津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

来年は庄内藩・・・熊本は?

2006-05-31 16:31:55 | 徒然
 5/27「藩校サミットin高遠」が開催されたことを、熊本から出席されたN氏からご報告を受けた。来年は藤沢周平の故郷鶴岡で開催されるとの事。熊本も誘致運動が始まったみたいだが、庄内の次かな・・・?
http://www.tsuruokakanko.com/spot/spot1-3.html
庄内藩校致道館は観光スポットになっているようだが、庄内といえば「海坂藩」藤沢周平の世界を旅してみたいなー。
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驚き入ったこと

2006-05-28 17:51:36 | 徒然
 あることでご連絡することがあり、細川内膳家のJH様にメールを差し上げた。早々にご返事を頂戴したが、そのなかにヤフーオークションに「茶人・佐久間不干斎書状、細川家臣久野次郎左衛門宛元和六年」と云うものが、出品されているとの情報を頂戴した。ご丁寧にアドレスまでご教示いただいたので早速開いてみると、まさに珍品である。
http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g41586620
説明によると、次郎左衛門が不干斎の推挙により、細川家に召し出された経緯がかかれているらしい。佐久間氏については、盛政のご子孫とここ数日メールのやり取りをしているし、久野氏については「久野氏」の研究一筋の愛知の大島氏との過去の交流がある。
それぞれに、情報をお知らせしようと思う。詳細に眺めていたら、久野氏に係る情報について、当方サイトが利用されていることが分った。お役に立てば大変結構なことだが、いささか驚き入ってしまった。さて、このオークション結果はどうなるのだろうか。参加してみたい気持ちもあるのだけれど・・・・
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三島由紀夫著「奔馬」を読む

2006-05-27 10:14:11 | 書籍・読書
 三島由紀夫の「奔馬」の作中にある、「山尾綱紀著・神風連史話」が読みたくなって、「豊穣の海」シリーズ「春の雪」「奔馬」を読む。この「神風連史話」はもちろん三島の創作であるが、石原醜男著「神風連血涙史」がベースになっているという。作中約40ページにわたり、この「神風連史話」が披露されている。(新潮社・三島由紀夫全集13)三島のあの壮烈な死を思うとき、この作品は一つのヒントを与えてくれるのではないかという思いがあった。最後の主人公の死のシーンは、彼が理想とする純粋な死の形であったのだろう。彼のなかにあった神風連への思いが、如何に大きいボリュームであったのかを改めて思い知った。800頁に及ぶ、三島の耽美の世界に数日はまり込み、些かの疲れを感じている。
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大きな収穫

2006-05-26 08:55:48 | 徒然
 「他力本願」を標榜して始めた我がサイトだが、ここ半月ばかりの間に、いろいろのご報告を得て大きな収穫を得た。ここでお名前を出すことは差し控えるが、感謝申し上げたい。
  1、田辺籠城衆のご子孫 お二人が判明
    灯台下暗し、森四郎次郎のご子孫のお住まいは、歩いて二十分、近々御目
    にかかるお約束をしている
  1、肥後藩士・浅井氏が、浅井長政二男万菊丸(直政)の子孫であったこと
    杵築史談会の久米忠臣氏に感謝
  1、金沢城主・佐久間盛政(柴田勝家・甥)のご子孫
    我が「新・肥後細川藩侍帳」を御覧になってのこと、肥後佐久間氏の研究
    が始まる
 
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出典

2006-05-24 18:17:47 | 徒然
 金沢の或る方からメールをいただいた。わが「新・細川家侍帳」に一族の名前を見つけられてのことだった。名前というよりも、「○○○○の子孫、寛永二十一年光尚により召し出し云々・・のち三千石」の書き込みを手掛かりとされたようだ。そこで、この書き込みの出所は何処だろうかとのお問い合わせである。「しまった、書き込んでいない」さてさてと、頭を巡らすが思い出せない。「侍帳」の原稿二千数百ページは、保管するのも面倒で既に処分してしまっている。「多分あそこあたりだろう」と見当はつくが、史料が手許に無い。今度の土日は図書館通いと相成る。出典のはっきりしないものは、書き込まないのを原則としていたのだが・・・イカン、イカン。
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「戦国武将の胤」に登録

