津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■SRIVA・・?

2022-10-31 08:43:05 | 徒然

 ある方からメールをいただき、私の肩痛の原因はワクチン接種が原因のSRIVA(ワクチン接種に関連した肩関節障害)ではないかとご教示をいただきました。
そして早めに医療機関での診察を受けないと、長引くかもしれないとのご指摘でした。
私のブログを御覧になっておられる医療関係者(医師?)のようです。全く見ず知らずの者にお教えいただき只々感謝申し上げます。
精しく書かれたあるサイトまでご紹介いただきました。読んでみると100%間違いないと確信しました。
数ヶ月続くことがあるとの事ですから、まずは接種を受けた病院に相談してみたいと思っています。
4回目の接種の案内も随分前に届いていますが、怖くてまだ申し込みもしていません。

かっては、「他力本願的」という文字を冠していた当サイトですが、今も変わらず皆様からいろいろお教えいただき、感謝を申し上げます。

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■御侍帳・家紋から考える(52)

2022-10-31 06:42:40 | 家紋

                             

                                                新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

沢村権兵衛は、沢村大学吉重の義弟(妹婿)沢村権兵衛を祖とする【丹後以来】(南東46-2)沢村半之助家。権兵衛を名乗る人が多く人物の国定には至らない。
     家紋は「隅立平角に丸に三つ鱗紋」 
沢村八太郎は、同上二男家【丹後以来】(南東46-3)沢村才喜家の5代目である。
     家紋は「■■文字紋」(■■は円の三画目の縦線が上に突き抜けた形)

沢村八郎次は、沢村大学嫡流二代宇右衛門・二男家【丹後以来】(南東46-4)沢村宇平家の7代目。家紋は「丸に鱗紋」   
沢村半兵衛は、沢村大学嫡流二代宇右衛門・三男家【丹後以来】(南東46-6)沢村孫七郎家の5代目・松喜(半兵衛)。家紋は同上。
沢村又作は、【丹後以来】(南東46-5)沢村脩蔵家の8代・又作(九兵衛、太兵衛・正常)。
     これは「細川藩家臣略歴(=先祖附)」によるものだが、「細川藩主要家臣系図」によると、若干の差異が伺われる。
     後日明らかにしたい。家紋は「隅平鉄炮角に■■文字紋」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(上記沢村五家は沢村大学・と下記沢村三家は中村甚右衛門系で系統を異にする)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

沢村彦作は、中村一氏の三男・甚右衛門の一族、後四流が沢村一門となった。(南東46-7)沢村弥次右衛門家の6代目。
      家紋は「丸に一文字紋」「 不詳 」
沢村武次郎は、同上(南東46-9)沢村儀之助家の7代目。家紋は「丸に一文字紋」「地紙紋」  
沢村権十郎は、同上【青龍寺以来】(南東46-8)沢村吉之允家の6代目。家紋は「亀甲に■■紋」「 不詳 」 

沢田勝次は、(南東45-17)沢田丈太郎家の5代目・勝次(勝左衛門)。家紋は「三つ石紋」

沢 源太郎は、(南東45-13)沢 荘次郎家の7代目。家紋は「丸に武田菱紋」「剣付片喰紋」

沢 八十郎は、(南東45-26)沢 弥門家の7代目・名は正博、楠木氏之兵法に精通し其師範となる。
     天保十二年二月十九日没す。年六十四。家紋は「杏葉紋」「一つ左巴紋」

坂崎数衛は、(南東45-1)坂崎 清家の10代目・直人(兵庫・数衛)か?。家紋は「碁盤紋」

坂口茂八郎は、(南東47-17)坂口騏十郎家の7代目・茂八郎(唯右衛門)。家紋は「一つ丁子巴紋」 

坂本丈大夫は、(南東45-10)坂本平左衛門家の3代目。家紋は「三つ盛左三つ巴紋」   

坂本平之允は、(南東45-11)坂本仁兵衛家の7代目。家紋は「毬挟み紋」

佐藤安平次は、(南東47-20)佐藤平四郎家の11代目・石松(安平次)。家紋は「二つ入れ子隅立角紋」

坂牧信八は、(南東45-5)坂牧栄之允家の8代目・信八(瀬左衛門)。家紋は「 不詳  」

坂本森右衛門は、(南東47-22)坂本休三家の3代・唯五郎(森右衛門・久右衛門)。家紋は「木瓜紋」

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■桂離宮とモンドリアン

2022-10-30 12:57:48 | 建築

 私がよく拝見する感性の時代屋 Vol.2というブログ、ほんとうに美しい感性に満ちた素敵なブログだ。ブックマークを開いて、昨晩久しぶりに拝見した。
カテゴリーから2017年の「ぶらり京都」をいくつか眺めている内に、140・139と進んで、138 [桂離宮のモダニズム]があった。
この名建築・庭園の創建にあたられた八条宮智仁親王は、細川幽齋に古今伝授を伝受されたり、親王の姫と光尚の縁談があるなど深い関係が伺える。

ブルーノ・タウトにより「日本再発見」され世界に発信された感が強いが、建築を志す人はこの桂離宮は避けて通れない。
上記ブログに魅了されて豊かな気持ちにさせられた。

 全くの偶然だが、今朝のWEBニュースで「モンドリアンの絵が77年間上下逆さまに展示」というものがあったが、昨日の今日の話で少々びっくりした。

 桂離宮の建築や内装のしつらえはよくモンドリアンと対比して語られることが多い。
上記ブログ138に紹介されている写真を眺めると、よくそのことが理解できると思う。

まさか、桂離宮の「襖」が上下逆さまになる事はあるまいが、モンドリアンの絵ならばありうる話だと思ったことである。
宮内庁が管理するこの建物だから、残念ながら拝観がかなわない。精々写真集やこんなブログの素晴らしい写真で対面するほかない。

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■瑶臺院様御不例

2022-10-30 06:53:39 | 歴史

 瑶臺院とは細川治年室、宇土細川家・細川興文女である。男子二人があったが幼少であったため、治年は瑶臺院の実弟・宇土藩主細川立禮を跡目とする。齊茲である。
治年の男子成人の折には家督は譲られる約束であったが、若年にて死去される。
その瑶臺院の病気がすぐれず二本木邸にて養生をされている。
実の弟である齊茲は、供廻りが揃わぬまま姉瑶臺院の許へ一騎馬を走らせる。そんな有様がが諦了公遺事に記されている。

 瑶臺院様、御病気御勝れ成さざる節、火急に二本木に御出仰出されしに、御気遣の餘り、未だ御供廻らざる内、第一騎馳
にて御乗出し、石塘筋御乗切りの時分、川尻町御奉行境野嘉十郎馬上にて出府せしが、二本木町少しこなたにて、向ふを遙
に見しに、 公(齊茲)御一騎にて御出遊さるに付、扨はと驚き、横の小道に乗入れ、鞍坪に畏り居しが、若黨頻りに下馬
をすゝめけれども聞入れず、思ふ子細あればと、首をふり、彌馬上に畏り居候、早間近く成せられ、嘉十郎先を乗れと、高
らかに御意遊すと、直様本道に乗出し、御元乗に二本木御屋形の馬場にてひしりと下り、己が馬は打捨、 公の御馬の口を
取り、御玄關迄御供申上ける、瑶臺院様御不例に付ては、各別御心を用られしこと、此一條にても伺ひ奉るべし、
                                            諦了公遺事

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■発見・跡部家資料

2022-10-29 14:39:15 | 先祖附

 一生懸命さがしている細川家家臣に係わる史料で、世に出ているもので私が承知しているものの内、入手出来ていなかったものの一つが、跡部家のことに就いての論考が掲載されていた在野史論第九集(平成13年8月刊・歴史研究会)である。
ご子孫・跡部眞氏の論考「肥後細川家に仕えた我が先祖」が掲載されていることは承知していたが、手に入らずに来た。
今日の「家紋から考える」で跡部氏を取り上げた中で、そんな史料が存在していたことを思い出した。
何気なくググってみたら、ヤフオクその他で出品されている。そこで迷わず購入の手続きを取った。「念ずれば通ずる」

                  

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■習字のお稽古

2022-10-29 10:59:00 | 徒然

 資料の保管に重宝しているのが、設計事務所時代の遺物の設計図の原図を収納していたスチール製の引き出し棚である。
現在これに有象無象のいろんなものが重なり合って入っていて、行方不明の資料もここに鎮座しているのではないかと整理を始めた。
特段、これといった発見はなかったが、使い残しのトレーシングペーパーや習字の稽古用紙が束になって出てきた。
習字の用紙がこれだけ残っているという事は、随分ご無沙汰ということになる。
以前は古文書に親しむために、いわゆる御家流の文字を時折稽古をしていた。自分で書けば読むのも少しは上達するだろうと思ったが、上達していないところを見ると稽古が足りていないという事だろう。
面相筆もちゃんと持っているのだが、墨をするのが面倒くさいので、ぺんてる筆で書こうという手抜き状態である。
一日一枚を目指して用紙を取り出してサイドテーブルに出して見た。
右はかってお手本にしていた「草書前赤辟賦」、まったくためになっていない。

                 

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■御侍帳・家紋から考える(51)

2022-10-29 07:01:24 | 家紋

                         

                                      新・肥後細川藩侍帳【あ】の部

新居市左衛門は、(南東44-21)新居七右衛門家の6代目・新居蝶夢 名は保輝、市左衛門と称す。時習館訓導及び所々の郡代と成る。
       弘化二年十二月廿六日歿す、年七十一。家紋は「丸に違い鷹の羽紋」「隅切り立角に揚羽蝶紋」

跡部平蔵は、(南東44-20)跡部平八家の7代目。家紋は「七宝に唐花紋」「隅立角に平四つ目結紋」

愛教四郎次は、(南東44-又24)愛敬四郎次家の4代目か。ここでは「愛教」とあるが「愛敬」が本当である。家紋は「梅鉢紋」

雨森清太夫は、(南東43-5)雨森糟一家の5代目・雨森浅之助 名は正房、浅之助と称し、後清太夫又荘右衛門と改む。藩に仕へ食禄
       百五十石、小姓組たり。大力の士にして奔馬をも抱き止め居たり。文化八年七月廿九日歿す。享年五十六。墓は河原町延壽寺。
       家紋は「丸に橘紋」

青地源右衛門は、(南東44-7)青地源七家の6代目・守次(源右衛門)。家紋は「一文銭紋」

青木左九郎は、(南東44-5)青木 競家の5代目・左九郎(養子 後・権之助)、何が原因か文政三年三月廿日御知行被召上候 高四百石とある。
       家紋は「松笠菱に丸紋」

青木純記は、(南東43-11)青木掟次郎家の7代目。家紋は「隅入り立角に鬼州浜紋」

秋山正作は、秋山玉山を初代とする(南東44-13)秋山儀右衛門家の3代目である。家紋は「薬研紋」

天野善左衛門は、(南東44-26)天野善次家。同名人が多く人物の特定が出来ない。家紋は「隅入り立角に四つ目結紋」  

天草十大夫は、天草氏の末裔(南東44-9)天草次郎吉家の7代目・郡八(後・十太夫・甚助・勘右衛門)か。家紋は「隅入角に隅立四つ目結」

粟津嘉次郎は、【青龍寺以来】(南東43-3)粟津九郎家の8代目・寿平太(後・嘉次郎・三郎兵衛)。家紋は「隅切り立角に七宝紋」 

綾部四郎助は、(南東43-10)綾部蹇吉家の6代目・素川 名は正典、通称四郎助、藩に仕えて奉行職となる。安政六年八月二十日歿す。年七十九。
      家紋は「丸に鷹の羽紋」

麻生喜左衛門は、(南東43-1)麻生喜一郎家の5代目か?。家紋は「抱き柏紋」?  

阿部多膳は、(南東43-19)阿部重五郎家。4・5代目が同名で人物の特定が難しい。家紋は「二つ丁子巴紋」

有馬彦七は、(南東43-26)有馬源内家の2代目。家紋は「細丸紋」

粟津権兵衛は、【青龍寺以来】(南東43-25)粟津 平家。同名の人が多く人物特定に至らない。家紋は「隅切り角に稲妻菱紋」 

安達仁左衛門は、(南東43-22)安達藤助家の2代目。家紋は表示なし。

          新・肥後細川藩侍帳【さ】の部

沢村宇右衛門は、沢村大学の養嗣子・宇右衛門(松井氏)を祖とする【丹後以来】沢村大学嫡流家の(南東46-1)沢村衛士家の8代目・宇右衛門友輔(養子 実・友顕弟正氏嫡子 宇衛)。家紋は「石持地抜きに鱗紋」「   」

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■熊本17時30分

2022-10-28 17:39:38 | 熊本

         

            「秋は夕暮れ・・・」燃えるような夕焼けです。明日は良い天気でしょう。
            阿弥陀様の極楽浄土の世界が十万億土を隔てた所にあるのだそうです。

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■「御侍帳・家紋から考える」から考える

2022-10-28 16:38:14 | 先祖附

「御侍帳・家紋から考える」が50回目になったが、家紋の名前を調べていると全く判明しないものが多々ある。
また、それぞれのお宅を改めて調べてみると、随分見落としていたものや新たな発見があって大いに考えさせられる。
あと16回ほど続きそうで何とか今年中にケリをつけたいと思うがどうだろうか。

わが「新・細川藩侍帳」は、そんな過程での新たな発見などを反映させながら、いまだ増殖を続けている。
最近ではあるお宅からのお問い合わせで、「有禄士族基本帳」との関係を反映させないと、「ご先祖探し」には直接結びつかないように感じてきた。
そこで、直近で行動しようと考えて居るのは、「有禄士族基本帳」に「改正禄高等調」を紐付けすることだ。
そうすると、明治三年以降の記録を侍帳に反映させることが出来る。
PCとUSBを持って図書館に出かけ「改正禄高等調」のその時の当主や先代、次代などの記事を「有禄士族基本帳」に書き入れようと考えた。
実は私は、有禄士族基本帳に何名の名前があるのかを承知していない。

まずはPCの中にあるデータをUSBに落さなければならない。これは私自身では出来ないから、長男に頼まなければならない。
肩が痛いの、歩けないのとは言っていられないなと、本気になりつつある。我が「新・細川家侍帳」を大いに進化させなければならない。

 

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■御侍帳・家紋から考える(50)

2022-10-28 07:07:22 | 家紋

                             
            新・肥後細川藩侍帳【あ】の部

浅井理助は、浅井長政の子・万菊丸を祖とする(南東43-2)浅井新九郎家の5代・吉十郎(後・五左衛門・理助)。

朝山恩地は、(南東43-13)朝(浅)山亀太郎家の5代目・恩地(後・斎之助)。家紋は「亀甲に丙文字紋」
                      初代・斉助(景吉)は忠利の側近で2,822石小姓頭を勤めた、
      実兄は後水尾天皇の侍講を勤めた朝山意林庵である。
      2代目次郎左衛門は寛文九年の陽明学徒の追放事件に於いて御暇、京都に隠棲した。
      3代目は次郎左衛門の孫で齊茲公代の召し出しである。
                     

芦村八百八は、(南東44-6)芦村嘉左衛門家の7代目・八百八(後・十郎左衛門)1,000石。家紋は「丸に結び雁金紋」

芦田平吉は、(南東44-11)芦田七右衛門家の4代目・平吉(後・七右衛門)である。400石。
      家紋は「丸に浜洲紋」「丸に石竹紋」

寺生左助は、・・・・・・・ 誤植か(て)の部参照されたし・・・・・・

安藤十郎右衛門は、(南東44-12)安藤(東)十郎家。同名の人物が多く人物の特定が出来ない。家紋は「丸に登り藤紋」「細丸紋」 

安藤清助は、      不明

安東弥左衛門は、(南東44-10)安東(藤)弥太郎家の9代目・一八(弥左衛門)か。「丸に丸文字紋」

安東角左衛門は、(南東43-8)安藤(東)■也(■=(虫扁に芋・ばいや)家の4代目・貞之允(角左衛門)か。
       家紋は同上   

安東角之允は、(南東44-15)安東(藤)角之允家の4代目か。家紋は同上  

荒瀬市之允は、(南東43-9)荒瀬軍次家の9代目。家紋は「丸に一文字紋」「蛇の目紋」

荒瀬角兵衛は、(南東43-21)荒瀬番蔵家の7代目・角之允(角兵衛)。家紋は「隅切り垂れ角に地紙紋」

荒木助左衛門は、荒木山城系【丹後以来】(南東44-4)荒木慎十郎家の6代目・熊八(後・助左衛門)。
       家紋は「六角井桁に左巴紋」「隅切り平角に  紋」 

荒木善兵衛は、荒木村重の子善兵衛を祖とする【丹後以来】(南東44-8)荒木善右衛門家。善兵衛名乗りの人が多く人物の特定が出来ない。
       家紋は「木瓜紋」「   」 

荒木四郎助は、         不明
荒木万蔵は、(南東43-16)荒木新三郎家の4代目。家紋は「隅入り平角に菱紋」

荒木権平は、(南東43-24)荒木権内家の初代(新規創家)か?。「亀甲に浜洲紋」

荒見次郎助は、【丹後以来】(南東43-12)荒見慎之助家の6代目。「五つ木瓜紋」 

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■長岡京市・ガラシャ祭り

2022-10-27 14:01:20 | 講演会

 長岡京市で三年ぶりにガラシャ祭りが催されるという。満身創痍の傘寿爺には出かけるすべもないが、歴史講演会が興味深い。
志水氏の事が取り上げられての講演があるようだが、なんとか講演内容を知りたいものだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    

■ 長岡京市・ガラシャ祭り

   第29回長岡京市・ガラシャ祭2022 パンフレット 

   長岡京ガラシャ祭2022歴史講演会「戦国を駆け抜けた志水氏―細川家に仕えた西岡衆―」
     西岡衆は、かつて西岡(にしのおか)と呼ばれた桂川以西地域に、居館を構えた在地の領主です。
     その一人であった志水氏は、織田信長に仕えた勝龍寺城の細川藤孝の家臣となり、後に肥後細川藩士となります。
     志水氏は激動の時代をどのように生き抜いたのか、その秘密に迫ります。  
   日時:令和4年11月5日(土曜日)
   開場:午後1時
   開演:午後1時30分から午後3時まで 
   会場:バンビオ3階メインホール
   講師:近畿大学 准教授 新谷 和之 氏

   申し込み:事前申し込みが必要 (最下部参照)

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■厄介千万なこと

2022-10-27 09:08:03 | 徒然

 肩の痛さが生活の上でいろいろ支障を極めてきた。まずは洋服の脱ぎ着が困難だったり、顔を洗うのに両手が同時に動かなかったり、風呂に入り背中を洗うのに袈裟懸けのタオルがうまく動かなかったりなどなどが最たるものである。
何時もの習いで何気に左手を使うことがあるが、すいと上がった手を下ろすことが出来なくなり、そろりそろりと下げるルートをさぐりながら降ろさなければならない。
うっかり強行すると、とんでもない痛さが襲い数分間は安静にしなければならない。
歩くのに腕が振れないとか、左手でマグカップが持てないとか、シャツやカーデガンを着るのに数分かかったり厄介千万なことが増えてきた。
何気なくマスクを掛けようとすると時によってはひどい目に合う。
図書館に出かけたいと思うが、私の自転車は棒ハンドルでかなり体重がハンドルに架かるから、とても乗れそうにない。
片道約40分歩こうかとも思うが、腕もふれないし厄介な事ではある。

                                   不自由をかこつや 朝のコーヒー香  津々

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■日向ぼっこで読書

2022-10-26 15:19:34 | 書籍・読書

 南国熊本もやや寒むの朝でしたが、お昼前から日向ぼっこをして、痛みのある左肩にお天道様の恵みを受けて読書をしております。
一度精読したのですが、今一理解が足りない「秩禄処分」についてです。

                  

 明治維新に於ける三大改革は、軍制の改革・地租(ちそ)改正・教育改革だと言われるが、武士の家禄を召し上げる秩禄処分は、これに加えても良いほどの大改革であった。これがスムーズに(?)実行されたのかを再度確かめたいと、再度の精読を始めた。
一二行読んでは元に戻って読み返すことを繰り返している。
熊本には「改正禄高等調」という貴重な文書が残されている。熊本に於いてはこのデータをもとに秩禄処分がなされたと理解しているのだが、この禄高の改正については、どの様な基準で行われたのかまだ資料を見つけ出せないでいる。
コロナ発生前からの懸案であるが、「有禄士族基本帳」にある人たちの、元高と改正高を調べ上げてみたいと思っている。
資料をいろいろ処分しようとする中で、今年の3月「有禄士族基本帳」のコピーが顔を出し、これはそろそろ埒を着けねばなるまいと決意した。
そしてこれに連なる秩禄処分との関係も知りたくて、まずは予行演習的読書である。
「一歩あるいて二歩下がる」ような読書で、遅々として進まないが、図書館での調査と並行してでも詳しく完読したいと思う。

