてどうでしょうか?

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■川田順著「幽齋大居士」ニ九、鞆の津

2021-10-29 06:37:47 | 書籍・読書

      ニ九、鞆の津

 慶長二年秋のこと、昌山道休が備後の鞆の津安國寺といふ禪寺で重病に打臥して
ゐる由、京都まで聞えた。昌山道休とは足利氏最後の將軍なりし義昭のなれの果てで
ある。彼は信長に遂はれた後、河内・紀伊・播磨の諸國を流浪し、終に備後まで來て
毛利氏にすがつたのであつた。おちぶれながらも、常に風雲を夢み、つまらぬ企てを
する、つまらぬ男であつた。「君は君たらずといへども、臣は臣たらざるべからず」
といふ忠誠の念の持主なる幽齋は、片時も舊主を忘れたことはない。八月十日、伏見
から乗船して、月明の淀河をくだつた。
 誰かまた今宵の月を三島江の葦のしのびにもの思ふらむ
 と、葦間の月に情を託して大河を過ぎ、やがて海上に浮かんで、幾夜かを内海の檝
枕に明かした。
「義昭公もお年を召されたであらう。還暦の筈ぢや。ずゐぶん我執の強いお方だつた
が、寄るおん年浪、殊に近來はおつむりを丸められた道休さまのことゆゑ、慈悲のお
心も崩されねばならぬ筈ぢや。河内へお見送り申上げてから二十餘年もおめにかから
ぬが、よもや藤孝を忘れてはござるまい。」
 恰も仲秋名月の夜、幽齋の船は内海の絶勝鞆の津に著いた。暦應の昔足利氏の創建
したといふ安國寺を訪へば、ひつそりとして人のけはひもしない。しばらくして、庫
裏の方から小坊主が現はれ、次のやうに語つた。
「ごぜんさまは、今日の夕刻、大坂へ行かれた。御大病だからと皆がおとめしても、
太閤さんに逢ふのだと、聞き入れられぬ。住職と、それから、遊君が三人お供した。」
 幽齋は黯然として聽いてゐた。泉水島のほとりで行きちがつた船があつた。華やか
に燈火をつけて、窓が大きく明るく見えたのが義昭の乗船だつたに相違ない。瀕死
の境涯で、何しに秀吉に逢ひに行くのか。
 應永の頃には「鞆鍛冶」の名でとほつた名匠貞家がゐた。今でもその弟子すぢはゐ
る筈だ。幽齋は、ふとかやうに思ひ出し、小坊主に案内させて、貞成といふ者の家を
おとづれた。それは、鞆の津の西はづれで、漁村を見おろす山腹であつた。幽齋は名
刀の光を一瞥して今宵の胸の曇りを拭はうといふのであつたらしい。貞家銘の一ふり
拝見と、所望に及んだ。うやうやしく差出されたのを、受取つて、燈火から離れた縁
側に出て、鞘を拂つて、満月の光に暴した。 

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■矢声

2021-10-28 17:56:15 | 徒然

 卓球の選手たちが強烈なスマッシュを決めた時などに発する独特な叫び声がある。
何といっているのかを、いろいろ穿鑿していたようだが、あれこそ「魂の叫び」なのだろう。
スポーツでガッツポーズや雄たけびは、今では珍しくないが規制されていた時期がある事を思うと時代は変わった。
しかし、昔からある言葉に「矢声」がある。私が仕事で知り合ったある病院の事務局長が弓道錬士をなさっていて、いろんな話の中でこれを知った。
その時のお話では、射手が発するより、観客が上げるものだと理解していた。

 森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」の主人公・興津弥五右衛門が、細川三斎の三回忌に当たり殉死切腹するにあたっての面白い逸話が堀内傳右衛門の話として残されている。
弥五右衛門は切腹するにあたり介錯を乃美市郎兵衛に頼んだが、介錯のタイミングは弥五右衛門自らが「矢声」を掛けた時に頼むと言ったらしい。
「三文字に切り、声(矢声)をかけ申時、少かゝり申由」そこで弥五右衛門は「ふへ(喉笛)をさし候へ」と言ったとされる。

