津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家肥後入国--2 肥後御拝領まで

2007-11-30 10:56:45 | 歴史
 加藤家の改易問題は、熊本城開城へ向けて緊張の局面を迎える事になる。六月初めには、「何方迄も供可仕」と下人が逃げ去ったため自ら槍を掲げて、忠広の下へ参じる家士などが現れ、立ち退きをする人の為に宿の手配などが細川家求められている。一方熊本においては、「熊本留守居之面々籠城して上使を待受、討死すべき」という風説があることが伝えられる。そのような事から、壱万ニ・三千程の出兵がありうるとて「軍法の仰出」が成された。六月中旬になると「御奉行衆御着次第熊本之城渡上候へ」という忠広の書状が留守居に届けられ、「肥後之儀やくたいは無御座候」という状況が見えてくる。そんな23日の三齋の書状によると「国替之沙汰色々様々申候内、肥後へは其方被参と申事大方定り候様ニ・・・」とあり、細川家の肥後入りが検討されている事が伺える。七月十二日上使小倉入り、同日加藤家年寄に対し、十四・五日に「人数壱万ニ・三千、馬八・九百」で出発する旨御書が発せられる。七月廿二日には上使が何ごともなく熊本・八代の両城を受取っている。八月八日には在番の者を残して上使も肥後を離れている。忠利に対し土井大炊頭(利勝)から十月中旬まで「江戸へ御着候やうニ」という八月十六日付け書状が届けられる。細川家の熊本入りが現実のものとなってくる。九月十三日小倉御出船、風波あらく室から陸路、十月三日に江戸入りする。四日巳ノ刻登城、家光公御直ニ「三齋しは/\忠節を東照宮に謁し其功多く、又其方連年心を尽して奉公をなす、父子の勤労暫も忘れおかす、其忠志を賞して肥後之国を授与ふ(ママ)る、益忠勤を抽つへし」との上意を得て、ここに細川家の肥後入りが決定した。
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築城400年・熊本VS彦根

2007-11-30 10:40:59 | 熊本
 彦根城築城400年記念のイベントは、76万人の入場者を迎えて終幕したようだ。イベントキャラクターの「ひこにゃん」が、今後の使用権が絡んで話題をさらったりして印象を濃くしている。熊本城築城400年記念イベント期間中、私は彦根の動きに興味を持ってインターネットサイト「国宝・彦根城400年祭」を眺めてきた。サイトの世界では熊本の完全な敗北である。彦根の皆さんの情熱が一体化していて、熱気にあふれる日々の動きが伝えられてくる。熊本はどうか・・・。ブルーインパルスが、ものすごい轟音で熊本の空を駆け巡った翌日、私はそれが400年記念のイベントである事を知って唖然とした。「何かやりゃーいいってもんじゃーなかろう」というのが、私の率直な感想である。そんな予算があるなら、彦根に負けないようなサイトを作って、全国の皆様をお招きするべきではなかったのか。(今更言っても始まらないし、在野の意見を聞く耳も持ち合わせていない)
 
 「朝鮮で戦争でも始まったかと思うた」という近所の老人に、「あれは熊本城築城400年の記念に飛ばせたらしいですよ」というと、一言「馬鹿ばい」
 
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縁組之儀御触

2007-11-29 13:37:38 | memo
 人持頭又千石より上之知行取并奥ニ召仕候者、此分ハ此方より縁辺之儀可申付候、此外ハ下にて内談申、此方へ可相尋候、同心之上を以縁者之帳ニ可付置候、右之通被仰出候間、与中ニ被入御念可被申渡候、御番頭之儀は大身ニよらす、従 殿様縁辺可被仰触候間、其段可被相触候、重而御穿鑿ニ付相違無之様ニ、御与中へ不残判形を御与頭ニ可有御取置候、為後日御名下ニ御判候而可給候、以上
    (元和九年)九月十六日         長岡式部少輔

 * 結婚の自由はなかったという話
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気鬱・・2

2007-11-29 10:48:25 | 歴史
 史料を読んでいても気鬱になる。元和二年「十一月、御暇被蒙仰、御馬御拝領被成候、無程御下国被成候」という記事が見える。元和五年正月十二日忠興の「御返書」の中に「拝領之馬其外十人果候由、無是非儀ニ候(以下略)」とある。元和二年に拝領した御馬であるかどうかは判然としないが、同じ馬であろう事は推測できる。その死の原因も又判然としないが、十人の人が処分を受けて死を賜った事は間違いない。人の命のなんと安っぽいことか・・・
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気鬱

