津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

喜ばしい事

2006-09-21 17:41:15 | 新聞
 永青文庫の収蔵品が熊本県に寄託される事が決まったらしい。熊本県立美術館に常設展示場が整備されるとか・・・喜ばしい事だ。細川護煕新理事長の英断に感謝、感謝。
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安場家いろいろ

2006-09-18 13:17:02 | 歴史
 松井文庫蔵の「八代町図」を見ると、松井家臣の屋敷と共に、八代御城附の細川藩士の屋敷も確認できる。わが侍帳に反映させようと詳細に眺めていたら、安場孫四郎の名前を発見した。後に男爵となった安場一平の祖、安場九左衛門を、同じく祖とする九左衛門家に孫四郎の名前が見える。「細川家家臣略系譜」では確認できないが、「肥陽諸士鑑」の方に記載があり、同家三代目だと思われる。この家祖九左衛門は「伊賀三郎・甲賀三郎」と名乗っていたらしい。・・・お主、忍者か・・・そして田辺城籠城衆(?)でもあったようで、「丹後国にて被召出、田辺城御籠城之節、心懸御座候て、御褒美被下候由豊前にて御知行弐百石拝領」と綿考輯録は記している。安場一平家の三代目一平は、あの大石内蔵助切腹の際その介錯役を勤めたことは周知のことである。どうやら孫四郎と一平は、二従兄弟の関係らしい。それにしても、九左衛門の、「伊賀三郎・甲賀三郎」が気になってしょうがない。伊賀安場の出なのではないか・・・
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サンサンがやって来る

2006-09-15 20:55:23 | 徒然
 サンサン(台風13号)が九州に向かって、なんと西の方からやって来るようだ。
17日が九州上陸の予定らしいが、翌18日熊本は藤崎八旛宮の秋の例大祭「随兵祭り」の、勇壮な馬追いの真っ最中と言う事に相成るのだが・・・
さてどうなる事やら。
 ところで台風に名前があるという事を知らなかった。予め140の名前が決まっているらしく、13号は香港の女性の名前「サンサン(shanshan)」ということらしい。可愛い女の子なら、あちこち被害をもたらすような、いたずらをしないように願わずにいられない。ちなみに14号が発生したら「やぎ(yagi)」これは日本がつけたもの・・・
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秋篠宮家の「天草大王」

2006-09-11 19:01:54 | 徒然
 昭和初期に絶滅したという、熊本の地鶏・大型食用鶏「天草大王」を復元させようというプロジェクトは、平成12年関係者の長年の苦労が実って成功に至った。体重5~6㎏にもなる日本一の大型鶏は、大変味がよいと評判を呼んでいる。量販店に出回るには時間を要するが、一部のお店で買う事ができるようだ。どういう風にして復元したかは、詳しいHPがあるので省略するが、理論的には難しい話ではなかったらしい。しかし種鶏を手に入れるのに苦労が有ったようだ。そして七代の交配(一年一回)を重ねるという大事業だった。熊本県のHPで知事講話を見ていたら、平成13年頃この「天草大王」を、秋篠宮家に献上している。宮様が「鶏」にも興味をお持ちとの故らしいが、お世話は内親王様方もお手伝いをされているらしい。そのうちには新宮様にもご対面と相成る「天草大王」は名誉な事だ。しかし、あのでかい体躯をみると相当食欲も有りそうで、餌代は宮家持ちではご迷惑な話ではある。
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ドンカッチョ

2006-09-09 14:38:01 | 随想
 魚の名前などというものは、地方/\で異なり方言の最たるものであろう。熊本で「ドンカッチョ」と呼ばれる、清流の水底に生息するこの川魚は、多分「ドンコ」なのだろうと思っている。オコゼのような不細工な顔がご愛嬌である。私が子供の頃は、近くの江津湖が格好の遊び場で、魚獲りが楽しみの遊びだった。「湖」とついているが、水前寺成趣園を水源とし加勢川に至る、周囲6キロほどの湖沼である。昔は阿蘇の伏流水を源とする湧水が豊かであったが最近は激減した。それでも、一日約40万トン程を湧水する、熊本のオアシスとして釣りやボート遊びの場所として市民に親しまれている。俳人中村汀女の生家も近く、遠くに阿蘇の峰々を望む豊かな風景は、彼女の作句の心象風景ともなっている。
 昭和28年熊本は未曾有の大水害に見舞われ、この江津湖もすっかり川底(?)が上がって現在にいたっている。それ以前の澄み切った江津湖の流れは小さな川魚の宝庫だった。シビンタ(タナゴ)やアブラメ(?)、ハエ(ハヤ)などが群れていた。下流域では鯉や鮒、うなぎ等の川魚漁も行われていて、舟着には川舟が幾艘ももやってあった。上流部は水深も深いところでも6~70センチほどで子供達にとっては最高の環境だった。その川舟の下が「ドンカッチョ」にとっての安息の場所で、川舟をゆっくり動かして網で捕らえるのである。当時は「ドンカッチョ」の上に、「イシカキ」という言葉を冠していた。ずっと私は「イシガキ」と濁って覚えていたのだが、「イシカキ」が本当らしい事を最近知った。舟の下といっても、川底にへばりついている訳ではなく、流れに流されまいと石の下の窪みなどに潜んでいる。その石を静かに動かす訳だが、「イシカキ」は「石掻き」なのだろう。大きいもので14~5センチ、小さいものでも4~5センチのものを七八匹捕まえて数時間を楽しむと、鼻歌気分でリリースして心豊かに帰るのである。
 後年の事だが、職場の仲間やその家族たちと釣りを楽しみ、釣果を屋外でフライや煮物にして楽しんだ事がある。あの「イシカキドンカッチョ」は、真っ白な身が美しい煮物になって皆の賞賛を受けたものだった。

