津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■熊本城調査研究センターの定期講座「熊本城学」の記録

2018-12-18 14:37:41 | memo

  桜の馬場城彩苑2階多目的交流室で、平成28年11月19日(土)を第1回として毎月行われている定期講座「熊本城学」は大変好評の内に26回を消化している。
熊本城調査研究センターのHPでは、その講演内容をPDFで紹介している。
熊本城に関わる貴重な資料が満載であり、熊本城の復旧作業なども知ることが出来て大変すばらしい。こちらは私がメモ代わりにまとめた「熊本城」に特化したものである。

 1回「熊本城の重要文化財建造物」
     講演者 熊本城調査研究センター所長 渡辺 勝彦
     PDF 配布資料「熊本城の重要文化財建造物」
 2回「熊本城の防衛術」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹 鶴嶋 俊彦
 3回「出土品が語る熊本城本丸御殿」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹 美濃口 雅朗
 4回「書状にみる熊本城築城」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事 木下 泰葉
     PDF 配布資料「書状にみる熊本城築城」
 5回「本丸御殿の発掘調査」
     講演者 熊本城調査研究センター主査 金田 一精
         PDF 配布資料「本丸御殿の発掘調査」
 6回「被災一年の経過と復旧方針」
     講演者 熊本城調査研究センター副所長 網田 龍生
      PDF 配布資料「被災後1年の進捗と復旧の方針」
 7回「城の基礎知識1」
     講演者 熊本城調査研究センター文化財保護参事 山下 宗親   
             PDF 配布資料「城の基礎知識1」
 8回「石垣の積み方ー石材の回収工事からみえてきたことー」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事 嘉村 哲也
           PDF 配布資料「石垣の積み方ー石材の回収工事からみえてきたことー」 
 
 9回「中世石造物が語る熊本城築城前のすがた」
               講演者 文化振興課文化財保護主幹兼主査 美濃口 雅朗
            PDF 配布資料「中世石造物が語る熊本城築城前のすがた」
10回「文禄・慶長の役と熊本城出土瓦」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹兼主査 美濃口 紀子    
     PDF 配布資料「文禄・慶長の役と熊本城出土瓦」 
11回「熊本城石垣の特徴と見方」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主任主事(宮城県仙台市派遣) 関根 章義
13回「熊本城と明治維新」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事  佐藤 理恵
               PDF 配布資料「熊本城と明治維新」 
14回「熊本城の天守」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主幹  鶴嶋俊彦
               PDF 配布資料「熊本城の天守」 
15回「熊本城修復史」
               講演者 熊本城調査研究センター文化財保護主事  木下泰葉 
              PDF 配布資料「熊本城修復史」
18回「熊本城天守の模型を読み解く」
               講演者 熊本城調査研究センター所長 渡辺勝彦
     PDF 配布資料「熊本城天守の模型を読み解く」
19回「熊本城と金峰山」
               講演者 熊本城調査研究センター 主査  金田一精
               PDF 配布資料「熊本城と金峰山」 
20回「お城の基礎知識2」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護参事  山下宗親

21回「地震による石垣崩落状況の分析」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事  嘉村哲也                           
      PDF 配布資料「地震による石垣崩落状況の分析」      
22回「加藤時代の建物移設と瓦移動ー古城から新城へ、支城から本城へー」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主幹  美濃口紀子 
25回「熊本城と近代化」
               講演者 熊本城調査研究センター 文化財保護主事  佐藤理恵 
               PDF 配布資料「熊本城と近代化」
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■大成武鑑の細川家

2018-11-19 09:02:15 | memo

 大成武鑑」から、細川家関係を抽出してみました。

          200019270_00061.jpg    こちらは左のページから(右ページ九曜紋は伊達氏)
          200019270_00062.jpg
          200019270_00063.jpg
          200019270_00064.jpg
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          200019270_00066.jpg
          200019270_00067.jpg
 

全てをご覧になりたい方は「国文学資料館」のデジタルサイトからどうぞ
 http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XMI2-07702

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■細川藩の郡政機構

2018-07-31 15:06:02 | memo

           +--根取
           |
           +--吟味役
           |
           +--上内檢ーー地内檢ーー副内檢
           |
           +--郡横目ーー在中横目
           |
           +--杣方ーーー杣人
           |
           +--井樋方ーー大工
           |
           +--惣塘支配役
           |
   郡方奉行ーーーー+--蔵方
    御郡間    |              +--手代ーーー下代ーー小頭ーー走番
           |              |
           |      +ーー惣庄屋ーー+--庄屋ーーー+--帳書
           |      |       |       |
           |      |       +--給人庄屋 +ーー組頭
           |      |               |
           +ーー郡代ーー+ーー横目ーー村横目      +ーー役頭
           |      |               |
           |      +ーー山支配役ーー山之口    +--蔵頭
           |      |               |
           |      +ーー地方普請方        +--五人組頭(伍長)
           |
           +--鶴崎會所根取

