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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■名誉ソマリエ、作家デビュー

2025-09-03 06:35:39 | 人物

 当ブログでも度々ご紹介してきた北九州在住の名誉ソマリエの小川研次氏からは、過去に細川家にかかわるいくつもの論考をご提供いただきご紹介してきた。
中には小冊子化されたものもあったが、今回作家・塩見川梅研として本格的にデビューされたが、このことは■御恵贈御礼「小倉藩御料理事情」でご紹介した。今般西日本新聞に以下の如く紹介記事が掲載された。
併せて「トークライブ」が開かれることもお知らせいただいた。参上してお喜びを申し上げたいところだが、介護の人間を抱えている身としては小倉は少々遠隔地である。誠に残念の極みではある。ご盛会をお祈り申し上げたい。
尚、本著は読みごたえのある名著である。読書家を自認される諸兄に一読をお勧め申し上げる。

     

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■下津棒庵と久我家庶流東久世家初代のこと

2025-08-27 06:34:34 | 人物

 細川家とは馴染み深い久我家だが、遡ると加藤清正・忠廣につかえた下津棒庵も久我家の出身である。
     (綱利養女・具姫が久我右大臣惟通簾中、久我通名女・由婦が細川重賢正室)


私の手元に、棒庵の子と考えられる下津林徳にあてた寛永8年霜月8日の加藤忠廣の「宛行知行村付目録」があるが、いろんな意味で貴重な資料である。
宛名の下津林徳は棒庵の子(?)と書いたが、のちに後水尾天皇の勅令により新たな堂上家を興し東久世家初代となった通廉(みちかど)の事だと思われる。通廉は寛永7年6月15日生まれとされており、「宛行知行村付目録」には翌8年の5月19日に亡くなった父・棒庵の知行の一部898石4斗を相続していることが判る。
そのことから知行を与えられたのは2歳の時の事であり、通廉の幼少期の名前と考えて然るべきだと推測される。
右己父之跡為相続せし候■林徳幼少の内は知行方内記可肝煎者也」とあり、兄・内記(加藤家家臣=2020石5斗7升4合)により育てられたのであろう?

 今一つはこの「宛行知行村付目録」の日付が寛永8年霜月8日という、忠廣の肥後統治の最晩年のものだということである。
翌年、加藤家は徳川家縁類の家にもかかわらず、不測の事件が連続して忠廣、息・光正ともども配流となり、肥後加藤家54万石は絶家することになる。

 清正・忠廣に仕えた下津棒庵は熊本の地で亡くなったが、加藤家没落を知らなかったことはせめてもの幸であったかもしれない。
棒庵の嫡男・内記はその後江戸へ出たが、懇意であった稲葉能登守(信通=母・細川忠興女多羅)や柳生宗矩、沢庵和尚などの推挙もあって細川家に召し抱えられた。細川家では将監宗政と名乗っている。

末弟・林徳については、のちに堂上家になっている所を見ると久我宗家の何らかの庇護があっての事が伺えるが、棒庵死後の動向は判らない。

 

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■門司源兵衛、御国追放さる

2025-08-19 06:22:17 | 人物
 堀内傳右衛門が書き残した「旦夕覺書」の「月の巻」に御国追放された門司源兵衛の事が記されている。

    一、門司源兵衛日奈久入湯の刻被召連御鑓御打太刀仕舞罷立候刻も江戸御供に可被召連旨被仰聞
      其後又唯今御直に被 仰付候得共熊本へ御歸被成候て組頭共より觸れ申候間唯今御直に被 仰付
      候事沙汰仕ましき由被 仰聞候 熊本にて奥田藤次郎組頭にて拙者も相組にて御供の御請に参候へ
      は源兵衛事ケ様/\と咄被申日奈久にても熊本にても此間右の御意を背方々にてよせいに咄被申
      候由承候 偖々いつきよふ成事と藤次郎拙者へ咄被申候江戸にて節々出合申にもよせい咄多候つる
      其後御國にて前川與三兵衛殿・谷與三左衛門・田中次太夫・門司源兵衛・續三四郎・同五左衛門
      坂井十兵衛此分御隙被遣候 八月末と覺申候 皆共新知被為拝領候は九月十二日少前にて覺申候
      其後門司御國を出江戸へ参候由承候刻十左衛門殿(三渕家4代・是澄)へ参色々咄申内に門司なと
      は江戸へ参候由承候 定て鎗を申立ての望と存候 私存候は鎗を聞及可被召抱と他所ゟ申來候共私は
      先祖以来代々取立被申候渡しにて剰鎗の相手に越中守前に節々罷出候別儀にて被召出候はゝ罷出
      可申候 鎗を申立候ては少心に悪候儀も御座候と可申事に候太守様御鎗殊之外御數奇被成御鎗の位
      も可存候 しかれは右之通に申候はゝ御心にも叶武士の道にも叶可申候 御覧被成候得江戸へ参候て
      も中々今の當世はやり不申候 いか程も牢人多く亦御國へ戻候はゝ諸人笑可申候

