津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「日本のワインの醸造は、細川忠興によって始まった ! 」という間違い

2020-08-31 18:18:35 | 徒然

オルタナ の論説コラム「日本の初ワインは福岡?上」が面白いのでご紹介しよう。以下引用。

■日本初のワインはどこか

歴史の前では謙虚でありたいものである。まして、歴史は歪めてはならないと思うが、これが簡単ではない。今回はおしゃれを決め込んで、ワインの歴史について考えてみたい。1973年の「ワイン元年」以降、数次のブームを経て日本の食卓に根付いたワインについて最近、興味深い出来事があった。 長い間、日本ワインの発祥の地は山梨県で、1874年、山田宥教と詫間憲久のふたりが本格的なワイン造りを始めたというのが定説になっていた。ところが、日本ソムリエ協会が教本の2020年版で唐突に、「1627年から小倉藩細川家で葡萄酒が造られていた」との新しい情報を記載したことから、ワイン愛好家の間で「日本ワインの歴史が250年も遡る大変なニュース」「いや、4年間だけで跡形もなく消えており、焼酎にブドウを漬け込んだリキュールのような混成酒では」と熱い論議が沸き起こっているのである。果たして日本初のワインは山梨なのか福岡なのか? 調べてみると、驚いたことに、小倉藩のあった北九州周辺ではこれまでに何度もワイン騒動が起きているのだ。 話は一昔前に遡る。火付け役となったのは大分県の地元紙だ。細川忠興(1563-1646)が小倉に国替えになる前の豊前藩主だった時代に「大分県中津市で日本初のワインを造った」と報じたのである。2010年のことだ。忠興は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将で小倉藩初代藩主、妻がかの有名な、明智光秀の娘、玉子(ガラシャ夫人)だからインパクトは大きかった。 早速中津市に地元ブドウを使った赤ワイン「忠興公」(原料のブドウ品種は小公子)、白ワイン「ガラシャ」(ナイアアガラ)が登場。さらに、復刻版「豊前なかつワイン」も発売された。商魂のたくましさには驚くばかりだが、報道された歴史が間違っていたら、どうだろう。ビジネスそのものの信頼性に関わるのではないか。

「大分・中津市、忠興」という誤解
                          
 

                                雑誌BRUTUS(2015年5月15月号「日本ワインの醸造は、細川忠興によって始まった!」
                                          (これも間違い、掲載誌は2015年10月1日号 目次

                         BRUTUS(ブルータス) No.810 (2015年10月01日発売) 表紙

そして、現実にそれが起こったのである。報道の元をたどると、細川家伝来の美術品や歴史資料を収蔵している東京の公益財団法人、永青文庫(理事長 細川護熙・肥後細川家第18代当主)で「細川サイエンス展」の準備中の2009年に発見された古文書にたどり着く。 古文書の読み解きは容易ではない。字は崩してあるし、社会背景や人間関係もよくわからないからである。しかし、古文書を丁寧に解読すれば、ワインを造ったのは小倉藩初代藩主の忠興ではなく、その三男、忠利(小倉藩2代藩主)であることがわかったはずである。文書に出てくる「斎」を忠興の教養人・茶人としての別名、「細川三斎」と勘違いしたようだ。正しくは、「斎」は細川忠利側近の朝山斎助という人のことである。 また、製造場所も大分県中津市ではなく、豊前国8郡のひとつ仲津郡(現在の福岡県京都郡みやこ町旧大村)が正しい。二重に間違えているのである。 2014年4月に開催された永青文庫の「大航海時代」に関する展示会でも、「忠興がワインを造らせていた」と間違ったまま。この年、ようやく理事長の細川護熙元首相に、製造場所は福岡県という訂正情報が入った。ところが忠興は間
                              10月1日号
違ったままだ。 極めつけは細川護熙元首相が雑誌BRUTUS(2015年5月15月号で「日本ワインの醸造は、細川忠興によって始まった!」というインタビュー記事だ=写真。まさに「殿、御乱心」で、全国に誤報が流れる結果となったのである。 話が横道にそれるが、この号のBRUTUSは「世界に挑戦できる日本ワインを探せ!」という特集を組んでおり、「ワイン日本代表を決める、全50本の試飲会を開催!」というページに3人の日本人ソムリエが登場している。そのうちの一人が、日本ソムリエ協会の教本編集委員長であり、フォローアップ・セミナーで「日本初のワインは福岡」という説を紹介した森覚常務理事である。自らが登場している雑誌に目を通していないとは思えないから、偶然とはいえ、森氏は恐らく5年前に、この福岡ワインの情報を耳にしていたのではないだろうか。 忠興というのは、とんだ誤解だが、意外なことに、この「ワイン騒動」に行政が飛びついた。忠興が初代藩主をつとめた豊前国小倉藩のお膝元、北九州市が2016年になって国家戦略特区「汐風香る魅惑のワイン特区」に設定されたのである。従来より小規模でのワイン製造が可能になったのである。こちらも歴史に便乗した地域振興策と言える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■1㎝は無理

2020-08-31 10:34:03 | 書籍・読書

 巣ごもり状態を続けていると、何もすることがないから勢い読書ということになる。
先に眼鏡をなくし、新たにPC・読書用に一つと近距離用一つを作った。
乱視がすすんでいて、なくした眼鏡も使いづらかったので、今では大いに読書も楽になった。
Amazonや日本の古本屋で購入した本がまたまた増えて、これを読むのが大変である。必要な箇所だけ拾い読みをして本棚に収まった本も数冊ある。

