津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

利休忌

2009-02-28 13:41:03 | 歴史
 千利休は、天正19年2月13日秀吉の命により堺に帰るよう申し渡される。細川忠興や古田織部に見送られて淀川の舟本を離れた。その礼状が松井佐渡の許に送られた。有名な2月14日付の書状である。これが利休最後の手紙とされてきたが、15日付の芝山監物宛の書状が発見されて、その内容が利休の人間味や弱さを伺わせて、悲しみを誘う。25日大徳寺山門に在った利休の木像が聚楽第近くで磔にされる。25日とも26日とも云うが、利休は再び京都に呼び戻された。上杉景勝の手・三千人で厳重な警戒がなされた。そして2月28日、不審庵の茶室に於いて切腹して果てるのである。今日は利休忌、今日・明日全国のあちこちでお茶会が催される事であろう。

 蒔田淡路守が介錯役を勤めたとする研究や著作が多く見受けられるが、綿考輯録・巻十に、「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」とある。身贔屓かもしれないが、私はこちらが本当だと信じて疑わない。そしてわが「茶道・肥後古流」は、利休のお茶の形を現代に伝える正統である。
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ブックオフにて発見

2009-02-27 19:27:56 | 書籍・読書


江戸切絵図散歩 (新潮文庫)
江戸切絵図散歩 /池波正太郎/著
新潮文庫 価格:620円(税込)


今日は天気も悪く、過日ブックオフで見つけたこの本を読みながら、一日を過しました。
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熊本藩・戸越屋敷

2009-02-26 15:14:04 | 歴史
 津々堂の「江戸藩邸」シリーズ(?)は、中々終わりそうにない。

品川区のサイトにすばらしいものを見つけた。「品川の大名屋敷」というシリーズものだが、第11回は「熊本藩戸越屋敷1--数奇屋造りの御殿と広大な庭園」とあり、詳細な説明がなされている。模型も制作されているらしく、これは品川歴史館で見ることができるらしい。その写真と共に是非とも御覧頂きたい。
        www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000007800/hpg000007702.htm
 第12回は「熊本藩戸越屋敷2--焼失後の戸越屋敷の変遷--」が予定されているが、未だUPされていないようだ。待ち遠しい。

次は大手ゼネコン・大成建設のサイト、週刊新潮のコラム「タワークレーン」に、「細川家の下屋敷跡 戸越公園」が出ている。   www.taisei.co.jp/1168584071894.html

戸越公園に関するいろんなサイトがあることは有難い事だが、藩主の名前や官名を間違えている。
どの資料を下敷きにしたのか・・・正解は細川若狭守利重(初代新田藩主)です。

 
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大崎御屋敷

2009-02-26 00:27:03 | 歴史
 22 「目黒白金図」にある「細川越中守」屋敷は、現在の目黒雅叙園や行人坂の辺りとされ、屋敷名が判らずにきた。改めて「細川家旧記・古文書分類目録」の、「216 藩邸」の項を詳細に眺めて見ると、「115 大崎御屋敷絵図」という文字が飛び込んできた。「んんー・くさいぞ」とひらめいた。切絵図「目黒白金図」と次ページの現代図をよくよくみると、該当地が「上大崎四丁目」であることが確認できた。昔は「上」等はついていなかったのだろう。これだ間違いない。これで肩の荷が下りた。23日の午後からこの件に掛かりきりで来たが、これで終了という事にしよう。
正直疲れてしまった。・・・よかった・・・
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熊本大学附属図書館報・東光原について

2009-02-25 15:33:08 | 徒然
      お問い合わせに関してのご返事

■熊本大学附属図書館報・東光原PDF版
         www.lib.kumamoto-u.ac.jp/tokogen/index.html
   号数表記のみで、目次表記は有りません。

■熊本大学学術リポジトリ
         reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp
   所属一覧--→附属図書館--→「東光原 : 熊本大学附属図書館報」
   103点の論文の表題が並んでいます。
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アサヒビール吾妻橋本部ビル