 傳右衛門は八月末とする多くの人の御国追放は、実は8月19日に行われている。
この処分が行われたのは貞享2年(1685)の事だが、当ブログでは■江戸藩邸のゆるみとしてご紹介している。

 一方、綱利の処分として寛文9年(1669)の「陽明学徒追放事件」が知られているが、この事件を紹介している高野和人氏著の「北嶋雪山の生涯」に不思議な書き込みが見える。
陽明学徒追放の対象者24名の他に、12名の人たちが御暇になり百日から二百日を経て元の禄を賜ったとある。その中に「門司源兵衛」と「坂井十兵衛」2人の名前が揚げられている。
その折の処分内容は先のブログによると、次のようにある。とすると二人は寛文9年と貞享2年の二度にわたり処分を受けたことになる。(ひょっとすると高野和人先生の勘違いかもしれないが・・?)
 ■以下は江戸にて不行跡暇                 
    ・坂井十兵衛  坂井十兵衛は二百石、元禄三年(1690)妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰、六人扶持被下之
    ・門司源兵衛  門司源兵衛は百五十石、元禄三年妙解院様五十年御忌ニ付御勘気御免被召帰四人扶持被下之、のち御扶持被下
            置衆・御奉行所触 四人扶持、息・善右衛門が跡を継ぎ明治に至った。

 門司源兵衛家は、家禄150石も元の様に復している。江戸へ出たという源兵衛が肥後に帰国したかどうかは良くわからないが・・・

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■千玄室氏逝去さる

2025-08-16 05:21:56 | 人物

 茶道裏千家の前家元・千玄室氏が亡くなられた。102歳の御長命であった。ご冥福をお祈り申し上げる。
私は熊本の茶道肥後古流を勉強したが、表千家の「茶道雑誌」や裏千家の「淡交」といった月刊誌をよく読んだことを思い出す。
実は今、私の机の上には読みかけの昭和44年5月の第7刷の角川文庫の今東光著「お吟さま」が置かれている。
昭和31年氏が直木賞を取られた作品である。ちょうどお茶の稽古をしていたころのもので半世紀以上私の本棚の中にある。
利休の娘お吟と高山右近の悲恋劇を題材にした話でこれは今氏の創作だが、私は名作だと思っている。

実際の「お吟さま」は、肥後古流茶道の遠祖である古市宗庵に嫁いでいる。高山右近との交流もあったことだろうし、キリシタンであったかもしれない。豊臣秀吉のラブコールに耳を傾けず、これが父・利休の死の原因だともされるが、秀吉を振ったということもあったかもしれない。
そんな古市宗庵だからこそ、利休からひとり極意を相伝された「極真の台子」の手前を、千宗旦の乞いに応じて伝授したのだろう。
その千宗旦の出自をめぐる「利休血脈論争」についてー現代家元システムへの道程という、72頁にも及ぶ論考がweb上で公開されているが、これがなかなか興味深い。
宗旦の父・少庵は利休の後妻の連れ子だから、宗旦をはじめとする三千家には血脈的に繋がっていないという論争があった。
この論考では、利休の娘・亀が嫁いだのが少庵だとしているから、当然血脈は繋がっているのだろう。
千家さんにとっては「利休血脈」は大いなる関心事であることは間違いない。

細川忠興は利休の男子・道安を豊前に於いて禄を呈している。利休を師としてあがめた忠興の真骨頂が見て取れる。
そして時代が下って興された三千家ではなく、利休の女婿(吟の婿)古市宗庵の利休直系の茶道の形をもとめたのである。
茶道研究家の磯野風船子氏は、肥後古流の所作の中に記録に残る利休の茶道の姿が色濃く残されていて、まさしく利休正伝の茶道だと断言された。
お吟さまの「女点前」も宗庵の許では見られたのかもしれない。そうなると今東光氏の「お吟さま」とはかけ離れるが、ただこの小説の中の気高き振る舞いは全く同じだったろうと思いたい。
肥後古流でも遠祖・宗庵とともに、お吟さまを取り上げていただきたいものだ。

