津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

刑部卿の孫

2007-10-31 20:00:53 | 歴史
 「細川家文書・御印之物」に寛永十九年三月五日付奉行宛て文書として、次のようなものが有る。「刑部卿まご成瀬弥次右衛門尉・成瀬元馬此両人ニ銀子弐拾枚遣候間堀平左衛門尉ニ可相渡也」というもので、「fosacawarocu」という光尚のローマ字印が押されたものである。ここに登場する成瀬氏なる人がよく分からない。刑部家系図に登場しない人の消息が、この様な文書で浮かび上がってくる。

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有禄士族基本帳・・完成

2007-10-31 09:03:48 | 歴史
 有禄士族基本帳の書き込みが終了した。今はただほっとした気持ちだけだ。何時からはじめたのか、もう忘れてしまったが、いささか中弛みで随分遅くなってしまった。他にも「無禄士族基本帳」等というものがあって、これをどうし様かと思っているのだが、まあ、しばらくは休憩とさせていただく事にしたい。

 実は、原本に齟齬がみえたり、あるべきはずの名前が数多く脱落していたりしている。除族となったり、熊本を離れられたりした方についても、それはそれとして全部を掲載した。さて総ての数が何名になったのか、今は数える気にもならない。午前九時、ビールで乾杯したい気分なのだが・・・・
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掃苔スレッド

2007-10-30 21:31:20 | 歴史
 「掃苔」という文字は「そうたい」と読みます。「そうたい」と打ち込んでも漢字変換が出来ませんよね。普通の方には「掃苔」が何であるかの理解は必要ないでしょうが・・・。「日本掃苔録」というすごいサイトがあるのをご存知ですか。主宰者「五輪の塔」さんが、日本中を歩き回って調べられたものですが、凄い方が居られるものです。随分以前熊本を調べられるに当たり、二三ご質問のメールをいただいたことがあり、時折覗いているのですが、掲示板が充実しています。その中に「掃苔スレッド」があり、これを覗いてみましたら、細川藩有吉家についてのやり取りが、凄く詳しく行われていました。おかげで、お墓の所在地を大変詳しく知ることが出来ました。(どうも書き込みをされた方は「有吉氏」のようですけど・・)私も少しずつ歩いているのですが、思わぬ所で、思わぬ発見があって面白いですねー。「あなたも如何ですか」と、あんまり薦められるものでもありませんが・・。
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今日も一日はじまったどー

2007-10-30 10:46:00 | 徒然
 私のささやかな書斎は、お向かいさんの高い屋根のせいで、お日様の恩恵を頂戴するのは八時前になる。屋根越しに太陽が昇り始めて完全に抜けるまで七八分、暖かな日差しが一気に部屋一杯に注ぎ込む。今日も一日ご苦労様という感じだ。窓を開けると金木犀の香りが何処となく漂って来る。妻がまいた一握りのお米に、今日も沢山のすずめが群がって飛んでくる。コーヒーを沸かし新聞を読み、メールの確認、相変わらずの迷惑メール30数件を削除する。日曜日の草刈作業でこわってしまった体に、ちょっと気合を入れるために大きく背伸びして深呼吸、ちょっと足元が涼しいかなと靴下を履いてみたりする。向こうの部屋で妻の長電話の声、そうこうしていると私にも携帯に仕事の打ち合わせの電話。65爺の一日の始まりは毎日平平凡凡である。
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熊本県史料・近世編 三冊 95,000円

2007-10-29 12:08:23 | 歴史
 「日本の古本屋」を検索していたら、熊本県史料が出ている。三冊95,000円は高い。熊本県立図書館の蔵書検索で調べてみると、夫々、P721、P702、P787とある。延べ2,210ページをコピーし様かと考えてみると、2ページ1枚として1,100枚余約11,000円でコピーできる。問題は時間的なことがある。一回で50枚コピーをするとして、約55回週一で出かけるとして約一年だな・・・・やってみる価値はあるなーと考え込んだ。いい史料なんだよなー。
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最終コピー・65枚