2009-02-25 12:13:37 | 徒然
 この建物が出来た時、物議をかもした事がある。低層棟の屋上にあるあのオブジェについてである。建築家の端くれたる私もよく承知している建物だが(実物は未見)、細川新田藩下屋敷があった場所とは思いが至らなかった。先のブログにコメントをいただいて気がついた。写真はアサヒビールのサイトから引用した。
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細川藩邸--その他もろもろ

2009-02-25 08:52:46 | 歴史
■ 6、矢之蔵御屋敷
    「矢之蔵」について調べると、「米沢町のこと」というサイトに、【正保2年(1645)、
    幕府が米蔵を建て、『矢の蔵』と称した。元禄11年(1698)の大火後、この地の    
    蔵は築地に移設され、跡地は、米蔵があったので「米沢町」と命名された。(東    
    京府志料)】とあった。又、中央区観光協会のサイトによると、矢の倉町は現在
    の「東日本橋一丁目」となったとある。該当する場所を切絵図で眺めてみると、    
    米沢町が確認できる。しかし細川家屋敷は見受けられない。いろいろな資料が
    示すように、この地は町人町である。よくよく見ると程近い所に「浜町屋敷」があ
    る事に気付く。「矢之蔵御屋敷」とは「浜町屋敷」もしくはこれに附属する屋敷で
    はなかったのか・・・結論は下りない。
■ 13、芝御屋敷
    ここについては屋敷図が残されている。 www.lib.kumamoto-u.ac.jp/rare/
    増上寺に近い場所にあり移転を余儀なくされたというが、場所の特定が出来な
    いでいる。

  以下についてはまったく手がかりがない。ご存知の方があればご教示頂きたい。
■ 10、神田御屋敷
■ 12、外山御屋敷
■ 14、永嶺御屋敷
● 椋木阪下定府御長屋

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7 木挽町御屋敷

2009-02-24 20:01:29 | 歴史
 木挽町の名は、江戸城修復にあたり木挽き職人が多く住んだ事に由来するという。
現在の歌舞伎座あたりだとするが、細川家屋敷を確認する事は出来ない。
「細川家御旧記・古文書分類目録」を見ると、木挽町御屋敷に関する文書が次のようにある。
   74、木挽町御屋敷図
   75、木挽町御屋敷絵図
   76、相定書1通 神雑1,4,1 文政13年3月25日 木挽町御屋敷譲渡についての規定書
   77、木挽町御屋敷松平和泉守様江御譲二相定候規定書 1通 神雑1,49 万延2年2月
これにより、木挽町御屋敷は万延二年松平伊豆守に譲渡された事が判る。
改めて、「7 京橋南築地鉄炮洲絵図」をみると、確かに松平伊豆守の屋敷が確認される。ここが「旧・細川家木挽町御屋敷」である事が判明した。
銀座三丁目、現歌舞伎座の北あたりか・・  「これにて一件落着」
歌舞伎座の場所そのものであることが判明 2/26追記
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切絵図を見る

2009-02-24 18:06:49 | 書籍・読書
【切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩
                 発行:人文社 値段:2,400円+税

古地図で楽しむ鬼平・忠臣蔵の世界。 御曲輪内大名小路絵図-現代図(皇居・東京駅周辺)麹町永田町外桜田絵図-現代図(日枝神社・日比谷駅周辺)東都番町大絵図(現代図(靖国神社・市ケ谷駅周辺)現代図(イギリス大使館・四ツ谷駅周辺))飯田町駿河台小川町絵図(現代図(神田古書店街・御茶ノ水駅周辺)現代図(水道橋駅・飯田橋駅周辺))日本橋北内神田両国浜町明細絵図-現代図(明治座・日本橋駅周辺)八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図-現代図(京橋駅・八丁堀駅周辺)京橋南築地鉄炮洲絵図-現代図(築地本願寺・銀座駅周辺)芝口南西久保愛宕下之図-現

  高橋英樹さんではないですが、これを持ってぶらぶら散策するといいだろうなー、と思うのですが・・・
  時間と金と体力が必要ですね


           map.goo.ne.jp/history
東京の地図を江戸時代、現在、昭和に分けて表示。昭和初期の航空写真、江戸時代から続く老舗店舗の紹介も。 ... 江戸の古地図を眺めて現代の東京と見比べてみませんか?35エリアの縮尺変更やスクロールが可能な江戸切絵図を眺めることが出来ます。(サイトの案内コメント)
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切絵図に見る細川藩江戸藩邸--つづき

