津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■細川護久と深水家の関係

2023-08-31 06:12:25 | 人物

 細川家14代目の細川護久は、明治元年十一月五日に佐賀の鍋島齊正(閑叟)女・宏子と結婚する。
実はその年の八月三日、側室・深水縫との間に建千代を為していた。のちの15代・護成である。
この事実について、花嫁について来た大隈重信が噛みついたという伝聞が残る。
この間三ヶ月しかないから、鍋島家に伝えられていたのかどうか・・詳しい経緯を知らない。
この深水縫については、水俣の惣庄屋・深水家の最期の当主でのちに初代の水俣村長になった深水頼寛の娘だとされる。
これは、井上智重氏の著「異風者伝」にある「深水吉衛」の記事で知った。吉衛は映画俳優となった。
戸籍上は頼寛の8男となっているが、実は孫らしい。複雑な事情があるという。
 尚、護久の生母・田鶴も深水氏であり、加藤家の養女となり12代齊護の側室となっている。井上氏は「縫は(護久)生母の姪」と比定されている。
花岡興輝氏著「近世大名の領国支配の構造」にある「水俣氏」系図には12代当主として最後に登場しているが、田鶴や縫についての記述は一切ない。
田鶴は護久を生んで三年後に死去している。加藤家の菩提寺でもある西福寺に眠る。

 護久には護成の他に、正室・宏子の子として護全・護晃・護立三人の兄弟がある。
護全は叔父・細川護美の養嗣子となったが24歳で戦死している。
護晃は14歳で男爵家を創家するが17歳で死去する。跡を弟・護貞 護立がつぎ、大正三年長兄・護全 護成が47歳で死去すると護貞 護立が16代を継承する。
正室を生母とするのは4代の光尚以来であることを思うと、側室の有りようと言うものを深く考えさせられる。

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■禅定寺脇の都市計画道路工事始まる

2023-08-30 10:11:48 | 歴史

 我が家には菩提寺が二つある。その一つが横手の禅定寺だが、ここには曽祖父・又太郎一家と絶家した三男の一族のお墓がある。
曾祖母は上田久兵衛の嫡女・晩稲だが、その実家上田家のお墓が禅定寺の西北の角に存在する。
禅定寺の西側を都市計画道路が走っていて、工事が始まれば上田家のお墓も心配された。
禅定寺はいわゆる歴史墓がたくさん残る。
禅定寺を興したとされるのが加藤清正の家臣・並河志摩守だが、そのご子孫s女史が史談会の会員だった。
政治力のある方で強烈な反対運動の先頭に立たれ、これが効を奏して県知事が現場確認に訪れるなどして、その都市計画道路の路線変更されることになった。もう10年ほど前のことである。
上田家のお墓も難を逃れた。
難を逃れきれていないのではないかと心配されるのが藤村紫朗のお墓や、剣客・雲林院弥四郎などである。
その工事が始まったと聞く。

 藤村紫朗は山梨県縣令などを務めた人物だが、旧姓は黒瀬氏である。寺原家鴨丁で黒瀬市左衛門の二男として生まれた。兄は市郎助という。
いわゆる横井小楠の「市道忘却事件」の舞台となった、江戸留守居役・吉田平之助別宅で都築四郎や小楠が酒宴を開いている処を、この黒瀬市郎助等が襲った。
事件の詳細はここでは触れないが、黒瀬は逃亡し、吉田の嫡男・傳太は敵討ちの苦しい旅を重ねる。
黒瀬は四国松山で捕獲されて熊本藩領・豊後鶴崎に護送された。
その時の顛末を我が家の曽祖父・又太郎安正が「吉田傳太復仇一件聞取帳」「 吉田傳太復仇現聞録」として書き遺した。
覚悟した黒瀬市郎助は立ち向かう事もなく、吉田傳太のもとに首を討たれた。
吉田家の墓前に市郎助の首が供えられたが、市郎助の母親が訪れて「その首にはもう用がないでしょうから、持ち帰ります」といって持ち帰ったという。
その首は、弟・藤村紫朗のお墓の隣に在る黒瀬家の墓地に埋葬されたのであろう。

