津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

岩倉具視 言葉の皮を剥ぎながら

2009-08-31 22:25:25 | 書籍・読書

岩倉具視―言葉の皮を剥きながら

著者:永井路子
発行所:(株)文藝春秋
定価:本体1,524円+税


【本の内容】
歴史作家としての集大成がここにある。岩倉が孝明天皇毒殺の首謀者なのか--長年構想を温めてきた著者が歴史的事件に再検討を重ね、新たな岩倉像を立ち上げた渾身の作。

【目次】
貧弱な構図
虚妄の世界
手入の風景
奔馬
皇女・皇女
奈落
姦物の時間
情報の虚実
毒殺・そして「壁」の光景
「深謀の人」の「記憶」
その日まで
余白に…

        あまり好きな人物ではないが、読書は別物・・・・正直言って面白かった・・・・
          それでも好きにはなれない・・・・そんな人物っているでしょ

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細川家の家紋・・3 (松笠菱紋)

2009-08-31 08:59:47 | 歴史
 最近は家紋に関係するサイトが沢山在って、大変重宝している。ところがどんなに探しても出てこない家紋も多い。(我が家の家紋もない)ここでご紹介する「松笠菱紋」もその一つだが、これについては「綿考輯録・藤孝公p44」以外でお目にかかったことが無い。波打った線がひし形を作り、その上下の線は内側に入りまなこのような形を作り出して、更にその中に眼球のように松笠(?)が入っているといった感じである。詳しいものを見てみたいと思うが、どなたかご存知在ればご教示いただきたい。

 綿考輯録にはこの「松笠菱紋」について次のように記している。
「既に南朝の正平十年(1355)細川頼之、西岡・山崎表発向のとき、楠正儀夜討を懸、軍不意に起り、築山市正保俊一人を連、北嵯峨より帰洛之由、此時築山と鎧を着替、松笠菱の紋付たるを直にあたへ、子孫に伝ヘ候ハゝ御申候との事、築山か家記に有之、此時の感書も今以伝来致候、此砌は築山も公方御直参なり、殊に頼之の聟なり、右保俊より六代目市正俊方、藤孝君之御家士と成、松笠菱ハ代々の家紋に仕候、頼有君も松笠菱御付被成候」
御家譜抜書に「頼有公御譜中・・家之紋松笠菱代々用之」とある。

 この築山家こそが、細川家根本家臣としては一ニを争う古い家ではないかと私は考えている。築山家を侍帳からご紹介すると次のようになる。

     保俊(市正)   足利将軍家直参、又細川頼之婿 細川家家紋松笠菱拝領
                                       (綿孝輯録・巻二)
     弥十郎重俊(市正) 母細川頼之庶女・福(築山家・系図)
     弥右衛門長俊(兵庫介)
     弥右衛門俊親(兵庫頭)
     弥十郎貞俊(兵庫介) 妻沼田上野介光兼女( 同上 )
               細川藤孝君誕生消息                  (綿孝輯録・巻一)
               天文二年十二月朔日(藤孝公御母)着帯(一部略)義晴公より沼田上野介、
               築山弥十郎貞俊御附被成、翌年四月廿二日万吉様御誕生被成・・・・・
    1、弥十郎俊方(市正)  城州境 百石 (於豊前小倉御侍帳)

 他にも「輌引」や「桐」といった、足利末流の家としての家紋を使用している細川家だが、これは頼有代以来とされる。この「松笠菱紋」は頼之代以来とされるから、更に古いものである。
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眠たい朝

2009-08-31 08:50:29 | 徒然
 皆様もさぞかし眠たい朝をお迎えのことと拝察します。今般の選挙速報では、なんともスリリングな数時間を過ごしましたが、歴史に残る結果となり期待と不安が入り混じった複雑な気持ちですねー。小泉劇場選挙の揺り戻しにしても、M8とかM9とかいった凄い揺れに成ってしまいました。どういう風に今後の政治が動いて行くのか、まずはお手並み拝見といったところでしょうか。保守王国といわれてきた熊本も、自民4:民主1が自民3:民主2と変化を見せました。五区に於いては、社民党が比例区復活とはいえ議席を確保しました。少しずつですが変化をみせる熊本です。 
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二本木遊郭跡「日本亭」解体へ

