津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(13)

2010-06-30 08:02:34 | 歴史
     ■五月廿日 雨降晴天(?・ママ) 当番小篠次大夫

一、備後ノとも(鞆)より、かないかり(鉄錨)大小七ケ、御船頭加来久二郎つミくたり候、鉄目百貫
   三百め、此代銀百八拾弐匁三分六リン、銀壱匁ニ付、鉄め五貫五百め宛、鏡善右衛門請取 1

一、大坂へ、竹屋喜兵衛上下六人・御飛脚一人差上候付、弐拾丁小早壱艘申付候事 2

一、四月廿九日之 御書、五月廿日巳ノ刻ニ、沢村大学使者持参、頂戴仕候事 3

  鏡善右衛門ニさしかミ遣候也
一、嶋津殿(家久)之大豆船十三端帆、筑前三崎にて、はやてニ相候て、苫ヲ捨申候故、爰元ニて
   苫かい申度候間、申付候様ニと申候ニ付、御年寄衆より、■苫弐百帖可相渡被候へ間、善右
   衛門ニ可申渡事 4


     ■五月廿一日 雨フル 当番浅山清右衛門尉

  善右衛門ニ申渡事
一、大橋ノ貫、水出候ハゝ、ぬき可被申候、付り、番舟上川上下ニ、前廉ノ■今壱艘加、弐艘置可
   申候、川上ニは、なかれ懸り候物取上ケ候舟、弐艘可申付候事 5

  廿二日ノ覚書ニ在之                 ■■御代官御惣
一、平野喜左衛門殿御扶持方五拾人扶持ノ内、○正月下迄庄やニ被預置米事 6


     ■五月廿二日 晴天 当番仁保太兵衛

  さしかミ調候て、正木勘十郎ニ相渡也
一、松ノ丸ノへい地門ノかき(鍵)、打なをさせ候事 7

  さしかミヲ調、郡奉行衆へ持せ遣候也
一、呼野へ遣そはからの切手ノ事 8

  田中與左衛門ニ、有米吟味被仕候へと申渡候
一、平野喜左衛門殿御扶持方残米之事 9

  高見與兵衛ニ、さしかミ遣候也
一、田川郡中元寺山二て、舟板仕出シ候小屋道具、木数大小六十本・手子木三十本、又、板出
   シ候時之すり木、相渡候へと、さしかミ可遣事 10

  右十七日之覚書ニ在之■く、差紙に書うつし、遣候事
一、田川郡河口分一之取様、差紙調、遣事 11

  桜井五兵衛内、廿四日より、呼野へ御番ニ被罷越候事
一、御金山南ノ口屋御番ニ、竹内作丞ニて候へ共、煩候間、替を可遣由、大学殿・利斎より申来事 12

  別ニ無之故、明俵ヲ渡候へと、申付候也
一、浜手之塀ノ御用ニ、すさわらの事 13

  弐十五人扶持ノ外ニ、壱ケ月ニ弐石四斗三升七合五夕宛、但、四月卅日ヨリ六月晦日迄ニ、五石六斗八升七合五夕相渡
   候也、留主居自恩寺ヨリ、さし出ヲ取、吟味候上ニて、如此也

一、津川四郎右衛門殿(辰珍)賄米之事 14


     ■五月廿三一日(ママ) 晴天 当番小篠次太夫

  御年寄衆へ相尋候へハ、取立可申由被仰候、其旨浅見五兵衛ニ申渡也
一、上毛郡内赤熊村與三、未進壱石壱斗八升有之を、麦ニ而取立可申由ニ、御惣談ニ而被仰付候
   へ共、根付成かね可申由、御代官理被申事 15

  竹や喜兵衛ニ相渡、京吉田へ進上候事
一、大道打、宣貞打ノ御腰物弐腰、とき(研)・はゝき(鎺)出来候事 16

一、御薪船〃頭嶋田甚大夫、五月廿三日ニ、出船申付候事 17
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家御医師・江村氏