市郎助を訊問している又太郎と、その市郎助のお墓は100m程しか離れていない。
禅定寺西側の、都市計画道路の工事が始まっと言う話を聞いて、黒瀬家のお墓はどうなるのだろうかと心配をしている。

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■実学党坪井派の長岡是容死去に際しての、沼山津派・横井小楠の想い

2023-08-30 06:51:20 | 歴史

 実学党の巨頭、家老・米田監物(是容)と横井小楠の決別は安政2年(1855)の頃だとされる。
その原因は「大学の道は闘徳を明らかにするにあり、民を新にするにあり」の解釈上の相違であった。
攘夷論者であった監物と、開国論で対した小楠は修復し難い亀裂を生み「絶交」した。
この時期からそれぞれの住まいの地の名により、小楠は沼山津派(新民派)を形成し、監物は下屋敷がある地名から坪井派(明徳派)を形成した。

 それから過ぎる事6年後の安政六年八月十日に監物は死去した。
福井に居た小楠に対して「下津久也・荻角兵衛」が訃報を届けた。これに対する小楠の書簡が残されているが、遺族に対しては「絶交中」であることを理由に、弔問する仔細はないと述べている。

  (前略)然ば八月十日に候哉監物殿被致死去候段申参驚絶仕候 扨々人事不定吉凶變態總て以外に出
                              あいだちがい
  申候 於御両君別て御痛情之程奉察入候 小生事御案内之通り近年間違に相成候儀は唯々意見の相違に
  て其末は色々行き違に相成時としては何やらん不平之心も起り候へ共於全體舊相識之情態替申様も無
  之 平成之心は依然たる舊交したはしき思を起し候事は於彼方も同然たるべきかと被存候 況哉千里之
  客居にて此凶事承り 不覺舊情満懐いたし 是迄間違之事總て消亡唯々なつかしく思はれざる心地に相
  成落涙感嘆仕候 誰之歌にて候哉
    あるときはありのすさみににくかりきなくてそ人は戀しかりける
                       長岡家
  心情御推察可被下候 本より絶交之事に候へばニノ丸に弔詞申進候子細無之 御両君迄心緒拝呈候 過ぎ
  去りし人は呼べども不可返(以下略)
     十月十五日          平四郎 

心情あふれる書簡にほっとさせられる。                      

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■竹崎律次郎のある足跡

2023-08-29 06:01:50 | 人物

 「水前寺古文書の会」というWEBサイトがある。
このサイトの主催者平川様は、かってご自分のサイトを運営され、鶴崎・劔神社の「御入国御行列之図」の絵巻物をを画面をスクロールしてみることが出来るようにして公開されていた。
その後このサイトは閉鎖されたが、或る席でお会いした時再度公開して頂けないかと懇願したことがある。
そんな平川氏は2016年1月から、「水前寺古文書の会」の活動をサイトを通じて紹介されている。
カテゴリーに「町在竹崎律次郎」が4点紹介されている。
これ等の史料は自ら発掘されたと思われる貴重な史料である。これらの事柄は、徳富健次郎(蘆花)の「竹崎順子」では触れられていない。
その一つに竹崎律次郎長州藩探索を命じられる 慶応元年のことがあり、この事が律次郎に大きな転機を与えたのではなかろうかと感じられる。
       9月2日追記:蓑田勝彦編著「熊本藩の社会と文化」に「八代古文書の会会報№41」として「資料紹介・竹崎茶堂の長州藩探索」が
        p200~207に亘り紹介されている。

律次郎はこの長州探索を終えて帰国した後あたりから、農作業は養子の熊太に任せっきりとなり、その熊太に「ぞびき出せ」と怒鳴られたりしながら国事に没頭していく。
順子の妹(つせ子)婿であり、又師と仰ぐ横井小楠の薫陶が突然芽を吹いた。
徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)と共に苦労して作り上げた献策の書は、「熊本の維新は、明治三年に来ました」あと、熊本の実学派政権の指針となった。

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■徳富健次郎「竹崎順子」を読む(3)