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■相良清兵衛について

2018-07-05 07:28:56 | memo

 こちらは寛永後期、人吉相良藩を震撼させた「相良清兵衛(犬童頼兄)事件」に関する史料である。 

              

              

上の貴重な写真データは熊本県立図書館が所蔵する[相良清兵衛屋敷其他絵図面]寛永十六年の七枚の内の二枚をご紹介している。
現在の球磨郡錦町の一武にあった外城と清兵衛の屋敷が描かれている。三の丸の左手のブロックが清兵衛の屋敷だが、下の屋敷図を見ると
「西東四拾六間」「北南五拾間」とあるから、2,300坪という広大な屋敷である。 

福山大学人間文化学部・吉永昭氏の論考【肥後国人吉藩「相良清兵衛騒動」覚書 : 騒動記を中心に】は、相良清兵衛事件や、お下事件など
寛永後期の人吉相良藩の混迷ぶりを研究された成果である。
これ等の事件については細川家記「綿考輯録」の中で清兵衛の動向などが書かれており、事件そのものは承知していたが、その詳細についてはほとんど承知していない。
熊本県立図書館の蔵書を検索しても、刊本としては次の様なものが見受けられるのみである。

 

 

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■享保20年~寛保3年 両(金)・銀・銭相場

2018-03-10 11:21:05 | memo

熊本藩町政史料(一・p48)から、享保20年(1795)10月の米相場は
    一米直段、公儀御達、江戸金壱両壱石四斗以上、大坂米壱石ニ付銀四拾弐匁以上
               (1石=0,714両)

つまりこの時期の金一両(江戸)と銀(大坂)の関係は、1両=銀58,8匁という事になる。

            

               
 
                金銀両替相場の変遷 金一両に対する銀匁 赤の実線は御定相場(ウイキペディア・江戸時代の三貨制度から)
 
又同様、熊本藩町政史料(一・p68)から、寛保3年(1803)の銀と銭の関係は
    一、御国中銭遣之儀、去戌正月より之双場ハ一匁六十文にて候、然処下方二てハ先年以来壱匁七十文遣之
      双場ヲ内証にて相究置、上之御格之双場と違両様ニ致通用如何敷候、然共文銀遣得斗折合候迄ハ其通
      ニ見合被置候へども最早文銀一式之通用候條、向後ハ七十文銭を以商売仕儀堅不致、六十文銭ニて諸
      色之直段相究候様被仰付候間可有其沙汰候、以上
          二月六日       奉行所
 
                
               
 
                  銭相場の変遷 金一両に対する文 赤の実線は御定相場(同上)
               この表のように文/両の御定相場と現実相場が乖離していることが判る。

 

 
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■幽齋公新年の発句

2018-01-03 17:59:32 | memo

天正七年己卯正月元旦の発句       あすと思ふ春やけふさへ朝霞
 天正八年庚辰   同          春といへば雪さへ花のあしたかな
 天正九年辛巳   同          きのふたつ春やむかしの雲霞
 天正十一年癸未正月元旦の発句      道しるといふばかりなる今年かな    知命の歳(50歳)
 天正十三年乙酉正月八日(立春)発句   立そはむ春の日数や八重霞
 天正十四年丙戌正月十五日(立春)発句  まつ立つや十日あまりの春霞
 天正十五年丁亥正月元旦の発句      去年たちし春もけふこそ朝霞
 天正十六年戊子正月の発句        む月たつけさやきのふの春霞
 天正十七年己丑  同          としは越ぬけふ鶯の関もなし
 天正十八年庚寅正月元旦の発句      吾妻路も手にとる春の霞かな
 天正十九年辛卯  同          としといひて春もむかへし今年哉

 文禄二年癸巳正月元旦の発句       たび衣はるをうらやむことしかな
 文禄三年甲午   同          百花の木のめもけふや春の雨

 慶長元年丙申正月元旦の発句       としはこえぬ春立までや八重霞

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■メモ・熊本の飢饉に関する記録・1

2017-05-13 10:56:23 | memo

 延宝九年(1681・元和改元)の九州筋巡見使、奥田八郎右衛門の報告書「九州土地大概」には、「餓死数万人」と記録されている。
実際熊本に入ったのは八月の事である。薩摩を廻り日向から南郷高森に再度入国、南関から出国している。
我が家の二代目・太左衛門が道案内を勤めた■天和二年の九州巡見使