2010-06-29 12:37:20 | 歴史
本能寺と信長
藤井 学
思文閣出版

このアイテムの詳細を見る


【内容】
織田信長の法華宗や茶の湯との深い結びつきを、史料にもとづく史実と豊富な挿話を折り込み描く。

【目次】
四条坊門西洞院の本能寺
土倉の沢村と本能寺
南蛮寺と茶屋屋敷
本能寺の変
信忠の自刃
光秀無残
本能寺の信長廟
唐物の茶の湯
つくも茄子の茶入
信長の名物狩〔ほか〕

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この中に「茶人江村栄紀」なる項がある。京都の著名な茶人である栄紀は、かっては備前三石の城主であったという。栄紀は信長の名物狩りによって、所蔵の「ももしり(桃尻)」を召上げられた人物として有名である。詳しく読んでいたら、加藤清正に仕えたという御医師専斎は、その栄紀の孫だとあった。細川家の医家・江村氏が、専斎とつながりがあると考えていたが良く判らないできた。この本と「肥陽諸士鑑」をながめていたら一気にこれが判明した。

茶人   和歌・連歌  御医師       儒学者
 栄紀---既住---専斎---+---宗眠---+---○
                 |       |
                 |       +---節斎---+---悰陸・・・・・→細川家医師
                 |                |
                 |                +---左七郎    以後不明
                 |
                 +---宗祐・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家医師 

  【江村専斎とは】 ja.wikipedia.org/wiki/江村専斎




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(12)

2010-06-29 08:45:15 | 歴史
     ■五月十九日 晴天 当番仁保太兵衛

一、辰ノ刻ニ続兵左(右)衛門(敦行)病死仕候事 1

  御うえ木しこねさる様ニ候ハゝ、其侭もがりかきを被置候へと、申渡候事
一、西ノ紺屋町之後、土手きわニ家在之ニ付、もがり垣を土ての上ニ在之を、其まゝ召置候様ニと、
   吉田少右衛門登城候て、理被申候事 2

一、上田忠蔵、長崎へ御用ニ付被参ニ付、前廉ハ上下三人ニて参候へとも、此度ハ上下四人ニて
   罷越度由被申候、又、物を書、算用を仕候者壱人相添候様ニと、被申候事 3

  惣談ニて、今程は指延候也
一、長崎へ之遣、小早之事 4

  五月廿三日出船候て、罷上候事  九端帆
一、小倉より御薪・生酒積上せ、御舟頭ノ名嶋田甚太夫 5

  五月廿日ニ出船仕、長須浦へ廻ル   九端帆
一、宇佐郡長洲より上ル、御薪船之船頭名河野惣右衛門 6

  五月廿日ニ出船   十一端帆
一、北前へ御材木積ニ遣船、〃頭名中村喜兵衛 7

  中津御奉行へ再報一つ、御郡奉行へ返事一つ、兵左(続敦行)果候儀ニ付状一つ、以上状三つ、遣候ひとつニ包候て遣候
一、宇佐郡より宗廓請藪之儀ニ付、中津御奉行衆より返事、并惣庄屋死跡吟味之書物、持せ被越候
   飛脚、巳ノ刻ニ状共持参候事 8

  (宇野)弥右衛門所へ、さしかミ遣候
一、木刀之鍔弐十ぬり申御用ニ、御うるし、十匁安兵衛請取申度由申候事 9

  御鷹之足皮ニ被成 御付候御印ハ、式ア少輔殿(松井興長)へ相渡申由、被申候事
一、御鷹師中村源右衛門、四月十九八日ニ、江戸を出立由候て、五月十九日巳之刻ニ下着候事、付
   り、御餌ノ代銀弐十五匁算用事 10