 最近、江津湖では4~50センチクラスのシーバスが釣れると聞く。時は流れ魚の世界も様変わりしている。
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代参、保呂羽山へ

2006-09-09 08:30:55 | 歴史
 貞享元年(1684)子九月、当家の二代目太左衛門は藩命をうけ、奥州岩井郡保呂羽山(秋田県横手市)に代参している。「御附人共ニ上下六人ニ而罷越」ているが、江戸白金藩邸を九月十四日出立翌月十一日に帰邸している。行く先がはっきりしないが、多分「派宇志別神社」なのではないかと推察している。ウィキペディアによると、天平宝字元年大和金峰山の蔵王権現を保呂羽山に勧請して創建したとある。問題は何のためにそんなところまで、代参の人をやったかと言う事だけれど、皆目見当がつかない。
 霜月神楽という神事が有名らしく、神楽殿は日本に六棟しか残っていない両流造の建物だそうだ。建築家の端くれの私としては興味は尽きない。
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祝・秋篠宮家親王さまご誕生

2006-09-06 12:17:23 | 徒然
 仏さまは四つのグループ分けができるのだそうな。「如来」「菩薩」「明王」そして「天」である。私はこの天部の仏さまが大好きで、興福寺の「阿修羅」像がその最たるものである。男性像なのか女性像なのか・・・きりっとした面立ちが魅惑的だ。実は写真集でしか御目にかかったことが無い。是非実物を拝観してみたいものだと思う。今ひとつ是非見てみたいと思うのが、秋篠寺の「伎芸天」像だ。豊かな表情がなんともいえない。秋篠宮妃紀子さまに似ていると言われているが、今日お生まれになった親王様もまたこんな面立ちだろうか。この慶事にあやかって、秋の秋篠寺はまた観光客で賑わう事だろう。
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休館日

2006-09-05 22:31:19 | 徒然
 返却日をとうに過ぎた本を返さなければと思い立ち、チャリンコで県立図書館まで出かける。いささか油切れしているマイチャリンコは、時折奇妙な音を発している。片道30分ばかりは調度よい運動にもなる。いつも通る道筋だけれど、キョロキョロしながら走っていると、秋の花が咲き始めていたり、ウインドウのディスプレイが新しくなっていたり、季節の移ろいを感じさせてくれる。曇り空の今日は風も爽やかで、ペダルを踏む足どりも軽やかになる。

 図書館に着くとなんだか薄暗い。そう思いながらも玄関を入ろうとすると、自動ドアが開かない。「あれっ」と思ってよくよく目を凝らすと、「休館日」の札が目に飛び込んできた。「ああやっちまったよ・・」本を返却用ボックスに投入してスゴスゴ退却と相成った。帰り道のマイチャリンコは、一段と油切れが進んだかのように悲鳴をあげる。ペダルをこぐのもなんだか重たく感じて、行き帰りの約1時間は単なる運動に終わってしまい、私自身も油切れ状態だ。調べ物もあったのに・・・「畜生・・・・・・・」
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忠興の隠居

2006-09-04 12:19:47 | 歴史
 元和六年(1620)の末、細川忠興(58)は「以之外ニ御煩被成」て、継嗣忠利に家督を譲り隠居する。閏十二月廿五日娘おまん(烏丸光賢簾中・23)の見舞いの文に対して返事を出している。「本復したので少しも気遣いする必要は無い。しかし気力が無く、上様のお見舞いにも逢わず、養生のためと思いお前の手紙にも目を通さずにいた」と書いている。そして「われ/\はうすになり候て、つらを見申候へは、そのまゝゆうさいにてわれなからきもをつふし申候、かどうをしらぬゆうさいと御おもひ候へく候・・・」と、父幽齋に似てきた自らの顔に吃驚している。我々が知る幽齋と三齋の晩年の姿は、似ても似つかないような面立ちだと思うのだけれど・・・・「かどう(歌道)をしらぬゆうさい」と思えと戯言をいっているが、愛してやまなかった娘おまんに対する、父親らしい一面が伺える。
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最近のお仕事

2006-09-03 10:53:30 | 歴史
 最近立て続けに二件アップしてみた。
  1、細川家中の若狭衆
    若狭武田家滅亡に伴い、武田信高室宮川殿(細川幽齋妹)の子・建仁寺の
    英甫永雄が、浪々の身となった家臣達の身の振り方に尽力したと伝えられ
    ている。確認され人々は丹後以来の家臣として、細川草創期に重要な活躍
    をしている。
  1、華麗なる一族 細川宗家と宇土細川家そして近衞家など
    天皇家、近衞家、徳川家、千家などに繋がる、近現代細川家の華麗なる広
    がりは、どのような経過を経ているのかを追ってみた。
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「社会に慈しみを」

2006-09-01 23:56:34 | 徒然
 浄土宗今月の月訓である。

 親が子を殺し、子が親を殺めるというニュースが日常茶飯になった昨今、「慈しむ」という言葉は「死語」になったのではないかとさえ感じる。社会に対して、真からそんな心になれたら、人生生きてきた甲斐があるというものだろう。凡夫にはむつかしいことではあるが・・・。
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