津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■解説・有吉家文書「年中行事抜粋」(十二)御格帳并考蹟志らへ等之内心覚之大旨左之通

2021-07-31 13:07:15 | 有吉家文書

御格帳并考蹟志らへ等之内心覚之大旨左之通

一、免職之節御賞席ハ十年以上持懸御役席ハ二十年已上右同御賞禄其儘被下置儀茂右同断之事
  免職の節、御賞席ハ十年以上持懸け御役席ハ二十年以上、右同御賞禄其のまま下し置かれることも右に同じ事
一、右同御役附之年数を以僉議ニ相成家督より之年数ハ取用ニ不相成候事
  右同御役附の年数を以て僉議に成り、家督よりの年数は取用はならない事
一、禄三千石以上者此着座ニ持席有之弐千石以上者御番方ニは不被落大組附ニ被召加候事
  禄三千石以上の者は此着座に持席有り、弐千石以上の者は御番方には落さず大組附に召加えられる事
一、慶安二年迄ハ旧知ニて同三年よりハ新知と宝暦六年被定候事
  慶安二年迄は旧知にて、同三年よりは新知と宝暦六年定められる事
一、新禄ハ高之大小ニ寄五拾石又者百石其上茂被減候、扨又新古受居候ハ新知より被減候御定之事
  新禄は高の大小により、五拾石又は百石其上も減せられ、又新古の知行を受居れば新知より減せらる御定めの事
一、右同御奉公及五十年候者ハ是ハ御役之年数ニ不拘惣年数取用ニ相成其子御家督之節無相違相続被仰付、旧知之人ハ拝
  領物被
仰付見合ニ候事
  同じく御奉公五十年に及ぶ者は御役に年数に拘わらず、惣年数取用に成り、其子御家督の節は相違なく相続を仰付らる、旧知の人は拝領物を仰
    付らえ見合の事

     但御番方等舊知之人御番無懈怠四十年ニ及候輩ハ以其訳御服被下置候見合有之候事
             但御番方等旧知の人は御番懈怠なく四十年に及ぶ者は、其訳を以て御服下し置かれる見合が有る事 
一、右同御役三十年以上ニ及候輩者跡式無相違相続被仰付繁劇之御役ハ右年数ニ不至共無相違相続被仰付候事
  右同御役三十年以上に及ぶ者は跡式相違なく相続仰付られ、繁劇の御役は右年数に至らず共相違なく相続仰付らる事
一、御擬作は家督之節父之勤五十年子之勤二十年ニ及候得者無相違相続被仰付候、又父之勤六十年ニ而者右同断
  御擬作は家督の節父の勤め五十年・子の勤め二十年に及んでいる者は相違なく相続を仰付けらる、又父の勤め六十年にては右同断
     但父四十五年子二十五年ニては難成候事
     但父四十五年・子二十五年(都合七十年)では成りがたい事
一、藝数ニより無相違被下置候儀左之
  藝数(文武道)により相違なく下し置かれる基準は左之通
     目録 四
     目録 二
     免許 一
     免許 弐
   右之通ニ候得共、稀ニハ一藝ニ而無相違被下置候儀茂有之候事
  右之通ニ候得共、稀ニハ一藝ニ而無相違被下置候儀茂有之候事
一、文学之方ハ目当無之候処、近年者寛政二年杉浦角助家督之節高本敬蔵より達之趣有之、槍術目録一ツニて無相違相続
  被仰付、其節申渡諸事
心懸宜候付ケ様ニてと有之候、其已前右様之儀無之、角助節踏出カト相見候也家督前助教より
  何某学問ハ免許ニ
当り又目録ニ当り候と達出候、尤政府より一々問合ハ無之候併時宜ニも可応事
  文学の方は目当は無いが、近年は寛政二年杉浦角助家督の節、高本敬蔵より達があり、槍術目録一ツニて相違なく相続仰付られ、其節申し渡し
    は諸事心懸宜しきに付このように取り扱われたとこと、其れ以前にはこのようなことはなく、角助の節がはじまりと思われる、家督前助教より
         何某の
学問は免許に当り又目録に当ると達しがあり、政府より一々問合は無く併て時宜にも応ずべき事
一、御切米ハ御取立之面々江被下手取茂月刻ニて候事
  御切米は御取立の面々へ下さる手取も月刻である事
     軽輩之内席禄ニ困而御奉行より奉伺候稜左之通
     軽輩の内席禄に困って御奉行より伺う稜左の通
   歩御使番より歩御小姓列以上伺之
  歩御使番より歩御小姓列以上の伺い
     但御在府之節急成儀ハ不及奉伺上而達尊聴
     但御在府は節急なることは伺い奉るに及ばず上にて尊聴(殿様の御耳に)に達す
一、諸役人段御切米拾石三人扶持之内被減候者并御給扶持被差救候もの伺之