2023-08-28 06:00:00 | 書籍・読書

 まずは蘆花先生の間違いと指摘しているのではないことを申し上げておく。

竹崎律次郎が徳富一敬と共に、肥後の維新の為に生業の方は養子の熊太に任せっきりで、熊太は「ぞびき出せ」と怒鳴りつけたという。
「ぞびき出す」とは方言で「引きずり出す」の意だが、強い叱責の感情が入った言葉である。
この熊太が居てこその肥後の維新が到来したのかもしれない。
熊太は、竹崎家が横島新地に入ったころ出入りしており、お眼鏡にかなった人物らしい。
「新野尾(にいのを)」という珍しい名字で玉名郡中土村(現玉名市岱明町中土)の庄屋の嫡男であった。
ひとり娘節子(19歳)に良い婿をと探していた律次郎・順子夫妻にとって「降って來たような此眞面目に働く若者」を逃がしてはならじと頼み込み24歳のこの熊太を迎え入れた。
その「新野尾家」について蘆花は次のように記している。

  「新野尾家は清正以来玉名郡中土村の庄屋でした。清正が新地築きに朝朝(ママ)熊本から四里もや
   って来ます。「庄屋は未だ起きぬか?」と寝込みを襲ふたものです。「はい、もうとっくに仕事場
   に参りました」と家人に答へさせて、そつと裏口から大急ぎで庄屋は出かけたりしました

 この清正に関わる逸話が臭い。中土村にほど近い高道(旧・岱明町)に荒木家という惣庄屋を勤めた御宅がある。そのご子孫の荒木氏は熊本史談会の会員であられたが、同じ会員で「平成肥後国誌」の編者で大変ご懇意にしていただいた高田泰史(廉一)先生の従兄弟にあたる方で、10年ほど前、一度ご一緒させていただき、高道の広大なお屋敷をお尋ねしたことがある。
この荒木家に伝わる話が全く一緒である。当時のご当主からお聞きした話だから間違いはない。
昔ながらの古い屋敷に住んでおられたが、不便で冬は寒くてとは奥様のお話しであった。
敷地内の南北の角地に何故か、三宅藤兵衛の二男家の4代・権兵衛一族のお墓が有り10基ほどの墓石が残されている。
    三宅権兵衛のお墓 ■三宅家の事

  ■ 三宅新十郎(南東50-2) 三宅藤兵衛二男家(700石)
     出雲
     弥平次(明智左馬之助)
     藤兵衛
    1、新兵衛
    2、新兵衛
    3、九郎兵衛(養子 三宅加右衛門子)  
    4、権兵衛・重房(初・平八郎)700石
                 正徳元年 ~ 享保元年 中小姓頭
                 享保元年 ~ 享保九年 留守居番頭
                 享保九年 ~ 享保十四年 番頭

ご当主も高田Drもなぜ三宅家のお墓が、荒木家の屋敷内に在るのかその由来については詳しくは御存知なく、謎はそのままである。
ご当主は既に亡く、ご夫人は娘さんの許に引っ越されたと聞いているから、このお墓を拝見するのはもう出来ないかもしれない。

ひょっとしたら、蘆花先生の思い過ごしではないのかと思ったりしているが、真偽のほどは判らない。

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■徳富健次郎「竹崎順子」を読む(2)

2023-08-27 06:02:51 | 書籍・読書

 著者・徳富健次郎(蘆花)は順子の夫・竹崎律次郎を紹介するに当たり、大間違いをしでかしている。
母方の伯父の出自を間違うとは・・・
竹崎律次郎は伊倉(玉名市)坂上の素封家・木下家の当主・初太郎の弟である。望まれて竹崎家の養子となった。
竹崎家も伊倉・阪下の素封家で、遠祖は蒙古襲来絵詞で有名な竹崎季長の兄の子孫だと蘆花は述べている。
さてその蘆花が仕出かした間違いとは・・・本文を引いてみよう。

  「伊倉の木下家は槌音久しく絶えて唯豊かな地主の生活をして居ましたが、それでも伊倉では木下家
   を今以て鍛冶屋と云ひ、木下家の所在を鍛冶屋町と云ふて居ります。(中略)
   長男は眞太郎、次男は律次郎です。(中略)兄の眞太郎は廿二歳の年藩學時習館の試驗に抜群の成
   績で士分に取り立てられ、また藩侯の伴讀、世子の侍讀、府學訓導など勤め(中略)即ち木下犀潭
   先生(韡村)で・・・
  「阪下の竹崎家から律次郎に養子の口がかかつて來た時、木下家はもう兄眞太郎の時代になつて居ま
   した。兄は名家竹崎の名跡を弟に嗣がす事を喜びました。