2009-08-30 17:19:58 | 熊本
 再来年春の九州新幹線開通に向けて、熊本駅周辺が様変わりしている。
駅の南西に広がる二本木地区は、西南の役後遊郭が作られ明治三十年までつづいた、男どもの夢の跡(?)である。ここに在った「東雲楼」は全国にその名を馳せた遊郭である。楼主中島茂七は「日本亭」という建物も建てたが、これが今日まで何とか保存されて来たがついに壊される事になった。昨年には一般市民に公開されたが、保存についてはいかんともしがたい。明治30年に二本木遊郭で最大の規模を誇った『東雲楼』の娼妓101人が、廃業届を叩きつけてのストライキとなったが、そのときの様子を謡ったのが俗謡「東雲節」である。作詞・作曲者は不明だが明治34年の作だとされる。

                東雲節(ストライキ節)
    
            なにをくよくよ 川端柳
            焦がるる なんとしょ
            川の流れを 見て暮らす
            東雲の ストライキ
            さりとはつらいね てなこと
            おっしゃいましたかね

                自由廃業で 廓は出たが
                それから なんとしょ
                行き場がないので 屑拾い
                浮かれ女の ストライキ
                さりとはつらいね てなこと
                おっしゃいましたかね

                    三十三間堂 柳のお柳
                    焦がるる なんとしょ
                    可愛みどりが 綱をひく
                    住吉の 街道筋
                    よいよいよいとな てなこと
                    おっしゃいましたかね

 二本木地区は駅前再開発地区からは取り残されているが、新幹線開通という大きな節目を迎えて、変貌を余儀なくされている。
            http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/808/bu_808_081801.htm
            homepage2.nifty.com/tanosiki/v-enka-sino1.htm
 
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細川家の家紋・・2 (六つ銕線紋)

2009-08-30 11:27:51 | 歴史
 忠興により「九曜紋」が採用される以前は、「六つ銕線紋」が使われていたとされる。
これは山本家家記によるものだが、「夫まての御紋六ッ銕線を山本三郎右衛門正倶に被下、定紋に仕候」とある。「肥陽諸士鑑」を見ると、当時の当主文右衛門正武の家紋は、「丸に六つ銕線紋」である事が判る。そのままの「六つ銕線紋」は恐れ多いという事で、丸に入れたということであろうか。由緒ある拝領御紋である。

 三郎右衛門・正倫、正倶(宗覚) 【田辺城籠城】  
  元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に
  仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候
  と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍
  置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時
  三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を
  被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死 (綿考輯録・巻五)
                
 「於豊前小倉御侍帳」には、三斎様御付中津ニ相詰候衆 五百石 とある。
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細川家の家紋・・1 (九曜紋・細川九曜紋)

2009-08-30 08:00:56 | 歴史
 細川家の家紋といえば「細川九曜紋」、いわゆる「はなれ九曜紋」が衆知のところであろう。その歴史はといえば、「忠興公御譜中」に「或時忠興公信長公之腰物を持ツ小刀の柄に九曜之紋有を見て愛シ衣服之紋とし信長公御感ニ而自分家紋にすべき由被仰候よう忠興公九曜を用候なり」とあり、これは九曜紋である。
 延享4年8月15日、時の藩主宗孝は月例拝賀式に登城した際、大広間脇の厠に立ったが、そこで旗本寄合衆7000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられる。この不幸な事件により絶命する訳だが、この事件の原因は勝該がかねてから遺恨に思っていた、本家筋にあたる安中藩主板倉勝清の家紋「九曜都巴」と、細川家の「九曜紋」とを見間違えての刃傷であった。誠に不幸な事件であったが、これを機会に細川家は「はなれ九曜紋」を採用する事になる。「細川九曜紋」と言われるものだが、是だけではなく、通常裃の五ヶ所につける家紋を、両胸・両袖表・背中に加えて両袖の裏側にもつけ加えた。後からでも一目で判るようにした、細川家独特の「細川家の七つ御紋」と呼ばれるものである。
 鈴木喬氏のご研究によると、「細川九曜紋(はなれ九曜紋)」の使用については、宗孝の事件以前にも使用していた事が確認されているという。しかしこの事件がきっかけとなり、「細川九曜紋」が正式な家紋に成った事は間違いない。