「自分が腹を三文字に切り矢声をかけたら介錯を頼む」と言ったが、市郎兵衛は狼狽えて声がかかる前にうなじを切ったが切足らず、弥五右衛門は「喉笛をさしてくれ」と声を掛けた。しかし、二の太刀が走る前にそのまま絶命したらしい。
当時の落首に次のようなものがある。
    興津                     やごえ(矢声)
   おきつねつたくミし腹をきる時は弥五右をあけて誉る見物

さてこの矢声、これは人それぞれのものがあるのだろうが、弥五右衛門は何と発しようとしたのか知りたいところである。

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■川田順著「幽齋大居士」ニ八、氏郷の死

2021-10-28 06:38:58 | 書籍・読書

    ニ八、氏郷の死

 文禄四年二月七日、稀代の名將蒲生氏郷が大坂で薨去した。享年わずか四十。
 數日して、深更、幽齋吉田閑居の柴門を叩いた者がある。南禪寺の一角に住居を
もらつて老を養ふ老僕思齋であつた。
「この夜ふけに慌しい。何事ぢや。」
「會津宰相殿の亡くなられた原因に就きまして、けしからぬ取沙汰を聞きましたの
で。」
「いかやうの取沙汰か。」
 幽齋は短檠の火を掻立て、さて坐り直つた。恩齋がひそひそと話すことは、次のや
うであつた。
 氏郷は喀血して大事に陥つたのだが、枕元に殘つてゐた一枚の紙に、
 かぎりあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風
 と辭世の一首がしたためてあつた、毒殺されたに相違ない。毒殺者は太閤だ。太閤
はかねてより氏郷の大器なるを怖れ、豐臣家の將來のために、彼を亡きものにしたの
である。云々。
「莫迦者めが。さやうの愚説をわざ/\乃公の耳に入れに來たのか。歸りをれ。天授
庵の和尚について、一遍の讀經でもするがよいわ。」
 𠮟りつけて老僕をかへして後、幽齋は悵然として腕を拱いた。豐臣の社稷を支へる
者は、加賀の利家と會津の氏郷と薩摩の義久、この三人だといふことは、秀吉とくに
肚を決めてゐる。壯年の氏郷を東北百二十萬石の大名に取立てたのは、單に武勇の將
ゆゑといふ死骸でなく。純忠高潔の士なることを信頼したゆゑだ。去年十二月、氏郷
の病状いよ/\大切と聞き、秀吉みづから指圖して、絶大國手道三を枕もとに遣し
た。その秀吉がなんで氏郷の死を希ふものか。小人共の取沙汰には困る。それにして
も、毒殺云々の浮説は何人が立てたか。
 幽齋は、螺鈿の卓に頬杖ついて、考へ込んだ。これは秀吉麾下の結束を破らうとす
る、野心者の仕業にちがひない。野心者は家康の帷幄に居る。本多佐渡守、此奴は今
でこそ家康の知慧袋と納まつてゐるが、元來腹の黒い男だ。實戰はといへば、長久手
で少々ばかりの手柄を立てたに過ぎぬ。曾つては北越一向衆徒に遊説して、謀主とな
り、信長・家康の間に立つて、烏滸がましく天下三分の夢を見たことさへある。此
奴は徳川の家を大きくするであらう。乍併、後世をして家康を悪ましめる者も、亦此
奴だ。此奴今日、勿體なくも秀吉の徳をさへ傷つけようとする。
 治國平天下の悲願をいだく幽齋、家康の人物にはもとより敬服していた。けれど
も、本田正信の類の人間が江戸で重寶がられてゐることを、彼は家康のためにも惜し
んだのであつた。最近、江戸から大坂へ使者として來た正信が、歸途、洛中の某寺に
滞在せる由を聞き、幽齋は面會を申入れた。單刀直入に面責して、毒殺説の毒を吐か
せ、場合によつては眞ッ二つにせんとまで決心した。正信は悪運強く、前日に京都を
去つてしまつた。實はなほ居たのだけれども、幽齋を憚り避けたのであつた。
 天才の氏郷は肺患に罹つたものらしい。朝鮮へ押渡るべき第一人者の彼が、内地に
留まつたのも、そのためらしい。名護屋在陣中、文禄二年春健康を害して會津に歸
任、翌三年三月病を扶けて上洛し、四年二月薨といふのだから、極めての長わづらひ
であつた。曲直瀬道三の臨床日記を一見しても、毒殺云々の虚妄は立證される。つい
で乍ら、氏郷の詠「心みじかき春の山風」は天命に對して愬へた意味である。古

