津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・38

2009-01-31 14:54:23 | 歴史
夜中柵際に詰たる御鉄炮頭或は両御旗本を守護し、或は柵外に出て御鉄炮うたせ候中ニ就て、寺尾喜内ははやく御のぼを柵の前に出し左助と共に下知いたし候に、敵大勢ひかへたるにかゝり鑓を合、同所にて寺尾孫之允も鑓を合せ候、藤本伊右衛門 松山権兵衛与 も旗の先に進て敵を突伏首を取、弐ヶ所創を被り、明石源左衛門・志賀安之允 真下喜左衛門与 ・鎌田源大夫 道家左小右衛門与 ・下城長三郎・山田次郎助一緒に在て働き、下城 加々山与 ハ鑓を合敵を突伏る、山田 松野左馬助与 ハ松の木の下にて賊脇差を投付けるを透さす鑓付討取、又壱人かゝるを是をも突伏て猶先にすゝむ、原田十次郎 道家与 兄弟も敵ニ三人宛突たほし、十次郎ハ手を負引取候、十次郎を切たる敵ハ弟十兵衛仕留候、矢野吉之允も同所に働、門池次郎兵衛 松山権兵衛与 ハ軍使として来り、是も松の木の下にて力戦、敵弐人突伏る、長谷川兵四郎 仁左衛門二男 ・吉冨五左衛門 明石与 ・片岡半之允等も鑓を合、敵弐人宛討取、佐藤庄三郎も鑓を合敵弐人仕留、弓ニ而六人射留申候 一二四人射ふせ、一人ハ鑓付候と有 、入江伝右衛門 沢村宇右衛門与 ・佐分利半左衛門 同人与 ・桑原浅右衛門 同人与 ・武藤長兵衛 丹羽亀之允与 ・糸川元貞・金子十郎兵衛・益田九兵衛 真下喜左衛門与 ・国友十左衛門 坂崎清左衛門与 ・野田源四郎 松野右京与 ・阿部五大夫 松野左馬助与 ・同権十郎・栗屋猪兵衛 松野左馬助与 ・宮部宮(久)八 嶋又左衛門与 ・吉川孫左衛門 松野左馬助与 ・猿木権七 平野九郎右衛門与 ・竹村弥助 松野左馬助与 いつれも敵を鑓付首を取、上津浦太兵衛ハ敵を突伏る時鑓疵を被り、花房次右衛門 道家左近右衛門組 も鑓を合手負候、粟津平左衛門 御櫛役 昨日城に乗かゝる時石手負、働難成引取しか、今日ハいたミを押へ乗込候処、鉄炮にて頭をうたれ伏居候を、津川四郎右衛門見届、本陳に連越候 此手疵ニ而果候由 、其外組頭と一所二在て働面々二ハ、荒瀬三四郎・町野作之允・金守次郎助・庄林猪助・藤田与次兵衛・伊佐権三郎・北村八十郎・桑原仁平次・可児藤七等也、町熊之助 丹羽亀之允与 ハ昨日之手疵をも不厭、武藤長兵衛と一所に働、賊大勢立合候を弐人突殺し追払ひ、其時手足に亦創を被り候間、たへす小屋にかへり候、森三右衛門ハ敵の突鑓をたくり取、直ニ其敵を仕留る、入江三之允忰召連相働キ、堀田彦之允も手に逢、後藤又左衛門もふりよく働候、安井喜平次ハ敵七八人なた長刀鑓を持居候に参合からち合壱人突伏せ候、田中作之允ハ浜の手の塀を廻、諫早口十間計西の方の塀に乗、筑前家の人数塀ニ付クを敵五百はかりにて防候所を、塀の上より数多つきころし候、湯浅次郎大夫 坂崎与 ハ楯の奉行なれとももはや御楯板におよはさる間、進て働き敵四人突伏る 一ニ二ノ丸ニ而働き、廿八日本丸ニ入と有 、近藤新五左衛門ハ昨夕本丸江乗込、西郡要人与と同所ニ相詰今日も早々打出、敵壱人討取、篠原清兵衛ハ七人突伏、八人目の敵に長刀にて面をつかれ、疵を被りなから其者も仕留め候、いまた鑓をも不引取、あたり二控たる水野家・松倉家の士に向ひ・細川越中守内篠原清兵衛唯今のつらのかわりを仕候と呼り申候、

其外志有ハいつれも手にあひ、或ハ残屋ニ火を放ち我先と働き、組持ハ組衆を励し、物頭ハ足軽を下知してよく其業をつくさせ、殊に荒木助左衛門ハミつから手をくたきて功あり、松尾小才次 筑紫大膳組 ハ鉄炮手負て陳屋ニ帰り候、興長家士遠藤九兵衛強く働き、同山本四郎大夫 奉行役山本源左衛門嫡子 ハ城中の大城戸を一番ニ乗入、小溝の土橋を渡る所に賊三人鑓を揃へ突かゝり、三本の鑓一同ニ四郎大夫か腹に突立、仰に土橋に突付る、されとも山本真中に受たる鑓を引抜て奪取、敵をなくり倒けれハ、残弐人ハ逃去り候、山本透間なく乗かゝり首を掻落し候へとも、三ヶ所の創其痛其首を提なから身体すくミけるを、或浪人走り寄背負て本営に還り候 翌廿九日死 、的場喜八郎 後改井山孫右衛門、禄四百石 も進て敵を討、歩卒芳賀喜平次ハ賊三人討取、小身作大夫・入江喜太郎・岡忠兵衛・坂本伝之允・水津六之允・田中清蔵・渕上瀬左衛門・平井少助・石川作之允・井上五大夫・松永言斎等松下に接戦して首を取、生地武右衛門ハ昨夜持筒に加るへき旨下知を請、夜中は張番して未明に本丸に入、南の方筑前手の境に張出し鉄炮を打せ候、近藤少兵衛・中西孫之允も来て一所に働候
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島原の陣--決戦の日・・37

2009-01-31 09:00:14 | 歴史
明けて廿八日
二月廿八日曙天に、立孝主・興長・英貴等本城ニ入、段々ニ備を設け夜の明るを相待候、其時不破平大夫組の小頭春野仁右衛門脇差にて柵を切破、立允主の御昇を呼入候と也、臼杵庄大夫・同万五郎兄弟ハ廿七日之働さしたる事ニ而無之、人ニ先をせられ生甲斐もなき事也、今日ハ抜群の働すへし、軍法を背き抜かけしたりと御尤メあらハ切腹するより外あるましきなれハ、一向に夜中ニ乗入へし、後日の御とかめをも厭ふましきそと宵より申談、密に先手に忍ひ入、柵木を二本切折て出、敵中二這入、小屋の一軒有ける陰に休らひ、人顔の見へ渡る程ニ成、家の陰よりさし出内を見るに、広き屯りに大勢下り敷て夜を明す体なるか、臼杵兄弟を見付鉄炮を二放打候に、万五郎か立物の左右に当る、同時に敵六人立向ふを兄弟渡り合、鑓を合、先に進たる敵を庄大夫唯一鑓に突殺し、四人に手を負せける故、本の所に引退く、万五郎も鑓を合けるに目庇と胴をも一ヶ所突せ候得共裏かゝす、其時村上清大夫 河尻御船手の者 ・松田金七も来りて、万五郎かわたかミをとり、御身達に後れたりと云所に、鉄炮二三ツ来り、万五郎か鑓の柄を打折、金七か膝を打徹し候間、金七倒れ候時敵七八人突てかゝる、村上清大夫すゝんて一人突伏る所を、なた長刀持たる敵清大夫か天辺を切付しかハ、請張少し放れ冑前に傾く、其時臼杵兄弟すかさす賊一人つゝ突留、大に働き、残る敵にも鑓疵一二ヶ所宛負せしかハ、敵しらミて見へける所に、味方大勢誰彼と名乗入乱て働き候、清大夫も亦敵を討て首を取る