木下韡村は菊池木下家と呼ばれるが、律次郎の実家は伊倉木下家であり律次郎の兄は初太郎である。
鍛冶屋と呼ばれたというのは、木下家が肥後同田貫の刀鍛冶にかかわっていたことに由来する。

インターネットサイトに「木下家系図」が紹介されている。これをご覧頂くと一目瞭然である。
初太郎の娘が韡村の弟の徳太郎(助之)を養子に迎え、両家の縁がつながった。後に玉名郡長や衆議院議員をつとめた。娘・常が韡村の二男・木下広次(京都帝大初代総長)に嫁ぎ、その二男・道雄に孫娘・静が嫁いでいる。その異腹の姉弟(?)が作家・木下順二である。
このように菊池・伊倉両木下家は婚姻関係で強い絆を結んでいる。

 

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■花火鑑賞

2023-08-26 21:20:09 | 熊本

            ベランダに老し夫婦や 揚げ花火  津々

 コロナで中止が続いていた久しぶりに開催された花火大会を、我が家のベランダから見ることが出来ました。
会場からは、直線で3.3㌔程離れていますが、ビルの頭越しではありましたが、遮るものがない特等席です。
写真撮影もしましたが、タイミングが合わずお粗末な結果となりました。
丁度月も正面に登って来ましたが、31日はスーパーブルームーンだそうですね。天気が良ければ良いのですが・・・

               

 

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■徳富健次郎「竹崎順子」を読む(1)

2023-08-26 08:20:10 | 書籍・読書

                

 現在、896頁の大部、徳富健次郎(蘆花)の小説「竹崎順子」を読んでいる。
あの有名な「肥後の維新は、明治三年に来ました。」というフレーズが登場する。
主人公・竹崎順子(矢嶋家3女)は、「肥後の維新」到来にあたり尽力した竹崎律次郎(茶堂)に嫁いだ。
次妹・久子(4女)は徳富一敬に嫁ぎ、徳富蘇峰・蘆花兄弟の母である。
5女・つせ子は横井小楠に嫁いだ。
その下の妹が矢嶋楫子(かつこ・6女)で、三浦綾子によって「我よわければ」という小説で紹介され、先年映画化された。二人の子を残し、婚家を出て東京に出て名を成した。
順子は夫・茶堂亡くなって10年後には62歳で洗礼を受け、64歳で熊本女学校の舎監となり8年後には校長となり7年間務めた。

          

 「肥後の維新は、明治三年に来ました。」という有名なフレーズは、この大部の小説の冒頭に在る言葉ではない。
この小説は二十八章からなって居り、時系列で話は進んでいく。その第八章が「横島」であり、これが更に三部で構成されておりその終りに近い処でこのフレーズが登場する。
つせ子の夫・横井小楠が新政府に参政として迎えられると、一族の喜びは沸騰したという。
しかしながら、暗殺によって非業の死を迎えると、小楠の一番弟子と言われる徳富兄弟の父・一敬(太多助)と律次郎は新しい時代の肥後国の将来について議論を重ねた。 

 「丁度明治二年の秋の収穫で、横嶋は猫の手でも借りたいやうな忙しい中を、徳富太多助は主人の
  律次郎
と奥の間に籠って、毎日算盤を彈いたり、讀み合はせをしたり、和談をしたりする日がつ
  づきました。
婿の熊太などは義父と義叔父の悠悠ぶりが大不平で「ぞびき出せ」と怒鳴つたもの
  です。奥の両人は藩
政改革の曉、解放さるべき租税の事など精細に調べて居るのでした。

   肥後の維新は、明治三年に来ました。(後略)」

そして、第九章「肥後の維新」へと続いていく。

蘆花は順子の夫・律次郎を紹介する中で、大きな間違いを犯している。校正の手が入らなかったのだろうか。
文学の研究者からの指摘も見えない様に思うが、次回に取り上げたい。

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■慶長九年の今日、忠利、忠興の継嗣となる

2023-08-26 06:33:05 | 人物

 慶長九年(1604)の夏の頃より忠興は煩い、これが思いのほかの容態となった。存命の間に対面するようにとの家康・秀忠の内意により忠利は初めて小倉入りしている。
しかし忠興は本復し「忠利君ハ中津二御移被成候、江戸江御上人として御出被成候已後初而之御入国故、いつれも恐悦之至奉賀候也」と綿考輯録は記しているから、慶長五年正月以来の江戸證人の身分は解かれたのだろう。
忠利の江戸證人の身分は4年7ヶ月に及んだことになる。そして八月廿六日付けで家康・秀忠から忠利の家督の證書が発せられた。
これを受けて忠興は、慶長十年(1605)忠利に替り兄興秋をもって江戸證人となすべく小倉を発足させたが、興秋は京都で剃髪してこれを拒否した。
長男忠隆の廃嫡、二男興秋の出奔、ガラシャがなした三人の男子が運命に翻弄されることになる。
慶長十四年(1609)家康の外孫にあたる小笠原秀政女・千代姫を秀忠が養女となして、忠利に娶合わせた。
江戸を立った千代姫は中津に入り4月24日に婚礼が執り行われた。忠利24歳、千代姫14歳であった。
徳川家との縁がつながり、忠利にとっての晴れがましい細川家嫡子としての働きの始まりである。

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■随分と待たされました「ジェンズ邸」のお披露目

2023-08-25 08:45:00 | 熊本

 熊本大地震で倒壊してペシャンコになった「熊本洋学校教師ジェーンズ邸」は随分以前に完成していたが、なかなかお披露目に至らなかったが、ようやく9月1日より3日間の予定でオープンイベントが催される。
国際コンベンション協会のサイトに詳しいので、ご覧いただきたい。
建設地を巡って紆余曲折があったが、まずは見事に復元されたことを喜びたい。

        

        
    

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■徳永九郎殿

2023-08-25 06:39:21 | 人物

                

 さきの熊本史談会8月例会での演題「菊池・隈府の歴史年表」は、講師の坂本博・栄子ご夫妻の軽妙なお話しで大変有意義な時間を過ごすことが出来た。来年1月にはその後半「菊池の西南の役ー西郷坂の戦い」をご講演いただくが、こちらも楽しみに待ちたいと思う。
A3判21枚にも及ぶ資料の中に、氏が所蔵されているという明治4年撮影のガラス写真の「徳永九郎」が紹介された。
この人は嘉永元年(1848)年3月2日生まれで菊池市隈府立町在住の士族であり、この写真は明治4年(1871)5月27日、長崎で撮影されたものだという。当時23歳の若武者である。
熊本藩の「凌雲丸」が難船修理のために大村湾に入港した際、撮影されたものだろうとの事であった。

                                                                                 

 当日、四代末のご子孫も会場にビジターとしてご参加いただいていたので、ご挨拶をし、坂本氏にも御承引いただいてこの写真をここにご紹介している。
これだけの史料が揃っているから、人物の特定は簡単だろうとたかをくくって、今日図書館に出かけ有禄士族基本帳などで調べるが、当人のデータが見つからない。
有禄士族基本帳には14等人の徳永姓の方がおられるが、菊池在住は1家しかない。
「従前六等官山支配役兼文藝指南方」徳永隆禮(舊名・禮八)なる人物である。明治三年五月七日の「進席増禄辭令寫」が合わせて記載されており、その記述によると「御奉公五十年に及び(中略)菊池郡宰之支配役」を仰せ付けられている。
そして明治四年辛未三月廿九日、この人の長男隆業(舊名・孫讀)が家督相続していることが判る。
それから隠居した隆禮は明治六年十月廿五日に病死している。
菊池の徳永家は有禄士族基本帳ではこの一家のみであり、写真の九郎は隆業の弟なのではなかろうか?
「除籍謄本」などから確認できるのではなかろうか?
ちなみに隆業の住所は「第十六大區十小區二十八番宅地士族」との記載がある。
これには頭を抱え込んでしまった。上記住所は天草郡の久玉・魚貫・亀ノ浦・早ノ浦の四村である。
現在の天草市牛深周辺の町々だが・・・私は頭がこんがらかって来た

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■人生は敗者復活戦・・

2023-08-24 08:42:19 | 徒然

 昨日の甲子園は慶應の応援団の凄まじさに圧倒されたが、先頭打者ホームランが一気に火をつけたようだ。
最近はTVを長時間見るという事が無くて、大河ドラマも見ないが、甲子園の試合もちょこちょこチェックするくらいでほとんど見ていない。
昨日は又1時間時間を間違えて1時にはスイッチを入れるという老耄ぶりを発揮、初回から3回くらいまで観戦、5階の大量得点は見ずじまいであった。
7~9回を見ながら、本当に高校球児の一途な戦いぶりにグッとくるものがあった。
仙台育英の監督の言葉「人生は敗者復活戦・・」にも、捲土重来を記して「来年も甲子園」を目指す強い意志が伺えた。
誰でも人生順風満帆とは参らぬ。月日が癒してくれる人生もある。地道に頑張ればまた新しい人生も見えてくる。
我が人生あと何年あるのか判らないが、最後には辞世の句でも残そうと何度も/\推敲を重ねている。
ますます復活しようという想いがある。

両軍選手諸君の未来に幸多からんことを・・・・

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■出品二件「肥後物語」

2023-08-24 06:53:39 | オークション

 肥後物語という著がある。筑前の儒者亀井南冥が藩主治国にしようと、肥後藩宝暦の治績を26ヶ條に亘り書いたもの。藩主が死去し次の藩主も一年を経ずして死去したため藩主には届かず、老中松平定信のめにとまり、三卿有吉家の家臣・中山昌礼が寛政元年江戸から熊本へ送ったのが肥後流布の始まりだとされる。
そんな「肥後物語」が二件出品されている。状態も良い。値段が全然違うがご確認いただきたい。

   ★L62和本江戸安政2年(1855)写本「肥後物語」全1冊/熊本藩/古書古文書/手書き/堀平太左衛門

 

     肥後物語 上・下 二冊 【写本】《弘化三(1846)年求之の記述あり》

              (写真は上記よりご覧ください)

 

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■忠利の「上意」文書の謎解き

2023-08-23 06:35:44 | 史料

 過日■天草島原の乱後に於ける忠利の配慮を書いたが、この内容の人物は誰なのかが気に成って仕方がない。
そこで謎解きにチャレンジしてみた。
     

              上意
                細川越中守
             手疵弥療治相届
             快方ニ茂候哉 無
             御心元被 思召候
             様子聢与承候様との
             御事ニ候 万一及大切
             候とも跡式之儀ハ去事
             仮養子ニ被願候弟
             有之儀ニ候之間此度
             願ニ不及候条致安静
             御養生致候様ニ与被
             仰出之

 忠利は天草島原の乱で手疵を負った人物に「上意」として見舞いを遣わしている。
文面から手疵を負った人物は身内か大身の者であろうと推察できる。
気に成って仕方がないから、戸田敏夫氏著の「天草・島原の乱 細川家史料による」のページをめくった。
文中に該当すると思われる人物が二人見つかった。一人は三渕右馬助重政である。三渕家は細川幽齋の実家で、末弟・好重の嫡男が重政(2代)である。
忠利からすると大叔父にあたる。
「(前略)不意に一揆が出て槍で突いた。左のほお先から耳際まで突かれた右馬助(重政)は、騒がずに見返して、ひと槍に一揆を倒し、家士下田市左衛門に首を取らせた。右馬助は重傷で痛み、耐えられなくなって陣小屋へ帰って行った。」と記されている。

 今一人は、三渕内匠昭知である。右馬助と同じ三渕姓だが、この人物は幽齋の兄・三渕藤英の四男で後の朽木家の2代目となる。忠利からするとこれも大叔父になる。
「三淵内匠昭知(3,000石)は、本丸の下まで着いた。犬走に着こうとしたとき、一揆の鉄炮で左肩を撃たれ、重傷で戦えなくなり、家老頼母(有吉)・清田石見らにことわって本陣へ帰った。」

 どちらかというと前者の右馬助の方がより重症のように思えるが、「上意」の文面に在る「仮養子ニ被願候弟有之」からすると、どうやら後者であるようだ。
命は長らえたが、寛永19年には隠居している。
朽木家は初代・昭貞、2代・昭知で三淵藤英の三男と四男であり、弟が兄の跡を継いだがここに「仮養子の弟」とあるのは、三淵五兄弟の末弟・昭長だと思われ4代目(3代目は2代目嫡男・昭重)を継いでいる。
ちなみに4代目・昭長が朽木家嫡流となり、3代目の昭重の子・澄定は、上記右馬助の三淵家の5代目の養子となっている。(6代)

 これにて一件落着、忠利の細やかな心遣いが見て取れるが、同様に三淵右馬助重政に対しても見舞いが遣わされたことは間違いなかろう。

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■「士族」に関する「明治以降縣政史料」一覧(2・了)

2023-08-22 09:39:13 | 史料

 明治以降縣政史料「8‐士族」

  8ー43 8-44  明治七年 有禄士族基本帳 (イ)の部
  8ー45        仝      〃    (ハ)の部
       8ー46        仝      〃    (ハ・二)の部
  8ー47       明治七年 士族元卒一代限禄及貫属明細帳 イよりナ迄
  8ー48       明治七年 有禄士族基本帳 (ヤ)の部
  8ー49 8-50   仝      〃    (ケ・フ・コ)の部
  8ー51 8-52   仝      〃    (サ)の部
  8ー53        仝      〃    (シ)の部
  8ー54        仝      〃    (ノ)の部
  8ー55        仝      〃    (ナ)の部    8ー98もあり(重複か?)
  8ー56 8-57   仝      〃    (ホ・ヘ・ト・チ・リ・ヌ)の部
  8ー58        仝      〃    (エ・テ・ア)の部
  8ー59 8-60   仝      〃    (ワ・カ)の部
  8ー61        仝      〃    (シ・ヒ)の部
  8ー62        仝      〃    雑歉(マ)
  8ー63        仝      〃    三十三冊ノ内七(ヲ)ヨ
  8ー64        仝      〃    (キ・ユ・メ・ミ)の部
  8ー65~8-66   仝      〃    (タ)の部
  8ー67        仝      〃    (ソ・ツ)の部
  8ー68        仝      〃    (エ・ヱ・テ・ア)の部
  8ー69        仝      〃    (ウ)の部
  8ー70        仝      〃    (ヨ)の部
  8ー71        仝      〃    (ク)の部
  8ー72        仝      〃    (ム)の部
  8ー73        仝      〃    (ヲ)の部
  8ー74        仝      〃    取消の部
  8ー75~8ー80  明治七年 家禄奉還願
  8ー81~8ー82  明治七年 家禄奉還抜
  8ー83       明治七年 家禄奉還諸伺控
  8ー84       明治七年 家禄奉還進達控
  8ー85~8ー86  明治七年 家禄奉還進達控
  8ー87~8ー96  明治七年 家禄奉還願
  8ー97       明治十年 有禄士族名簿  以呂波寄せ
  8ー98       明治十年 有禄士族基本台帳 (ナ)の部

  8ー100     明治十三年 士族代數願伺 二冊ノ一
  8ー101~104   自明治十一年 至仝十二年郷士役付調 五冊ノ内ニ・三・四・五
  8ー105           士族代數願伺 二冊ノ二
  8ー106     無禄名禄
  8ー107      仝    第六大區ニ
  8ー108      仝    第九・十大區 四
  8ー109      仝    第四・五大區 五
  8ー110      仝    舊第十二・十三大區 六冊ノ内六
  8ー111~9ー114 大分縣合併熊本縣士族調          8ー114カ
  8ー115     無禄之者外様足輕御(基本)帳
  8ー116     無禄士族名録 第一・二大區
  8ー117      仝     阿蘇郡 第十一大區
  8ー118     金券原簿   ア丙号抜紙
  8ー119     種族     岡本直助士族編入願
  8ー120     明治七年  有禄士族基本帳 (キ・ユ・メ・ミの部)
  8ー121      仝     〃      (モ・セ・スの部)

                (了)

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