來、「惜花」の和歌に同想のものが夥しい。秀吉が「山嵐」でもなければ、山嵐が毒
殺者でもないのである。無學の浮説に依るならば、古今無數の歌人は毒殺されたこ
とになる。莫迦をいふもいゝ加減にするものだ。


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■川田順著「幽齋大居士」ニ七、吉野山(續)

2021-10-27 06:39:52 | 先祖附

     ニ七、吉野山(續)

 朝露にしめつた蘇苔の庭を前にして、竹林院の縁側に坐つた幽齋は、秀吉のことを
かれこれと觀察した。
                                         
 太閤さまは膽のすぐれて太いお方ぢや。明國との平和は續く筈がない、やがて又、大
軍を海の彼方へ繰出さねばならぬ。場合によつては呂宋までもと八幡船の原田もささ
やき居つた。今は戰爭の中休みだ。この情勢をちやんと御承知の上で、前代未聞の大
花見をなさる。太閤さまは派手なお方ぢや。今年還暦のおれよりも二歳お若いだけの
ことで、すでに相當のお年寄だ。それにどうだ。一昨日、中の千本でお見かけした
ら、赤地に牡丹を刺繍した金襴のお羽織召して、若い女中衆にお手を引かせて居られ
た。それどころか、作髭に眉作り、鉄漿くろぐろと付けてゐられた。あの御氣性は常
若と申すものぢや。乍併、御年齢は爭へない。いやお身體は年齢よりも老けてござ
る。お顔を見れば皺が寄り、歩かれる時には背中を屈めて居られた。召された衣裳の
若々さとは、うらうへぢや。何かむづかしい御病氣が潜んでをらなければ幸ひだが。
 太閤さま百歳の後には、世間はどうなることか。太閤さまのなされ方をつくづく拝
見するに萬事が餘りに凡人とかけ放れてござる。戰爭も天才、外交も天才ぢや。さ
うして、何事もご自身でなさる。敢へて批評申上げるならば、豐臣家には「組織」が
ない。太閤さまあつての豐臣家ぢや。前田も、加藤も、石田も、福島も、太閤さまの
上意を下達するのみで、下から支へ、又は盛り上げる能力に乏しい。太閤さまの肚は
大きすぎる。善美を盡した聚樂第でも、お氣に召さぬとなつたならば、一日も取毀ち
だ。山樂の繪でも、洟をかみなさる。大陸征伐の軍用金、山の如き費だが、「乃公の
眼の黒いうちは、どうにもする」と、心配さうな顔もなされない。三十萬の兵を出す
事などは、いや、さやうな時が來るものとは考へても居られない。萬一の事など心配
するは我等下凡の事ぢやまで。
 とは申せ、萬一の事ござつたならば、世間はどうなる。再び應仁の亂に戻しては、國
家のため、蒼生のため、相すむか。信長公不慮の場合には秀吉公が居られた。太閤さ
ま百年の後には、秀次公がござるか。莫迦申せ。秀次公は天下一の浪費者ぢや。徳川
殿が居るか。徳川殿は「組織」の人だ。さうして、「經濟」の人だ。秀吉公が洟をか
まれた狩野の繪を、洗濯して表具する。無事に天下を治めはするだらうが、さて、そ
の功利主義的の治め方が・・・・・
 幽齋がかれこれ思い煩つてゐるところへ、吉水院の雑色が來て、伏見城の工事につき
相談すべき急用出來したゆゑ、直ちに參れとの御諚である。

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■秋桜・・いやいや本物です

2021-10-26 11:40:51 | 徒然

 今日の散歩は10時半出発で、3.9㌔歩きました。
良い天気で帰り着いたら汗びっしょりです。いつもの自衛隊前の桜並木の中を歩いていましたら、二本ほど「桜の狂い咲き」を見つけました。
秋桜・・いやいや本物です。思いがけないことと、スマホで撮影していたら、うしろからやってきたご婦人が「あらっ」と声を上げて、「私も撮って行こう」ということで、並んで空を見上げました。

       

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■川田順著「幽齋大居士」ニ六、吉野山

2021-10-26 07:11:59 | 書籍・読書

      ニ六、吉野山

 明國との和議成立して、秀吉が名護屋城から大阪城に還つたのは、昨年仲秋の頃で
あつた。今年文禄三年二月の末、吉野山で太閤好みの大袈裟な觀櫻會が催された、三
日間の行樂に續いて、明日廿九日は歌會とふれが出た。
 秀吉は吉水院を旅館としたが「供の人々前後左右御番きびしく勤め侍れば、なにの
仔細や在て堅く番をいたし候哉、小姓ばかり詰候へと宣ひて、諸侯、大夫、馬廻な
ど、自分の花見をゆるやかに物し候へ」(甫庵太閤記)といふ次第なので、この日、
幽齋も從者一人を連れて、宿坊竹林院を出て、奥の千本へと氣樂な花見に登つて行つ
た。諸將は大方、蔵王堂のお能拝見に集まつたので、山みちは静かで佳かつた。
 昔、櫻紅葉のおちつくした肌寒の頃に、この山に來たことがあると、幽齋は懐舊に
堪へかねる様子であつた。それは天正十三年九月、實母養源院の遺髪を携えて高野詣
をした歸りみち、吉野山に立寄つたことである。晩秋の寂びた趣も深かつたが、此處
はやはり花の盛りに觀るべきところだと、子守神社の櫻の梢を見上げながら頷いた。
折から、はら/\と散る花びらを惜しみ。
 吉野山すず吹く秋のかり寝より花ぞ身にしむ木々の下風
 かやうに心に浮かべた幽齋は、從者を顧みながら、
「以及、この歌は詠めたとおもふがいかがのものか。」
 以及は、しばらく黙つてゐたが、思ひ切つた顔付をして、
「おそれながら、源三位の本歌の方が、たちまさつて居りませう。」
 幽齋は不機嫌な顔もせず、又歩き出した。中村以及は彼の右筆で、和歌や連歌の道
を彼から教へられ、近来相當に上達した男である。二人は西行谷まで行き、岩の間に
湛へた清水をしたたかに飲んで、太陽ぼばほ高い時刻に下山した。
 散りこぼれた花の雪を踏んで、幽齋は宿坊の門をくぐつた。書院の庭は一めんの蘇
苔に埋もれて、一本の櫻樹もなく、、築山のもとには紅梅の花が色褪せながら凋に殘
つてゐた。この閑寂さを樂しまうと思ふところに、合宿の豪傑達がどやどやと戻つて來
て、やがて連歌師紹巴をとり囲み、詠草を見せては、なほせ、なほせと攻め立てた。
「これで結構に存じます。」
「下の句はこれでもいゝか。」
「はい、おなほしする點はございません。」
「初句の春霞はどうか。」
「さやう、春風や、かと存じますが、いやいや矢張り、お原作のままで。」
「長束殿は一かどの詠み手ぢや。見てもらふこともござるまい。」
「さやうに存じます。この殿さまはお茶の方も宗匠で。」
 紹巴は十徳の胸紐をいじりながら、應接に忙しい。追從されるのは悪くないものと
見えて、前田利家までが詠草を出す。どうせ藝で渡世する連歌師風情のことゆゑ、と
幽齋は黙つて見てゐたが、皆の散つたあとで、紹巴に向ひ、
「あの人たちの歌は、あれでいゝのかな。」
 連歌師は、えへへへと笑つた。堪忍袋の緒を切つた幽齋、くわつとして一喝、
「幇間め。」

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■老耄せずに元気でいたい

2021-10-25 12:45:28 | 徒然

 今日の明け方はちょっと強い雨が降ったようだが、少々起床が遅れた6時半ころには雨も上がっていた。
もう降らないだろうと10時半過ぎに朝の散歩に出る。少なくとも4㌔は歩こうと思っているが、今日のコースは3.9㌔、少し回り道をすればと悔やまれる。
ずいぶん涼しさが増してきたが、それでも少々汗をかく。
熱い間は疲れがたまって4日ほど休んだことがあったが、今では1週間のうちに5日は歩こうと思っている。
 4.1+0+4.2+0+5.2+4.2+3.9=21.6㌔が今日を含めた1週間の成果である。
今年の2月からの4回の病院検査では、中性脂肪が最高348を超えたことがあったが、最終4回目では133と劇的に改善した。
これはまさしく散歩の成果だろう。ただし糖尿に関する数字は高止まりで、これがなかなか改善しない。
体調をコントロールすることは大変なことだが、もうちょっと生きていたいから美味いものも我慢せずばなるまい。

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■川田順著「幽齋大居士」ニ五、薩摩の春(續)

2021-10-25 07:07:38 | 書籍・読書

      ニ五、薩摩の春(續)

 「かい、かい、かい、かい」と蛙が鳴いた。幽齋は旅館の庭の池を注視しながら、
不審に堪へなかつた。京都なら餘寒もきびしく、北山おろしに飛雪の來る二月の今頃
を、いかに南國の春とて、蛙が鳴くかしら。初蛙は卯月のものだと、疑ひの耳を欹て
た時、「かい、かい、かい、かい」と再び鳴いた。まさしく初蛙だ。
 薩摩の春はすばらしい。鹿児島城下の町には、とりわけ梅の木が多かつた。その花
                                                                                                                     はおうじゅ(サボテン)
は舊臘すでに満開して、今は殘りの香ひを漂はすのみだが、黄や薄紅の覇王樹の花が
咲きはじめた。これは幽齋の眼に極めて珍らしかつた。くろがねもちの實が紅い。朱
樂の大きな果が黄いろい。
 かやうな國土に生活する人間は、おのづからして心ゆたかなるべし、と幽齋は思
つた。彼は毎晩芋焼酎を飲まされたが、かやうな祖酒を煽って歉醉するこの國人の、
素直な無頓着ぶりを善哉と見た。深碧の海上に兀として聳える櫻島山、臍の緒切つて
から死ぬるまで、この壮麗なる活火山を仰ぐ薩摩隼人は、おのづからにして豪快なる
べし、と考へた。國土の三方は海濤に洗はれている。もしも戰ひ敗れて侵略を被つた
ならば、太平洋に追ひ落されねばならぬ。行くべきところを持たないのだ。此處に蟠
踞せる薩摩節は、おのづからにして後退を知らざる猛者なるべし、と信じた。
 去んぬる天正十五年の九州征伐に從軍した幽齋は、島津氏の將卒がいかに力戰した
かを目賭してゐる。今日その郷國に旅して彼は頷いたのであつた。豐後戸次川の戰ひ
  膝突栗毛とも
に、長壽院栗毛といふ駿馬に跨り、長鎗を揮つた義弘の修羅の姿は、當時幽齋も瞥見
して、敵ながら天晴れと感嘆したのだが、今度忠元から義弘の平生を聞かされて、倍
々景慕の念を深くした。目下出征中の彼、必ずや日本一の功名すべし、と疑はなかつ
た。(果して彼は泗川の殲滅戰を行つた。)
 公務を終へた幽齋が、なほ鹿児島に淹留したのは、つぶさに國情を檢討し、秀吉に
復命せんがためであつた。さうして豊臣家の倚頼し得べき諸侯は、島津氏を惜いて他
に無し、といふ結論に到達した。
 鹿児島を去るに先立つて、彼は大隅國帖佐の總禪寺に賨し、歳久の墓所を弔つた。
「心岳良空」と刻つた墓石を撫で、悵然として曰く、
「貴殿は薩摩武士ぢや。」

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■熊本四街道協議会・シンポジウム

2021-10-24 07:50:32 | 講演会

 熊 本 四 街 道 シンポジュウム

    日時:11月6日 (土)13:00~16:00

          (開場12:30)

    場所:桜馬場・城彩苑 多目的ホール 2F

    基調講演

      『旧街道と放牛石仏』野口 敬一 氏 

    入場無料、但し資料代500円(冊子)

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