少々脱線したが、流派は違えいろいろ勉強をさせていただいた。感謝申し上げる。

                                              秋立つや一巻の書の読み残し   漱石  

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■山中又兵衛召出しの経緯

2025-07-28 06:56:39 | 人物

「熊本県史料・近世編第一」の「部分御舊記 御書附并御書部七(十三)」に、寛永十一年壬七月廿八日付けの 忠利が息・六に宛てた文書がある。

          以上
      一筆申候ゑもんこう弟大喜多又兵衛と申者其方へ奉公させ度申由ゑもんのこう
      申候間召出仕可被申候 爰元易事無之候 上様大坂へ去廿五日御成ニ而候 
      我々下國も程有る間敷候 猶國より可申候 恐々謹言

          壬七月廿八日       忠利御判
             六
              進候

「ゑもんのこうが弟・大喜多又兵衛を光尚に奉公させたいといっているから召出したらよかろう」という、六(光尚)に申し送っている。
「ゑもんのこう」とは、忠利夫人にでも使えている女性であろう。「ゑもん=衛門」だろうが「こう」はどういう字を当てるのかは良くわからない。
「ここでは良いことは何もない」と言っているが、どうやら家光が上洛中で忠利も京都滞在しているようだ。
家光はここで大名に「知行朱印状」を渡している。「そろそろ御暇をいただいて国へ帰れそうだ、詳しいことは下国してからの事にしよう」という大意である。

 さてこの大喜多又兵衛、仕官すると山中姓を名乗った。山中鹿之助の後胤だと伝えられる。
有名な「阿部一族」の誅伐事件の際、近所に住まいしていたが、隣家の栖本又七郎が大いなる働きをしてのち「阿部茶事談」などを著して喝さいを浴びたが、又兵衛は家を出ることはなかったため非難する人間もいた。
どうやら栖本は討手の一員だったらしいが、又兵衛他近隣の者はかってな行動はせぬようにとの御達しがあったようだ。
光尚は又兵衛を擁護する発言をしている。そのことがあってか、又兵衛は光尚の死去にあたって殉死した。

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■長岡愚隠(内膳家3代)の押籠の理由

2025-07-06 06:03:36 | 人物

 細川内膳家は家祖・忠隆(忠興嫡男)の嫡子・忠政を以て初代とする。2代目は弟・忠清(忠春)3代目は嫡子・忠重、この人は隠居して愚隠と名乗ったが何故かその後「押籠」の処置がなされてこれが10年ほど続いている。
その息子・忠雄は藩校・時習館が創建されたときに「総教」(理事長?)職に就いた。
その「愚隠老」の「押籠」の経緯を探っているが、内膳家4代忠雄の「細川忠雄家譜」においても触れられていない。
此の間の事情をご存じの方はご示教をお願い申し上げる。