 勉強不足で、宇土細川家・鉄炮洲細川家・内膳家・刑部家が使われている九曜紋が、「細川九曜紋」なのか、一般の「九曜紋」なのか確たる情報を持たない。 

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六年経過

2009-08-29 12:49:56 | 徒然
 すっかり忘れていたが、当サイトが六年を経過している事に気付いた。
開設時を考えると全くの素人で、INDEXに貼り付けた「九曜の紋が違うよ」と宇土細川家のご子孫GH氏からご指摘を受けて、「細川九曜の紋」の存在をしったというお粗末さであった。こんなに永く、そしていろいろご声援いただくことになるとは、当時は思いもよらなかった。何度も止めようと思ったが、どうにか乗り越えて今日にいたった。ネタ切れ気味の昨今は其の思いは又深くなっている。膝の具合が悪くて図書館通いも前のようにはいかなくなった。ならばと以前のブログをチェックしたりしているが、こっそり消去してしまおうかと思うものが多々ある。そんな記事を言い訳をして修正しながら、ブログを繋いでいこうかと思ったりしている。満十年迄あと四年、体力が許せば頑張ってみようと思っている。さてさてどうなる事か・・・
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おしきもの共をころし候て・・・・・

2009-08-28 12:18:05 | 歴史
 寛永15年2月27~28日の総攻撃で、ついに落城し終結に及んだ「有馬一揆」は、細川勢に於いても多大な被害を蒙った。熊本へ帰国した忠利は身体を休める暇もなく、沢山の書状を発している。
幕閣への報告、既知の人々、陣中への見舞いに対する返礼など祐筆の者達を叱咤しての作業であったろう。当然忠利の確認があってのことだから、多忙を極めたものと推察される。その中で忠利の心中が察せられるのが、「おしきもの共をころし候て、不便(不憫)なる儀可有推量候」という詞である。

 「寛永十五年二月廿七日・八日有馬城乗ニ而手負・死人」によると、両日の総攻撃時の死者は285人、手負いは1,826人に及んでいる。忠興陣代の立孝方に於いても、死者6人・手負い48人に及んだが、何故かこの事は幕府には届けられていない。その他にも死者35人・手負い174人があるが、これは両日以外においての数である。死者の総数は326人に及んだ。
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島原への渡海

2009-08-27 18:11:13 | 歴史
 島原の乱の勃発は寛永14年の10月25日だとされている。
熊本に於いては、将棋を指していた家老米田監物が、島原の方面の鉄炮の音を聞いて変事に気づいたと語られている。八代に於いても中路宗悦(初・市之允・次郎左衛門 後・宗悦)が同様の音を聞きつけたことが記録に残されている。

 江戸への報告、指示待ちに日を費やして行くうちに、一揆勢は天草へ攻め入り火の手は広がっていく。無能な豊後目付達は自らの判断をためらい、細川藩重臣の「天草出兵の要請」を聞き入れない。江戸に於いては忠利がやきもきしている。軍役としての弐万数千の人間をどうして渡海させるかで頭を悩ませている。