板倉主水殿は父内膳殿弔合戦のため先手ニ被出度旨被申越候付、則興長より中根市左衛門父子に達し柵を被通し候間、快く一戦を遂、有江監物入道休意と云切支丹の長をミつから討取、家士各高名して本の所に被引取候

朝霞漸に晴て其辺を見廻し候に、本丸の北ニ傍て家有、是天草四郎か宅之内三方石垣高ク松の木等有て要害よく旁焼残て恙なし、忠利君本丸ニ御入候手御覧被成、火箭ニ而被焼払へきとの旨台使へ被達、歩御小姓 一ニ御側足軽 吉田十右衛門ニ被仰付、白木八歩の弓を被下候、吉田則火箭をはけて其間七八間程にて射候に、朝風はけしく忽燃上り候を、上使衆も御覧候而潔しと御賞美有之候

昨夜より先進の輩ハ云に及はす、諸士各未明より先を心得追々に本丸に入柵外に出る、中ニも津田三十郎長相ハ一番に柵を越て攻入、組衆各相従ひ候、本城南の方ニ而切支丹共八人鑓突てかゝり候を、津田をはしめいつれも鑓を合せ討取る、又海手の法に数百人さゝへ居たるに、程近く仕かけ候へハ二手にわかりかゝり来る、折節あたりには味方なく津田一手僅の人数なれハ、賊徒取囲てかはる/\かゝり候を、三十郎声をあけて我等爰にて討死すへし、各一足も退かす斬死せよと励して、四方ニあたり数多突伏れハ、隊下の面々不劣働き、殊に萱嶋兵助重勝ハ十八歳の若者なるか、始終頭ニ付てよく働賊弐人突伏、一ツは首を取候、小野権十郎も首を取、加藤権助ハ左の手に鉄炮中り、又一ツハ刀の柄ニ当り具足ニ而とまり申候、其外手負死いたすもあれとも一歩も不退戦ひ候内、味方の大勢追々に助ヶ来り、有馬氏を初他家の人数入交りて力戦いたし、敵を討捨残徒を追立候処、御旗本より御使度々来り、其手ハ他国勢と交りたる体也、はやく立分るへき旨御下知有故、組をまとひ鑓場をあけて立離れ候、
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島原の陣--決戦の日・・36

2009-01-30 08:42:32 | 歴史
今日諸大将各手の者を励し、筑前家は大江郭を破て直に本城に乗むとし、寺沢家も共にすゝミ、鍋嶋氏ハ二の丸の先登也、立花氏・有馬氏・松倉氏をはしめ水野氏・両小笠原氏・有馬左衛門佐殿・松平丹後守殿・上使御目付の内衆・諸国の附使者・諸浪人迄我先とあらそひすゝミ、諸家中入雑り銘々分取高名して本丸の岸下に着、一図に攻入むと働候へ共、城中よく防て其功成難く、中にも心掛の勇士は五騎七騎弐人三人かけぬけて、御当手の攻口ニ相交り、疵を被り敵を討、一己の高名を顕し本丸に入たるも、同勢つゝかさる故、せんかたなく終に主人組頭を尋てむなしく立帰も多く有之候、水野日向守殿の嫡子美作守殿父子・有馬左衛門佐殿の嫡子蔵人殿ハ松丸ニ一番に乗込、前後を諭して被陳候得共、台使より度々の命によりて、後にハ先手鍋嶋殿手へ場所をわたし無是非後陳ニ被引取候、其外諸手共に本丸に入事不叶、各二の郭に屯せられ候、当手の人数ハ弥重り、本丸の燃る火と外屏の際に込合立たる鑓を横になす事もならさる程也、如此にては賊徒必死に極め火の中なり共突て出なハ、いかに思ふ共働なるへからすと了簡し、寺本久太郎急き御旗本ニ至、夜中は味方の前に柵をふらせ然るへきかと申上候、其所に馬場氏も御座候而、柵の事夜中と申、中々急にハ成かたかるへしと被仰候、久太郎其儀ハ私宜申付へしと云、忠利君永良長兵衛を召、今まての陳所にふり置たる柵を払ひ、久太郎に可遣旨被仰付候、永良畏り柵木奉行長谷部文左衛門に申渡候、文左衛門則其旨に応し、久太郎と共に裁判し柵を本丸に運はせ候、此時佐渡ハ先鋒と御旗本との中間に陳し、先手の安否を問ひ一々御本陳ニ相達、ミつから本城の内外を往来して敵間に柵を付度旨申上、津川四郎右衛門も柵木の事申上候、忠利君はや右之御意有上ハ、万端不滞、又沢村友好に被命、先足軽の前にはやく柵をふらせ候へと有、沢村畏柵木奉行村上市右衛門武正等に下知して調之候、寺本・長谷部ハ柵木を持せ数百人を召連、本丸に行かんとするに、石垣を上る時暗夜ニ而路ミへす、雑人甚恐れ鉄炮の音を聞て内に入兼ける間、両人色々ニさとし遂に本丸に入、寺本申候は、柵を振て然るへき場をハ我先歩行すへき間、跡に付て柵木持たる者ともを通すへしと示合せ、文左衛門ハ跡を抑て柵木持をくり出し、一尺はかり間を置柵を付る手配して、久太郎先二歩ミ、立留る所にて柵持銘々かつき来所の柵木を壱尺あひに段々立、畢て後引取へき旨申渡、皆夫々の一役を勤てかへり候、湯浅次郎太夫・河井権之允等も柵を奉行してもたせ来り、追々に柵集り候間、本丸海手半分切て 一ニ本丸三ヶ一乗取と有 壱面に柵をふり、出入なく付渡して、長谷部・湯浅・河井等ハかへりて御本陳に相詰候、久太郎ハ柵の前をあゆミ、此体なれハ夜中乗こむ事もかなはす、敵突て出る事ハ尚以成かたし、然れ共若壱人にても出候ハゝ、大勢の見方込合て惣軍の騒動也、夜中銘々前の柵を堅固に守、味方の乱れさる様に覚悟あるへき事、御人数の為専一の御奉公也といふて通り候間、皆尤と感し、面々前の柵木に竹木を集、横木を結渡、是を固め候、内には先手の足軽大将組を揃て相詰、興長か足軽頭をも加へて用心の鉄炮を打せ、篝数ヶ所に焼、軍使透間なく往来して堅固に相守候、寺本右之次第言上仕候へハ甚御感被成、御前ニ而湯漬飯を被下候、不破平大夫も先手並ニ引取、御鉄炮打せ可申旨御意を受、さくをふり可申旨被仰付候ニ付而、組の小頭春野仁左衛門大勢の中をおしわけ、さく持をつれ来り柵をふり、組中を引廻し鉄炮をうたせ能ク働キ申候

忠利君御本陳廻りかたく被仰付、かゞりを焼せ夜を御あかし被成候が、猶も御思慮有て御旗本并余の備の御鉄炮をも多くは先頭に被遣、代る/\鉄炮を打せ夜を明すへき旨被仰付候、然るニ先手に備へたる御鉄炮すてに玉薬尽へきの砌、中根市左衛門・同平兵衛父子足軽に下知し、火縄を掛たるはかりにて我差図を待候へ、妄の発す者ハ曲事たるへき旨声高に申渡、玉薬をかこはせ御本陳より多く来るを相待候

立允主ハ本城の放火静て後、忠利君・光利君の御本陣に至り、賊徒平定の佳詞を被述候、大阪御陳の時御合戦済候而、其まゝ三斎君・両上様江御歓被仰上候例を以の故と也、御供ハ半兵衛共ニ弐三人被召連候、夜ニ入五ツ半過比也