まずは、その家譜から長岡忠重(愚隠)に関する情報を抜粋してみた。

                  一、元禄十丁丑年(1697)七月 忠春公御隠居/忠重公御家督御隠居料従
        綱利公地方千石被進其外万端御格之/通ニ御座候
     一、元禄十二己卯年(1699)九月廿一日 忠重公之/御嫡男御誕生従 御本家様諸事
        御格之通也御名熊千代次郎太郎内膳/ 始忠雄公又忠亮公後忠英公ト被成御改候
     一、元禄十四年辛巳(1701)四月三日御灯燈御/役之儀今迄両面ニ九曜被成御付左右之
        下タニ小ク桔梗之御印御座候処思召有之/ 表九曜裏桔梗御付ケ被成左右之御印を
        御除ケ被成候尤是ハ御代ニ様之思召ニ被成候/段月番之御家老衆江も御内意被仰連
        置候事
           但此節より番灯燈之役松笠菱之中之/角■を印ニ付候様ニ被仰付候是迄ハ  
           番灯燈表九曜裏桔梗付候事    
     一、宝永五年(1708)正月十四日旅御家老三宅藤/兵衛殿被成御呼忠重公御手之病強ク惣躰
        御気色不被勝候二付御隠居被成度被思召/候段御家老中江申談早々達 御聞候
        様ニと被 仰聞候依之藤兵衛殿刻御家老/中江被及■■一刻も早ク被仰候事故
        綱利公御在江戸ニ而被成御座候得とも右之/趣被申上候処同三月十四日月番之御家老
        有吉四郎右衛門殿同役松井求馬殿大御目/附岩間弥右衛門殿御屋敷江参上被致従
        綱利公仰之趣を被相述御隠居相済/忠雄公様 此時十歳被為成候 御家督国中一番之上
        座諸事御格之通御相続有之忠雄公/此時迄ハ次郎太郎様与申候一ト通之御礼者
        忠重公御不快故小笠原備前殿を以月番/御家老衆江被仰達江戸江ハ御礼として
        大久保角左衛門を御使者ニ被差上品々御進/上有之候大久保角左衛門江ハ従 御本家様より
        白銀被為拝領候忠重公早速御剃髪被成候/ 而奉称(愚)隠様与         (愚・・欠)
     一、右御隠居之御達被成置候二付 次郎太郎/ 様御家督被成候ハゝ御幼年之御事ニ付諸
        事何のも御成長まで相慎御本家集様/江此方御家来より無礼等不仕様相心得可
        申旨被仰出候依之途中時宜相等之儀も/ 御用番御家老衆江被仰入候而御席ニ
        御聞ニも達被置候様被仰入候依之入念左之/通相心得候様被仰付候
           本家士中ニ對し我等者共無礼無く様/相心得以来左之通可心得候有吉四郎右衛門
           江■等直ニ申聞置候入念事之由申候

     一、享保元年(1716)九月廿三日千葉城之邸/御長屋より出火不残灰塵と成り御城
        下タ故別而御心遣被成候火慎り月番之/御家老、物頭使者を以焼失之御達
        且又 御差扣之御伺被成候処御差扣/ ニハ不及由ニ而御座候事 

                   *享保三年(1718)五月廿八日忠季(忠重)愚隠故アリテソノ子忠英ニ預ケ押籠メラル (藩主・宜紀)
       *元文四年(1739)五月十七日卒ス、年六十五       (光永光熙編・平成宇土細川家系図より)
     

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■血気の兄弟九郎兵衛と弥五右衛門、その子才右衛門のこと

2025-06-09 09:53:24 | 人物

 森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」で知られる弥五右衛門による同役・横田清兵衛殺害事件は寛永元年のことだと鴎外は書いているが、どうやらこれは間違いと思われる。
寛永五年の記録に「横田清兵衛」が生きている記録が残っている。

 弥五右衛門の兄に九郎兵衛という人物がいる。この人は忠利の熊本入国後、いつの頃か時代ははっきりしないが、熊本城内法華坂において米田監物の家来を斬殺している。
立ち小便をしているところを小尻を蹴られて逆上してのことらしい。城内二の丸の志水伯耆の屋敷に逃げ込んだ。
米田監物の屋敷から家来が駆け付け、九郎兵衛の引き渡しを要求する。伯耆方は鉄炮なども携え両者険悪な状態になった。
「立ち小便」とはなんともいただけない話であるが、斬殺された米田監物家来はいわゆる「陪臣」だから、九郎兵衛の無礼打ちという解釈が成り立っているのだろう。
藩主・忠利にも聞こえ沼田(勘解由=延行か)氏が召出されて、伯耆にもしものことがあれば「監物か討手」を務めるようにと申し渡され、沼田氏は米田監物の説得にあたった結果、手勢を引き取らせて落着した。

陪臣とは言えども家老の家臣を殺害したのだから、九郎兵衛はそれなりの処分を受けたのだろうが詳細は知れない。九郎兵衛の方の事件は忠利肥後入国後の話だから寛永9年から忠利死去の18年までの間の話である。それゆえ弥五右衛門の事件の方が3~4年から12・3年ほど早い。
弥五右衛門事件は相手方が切りかかったからだとされるが、鴎外の創作によるものが多く真相は闇の中である。
いずれにしても、戦国の気風がまだ残るこの時代、命のやり取りの軽々しさに驚かされる。

 又、弥五右衛門の子、4代目・才右衛門は綱利公を「推参者・・・おれも 真源院様御子」とまで言わせるほど叱責を受け知行名上げ・閉門を仰せ付けられている。
才に走った血の気の多いご一族だとお見受けした。