  諸役人段御切米拾石三人扶持の内減じなされる者、并御給扶持差救われるもの伺い
一、御切米拾石三人扶持被下置候者御咎に付而役儀被差除又者病気或者役儀立不申御免之節勤之年数ニ依而御切米之内被
  減候儀且又歩
御使番以下段格御給扶持持懸ニ而役替退役被仰付又ハ拝領物或ハ閉門逼塞遠慮等被仰付候儀者達 尊聴
  ニ不及
  御切米拾石三人扶持下し置かれる者、御咎に付て役儀差し除かれ、又は病気、或は役儀御免の節、勤の年数に依て御切米の内被じなされること
  
且又歩御使番以下、段格御給扶持持懸にて役替退役仰付けられ、又は拝領物或は閉門・逼塞・遠慮等仰付けられたることは、尊聴に達するに及ば
        ない。


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■一色軍記(7)

2021-07-31 07:17:22 | 史料

・・・・・・最早鶏鳴にも成りさむ候へば御心まかせに休足の用意申付べしとて沼田勘解由を呼出し盃に
取方申付られける。沼田心得座敷に出て石川左衛門に談じければ石川、金谷口を揃へ申けるは、其方事一
色家累代の厚恩を忘れ七代の主君をたばかり、自から城に放火し敵を引入夜打を計り譜代諸將を打死させ
けるに依て、とてもひらかぬ運命なりとて御主君義道も御切腹有ける也、其不忠不義のいたづらを忘今日
の取持貌言語どうだんの振舞也、義俊殿の御目通は勿論銘々とても對面すべきおもては持たず罷立と呼り
ける。沼田勘解由は空吹きから/\と高笑ひして申けるは一大事の義ながら汝等如きめくら侍迄忠の不忠
のといふがしほらしさに申て聞せん。先達て天正六年の冬一國平均の事藤孝へ仰付られしは将軍信長公の
にくみ給ふが故なり、迚ものがれぬ一色家の滅亡ながら死殘たる義昭公の浪人此時に逢ひて打死を極美名
を流し申さずんば末代迄足利家の恥辱なりと、共に籠城の心をはげまし廿三度の戦ひ有ける。冬陣にも某
が高名數を知らず此事は君も知り人も知りて、義道御感の墨付とも數通給る、然るといへども一色家のい
せひ日々におとろへ滅亡の時至れば何卒長岡家に近付和睦を調へ義俊殿を取立参らせんと態と我が持口に
放火し敵を引入夜打を計り譜代の主人に腹切らせし不忠不義のいたづら武士があればこそ和睦を調げ御婚
禮を取持一國両輪の大將とはなしける也。此度將軍家の御招有る事を察るに足利義昭の浪人たゝずむ所無
儘に御一族を申立に一色家へ入込み折を窺ひ家名相續の催しせんと相計るの御にくしみ、二つは和睦の後
も心解ず當家と不和合彼是申譯無の事許り重りけるも、皆々己等が忠臣貌の取持なり、口惜の世のなり行
やと云ひもあへず石川の右の肩先切付たり石川も深手ながら抜合て相戰ふ。金谷をはじめ一色宗左衛門大
音声に呼はりけるは義俊殿の一大事此時也。御傍の随ひ参らせよとのゝしる聲の間毎々々の聞えければ、
盛つぶされし若手の侍から若黨足輕以下うへを下へと立さはぎぬ連/\切結ぶ、皆々酒狂のさうどうなれ
ば同士打の者もおふかりける。石川は初太刀の深手に弱りついに勘解由に打たれける。石川文吾秀澄は別
聞えし打物の達者暫くいとみ戰ふ所に誰が下知や仕たりけん間毎の燈火一度に消して闇討に成けるにぞ、
文吾は勘解由を見失ひそこよ爰よと尋れ共勝手覺ぬ敵の城内闇がりのかなしさせんかたなく途方にぞくれ
立たる所に、義俊、金谷を數十人にて取巻相戰義俊も深手にくるしみ給ふありさま見ると、其儘一間に飛
込み石川秀澄是にありと名乗懸て切立る。

 

 

 

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■内容同じ、和装本(昭和11年)と復刻版(昭和48年)二件

2021-07-30 18:07:17 | オークション

 内容は全く同じ「肥後人名辭書・全」が偶然出品されています。和装本は非常に状態もよく値段も安くてお薦めですね。     

細川護立&徳富蘇峰題辞◆肥後人名辞書◆昭11初版本◆肥後国熊本県剣道剣術大力古武道儒者学者文人画家絵師医学者熊本藩和本古書  

             

 

◎肥後人名辞書 全 復刻版 昭和48年 熊本 郷土 史料

             

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■一色軍記(5)

2021-07-30 06:47:03 | 史料

時に同十九日京都の將軍信長公より廻文到来仕候而、明智長岡一色の三家今以て不知の趣將軍聞こしめし
おもはり急ぎ同道にて上京有るべし、もし又上意にそむき上京なきにおゐては大軍差向ちうばつ有るべし
と有によつて三家の騒ぎ大方ならず。中にも一色義俊は籠城の諸將と評定におよばれけるは、所詮當家の
めつぼう此時當れり其故は義俊上京せば是迄の不義をいゝ立午前におひて切腹仰付らるべし、又上京の義
いはひせば明智長岡に大軍差添當城をせむべしとてもひらかぬ運命ならば三家同道と有るを幸、田邊の城
に入込長岡父子に近寄ことのよふすを尋ねるてひにて一刀に打果し父義道の無魂に手向、其後心よく切腹
せんと有けるにぞ。大江杉山初め籠城の面々將軍尊氏當國をたまはり足利御一族の列にて人もしつたる一
色の家名を失ひ候事の淺ましさよ、併義俊公大事にも及たまはゞ三郡の諸將彌心を一つになり吉原越前守
殿を義俊の伯父なり大將として長岡の討手引受いさぎよく討死して名を後代に極むれば義俊此旨尤の存念也と泪
を流し申されける。其後田邊の城へ使を立申入けるは京都御廻文の趣承引に付明廿二日其地迄發向可致候
御同道の用意可被下候と申送まづ入城の供若手をえらみ百五十餘人に定、二番手は夜に入て兵船を調荒須
帯刀に二百七十餘人相添出船すべし、又三番手は高屋駿河守父子松田摂津守に四百餘人随へ向へしと有て
諸將に暇乞の盃を被下、吉原越前守殿へは足利新判官殿より傳はつたる緋おどしの鎧に金ふくりんの軍配
を給はり、大江杉山へは紺糸おどしの鎧に太刀を被下さる。扨又二月廿二日卯上刻岩淵の濱を出船有ける
御頭衆に石川左衛門秀門、同文吾秀澄、金谷藩左衛門詮元、一色宗左衛門範國、蘆屋甚助、金澤彌蔵、大
江彌藤治、須津新蔵、五十河右平太、稲留幸内、楠田裕蔵、星野仙太夫、赤尾九郎五郎、日置小次郎、井
上宇惣太、近藤三十郎、飯田儀左衛門、後藤丈助、後藤新兵衛、石子三之丞、佐野佐吉、伊藤中平次、小
西藤十郎其外若黨足輕百五十餘人小船五艘にて乗出し巳刻下り磯邊山の渚に付く、是より一色宗右衛門上
船して城内へ案内いひ入ける。斯る所に遠見の者より告たりとて長岡の家臣佐方吉右衛門澤村才八麻野吉
左衛門馳走の船に幕打酒肴調へ船中の饗宴大かたならず、福井の山根に船を留て八つ半比迄すゝめける。
其後京橋に着船して兎角する内薄暮に及び夜に入て本丸へ入られけるを佐方吉右衛門が案内して其儘風呂
にすゝめける。湯殿の内へは石川文吾秀澄、近藤三十郎、楠田祐蔵、後藤丈助其外従侍十人足軽一組は裏
手の庭へ廻し心能湯に召れ暫休足有る内初夜の鐘聞えければ、饗應の膳をすゝめ手を替酒をすゝめ密談に
も不及して夜半を過る。石川、金谷若殿原に申けるは此度強とへ召るゝことは三家不和合成るを御とがめ
有ての御事なれば斯御饗應にあづかる事將軍家への申開の種共成べき程の面目ながら大切の供先にて大酒
に及ばれ候ては不心得の至り也急度御たしなみ有て可然と申ける。藤孝父子麻野を以て申されけるは、石
川、金谷の心遣ひさる事に候へ共聟君初て御入の事に候へば當家の悦此上に事なく存るより一統不遠慮に
酒を進め申也。

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■一色軍記(4)

2021-07-29 07:25:17 | 史料

まづ丹波丹波吉原城に御一族
                   (後・峯山城)
      吉原越前守義清      近藤玄蕃頭善明      同 兵庫光明
      近藤佐次右衛門      加納下總守        中瀬兵衛

      荒木佐助             楠田掃部頭        荒須帯刀
                            (後・山城 細川家臣)
      横田傳太夫        兼井兵庫頭        田中助八
      三宅美作守        金江佐渡守        同 右門五郎
      飯田越前守        藤戸信濃守        田中定太郎
      石子紀伊守        原 主水         成吉加賀守
      山口弾正         山岡民部         島田對馬守
      山淵傳左衛門       由利助之丞        今西和泉守          
          竹野郡
      松田摂津守        岡山城之守        同 遠江守
      荒川民蔵         大村長門守        大條家安
      野尻隠岐守        高屋遠江守        後藤新兵衛
      赤尾但馬守        今井能世治        伊藤彌兵衛
      茂呂助之進        星野周防守        井上惣左衛門
      松田越中守        岡村半平         佐々木十兵衛
      坂根修理亮
          熊野郡
      氏家大和守        佐野備前守        仲原權太左衛門
      森脇宗坡入道       小寺小治郎        小倉若狭守
      水島幸左衛門       關 丹後守        松倉周防守
      香久山勝右衛門      小西入道宗雉       粟田内膳正
      岩手角之丞        小西六郎左衛門      山本平十郎
 右三郡の諸將へ廻文を以て相觸ける。此廻文府中の一色末葉所持となり。
          弓木在城之人々
      大江越中守        杉山出羽守        石子紀伊守
      千賀常陸守        同 孫三郎        同 山城守
      島津藤兵衛        同 伊織         倉内將監
      三留豊前守        同 左馬之頭       小出左京
      高岡出羽守        坂野四郎右衛門      上野甚太夫
      片岡惣十郎        前野半助         江木豊後守
      江木七郎         鹽見筑前守        萩野悪右衛門
      赤井五郎         同 半吉         石川左衛門
      石川文吾         同 五良右衛門      金谷伊豆守
      藤田左右衛門       疋田孫九郎        新井左吉

 右の面々弓木村に有て軍器兵具を取立し用意半におよびけるを誰がいふとなく田邊へ聞え藤孝父子大き
におどろき早速聟入延引の使者上羽佐右衛門村上久右衛門を以て申入られけるは、老人事餘寒の痛つのり
此節御客もふけなりがたく此方より日限の御案内申入候迄御延引下さるべくとあつて聟入延引の事相済、

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■ワクチン接種完了

2021-07-28 15:23:56 | 徒然

 八月には3,000人になると言われていた東京のコロナ感染者数が現実味を帯びてきた。
熊本も10日ほど前は0人だったのが、昨日は44人、30人越えが3日続いた。
私は今日午後から二回目のワクチン接種を済ますことが出来た。まだ前回のような腕の痛みは出ていないが、今回はどうだろう?
ところで奥方は相変わらず申し込みをしようともしない。

何度も話すのだが頑なである。若い人が先だというのだが、「接種はしない」というのが本心なのではないか?
まずは私からうつすことは事はなくなるという話だろうから、一安心ではあるのだが、結婚して50余年奥方の意外な一面を見た感じがする。
すっかり熊本人になり、もっこすである。

処で今日はうっかりしてマスクを持たずに出かけた。行きつけの病院だから看護婦さんが顔を知っていてくれたのか、マスクを提供してくれた。
「アベノマスク」ですよ、と言葉を添えて・・・

安倍さん、貴方のマスクは意外なところで活躍していますよ。有難うございました。??

 

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■一色軍記(3)

2021-07-28 06:35:13 | 史料

・・・・・・・・・・・・・・・・・  嫡子五郎義俊(細川家では義有としている)は裏切りをすべしと大船山
に百餘騎の勢を伏おりを窺ひ有ける所に大江杉山の方より義道討死の次第をつぐる。義俊沼田が悪心を聞
ていゝがひなき父の戰死悔かへらぬ事なれども、たとひ沼田悪心にて敵にふゐを討れ落城に及とも一方を
切破り奥三郡一手となりて戰は長岡方に勝利は得させしおもひよらざる戰死なりと、大船山引落細川の本
陣へあしゆら王の荒たるごとくなぎ立/\相戰ふ。跡につづきて大江杉山金谷近藤高屋石子石川等追々に
返り合て相戰ふ。元より馬上の達者ともかけ立/\横合より突出せば長岡の大軍さんざん亂立爰かしこに
討死す。 義俊諸軍に下知していはく所詮追かけ戰ふとも爰にて勝利けつすにもあらず一先奥郡へ引やと
て、甲首百九十餘鎗の穂につらぬき馬にてゆふ/\と餘謝郡弓木村へぞ引かれける。去ほどに弓木は前に
海を受後に王落の高山有てたやすく敵の寄すべきよふなし。奥三郡の諸將通路よくかくて長岡勢弓木山へ
おし寄數度の戰有といへども一度も利を得ず追歸され、さしもの藤孝もすべきよふなし。松井有吉両人を
         伊也

もつて和睦を調娘をば義俊の妻に送り一國を両輪に納めんとやくして、將軍家へも此よしを権正せられけ
る。信長公御許容有て天正八九年の両年に一國の騒動納り八十五ヶ城の諸將田邊と弓木とへ随両城へ相勤
む。然る所天正十年正月十日に長岡藤孝使者をもつて年始の加儀をしゆくし次手に義俊へ申入られけるは
老人殊に冬年より殊の外寒氣の痛行末心元なく存る也、かく迄聟舅となりながく一國を納めん印には何卒
一度當城に御入有て忠興興元とも兄弟のまじわりなし被下老人が心を休たまはらば此世の本望此上なしと
て御孫忠隆米田與七郎を相添弓木の城へ被遣ける。義俊使者の趣を聞てすぐに大江杉山へ談じける、大江
がいはく藤孝の御思召御尤去ながらかぶとをぬぎ弦をはづして漸二ヶ年いまだ敵に油断ならずとくかひ詰
腹等の難もあれば一國を長岡にうばわれ末代の恥辱すゝぐべきよふなし、無用の返答しかるべしと申け
る。又杉山出羽いはく大江評定差當る理至極ながら藤孝に計略あれば此方にも術有一旦心よく請合氣に入
らぬ所もあらば三郡の諸將を招聟入のてひに事をはかり田邊の城に入て長岡父子を打取一國のなげきをや
すめんとかたりける。義俊両人が評定我存念に同意せり吉日をえらみ近々入城米田をいつはり返答あれば
米田は悦忠隆の供して歸りける。弓木の城には評定日夜なり、同十三日廻状をもつて奥三郡の諸將を集。
                 (つづく)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

注記:この記述における沼田幸兵衛は、細川家資料(細川家譜--細川藤孝譜 ・・ 12)では貫幸兵衛あり間違いである。
   後に、中山城は沼田勘解由左衛門・延清(細川藤孝室・麝香の兄)の治めるところとなる。

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■予習・・徳永洋著「横井小楠」

2021-07-27 11:07:34 | 書籍・読書

 横井小楠に関する本は結構読んだが、地元徳永洋氏の著作「横井小楠」は持っていないのでAmazonに注文した。

                      

 実は、熊本史談会では来月この徳永洋氏を講師にお招きして「横井小楠」をお聞きすることになっている。
ならば御著を読んでおこうという訳である。氏は日本銀行にお勤めだったが、横井小楠研究に没頭されているようだ。
お聞きするところ、横井家の一族であるみたいだ。以下は私の全くの推測話である。
徳永昌孝という人物がおり、その娘・清子が不破家の養女となり小楠の兄時明に嫁いでいる。つまり横井左平太・大平兄弟の母親ということになる。
一方、徳永昌孝の姉か妹か不明だが、徳富美信なる人物に嫁いだ。徳富蘇峰・蘆花兄弟の祖母にあたる。
つまり徳富一敬(長男)の母親だが、四男が生母の実家・徳永家に養子に入っている(昌龍)。
その子が規矩氏で蘇峰や蘆花とは従兄弟となる。そんな時代の人物だが、徳永洋氏はここにつながっているのではないかとひそかに考えている。

本が届いたらこんな余計な詮索はよしにして、精読して、史談会の折には質問もぶつけてみようかと考えている。

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■一色軍記(2)

2021-07-27 06:27:56 | 史料

       一色式部大輔義道之事     注:義俊(義有)の父
 正親町天皇永禄元年父松丸譲り請て領主となり永禄八年將軍義輝公三好は松永が為に討れたもふ、御舎
弟義昭公を取立尾州信長を頼む、其後義昭公心替り頼たる信長を害せんとはかりたもふ、此時義道足利累
代の一族なれば義昭公に從がつて信長公に敵とふ。信長此こと深くにくみ長岡兵部藤孝に仰られ丹後一國
を平均して楯籠る足利の殘徒を亡し一色亡においては丹後の國主となすべしとて、依て天正六寅十一月
藤孝父子、丹後の國上宮津八幡山に陣を取り有一色に随ふ足利の殘徒と相戰ふ。大將分には小倉播磨守野
村将監河島備前守井上佐渡守小倉筑前守日置弾正同小次郎千賀常陸守同山城守手を替いたく相戰ふ。長岡
勢大軍なりといへども數度の戰に一度も利を得ず、明智日向守此よしを告て丹後表の加勢をこふ。又成相
の山徒も頼、其外近江の勢とも追々馳くわゝり一色方大軍になる。長岡の戰ひ勝利なきによつて夜に入
加佐郡大内山へ引しりぞく、又手を替建武山の本城と戰ふ。四部諸將跡追來て戰へども勝負けつせざる處
に十一月廿七日ふり人馬足の立所なく両陣相引にしりぞきけり。
 十二月朔日明智光秀に談じて日置籠城の武將松井四郎右衛門を長岡の軍將に頼むや、將軍信長光秀の頼
に任せ加佐郡大内山へ主從四百豫人入城す。有吉將監是に同意して長岡の陣代となり明智光秀のいはく皆
信長の命なりとことをはかり此時廿三度の軍記府中に一色末葉有て紛失す天正七年正月廿一日一色義道終に戰ひまけて八田の城を引
拂ひ、中山の城沼田幸兵衛が方へしりぞき殘軍を取集奥郡へ引退かんと談じけるを、沼田俄に心替りて松
井有吉へ内通す。長岡の城には評定有て軍士を調中山の城へ向ふ大將軍には嫡男與市忠興舎弟興元松井四
郎右衛門有吉将監牧左近香久山勝右衛門荒木佐助澤田出羽守中島左近中瀬平柳田半助澤村才八米田與七郎
久保三太夫正源寺大炊之助同源太西部傳左衛門和久五太夫坂田吉右衛門都合一萬四千七百豫人二手になり
て相戰城主沼田は兼てより持口破り義道父子に腹切せおのれがこふを立て長岡に降らんと計略を畫けれど
も、身命をなげうち足利の殘徒なれば義道父子の智勇にしたがひ火花をちらして相戰ふ。長岡大軍なれば
うち死のもの多かりけり、かくて二日二夜互に勝負みえざるなり。一色家の諸將は陣代大江越中守高屋駿
河守近藤兵庫守石子紀伊守金谷伊豆守山口弾正石川佐右衛門烝荒須帯刀赤井五郎左衛門大村長門守大和守
出羽守筑後守白杉主税横田源太夫四千七百豫人双方戰といへどもいづれの持口も終に破れず、軍三日に及
ければ松井興長沼田が元へ忍びを入持口に火をかけんとはかる。沼田心得松井が指圖に任せ夜更人しづま
りて持口に火をかけ是を相圖に敵を引入長岡勢思ふまゝの夜打也。一色方はとふてんし亂入て相戰ふ、義
道も秘術つくしけれども大勢に取かこまれ由良川の邊にて討死す。(つづく)

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■一色軍記(1)

2021-07-26 08:24:39 | 史料

 一色軍記

    一色家系圖之事
 清和天皇八代之後胤の義家安孫四男式部大夫義國三男足利新判官義康二男上總之助兼義左馬頭義氏の
 嫡子宮内之少輔泰氏之八男有て内四男宮内卿一色の元祖と云ふ、母は判官代之女なり。
一色修理大夫範光 後に入道道猷と號す 一色太郎範氏
 九州のに度々大功有によつて一色父子三人丹後之國を給り太郎範氏には宮津市場に居城させ左馬之頭
 範氏は加佐郡八田に城を築く是建武山の城と名付。
一色左京大夫詮範  式部少輔と號す
 嘉慶年中の頃山名播磨守と戰終に打まけ吉原にしりぞき山名の幕下となり一色の諸將打死多し。
一色修理大夫満範
 後小松之天皇明徳二年山名氏清と戰ひ一圓丹後之國主となる。
一色兵部少輔義範
 伊勢國比畑と戰功多し。又嘉吉三年八月一國に洪水して農民飢る、此時義範一國の貢をゆるし民をす
 ひたもふゆゑ情源名將と順國志に見えたり。
一色左京大夫義直
 應永年中山名宗全に組し御敵となる此時嫡子五郎義春戰死によつていとこ義秀を養とす。ゆゑに一色は
 國主にあらずといへども八十五ヶ城に譜代の諸將を入置一國を押領す一色義遠義直御敵の名を取る。
一色五郎義季  後に改名して丹後守松丸ともいへり
 永生之頃若州武田大膳大夫と成相山にて戰ひ大膳之大夫からき命をのがれ船にて逃る、其時は丹後守松
 丸と號昭公越前御幸之時一色松丸同式部大夫御供なり。
一色式部大夫義道
   (詳細次回) 
             
                WEB参考資料ウイキペディア‐一色氏
                      :武家家伝‐一色氏
                      :宮津へようこそ、丹後の守護一色氏 一色義俊の謀殺
                      :丹後守護・一色氏代々控  梅本政幸

 

 

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■美里町の橋たち

2021-07-25 10:56:41 | 熊本史談会

         

 この写真は、写真家・田中栄一氏の写真集「花・鳥・風・月」にある二つの橋である。
昨日の史談会では、石垣・石橋の調査や修復の専門家であり、一方熊本四街道連絡協議会の事務局長をされる中村秀樹氏を講師にお招きしてお話を伺った。
主題として登場したのが、大きな被害を受けた津留川に架かる右側の石橋(下流側)「ニ俣福良橋」の解体修復に関する細やかな解説であった。
この橋が地震の被害を受けたため、完全解体されて復旧されたものである。

私は講演を伺いながら左手(上流側)の橋「新二股橋」も近代工法ながら見事な造形美であることを声に出したい衝動に駆られていた。
この見事な橋が石橋ではないゆえに、あまり取り上げられないのは大いに残念である。

見事な新旧対象の隣り合わせた二つの橋を知っていただきたいものだと思い、写真集から引用させていただいた。
そしてその思いを見事に表現された写真家の力量にも敬服するのである。
それぞれの道の先達に教わる事は真に心に響く。

ちなみに、若者の間では💛型の日の光を形作る橋として訪れる人が多い橋は、釈迦院川に架かる「二股橋」である。(お間違いなく・・・)
そして見ることが出来るのは、10月〜2月の間の5ヶ月間の午前11時半~正午ごろの約30分だけだそうな(お間違いなく・・・)

       

                25名の出席があった7月例会会場                                                       三つの橋関係図 

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■球磨村を応援しよう

2021-07-25 08:49:37 | 書籍・読書

          

 昨年の人吉・球磨地方を襲った未曽有の大水害は、昭和28年の熊本大水害を上回るような大規模災害となった。
少学6年生の時に遭遇し死ぬ思いをした恐ろしい風景が今でも思い出され、人吉・球磨地方の方々の今もつづくご苦労を思うと同情の念を禁じ得ない。
 そんな中、一般社団法人・くまむら山村活性化協議会は「球磨村七十九集落巡り」という三冊一部の冊子を発行された。
79の集落全てをめぐり、写真と共に解説がつけられた「見どころ満載」の村の紹介の一大プロジェクトである。
これを協議会が無料で配布されていることを、各種メディアが報じていたので電話で申し込みをしてみた。
そして図々しく、熊本史談会会員に配布したい旨をお願いしたところ、今般快く会員数をお送りいただいた。
加えて「球磨村の棚田22選」「地域資源探訪Map‐山人の里・球磨村」の二冊を添えての事である。深く感謝申し上げる。
そしてこのことは、大被害を乗り越えて復興に立ち向かう村民の皆様の力強さを象徴しているようにも思える。
一日も早い復旧復興と、球磨川の流れの清らかで平穏であらんことを願うばかりである。

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■祝・大矢野家由来の「蒙古襲来絵詞」国宝指定へ

2021-07-24 14:30:36 | 熊本史談会

                
 先月の史談会では「蒙古襲来絵詞・白描図」の展観をしたところだが、講演をいただいた当会副会長・大矢野氏のお宅由来の皇室御物(現・宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)が国宝に指定されることになった。
今日の例会では会員一同でお祝い申し上げたところである。
そして、九州国立博物館では「皇室の名宝‐皇室と九州をむすぶ美」展が開催されており、ここに「蒙古襲来絵詞」が展示されている。
私たち史談会の会員は、白描図の方は何度も拝見しているし、国宝図には描かれていなかったり欠落している部分なども見ることが出来て、まことに幸せというほかない。
そしてこのような歴史が身近に感じられることをありがたく思う。感謝・・

                                                

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■先行きが怪しいオリンピック

2021-07-23 13:28:22 | 徒然

 オリンピック開会式を前にして、ここ数日間のごたごたはどうしたことだろう。
関係者の過去の発言が白日の下にさらされて、国際的にも恥をかく結果となった。よくぞまあ、これだけの倫理観のない人をかき集めたものである。
組織委員会の力不足が目を覆うばかりで、これは政府が外からコントロールしなければ、近づく選挙にもマイナス材料になるだろう。
自民党大敗するぞ・・・
現組織委会長の力不足もいなめないし、丸川とかいう五輪相も甚だ以て情けない感じである。
そして直前になり森某なる前組織委会長を名誉最高顧問にしようとする動きとか、迷走ぶりがはなはだしい。
加えて参与の夏野剛氏が「アホな国民感情」等発言してあわてて謝ったりとか、脳学者・茂木健一郎氏はこれは確信犯的に謝ることなく「ごちゃごちゃうるさいノイジーマイノリティーの方」発言とか・・・
もう馬鹿々々しくてあきれ果てるばかりである。

 昼の朝日系のTVでは、上空にヘリが待機してブルーインパルスの五つの輪を描くところを撮影していたが、雲が広がり見事失敗、司会の恵氏など頭を抱えているさまが大いにおかしかった。先行きにも暗雲が広がる感じである。

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■確かめねばならぬ真下家の先祖附

2021-07-23 13:05:24 | 先祖附

 「一色軍記」を取り上げるにあたって、引っかかっていることで「真下家」のことがある。
細川家に残る一番古い侍帳「御侍帳并軽輩末々共ニ」に、次のような記録がある。

    乗物かき小者頭
 三百石    丹後   真下七兵衛
     父ハ一色義有  真下梶之助元重

これは七兵衛が父梶之助の子であることをさしているが、その父が一色義有であるともとれる書き方である。
この事がいろんなところにまことしやかに拡散されている。
「先祖附」を確認していないから、これは早々に確認せねばと思っている。

少々こだわっているのは、忠興の側室に真下氏があり岩千代(後の松井寄之)を生んでいる。
光永文熙氏の「平成宇土細川家系譜」においては、一色義有真下梶之助元重女・才とあり、上記の御侍帳の記述には「臣」が脱落していることを伺わせる。これが正解であろうと考えているのだが・・・

そして先にもご紹介したのだが、元和4年(1618)の秋この忠興の側室・才はのちに沼田延元に再嫁している。
いわゆるフリーの身ではなかったらしく、「おさげ渡し」であったようでこのことに延元は「死を賜ってもご辞退したい」としている。
これに対し、忠利が説得に入り「そうであれば自らが介錯しよう」とさえ言っている。(沼田記)
延元はやむなく「才」を受け入れたが、数年後には「才」を残し死去した。
我が子の岩千代(元和3年正月生まれ)は、6歳で松井興長の養嗣子となったが、生母と別れたこの岩千代はその間どのように育てられたのだろうか。養母が忠興側室松の丸(藤)の娘・古保であり、わが手で育てることは叶わなかった。
細川家の歴史にも悲しい話が盛り沢山である。

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