なかなか腰を据えて一冊の本を一気に読了することが出来ないのは、私の根気のなさからきている。
これを5頁ほど読み、違う本を又広げ、本の書評や紀伊国屋書店のサイトで新しい本を検索したり、読んだ本の注記に記されている資料を日本の古本屋から注文したり、こんなことを毎日繰り返している。
わが本棚も時折眺めては、蔵書を取り出して目を通す。
まだ所定の位置に戻されていないのが、高田宏氏著「本のある生活」(1980年・第5刷)だ。
氏の読書量はすさまじい。「若いころは一日一寸、近頃はメートル法にして一日1㎝」といわれる。
これは本の厚みを示しているが、一日一寸とはすさまじい。通勤時間や昼休み、帰宅してからは本を読むために徹夜することもあったといわれる。
付き合いで酒を飲んでノルマが果たせないと、徹夜が数日続くというからすさまじい。
本が家中山を為していることだろうと想像する。増えるに任せて本の山が幾重にも連なっているかと思うと、そうでもないなしく何度かの引っ越しにあたってこれはという本を数冊遺して跡は古本屋に売るのだそうだ。
そしてまた新刊購入や古本屋で次々を本を購入して又山を為すのだそうな。

こういう話を聞くと「趣味は読書です」などとは軽々しく口には出せない。
そして毎日ではなくても「一日1㎝」が読了できずにいる自分が情けない。
今日は数日前に届いた「邪馬台国は別府温泉だった」厚み1.2㎝にチャレンジすることを宣言をしておく。

御約束通り10:30分読書開始、昼食30分を挟み14時過ぎに読了しました。約3時間で278頁を読み終えましたが、これはひとえに内容が素晴らしく、引き付けられたことによります。
邪馬台国は別府に在った、全編説得力があり魅了されました。皆様もチャレンジしてみてください。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(334 )寛永五年・日帳(九月十三~十四日)

2020-08-31 06:58:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)十三~十四日

         | 
         |   十三日
         |
         |一、今度、江戸廻之御船頭南次兵衛・古野二郎介両人也、
木屋善賀     |一、木屋善賀申候ハ、来ル廿八日に可被成御越旨被 仰下ニ付、御礼ニ登城仕由ニ而、参候事、
梨ノ盗難     |一、吉田少右衛門被申候ハ、先日申上候なしノ内、平野や彦兵衛なしを、今夜百斗ぬすミ申由、被
         |  申候事、
伊藤金左衛門内検 |一、伊藤金左衛門儀、此中相煩申ニ付、一昨日之御能ニも不罷出候、然処ニ、御内けん御奉行被仰付
奉行ヲ命ゼラルゝ |  候へ共、右之仕合故、手伝ニ御付被成候御鉄炮衆ニ、金左衛門ものニ巧者成者を相そへ、御郡へ
モ病気      |  遣申由、伊藤治兵衛被申事、
畳表打      |一、たゝミノ表打申家、もり申所の繕仕候へと、河田八右衛門ニ申渡候事、
         |一、福山仁助・庄村五郎右衛門・村田半右衛門・岩田新右衛門、右四人銘々ノ知行へ参度由、式ア殿
         |  へ申候ヘハ、御奉行衆ニ尋可申由ニ而、尋被申候、
         |一、山本安大夫耳を相煩申ニ付、江戸へ御供ニ成申間敷由、片岡四兵衛被申候事、
         |                              (塗師)
唐ノ手籠修繕   |一、からの御手かこ繕せ申奉行、三十人衆ノ内中尾五右衛門ニ申付、ぬし左兵衛ニ繕せ候へと、申付
三十人衆     |  候事、
地震屋ノ蔓縄切レ |一、御地震屋のつるなわきれ申ニ付而、わらひなわ十五ひろの切手、御そうり取判を取ニ参候、うら
蕨縄十五尋ノ切手 |  判奉行衆不被居ニ付而、我等共判形迄にて、請取せ申候事、
雁打ヲ曽根源兵衛 |一、明朝御繕ゟ前ニ、鴈を曽根ノ源兵衛ニ打せ可申旨、被 仰出ニ付、加藤新兵衛手前ニ預り置被申
ニ命ズ      |  御印、壱枚うけ取申候、善兵衛へ早友ノ御作事ニ参居候ニ付、御鉄炮衆ニ、右之 御印・御鉄炮
雁打御印切手   |  幷玉薬、曽根へ持せ遣候、源兵衛宿へも書状遣候事