   初代           2代
   興津景一 ーーー+ーーー 九郎兵衛 天草島原の乱討死、無嗣断絶
         
                                 3代            4代

           +ーーー 弥五右衛門景吉 ーーー才右衛門 元禄二年御知行家屋敷被召上、閉門被仰付

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■義民七兵衛と「五里先駄賃米」

2025-05-20 06:36:49 | 人物

 久しぶりに悪友が連絡してきて「北里柴三郎記念館」に行ってきたという。そして「義民七兵衛の碑と言うとば見てきたばい。あんた知っとるかい」といつもの熊本弁である。
話には聞いているが実物は見たことはない。

 北里柴三郎先生は世界の偉人だが、この七兵衛さんは、まさしく阿蘇の農民の神様であった。
「義民」とは「民衆のために一身をささげた人」のことを言う。熊本県下でそう呼ばれる人は殆どいない。
加藤清正の治世以来小国郷の人たちの年貢米は、内牧にあった御蔵に運ばれた。処が延宝8年(1680)に至り、納先が新たに設けられた
大津御蔵に変更される。

綱利公治世の時代だが、この変更は農民の苦労を度外視した改悪政策である。
年末を限りとする厳しい年貢米の納期の積雪極寒の中という労苦とともに泊りがけの費用負担を強いられた。
七兵衛なる人は死を覚悟して熊本まで足を運び、延びた距離の五里に対しての手当を奉行所に願い出たのである。
正規の手続きを踏まぬ禁令の「越訴」であったため、捕らえられ吟味の上死罪が決まると、小国郷での処刑を願い出てこれが許され、古里の人々が見守る中で処刑された。
その結果、七兵衛の願い通り伸びた距離の経費として、収める米の1割が免除された。
すなわち、牛馬1頭ににつむ米俵2俵(1俵3斗2升×2)の1割=6升4合を差し引いて納めてよいことなった。
これを「五里先駄賃米」とよぶ。
その儀兵衛について「肥後人名辭書」にも掲載されているので、労を惜しまずご紹介しよう。

  西里儀兵衛(寛政義民)
  人となり高潔にして、意思堅確、且氣概あり、常に曰く小國郷より大津蔵所に納むる駄賃米の五里向願潰をなさざれば小國農民の
  困苦堪へ難しと、其五里向願潰とは、加藤清正領國の時は年貢米は内牧の蔵に納入せしが細川の時に至り、大津蔵納めとなり、五
  里が十一里に延び、六里は納者の負擔重くなりし、駄賃米を公の負擔に改制訴願のことなり。郷中當路者は農民の苦を認め、制度
  變更に焦慮したるも、其の難を恐れて之を訴願するものなし。七兵衛の義侠心は勃然として起り、下城村武右衛門を頼み、駄賃米
  免除の上書を認め、藩廳に越訴したり。七兵衛忽ち獄裏に投ぜられ遂に寛政八年七月二十九日北里村にて死刑、武右衛門は所拂、
  其の他關係者も所刑せらる。然れども、其の所願の素志は七兵衛の死後全く達せられたり。爾来郷民その恵澤を被る多大、小國の
  人は之を寛政の義民と感嘆す。(小國郷土史)

 この恵沢は阿蘇地区一帯に及び、山都町郷土史伝会の「山都町郷土史よもやま咄」には次のような話が紹介されている。

  このことは小国だけに止まらず菅尾手永の小峰村にも大きな影響を与えた。当時、菅尾手永の小峰村の人々は、一旦年貢米を菅尾の
  惣庄屋宅に納めここで検査を受けた。そして清水峠を越え南郷の二子石まで降り、久木野・長陽を通って、俵山の下を廻って錦野へ
  出て大津の蔵所へ納めた。優に2日掛かった。小峰村も年貢の払い戻しが認められ寛政9年(1632)当時小峰村の村高は2306石
7斗
  1升7合2勺で年貢率を五公五民として1153石余となり、3斗2升の俵詰にすると3604俵となり、馬一頭2俵を運んで1802駄となる。
  1駄あたり1割の3斗2升が駄賃米となり、1802駄分の115石余が年貢から差し引かれ、これらのコメが馬見原に売られて酒米となっ
  り、日向に売られたりした。このため小峰村は矢部手永より裕福になった。

 1802駄とはすなわち、その数の馬なり牛を引いて極寒の中11里の道を往復したということである。
延宝8年(1680)から寛政八年七月(1796)の間、約116年間よくぞ農民は耐え抜いたと驚嘆する。
宝暦の改革もこの状態を解消するには至らなかった。

 わが悪友が見学した「義民七兵衛の碑」は、昭和46年7月29日、当時全国町村会会長をしておられた小国町町長の河津寅雄氏によって建立顕彰された。
江戸期の過酷な農政が綱利・宣紀・宗孝・重賢・治年公の時代を通じて存在し、阿蘇の農民の困苦を七兵衛が自らの死を以て解放した。
斉滋公による英断ともいえる「この恩恵は明治の初めまで約100年間続いた。」とも記されているが、その功績については今も小国及び阿蘇の民人の心の中に存在し続けていると信じたい。

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■細川護美と河上彦斎の御蔭

2025-05-15 06:26:10 | 人物

 細川家譜を読むと明治元年五月十五日、細川護美は菊池武時や加藤清正の名を揚げて顕彰を建言している。
現在の菊池神社・加藤神社(錦神社)だが、両社の由緒を見るとたしかに護美の建言によってであると記されている。
護美の建言の元は河上彦斎の建白によるものであるとも伝えられる。
菊池氏も加藤氏もまさか護美からこのように称えられるとは思いも依らなかったであろうが、後ろに彦斎がいた。
菊池・加藤神社もご一新あっての今日である。両社において御二方はどう取り扱われているのかと少々気になる。

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■長岡和泉ってどなた?

2025-05-14 05:57:02 | 人物

 「我が家を探そう」でご紹介した「68-6-2、熊本所分絵図 向寺原・建部之絵図 分割2」という絵図を眺めていたら、いわゆる豊後街道の北側、現在の国道3号線と旧・菊池街道に挟まれた広大な一角の土地(ほぼ薬園町)に「長岡和泉」と書かれている。
20年も細川家にかかわることを調べているが、ピンとこない。左手には家老・米田監物の下屋敷や菩提寺の見性寺などが連なり、さらにその左手には同じく家老の有吉家の下屋敷などが連なっている。
「長岡姓」を名乗るのは一族の内膳家か刑部家、麝香夫人の実家・沼田家、三卿家老の松井家および米田家である。(有吉家はその由緒により除外)。そこで沼田家か刑部家ではないのかとあたりをつけ、花岡興輝先生監修の「肥後藩主要家系」を眺めてみるが見当たらない。
細川内膳家に連なる菅芳生氏の著「細川右京家資料集」を見るが、こちらも見当たらない。
この絵図には我が家の曽祖父の屋敷が描かれているから、曽祖父と同じ幕末時代の人物だ。「長岡和泉」でググってみたがヒットしない。
いろいろググった結果ついに「世界帝王辞典」に行き付き「細川氏(細川刑部家)」の細川興増(おきなが)氏がまさしく長岡和泉を名乗っていることが判明した。

これにて一件落着だが、お子様の清田孝友氏が、清田鎮直なる方の養子になっておられる。
宇土細川家と刑部家の初代は生母が清田氏(幾知・吉=清田七助女)であり、清田鎮直という方は七助のご子孫ではなかろうか。
有禄氏族基本帳にその名前が見受けられるから、図書館で調べることが一つ増えた。

細川興増
生没年:1845-1933 
別名:長岡和泉、細川信次郎
1897-1933 男爵
父:長岡興恭
義父:細川興昌
妻:細川稲(父:肥後宇土藩九代藩主 細川行芬
1869-1934 興生
・・・・・ 初(夫:沢村重)
1875-1949 綱(夫:男爵 細川忠雄
1877-1932 信(夫:男爵 西高辻信稚
1883- 清田孝友(義父:清田鎮直)
妻:橋本きし1861-1943(義父:橋本正路)
1894- 孝義
1895-1942 孝典
1896-1923 孝道
1899-1935 継(夫:井上雄三)
1900-1963 孝永(妻:吉川貞子1907-)
・・・・・ 久美子(夫:益田兼施)

 

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■御夫人たちの晩年

2025-05-08 06:42:12 | 人物
 
■「参勤」変じて「述職」となる

細川韶邦夫人峯・先代細川斎護室・顕光院、それに韶邦の兄・慶前未亡人鳳臺院などが、文久二年の参勤交代制の宥免に伴い、大名夫人の江戸住が御免となり熊本へ帰国された。これはまさに横......
 

 Gooブログは「一年前はこんなことを書いていますよ」と連絡をしてくれる。
私は、中村庄右衛門(恕斎)が玉名郡代を務めていた時の「恕斎日録」をこのブログでご紹介したことがある。
いろんな記述がある中で、時代が大きなうねりを見せ変革の緒にあることをうかがわせるものに、この御夫人方の帰国に際しての恕斎の細やかな配慮に感動したことを覚えている。
それぞれの方々が、初めての長旅をして遠い/\肥後の国へ入られるについては大いに心細いことであったことは、想像に難くない。
恕斎の細やかな心配りが御夫人方や、供の女性たちの心に大いなる安らぎをもたらした。

偶然だが今日は韶邦公が「隠居」された日である。韶邦公にとっては思いがけない改革派が朝廷の力を借りた圧力によるによるものである。
韶邦公は上洛しここで、東京定住を申し渡され、東京に新邸ができるのを待つことになる。峯夫人も上京された。
一方顕光院や鳳臺院は東京へ戻られることもなく熊本の地で亡くなられた。

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■清水才助の手討ち事件

2025-05-02 06:54:59 | 人物

 私が収集した古文書類をどこに託そうかと頭を悩ませながら、内容を確認しながらリストつくりをしている。
そんな中に寛文九年閏十月廿一日日付の山田某氏の書簡がある。

  

 立田村山口に在宅する志水才助を見廻に訪れ、二人で立田山に出かけている。そんな中で薪をとっている者に出会い才助が咎めたところ、その者は鉈(なた)で切りかかり、才助は手に疵を受けたためやむなくこれを手討ちにしている。
当然のことながら奉行所に届けられたのであろう、一緒にいた山田某に問い合わせがあった為に提出された文書の「控」である。
志水才助と云えば、宝暦のころ重賢公の下で活躍し、のちには中老迄上り詰めた治兵衛清冬が有名だが、侍帳を見ると寛文年間才助の名前は見えない。
しかし、「寛文四年六月・御侍帳」に「長岡監物組 二百石」の「金右衛門・清延」がありこの人物に該当するものと思われる。
平常は「才助」の名を使われていたのだろう。
ちなみに「熊本藩年表稿」を眺めてみたが記録はない。一方的に相手方が悪いこのような手討ち事件は記録にもとどめないのだろうか。
そんな事件があったことを知りうるこのような書簡は貴重品である。私はこのような表に出てこない稗史が大好きである。  

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■「十三人の刺客」と宇土細川家

2025-04-11 07:00:59 | 人物

 「十三人の刺客」という凄まじい映画があった。暴虐の限りを尽くす明石藩主を暗殺しようと幕府は13人の刺客を仕立てて殺害するというものだが、真実の話ではない。
しかしながら、まんざらなかった話でもなかったようで、いろんな話をつまみ上げてこの話は作り上げられているようだ。
劇中ではその暴虐の限りを尽くしたのは、松平斉韶だとしているが本当はそんな人物ではなかったようで、実は養子で入った徳川家斉の子・斉宣の所業を模したものともいわれる。

 この事とは全く関係ないが、実は宇土細川家の藩政時代最後の殿様・行真公の後室が、明石藩主・松平斉韶女の六女・里子である。斉宣の姉にあたる。

 松平斉韶の跡を継いだのは嫡男ではなく、徳川家斉の26男・斉宣だが、参勤交代の途中尾張徳川家の領内で行列を横ぎった3歳の子供を無礼討にした。
尾張藩は大変怒り明石藩の領内の通行を禁じた。これにより明石藩は行列を建てて通行することが出来ず、藩士はバラバラになって密かに領内を通ったという。
後日談があり、この3歳の娘の猟師である父親が、この斉宣を鉄炮で殺害したという話が残る。
20歳の若さで亡くなっているがその死亡年が天保15年5月10日であったり、甲子夜話によると弘化元年6月2日と食い違いがあるが、グレゴリオ暦に於いては共に1844年であり事件そのものは世上では知られたものであったらしい。
明石藩松平家のその跡は斉韶の嫡男が跡を継いでいる。明石松平家に於いては「13人の刺客」は史実ではないし、迷惑この上もない話だ。