   有馬一件ニ付御船加子等之事
     十一月廿五日
          妙解公(忠利)より半井心策老江之御書之内 御内書并公辺自他御書通之条ニ下出
    一、鶴崎より舟おそくまわり候由まハし候早船十艘ハとくまハり申候
       此舟にも一艘ニ四十人つゝ乗候へハ大小者候へ共四百人加子
       入申候 つね/\鶴崎ニまて早船置候而熊本ニハ入不申候ゆ
       へ四・五艘ならてハ無之候事
    一、我等俄ニ罷下事可有之候と存其上公儀より御用も可有之とは船
       大小五十艘ハ鶴崎ニ残申候 此加子四十つゝのり候へハ弐千に
       て候 中/\夫ほとハ鶴崎ニ加子無之故鶴崎之船まハし可申様
       無之候 其上今度のことく永引可申と留守居共不存候而も右十
       艘之早船ならてハまハし申ましく候事
    一、熊本之人数原又ハ天草へ参候へハすくなく候ても舟数荷舟七・八
       百も入候 此加子壱艘十人つゝのり候ても加子八千人入申候
       なにと仕候而はや船斗にて加子もつゝき可申哉中/\壱艘ニ十人
       つゝ加子のせ候事不罷成漸々七人・八人のせ申候つる由ニ候
       扨壱艘ニ人数三十人つゝのり候而も弐万四千ならてハのり不申候
       船大小ならし候て右之分ニ候 其舟ニ武具・馬のせ候へハ中/\
       人夫かけ候へハ多クハ人のり申不候 加様ニ加子入候而はや舟
       斗成事にて無之候 はや舟百艘共参候へハ人ハ漸々弐拾つゝも
       乗不申候 百艘之舟二ハ四千加子入候 左候而人数ハ弐拾つゝ
       のり候て弐千ならてハのり不申候故はや舟なと多くの候事ハ中々
       成ものニて無之候事
 
細川勢がようやく出陣したのは12月2日である。6日三角から舟にて出発、翌7日大矢野に上陸するも一揆勢は引揚げた跡である。12月11日光尚が現地に入った。(上津浦) 細川勢には島原出陣の命が出されない中、島原の隣国の大名等を主とする軍勢が、年が替わった正月朔日原城を攻め大敗を期すことになる。其のことを知った光尚が天草から有馬に入るのは翌二日の事である。奇しくも其の日、江戸に在る忠利は御暇を与えられ、即刻熊本に向っている。26日には有馬に到着し、原城攻めの中心人物としての日々を過ごす事になる。二月廿七日の落城・翌廿八日の事実上の終戦を経て、また多くの人々が船に乗り込み熊本へと凱旋していくのである。多くの死傷者を出し悲喜こもごもの思いを乗せて、有明・不知火の海は大小さまざまな船で覆い尽くされていたのであろう。
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相場彌左衛門という人

2009-08-27 10:02:30 | 歴史
「真源院様御代御侍免撫帳」に「相場左太郎 三百石」という記載がある。
かって、いろいろな史料を注意してみていたら、『熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記」p399』に次のようなものを見つけた。

           (正保弐年)二月十一日病死仕候
           知行三百石        相場彌左衛門
                          右之女房
                   彌左衛門嫡子歳拾六
           御目見仕候        相場左太郎
                   同人二男歳三ッ
                          相場辰之助

正保二年、父・相場彌左衛門が亡くなったため、御目見済みの嫡子左太郎が遺跡を相続したという事であろう。

「有馬ニ而牢人衆城乗之刻働之様子」という記録(熊本縣史料・近世編三p170)を見ると、山口与兵衛という人が「長岡佐渡守手二つき居申候」て鑓働きをした様子が、次のように記されている。

       二月廿七日原之城二ノ丸ニ而敵数人とよせ合鑓付則討捕申候
       跡より立花飛騨守様之御内山上弥四郎と名乗候て与兵衛そば
       に参右之働見申由ニ御座候 敵のはなを捕申佐渡守内下津半
       左衛門ニ見せ申由ニ御座候 同廿八日本丸にて敵とからち合
       申候 右之様子西山左京殿御舎弟相場弥左衛門殿被存由
       ニ御座候事