2007-10-28 18:22:39 | 徒然
 半年任期の隣保組の組長さんを仰せ付けられて、今日は早起きして清掃の日、その後は子供会の資源ごみの回収をお手伝い、すっかり汗をかいたと思ったら、鼻水すたすた(失礼)の鼻かぜにかかってしまった。ティッシュの箱を持ち歩かなければならない有様、外出を断念・・・昼過ぎ小康状態となったので、サイクリングがてら図書館行き。有禄士族基本帳の残部をコピー、計65枚、折り返しのコピー不能部分を手書きで写す。その間中くしゃみを連発、鼻水すたすた(失礼)。早々に切り上げて退散。帰り道も快適サイクリングとは参らずくしゃみの連発、頭がいたい・・・残り2000人くらいかなー、明日以降頑張ります。私としても早く終わらせたいのは山々なのです。
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寛永十三年・三齋書状

2007-10-28 17:00:43 | memo
為改年之慶賀態被越使者折紙令披見候爰許今程御普請半之
儀候故取紛候段可有御推量候時雨之壺末口を切不申候八日
適と有之茶初而被詰候由得其意候口切候ハヽ追而可申候當
年ハ可上候間其刻以面可申候恐々謹言
   正月十七日
      上林味卜斎
         御返事
  尚々遠路大儀成儀ニ候間重而ハ使も状も無用候返事
  も申間鋪候間可有其心得候以上
右之通上林三四郎所江も同前に被仰遣候以上
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細川家墓所・泰勝寺周辺

2007-10-27 17:59:45 | 歴史
 熊本には細川藩主家の墓所は二つあって、熊本城の鬼門に当たる北東方向に泰勝寺(立田山自然公園)、南西方向に妙解寺(北岡自然公園)がある。(もっとも夫々廃寺だが)地図の上で二つのお寺を線で結んでみると、まさしく熊本城天守閣が線上にある。今日の熊本は少し曇り模様だが明日はどうだろうか、泰勝寺周辺を散策してみようかと考えている。幽齋公ご夫妻と三齋公ご夫妻の「四つ御廟」や、十代斉滋、十一代斉樹、十三代斉護、十四代護久、十五代護成のお墓がある。(他は妙解寺)すぐ近くには、西側に細川刑部家、南側に小笠原少斎の多宮家墓所もある。少し離れた所には、堀内傳右衛門の居宅跡や、神風連を祀る桜山神社などもある。熊本大学脇の1キロほどつづく細い坂道が、サイクリングにはちょっとこたえるけれど・・・
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我が出自をさがして・・

2007-10-27 13:45:34 | 歴史
 我が家の家祖たる人は磯部氏で、下松(山口県)に在って毛利元就の旗下にあったと先祖附は伝えている。その孫が三齋公に召し出されて豊前に下り、その息子たる我が家の二代目が母親の姓を名乗って今日にいたっている。初代以降は僅かながらでも史料があるが、それ以前の磯部氏については皆目見当がつかない。最近少し頑張って調べてみようと思い、いろいろ検索してみると先祖附に出てくる下松周辺に沢山の磯部姓の方が居られる事が分かった。今は「光ふるさと郷土館」になっているという旧磯部氏宅などもあって興味深い。光や下松には市議会の議員さんがおられたり、病院があったりする。詳しく調べると案外我が先祖とDNAを同じくする人が見つかるのではないかと、少しばかり光が見えてきたような気がする。問い合わせの手紙を書いたり、メールを入れたり忙しくなりそうな気配である。
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熊本県宇城市三角町の「細川御殿」

2007-10-26 18:05:55 | 歴史
 熊本県の地図の上半分を良く眺めると、犬が尾を立てて前足を投げ出し左向きに座っているように見える。その足の先端が三角町(宇城市)、五つの橋を渡って天草に入ることになる。その三角町の西港は明治大正の建物などが残っており、レトロな感じが人気を呼び、釣りを楽しむ家族連れなどで賑っている。ここから更に数百メートルの左側、山の上り口に当たる所に、地元の人が「細川御殿」と呼ぶ建物がある。現在は知人の不動産業者の所有となっているが、まったく使われることなく荒れ放題である。庭を通して目の前に海が広がっているが、庭木や隣接地の木々が手入れされておらず、せっかくの景色も死んでしまっている。この「御殿」の主は、細川家十五代藩主護成の妹・志津子である。生母は水俣の深水頼寧の三女ヌイで、志津子は阿蘇惟孝に嫁するが離縁しこの地で余生を送った。随分と面長の方だが気品漂う面差である。生い茂った雑草を払いながら、外から眺めさせていただいたが、40坪にも満たない様な慎ましやかな感じが印象的だった。このままでは朽ちていくばかりの有様に、何とかならないものかと考える。
熱心な法華宗の信者で、本妙寺の旧本堂を建立したと伝えられる。ここに数々の遺品が残されている。妙解寺の子女墓に眠っておられる。
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豊臣秀頼のお姫様

2007-10-26 13:18:03 | 歴史
 熊本城の西、JR鹿児島本線を越した地域が島崎地区で、藩政時代はご大身の下屋敷や別荘などがあった場所である。大きな一本道が山付に行き当たると「団子坂」に至り、かっての金峰山の登山口から、険しい鎌研坂へとつながっている。この「団子坂」はかっては「丹後坂」と言っていたらしい。団子坂の坂道を数百メートル登ると右側に、「西の武蔵塚」と呼ばれる一帯がある。武蔵をはじめ、二天一流の継承者寺尾家代々のお墓が並んでいる。その隣には廃寺となった霊樹院跡がある。細川家家老有吉家のお墓が並ぶが、この霊樹院の名は有吉英貴室に由来している。霊樹院(古屋姫)は三渕好重(細川幽齋・末弟)の娘とされるが、実はこの古屋姫は豊臣秀頼の娘であるとも伝えられている。いささか胡散臭い話しだが、忠興の養女として好重の室となったという。あちこちを散策したり掃苔したりしていると、いろいろ面白い事に出くわすが、このことも一級品の話しではある。
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宇治のお茶

2007-10-25 14:10:47 | 歴史
 細川家家臣上林氏のご子孫が判明した。田辺城籠城衆上林助兵衛のご子孫である。資料を送ったり頂戴したりの交流が始まった。そんな矢先「細川家文書・御判之物」を眺めていたら、次のような文書に出っくわした。

      宇治より市左衛門と申者罷下当町に有付居申候、
     彼もの茶ゑんの儀能存候間、上林甚介請合仕御茶
     ゑん仕立可申由申上候、左様二御座候ハハ御礼申
     上度由申間被得御諚可被仰候、以上
       二月三日   浅山清右衛門(花押)
                西郡刑部少輔(花押)
        飯田才右衛門殿

 この文書は前後にある文書から、寛永九年頃のものであろうと考えられるが、ここに出てくる上林甚介は上林助兵衛の息であろう。

 我がサイトの「侍帳」を眺めていて木村半平家の侍帳に目が止まった。木村家の祖とされているのは上林加賀守である。「武家家伝」にも登場している。細川家召出しは寛文五年とされるが、寛文四年・侍帳にすでに記載が見える。二代目半平は宇治代官上林某の家から養子として入りのち家老を務めた。三代目も養子で細川新田支藩二代利昌の男豊章である。ここで注目したのは、家祖が上林加賀守、下って細川家家臣木村家ニ代が宇治の代官上林氏の出であることである。「武家家伝-上林氏」を見ると意外な事実に遭遇した。宇治地方でお茶の栽培管理に当たっていたと言うのである。遡ればご先祖様はご一緒ではないのかという、素朴な疑問が湧いてくる。
上林甚介が熊本において、お茶の栽培に携わろうとするのは、全く関係ないとはいえそうにないではないか。今後の課題ではあるが、なかなか面白い。

偶然の発見だが、こんな事があるからわが「歴史探訪」は段々深みにはまっていく。止められない・・・・
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明治九年十月二十四日