 一方宇土細川家に於いては、行真の男子二人はそれぞれ津軽家(行雅)ならびに佐伯毛利家(高範)の養嗣子となっている。
毛利家の女子・千代子は近衛文麿夫人であるが、津軽家も又近衛家とは非常に近い間柄でありのちに津軽華子姫は常陸宮妃となられた。

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■細川藩士・中根氏と旗本中根氏

2025-04-10 07:02:24 | 人物

               中根家家紋 家紋 一覧抱き茗荷 に対する画像結果  抱き茗荷紋

 近世初期、江戸幕府に於いて大目付などの要職に就いた中根正盛という人物がいる。
隠密機関の元締め的な仕事をして家光の側用人なども務めている有力旗本として知られる。
この中根氏は、平清盛の叔父忠正の七男である七郎正持を祖とする一族だとされるが、「正」の字を通名とする。
細川藩には、1,000石取りの中根丈右衛門家(南東26-1)と、その分家である中根市十郎家(南東26-8)の二家が存在するがこちらも通名
は「正」の字を使われている。初代中根市左衛門は、旧加藤家家臣で「山田太郎右衛門与・600石」であった。
中には六代正勝なる人は、手慰みで金工を行い「左右大透雷紋文図鐔」を残している。(2011・2目の眼-肥後鐔)
家紋は共に「抱き茗荷」女紋は「揚羽蝶」である。

 柳営補任を見ると「中根大隅守正朝=元祿八亥(1695)二月十八日大御番頭ヨリ同十丑八月廿三日御側」という記事があるが、この人物が
大御番頭を勤めていた時期、中山道の熊谷宿で宿をとろうとしたところ、参勤途中の萩の藩主・毛利氏が宿をとっていた。
中根氏は宿の譲り合い「片頬打ち」を申し入れたが毛利氏が断った。中根氏は宿場の手前の広い場所で、家紋の幕を打ちまわして与力・同
心などが武具をだして篝火を炊き一夜を明かした。
翌朝、毛利氏が出立すると、中根氏の陣所で行方を塞がれたので、道を明けるように申し入れをする。
今度は中根氏がこれを断った。「片頬打ち」は幕府が定める御定法であったが、これを毛利氏が拒否したことによる。
大御番頭の役儀をもってしても、江戸へ入れることは出来ぬとの答えである。使者は驚き帰って復命する。
毛利氏は仕方なく家老を派遣して陳謝する。陳謝のために家老を派遣する事は大名にとっては痛恨事である。
中根氏はこれを受け入れ、陣払いをしたがそれは意図的であったようで大いに時間を費やした。毛利氏は昼過ぎに至りようやく出発したが
江戸到着は大幅に遅れ、登城にも影響した。(松浦静山・甲子夜話)

 細川藩における中根氏は、このような一族の関りが重視されて「番頭」等の重職を勤めている。
著名な家臣が多い細川藩だが、このような人脈は幕府に対する有力な外交の力となっている。

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■細川護美公薨ず

2025-04-08 07:11:25 | 人物

細川護美 明治三十九年(1906)四月八日薨ず、年65。東京品川六石に葬る、碑面従二位勲一等長岡護美卿之墓と題す、
細川家12代齊護の第六男、長岡良之助、喜連川金王丸・同 左兵衛督紀氏・復して長岡良之助、從五位下左京亮、参与職、
軍防事務局補、第二軍副総督、軍務副知事、熊本藩大参事、麝香間祇候、特命全権大使、元老院議官、高等法院陪席裁判官、
貴族院議員、錦鶏間祇候、従二位勲一等、子爵、号雲海・簾雨。

  兄護久と共に細川一族では最高位の従二位に叙され、勲位については護久よりも高い勲一等となっている。
  何といっても彼の武勇伝は、嘉永3年5月に足利氏後胤・喜連川熙氏の養嗣子となったが、安政5年4月突然家を飛び出し
  ている。
家臣たちが必死に追いかけたが、空しい結果となりのち正式に離籍して、細川家に戻った。
  長兄・韶邦の隠居後は兄・護久と共に藩是を親朝に導き、藩政の改革に努めた。廃藩置県後熊本を離れ八年間海外留学
  をして帰朝し、別家を興すとともに明治12年子爵に叙せられた。

  明治三十九年四月廿五日子爵細川利文の第二子・利功が後嗣となり名を護孝と改む、
  

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