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■いずれが先に散る木葉(熊本弁バージョン)

2022-10-26 06:43:34 | 徒然

 時折友人が「生きとるかい電話」をかけてくる。心なしか声が小さい。
そう言うと、
「うちん女房がつっこけちね、右腕ば骨折してギブスば付けとらすけん、飯の準備の出けんけん飯の食われんたい」
「チョットした段差につまずいて、右手ば付いたげなたい。」
「とこっで主や、えらい肩の痛かごたるね。そんくらいじゃ死ぬこたあなかろうばってん、せいぜい我慢せにゃいかんたい」
言うだけいって、
「今かる二人で飯ば食いに出かけちくる。」
お大事にと声を掛けると、
「主がえの奥さんも、前入院さしたろ。女房に先に行かるっと悲惨ばい。大事にしなっせ」
そして

「誰ん句か知らんバッテン、風に聞けいずれが先に散る木の葉 てあっとば知っとるや。どっちが長生きすっどかね」「いずれ」とは奥さんなのか、私なのか、何か後味の悪い電話であったが、「お前さんも奥さんの手を引いて、つこけんごてせなんたい」と言っておいた。

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■佐藤家と草野家

2022-10-25 12:58:23 | 先祖附

「肥後先哲遺蹟」を読んでいて、佐藤家-草野家に深い係わりが見え、又草野家が田中城城主・和仁勘兵衛親實に係わりあるお宅である事が判明、わが「新・肥後細川藩侍帳」を変更修正することにした。

■ 佐藤七之助  (南東45-16)
    1、半七(直方、安節) 人持衆并組外衆 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・左藤半七
         佐藤竹塢 越後の人、名は直方、通称半七、竹塢と号し、晩年安節と称せり。
              林家に学び業成りて熊本に来り仕へ侍講となる。禄三百石。
              宝永五年七月廿七日没す。年六十二。墓は春日町萬日山下長谷。 

            細川綱利公御書出(元禄六年)三百石
    2、半四郎(直房・潭水)
    3、半七(養子 実門弟・竹下氏 初・長之進、文右衛門・固菴)
           佐藤固菴 名は實祐、字は自天、通称長之進、初松洞と號し、晩年固菴と改む。玉名軍の人竹下的庵の子なり。
                本草野氏、佐藤竹塢に學び、後其家を継ぎて半七と改む。藩の侍講教師となり、禄三百石を食む。
                享保八年十二月十四日歿す。年四十一。墓は十丁里。
    4、左大夫(養子・実半四郎実子 半弥貞信 )  三百石 御儒者 屋敷・山崎
    5、三郎右衛門 七番与 三百石
    6、寿八      新御屋形御小姓役 二百五十石
    7、寿一郎(半助・寿八) 御番方・杤木内匠組 二百五十石
                    長崎聞役(嘉永六年ころ)
    8、半兵衛
    9、七之助    御番方十一番寺尾九郎左衛門組 二百五十石

 

■ 草野半平  (南東33-27) 
    1、隼人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(田中城城主・和仁勘兵衛親實 徒弟、天正15年田中城戰死)
    2、和仁惣右衛門(宮内・歓西 筑前柳川浪人)
    3、   吉兵衛(教西 三池住)
    4、   宗哲(玉名郡十丁村・竹下了味養子・竹下的庵-医業をなす)
    5、佐藤半七(初・竹下長之進・文右衛門)佐藤半四郎の養子となる。
    6、   左大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・(佐藤家4代・左大夫 養子・半弥貞信のことか)
 半七子・草野雲平を以て創家となす。草野姓は実家と有るが母方姓か?
    7、草野雲平(佐藤半七嫡男)  (1)外様御儒者 百石御蔵前
            (2)御鉄炮廿挺頭同列・助教 百石御役料二十俵 隠居七人扶持
            
草野雲平知行所附目録(安永十年)百石
    8、  嘉善(善平) 佐敷御番組脇 ・佐敷御番頭組 二百石内百石御足高
            
細川治年宛行状(天明六年)百石
                目録            同上
                細川斎茲宛行状(天明八年)百石

            
細川斎樹宛行状(文化九年)百石
      草野蘭渓 名は嘉、嘉膳と称す。雲平の長子なり、時習館習書師となる。
                  天保十年十月二十八日没す。年七十八。
    9、  半次
    10、  長之進(半平)

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