2007-10-25 09:09:54 | 歴史
 石光真清の「城下の人」によると、明治九年十月二十四日は寒い風の吹く日であったという。夜中に起きた一騒動の詳細を、幼い真清は翌日知ることと成る。いわゆる「神風連の乱」である。そんな祈念すべき十月二十四日、神風連の顕彰に尽力した荒木精之氏の生誕百年祭が県の護国神社で行われた。又、昨日の熊本日日新聞は「言葉のゆりかご」の欄で、作家小山寛二の母親の実家奥田家のことに触れている。奥田家には男子がなく長女(小山伯母)に婿養子を迎えていた。敬神の志深い人で、当然神風連の挙に参画するものと思われたが、出奔してしまった。その夫の行為を恥じて彼女は自害して果てるのである。この話は小山寛二の小文「哀傷の碑-神風連の女達」によっているが、この文章を読むと奥田家の出自は懐良親王を奉じた南朝方の子孫であると言う。林桜園とのつながりを以って、一党と行動をともにするという黙契があったのではないかと、小山は記している。地元新聞のささやかな一文の掲載をしても、「神風連の挙」は忘却の彼方にある。奥田家のこのような悲しい出来事も、ただただ関係者の胸の内に残るだけだろうか。この文章を書いているこの時間にも、再起を思い山中をさまよい、またそのことの不可能なる事を思い自らの命を絶った人たちが居られたのだろう。小山寛二は最期にいう「かにかくに、わが火の国の神風連は、限りなく悲しい」と。合掌
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セピア色の切り抜き

2007-10-24 22:33:01 | 歴史
 資料を整理していたら随分古い新聞の切り抜き数枚が出てきた。セピア色に変色したこの切抜きは「肥後六花」にかんする記事で、「新風土記」の206から215までである。文は卜部良彦、挿絵はなんと浜田知明である。記事の外回りを約3㎜ほどの位置でカットしているから日付けが確認できない。うらにある記事をたどっていくと、「昭和50年の予算に対する各省庁の概算要求が・・云々」というものや、「大平蔵相の就任後初の所信表明演説」などの記事がみえる。昭和49年の夏頃から年末にかけての記事らしい。考えてみると私は、この時分から些かなりの歴史に対する興味を持っていたらしい。
 1、肥後の朝明け
 2、キンキラキン
 3、花連小史
 4、花とモッコス
 5、くだり花
 6、満月会
 7、陰陽五行
 8、足曳き
 9、牽牛子
10、植木屋文助
11、五月の雨
12、喜見城      

 こんな題がつけられて、肥後六花について書かれている。近い内にタイピングして皆様にご紹介したいと思っている。
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細川家家臣・佐久間氏

2007-10-24 20:11:50 | 歴史
 「先祖附」が残る佐久間家は一軒しかない。しかし史料を細かく分析すると二流の佐久間氏があった事が覗える。その祖は一つに繋がっている。一つは加藤家家臣であった、佐久間氏、加藤家侍帳に「並河志摩守与力・佐久間角介五百石」という記載がみえる。熊本県史に清正判物二点が紹介されていて、宛名は佐久間角助正頼とある。この正頼は県史解題には「佐久間勝之の弟」とある。加藤清正亡き後はどうなったのだろうか。
「細川家文書・御印之物」に興味ある記事がある。「有馬にて討死仕候牢人衆妻子ニ被下候御扶持方の事」という文書であるが、大西弥左衛門・柴田吉左衛門・佐久間角助の三人の名がある。「七人扶持方 佐久間角助跡 同人娘女子一人 同人娘 同人姉」とあるこの文書の日付けは寛永十五年五月十五日であり、有吉頼母佐の署名があり、細川忠利のローマ字印が押印されている。各種侍帳での佐久間角助がはじめて確認されるのは「寛文四年六月・御侍帳」の、長岡帯刀組七人扶持二十石の角助である。有馬で亡くなった角助には娘が残されたが、養子を迎えたのであろうか。この家は後年、百五十石取りの家となり、郡代を務めたりしている。

 今一つは、佐久間半丞と言う人が個人名で侍帳に登場している。佐久間玄蕃盛政の子孫とあり、寛永二十一年正月に光尚に召し出され百二十人扶持、後三千石の大身になっている。熊本県史解題によると佐久間盛政の弟・角助正頼の子とされる。七兵衛、平左衛門、尉右衛門などの名が見え、夫々が千石を宛がわれており、子、孫、曾孫であろうと思われる。平左衛門室は坂崎成政女、尉右衛門は養子であり沢村大学友雅の三男である。この家は以降その動向が見えない。絶家したのであろうか。

 ともあれこの二家は佐久間信盛・勝之兄弟の弟正頼がその祖であることが、各種文書から判断できる。しかしながら二家は随分その運命を異にしている。
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