            城下熊本              細川越中守(綱利)
         立賢無法、伊尹太公望皆然、肥州山鹿処士槇田安右衛門蓬窓ノウチヨリ出、郡司ヲ勤ルニ貢税重シ。
         斂不知恤民、故ニ田畑九納一ツヲ私田ニ遣ス、亦課役ヲカクルニ不計暇日、口米銀水夫銀ト号シ取
         納。納米タラサル者ハ出来銀ト云テ四壁竹木農具押ヘテ取納。然時、不得力農畝尽。旧年当春至テ、
         餓死数万人、可憐。父母凍餓、兄弟妻子離散。其国与民同利、不設禁。当時安右衛門以嬖幸進、以
         一人誤千万人ナリ。城下海近。後高山。左右大河。有畑鱗易求。侍屋舗町ニ至ルマテ、樹木暢茂。
         土地善トイへトモ、国政悪、民大ニオヨフ。

巡見使奥田八郎右衛門の報告は大変辛らつだが、また真実であったのだろう。




 

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未だ高し

2013-09-11 16:51:14 | memo
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memo 井門亀右衛門

2013-09-03 06:56:18 | memo

幽齋公田邊城籠城の際、攻め手の赤松左兵衛の家臣としてその働き振りを賞賛された物頭井門(いど)亀右衛門は、後忠興公により召し寄せられる。
その働き振りを綿考輯録は次のように記す。

赤松左兵衛陳の内より、母衣武者一騎かけ出、杉の馬場口へ乗廻し候躰如何様一ふし可有之と、城中各覚悟いたし候に、左はなくて、堀溝にかゝミ、引兼たる者共を可引取との儀にて、馬上にさいを振廻し、見方を招き、馬を乗廻し、順逆に輪を乗、静に引取候躰、見事なる振也、母衣は白赤、横に段々筋、母衣の出しは同毛三ッ羽子、間に蛇の目有、馬は栗毛とも、粟毛共見へ候、城中よりねらひ、鉄炮余多打懸候へとも、程遠き故か不中、此武者赤松左兵衛・物頭井門亀右衛門重行と云者也

 

   亀右衛門重行---+---亀右衛門重忠
             |         千石・若年にて相果、跡断絶
             |
             |  中津別禄召出                             宇土代々家老・禄七百石
             +---少次郎重之---------次郎左衛門重之・・・・・・次郎左衛門重顕
                    八代御供             文三郎 宗中


次郎左衛門重之は「立孝公・行孝公・有孝公 御三代記」「宗中覚記」など、宇土細川家に係る記録を書き残している。

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メモ

2013-07-13 05:48:13 | memo

◆ 寛永二年八月十八日 浅山清右衛門・田中与左衛門宛て忠利書状から(抜粋 熊本縣史料・近世編第二 p188)(綿孝輯録・巻三十)

    一、沢村大学事松平宮内殿御詫言ニ付召返候 左候ハゝ松井宇右衛門ニ遣候家大学ニ可渡候 菊野伊織
       ニ遣候矢倉う右衛門ニはいり候へと可申候 伊織母ハ一角家江うつり候へと可申候 一角留守居者ハ主
       家候ハゝ其分家無之候ハゝ明家をかし可申候事

  ・沢村大学は寛永元年知行地の至津村での百姓訴訟で三齋の機嫌を損じ細川家を退去している。
  「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。
  沢村大学牢人被仰付置候内道家左近右衛門方迄之状壱包(永青文庫)などものこっている。

  そして以下の如く無事細川家に帰っている。
  寛永二年九月四日  沢村大学帰参被仰付被差下候ニ付而  忠利書状

  沢村大学其方へ差下候扶持方百人扶持、参着より可遣候
                           (綿孝輯録・巻三十)

  松井宇右衛門とあるのは寛永十年大学の養嗣子となる人物である。松井康之の姉の子・松井二平次定高の四男・松井庄次郎友好。


◆ 寛永十六年霜月廿四日 四奉行宛て忠利書状から(抜粋 熊本縣史料・近世編第二 p181)

    一、花畠前之橋出来 百間馬屋之上角之矢倉大方出来 古城両所の橋の作事取懸候由得其其(ママ)意候事
    一、宇野弥右衛門・早川十郎兵衛・鈴江助右衛門跡目之儀三人之せかれ共之儀組頭藪市正・伊丹角助ニ
       相尋候之上にて跡目申付候由得其意候事 

 ・花畑邸と場内を結ぶ重要な橋だが修繕工事でもしていたのだろうか。忠利公江戸在の中で工事が行われたという事だろう。
 ・細川家家臣略系譜に於いては、鈴江助右衛門の名前が見えない。後に絶家したものか・・・ 