2009-02-24 17:35:25 | 歴史
 熊本大学のHPに「貴重資料」というのがある。  www.lib.kumamoto-u.ac.jp/rare
 この中の「貴重資料展」から「平成12年度 第17回 永青文庫による細川家(藩)の大名屋敷 」を御覧いただくと、「龍口御屋敷」「芝御屋敷」「戸越御屋敷」や、熊本の藩主邸「御花畑」、「水前寺元御茶屋」(現・水前寺成趣園=水前寺公園)の図面を見ることができる。

 切絵図に於いては、「戸越御屋敷」や「芝御屋敷」は確認できず、「貴重資料」はまさに貴重資料である。その他切絵図で確認できる事柄をご紹介しておこう。
  2 麹町永田町外桜田絵圖
      桜田御門の前に凶変で倒れた井伊直弼の屋敷「井伊掃部頭屋敷」がある。
      そのすぐ裏に宇土細川家の屋敷がある「細川山城守」とあるから、細川立則であろうか。
      上屋敷である。国会議事堂敷地に取り込まれているのか・・
  5 日本橋北内神田両国浜町明細絵図
      重複するが谷田部藩屋敷「細川長門守」が見える
  7 京橋南築地鉄炮洲絵図
      罪人の寄場石川島を目の前にした所に、細川新田藩「細川若狭守」の上屋敷がある。
      鉄炮洲細川家と呼ばれる所以である。佃大橋の根本である。
  8 芝口南西久保愛宕下之圖
      ここには宇土細川家中屋敷「細川豊前守(行眞カ)」が見える。
      愛宕山に近く、現・西新橋二丁目か・・細川忠興が住んだという愛宕屋敷の跡ではない
      かと推測するのだが、如何?
  18 本所絵圖
      ここには新田藩の二つの下屋敷(細川若狭守)と、谷田部藩の下屋敷(細川玄蕃)が見える。
     ・新田藩の一つは隅田川に掛かる吾妻橋(当時もあった)の突き当たり、今一つは両国回向院
      の近所である。時代は違うが吉良上野介の屋敷跡も近い。両国駅のすぐ南である。
     ・谷田部藩の屋敷は現在の墨田区亀沢二丁目あたりか・・
  19-1,19-2 本所深川絵図
      ここには本藩深川御屋敷と共に、新田藩(細川若狭守)下屋敷が見える。
      江東区森下一丁目辺りか・・
  20 芝三田二本榎・高輪邊繪圖
      宇土藩(細川山城守)屋敷が見えるが 22 の同屋敷である。またこの絵図の上部右端の 
      白地の部分が細川家白金屋敷(本邸)である。
      ここには細川家の菩提寺東海寺の広大な墓域が記されている。妙解院の位置もよく分かる。
      桜の名所・御殿山のすぐ隣である。
  22 目黒白金図
      ご存知の方はご教示いただきたいのだが、○○屋敷と呼ぶのだろうか。
      本藩(細川越中守)と、宇土藩(細川山城守)の下屋敷が記されている。
      前者は目黒雅叙園となり、行人坂が屋敷脇にあった。
        行人坂    www005.upp.so-net.ne.jp/shin1ro/onihei/oni_doc/sakareps_3.html
      後者は白金台二丁目現在は畠山記念館となっている。
        畠山記念館 www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/index.html

      絵図の最下部に白金の中屋敷が見える。
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切絵図に見る細川藩江戸藩邸

2009-02-24 14:44:56 | 歴史
 人文社が発行している、【切絵図・現代図で歩く「江戸東京散歩」】は中々秀逸な本で、これで江戸藩邸のいくつかを発見した。この本は、俳優の高橋英樹氏がいつも手にもって江戸散策をやっておられるらしい。