 相場彌左衛門なる人物は、西山左京(足利道鑑・義辰の嫡男)の弟である事が判明した。

 12代          13代    足利道鑑   伝右衛門・左京    
 足利義晴---+--義輝-----義辰----+--至之---+--重辰
          |  15代          |       |
          +--義昭          |       +--之氏---氏清---+--氏一---景備
                          |                     |
                          |                     +--氏政---氏景
                          | 勘十郎   初代
                          +--義茂---八郎兵衛・・・・・・・・→(細川家家臣・西山氏)
                          |
                          +--義次
                          | 藤左衛門
                          +--之直---次之
                         
                         +---相場彌左衛門---+--左太郎 (以降不明)
                                        +--辰之助 (以降不明)

           ・・・・・・・・・文書漁りもこんな事があるから止められない。・・・・・・・・
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有馬一揆と細田栖院

2009-08-26 19:01:43 | 歴史
 「有馬城乗之刻働之衆 他国衆牢人衆 証拠に被立候帳」(部分御舊記・軍事部十一・・熊本縣史料・近世編三p249)に次のようなものがある。
これは寛永十五年七月廿三日付坂崎内膳宛、長岡佐渡守・有吉頼母佐の報告書(抜粋)である。

 相果申候
 一、安場仁左衛門
     二月廿七日二ノ丸大手の門口にて鑓を合左のかいな突ぬかれ
     手叶不申候二付小屋へ罷帰候
          証人       細田栖院
                    生田四郎兵衛
                    小河内少兵衛

 さて、細田栖院(栖隠)とは、荒木村重の孫とされる左馬助のことであるが、8/23のブログ「荒木左馬助消息」でご紹介したように、有馬城(原城)の陥落の日に忠利に御目見をしている。寛永諸家系図伝に「同(寛永)十五年春、肥州嶋原の軍事にをもむき、二月二十七日に彼地につき、すなはち細川肥後守(光尚)が手に属して微志をはげます」とある。つまり、二十七日に有馬に着いた左馬助は即戦場に入ったことになる。そして安場仁左衛門の働きぶりを目撃し、証人としての役目を果たした訳である。「他国衆・牢人衆」として紹介されているところを見ると「光尚が手に属して」というのは疑わしい。「此時はじめて上使松平伊豆守信綱にまみゆる」とある所を見ると、信綱の許にあったのだろう。烏丸大納言の紹介を得て、忠利に御目見したが「其後陳場へ御尋も無之候故其時之首尾をも然々不承候」とあるが、このような証人としての役目を果たしているところを見ると、しばらくの間熊本に滞在したのであろう。後には細川家家臣となるとは、思いもしなかったであろうに・・・
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細川隆一郎氏逝く

2009-08-26 09:14:09 | 徒然
 歯に衣を着せぬ発言で人気を博した、政治評論家・細川隆一郎氏が亡くなられた。
謹んでご冥福をお祈り申上げたい。

 大きな眼と破顔一笑の笑顔が印象的だった。細川隆元氏のご子息と思っていた人も多かったようだが、隆元氏とは叔父-甥の間柄である。細川忠興の嫡男・忠隆の流れを汲むいわゆる内膳家で、ガラシャ夫人の血をひくお家柄である。
内膳家は八代・忠寿が亡くなった跡、嫡男忠穀が幼少であった為、弟忠顕が九代目を継いだ。十代目は忠穀が継ぎ忠雄-忠督へと継承された。
九代忠顕の弟・隆虎の二男の子が隆一郎氏、隆元氏は隆虎の三男である。
隆一郎氏のご子息隆三氏はテレビ朝日政治部記者、TVでその活躍ぶりを拝見している。愛娘珠生さんは政治ジャーナリスト、洗礼名はガラシャである。
内膳家は他家から養子が入った事はなく、ガラシャの血が途切れることなく受け継がれている。
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風の仕業