  則、申渡候也
一、竹屋喜兵衛、急之便舟次第、可差上ス、御意事 11

  廿一日之惣談帳ニ有之
一、上毛郡赤熊村與三未進之事 12

一、(上毛郡)広津之渡舟作らせ申候事 13

一、浅見五兵衛被参候間、家儀申渡候事ヘハ、家をとき候て、取候へと、六左衛門方へ返事仕候由、
   被申候也 14

  さしかミ、当御郡奉行衆へ遣候也
一、溜池御田うへ申ニ付、女三十人・男十二人・牛二疋、来ル廿四日ニ入申由候事、付 15

  切手めい■/\二遣候也
一、御田うへニ、米六斗・塩三升・味噌二升可遣事 16

  酒ハかい物奉行ニ、さしかミ遣候、さかなハ町ニて、あミ打をやとい、山路太左衛門前之ほりニうたせ申候也、奉行ニ吉田助
   右衛門尉申付候
 
一、右の御用ニ、酒弐斗、さかなの事 17

  (5)(6)(7)において登場する九端帆・十一端帆についてはっきりしない。あるサイトに次の様にあったので引用してご紹介する。
   九端帆とは帆の大きさ(面積)が9反分の船のことで、100~200石(15~30t)位の積載量だったと考えられます。(明確な寸
    法規定がないのではっきりしませんが、当時の帆はむしろ折で1反が幅90cm×11m位ではなかったかと推測されます。)

  (15)(16)(17)は御田植に関する記事、42名に対する給金が(16)、(17)の酒・さかなが振舞われたが、さかなは山路家の前の
   ほりで人を頼み投網で調達したというのである。果たしてその収穫は?

  

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうなる「大相撲」・・?

2010-06-28 17:29:06 | 徒然
 名横綱と称えられた双葉山は、横綱になった直後目白の細川侯爵邸に出かけている。昭和11(1936)年1月・5月場所で連続優勝して横綱に成った。その直後のものと思われる。当時はまだ熊本に相撲の神様「吉田司家」があり、細川家への横綱の挨拶は恒例と成っていたようだ。
我が家に数葉の当時の写真が残されている。私の祖父が当時細川家の家政所にいた関係で此の写真が残されている。土俵入りの写真や、横綱を囲んでの集合写真は40名ほどの人で溢れ返っている。祖父も移っているはずなのだが、よく判らない。

 ところで双葉山の時津風部室も今回の騒動で揺れている。死亡事件や朝青龍事件、木瀬部屋事件そして今回の大事件と、協会の対応の拙さが際立っている。名古屋場所も止めたほうが良かったのではないかと思うが如何・・・

 こんな有様では信頼と人気を挽回する事は、至難の技である。貴乃花親方を理事長にするくらいの大英断が必要なのかもしれない。(難しいか・・)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(11)