今夜亥の刻はかりに馬場三郎左衛門殿家士野中五兵衛足軽を引連、佐渡か陳に来申候ハ、御当家の御人数城内に詰られ候間、拙者ニも相加り諸事貴公の御差図を可受旨主人申付候間、宜く御計ひ可被下と也、佐渡領掌し、歩卒宇野吉大夫に本丸に伴ひ行へき旨申渡候、其道ニ而立花家の士と野中と不慮の口論有之候へ共、異故なく打通り先徒に加りて相働候
                                                二月廿七日項了
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島原の陣--決戦の日・・35

2009-01-30 08:41:45 | 歴史
光利君先時御出馬疲成候時、御昇弐本御先に入可申旨貫角右衛門ニ被仰付、三之丸ニ御昇を入候而段々すゝミ、蓮池之上石垣下ニ着居、本丸ニ御昇入候ハ日入方也、其時沢村大学参、角右衛門儀御昇り一番ニ入候所慥ニ見届、御前よりも被遊御覧候由也、紀州之御使者田屋五郎左衛門・中嶋平兵衛も見届ヶ一段見事ニ候、一番昇紛無之候間、後日之証拠ニ立、紀州ニ帰候ハ、大納言ニも可申旨申候而、角右衛門名をも承候

此外はやく本丸ニ乗入ハ、住江求馬助・成田四郎兵衛・安藤左内・梅原九兵衛・岡田甚五左衛門・福田六右衛門・加々尾八兵衛也、明石源兵衛・中根半之允・平井杢之允・小野権兵衛・明石玄左・荒木茂左衛門・小原無楽等ハ乗込候而何も手に合候、右之外直士・倍士・諸浪人・他家の士卒も相交て我劣らしと挊候間、高キに居て嶮に拠り是迄防きこらへたる徒党共、平場鑓太刀の勝負ニ臨ミ、日比鍛錬の勇士にかり立られ、防術尽て見へたる上、放火しきりにして本城もなかは焼立候間、わつかにしまりの屏の内に入、煙を避てひそまり候、味方も煙に隔られ其上日暮候間猥にすゝます、此時津川四郎右衛門追手升形の内に居けるに、松井新太郎行逢、火勢甚盛ニ候故、煙を避罷在候、先刻よりたゝ先にすゝむのミ心として、佐渡か居所をも不存心許なく候と云、津川答て佐州御父子共に随分勇健にして御下知有之候、火静らハ定而四郎突出へし、左あれハよき場也、待受て討取へしと相議し一所に在、其外思ひ/\に敵に取はなれ火を除て相さゝへ候、忠利君二の郭に御陳を御すへ、飛札を以府内御目附に被仰遣、三斎君江も被仰進、江戸御留守居江も被仰下候、
御目附衆江之御注進状

         先刻以飛札申入候、二の丸・三の丸はや七ッ時ニ
         乗込切捨二仕候、本丸は同日酉ノ刻ニ乗込焼申候
         何も一度ニ相済目出度存候、かたのことく手負も
         多御座候、諸手之事は不存候、手前之事計申入候
         恐惶謹言
           二月廿七日
                    細川肥後守
                        光利
                    細川越中守
                        忠利
            川勝丹波守様
            佐々権兵衛様
            日根野織部正様
                 人々御中

  右注進一番に到着、三人共大に悦ひ、即刻早打を以直に此書を江府に差上御注進有之候と也
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ただひたすら

2009-01-29 17:01:41 | 徒然
「島原の陣--決戦の日」は34回に至った。二月廿七日のたった一日の事が書き綴られているのだが、タイピングしながら暗澹たる気持ちにさせる。他に書きたいものもあるのだが、早く終わりたいという気が先立って、それ処ではないというのが正直なところだ。もう、ただひたすらにやるしかない。

 佐賀藩の山本常朝によって著された(享保元年-1716)、「葉隠」の「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」の一節が頭をよぎった。鉄炮疵を負い、鑓で突かれた身を厭わず、前へ前へと進み屍となっていく。その様を、毎日一字一句追いかけていると、この悲惨な状況が映画の一シーンの様に浮かんでは消える。夢にさえ出てくるようになった。そして、一度原城を訪ねなければならないと、強く思うに至った。いまはただ、一日も早く終わらせたいと思うのみだが・・・それがいつになるのか、予定すら立たないでいる。
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島原の陣--決戦の日・・34

2009-01-29 14:46:52 | 歴史
小笠原備前・同隼人・同采女も以前の攻口を少も不去、日入時分本丸ニ乗込候得共三人共二手を負、働難候ニ付御意を受、無是非陳屋に引取候 廿八日ニハ本丸ニ入て組を下知いたし候 、北西の間より他所の昇三本来り、松崎助右衛門かひかえたる左の方に立候を助右衛門急度見、興長家士遠藤九兵衛に申聞、右の昇をのけさせ候、同近藤庄兵衛敵と鑓を合、松井半右衛門も同前にて詞を交す、下津半助ハ本丸下ニ而足軽を下知する時、鉄炮創を得て甚いたミ候間、少引さかり居けるに、城乗と云に気力を得、難なく乗こみ組を引廻し、松井角兵衛・山本七郎右衛門も一所に在、住江甚兵衛・不破平大夫等同所ニ有、松井新太郎ハ何とそ大将四郎を討捕むと思ひ奥深く働入るに、賊徒大勢ひかへたるか、中ニも逞き男弐人口々に名乗鑓を揃へかゝり来る、正元相懸りに鑓を合せんと思ふ内、側より味方壱人かけ来り彼一賊を突倒し、奥村次郎左衛門定勝 明石源右衛門与 と名乗る、奥村に向ひ今の御挊見事成儀目を驚し候、拙者も花やかに鑓を仕たりと云けれハ、奥村も堵々見事なる御ふりと申内に、脇より山刀長刀二而奥村にかゝり候間、云さして其敵を追ちらし首一ツ討取、新太郎ハ首ハとらす、賊か持たる鑓を取候、北村甚十郎ハ組討ニ敵を仕留、其身も疵を被候、野間権大夫義信も賊徒数十人討捨、鑓をも突折、其身十余ヶ所の創を被り血刀を杖にして居たりしを、沢村宇右衛門大に感し、我等慥に見届たり、疾々本営に帰らるへしと懇に制しけれ共、拙者儀後栄の望も無之、年来の君恩を今日謝し奉るはかりに候条、一歩も退き申間敷候、少心にかゝり候ハ老母壱人残し置候、此寸志の働を御つたへ疲下候ハゝ可忝と云て、又敵中にきり入、終に討死を遂候也

寺本久太郎は奥にすゝみ候に、左脇の小道より敵不図出て寺本か額を石にてうつを、透さす追かけ突伏る、其時江口弥左衛門半弓に持来り後より見事也と云、久太郎も小径に出、江口と共に本道よりすゝまんとするに、先かけの味方賊大勢にて衝立るに、少しらミてたらへかけぬくる道もなく、左の方へ立寄候処、空坑(からほり)に片庇の小屋に至る、此所より見下せは箒塀揚須戸なと有之、前に敵大勢ひかへさし渡に間近くミゆる故、突かゝらんと思へ共、平地にハ間遠く飛事も叶かたきに、下ニハ徒党共鑓先を揃へ居候を、江口弐三人射る矢たね有次第に射候へと寺本申候間、心得候とて矢継早に散々に射る、浮矢なく射立られて足をとめ兼ける折節、味方大勢込入て小屋をも焼上る、賊徒乱れ騒き遂に蹈止の屏の内に入あけ、城戸を鎖し堅く守る、味方続て攻入かたく互に猛火を避て相さゝへ候 此木戸の内に四郎居宅有之候となり 久太郎ハ首二ツ討取候と也

嶋庄右衛門 又左衛門子 ハ本城出丸ニ着居候か、請筒を鉄炮二而打おられ、差物さす事もならす候ニ付、秋月長門守殿の内秋月又左衛門ニ証拠の為とて差物きぬを引さき渡し、扨二三十間程奥ニ参候処、敵一本松の所より壱人出、棒を投付逃候を追掛突倒し候 一ニ首を取 、加々山太郎兵衛 加々山主馬与 ハ石垣下にて石手負候へとも、いとはす、直ニ乗入すゝミ候処、細小路にて敵大勢出合、鑓を合せ候節、立花家小倉九郎兵衛と申者走来、同鑓を合、両人ニ而大勢を突立る、其砌左右の小屋ニ火掛り焼立候ニ付、敵を追捨首一ツ討取候、其外本丸の出丸升形の内にて働面々、槙嶋掃部 頼母与 ・久野次郎右衛門 岩越惣右衛門与 ・中瀬又兵衛 筑紫大膳与 ・山田久之允 藪図書与 ・大竹与三左衛門 松野右京与 ・藪右衛門 藪図書与 ・真野九兵衛 岩越惣右衛門与 ・其子真野左内・可児兵三郎 同人与 ・佐藤安大夫 有吉舎人与 ・蜂須賀弥二兵衛 筑紫大膳与 ・牧権内 岩越惣右衛門与 ・浅山勘三郎 同人与 ・中山左次右衛門 同人与 ・松野次太郎・志賀安之允 真下喜左衛門与 ・大石孫右衛門 同人与 ・杉山久大夫 同人与 ・加藤安大夫 寺本久太郎与 ・伊藤太左衛門 御納戸奉行 等也、此内手負たるも有之候、又生嶋平左衛門 坂崎清左衛門与 ・坂崎勘右衛門 同人与 ・上田忠蔵 平野九郎右衛門与 ・冨田惣兵衛 沢村宇右衛門与 ・宗像吉大夫 有吉舎人与 ・野々村藤大夫 寺本久太郎与 ・村上太左衛門 同人与 ・吉岡瀬兵衛 明石源左衛門与 ・森作兵衛 御納戸奉行 等各首を取、松山兵左衛門 加々山主馬与 ・井上新之允 津田三十郎与 ・井上五紗枝門 同人与 ・弓削五郎兵衛 沢村宇右衛門与 などは首二ツ宛取、原田十次郎 道家左近右衛門与 ・二宮長左衛門 安井太右衛門与 は三ツ宛討取候、斎藤源之允 寺内五兵衛与 は鉄炮二手壱人打倒し、佐藤八郎右衛門鑓を合、一両人突伏せ、弓にて五六人射留申候、早水忠兵衛 御台所方 も半弓二而三人射ふせ候に壱人ハ逃亡候、塩津与三左衛門も弓にて働、忠兵衛ハ太刀働もいたし候
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島原の陣--決戦の日・・33

2009-01-29 11:53:59 | 歴史
本丸に一番昇立つ
御船頭白井兵助もはたく出丸の石垣に着候か、やかて城内に入てかせき候、白井と一同に乗込候御船頭、手嶋茂大夫・佐川庄兵衛・高見善兵衛・渡部七郎左衛門・久間伝蔵・竹田忠左衛門・松田七郎兵衛・岡田茂兵衛・嶋田理右衛門・池部道意・田中作兵衛・山口吉兵衛等也、此内七郎左衛門・理右衛門・作兵衛は手創を被り候、町熊之助ハ乗込時石にて面をうたれ候へとも、猶も不厭相働、篠原清兵衛も乗込、手負なから首一ツ討取候、先に台使の命にて兵を揚よと有時、有吉家士葛西惣右衛門・同伊織・中松伝助・団六左衛門・荻野兵助・本郷縫殿・斎木喜太郎・木部清大夫・生地貞右衛門此者共は最初より先手にすゝミ塀岸に付居たるを、引上候へと、井上左門・中山羽右衛門を以示し遣す処、其比寄之手より乗込へき様子を見請候間、如何と何も見極る内に、本丸ニ火の手見へける故直に乗入り、氏家志摩・斎藤勘助・津田次郎左衛門なと一所に乗込候、古川市助も早ク攻入鑓を合弐人付伏候に、三人めの敵に鑓を切折れ候時、小性弐人かけ付敵を追散し候にまた余敵突かゝる、其鑓のうのくひを取せり合内に、小性壱刀斬れハ市助も抜合せ仕留候、夫より尚もすゝミ候処ニ鉄炮にて膝口をうたれ、小性弐人も手負候へ共、主人を引立退候也、長谷川七兵衛 後久兵衛 ・同兵四郎 後弥兵衛 ・同太郎助 後嶋之助 兄弟三人何も相働、立花手のかゝり口本丸の入隅にて 一ニ須戸口ニ而 七兵衛鑓を合弐人突伏、其身も五ヶ所手負、松野平兵衛ハ敵と相突にして創を被り、浪士奥田藤左衛門一所に在て同敵を突候へとも平兵衛首を取、沢田九右衛門ハ敵三人突留る、沢彦右衛門敵を突伏候に、残党側より不意に出、切付るをはつし候へは、肩に少創を得なから不透其敵を討取る、財津市郎左衛門進て鑓を合せんとする時、敵横相より長刀にて鑓を切折候ニ、其鑓の柄を直ニ投付透間なくつと入て抑へて首をかく、此早業ニ懼れ候や、余賊は奥に逃入候、村上市右衛門・堀田諸兵衛・入江三之允等よく働く、興長家士西垣太右衛門ハ護る所の長旗をすゝめ、本丸の東の海手の隅石垣の壊れ口より諸手一番に旗を入、小高き所に押立候、大村猪右衛門 掃部次男、此時歩御使番、後新知拝領、足軽頭被仰付、改源内 同所に在て賞美いたし候、寄之も無程乗入旗下に来り候へハ、田中三郎左衛門円居をもち来て同く立並ふ、此時風強く乳付の大旗竿ニまかれけるを、沢井善太夫走り寄て引ひらき台使の方に向候間、白地に紺の九曜の下に笹丸付たるか明かに見へ、茜に白き笹の丸の円居も立添候を、御両君・馬場氏も御覧候而、本丸ハ式部乗取たりと御喜悦被成、台使ニも被仰遣候処、はや是よりも見受候と御賞美有之、本丸の一番昇と被定候、沢村大学旗も続て立並へ前後を争ふ程に有之候と也

立石助兵衛・其子市兵衛共に与を下知し、引上候へとの仰を受ても様子見合候内、組足軽添嶋九兵衛城中を見て告る、市兵衛其所より乗込、組の足軽不残集り候を、御両君も御覧被成候

寺尾左助父子も組を下知し乗込、佐々庄左衛門・芳賀五右衛門共ニ与召連、御鉄炮打せ候に、五右衛門ハ先時討死いたし、庄左衛門も本丸入口にて手負候へ共与召連乗込候、湯浅角兵衛も本丸下ニ而石手負、御使ニ付而引揚候処、弐三人塀に乗込候様子を見取てかへし、与の者召連乗入、其後松の木下の賊を打せ候、国友式右衛門・佐藤安右衛門等石垣下ニ而鉄炮うたせ居候か、はやく出丸ニ乗込、足軽を下知し松尾小才次・谷忠兵衛・高田角左衛門・松崎助右衛門・松崎伝助等よく鉄炮うたせ候、伊藤山三郎 沢村宇右衛門与 ・新美八左衛門・庄林隼人 頼母与 なと同所ニ而かせき候、三好権佐御預被成候御郡筒召連乗込、鉄炮うたせ候、中根平兵衛早く石垣に着、御鉄炮うたせ、石垣に乗上り自身も鉄炮を打、手を負候、御使によりて蓮池きわ迄引候処、諸勢乗入候間、平兵衛乗入候、乳市左衛門も乗入て壱所に在り、徒党共数多鑓付候節、平兵衛鑓疵を被る、不破平大夫も乗込、鉄炮打せ働申候、魚住加助 田部(辺)之時の加助の子也 ハ父か拝領の七本はれんの差物にて、弟孫四郎と共ニ乗込相働、兄弟共ニ深手負、家来之内両人討死、五人手負候
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島原の陣--決戦の日・・32

2009-01-28 15:42:46 | 歴史
・黒田角大夫 蔵人子、中小姓 ・樽井左衛門 続平右衛門子 ・樽井久太郎 同人与、左衛門子 ・岡伝蔵 津田三十郎与 ・志賀左門・市丸作内 筑紫大膳与 ・松尾茂助 長岡右馬介与、小才次子 ・青木半兵衛 伊丹角助与、中小姓 ・狩野仁左衛門 同人与 ・鯛瀬太郎作 志賀左門与、茂大夫弟 ・奥村六左衛門 有吉舎人与、太郎助名代 ・長尾伊織 ・菅十兵衛 明石源右衛門与 ・吉村次左衛門 御蔵奉行 ・坂根甚九郎 吉弘加左衛門与 ・橋本七大夫 安井太右衛門与 ・小田部五左衛門 同人与 ・足立半左衛門 喜兵衛子 ・財津(満)次左衛門 ・渡部平左衛門・丸山市兵衛 吉田助右衛門与 ・服部源右衛門・加来五右衛門 真下喜左衛門与 等也、永良孫大夫も乗込相働、鑓手を負申候、河崎文大夫 吉弘加左衛門与、作之允子ハ芦北御郡筒小頭共ニ十一人御預ヶ被成候ニよく鉄炮うたせ、本丸ニ乗込候 後ニ馬場氏之家来野中五兵衛と一所二而鉄炮うたせ候

浪士平田太郎左衛門・阿部七郎兵衛・水田半左衛門三人一所ニ犬走に付居候に、寄之か下知を聞と平田一番に乗入候突かゝり候へハ、敵皆逃行を追討に突落々々すゝむ、山田左近右衛門と云浪士敵と鑓を合候に、鑓を衣服にからミまき倒し転ひ合首を取事成難く、此首取て得させよ相鑓にすへしと云て敵を見れハ、長刀を持、若山田くつろかハ危かりし故、一鑓突く時山田起上り首を取

森田藤太昌勝も早く乗入候得共、火打を忘れ火の手をあくへき様なく、浪人なれハ差物の制もなく、一番乗と声高に名乗たるはかりにて誰知人もあらしと無念におもひけれハ、殊に進むて賊を討、素鑓弐本・竹鑓壱本を切とり、松平長門守秀就殿の使者志賀茂右衛門・板倉手の浪士加藤縫殿介晴直等一所に働、証拠となり候也

多田武右衛門 歩御小姓 ・二宮長左衛門 上同 ハ御意によりて柵竹束を為持、先手ニ参佐渡に相渡候処、城乗の砌なるゆへ、多田・二宮・中根半之允なと一所に乗込、武右衛門人利仕留首を取、其時荒木助左衛門組之者四人召連来、右の方に敵五十人はかり見え、味方も其時ハ大勢乗込、火の手もあかり申候、新美八左衛門 頼母助与 本城出丸東の隅より乗込、内の者数多手負死人有之、吉田加大夫 新美与 ハ乗込候時、頭を鉄炮二而打れ、肩を石にて打れ候へ共、始終八左衛門側を不離相働、中間壱人鉄炮に中り死、森忠大夫 藪図書与 出丸口にて首を一ツ討取、乃美新八 有吉舎人与 ・治沼文蔵 伊丹角助与 等鑓を合敵を討、鈴木伝兵衛 後改大野、沢村宇右衛門与 も乗込候処、塀下ニ田中又助 右馬助与 見へ、あかり場無之様子ニ付、鑓之柄を指出候ニ付、又助も乗込、組の足軽も追々乗込候、上野左右馬 藪図書与 ・田中・鈴木同所ニ而働、伝兵衛鑓を合敵を討、其身も鑓手を負、又助も石手・鑓手負候得共、敵を仕留、乃生右平太 志賀左門与 も鈴木と一同に鑓を合、右何れも升形の内にて相働く
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島原の陣--決戦の日・・31

2009-01-28 09:32:56 | 歴史
池永源大夫鑓を合、疵を被り、後藤権左衛門ハ賊を討て首弐級を得、古庄三之允と云浪士も共ニ働き石手負候、魚住杢之允暫く石垣に着居て矢石を不厭城中に乗入、鑓を合賊を討、清田又右衛門も早く乗入、敵壱人討取、沢村権十郎 十八歳 早く海手の方に着、一歩も不退、鑓にてからち合、すくに乗入賊を討、都安左衛門・樹下山三郎・岡本吉左衛門も海手より乗込、吉左衛門ハ数人討留、七ヶ所手負候、朝山斎見届、名をも尋、無比類様子と賞美いたし候、西の出丸水の手口よりハ、細川 後改細田 七左衛門 備前与 ・松崎助右衛門・森半大夫 藪図書与 ・佐渡守家士遠藤九兵衛等はやく乗入、進て鑓を合賊を討、松井新太郎ハ初の場所を少もさらすありしか東の隅より屏の手に取付たる武者有と見へけれハ、少も人に後れしと思ひ、松井新太郎本丸の一番乗と呼ハリ、急に城中に飛て入、田原清兵衛・其子角十郎続て乗込む、新太郎敵合甚近かりしかとも、余り速なるに賊徒うろたへけるにや、鑓を取直すいとまなき内、小屋より壱人鑓提来り、正元か冑の錣を刺貫き候へ共、疵を不得、其敵を突伏候、其時小屋より弐人突てかゝるを田原角十郎 十六歳 名乗かけて是を突伏る、右三人の左脇より松井采女・同嫡子半右衛門乗込て石手負、家来も多ク死傷有て、又其左より中井八郎右衛門以下興長内にての一番乗也 後に武功心得を吟味し、少々遅速ハ有之候へ共、其志一ツなりとて同賞取らせ候と也 、寺本久太郎も海手より乗こむ者あるを見ると、彼破れ口なる筵をはねのけ入候に、武者走にハ敵壱人もなく、弐三間奥の方に長刀を持たる敵を行かゝりに突伏、首を討んとする時、山田九大夫続て乗込、、見事也と言をかけ奥にすゝむを見て、久太郎も奥に突て入、津田三十郎石垣下ニ而石手負、組の面々も創を被る者多く候へ共、共に進て乗込相働く 首を取者多し 、杉喜兵衛も同所より乗込、城内にて首一ツ討取、此外一番乗の面々に続て不劣乗入輩、明石権大夫 松山権兵衛与 ・佐藤七右衛門 谷主膳与 ・魚住与平次 同人与 ・飯田安兵衛 松野右京与 ・高見庄五郎 嶋又左衛門与 ・沢田九右衛門 谷与 ・西郡武大夫 西郡要人与 ・一宮儀兵衛 同人与 金子九左衛門 同人与 ・水野喜三郎 同人与 ・河嶋金十郎 同人与 ・吉田長四郎 同人与 ・西郡長左衛門 同人与 ・河喜多久四郎 同人与 ・入江八助 同人与 ・矢野半十郎 同人与 ・山田十助 同人与 ・真下喜左衛門 同人与 ・魚住助九郎 同人与、一ニ谷与 ・加々山権三郎 加々山主馬与 ・道家弥太郎 西郡与 ・野瀬勘太夫 同人与 ・菅村文之允 谷与 ・谷主膳 志水伯耆与 ・南源右衛門 谷与、生源寺市十郎名代 ・多田十右衛門 安井左門与 ・高野勘右衛門 真下喜左衛門与 ・杉村数馬 西郡与 ・永良助之允 松野右京与 ・平井五郎三郎 嶋少右衛門与 ・松下掃部 小笠原備前与 ・出田左兵衛 ・宮内少子 渡部与左衛門 張頭 ・上妻彦左衛門・末藤新兵衛・三宅加兵衛・中松清兵衛・沓屋伝兵衛・塩津九右衛門・奥村兵左衛門・野上七郎兵衛・牧瀬文左衛門・片岡忠大夫・柿本左門・前原伊賀・下津将監・松野半斎・国友角之允 筑紫大膳与 ・蜂須賀勘三郎 同与、中小姓 ・佐藤伝三郎 同人与 ・入江徳左衛門 同人与 ・戸波儀大夫 同人与 ・西沢喜之助 同人与 ・松山居兵衛 志賀左門与 ・荻忠右衛門 同人与 小崎杢之助 同人与、中小姓 ・神足孫六 同人与 ・沢小七郎 同人与 ・志賀市十郎 同人与、中小姓 ・乃生太郎右衛門 同人与 ・佐藤次郎兵衛 同人与 ・小崎太郎左衛門 志賀左門与 ・岩崎伝四郎 同人与 ・本庄惣三郎 同人与 ・堀田彦之允 同人与 ・志賀九郎大夫 同人与 ・平井五郎兵衛 同人与 ・渡部半大夫 同人与 ・湯浅牛右衛門 一ニ平右衛門、筑紫大膳与 ・国友少次郎 同人与 ・寺井藤蔵 岩越惣右衛門与 ・金津十次郎 藪図書与 ・奥田然徳・平野作大夫 長岡右馬之介与、源太左衛門子、中小姓 ・牧平左衛門 清田石見与 ・森部又之允 有吉舎人与 ・木原猪右衛門 同人与 ・長谷部才三郎 同人与 ・友田源右衛門 同人与 ・杉山伝助 同人与 ・杉山安之允同人与 ・中村左大夫 同人与 ・鎌田市左衛門 津田三十郎与、弥五左衛門子 ・横田金平 同人与 ・堀五郎大夫 同人与、喜兵衛子 ・加藤少大夫 同人与、左兵衛子 ・西川権四郎 同人与、与助子 橋本兵左衛門 同人与 ・鎌田権内 同人与、主水子 ・加藤権助 同人与、左兵衛子 ・矢野山三郎 同人与、勘右衛門子 ・椋梨三平 同人与 ・上林甚十郎 同人与 ・浦上十兵衛 同人与 ・越生半之允 同人与 ・広瀬次左衛門 同人与、杢之助子 ・神山源兵衛 沢村宇右衛門与 ・林小兵衛 同人与、弥五左衛門子、中小姓 ・水間久馬助 丹羽亀之允与 ・樹下九郎太郎 同人与、中小姓 ・続十之允 同人与 平井長三郎 志賀左門与 ・長岡平左衛門 長岡右馬介与 ・新美清大夫 吉弘加左衛門与、門池次郎大夫弟、中小姓
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島原の陣--決戦の日・・30

2009-01-27 14:58:31 | 歴史
寺尾左助父子も御意を請て御先二参、海手の方ニ而鉄炮うたせ、益田等か乗口より乗入 夜中さくきわに組共二相詰申候 清成八十郎以前の深手をもいとはす、弟十五郎と共二はやく乗込候ニ、塀裏の一揆共本丸奥ニ小屋有ニ引入に声を掛候へハ、其内より三人返し合せ鑓にて突かゝる、壱人にハ八十郎手を負せ候間、残る弐人に鑓場を譲る、其弐人と八十郎兄弟迫合候内、横井長吉 後十左衛門と改、嶋与 乗込、右休ミ居たる敵と突合、三人共に強く働き候故、八十郎兄弟又々手負候得共、終に銘々敵を鑓付、殊外つかれ死骸ニ腰を掛息をつき、火の手をあけ可申と申合候時、長吉も同敷敵を突伏せ、八十郎か目の下の疵血多くなかれ深手と見候ニ付、疵の中に指を入殊之外深ク候由申候、

立允主ハ御下知ニ応し、流尾筋を御下候処、いまた御おり着不被成内、城乗との事を被聞、其まゝ御人数被召連、元之所より御乗被成候、歩御小姓 御使番と覚書ニ在 森田弥五左衛門ハ諸勢引上候様ニとの御使ニ参候処、早水市郎兵衛・吉岡瀬兵衛石垣一ツ二ツのほり居、瀬兵衛ハ相組故言葉をかはし候処、頓而石に而頭を打わられ候間、下り候へと瀬兵衛申候へ共、不承引、其時市郎兵衛も互二名乗合、三尺手拭にて弥五右衛門か頭をからけ遣、眼ニ流レ入候を押ぬくひ見上候へハ、市郎兵衛乗入瀬兵衛も乗入候ニ付、弥五右衛門も少も不劣乗入、弓二而敵を射しりそけ、壱人射倒し首ハ討捨ニいたし候、津川四郎右衛門見て見事の働也、ひたもの射よと申候へとも、矢一手残り候、ご所望ならハ御覧候へと云て又敵を射たをし候

美麗の若武者の死
河喜多九大夫ハ敵弐人鑓付、早水市郎兵衛も壱人討取候、平野太郎四郎ハ乗こむ前に屏の破れ口より逃上らんとする敵を鑓をのへて突伏、直ニ城中に飛入、冑を抜てさし上、敵より打落とされるにハあらす、働の障と成故捨候をいつれも御覧候へと呼はり、後陳に投落し候、下には白き鉢巻をいたし候、山田新九郎ハ河喜多に扇をかり後勢をまねき、右の方にひかへたる賊を目かけ太郎四郎と共にすゝミかゝり、壱人宛突伏、多勢に手を負せ、追かけすゝミ行く、跡より味方も続候に、或はうたれ散々に成、太郎四郎ハ猶もすゝんて大勢と突合、鑓をも突折候間、重代相伝の祖父孫六の弐尺七寸あるを抜持働候に、紺衣を着たる敵横合より不意に出、鑓を投突に左右の股を突通し候間、忽倒れ起上らんといたし候へ共あしたゝす、新九郎か家人居候に我を退呉よと打笑ひ申けれ共、其少脇にて新九郎も鑓突折れ候間、主人を捨置難く新九郎を引立る内に、賊大勢取つゝミ太郎四郎ハうたれ候、村上吉之允・山田忠三郎も劣らす乗こみ働、忠三郎賊を突伏候時、鉄炮二中り深手にて倒れ候間、村上走り寄扶け起さんとする所に、是も同しく打倒され、深手にてせんかたなく両人共に家僕に負れ本陳にかへり候 
 (三月廿日・山田忠三郎死去、廿一日・村上吉之允死去)
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島原の陣--決戦の日・・29

2009-01-26 18:30:53 | 歴史
其外後陳ハ段々に引てはや城外に出たるも有、当手の士卒も心々に令を守て屏下をくたるも有、又左右に事よせて見合するも有、城中ハ寄手の諸勢攻口を甘るを見て自然と防二も怠候哉、漸に矢石も間遠二有之候、寄之ハ未不退、内外の様子を見計り居候に、今そよき乗塩と思ひけれハ、再拝を振て太鼓をすゝめ、一きほひに乗取れと下知をなし候へハ、屏に着居たる諸士あらたに勇気を生し、引おろしたる面々も劣らしと取てかへし、我先と攻上り候、中にも益田弥一右衛門正景東の石垣より上らんとせしに、石にて冑の立物を打折られ候へとも、なをも石垣を攀て南の方海手のすミに至り、江戸浪人岡本八左衛門・後藤杢右衛門と一所に挊、一番に屏を越城中に入る、益田か差物ハ紺の一本しなひに大なる角取紙を出しにしたるか、後陳よりよく見へ台使も早く御見とめ候なり、自是先蓮池の上平より海手の角と升形の間をハ、長谷川仁左衛門・寺本八左衛門・清田又右衛門等か鉄炮にてきひしく打しらめ、前に山田・河喜多等石垣きわ一間はかりニ蹈詰、もはや乗込へきと申候へとも、今一塩打立可申とて夥敷うたせ、仁左衛門手をふり候と其まゝ河喜多九大夫・山田新九郎乗込、早水市郎兵衛・津川四郎右衛門等も同時に乗こミ、平野太郎四郎も乗込候、海手の角より弐間程の南の方をハ都甲太兵衛・池永源大夫・後藤権右衛門等ミつから鉄炮を打、敵引候様子之処、都甲か着居たる場に塀裏より鑓を出し候間、直ニ其鑓を取て城内に付入候へハ 一ニ太兵衛ハ塀のやふれより乗入 、池永・後藤見事々々と詞をかけ一同に乗込、都甲ハ其まゝ敵をきりふせ候処、切支丹共大勢鑓ニ而投突いたし候を、壱人もやるましと声を懸、追ちらし右きりふせたる者の首を取ル、是本丸にての一番首と也、最初鉄炮にて打殺したる者の首と共ニ二ツ御本陳ニ持参仕候而、海手の角一番乗の事をも申上候へハ、御覧被成候との御意也

右益田以下の面々いつれも一番乗と称し候、興津九郎兵衛益田に不劣乗込候処、石垣の上ニ而討死いたし候 妻子無之家断絶 、江口弥左衛門も御旗本より御使に来り、直ニ海手犬走に着、弓にて賊弐人射落し候時、いつれもすゝむ体を見て早く乗込、一番乗と称し候、軽卒には長谷川仁左衛門組山内五兵衛・寺尾左助組平井十兵衛 一ニ甚兵衛 ・高橋九左衛門組岩尾牧右衛門 一ニ数右衛門 ・都甲太兵衛甥斎藤少蔵 此四人二ノ丸にても都甲差図いたし、小屋々々に火矢打つけ通り、本丸にても焼立、廿八日朝も火矢打付候由 、其外品川六兵衛・河村猪右衛門・真下九兵衛 嶋又左衛門与 ・志賀安之允 真下喜左衛門与 ・村上太左衛門 寺本与 ・加藤安大夫 寺本久太郎与 ・早水忠兵衛 台所方 ・塩津与三左衛門 職人奉行 等も不劣乗込む、益田弥一右衛門ハ乗入と直に鑓を合、敵を討捨、同甥岡本伝十郎 後広瀬杢之助養子、広瀬安右衛門と改む つゝゐて乗込、城中の小屋に火を放し、益田か家来山下勘右衛門・鑓持甚右衛門も 一ニ山本勘右衛門千手甚右衛門と有 乗込、敵三人討取、岡本も鑓を合首を取、津川四郎右衛門も一揆立向ひ候を討捨候
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恕斎日録

2009-01-26 12:04:17 | 書籍・読書
 待望の「肥後・中村恕斎日録」の第二巻が発売された。全十二巻と聞き及んでいるが、今回は
 弘化二年から嘉永三年に至る分である。A5判上製 8925円(税込み)
      発行元:熊本出版文化協会
          〒860-0051 熊本市二本木3-1-28 ℡096-354-8201
      編纂:「恕斎日録刊行会」

 併せて、既刊の 「幕末武家の時代相・熊本藩郡代中村恕斎(上)(下)」もお読みいただきたい
      著者:熊本大学教授・吉村豊雄氏
      発行:清文堂 2007年12月10日刊行
      定価:上下巻共(税込み各2,730円)

 中村恕斎 名は誠郷、通称荘右衛門、恕斎と号す。世禄百五十石。時習館訓導、郡宰、
        獄官長等を勤む。訓導としては居敬窺理の業を離れず、郡宰の職にありては
        興利除害に努め又最も力を植林に用ひて功績少からず。
        明治三年十二月廿四日没す。年六十七。墓は島崎湧泉院。

        弘化二年--明治三年迄役35年に及ぶ日記「中村恕斎日録」を残す。
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島原の陣--決戦の日・・28

2009-01-25 17:59:32 | 歴史
篠原角左衛門も組卒を下知し犬走に着て働けるか、鉄炮に中り深手負、岡部多門は勘気を蒙り居たるに今度赦免を得て従軍せし故、抜群之働を心懸、石垣下にて敵弐人討取、犬走ニ着て屏を乗むとするに、差物障りと成故、抜取て家来に持せんとて片手を差出しける時、炮玉直中に来て忽死す、其外各すゝミ懸りて死傷多きをも不厭、英貴しきりに下知を加ふ、松井父子も命に応せす一きほひに乗込んと思ひ詰て、益いさむて下知をなす故、士卒犬走に着て左右をかへりミす、忠利君御使度々被遣、屏下に着たる者共いつれも引取候へと御下知有、佐渡には沢村宇右衛門を以被命候へ共不退、重而津川四郎右衛門被遣候へ共返答にも及さる故、永良長兵衛・沢村宇右衛門・津川四郎右衛門等先徒の働く場所に至り、何れも引取候へと台使の命によりて御本陳よりの御下知なるに、佐渡守殿御家来中其意得られすは、佐渡殿御為悪かるへしと頻りに呼ハり候間、松井角兵衛・山本七郎右衛門・生地武右衛門申合、屏下より下り候に生地申候は、白木貞右衛門・佐分利兵大夫両所に言を残し、互に割符を合せ引取へし、左候而も諸手よりの見分如何なれハ、興長公の馬所を目当にして崖をよこきり下むとて其通にして退き候、松井采女ハ新太郎と田原清兵衛に向ひ、御旗本よりの命なれハ各も引取られへしと云、新太郎聞て我等ハ何時もすゝむにハ先魁、退くにハ後殿なりと云ていつれも見合候、其余屏手に着居たる面々互に励て退クへき体も見へさる故、津川ハ立石助兵衛側に至り、のられ候ハゝ其通之儀也、のられましく候ハゝ引おろし可然と云、助兵衛も同心にて内つよく乗事成ましきと申候、石垣に着居たる面々に御意にて候間おり被申候へといへ共、其比田中左兵衛城内にて働く砌なる故、是を知る輩ハ何れも乗入らんと心を励し、又令を守りて下る者もとかくにしたるく、津川も見合せて滞り候、歩御小性池永源大夫も先手引上候へとの御使に先達而参り、続平右衛門・下村五兵衛・竹原少大夫・都甲太兵衛等か着たる所にて申述候処、太兵衛ハ本丸に乗込討死可仕と、先時沢村宇右衛門・朝山斎等ニ申候間、引さる由申ニ付、源大夫も直ニ同所にて働き、面に石手を負申候、其時城内ニ青き衣服之者殊之外働き石を打を、品川六兵衛か持たる鉄炮を太兵衛取て右之賊を打殺候、後藤権右衛門も同しく御使ニ来り候へとも、都甲か申分聞て、同様ニ討死可仕と云てとゝまり候、宮崎宇左衛門 光利君の歩御小姓 ハ半弓にてかせき候か敵数多に射さて候、塩津九右衛門・野脇久之允・上野市左衛門 いつれも歩御小姓 ハ、海手石垣下ニ付居候面々ニ御意候趣申渡候へとも不引取候ニ付、三人も似合の働を心掛、東海手の角塀少シやふり目見へ候ニ着、御あつけ被置候鉄炮にて敵壱両人打たをし候、如此御使の面々各先手に加り、津川・沢村なとも城乗を心掛、佐渡・頼母等一図に乗とらんと励ミ、其志のしたかふましきを忠利君御察し計られ、馬場三郎左衛門殿に被仰候ハ、台使の旨にまかせ人数を引揚へく候へ共、先鋒の者共頻にすゝミ下知にしたかひ不申候、此上ハ直に興長を暁し給ハるへきやと有、馬場氏領掌有て馳着、いさゐに旨趣を演られ候、興長承り、貴命畏り存候、然れ共寄之陳頭にすゝミ、是非に攻入むとしてすへき様無之候と答けれハ、馬場殿又寄之か側に至りて演説有、式部申候ハ、今先手を引取んには後軍さゝへて人数を揚難し、後陳より引候ハゝ、段々に兵を揚候ハんと答へ、佐渡も同意なる故、三郎左衛門殿直ニ有吉か許に至、此旨を示さる、頼母助止事を得す領掌して、立允主にも其意を達し候に、そなたハはや御おり候や、心得候と被仰遣、忠利君よりハ道家七郎右衛門 又清蔵とも有 被遣候間、是非なく命に応せられ候、斯て台使より重而諸手に軍使を馳られ候間、初より命ニ従て兵を揚たるも有、又恥合て見合居たるも追々に引揚候へは、立允主最前詞を交されたる伊豆守殿の御家士壱人残居たるに、台使の御下知たるの旨本陳より数度申越候、軍令そむき難く人数を揚候間、其方も下られ候ハんかと有、彼武者諾する故、越中守手に於てハ一の跡ニ下候と御断被成候へハ、一段御尤なる御届慥に承達仕候と云て引退候間、立允主御人数を揚られ候
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島原の陣--決戦の日・・27

2009-01-24 18:20:31 | 歴史
いよいよクライマックス
衆軍粉骨を尽し候へともいまた本丸に乗入者なし、光利君御歩頭田中左兵衛氏久を被召、志水久馬に隊下の士卒とともに先手に加るへき旨を示し、左兵衛もともに参候へと被仰付候間、組をも召れ可申かと申上候へとも、御近習御人少きの間、組ハ連ましき旨ニ付、歩衆に向て先手の働よりハ御旗本に相詰候儀第一の功なり、能々守護有へしと申聞、其身ハ久馬に御下知を伝へ共二進て先手に加り、直に本城の石垣に至る、矢石間断なく篙(トマ)萱に火を付て投落す事頻也、度々是を蹈消堪居けるに、野田弥三左衛門・志垣小伝二・林喜助・同人若党其外他国の諸士等一所に有て名乗合候、惣兵一番衆を心懸詰寄候、中にも左兵衛ハ是非共先登を志し、海手の隅脇の石垣攀て犬走に至、七八間程屏のなき所より高サ弐間はかりの石垣をのほり、直ニ一文字に乗込、細川肥後守内田中左兵衛本丸の一番乗と名謁て郭中に突入る、志垣小伝次続て乗入ル、賊二三百人群て見へける、中より五六人進出鑓を揃へ突懸る、田中鑓を合、壱人を突伏る、其外五人十人宛段々に来る、多勢を相手に鑓を合て又壱人突倒すに、其者程なく起上りしを志垣小伝次透さす突止る、され共敵大勢にて取つゝミ、志垣も討れ、田中か若党立石九左衛門も進むて討死、阿部市大夫・林喜助・同人若党惣兵衛・石谷殿手の浪士福田一郎右衛門等追々に乗入、一所二て鑓を合賊を討、此砌賊徒共鑓三本田中に突懸しを、二本ハ蹴落候えへとも壱本ハ左の腕にしたゝかに立、左右のもゝ足も少し突せ候、林か若党惣兵衛走り寄、此鑓を取捨る、其外石垣を登りし時も石二打たしかハ手足も自由ならす、今は是迄と思ひて南無八幡と唱、尚々すゝミ大勢の中に突て入、向ふ者を追まわすに敵も立向ひ/\突立候間、五六本まて中り候へ共通らす、いよ/\必死に極め突てまはるに、頭面肩先手足まて石手・鑓手廿余ヶ所に創を蒙り、身体すくミ眼もくらミけれハ、福田市郎右衛門に向ひ、田中左兵衛一番乗を勤、唯今迄の働見届たるかなど云内に、歩御小姓八並少助鉄炮を持居けるを見て、あれ打候へと云て賊壱人うたせ候、塩津九右衛門も一所に在、敵又群来るを左兵衛三度鑓を合す、然共金瘡甚痛ミに耐さる故、もはや是迄也、時分よきそ、いつれも乗入候へと大勢の味方に度々言をかけ、家僕に扶られ引取候、益田弥一右衛門其時石垣の下に有けるが、田中ハ疵を蒙と見へたりと云、左兵衛聞て益田なるか今攻上ルにや、我は先刻より城中にて相働、如是手負たる故むなしく帰る也、働て高名せよと言をかはし候

肥後勢本丸海手の隅より西の升形口迄の間屏下ニ而せり合事一時はかり、人持物頭を初手負討死数多有之候へ共、少も攻口を去らす、各乗越々々働を伊豆守殿御覧候而、はや日も晩景に及候、一旦攻口を甘け、明日本丸を攻抜へきと戸田氏に相議せられ、軍使を以諸手江此旨示され候、実も御当家の士死傷の者千三四百も出来候程の儀なれハ、忠利君も御同意ニ而先手に軍使をはせ、上使よりの御下知也、先今晩ハ人数を揚、明日早天より可攻入と被仰下候へとも、いつれも命に応せす、立孝主御請二今下り候へと被仰下時分ニ而無之候、弥其通なるかと被入念候所、弥御おり候へとの御意之由申候、然共其使番を見知さるとの事故、重而佐和市兵衛を以御下知候へ共、是も御見知無之とて御承引なし、御側よりあれハ沢市兵衛と申仁ニ而候と申候へハ、偖ハいつれも見知たる人か、御諚畏入候と被仰なから未升形下ニ御座候、志水新之允も命にしたかはす、家士岡部形右衛門組足軽を下知して横矢ひしき場にこらへ居候か、透を見て屏の上に乗上る所を賊見込て打、鉄炮少さかりて形右衛門か太股を打抜けれハ、忽城外ニ落て苦痛せしを、家来扶け起し背負て本陳にかへり候
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島原の陣--決戦の日・・26

2009-01-24 10:58:45 | 歴史
立允主ハ城中の鉄炮はけしきをも不厭、石垣下ニ蹈居へおはしまし候処、伊豆守殿の家士使番之由奥村 一ニ奥田権之允・関屋四郎兵衛・長谷川源左衛門三人、諸手の様に見廻り候とて此所ニ進来指物ハ赤き絹なひきの様成ものにや銘々鑓を持、下人四五人計と見へ候と也 、御座所より二三間程下ニ立やすらひ候、出立之様子伊豆殿御家来と見知、右三人ニ半兵衛申候ハ、越中守弟細川立允先刻より是ニ一番ニ着、御覧之通馬験をも一番ニ上候と申けれハ、三人の士憚なから立允公を見覚度と申候ニ付、御側ニ居候者聞き候へハ御顔を見候而申上候ハ、扨々はやく是に御付被成見事成御座所ニ而、殊ニ御馬印迄も一番に揚り候事御手柄ニ而御座候、伊豆守ニも懇ニ可申聞由申候、其後又申候ハ、此所ハ出丸よりの横矢夥しく中々屯り難き所也、大将の御座所にハ軽々敷不相応なれハ是非共今少御下り有て可然由申候、立允主聞召、志方を以被仰候ハ、いかにも爰ハ一陳のきひしき所ニ而候、越中父子よりも度々おり候へと使を越候へとも、しかと是ニ居申候、此方ハ善悪共ニ越中守下知に任する事なれハ、各かともかくもと有、三人申候ハいかにこたへにくき所にて候共、立允様御座候に我等匹夫たり共得こそハ下り申ましとて控居申候 弐人ハこらへかね無程おり候得共、壱人ハこたへ居申候 、此外他国の士追々御座所に来、立允主に御目ニかゝり、よき所に参、のちの証拠に可仕儀冥加に叶候とて悦罷在も有之、佐方源助矢立を取出し名を書付置候也
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