2009-08-25 16:39:27 | 徒然
 数日前図書館に出かけた折、「風説秘記」なる著者不明の60数ページに渡る文書を発見してコピーした。パラパラと拾い読みをすると是が中々面白い。先祖附等には絶対顕れない諸家の事件・事故が書かれている。特長は殆どが刃傷沙汰やそれに関係する事柄である。今迄理由が判らなかった、家禄の没収や、役職の解任に繋がったりしていた。ご大身のお宅の事件もあり、お名前を表に出してのご紹介はまずいかもしれないが、そこは伏字にでもして是非ともご紹介したいと訓下の作業に入った。

 昨日今日の熊本は、気温は高いのだが乾燥した風がカーテンを大きく揺らす程に吹いて、大変気持ちが良い。クーラーも入れず窓を開け放っている。所用があって小一時間外出、帰ってみると机の上に置いていたコピーが、部屋いっぱいに風に吹き飛ばされてバラバラ状態である。あわててかき集めたのだが・・さて困った。通し番号がないから、順番が皆目わからない。・・・・・・・・一両日内に図書館で原本照合するという作業が発生してしまった。
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熊本縣史料--近世編第三(部分御舊記) 3-(2)

2009-08-24 08:33:38 | 歴史
 五十六 部分御舊記  法度部全
        武家諸法度之事
        公義諸法度之事
        奉公人離国并欠落之事
        本主之構有之奉公人之事 附奉公人男女抱方之事
        公方様・大御所様・大納言様御上洛之節御法度并日光御成之節御法度之事
        口々御門出入改并切手之事 附御番所前心得之事
        難船之節御法度之事
        切支丹宗門之者ニ宿借候儀御法度之事
        婚礼之節御法度之事
        江戸参勤之面々心得方之儀ニ付御法度之事
        殿中御番衆江被仰出御法度之事
        金銀銭売買ニ付御法度之事
        御制札場所之事
        村々ニ立申制札之事
        八代御城附誓詞之事
        奥向締り方之事      
        江戸御屋敷御門出入之儀ニ付御法度之事
        乗輿之儀ニ付御法度之事
        衣食住御制度之事
        御自分諸御法度之事
        異躰放蕩御法度之事
        奉公ふり之善悪言上可仕旨大横目衆江被仰出御法度書之事
        造酒之事ニ付仰出御法度之事
        上使御下之節御法度之事
        御隣国異変之節御法度書之事
        屋敷前にて人を切候者有之候節之御法度之事
        悪党御改之儀ニ付御法度之事
        歩若党・中間・小者切米給銀并年季之事
        福嶋家御改易ニ付而御法度之事
        有馬一件ニ付御隣国異変之節心得之事
        火事場御法度之事
        跡目相続等之事ニ付而御法度之事
        在中御法度之事
 
 五十七 部分御舊記 自他御書通之事一
        公義江證人御差出并御引替之事
        御前様并御連枝様江戸江御引越之事
        御預人之儀ニ付公辺・自他御書通之事
        稲葉内記殿御預ニ付公辺・自他御書通之事
        内記殿御供にて罷下候御付人并此方様より御附人之事
        内記殿諸道具并銀子等之事

 五十八 部分御舊記 自他御書通之事二
        内記殿御子息之事
        内記殿御死去一件
        内記殿御乳人死去并諸道具之事
        楯岡甲斐守御預之儀ニ付御書通并御米銀被下候事
        甲斐守死去一件
        伊藤権兵衛御預二付而公辺・自他御書通之事
        権兵衛家来之事
        権兵衛ニ附置候御番人心得之事
        権兵衛家来牧田猪右衛門諸道具之事
        権兵衛死去一件
        小栗岡之助兄弟道具付

 五十九 部分御舊記  普請作事部一
        公儀御普請ニ付御内書・御奉書并公辺・自他御書通之事
       
 六十   部分御舊記  普請作事部二
        公儀御普請ニ付御触・御法度并諸書附類之事 付御法度を背候もの過怠之事
        公儀御普請ニ付廻船荷積之事
        公儀御普請ニ付木石并諸道具之事
        公儀御普請ニ付先代出入之事