         | 
         |   十四日
         |
         |一、昨夜源兵衛所へ持せ遣候御鉄炮、去年ゟ被為預置候御筒御座候由ニて、さし返申候、 御印請取
鷹薬請取切手   |  申との切手ハ、加藤新兵衛ニ渡ス、玉薬ノ請取切手ハ、安羽二左衛門へ渡ス、御鉄炮■も右同、
竹盗人ノ女ヲ物師 |一、竹盗人ノむすめたねと申候を、今度御いとま被遣候御物師衆に被遣候、歳十二に成申由、黒瀬九
二遣ス      |  郎右衛門申候事、
百姓母ノ上リ女悪 |一、田川郡ゟ上り申候ちぼと申女、悪敷煩を仕二付、御暇被遣由、黒瀬被申候事、
キ煩ニヨリ暇   |
         |                      (高本)
唐ノ文厘ノ塗リ  |一、唐ノ竹ふんこう壱つ、くろぬりニ仕候へと、千久浦を以被 仰出ニ付、ぬしや少二郎ニ申渡候
         |  事、
国東郡奉行用状  |一、国東郡御郡米之御代官ニ、土屋孫兵衛と申仁、御切米八石ニ弐人ふちニ而、召抱申候条、御郡米
国東郡御米ノ代官 |  ノ内を以、今日ゟ之御ふち方幷御切米被遣との御かた書被成可被下候、以上、
ヲ召抱ウ     |     寛永五年
扶持方ノ肩書ヲ願 |       九月十六日                  蒲田次左衛門
ウ        |                              小林半左衛門
         |         右分ニ、御切米御ふち方可被相渡候、以上
         |           浅山修理殿
         |           田中兵庫殿
         |   蒲田次左衛門殿
         |   小林半左衛門殿
         |
         |            
布施       |一、朴西堂へ銀子拾枚・御〇中折帋百束、被進候事、
         | (八条宮智仁親王侍臣)
砂金       |一、山田将監へ御小袖弐つ・御砂金壱枚被遣事、
りくゑつ     |一、りくゑつへ御小袖弐つ、御道ふく壱つ被進事、
田川郡岩石ノ松茸 |一、田川郡岩石ゟ松茸拾壱本、御小人猪介ゟ持せ越候を、皆川治ア丞を以、上ヶ申候事、
ヲ上グ      |
         |   (可政)
         |一、加々山主馬助方、中津へ御使ニ参、 三斎様ゟ御道服壱つ拝領被仕候事、
忠利溜池ニ遊ブニ |一、ため池へ被成 御座候而、京衆被召連候間、からかさ十本斗持せ、ためいけへ可越由、真下七兵
京衆ヲ召連ル   |  衛奉りニ而被申越ニ付、住江甚兵衛所へ申遣事、
傘ノ用      |
         |一、奥村少兵衛煩、不罷出候事、
         |    (木)
田川郡伊方村ノ鷹 |一、八喜木工被申候ハ、田川郡之内、伊方村ノ御鷹へや居申大たか一居、はいたか二もとか三もと
         |          (鳥屋)                                                                八木
部屋へ鳥屋出シノ |  か、いつれもとやを出候へと、 御意被成候間、〇吉右衛門方へ状を遣申度候間、飛脚一人申付
         |                   (木)
命        |  候へと、被申候、御使申付候事、八喜木工状持せ候事、
忠利溜池ノ簗ニテ |一、今日七つ時ゟ、溜池のやなニて、御河かり被成候事、
川狩ス      |
         |  (槻ノ木村ヵ、下毛郡)中津市山国町槻木
鷹匠ノ打チシ鷹  |一、つきぬきゟ、鷹一居、御たかぜう衆打申由ニて、持せ越候、河井権丞所へ持せ遣候、
         |                     (西沢)
西ノ茶屋ノ薄縁  |一、西之御ちや屋ゟ、うすへり持来覚、十枚ハ文右衛門与次兵衛、七枚ハ兵太夫与勘右衛門と申もの
         |  也
         |一、野田小左衛門弟、はりま之孫七郎ニ、御小袖弐つ被遣事、
振舞ニ山ノ芋   |一、明日之御振舞ニ、山のいも十本入候由、浦上瀬兵衛被申候間、小崎與次兵衛・平井五郎兵衛所へ
         |  申遣候事、
海鼠       |一、同なまこも朝御膳ゟ内ニ、五六はい入申由、被申ニ付、百留中左衛門へ申遣事、
砂金ヲ吹カシム  |一、御砂金三百三十四匁五分ヲ、宮部権三郎・古生次左衛門奉行ニてふかせ候ヘハ、拾三匁壱分のふ
吹減リ      |  きへりニて候事、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ガラシャ夫人?

2020-08-30 21:55:53 | 徒然

 明治期の女流画家・柴崎美方のデッサン帳が数冊オークションに出品されている。
それぞれを眺めていたら、下のようなデッサンが有った。
一部にガラシャが生涯の時、二人の子を殺したという話が残るが、これを彷彿とさせるようである。
この画家にガラシャ夫人に関する作品が有るのかどうか知らないが・・・・

             

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■また足をひねりました・・

2020-08-30 21:06:03 | 徒然

 今年の中秋の名月は10月1日、一回り前の満月がそろそろですが雲一つない空に輝いています。
二三日前まではオムレツのようなまっ黄色の月でしたね~。
そろそろ9月に入ろうとするこの頃は、昼は相変わらずの猛暑日ですが、朝の散歩の折の風は涼やかで、秋の虫が鳴きだして、台風9号が去った後は一気に秋の気配になるのではないかとさえ思えます。
なんだか猛烈な台風になりつつあるようで、熊本は台風の通り道の東側にあたるので、近づかないでほしいと祈るばかりです。
今日は散歩の道のわずかな左下がりの勾配に足を取られ、足をひねりまたまた左ひざを痛め、終日サポーターをつけて過ごしましたが、情けなくて仕方ありません。
現在は3キロコースを歩いていますが、涼しくなればフルコース(3.9キロ)に戻そうと思っているのですが、さてどうなる事でしょうか。
一日中、PCの前か読書かの生活ですから、散歩をしなければますます足が弱りそうで恐怖にさえ思います。
ちょっと遠くへ出かけたい願望も積もりますが、このコロナ騒動の中ではこれもはばかられ、ストレスもたまるばかりです。
ストレス解消術を探さなければなりません。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(333 )寛永五年・日帳(九月十一~十二日)