2007-11-29 09:30:26 | 徒然
 今日はすっかり厚い雲に覆われて、どんよりとした朝を迎えました。すっかり要介護犬となった愛犬の世話で疲れ果て、これが人間だったらと思うと改めて健康について考えさせられます。TVはいやなニュースが多くて観る気がしません。仕事の上では、姉歯事件後の建築基準法の改悪の余波をもろに受けて悪戦苦闘です。建築統計によると、着工件数が15%ダウンしたといいますから、「改悪」と断じていいでしょう。それでも65爺は「負けてはならじ」と、難解の最たるものとされる「建築基準法」とにらめっこをしています。台風の影響とやらで、雲間を割ってお日様が顔をだされることも今しばらくは望めません。なにかぱっと良い話しはありませんかねー。
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細川家肥後入国--1 加藤家改易

2007-11-28 10:24:31 | 歴史
 寛永九年五月廿九日加藤忠広親子被仰付候趣左之通

 豊後守(加藤忠正)可申聞覚
豊後守儀は御つめのはしをもけかし、御名字之御字をも被下重畳御懇ニ候間、別而御奉公をも可仕と被思召候処ニ、不届成儀を書廻し候儀曲事ニ被思召候間、切腹をも可被仰付儀ニ候へ共、御穿鑿之上うつけ者にて仕候と被思召候ニ付、命之儀被成御赦免、飛騨国江御預ケ候事

 肥後守(加藤忠広)ニ可申聞覚
豊後守儀若輩ニ而今度之儀一分之覚悟ニ而無之、肥後守も内々存儀も可有と思召御穿鑿候処ニ、肥後守不存候通被聞召分候間、常々之御作法も能候ハヽ国を其儘被下置、豊後守をも肥後守ニ可被成御預候得共、近年諸事無作法ニきかせられ候、其上江戸ニ而生候子母共、御代替之砌御理をも不申上国元江遣候儀、公義をかるしめ曲事ニ被思召候、今程 御代替御仕置始ニ候間、重科ニ可被仰付候へ共、此度早速参勤并彼在所仕付いたし、其上豊後守手前早々穿鑿仕、御尋之上有様ニ申上候ニ付、御国を被召上、庄内江被遣、於彼地為堪忍分壱万石被下置候、以上

 寛永九年正月廿四日ニ代将軍秀忠が亡くなった。肥後加藤家の消息が綿孝輯録に登場するのは四月廿七日である。その後刻々と切迫した状況が伝えられてくる。自らが肥後入りすることなど、思いも寄らぬ状況であった。
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将軍秀忠の死因は?

2007-11-27 18:25:39 | 歴史
 整形外科医にして作家の篠田達明氏の著書「徳川将軍家15代のカルテ」によると、秀忠公の死因はガンだそうな。綿孝輯録に、三齋宛ての忠利の不思議な内容の手紙がある。亡くなる前年の九月廿二日のもので、

 相国様は御積二極申候、御むなさきへあかり申をつかまへ候へは、長サ四寸、大サ大根程ニ御座候いきものと見え申候、かしらかたく、上口なかく、下口ミしかく御座候、どうなかをつかミ下をつかまへ候得は、能候而右之通覚候、きつくしめ候へは事外被成御痛候、承候体ハ下々ニ而ハ、きりやぶり取出候事も可成様ニ見え申候、それをとりはなし候得は其まヽわきへ参候、其時事之外被成御迷惑、両之御手もしびれ御気も遠き程ニ御座候由ニ候

 なんとも不思議な文章で、何の事やらさっぱり分からない。篠田先生ならこれをどう読み解かれるだろうか。翌年正月廿四日秀忠死去。

 その著「モナリザは高脂血症だった」「法王庁の避妊法」などネーミングもなかなか巧みで、ちょっと読んでみようかと思わせる。
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平成20年2月10日・午後3時から

2007-11-27 15:02:21 | memo
 地元TV局・KKTの開局25周年記念のTV番組「史上最強・よみがえる熊本城」がいよいよ放映の日取りが決定したようだ。85分番組、製作協力にはテレビマンユニオンが係わっている。内藤剛志が案内役を務めるらしいが、待ち遠しくて仕方がない。
    http://www.kkt.jp/  KKTくまもと県民テレビ
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忠興弟・細川孝之と忠利の仲違い

2007-11-27 14:51:34 | 歴史
 忠興と弟・興元、忠興と息・刑部の仲違いは相当根深いものが見える。忠興の弟・孝之と忠興継嗣・忠利との仲違いも史料の中に窺い知れる。豊前香春(かわら)25,000石城主であった孝之が出奔剃髪したのは「元和九年之様ニ見江候得とも・・云々」とある。これに関する忠利の種々の手紙の中の一つに「我等おち・休斎(孝之)事我等申候事を不被聞候間中を違候・・・以下略」とある。原因が何であったのかよく分からないが、京に出て幽居する。「於豊前小倉御侍帳」には、「御扶持方取」として「三齋様御舎弟・中務少輔長岡中務殿--三百人扶持」とあるが、これは休斎出奔後のものである。正保二年十月「八代分領帳」には、五百石とある。三齋の死(正保二年十二月)後は、その骨を大徳寺高桐院に納め、正保四年七月兄三齋を追うように亡くなった。小笠原民部長之岳父。
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催し

2007-11-27 00:10:49 | 熊本
■第9回歴史談話室
  平成19年12月25日(土)午後2:00~4:00 歴史文書資料室
■熊本城築城400年祭特別展示「発掘された本丸御殿」
  平成19年12月6日~20年1月27日 熊本城数奇屋丸ニ階大広間
 ●歴史講座「熊本城を語る-本丸御殿復元工事現場から」
      12月8日(土)午後1:30~ 熊本博物館 定員45名
 ●歴史講座「本丸御殿-古建築の研究成果から}
      12月22日(土)午後1:30~    同上
    熊本博物館(324-3500)築城400年記念事業室(359-0400)
■第五回全国城跡等石垣シンポジウム
  平成20年1月17日(木)、18日(金) 於・国際交流会館
  定員100名両日共参加可能の方 申込み・熊本市文化課(328-2740)

  詳しくは、「くまもと市政だより12月号」を御覧下さい。
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落髪、そして元結を切る

2007-11-26 15:54:15 | 歴史
 忠利が亡くなったのは、寛永十八年三月十七日、十九日入棺し「御花畑居間の床をはなし、土中に奉置」したという。四月二十八日「御野送仕・・・岫雲院の地ニ而御火葬」された。翌二十九日より五月五日まで法事があり、「御家中之面々晦日より五番ニ分、参拝焼香仕候」とある。この間一部を除き、殉死の面々が切腹する。継嗣光尚は五月五日遣領相続、六月十四日下国した。そんな中、四月十三日に「御家中之面々落髪之儀ニ付触」が成されている。「御知行被下候衆ハ何も可為落髪事」とあり、子供についても「本ゆひきり可申候」としている。「御扶持を被下候者」は「もよゆひ」を切るように触れている。
「元結を切る」というのは理解できるが、「落髪」とはどういうことであろうか。まさか全員入道しろという事とは思われないし・・・この「触」ではその期間を知ることはできないが、しばらくの間頭上にちょん髷のないお侍が城下町に満ちていた事になる。
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吟味

2007-11-25 09:41:53 | 歴史
 生死を賭けての激しい戦いの後、幸いにも生き残った人達には戦いに対する厳しい吟味が行われた。有馬陳の高名については七人の吟味奉行により、一番乗り・益田弥一右衛門、二番乗・都甲太兵衛、天草四郎首討取・陳佐左衛門等が名誉を得た。その後松井佐渡守・長岡頼母助・長岡右馬助・小笠原備前・清田石見・志水新之丞らが替わって、諸士の吟味を行った。東京在住・沢村家に残る史料は、その間の経緯が伺われて面白い。先祖沢村権十郎は綿孝輯録にも記載されている通り、縦横の働きを見せているが、其の働きを証言する書や、反対に証言を求める書が正月の日付けで提出された事が分かる。又吟味奉行から飯田安兵衛、杉山瀬兵衛、稲津九郎兵衛、郡安左衛門、矢野吉之允、永良添寛、樹下仙三郎らの働き振りに対して、証言を求める文書が残されている。「沢村権十郎が証人である」との当人達の申告に対し、詳細な説明を要求する吟味奉行の文書で、この様に沢山のものが残されていて大変興味深い。綿孝輯録にある如く、この中の数人が「御褒美」をえている。権十郎の証言が多いに役立った事がわかる。一方「手負い」しても、働きのなかったものに対してはなかなか厳しく、「働きなければ当然」という文言が厳しい。
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七曲り

2007-11-24 13:20:28 | 熊本
 かって国道三号線は熊本城内を抜けていた。豊前街道である。京町台から熊本城の石垣下を抜けて、市役所前に出た。交通量の増大と共に大きく東に迂回して清水--黒髪--坪井--水道町へと新たな道が作られ現在の三号線となった。家老・米田家屋敷(現必由館高校-元熊本市立高校)の東側に、七曲りと呼ばれる、クランク状の路地に囲まれた一角がある。かっては幅員23-4mの国道を挟んだ向こう側の黒髪1丁目につながっていて、黒髪がわの道筋も江戸期の状態がそのまま残されている。この七曲がりに伯父嫁の実家があった。三十年ほど前にもなろうか、祖母に用事を言いつけられて車で出かけ、すごいクランク状態の道を入ってどうやら行き着いた。「よく入ってきたわねー」と老婦人に吃驚されたが、この道は地図上は国道につながっているが、実際は段差のある行き詰まりの道であった。抜けられると思って入ったのが間違いだった。運転には自信があったが、バックで細いクランクを抜け出るのは至難の業であった。苦闘十数分汗びっしょりで抜け出したが、その間じゅう老婦人ははらはらしながら付き合ってくれた。
 老婦人も亡くなられ、屋敷も人の手に渡ったようだ。行く機会もなく最近の七曲りがどうなっているのか全く知らなかったが、熊本日々新聞が連載する「くまもと地名あらかると」に熊本地名研究会員の福田晴男氏が紹介された。また知識を新にした。福田氏とは熊本史談会でご一緒させていただいている。
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綿孝輯録・巻五十五

2007-11-24 11:04:18 | 歴史
 この巻は「有馬御陳御中小姓以下倍卒迄討死之面々并武功吟味之節、御家中より差出候手負討死面々差出控」というもので、2,418人の名前が書かれている。討死290人で内90人が「馬乗御物頭共ニ」、200人が「歩若党鉄炮之者下々」とある。八代勢は別途記載があり、手負い35人、討死9人とある。
 平野弥次右衛門や尾藤金左衛門の組の手負・討死が多いことに気が付く。金左衛門自らが討ち死にした話は有名であるが、彼の部下もまた多いに活躍した事が分かる。思いがけない人の名前があったり、また小者が手負ったことなどが見える。徳川幕府の威信を掛けた戦いは、初動の対応のまずさが指摘されるが、細川家の人的被害は其の活躍ぶりを物語っている。
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千代姫様に非ず

2007-11-23 14:05:29 | 歴史
 慶長五年正月忠利は証人として江戸へ赴く。慶長九年父・忠興が煩い、容態が案じられ「御存命之内御対面被成候様ニと両上様(家康・秀忠)被思召」により、急遽豊前に下国する。初めての豊前入りであった。その後忠興は本復するわけだが、この折に忠利は家督する事になる。家康の御証書には「忠興任内存」という文字が見えるが、忠興の本意であったのだろうか。十三年小笠原秀政女(千代姫)を将軍秀忠の養女として、忠利との縁組が決定。秀忠の養女というのは、千代姫の生母が家康の嫡男・信康女であることによる。

 さて本題、綿孝輯録によると忠利夫人の名前は細川家家譜には記載がなかったらしい。この縁組に当たり、小笠原家からの御附で細川家に来た岩間六兵衛(武田信玄嫡孫)家記に、「御せん様」とあり、又松井直之所持の系図にも同様の書き込みが有った。故にその後「おせん様」とされてきたが、寛政五年に「御系譜」を差し出すに当たって、小倉小笠原家に問い合わせ等を行い両家ともに「千代姫」としたという。婚儀当時の綿孝輯録の記述等に「千代姫」とあるのは、その編年がずっと下っていることによるが、当然婚儀当時は「おせん様」であったのだろう。・・・目からうろこ・・・
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