2006-05-22 19:13:13 | 歴史
 杵築史談会の久米会長から、浅井長政の二男万菊丸の紹介についてご了解を得たので、いよいよ当サイト「戦国武将の胤」に書き加えようと思う。万菊丸は生後間もなく、密かに福田寺に預けられた。このことは周知の事実であった。その後万菊丸は二人の家臣の手により、九州の杵築に落ち延びた。慶長五年、杵築は細川家の所領となる。万菊丸は覚右衛門直政と名乗り、細川家の庇護を受ける事となる。老年に至り病を得、細川家家臣・牧左馬允の知行地の杵築に身を引くことになる。細川公の肥後転封に伴い禄を返上して、慶安元年76歳で亡くなっている。その嫡流が肥後藩士となり、二男家は後の杵築藩(能見・松平家)家臣となって枝葉を広げている。数奇な運命に翻弄された三人の姉たちと、九州に安らぎの地を見つけた覚右衛門・直政(万菊丸)は相見えることは無かったのだろうか・・・
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TV相撲観戦

2006-05-21 18:35:33 | 徒然
 随分久し振りのことだが、TVの前に陣取って相撲観戦。千秋楽の雅山と白鵬は、それぞれ素晴らしい勝ち方で、共に十四勝一敗、優勝決定戦となった。雅山は突き押しが威力を発せず、四つに組まれるとやっぱり白鵬の左が強い、大関昇進後の場所での白鵬の優勝は価値がある。雅山も大関復帰の足掛かりが出来た。
 もう七八年前、仕事の関係で相撲好きのクライアントの招待を受け、二度ほど熊本場所を、砂かぶりで観戦したことがある。小錦の余りの大きさに吃驚したり、鬢付け油の匂いや、黒の羽二重まわしの美しさに感動したりしたものだ。例の貴乃花事件(?)にうんざりして、TVさえ観なくなってしまったが、モンゴルその他の外人勢の活躍で人気は復活するのだろうか。さてさて白鵬関、来場所で横綱を手中にすることができるだろうか。かっては、横綱に昇進したら、必ず相撲の神様熊本の「吉田司家」で免許状の授与式が行われていた。その「吉田司家」も当主の不祥事でとうとう無くなってしまった。残念無念。
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アーイラービュー、アイラビュー ♪♪

2006-05-20 11:31:01 | 徒然
 TVのコマーシャルで、また「ちあきなおみ」がいい歌を歌っている。「なんとかの小道」だよな、と思いつつもいつもの如く曲名が思い出せない。誰が歌っていたのかも分らない。「ちあきなおみ」でぐぐってみたら、ブログなどを含めぞろりと出てきた。そうだ「星影の小径」だった。(道でなくて、径というのが思わせぶりでいい)甲高い声で人気があった「小畑実」が歌っていた事も思い出した。昭和25年の作品だそうだが、女性は「美空ひばり」、男性は「小畑実」の時代があった。最近は外に飲みに出ることも余り無いので、カラオケもご無沙汰だが、ちょっと歌ってみたい気持ちになった。ぐぐって出てきたCDにも気が引かれて、買ってみようかと気が傾きつつある。
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縄文顔

2006-05-19 19:28:41 | 徒然
 「○○鼻に佐久間黒」この言葉は、戦前の細川侯爵家のお役間で日頃使われていたらしい。○○は当方の名字、我が家は代々鼻がでかい。佐久間様は色が黒かったらしいが、何方なのかはっきりしない。護立侯が名付親だと母から聞いた。現代日本人の顔は、縄文2.3割、弥生7.8割で混血しているというが、我が家は代々縄文顔系統のようだ。髭は濃いほうではないが、鼻も目もでかい。顔の骨格も細面ではないし、ソース顔というより、ケチャップ顔なのかもしれない。国立科学博物館のポスターに「縄文VS弥生・ガチンコ対決」と云うのがあって、評判らしいが、あの美しい女性の表情を見ると、縄文顔もよきかなと思う。未婚の二男のお嫁さんは、とびきりの弥生顔の方をと密かに思っているが、さてさて・・・・。
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徐福の子孫

2006-05-18 21:56:32 | 徒然
 私の親族に関する資料入れのなかに、「日本徐福会」の号外なるものが入っている。亡き母の従姉妹(故人)の家は、長曽我部氏に仕え、後細川家家臣となったH家(当主は子息)である。この家が徐福の子孫と称し、系図が存在するという。徐福会の号外は、会の設立に当たって発行されたものであり、記事によると1991年5月13日に開催されている。会長は巌谷大四、副会長に尾崎秀樹、早乙女貢などの名前が見え、H氏が名を連ねている。森繁久弥とか梅原猛、佐治敬三、千宗室、團伊玖磨、横山隆一等々の他錚々たる方々の名前が、理事や顧問として記載されている。当時の東京新聞には「子孫名乗る人もいて」と、系図を指し示すH氏の写真が掲載されている。BC278年生まれで、BC208年に亡くなったとされる徐福は、BC219年数千の人と共に不老長寿の薬を求めて出国したとされ、日本に上陸したとされるが、当時の日本はどのような国であったのか・・・記紀の時代か? 我が家の五代目の奥方は、このH家から嫁いでいる。と云う事は・・・・いささか困惑する話でもある。ちなみに和歌山県新宮市にある徐福像が、H氏にそっくりなのに驚かされる。
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英訳・・これはaccsident

2006-05-16 23:22:58 | 徒然
 今日、某外語専門学校からメールが届いた。なぜ私に?「うそだろう」と思ったが当方宛てである。生徒さんに英語で履歴書を書かせているが、茶道の免許について英語ではどういうのかとのおたずねである。「薄茶、濃茶の免許をお持ちだという」肥後古流では、或る段階までの修養が進むと「相伝之証」と云うものを頂戴する。(私は十年ほどかかったが)これを戴いたから、すぐさまお弟子さんが取れるものでもないし、果たして「免許」に該当するかというと疑問がある。家元制度などというものは日本独特のもので、「相伝」などという英単語があろうとも思えない。hereditaryという単語があり、これが「相続」とか「相伝」と訳されているが、これなども親から子へ何かを伝えて行くというような意味であろう。「souden」とされて「日本の家元制度における、茶道肥後古流の免許(ライセンス)」と注記されては如何とご返事した。

 その後気になってしようがない。以前にも書いたが、日本の文化を紹介するに当たっては、翻訳の力が大変重要だと思われる。微妙なニュアンスを、どう理解していただくかにある。全くといっていいほど英語力の無い私に、突然降りかかった災難である。
(災難は適当じゃないかなー、accsidentは事故だろうし、misfortuneは不幸かな・・・どういう言葉が適当なのか、日本語も難しい)
 
 
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浅井長政二男・万菊丸のこと

2006-05-16 13:14:37 | 歴史
 浅井長政には、殺害された万福丸や三人の姫君(淀君・徳川秀忠室・京極高次室)の外に、生後間もない二男万菊丸がいた事は識者の知るところである。そのいく末は闇の中にあった。この度、くにさき半島歴史研究会の会長・久米忠臣氏のご研究により、熊本浅井家・杵築浅井家などが、そのご子孫であることが明らかとなった。三週間ほど前、相次いで情報をいただいた。杵築史談会発行による久米氏の論文「生きていた浅井長政・お市の次男、万菊丸」の事についてである。杵築浅井家の先祖附や、同家墓地、また熊本細川家との係りなどが明らかになり証明された。
 ぜひこのことをご紹介したいと考え、先生のご了解を得たいとお手紙を差し上げた。ご多忙の中、ご返事を頂戴し快諾をいただいた。著作権の関係があるため全文紹介は不可能であるが、できる範囲内でこのサイトでご紹介したいと考えている。
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最近の読書

2006-05-15 15:49:47 | 書籍・読書
1、孝明天皇と「一会桑」 文春新書・家近良樹著
   この時期の肥後藩の活躍は顕著である。歴史の真実は為政者により無視さ
   れ、自らに都合のいい「史実」を作り上げた。本当の歴史が見える佳書、吾が
   意を得たりである。
1、神社の系譜・なぜそこにあるのか 光文社新書・宮元健次
   「桂離宮から月を観る」の著者による神社建立の謎「自然暦」は「目から鱗」
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島津公の憂鬱

2006-05-14 14:21:03 | 熊本
 かって国道3号線は熊本城内本丸下を抜けていた。城を迂回する幹線道路が無かった。江戸期に於ては、新町口から入り、新堀口へ出たらしい。当然の事ながらいくつもの門があったろう。又、新堀口から出町口までは、約1キロほど両側に侍屋敷が続いていた。例えば薩摩の島津公などは、「大名が通る道ではない」と不快感を示したという。城内に入った処で、前後の扉を閉められたら籠の鳥に成るわけだから、気持ちのいい話ではない。前之宿場を早立ちして、早々に熊本城下をぬけたという。加藤清正によって縄張りされた熊本城だが、そこまで考えられて造られたのだろうか。そう考えると大変戦略的な意味合いが伺える。元々あった往還が、城の縄張りに取り込まれたというのが真実ではないのか。そのように熊本城は大きくなったのである。現在は三号線は大きく迂回しているが、熊本市役所前から、本丸の石垣下を京町口から出町口へ抜ける旧三号線は、今も車の量の多い幹線道路である。
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今日の熊本日日新聞

2006-05-14 08:31:15 | 新聞
 月一回の「中世・動乱の中の肥後 古戦場探訪」というシリーズものが始まった。第一回は「菊池武朝VS今川了俊・水島の戦い」今後が楽しみな企画である。
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