2020-08-30 06:23:19 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)十一~十二日

         | 
         |   十一日

         |
侍共強飯ヲ引ク役 |一、河本瀬兵衛・山田少兵衛、今日の御能ニ、こわいゝをひき可被申通、申渡候処ニ、まくのかけニ
ヲ避ケントス   |  かゝミ居申候を、又見付候て、申付遣候事、
         |一、志水安右衛門も、同前ニ居申候へ共、煩申通申ニ付而、其分ニておき申候事、
         |一、北村甚十郎ニも申付候へ共、不罷出候事、
中津狂言師ニ小袖 |一、中津ゟ被成御雇候狂言師六右衛門ニ御小袖弐つ、喜四郎ニ御小袖弐つ、長左衛門ニハ銀子五枚・
等ヲ賞与ス    |  御小袖弐つ、右之分被遣候事、
         |一、右参人中津へ明日被帰候、次馬一疋申付、可送届旨ニ被 仰出ニ付、申付候事、

         | 
         |   十二日
         |
大坂ヨリ生鮭鱈購 |一、大坂ゟ、生鮭弐尺、代百九十六匁二かい下被申候、鱈十本、是ハ一本に付、壱匁四分七厘宛ノ
入ノ価      |  由、申越候、続二右衛門積下候事、
御所柿献上ヲ申触 |一、御所柿所持被仕衆中へ申触、二つ三つ宛ニ而も上ヶ可申旨、被 仰出候ニ付、御家老三人へ申入
         |  候ヘハ、式ア殿ゟ柿三十御上候、永良長兵衛を以上ケ申候事、
道家帯刀ノ飯炊女 |一、道家帯刀方ゟ、使者を以被仰聞候ハ、大坂御普請ニ、めしたき女壱人召連罷上候処、上方にて走
大坂ニテ走ル   |  申候、彼女之親ついき郡帯刀知行地ニ居申候、はたものニかけ申度候、無さ候ハヽ、くびを切申
         |                                    (田中氏次)
親ヲはたものニ願 |  度通、御郡奉行へ申候ヘハ、御奉行所へ相尋候様ニと被申ニ付、申入由候、兵庫返事ニ、是ハ
ウ   年寄等ノ |  御年寄衆とへ被仰理、御さしつ次第ニ可被成由、申候事、
指図次第トス   |      〃
         |                 (米田是季)
忠利ノ触ニヨリ御 |一、御所柿五十五ハ         監物殿ゟ、
所柿ヲ上ル者   |                 (志水元五)
         |一、同三十五ハ           伯耆殿ゟ、
         |                 (小笠原長元)
         |一、同八つハ            備前殿ゟ、
         |一、御所柿五つ           黒部吉兵衛ゟ、
狩野平左知行ノ御 |一、狩野平左衛門知行之 御印出申候を、又様子かわり申ニ付而、加藤新兵衛ニ相渡申候、 御印切
印切手      |  手書かへ、 御前へ差上由被申候事、
         |                   (昭知)
御所柿進上    |一、御所柿三つ           三渕内匠殿
         |     十五
         |一、御所柿三十           松岡久左衛門尉
         |     〃〃
         |一、同弐つ             桑原主殿
         |一、同卅五             上野左右馬
         |                  高田
         |一、同十五             平野九郎右衛門
         |                  〃〃
         |                  (酒ヵ)
         |一、同十三             河匂藤右衛門
         |一、同七つ             住江甚兵衛
音信帳用ノ墨筆ノ |一、御音信之帳付、手前ニすミ・筆無之候間、うけ取度と申候ニ付、爰元ノすミノすりくづ壱つ・古
用        |  筆三つ渡候事、
         |                    (賀)
         |一、御所柿三十           雑加源左衛門
         |一、同三つ             小崎與次兵衛
三斎へ海鼠松茸ヲ |一、なまこ一桶・松茸壱籠、御長柄半三郎・與三兵衛弐人ニ持せ、加々山主馬中津へ御使者ニ被参候、
進上ス      |  追かけ遣候事、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■今日の散歩は・・・

2020-08-29 17:43:09 | 徒然

 今日は6時半起きと少々起床が遅くなってしまった。土曜日は「さわこの朝」を見なければならない。
見終わった頃食事、そしてシャワー、奥方が買い物に出かけ、着払いの品物がつくらしくそれを待つ。
そうこうしていたら奥方も帰ってきたが御昼と相成った。
もう外はカンカン照り、予報は38℃とか言っているから、その時間外へ出たら完全に熱中症になる。
今年は24時間クーラー付けっ放しの中で過ごしているから、体が27~8度に順応しきっていて、35℃の世界を30~40分歩くのはとてもできなくなった。
いろいろ言い訳をしながら散歩は中止である。
この時期の散歩は、起き抜けに済ませないといけない。明日は早起きをして少し長めに歩きましょう。
下は数日前に久しぶりに会った「鉄犬くん」暑さで随分参っているようだった。

                