     1、戸越御屋敷   www.eurus.dti.ne.jp/~toshibo/togoshikouen01.htm
     2、龍口御屋敷    1 による 
     3、白金御屋敷    20 による 
     4、田町御屋敷       同上
     5、浜町御屋敷    5 による www.geocities.jp/tokyo_saunterer/a030500.htm 
                         www.dentan.jp/ningyou/suiten3.html
     6、矢之蔵御屋敷
     7、木挽町御屋敷
     8、目白台御屋敷   26 による
               city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_kouen_annai_kuritukouen_kouen_shined...
     9、八丁堀御屋敷   6 による
     10、神田御屋敷
     11、深川佐賀町御屋敷 19 による
     12、外山御屋敷
     13、芝御屋敷
     14、永嶺御屋敷
     15、大崎御屋敷  2/26追記
     ● 椋木阪下定府御長屋

 これだけの藩邸及び定府御長屋があったのは驚きだったが、これら全てが切絵図で確認できる訳ではない。
  1 御曲輪内大名小路繪圖
      ここにはいわゆる龍口邸(2)と呼ばれる細川家上屋敷が描かれている。
      江戸城正面(有楽町-丸の内-大手町)界隈であるが、和田倉門前の一等地で
      ある。現在の丸の内オアゾが其の位置である。
      数度の火事にあい立て替えられているが、土地が狭い為実質の本邸は白金御
      屋敷であったとされる。
  5 日本橋北内神田両国浜町明細絵図
      自らを「浜町さま」と呼ぶようにとした斉茲であるが、その名前の由来となったのが
      浜町御屋敷(5)である。日本橋浜町二丁目・浜町公園あたりであろう。
      この絵図には谷田部藩・細川長門守の屋敷も見られる。東神田一丁目から日本橋
      馬喰町にかけての位置だが、靖国通りの道になったか・・?
  6 八町堀霊岸嶋日本橋南之絵圖
      八丁堀屋敷(9)は現在の日本橋兜町あたり、新場橋(当時もあった)を渡った突き
      当たりにあった。文久三年の絵図とあるから韶邦等が住まいしたのであろう。
      慶應年間久世出雲守に譲渡されたか。現・中央区立阪本小学校の敷地である。
  19 本所深川絵圖
      深川佐賀町御屋敷(11)が木場公園東側にある。当時西側に木置場が広大に
      広がっておりそこに流れ込む横十間川をまたぐように屋敷は位置している。      
      不二見橋は当時から絵図に見える、格好の目標である。
      中村嘉一郎の日記に見える「下総石小田屋敷」がこれであろう。
      この絵図の中には細川新田藩「細川若狭守」の屋敷が認められる。
  20 芝三田二本榎高輪辺絵図
      ここに本邸ともいえる白金御屋敷(3)が見える。龍口御屋敷を御成御殿にすべく
      計画がなされたが、敷地が狭い為これを断念白金御屋敷が整備され後本邸とし
      て機能した。赤穂浪士が切腹したのはこの屋敷内である。
      この絵図には現在の泉岳寺駅・三田駅の中間あたり(たまち)に小さな屋敷が記
      されている。これが田町御屋敷(4)であろうと思われる。
  26 雑司ヶ谷音羽絵図
      ここに記されている「細川越中守・抱ヤシキ」が、現在永青文庫がある目白台御
      屋敷である。絵図にも二本の大きな松ノ木が描かれているが、町名・老松町の名
      の由来となった松である。現・新江戸川公園。
  
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細川藩江戸藩邸

2009-02-23 23:14:53 | 歴史
 先の史談会例会で、「細川藩江戸藩邸」のことが一寸した話題になった。
藩邸が幾つあり、どこにあったのだろうかという疑問である。熊本大学の「細川家旧記・古文書分類目録」をみると次のようにある。

     ■戸越御屋敷
     ■龍口御屋敷  上屋敷
     ■白金御屋敷  下屋敷(事実上の本邸)
     ■田町御屋敷
     ■浜町御屋敷  (斉茲が自らを浜町様と呼ばせた)
     ■矢之蔵御屋敷
     ■木挽町御屋敷
     ■目白台御屋敷 抱屋敷・永青文庫が有る、現在の新江戸川公園
     ■八丁堀御屋敷
     ■神田御屋敷
     ■深川佐賀町御屋敷
     ■外山御屋敷
     ■芝御屋敷
     ■永嶺御屋敷
     ■大崎御屋敷  2/26追記