2010-06-28 11:29:30 | 歴史
     ■五月十八日 当番浅山清右衛門

  善右衛門ニ申渡、十九日ニ御加子を乗せ候て、廿日ニ出舟
一、北前、御舟壱艘可遣事 1

  善右衛門ニ申渡候
一、大坂へ御舟壱艘可遣事 2

  上林甚介・野瀬少左衛門与ニ申渡、竹木ノ枝おり申者とらへ、上ケ候へと申渡候也
一、小倉土手廻り、竹子・杉枝おり候由、大学殿(沢村吉重)より申■■間来候事 3

  善右衛門ニ申渡候也
一、江戸へ飛脚上せ候小早、壱艘可申付事 4

  くわんおんノ米ノ内ニ入、貸付可被申由、ゐ兵衛(田中氏久)・小左衛門(野田幸長)ニ申渡候事
一、清水ノ木ノ枝売候代米、六斗六升七合五夕有之事 5

  和斎弥左衛門・尾方五兵衛方へ指帋遣也
一、御弓・鉄砲衆持候なたかま、七百拾三丁出来候事 6

  御意無之ニ、御無用之由、御年寄衆御惣談候事
一、平戸佐川主馬・松浦太郎左衛門方へ御信音信事 7

  河喜多五郎右衛門方へ差帋相添、遣也
一、大藪小左衛門、元和七年分ノ塩ノ算用帳目録、大藪十太夫上ケ申候事 8

  頭孫太夫、御掃地ノ者四人助五郎、三人御葉さミ箱持、一人御そうり取、合五人也
一、御本丸・北ノ御丸御路地掃地事 9

  惣市遣候也
一、とうゆノ番替事 10

 (1)(2)(4) 全て舟の手配に関する記事である。 鏡善右衛門は船頭頭である。
 (6)以前の記事にあったが、御弓・御鉄砲衆へ供給される、なた・かまが出来上がった。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(10)

2010-06-27 20:54:00 | 歴史
     ■五月十七日 当番小篠次大夫

  御米ハ積仕廻次第ニ、運上取可被申候、薪其外ハ月切ニ運上取被申候へと、小川彦左衛門・小崎太郎左衛門へ申渡候事
一、田河郡川渡衆、五分一運上ノ事 1

  売主ノ切手めい/\被有候事ハ無用候、其近所ノ庄やニミせ、判形取被申候事
一、同薪・売竹木、万売物ニ川船ニ積出シ申物、売主之切手を取置、已来御算用ノ証跡ニ可仕候事由、 
  吉留太左衛門被申候事 2

一、つゆニ入、水出候時、大橋之貫を取置、橋ニながれ懸り候物取申御小早、御付置被成候事 3

一、橋下ニ番舟今壱艘有之、外ニ、壱艘可被渡申付候事 4

一、貫を取申時、差紙ノ叓 5

  河喜多(正直)、財津(久七)所へ切紙遣也
一、山本宗寛藪年貢事 6

 6、山本宗寛 三郎右衛門・正倫、正倶  
     元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に
     仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候
     と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍
     置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時
     三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を
     被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死 (綿考輯録・巻五)

   藪 図書一成カ
     中村一氏家老近藤左近養子、同家断絶後牢人 元和三年忠興に仕、牢人分にて知行
     千五百石 内匠歿後知行召上られ、新知二千石 本姓藪に改 承応元年八月十日歿

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄砲を手放さなかった百姓たち

2010-06-27 12:41:25 | 書籍・読書
  今日の熊本日々新聞の「文庫&新書」の推薦本として紹介されている。ちょっと興味をそそられている。

鉄砲を手放さなかった百姓たち 刀狩りから幕末まで(朝日選書)
武井 弘一
朝日新聞出版

このアイテムの詳細を見る


【本の内容】
1543年、日本に鉄砲がもたらされた。このかつてない最強の兵器・鉄砲が、戦国の争乱に終止符を打った。そして豊臣秀吉の「刀狩り」により、すべての武器が没収され、民衆は武装解除されてしまった—!?日本人は鉄砲を取り上げられたわけではなかった。それどころか、江戸時代の百姓は戦うことを本業とする武士よりも鉄砲を多く持っていた。「鉄砲改め」を行った家綱、「生類憐みの令」の綱吉、鷹狩り好きの吉宗からアウトローが跋扈する幕末まで、2世紀にわたる泰平の世を築いた江戸幕府の下で、百姓たちはなぜ、どのように鉄砲を死守していったのか。将軍の行う「鷹狩り」は銃規制とどのように関係したのか。銃の摘発強化のなかで、幕府・役人・鳥獣としたたかな攻防をくり広げ奮闘する百姓たちの姿を、江戸時代の文書を一つ一つ丹念に読み解きながら描きだす。


【目次】
はじめに—鉄砲を手にした百姓
第1章 鉄砲改めの始まり—家綱政権(一六五一~一六八〇)
第2章 生類憐みのかげに—綱吉政権(一六八〇~一七〇九)
第3章 復活した鷹場とともに—享保の改革(一七一六~一七四五)
第4章 暗躍するアウトロー—大御所時代(一八三七~一八四一)
第5章 上知令とあわせて—天保の改革(一八四一~一八四三)
終章 鉄砲を選んだ百姓
おわりに—“武器”から“農具”へ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あゝ屏山先生

2010-06-26 12:09:29 | 歴史
 水足半助安直という人がある。「肥後人名辞書」は次の様に紹介する。

 水足屏山 名は安直、字は仲敬、半助と称し屏山と号す。昧斎漁軒、成章堂等の別号あり。
        浅見絅斎に学び經義文辞皆顕はる。藩の文学となり禄百石を受く。弟子殆ど千 
        人、著書百余巻、家難によりて歿し、家禄を除かる。時に享保十七年四月九日、
        享年六十二。飽託郡池上村谷小崎に葬りしが、後年菊池郡黒石本宗に改葬す。

 水足氏は山城国水垂(ミズタリ)村の人で、大阪川船頭であった初代五郎右衛門が忠利に仕えたことに始まる。五郎右衛門の子、兵九郎・吉兵衛と兵九郎の子五助の二流三家が明治に至っている。

 さて、屏山は吉兵衛の二男(三代・庄三郎弟)とされるが、「肥後人名辞書」はその死を「家難によりて」と記している。その詳細については「續肥後先哲偉蹟-巻二」に次ぎのように記す。

 享保十七年四月九日、屏山妻前原氏、近隣の笠井源右衛門と密通せしことを聞きて、博泉(嫡子)と
共に、笠井を打果に行きて、笠井が設けし機に陥て、父子共に手負へり、同村居住の長谷川忠右衛門、
吉田善右衛門、同嫡子平九郎三人馳付、笠井を討捨たり、屏山は其日歿せり、博泉は治療平癒の後、
暇を賜はりて家亡ひたり


 なんとも悲惨な話しではある。博泉も父・屏山に劣らぬ優秀な人物であったが、母の過ちによってあたら人生を棒に振ってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川家家臣・妻木氏

2010-06-26 11:26:50 | 歴史
 細川家家臣妻木氏といえば、ガラシャ夫人の生母・妻木氏の一族と考えるのが妥当な処であろう。                    ja.wikipedia.org/wiki/妻木煕子
しかしながらその繋がりは確認できない。

 初代勘左衛門は細川光尚代寛永二十年江戸で召し出されている。先祖附は「長門国岩永の者にて」と記しているが、土岐一族妻木氏が何故長門にいたのか謎ではある。三百石という馬乗格であり妻木氏という由緒によるものであろう。

 春日局の末子で徳川忠長(家光弟)の家臣であった稲葉正利は、家臣として連座の罪に問われる。忠長の高崎配流-自害の後、寛永十一年正利は肥後細川家預かりとなり、赦される事無く熊本で歿した。春日局にとって唯一の痛恨事であったろうし、暗に自害を薦めたという話が有る。
承應二年妻木勘右衛門はこの正利御附と成っている。共に明智につながる人間としての配慮があったのだろうか。

 明智左馬助の家系である三宅家と、菩提寺(海福山泰陽寺)が同じであるのも何か因縁めいている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸図屏風の謎をとく

2010-06-25 18:38:21 | 書籍・読書
                        本日が発売日です・・・

江戸図屏風の謎を解く (角川選書)
黒田 日出男
角川学芸出版

このアイテムの詳細を見る


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この著書に紹介されている「江戸天下祭図屏風」紀州徳川家が描かれているらしい。
水野勝之氏(福山・結城水野家当主)・福田正秀氏(熊本在住歴史家)共著による「加藤清正『妻子』の研究」の刊行以来、紀州徳川家-水野家-肥後加藤家の新たな真実や関係がよく知られる処となり、研究者の評価を得て新たな研究の糧となっている。絵画研究の第一人者であるという著者もまた、この著書を参考にされているという。そしてこの屏風絵には、徳川頼宣や瑤林院(清正女)の姿が書き込まれている事を明らかにされた。それがどういうものなのか興味津々である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする