津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■藤の花

2023-04-14 15:41:22 | 徒然

 今日の熊本は少し下り坂で午後は雨が振りだしそうな中、折りたたみ傘を持参して散歩に出かけた。
近所の錦が丘公園で過日見かけた藤棚の咲き具合はどうだろうと足を延ばす。
昨年は手入れの時期がまずかったのか、葉がやたらと生い茂り藤の房が下がるとまではいかなかった。
今年は少し時期が早いようだが、一部きれいな房が下がって綺麗な姿を見せ始めた。
この公園はかなり広くて、林(?)の中に足を踏み入れると、足元が柔らかくて自然を感じることが出来る。
桜はすっかり葉桜となったが、替って今はツツジが妍を競っている。
熊本はあまり黄砂の影響はないが、どんよりとしたお天気は写真に撮るにはあまり条件は良くないがシャッターを押してみた。

                   

 今日は熊本大地震の余震から七年目である。その時も君は咲いていたのかと藤棚を見上げてふと考えてしまった。
左の写真の左下部に見える様に、朽ち果てるような老木だが今年もきれいな花を付ける。

 

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■忠利の幼・少年期から継嗣となる迄

2023-04-14 12:35:34 | 人物

 ■明智光秀の甥って誰で、細川忠利が愛宕山福壽院下坊に入院した時に明智助九郎がお供した事を書いた。
考えて見ると忠利という人は、幼少期から福壽院下坊で勉学に励み、その後は江戸證人として江戸に詰めるという生活を強いられている。父忠興・母ガラシャの想いは如何なものであったろうか。
忠利は天正十四年(1586)十月の生まれで、文禄三年(1594‐9歳)五月から慶長三(1598‐13歳)年二月迄の約4年間、この福壽院下坊で勉学に励んだと言われれる(吉山市右衛門家記による)
記録に留められたものは見当たらないが、それぞれの家記から吉山福万・田中意徳・松山兵左衛門や先の明智助九郎等が学友としてお供していることが確認できる。
慶長五年(1600‐15歳)正月廿五日には、江戸證人として再び父母の許を離れて大坂から出立して江戸へ向かった。
その時の御供は、中嶋備中・福池与兵衛・松田(杉原とも)慶順・牧五郎・住江甚兵衛・松田五左衛門・本庄久右衛門・稲留平七・桑原喜兵衛等がお供している。
父忠興は替りの人を上げて忠利の江戸證人の身を解放しようと努力しているが、これがなかなか実現しない。
江戸城普請や辰の口に屋敷地を拝領して上屋敷の建築なども並行して居り、これらに忠利は多忙を極めている。
慶長九年(1604‐19歳)の夏の頃より忠興は煩い、これが思いのほかの容態となった。御存命の間に対面するようにとの家康・秀忠の内意により忠利は初めて小倉入りしている。
そして八月廿六日付けで家康・秀忠から忠利の家督の証書が発せられた。
しかし忠興は本復し「忠利君ハ中津二御移被成候、江戸江御上人として御出被成候已後初而之御入国故、いつれも恐悦之至奉賀候也」と綿考輯録は記しているから、この時期江戸證人の身分は解かれたのだろう。忠利の江戸證人の身分は4年7ヶ月に及んだことになる。

これを受けて忠興は、慶長十年(1605)忠利に替り兄興秋をもって江戸證人となすべく小倉を発足させたが、興秋は京都で剃髪してこれを拒否した。
その他、多くの有力家臣の子弟も江戸證人を派遣している。

慶長十六年(1611)には忠興の生母・光壽院が證人として江戸住まいすることになる。

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■明智光秀の甥って誰

2023-04-14 08:10:46 | 人物

 昨日は図書館に出かけ、膨大な上妻文庫のリストを見ながら、ある史料をコピーした。
その前後を見ていると摂州讐討談話(近世畸人傳・僧南谷)の記事が有り、その末尾に「中瀬先祖附」(当助九郎母方祖)があり、その頭書に細川家家臣・中瀬家の初代助九郎の母が「明智光秀甥之子ニ而御座候」とある。
資料は所蔵してはいるが、その部分を念のためにコピーした。
この中瀬家、初代助九郎実方の祖父は松下嘉兵衛(秀吉が最初仕えた人物)である。
「近世畸人傳・僧南谷」は助九郎の父・源太左衛門の次弟である。
源太左衛門は加藤家の会津騒動の節浪々の身となり、嫡男豊長と共に官途を求めて江戸に出んとする。旅の途中父源太左衛門が不測の害にあい死去、寛文九年、豊長十二歳の時の事である。豊長は剣の修業を積み十四歳の時仇敵を打ち取った。摂州讐討談話に詳しい。
その話を聞きつけて多くの大名が召し出そうとしたが、明智の血筋を以て後細川家に仕えたとされる。
 そして改めて「明智光秀甥」とは何方だろうと考えた。甥の子・明智助九郎は生まれた年に父親が死去している。
それ故父親の名前は判らないとしているが、明智の血筋という事でガラシャ夫人に引き取られて育てられたという。
そしてガラシャの子・忠利が愛宕山福壽院下坊に入学した時、お付きとしてお供したとされる。
忘れていたのにまた一つ、気に成る事柄が顔を出した。

 

明智光秀甥の子           加藤式部少輔明成養女
 明智助九郎ーーーー中瀬彦三郎ーーーーーー娘       (初代)    (二代)    

遠州久野城主                                ‖ーーーーーーーーーーーーー助九郎ーーー助之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→500石・中瀬助一郎家
 松下石見守ーーーー外記ーーー+ーーー源太左衛門      豊長     長徳                       
        方綱  |  忠綱(中瀬姓となる)     
            |
            +ーーー僧・南谷
                  

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