 六十一 部分御舊記  普請作事部三
        公儀御普請ニ付他所向出入之事

 六十二 部分御舊記  普請作事部四
        公儀御普請ニ付出役并御役付之事

 六十三 部分御舊記  普請作事部五
        公儀御普請ニ付御役高并金銀・米穀入目之事

 六十四 部分御舊記  普請作事部六
        公儀御普請ニ付御役高并金銀・米穀入目之事

 六十五 部分御舊記  普請作事部七
        公儀御普請ニ付諸大名御役附・御組合并石場・丁場・坪数等之事

 六十六 部分御舊記  普請作事部八
        御自分方御普請御作事ニ付御書通并諸書付之事
        公方様御不例ニ付御普請御遠慮之事
        屋作可応分限事
        御普請役之事
        道路修理之事
        御普請ニ付材木并諸道具等之事
        江戸御屋敷并長崎御蔵屋鋪御作事之事

                       (了)
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荒木左馬助消息

2009-08-23 21:15:38 | 歴史
 荒木左馬助(荒木村重・孫)の事について、烏丸大納言の二月五日付の書状が忠利の手元に届いたのは、有馬一揆における決戦の日(二月廿七日)のさな中の事である。慌しい中で書状に目を通した事が、次の返信の書状に窺える。

      二月五日荒木左馬助殿御事伝之書状二月廿七日相届拝見仕候
      先以其元相替儀無御座候由珍重奉存候 仍有馬表之儀去月廿七
      日・八日両日ニ事済申候 手前も三之丸を通り本丸にも乗込大将
      四郎首も我等手へ討捕申候間可御心安候 次ニ左馬助殿之儀被
      仰下候廿七日本丸きわ迄押詰申候刻二之丸ニて初而御しる人ニ
      罷成候 其後陳場へ御尋も無之候故其時之首尾をも然々不承候
      其上我等有馬埒明申候故上使衆御差図ニ而罷帰申付而相当之
      御用をも不承近比御状之印も無御座迷惑仕候 猶重而可申上候
                                    恐惶謹言
         三月五日
            烏丸大納言様
                 御報

 後に烏丸大納言の肝煎りにより細川家家臣となる、荒木左馬助の消息が窺える貴重な書状である。左馬助が有馬の陳中にあることが窺えるが、上使の何方かに付いての出陣で在ったのだろう。幕臣としての道は義母の不幸な事件で潰え、細川家家臣(細田氏)となる人の貴重な史料で、何度も目を通したはずの「熊本縣史料--近世編三(部分御舊記)」から見つけ出して吃驚している。

参考:  荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、
        浅野但馬守殿江罷在候へ共、御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と
        御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君より被仰立、公儀江
        被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親
        類ニ而も無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流
        罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置かたく御預ニ成、後熊本ニて果候

大日本近世史料-細川家史料(-1289-)忠利より肥後(光尚)宛て書状
  (頭注)烏丸光廣荒木村常ノ召出ヲ肝煎ス、光廣死去ノタメ忠利ヨリ松平信綱へ依頼ス
        荒木左馬殿之事、内々烏丸大納言(光廣)殿御肝煎候へとも、御死去二候、肥後ニも
        内々御頼候へとも、大納言殿御座候間可被候とて、ひかへ候へとも、大納言殿御は
        て候へハ、可被使用無之候ニ付、申候、一筋にても候條、いかようの躰にても、御奉
        公成事ニ候ハゝ、御肝煎被成可被候由、松伊豆(松平信綱)殿迄書状遣はづニ、此方
        申合候、其方と談合之上可申候へ共、其元へ申遣、其返事之間候へハ、伊豆殿御番
        はつれ候故、加藤勘介(重正)殿と申合、如此候、其方判紙にて状を調可遣候、遣候
        ハゝ、留を見せ可申候、恐々謹言
            (寛永十五年)十二月廿                     越中
                                                忠利(花押)
            肥後殿
              進之候


 (寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書
          一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指
          置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
              五月十日                   阿部対馬守
                                       阿部豊後守
            細川肥後守殿                  松平伊豆守
                                           (綿考輯録・巻六十一)
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