     ●椋木阪下定府御長屋
     
 こんなに沢山あるとは正直驚いてしまったが、江戸切絵図をよくよく眺めるとそれらしきものが発見できて面白い。それに伴い、宇土細川家の屋敷なども発見、すっかりはまり込んでしまった。
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街道をゆく・17 「島原・天草の諸道」

2009-02-23 12:07:19 | 書籍・読書

新装【ワイド版】 街道をゆく (17) 島原・天草の諸道
〈ワイド版〉街道をゆく17 島原・天草の諸道/司馬遼太郎/著
販売価格:1,155円(税込)

【本の内容】

天草は、旅人を詩人にするらしい。まして詩人が旅人であれば、……若き日の北原白秋たちの面影を追いつつ、吟遊詩人を生む天草の風土を愛で、島原の乱の遺跡をたどりながら、初期の幕藩体制を揺るがしたこの地の歴史を考える。10.5ポイントという大きな活字によって身近になった司馬遼太郎の世界。詳細な地図や当時の雰囲気を表す写真を多数収録。巻毎の索引など、特色あふれる編集による新シリーズ。

【目次】

  • 松倉重政
  • 城をつくる
  • がんまつ
  • サン・フェリペ号の失言
  • 沖田畷の合戦
  • 明暗
  • 侍と百姓
  • 南目へ
  • 北有馬
  • 口之津の蜂起〔ほか〕
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「平野長治は誰の子か」その答

2009-02-23 09:10:33 | 歴史
 2/20のブログ「細川家家臣・平野家を考える」で、「平野長治は誰の子?」であるのかを書いた。
昨日のぴえーるさんのブログ「えんちゅるでぃげん爺が三食繰言」で、その答えをいただいた。
(確定としていいだろう)

どうやら平野家は清原枝賢の子としており(『寛政譜』『平野家譜』など)、清原家は清原業賢の子(つまり枝賢の兄弟)としているようだ(『舟橋家譜』)。どちらが正しいのか、生没年を比較することで検討してみよう。(平野家は『平野家譜』、清原家は『諸家伝』に拠る)
   平野長治 ????-1606
   平野長泰 1559-1628
   清原業賢 1497-1566
   清原枝賢 1520-1590
   清原国賢 1544-1614
長泰の生年だけ見ると枝賢の子とも考えられるが(国賢の庶兄とすれば何とか)、長泰は長男ではないことを考慮すると、『舟橋家譜』がいうように業賢の子とした方が妥当であろう。

 そして其のことを裏付けるような情報が、ぴえーるさんのブログにもたらされた。
ROTTING CORPCEさんの次のような投稿である。
「兼見卿記」天正12年8月16日条
平右京進、筑州家中ニ在之人也、清三位舎弟也、

 これにたいする、更なるぴえーるさんの解説
その当時「清三位」に該当するのは清原枝賢なので、平野長治は枝賢の弟、業賢の子で確定ですね。

有難う御座います。ただただ感謝です。
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史談会二月例会

2009-02-22 22:02:13 | 歴史
 今月の会場は熊本県伝統工芸館である。熊本城を目の前にした、史談会会場としては格好の場所である。今回は「恕斎日録」の筆者中村恕斎(庄右衛門)の嫡男・嘉一郎の、嘉永七年(十一月廿七日改元して安政元年)の江戸滞在中の日記の勉強である。浦賀にアメリカの船団が来航したまさに其の時期のものであり、大変興味深い。藩邸の名前が地名で登場してくるのだが、地理が判らないでどちらの屋敷なのか、判断がつかないまま今回は終了。「田町」と出てくる細川屋敷は、白金の中屋敷の事ではないのかと思っていたら、よくよく調べると現在の田町駅前あたりに中屋敷の飛び屋敷みたいなものがあるのに気付いた。江戸切絵図を眺めながら時間を過し、ブログを書くのをすっかり忘れてしまい、すっかりはまり込んでいる。
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