                 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ヤフオク「福田家史料」三点

2020-08-29 15:42:25 | オークション

  福田家については、私の記憶では過去にもヤフオクの宛行状が出品されたように思うが、その折のものの再出品だろうか。三点がバラバラで出品されている。

              福田次左衛門宛目録 肥後国益城郡・飽田郡之内 弐百石

       ①- 


          肥後藩 四代藩主・細川宣紀知行宛行状 益城飽田二郡之内 正徳6年

       ②- 


          熊本藩 九代藩主細川斉樹 知行宛行状 益城飽田二郡之内 福田次左衛門宛

       ③- 

①と②は、三代目・次左衛門のものである。御使番 続団右衛門組・御目付 二百石(御侍帳・元禄五年比カ)なる人物である。
①によると、知行地替えを願い出たらしく、かなえられ決定した目録である。
②は松本寿三郎氏の「熊本藩御書出集成」にその存在が記載されており、その現物が出品されたことになる。

③は、七代目・寿八郎(次左衛門)の宛行状である。  
この人物は、御番方・松下清蔵組 二百石 叉 御留守居御番方・住江次郎左衛門組 二百石トモ「文政十一年三月~天保三年七月 八代郡代」を勤めた。
同人宛の文政九年・二百石の細川斎護公御書出が、やはり「熊本藩御書出集成」に掲載されている。

①と②はせめて一緒に落札してほしいものだ。


   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(332 )寛永五年・日帳(九月九~十日)

2020-08-29 06:35:44 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)九~十日

         | 
重陽       |   九日

         |                      (正照)大友吉統の三男
         |一、林久太夫相煩申、今日之御礼ニ不罷出由、松野右京殿被仰候事、
         |一、久野二郎左衛門儀、去六日ニ母相果申候ニ付而、御礼ニ不罷出由、遠坂越後被申候事、
三斎へ海鼠進上  |一、昨日中津へなまこ持せ被遣候御飛脚罷戻、 御返書取返申候事、皆川治アヲ以上申候事、
         |                             〃
         |一、築城郡御惣庄や角田彦右衛門、煩にて不罷出由、御郡奉行被申候事、但、せかれハ御目見えニ罷
         |  出候由之事、
         |           (片島)                         (庄 快寛)
         |一、京都郡堅嶋四郎左衛門相煩申ニ付、御礼ニ不罷出由、佐方勝左衛門被申候事、
奉行所ノ使番増員 |一、御奉行所御使番、今日ゟ弐人まし候事、
         |  (湘雲守沅)                                  (波多) (岡部)
京大坂ヘノ書状  |一、沅西堂へ為御飛脚、御小人弥左衛門与久太郎申付、 御書箱壱つ、幷中庵・永良長兵衛・道宇ゟ
         |  之状共相渡遣候也、
         |一、佐藤将監所へ之 御書箱壱つ、
         |  (主水)(慰英)(氏久)
         |一、寺嶋・仁保・田中所へ之 同壱つ、
         |一、飯田才兵衛ゟ、銀一包、仁保太兵衛所へ上せ被申候、
大坂京ヘノ使者幷 |一、大坂・京衆へ、我々ゟ之状共
書状等      |  右、何も御使者松岡角太夫ニ渡、上せ申候、勿論、佐藤将監所へ被遣袖ほそ一つ、頭巾四つ、一
         |  箱ニ入、相渡ス、
請取       |     右請取罷上候、                     松岡角太夫(花押)
上書ノ注文    |一、御上くつ拾足切せ可申旨、奥ノ御納戸中被申ニ付而、つんぼんかわや子七左衛門へ申付候也、
         |                 ( マ マ )
花入ノ環ノ作成  |一、御花入れ壱つ、くわん仕せ可申旨、   かちや苦労兵衛ニ申付候事、
松井興長知行所ヨ |一、国東郡之内式ア少殿御知行所ゟ、松木壱本・つけの壱本、御奉行守田少兵衛参、ほらせ持せ来
リ松井黄楊ノ移植 |  ル、
鉄炮ノ真鴨ヲ上グ |一、林弥五右衛門、東ノため池ニ而、真鴨ノ女鳥壱つ打候ヲ、入佐を以、上ヶ申候事、
         |一、木下右衛門様ゟ、御文箱一つ、飛脚持来候由ニ而、吉田少右衛門持参被申候事、
         |                             
祇園能組狂言組ヲ |一、祇園御能組壱枚、狂言組一枚、弐枚を竹内長介ニ持せ被下候、薗之楽屋ニ持せ遣、をし候へと、
楽屋ニ押サシム  |  被 仰出候、則歩之御小性吉村次左衛門ニ持せ遣申候、
明日ノ能興行中止 |一、明日ハたとひてり候共、御能被成間敷旨、被 仰出ニ付、御年寄衆幷お町奉行衆へ右通可被仰触
         |  由、申入候事、
木下延俊へ小徳利 |一、木下右衛門様へ之御返書ニ、ちいさきとくり、家共成御添、被進之候事、
ヲ贈ル

         |
         |   十日

         |
         | (摂津川辺郡)
         |一、尼崎へ被遣御植木を■■被成御覧、被成御出候事、
中津ヨリノ狂言師 |一、中津ゟ被成御雇候狂言師ニ、狂言をおさせ被成候事、
祇園御能延期ス  |一、今日ハ、祇園の御能のひ申候事、
爪切小刀ヲ研ガシ |一、御つめきり小刀十本、御さうち坊主長斎円持出、申候ハ、さび候てきれ不申候間、とかせ可申由
         |                   〃
         |             竹内与伝兵衛
ム        |  申来ニ付、則御使番ノ内〇去年江戸ニ而も是をとぎ、又ミかき申ものゝ由申ニ付、とがせ、さ候
         |  て長斎円ニ可渡候て、加来二郎兵衛おくへ持参申候へ共、長斎円居不申ニ付、長斎ニ相渡候事、
         |    〃                        〃
稲葉信通ヨリ文箱 |一、稲葉彦四郎様ゟ、御文箱幷御所柿一籠、飛脚持参候由ニて、式ア殿ゟ人を付、被成御上候事、
御所柿来ル    |
         |一、菅村和泉脚気たニ御座候間、明日御能ニハ罷出間敷由、使を以被申越候也
上リ物ノ百姓母ニ |一、中津郡大村之百性二郎作母、寛永三年ニあかり物ニ罷成候を、只今御暇被遣候間、御郡奉行可
暇ヲ遣ハサル   |                     (友信)        見届
         |  被請取候由、黒瀬九郎右衛門申遣候状を、佐方殿御持参候を、〇如此書附置候也、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■メダカの世話

2020-08-28 16:19:01 | 徒然

 わがビオトープにはメダカが10匹泳いでいる。卵を待ち望んでいたが、水草が多くて発見できないでいた。
処が一週間ほど前、突然6~7mmの幼魚を発見、二日前には3mmほどの小さな姿も見つけることができた。
少々水面の水草を整理したり、据え込んだ石にウジョウジョ発生している貝の卵を処理するために取り出して干したりする。
そして今日は散歩がてらペットショップに出かけて、稚魚専用のえさと水槽の壁を掃除するためにタニシを三個購入する。
メダカの世話だけは、給餌をもとより、水の管理などは毎日欠かせない。
毎日眺めていて癒されることこのほかにない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■遠見ヶ鼻

2020-08-28 10:46:02 | 俳句

 高浜虚子は昭和27年11月阿蘇を訪れている。そして半年ほど前に亡くなった熊本の俳人で弟子の宮部寸七翁の墓前に詣で、次の句を呈している。

           君がため遠見ヶ鼻の竜胆を

    ーあなたのために、あなたが眠る阿蘇平野を眼下に見る遠見が鼻から竜胆の花を手折ってきましたよー
     
 遠見ヶ鼻とは現在は大観望と呼ばれるが、熊本の偉人・徳富蘇峰が漢文風に名付けたものだ。
熊大の某教授の御著に、「教養人の恣意的表現に追従して、先祖のもつ庶民的生活感覚を忘れ去ってよいのか」と記されているが、どなたが蘇峰先生におもねいて変更されたのかは知らないが、蘇峰先生の本意ではなかったのかもしれない。

 地名はその地の歴史である。「遠見ヶ鼻」は阿蘇の悠久の歴史の中で、まさに人が生きた時代に、眼下の阿蘇平野を望む外輪部の突端にふさわしい名がつけられていた。
蘇峰と虚子はほぼ同時代を生きた人である。虚子は大観峰という名も知っていたかもしれないが、やはり漢文風の名前は俳句にはそぐわない。

「遠見ヶ鼻」という名前を知る人もだんだん少なくなる事だろう。さみしい話ではあるが、虚子の俳句は永遠のもので語り継がれるであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(331 )寛永五年・日帳(九月八日)

