津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■第1回永青文庫展 by 肥後の里山ギャラリー

2015-10-31 10:59:40 | 熊本

                       肥後の里山ギャラリー  http://www.mizutomidori.jp/gallery/index.html

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■古記録の間違い

2015-10-31 07:11:40 | 史料

 甲斐宗雲についていろいろ調べている中、「肥後古記収覧」にある甲斐氏系図に間違いがあることに気づいた。
この系図をもとに資料を見ていたらつじつまが合わなくなり発見に至った。
甲斐家の祖・武本は武房の子なのだが、編者の大石真麿は兄弟にしてしまった。これは「甲斐安右衛門」なる人物の「覚書」を文政五年に写したというから、原本が間違っていたか。菊池氏系図は「新撰事蹟通考」で知られているが、安右衛門氏がご承知なかったのであろう。
古記録の取り扱いには充分注意する必要がある。
 

      菊池武房---+---隆盛---+---時隆
           |     |
           |     +---武時---武重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・菊池氏
           |
           +---武本---武村---重村---重並---重安---重綱 ---親宣 ---親直(宗雲)・・・・・・・・・・・・・・・甲斐氏


追而書
武房亡き後、嫡子の隆盛もすでに亡くなっていたため、孫の時隆と弟の武本の間で一族が両派に別れ家督争いが起き、幕府により時武の家督が認めらた。
このため武本の怒り激しく両者間で争いが起こり二人共死亡するという悲劇が起きた。
この後、時隆の弟・武時が家督し、武本の子・武村は鎌倉から逃げて甲斐の国に赴いたという。その子孫が東北地方に多い菊地氏の祖であるという。
民話で有名な遠野市は人口の二割以上が菊地氏だときく。すごい勢いで広がったことになる。
30年後北朝側は重村をして、南朝・菊池氏を攻めるべく熊本へ派遣した。重村は甲斐氏を名乗り代々の姓とした。
南北朝の対立が、同族の相剋という不幸な事態に突き進んでいく。 

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■松寿庵先生・第165講

2015-10-30 08:53:16 | 史料
                       旦夕覚書から

                    御下国の刻大津御一泊之日内牧より雨降道あしく二重峠おり候時分就中すへり御駕にとり付随分念
                  を入かゝせ申候處にて御駕の者共も安堵仕候所にろく道の所にてふみすへり御駕の前はなれ申候 其
                  儘三尺手拭にてからけ可申と仕候へはいや見苦しく思召候 御召様か有るとて左右の御ひし懸に御
                  取付御ひき立られ御きゆくつに思召たるを見申其儘御駕の替りを大津に取に遣候故大津中さわきた
                  ると後に承候 扨御宿に御着被遊候故御玄関前に大半切に水入候前にて手水なとつかひ申候へは柏原
                  九八郎出被申傳右衛門御用有之候上り申候へと被申其儘九八郎は奥へ参られ候 同名文左衛門御番に
                  居被申の外気遣成様子何と々々と被申候處に朽木内匠殿出被申候様子を見申候へは笑ひ々々出被
                  申候故少拙者も安堵の心出申候 扨被申渡には道あしく度々なけ可申様に思召候へ共其方心をつけ申
                  故なけ不申候 ろく道に成候て安堵いたしふみすへりたると被思召候必々御駕の者ともしかり申間敷
                  候 又替の御駕其儘取に遣候事尤に思召候 併重ても有間敷事にてはなく候道中は不及申江戸にても可有
                  之と思召候間御小姓頭共に相談仕候はゝ歩の御使番をつけ遣可申候 亦熊本へ御着座にて其儘御駕つく
                  ろはせ申間敷候何かと可申候 暫く間を置候て可申付旨被申渡候 扨々難有仕合に奉存候 扨いつもは
                  今日の御供仕候者は非番にて明日は不罷出候へ共右の仕合に御座候得へはいや々々いつものことくめ
                  さるへく候 未た御腰物も御持なから九八郎・傳右衛門に残り候へと被仰付拙者を御呼傳右衛門か事の
                  外迷惑仕と被仰聞候 右御様子にては爰許へ御残候事必々無用に仕候へ 扨々思召事無餘儀候とて被
                  罷立候跡に其儘文左衛門被参候て皆共迄難有奉存候 其身御請の様子尤に承候 目出度々々々と被申候
                  扨しはらくの事ゆゑ村井も林兵助も気遣に存待宿所に出居申何と々々申候て宿へはいり右之通申
                  聞候へは神以両人ともに涙なかし扨々御慈悲なる儀両人共に道にて駕なけ候故人夫をたゝき能かき
                  おれとしかりたる事今少先の事に候 皆共式は誠に々々浅間敷仕合御駕なけ候てくつれ候とて大津中にも
                  安堵させ候へと申候故頓て罷歸申候
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花押づくし

2015-10-29 12:27:21 | 花押

 この元々の文書は寛永十五年正月十五日付けの、松平伊豆守・戸田左門連名の「條々」と称する天草島原の乱の陣中掟である。
この「條々」がその日の内に有吉頼母により、主だった人たちへ回覧がなされた。確認をした人たちは花押を記して次の人へと回した。
花押自体は小さいためよくわからない部分もあるが、誠に貴重な資料である。

                 氏家志摩守殿
                 庄村隼人佐殿
                 南条左衛門殿
                 米田与七郎殿
                 新美八左衛門殿
                 藪 圖書殿
                 井関久馬助殿
                 谷 助右エ門殿
                 西沢文右衛門殿
                 山路太郎兵衛殿
                 山川惣右衛門殿
                 佐分利少左衛門殿
                 伊丹角助殿(黒田蔵人)
                 松野縫殿助殿
                 吉弘四郎太夫殿
                 槇島掃部殿
                 伊藤少三郎殿

 

 
                  

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■コーヒーとエッセイ

2015-10-29 10:40:42 | 徒然

 オークションで見つけたこの本をなんとか落札したいと頑張ってゲットした。
昭和59年9月に発刊されたこの本は、全日本コーヒー協会に応募されたエッセイ一万件の中から選ばれた五十のエッセイ集である。
30年ほど前の各々の方々の思い出が凝縮されている。みんな良い話ばかりである。

 芥川賞を受賞したピース又吉氏がTVなどでさかんに取りげられた頃、ボトルコーヒー〈ブレンディー〉が、又吉氏の「深い珈琲エツセイ」全9作品をパッケージで紹介するという面白い企画で登場させた。

  1. 君と同じ味にはならない
  2. 懐かしいコーヒーカップで出された
  3. 飲み終えたら帰らなければならない
  4. 珈琲をお代わりする時、物語は佳境にあ入る
  5. 行けなくなった喫茶店
  6. 珈琲だけが側にいた夕暮れ
  7. 夏の蝶とアイスコーヒー
  8. これを飲んだら泣こう
  9. すべての風景に珈琲はいたい

熊本あたりに住んでいると、物が手に入らないからエッセイも読めない。WEBで紹介されているいくつかを呼んだ。うまいもんだと正直思う。
一日に七・八杯は飲んでいるコーヒー好きの私だが、今日も二杯目のコーヒーを横において、エッセイの二つ三つものにしようと思うが才能がないからどうしようもない。

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■信長を想う

2015-10-28 10:05:14 | 歴史

 M家文書から三斎自筆の書状である。八代でのことであることは間違いないと思われるが、側近の志水次兵衛に当てたものである。

                         盆ニハ寺へ参為
                         惣見院殿焼香申候
                         や失念し候可書上也
                                  次兵へ

                「お盆にはお寺へ参り、信長公の為に焼香しただろうか失念してしまった」         
 
八代市の市立第一中学校にあったとされる、織田信長菩提所の泰巌寺廃寺跡に、三斎が寛永十年(1633)六月三日に信長を供養して建てた五輪の塔が残されている。
八代に入って半年ばかりの内に建立されたことがわかる。
上の文書はその内容からすると、三斎の最晩年の頃のものかと思われるが、旧主信長を想う三斎の温かい心情が伺えてぐっと来る。

               熊本県のHPから引用

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■待ち人未だ・・・

2015-10-27 16:07:06 | 徒然

 熊本はお昼すぎから雨になった。夕刻からは強い雨になるらしい。湿度が18%とかいっていたが、よい天気が随分長く続いたせいである。
そんな中わが奥方は外出中、私はというとやって来る三個口の郵便物がいつ届くのか、今か今かと気にしている。
本を待っているというより、奥方がいないうちにポストから取り出そうと思っているからである。
「また買った・・・」と小言を言われるに決っている。

バイクの音がする度に外に出てみるが、もう三度ふられた。あと一時間くらいの内に届かなければ明日になるだろう。
一個口でも良いから早く届かないかと祈っている。本を買うのに命を削る思いである。

雨脚がひどくなってきたようだ。 

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■切り封の書状

2015-10-26 11:21:38 | 花押

 沢村宇右衛門が米田監物にあてた書状である。

                     来ル十二日拙者
                     小屋へ被為成付而
                     貴様儀御相伴を
                     被仰出候間其御心得
                     可被成候已上
                      閏十二月九日

                            ■(より・表示できず)
                     監物様  宇右衛門
                       參
 

江戸藩邸においての事であろう。宇右衛門の小屋へ忠利公がお見えになるにあたり、監物に御相伴をする様にとの仰せであるから、そのつもりでお出いただきたいという意である。

この書状はよく見ると左肩が下方から細くきられている。また上下に約25㍉巾で折り目が見える。
右から巻取り最後はこの細く切られたものでき切り封をしたことが伺える。切り封の部分にある墨の跡は上は「監」の文字の一部、下は「〆」の一部であると思われるが、実験数回でなんとか実証された。左端の黒い部分は経年により変色したものであり、本文の部分はきれいにしていることが判る。

  (当初、捻り封とかいておりましたが、三左衛門様のご教示により訂正いたしました)

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■余計なこと

2015-10-26 08:35:59 | 書籍・読書

                          

 昨晩只今三件五冊に引き続きまた本を一冊購入した。

ある本を読んでいたら東京赤坂の三分坂についての記述があった。
この坂があまり急なので車力賃三分を増したからその名がついたとされる。ただし坂の名前は「さんぷんさか」だそうな。
著者はここで変なお金の計算を紹介している。その内容がなんともお粗末である。

「三分は銀一匁の十分の三、江戸銭価にして二十文にあたる。三分は金一両の四分の三である。今日の金額にすれば万を超える大金という訳で、車力賃としては不釣合いだ」としているが、これがまた人様の著からの引用である。
それが横関英一氏の「江戸の坂東京の坂」だというので、これは確認せずばなるまいと思い、さいわいAmazonに古本が出品されていたので購入した次第である。

ちなみにWEBで三分坂を調べてみると、その由緒が書かれた木柱(?)がたてられて居り、その金額は100円ばかりのようだ。
先の引用文によると「三分は二十文で金一両の四分の三」ということになるが、これは素人でもおかしいと思うだろう。
私は著者の勘違いではないかとおもっているのだが、さてさて。
まったく余計なことで1000余の出費と相成った。・・・・・・・ご苦労さん?? 

10:28追記
わざわざ購入した「江戸の坂東京の坂」で確認してみると、明らかに引用した著者の勘違いである。
これは相手に対して大変失礼なことで、かく云う小生も心しなければならないと感じたことだった。
著者は女性の俳人I氏、著書名は伏せておく。
「江戸の坂 東京の坂」はすごい本で、すっかり虜になりそうである。(タモリ氏はすでに座右にして居られること間違いなし・・・・)

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■只今三件五冊

2015-10-25 09:10:44 | オークション

 昨晩現在オークションで二件四冊の本を落札した。あと一件はオークションの途中で応札が多いことに気づき、日本の古本屋を調べあまり変わらぬ金額で購入した。
今年に入ってオークションでの落札は40~50冊ほどになる。
もっとも負けた入札も10件ほどはある。締め切り時間をわすれていたことが殆どだが、時間が集中しているからすべて応札とは行かないことが多い。
絶対欲しいという本は、締め切り30秒前に入札する。それでも負けるときは負ける。全国の本好きの皆さんが相手だからいつも勝つ訳はない。

問題はこれが送られて来た時だ。奥方がいない時に届くことをただひたすら願っている。
もう一つ収納の問題があってこれには難儀している。最近プリンターの一台が壊れたのだが、ここにはすぐさま本の山ができた。
良いタイミングで壊れてくれた・・・・・?????

リトグラフ、浮世絵、地図、刀のつば、古文書、画集、図録等々も落札しているが、私の机の周りにチョロチョロしている。
お断りしておくが安価な物ばかりである。これがオークションの醍醐味である。 

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■松寿庵先生・第164講

2015-10-24 09:29:27 | 史料

                     細川家の東京の墓所・妙解院は東海寺の中にあります。■六石をご覧下さい。 

 東京における細川家墓所は、東海寺塔頭の一つであった元妙解院の一部にある。東海寺は山号を万松山と称し、寛永十六年(1639)に三代将軍家光によつて創建され、沢庵宗彭を開山とした臨済宗大徳寺派の寺院である。
妙解院は、寛永二十年(1643)肥後熊本藩主細川光尚がその父忠利の菩提を弔うために沢庵宗彭を開祖として建立した寺院で、後には清光院・少林院とともに細川家の江戸における菩提寺の一つであった。明治四年廃寺となったが、墓所は細川家の所有となつて現在に至っている。
幕末から細川家では妙解院を六石(りっこく)、少林院を松濤阜と呼んでいた。
元妙解院墓地は、「上の壇」と「下の壇」の二つの区域に分かれている。「下の壇」には十八の墓標があり、六代宣紀・七代宗孝・八代重賢・十一代齋樹・十二代齋護の歴代藩主の墓標は、安山岩製の五輪塔で統一され、水輪には法号と没年月日が刻まれている。正面には唐破風造の拝殿があったが、昭和四十年代に取り壊されて今はなく、拝殿跡の基壇が残っている。周囲には家臣から奉献された石燈籠を配している。十一代齋樹の墓標は当初少林院にあった
が、昭和四十一年赤羽線(山手線)複線化工事のため元妙解院墓地に改葬されたものである。十三代韶邦以降の当主の墓標は、元妙解院墓地に現存している。                 (東京都教育委員会・平成10年3月発行 文化財の保護 第30号 より要約引用)

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■まことに残念な間違い

2015-10-23 16:09:48 | 書籍・読書

 三斎の茶道に関する一番の参考書は、矢部誠一郎氏著の「細川三斎・茶の湯の世界」であることは間違いなかろう。
多方面からの資料を網羅しており納得させられる。
「上手の手から水が漏れる」という言葉があるが、まことに残念な間違いがあった。但しこれは引用された一文が間違っていて、矢部氏の責ではない。
校正に十分気をまわすべきであったろう。

引用されたのは、「茶道月報」に掲載されたという谷ただし氏の「三斎をめぐる二つの死ー森鴎外の作品より」である。 
いささか長くなるがご紹介しよう。
   三斎の家臣興津弥五右衛門が命により茶事に使う珍品を求めて長崎に行き、安南から渡来した銘木伽羅の大木を見出す。
   ところがこれを、同じく命により長崎に来ていた伊達政宗の家臣横田清兵衛と、双方値段を奪い合うことになる。横田はここで
   「武士は武具にこそ大金をか使うべきだ」といい、興津は「武具も大切だが茶道具もそれに引けを取るものではない」と否定する。
   怒った横田は興津に切りかかり、反対に興津に切られる。興津は伽羅を三斎に献上し、責を負って切腹しようとするが、三斎は
   これを止め、かえって賞与を与える。 

大きな間違いは、清兵衛も細川家の家来であるということである。二人の価値観の違いが不幸をもたらした。
この事件は森鴎外の小説興津弥五右衛門の遺書で取り上げられているのでご覧いただきたい。
三斎の双方に対する処分は随分えこひいきがあるように感じられる。横田の遺族に対しては恨みに思わぬようにと諭したとされるが、横田家の遺族のその後はようとして知れない。一方興津については、三斎の死後殉死するのだが細川家記「綿考輯録」は異常なほどのページをさいて賛美している。

谷氏のいささかお粗末な論考を、矢部氏は間違いを指摘することなく取り上げている。
私は「細川三斎・茶の湯の世界」は名著だとおもっているのだが、この一点がなんともくやしい。

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■有吉頼母佐書状

2015-10-23 11:12:57 | 史料

 有吉頼母佐並に沢村大学の花押をご紹介しようと思い、内容を確認していたら大変興味深く全文をご紹介することにした。
これは有吉頼母佐(英貴)が、姉の奉公人の女とその下女を豊前から出国させるために長岡式部少輔(興長)・長岡監物にあてた願書である。
       
小倉川口出シ可被下女之事(小倉川口出し下さるべき女の事)とある。
ここで興味深いのは「右者京都下たちうり柏屋与兵衛ハ我等姉むこにて御座候」という一文である。
頼母佐(英貴)には確かに姉が居るが、有吉家の系図では富田与(三)兵衛妻とある。この書状の柏屋与兵衛と富田与三兵衛は同一人物なのだろうか。
この書状にはめずらしく年号があり、寛永四年七月十六日とある。実は頼母佐の姉は同じ年の十二月になくなっている。
下女が豊前へ下ってきたのは何か関係あるのかもしれない。(例えば病であるとか・・・・・・)
富田与(三)兵衛との間に四男二女をなしている。嫡男・二男は有吉家の家士となり、三男が寛永十三年十四歳で召出された。(500石有吉市郎兵衛)
末子・富田半十郎は光尚公に殉死した。

柏屋与兵衛という名前もさることながら、「京都下たちうり」という文言も大変気になってしまう。 

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■松寿庵先生・第163講

2015-10-22 21:24:39 | 史料
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■松寿庵先生・第162講

2015-10-22 15:17:15 | 史料

 肝心の藩主のお墓の話が・・・・申し訳ありません。二週間遅れのUPとなりました。いわずと知れたPCのトラブルのせいです。どうやら本格始動いたしました。
日増しに秋めいてきて両寺とも紅葉が綺麗なことでしょう。妙解寺は数十段の階段がありますからお参りの方はお覚悟の程を・・・・・

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