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佐分利氏のこと

2013-06-29 21:56:56 | memo

肥後国誌「玉名郡内田手永」の項「木葉町」に、佐分利氏の出自を考えさせる一文がある。

  徳永左馬之助墓 御高札ノ後大松ノ下ニアリ石碑ノ銘ニ釋宗貞永禄七年六月十四日トアリ、子孫家號ヲ佐分利ト改メテ細川家ニ奉仕ス

徳永氏については慶長五年徳永寿昌成る人物が、美濃高須城56、000石の藩主となったが、息昌重の代に改易となった。
48年間二代で消えた。この寿昌が左馬之助を名乗っている。処が没年が全く違う。父親が該当するのではないかと考えたがこれも微妙に違う。
なにか関係がありそうだと思うのだが、全く違うのかもしれない。 

 

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七代・三宅藤右衛門の死

2013-05-25 06:31:27 | memo

明智一族三宅藤兵衛の男子三人が細川家に召しだされた折の記録と思われるものが、(綿考輯録・巻60-P242)に次の様にある。

              (寛永拾九年)十二月九日三宅藤右衛門・新兵衛・左京ニ御合力米被下候留書
                覚
            一、米九拾石     三宅藤右衛門
            一、同三拾六石    三宅新兵衛
            一、同拾八石     三宅左京
               右之合力米毎年可相渡者也
                 寛永拾九年十二月九日   御印
                            奉行中
           
考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし

その嫡家・藤右衛門家の七代目藤右衛門亀傳の死についての記録を見出した。元々の出典は寺本見聞雑記らしいが、宮村典太の書写記録「吹奇与勢」以下にさらに書写、記録されている。名乗りを藤兵衛と書かれているが、由緒ある名乗りでありそうであったのかもしれない。
天明元年霜月(十一月)六日、藤兵衛は御許しを得て宇土支藩の御鷹場(宇土・益城之境辺南田尻村)で鉄炮を打ったところ、これが破裂(吹破り)「面躰半分吹切ウテ(腕)打居即死と云々」という事故にあっている。狩場には「弟の弓削氏并嫡子十三四同道之由」とあり、「早速駕にて宿に帰りし由」ともあって、藩庁には翌日届出がなされている。嫡子の年齢からすると、御目見は済まされていたのかと心配されるが、無事に家督している。
亀傳の死は公式には病死とされている。嫡子・英蔵が御留守居番頭に就くのは寛政九年閏七月であり、父親の不幸なる事故死から16年を経ている。

 

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成果

2013-05-23 16:37:46 | memo

   「ジョンマン」以降が、四月下旬以降約一か月間のオークション成果である。それぞれ面白く、「なかなかの目利きだなー」と自画自賛している。
   本棚が前後ろ二列状態になり収納が問題になってきた。

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■5:22  三くだり半 江戸の離婚と女性たち 高木侃

■5:22  江戸時代の交通と旅 

■5:19  熊本県指定重要文化財 旧細川刑部邸移築工事報告書 

■5:16  記紀歌謡 益田勝美 日本詩人選

■5:16  流人帖 伊豆・佐渡・隠岐の流人 森末義彰編

■5:14  江戸武士の日常生活 柴田純 初版 講談社選書メチエ

■5:11  本のある生活 高田宏

■5:09  私の東京切絵図 石川昌子

■4:27  開国と幕末変革 井上勝生 日本の歴史18

■4:27  織豊政権と江戸幕府 池上裕子 日本の歴史15

■4:25  ジョン・マンと呼ばれた男 漂流民中浜万次郎の生涯 宮永孝

■3:25  郷土史誌かわら 香春町歴史探訪

 

 

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那波活所(なばかっしょ)

2013-05-19 18:57:30 | memo

 那波活所(なばかっしょ)は元加藤忠廣家臣、のちに徳川頼宣に仕えた儒者で、藤原惺窩の四天王の一人だとされる。

紀伊家の家訓・頼宣の「紀南龍公訓諭」(武士道家訓集 コマ番号104)に少なからずの影響を与えたといわれる。
 
  

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ジョン万次郎の妻

2013-05-14 08:04:36 | memo

 数日がかりで宮永孝著「ジョン・マンと呼ばれた男--漂流民中浜万次郎の生害」を読んでいる。その中の話・・・・・p185

細川家家臣に医師樋口立卓なる人物がいる。その妹は細川家の奥女中であったそうだが、この人が万次郎の二番目の妻だそうである。
男子二人を設けたが離婚したという。 

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