2020-08-28 06:42:47 | 展覧会

                      日帳(寛永五年九月)八日

         | 
         |   八日

         |
唐人二官ニ付置シ |一、唐人二官ニ被為付置候御小人ノ小頭與助与の助左衛門と申もの、昨夜とりにけ仕候由、但、おや
小人取逃ゲ親兄弟 |  ・あにきともにはしり申由申事、
供ニ走ル     |
棕櫚ノ移植困難  |一、築城・上毛御郡奉行衆被申候ハ、上毛郡ニほりニ被遣候五間四尺之しゆろほり候而、持せ可出と
         |  仕候へ共、間のび候故、出しかね申由、被申候事、
         |一、辛川四郎三郎煩にて、九日之御礼ニ不罷出候由、忠介被申届候事、
祇園社神事能ノ折 |一、祇園御能之折奉行、歩之御小性渡辺六太夫・瓦林金太夫也、
奉行       |
惣庄屋服忌ニヨリ |一、築城御惣庄屋椎田與右衛門儀、女房二三日已然ニ相果申ニ付、節供之御礼ニ不罷出由、沢少兵衛
重陽ノ礼ニ不出仕 |  被申候事、
         |一、同郡八田助左衛門煩故、不罷出申候事、せかれ罷出申候事、
         |                  〃
         |        
         |一、上毛郡篠瀬三右衛門煩ニ付、不罷出由候事、
         |一、同郡友枝助右衛門煩申候ゆへ、せかれ罷出候由候事、
福王千松呉服等拝 |一、福王千松ニ呉服壱つ・御肩衣袴弐通拝領仕由、十大夫申来候事、
領        |
祇園神事能ノ用  |一、祇園御能ニ入申たゝミだい壱つ入申候間、ぎおんへ持せ候へと、八川田八右衛門ニ申渡候事、
         |                               〃
         |一、かすや新兵衛・へにや太郎兵衛、御小袖壱つ・御袷壱つ宛拝領仕候事、
中津ヨリ狂言師来 |一、中津ゟ、狂言仕六右衛門・喜四郎・長左衛門おやとひ被候、参事、
ル        |
棕櫚ノ移植    |一、築城郡岩丸のしゆろ三本ほり、右之内、壱本七日・八日両日ニ椎田へ出申候、壱本ハ須田ノはし
         |  ニ有之、〆弐本ハ御郡奉行衆・御惣庄や九日之御礼二罷出候間、舟津へ出申事不成候由、上林甚
         |  助ゟ、同くミノ新右衛門ヲ使二被越候事、
         |一、同御郡之内、安武ノ御惣庄やハ残り候而、御用ヲ調候へと残シ申由、右ノ新右衛門申候事、
祇園能興行ニ警固 |一、祇園御能之日、とがわのかきなとくゝり可申候間、見つくろい、けいこかたくいたし、見廻り候
ヲ厳重ニセシム  |  へと、野瀬少左衛門ニ申渡候事、
         |   (武次)
椎田村ノ棕櫚ノ搬 |一、牧丞大夫与ノ小頭ニ、椎田ニ有之しゆろ、御鉄炮廿人召連参、御郡夫ニ加へ、右ノしゆろさいか
出        |  く仕、津出仕、舟ニのせ、もとり候へと、申付候事、
松平忠重使者ノ接 |一、松平大膳様御使者斎藤九郎右衛門幷木下右衛門様ゟ、右ノ安内者ニ被参候青野少左衛門ヲ、林作
待        |  左衛門・赤尾茂兵衛両人ニておくり、右衛門様御領分内、むくのと申所まて被参候、やさい・薪、
         |  所々ニて人足相渡申候事、
         |                                  かい
ひせん壷購入   |一、ひせんつほ十御用ニ入申候旨通、伊藤甚左衛門東ニ而調可申旨候間、急度調、甚左衛門ニ渡可被
         |              〃
         |             (ママ)
         |  申候、以上おかい物奉行
佐藤将監見舞ニ頭 |一、佐藤将監へ御見廻ニ被遣候物、御づきん四つ・御そてほそ壱つ、杉箱ニ入、竹原少大夫おくゟ持
巾袖細ヲ遣ス   |  参被申、上へ上せ可申由、被申事、
         |一、河喜多八助相煩申候間、明日之御礼ニ出申儀成間敷通、入江勘三郎ニ言伝被申候事、
         |一、沖津作大夫儀、右兵衛手前不慮之儀ニ付、中津ニ御預ヶ被成候間、罷出候儀如何と存候へ共、
沖津弥五右衛門  |                               (孫ヵ)  
         |  御前もやわらかさうニ御座候ニ付、罷出申由申候事、弥五右衛門□ハ煩故、不罷成由、作大夫被
         |  申候事、                  〃
                                 
      ■「一木三銘」の名香木購入時の、沖津弥五右衛門同僚殺害の逸話は間違いだった・・・ 関連記事
        
唐人二官ニ小袖等 |一、唐人二官ニ御小そで壱つ、御道ふく壱つ・御おひ壱筋被遣候事、
ヲ与ウ      |
白革足袋注文   |一、林喜介ニ、しらかわのたひ壱足調可遣旨、一角奉ニ而被申越候間、つんほうかわや所へ、喜介古
古キ見本     |  キたひを一そく本ニ遣、申付候、使ハ竹内吉兵衛与坂本伝兵衛也、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■11年目の方針変換

2020-08-27 13:02:22 | 徒然

 今般の人吉・球磨・葦北方面の大水害を受けて、球磨川治水に関しいろいろ論議されている。
週刊誌などでも大きく取り上げられ、川辺川ダム建設にNOのサインを出した、樺島知事がやり玉に挙がっている。
国土交通省が25日に県と共に開いた検証委員会では、川辺川ダムが完成して居れば、4割の水量を減らすことができたと結論付けている。
これを受けて樺島知事は、「ダム建設」も一つの選択肢と表明した。11年前に胸を張った知事の変節である。
水害後「ほかの治水対策」を口にされていたが、11年間何がなされてきてどうなさるつもりだったのだろう。
ダム反対が叫ばれていた中での、樺島知事の登場であったが、ダム反対は当選のための方便だったのか。
今般の方向転換を「民意」だとされる。政治学者である樺島知事は、民意を大切にされる人らしい。

先の選挙で四選を果たした樺島知事だが、えらいところで晩節を汚すことになった。
これだけの大災害を経験すると、周辺町村の民意は一変することだろうし、首長もすっかり「ダム建設」派になられるのではないか。
雪崩を打つように「ダム建設」の流れが出来上がっていくように思える。
五木の住民は、「ダムを造ります」と立ち退きを迫られ、なくなく家を解きそして村外へ出た人も大勢ある。
処がダムは取りやめとなった。彼らの無念さがまた思い起こされる。「おどま盆ぎり」の平和な村は政治に翻弄されつづける。
これは一人知事の責任ではあるまい。バッチを胸にした人たちは、この11年間何をしていたのか?
策もなく、ただ、雨が降らないように願っていたとでもいうのか。

四選知事は熊本では初めてだ。あえて四選を選択されのは派手に打ち上げた「やり残したこと」を成し遂げるためだろう。
クマモンと連れ添ってうろうろしている場合ではない。任期中、誠意をもって事に当たられることを願う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■かすかな手掛かりを探して

2020-08-27 10:17:55 | オークション


             

 我が家の先祖は毛利家に仕えていた。私称だろうが越前守を名乗り1,500石、二人の息子がおり夫々500石、弟のほうが家祖である。
先祖附によると下松に居住していたところに、「江戸上下之途中」たびたび忠興公が舟を寄せられ、饗応をしたらしい。
これに二人の男子が有り、児小姓として豊前に召出された。弟が我が家の初代、二代目が母方の姓をついで今日に至る。

 ヤフオクを眺めていたら、上記物件が出品されている。
我が家の家祖については、現在全く手掛かりがつかめないでいるので、
この分限帳に名前がないかと眺めてみたが、少々時代が下がっている。
すでに毛利家を離れた後のものと思われる。

それでもわずかな手掛かりはないかと、応札してみようかと考えたが、現在31人という随分多くの人がすでに応札している。
状態もよく、毛利藩家臣の子孫の方々は、何とか落札したいとの思いが強いだろう。もっとも転売を意図とする人もおられようが。
参考写真が数多く添付されているからこれを眺めているが、残念ながら我が家の先祖を伺えるものは見当たらない。
白旗を掲げて撤退することにする。皆さんのご健闘を祈り上げる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(330 )寛永五年・日帳(九月七日)

2020-08-27 06:13:12 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年九月)七日

         | 
         |   七日

         |                                 小頭                急
長崎へ遣ス飛脚ニ |一、長崎へ被遣御飛脚、御のほり衆波賀小右衛門・御長柄衆神戸喜平次与二右衛門与孫介、両人御用
状ノ覚      |        (飯銅)    (星野)                                (飯田)
         |  之儀付被遣、上右衛門・半太夫所へ遣状一つ、白井太左衛門所へ遣状一つ、才兵衛与上右衛門・
         |  半太夫所之状一つ、明官ゟ遣状一つ、何も慥相渡候事、
波多中庵邸ニ臨ム |一、今朝ハ、中庵へ被成 御成候事
         |一、深野二郎右衛門、此中相煩、今日登城被仕候事、
         |一、大坂御普請ゟ、吉田孫四郎・西川少助・松下掃ア・魚住木工丞被罷下候事、
         |   (一長)               (重嘉)
         |一、伊藤半丞・西沢文右衛門・横山助進・右同前ニ被罷下候事、
筑紫広門使者   |一、筑紫主水殿ゟ之使者中山十兵衛、御状持参被申候事、
重陽ノ祝儀不出仕 |一、林久太夫煩申ニ付、節供之御礼ニ不罷出由、大竹與三左衛門ニ言伝、被申越候事、
ノ届       |
         |一、中村左太夫煩申ニ付、不罷出由、坂根九郎右衛門被申候事、
         |                                 (  マ マ )
         |一、大坂御普請ゟ、後藤善左衛門・福田吉助・菅村七太夫・中路三郎二郎     被罷下候事、
         |   (元信)
         |一、南条左衛門尉様被下候事、
         |一、木下右衛門様ゟ、御文箱次飛脚ニ而参候、則御返書ニ、御郡奉行衆へ書状相添、右次飛脚ニ渡候
         |  事
物師出府     |一、来ル十五日ゟ廿日ノ間、御物師衆被乗上候船頭ハ、吉田市左衛門也、
         |   (光直)
哲斎へ重陽ノ小袖 |一、楯岡鉄斎へ御小袖弐つ被遣候、御使猿木何右衛門、
         |         (松野親家)
道孝へ重陽ノ小袖 |一、御小袖弐つ、利根川道孝へ被遣候、御使者鳴海助右衛門、
栗野某初見願   |一、栗野仁右衛門子五郎八、年十五ニ成申、御礼申上度通、栗野伝介を以申候事、
         |    (幸長)
野田幸長弟初見願 |一、野田小左衛門舎弟ノ儀申上候ヘハ、何時成共御礼可申上げ候へ旨 御諚之通、小左衛門に申渡事、       
         |                            〃〃
祇園神事能ニ折奉 |一、祇園御能ニ、 殿様ゟ御折■誘可申通、御かい物奉行森次兵衛ニ申渡候ヘハ、 殿様ゟ之御折
納ヲ命ゼラル   |  被 仰付たる儀無御座候由、次兵衛申候事申候、若覚達も可有之候間、相奉行衆・菓子やニも相
先例ナシ     |  尋也候へと、申渡候事、     〃〃〃
         |   〃
         |一、中津へ御使者ニ被遣候品川茂太夫、今晩 御返書取、被罷帰候、 御返書ハ皆川治ア丞ニ渡候上
         |    〃
三斎へ鷹ノ鳬進上 |  候、御たかのけり、今朝御膳前ニ上り申由被申候事、茂太夫被申候事、
         |                     〃〃〃〃
         |         
         |一、宇野七右衛門息善太郎おこりふるい申候間、節供之御礼ニ不罷出由、高田十兵衛ニ言伝、被申候事
         |一、宇野七右衛門御郡ニ御用御座候間、七日不罷出由、十兵衛ニ言伝被申候事、
         |                            と申       子
鏡善右衛門ニ薬賜 |一、鏡善右衛門煩ニ付、御薬被遣候、御使猿木何右衛門也、忝〇御礼ニ、息長二郎ニ、糸川長左衛門
与サル      |  安内物ニて登城仕候、右之通、皆川治ア丞を以申上候へと、おくへ参事、
客人屋ノ畳ニ紙覆 |一、おきゃく人やの御たゝミノ上ニ、かミヲ次、おゝいニ可仕由、御きやく人やノはり付奉行ニ、申
ヲセシム     |  渡事、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする