津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■古今肥後見聞雑記から -- 小天・野出あたりの事

2014-02-28 11:48:29 | イベント

古今肥後見聞雑記に、小天・野出についての興味ある記事があった。

  一、明和元年甲申年夏の比飽田郡白濱村邊玉名之内小天村と
    の間に海邊に湯涌出ス同年秋に至て小家出来るよし
  一、飽田郡野出村に古へ領主有し野出殿と云 館跡今に有と云按るに野出に住し三名(三名字衆)
    の内にてハ無キヤ不分明 曽て領主に一女ありしか領主の児小姓に千馬と云
    し者有て是と密通の事あるを領主耳に入大二怒て千馬
    を殺害す其母なげき伏沈むと云事里俗の口牌にあり然とも
    何の年と云叓を不知今土俗童唄にうたふて云
      小天峠からよんて来る雨ハ千馬母御のなき泪
    と云り其墓小天村に有印に松木有といふ千馬の墓の邊ニ
    時々今に火が出る事有り土民センマジョウノ火と云り右の
    童唄ハ河内谷邊にうたふと云


熊本県の広報サイトに「小天温泉・玉名市」があるが、次のように記している。「温泉の発見は、意外に新しく明治のはじめといわれています。しかし、古くからの地名に「湯の浦」とあることから温泉としての利用はなされていなかったものの、湯がわくことは知られていたようです。」 明和と明治では100年ほどの開きがあるが・・・・・・?
上記見聞録に有る温泉湧出の場所がはっきりしないが、白浜と小天の間の海辺に湧出したとあるから、当時の地形などを考えると小天温泉なのではと思われるが如何であろうか。白浜は熊本市河内町の一番はずれに当たり、玉名市小天と隣とおしである。

熊本からこの小天にいたる野出峠は、夏目漱石の「草枕」で知られる所だが、このような話は今回の見聞録の記事で初めて知ったことである。
悲しい話だが童唄などが残されたというが現在はどうなのだろうか。センマジョウとは千馬丞なのか・・・・
古の悲しい話は数多あるが、もう地元でも忘れられた話かもしれない。

教育委員会か小天の区長さんなどに尋ねてみようかしら・・・・・・ 
 

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■横田吉左衛門・覚 

2014-02-28 07:36:07 | 史料

 先に図書館に出かけた折、熊本城防備について書かれた 「横田吉左衛門・覚」を見付け、コピーをとった。
肥後文献解題はこの文書についての解説が次のようにある。

横田吉左衛門氏連が熊本城の要所要所に対する攻防上の意見を述べたもので、巻頭に御用人遠坂関内に送った手紙三通、次に各個処に就き十ヶ条の
意見を具陳してある。寛政二年四月の記録である。横田吉左衛門諱は氏敦又氏連、横田勘左衛門房郷(横田勘左衛門房郷覚書・編者)の分家である。
二代目新五左衛門以来代々佐敷御番詰であった。六代目吉左衛門は宝暦三年七月家督佐敷御番であったが、同七年熊本に召出され御番方となった。
天明元年二月北条流の兵法指南となり、寛政元年八月御物頭列、同八年十一月御足高五十石、享和二年二月病死した。

自分も含め六代に亘り代々佐敷詰めであった吉左衛門が、熊本に召し出されたのは北条流の兵法指南の肩書が働いたのであろう。
府中周辺を見て回り、防備のありようについて献策しているが、素人には中々わかりづらい。
平時には決められていることは遺漏なくちゃんと整備しておくことが肝要だという事だろうが、献策とはこんなものかとも思ってしまう。


尚遠坂関内にあてた書状(三通)については是を略す。

          
一、御本丸乾堀之向二ノ丸ニ所々土手・塀相見申候 万一之節二ノ丸内ニ敵を引受候時ハ自焼仕敵の居を苦しめ可
  申儀勿論之儀ニ御座候 然処矢請ニ土手・塀有之候而ハ自焼仕候而も相残玉箭之障りニ相成却而仕寄之合力ニ
  相成可申哉之事
一、南追手追坂段屋敷東之方矢請ニ土手・塀有之北之方御奉行丸より之矢請ニ近年並植り申候 此所ニ足を留
  させ候而ハ不叶御所柄ニ而可有御座哉之事
一、監物殿屋敷下之御門西石垣と屋敷との間ハ透居申候処近年ハ屋敷より石垣迄直ニ塀懸石垣下野空地塞り申候事
一、宮内より古京町え下り申候柊木坂の向當時阿内膳殿裏門有之候処は已前ハ坂より直ニ北之方田之上迄大道御座
  候ニ而は無之候哉 左候ハゝ定而北之方藪内ニハ雁木付居申たるニ而可有御座候 只今ニ而は守城堅固迄ニ相成申候 惣而
  堅固而己(バカリ)第一と仕候ハ国端砦城或ハ付城等小勢ニ而守城仕後援を頼ニ仕候心得ニ而御座候 居城之縄張りハ防戦を兼不
  申候而ハ開運之程無御座候 此心得を習と仕候事
一、上林水堀と川之間ニ纔(ワズカ)之土手を築上ヶ堀水を満御座候時之様子次第ニハ川水堀を一ツニ相成可申縄張■と相見へ
  申候 然処近年御土居迄ニ石垣を築キ道付申たる様ニ相見申候 前々之通御座候ハゝ急場たり共一両人ニ而も
   崩レ可申候得共只今之通ニては急ニ取除ケ来兼申候御利方いか程ニ可有御座哉之事
           附船場町向矩藪有之候所ニ向へ雁木出来仕候各別之害ニハ成申間敷候得共目立申候
一、流長院向之挙木戸其外所々ニ城戸之左右ニ近年薄キ土居を築キ上ニ纔(ワズカ)之虎落(モガリ=竹矢来)御座候 城制ニ而は城戸之
  左右膝節高ケニ土臺を仕其上にて手強く虎落ヲ誥(結カ)置候得ハ敵を請候節御責戸(ママ)を卸シ簀戸之目并左右之
  虎落之目より弓・鉄炮を發し突出仕候儀 大法と奉存候 只今之通ニ而太薄キ土居之上ニ人賦りなり■候此土居之内ニ
  足継を仕上り候而も両三人なりてハ上り申儀相成申間敷左候得ハ矢石乏ク此土居ハ却而敵矢除之小楯と相成可申哉之事
           附流長院前土居小石垣ニ相成石之留り外ニ向キ古法ニ違候哉と相見へ候事
一、立田口城築之節ハ大陰之虎口ニ而御座候処御當家ニ相成候而陰中之虎口ニ可被遊思召
  にて町外ニ屯出来仕候と承及申候処近年西ノ方より町屋三二軒も取込ニ相成北之方ニ屋敷出来仕陰中
  陽之勢薄ク相成候と見及申候事
一、長六えハ惣軍之大手口にて御座候処近々ニ小屋出来仕候而屯狭く相成居申候然処定小屋ニ相成候之様ニ承及申候
  左候ハゝ往々町並ニ相成形勢を失ひ可申と奉存候事
一、坪井方其外共ニ堀向塵防之土手高く相成処々候而ハ小石垣ニテ築立御座候大抵膝節たけより高く御座候而ハ
  矢玉之妨ニ相成候ニ付次第ニ手堅く相成不申様ニ有御座候と奉存候事剪透シニ相成不申繁く候様ニ有御座度奉存候事
  右共従前々之様子ニ相変居申候ニ付御要害方之儀重邊々奉恐入候得共心付申候儀を黙止居申候儀尚又恐両
  中と存候ニ付覚書差上申候以上

                                           横田吉左衛門 

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■松寿庵先生 第89講

2014-02-27 11:46:50 | 史料

                                            掟

                                         南阿蘇地獄温泉 旅館・清風荘 ウェブサイトより

 
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■古今肥後見聞雑記から -- ギャクシンドンの墓

2014-02-27 07:46:49 | 歴史

                                     

                                             
肥後国 くまもとの歴史 から

 

一、鹿子木参河守親員入道寂心の墓ハ飽田郡五丁北迫村の
  北の郊外にあり一株の樟あり根に石牌あり笠石有佛像
  如キ物を彫付脇に銘文あれ共消滅して不分明于時天文十■
  年の字計見へ其余消て不知なり村の者ハ ギャクシンドンの
  墓といへり

本当はジャクシンドン(寂心殿)なのだが、聞き間違いかもしれない。この寂心さんの樟は樹齢800年とか言われている。出典の著は天明四年(1833)ころだと比定されている。編者の寺本直廉がこれを見た180余年ほどまえも相当な大きさであったろう。ここ数年訪れたことがないが、何時までも元気であってほしいものだ。
 

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■H.26.3.9 県立美術館で公開研究会「加藤清正文書研究の最前線」開催

2014-02-26 13:30:45 | 講演会

東京大学史料編纂所主催セミナー 「加藤清正文書研究の最前線」が開催されます。
当日受け付けも可能のようですが、事前に参加申し込みをしていた方が良いようです。下記案内をご覧ください。 

                http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/news/2013/20140309kiyomasa.pdf

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■三齋公御手植えの臥龍梅が満開に

2014-02-26 08:32:23 | 新聞

           春告げる臥龍梅 八代市・松井神社で満開

 今日の熊本日日新聞は、八代の松井神社の臥龍梅が満開であることを報じている。
残念ながら私は満開の時期の臥龍梅を見たことがない。一方、未来の森ミュージアムでは「城下町八代の御雛祭り松井家のお嫁入り」「笠鉾大解剖!~バラバラにして見えてきたもの~」が開催中。皆さんお出かけに成りませんか・・・・・

                                
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■古今肥後見聞雑記から--阿蘇惟光の埋葬地

2014-02-26 08:23:12 | イベント

花岡山の中腹に「阿蘇殿の松」跡に石碑が建てられている。十二歳の若さにして豊臣秀吉により誅罰された阿蘇惟光を偲んで植えられた二本の松が在ったいたという。
惟光の死の原因は梅北の乱に関わってのこととされるが、詳細はウィキペディアに頼る事にする。
惟光の死によって戦国大名としての阿蘇は終焉を迎えることと成った。
この「阿蘇殿の松」から下ったところにある吉祥寺の上に「阿蘇の小社」(横手阿蘇神社か)がある。
寺本直廉の記録するところによると、明和期(?)にこの地にあった大木が倒れここから石棺がでて、これが惟光のものであろうと大騒ぎになったと有る。


一、祇園山の下横手村吉祥寺上に阿蘇の小社有(中略)
  右阿蘇宮神殿九尺に弐間瓦葺十二体の木像あり中に観音像立り 祭十一月十五日 拝殿一間に一間瓦葺神殿に續たり 額有阿蘇宮左右に神并こま
  犬等あり 手水鉢有 享保二丁酉十一月吉日横手村方吉次郎トアリ 石段上に二段 中に二十段 下に二十八段石の鳥井あり

一、右阿蘇宮の脇に大木ありしを五十年程明和より前に大風の節大木倒る故剪取て其根を堀しに石棺有之其内に十三四計の人の白骨出たり
  大小の身と
見へて朽て甚細く成たるあり 掘出せしもの大に驚吉祥寺に住寺僧寂庵和尚に訴ふ 則寂庵其所に至り右之様子を見届読経をして元のご
  とく葬しと云々   寂庵の物語なり

  按るに阿蘇惟光十三歳なるを祇園山にて誅せしを此所に葬しにてハなきや今阿蘇殿松といふは伏誅の地也 大松二株ありしか東の方一本ハ安永四年比枯 

  惟迎云此松の由来ハ阿蘇没落の後惟光・惟善兄弟佐々成政隈本の城に寄宿す 佐々亡き後肥後を加藤小西に分賜ふ 兄弟も又清正・行長に寓居す
  于時文禄二年清正朝鮮の役に従ふ留守に讒者有之 秀吉江訴へて■肥後ハ本阿蘇家之旧領や是を以國人等志を通して既に■乱のきさし有と秀吉公
  此事を信用有之て文禄二年八月十八日飽田郡阿弥陀寺山におゐて惟光を殺害せしめらる 于時十三歳也 今云阿蘇殿松ハ其伏誅の地ぞ 弟惟善ハ
  幸にして無恙を慶長六年清正公私に領地與へて大宮司の職となる 今阿蘇家是なり 右文禄二年より文化十一年に至て二百二十二年松猶依然として
  立たりしか此年七月十日夜南風頻吹大風にハあらされとも老木うつろに成し故にや終に根より吹倒さる 其跡ハ横手村の上東の麓なり 本文松之事有
  故爰に其由来を大概に記し置もの也 阿蘇惟光之墓ハ熊府古町阿弥陀寺境内に有り

附けたし:この神社は横手の五郎を祀る神社として知られている。

 

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■古城・二ノ丸周辺を地図散歩

2014-02-25 09:48:57 | 地図散歩

 本来は男女共学の学校であったらしい第一高校は、OBの皆さんのご努力によってここ一両年男子の入学が増えているようだ。
女学校とばかり思い込んでいた学校だから、私はここに足を踏み入れたことがない。今般の熊本史談会での「熊本城下の坂」を勉強したとき、第一高校の敷地内にいくつかの坂があることを知った。校内は最大高低差が12mほどある。横穴古墳がいくつも存在していたりする。旧藩時代は凡そ五つのブロックに分れていて藩の高級家士の屋敷が並んでいた。南北に走る道は鞍掛坂から有吉家屋敷(現・国立病院)の前を通り、二の丸に至っていた。
つまりこのような城内を貫通する幹線道路が存在していた。現在はそれぞれ学校・病院の広大な敷地として独立していて、往時の道の存在を知らないだけの話である。(1)
一方新町御門から法華坂をのぼり空堀に添って左折する(旧法華坂)と、現在の県立美術館の入り口南にでる。目前に二ノ丸広場が広がっている。

このクランク状の場所にかつては松井家の屋敷門ともいえる「松井家預り櫓門」があり、その前には「住江門」がありここを抜けないと二ノ丸へ抜けることは出来なかった。松井家屋敷の西面は空堀でその前に法華坂があり、東面は第一高校から旧有吉屋敷前(国立病院)を抜けて熊本城の西大手門へと繋がっていた。(2)
二の丸御門からの直線の道も松井家の北側道路につながっており、まさに要衝の位置に松井家がすえられていたことが判る。(3) 

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■古今肥後見聞雑記から--初市の成り立ち

2014-02-25 08:17:01 | 史料

                                           image

 

 ちょうど今の時期熊本では、規模日本一といわれるくまもと春の植木市が開催されている。南国熊本でも寒い日が続いたが、ここにきて随分春めいてきたから残りの期間は賑わう事であろう。この植木市は城親賢によって興されたものだとされる。没年が天正九年(1581)とされるから、433年以上の歴史を持つという事に成る。岳林寺にそのお墓があり、三賢堂にも祭られており熊本市民のよく知る処である。

寺本直廉の「古今肥後見聞雑記」に、この市が興された経緯が記されており、これをみるとほのぼのとした気にさせられる良い話である。
「市(イチ)」が始まったという事であり、植木市がたったというのは後年の事であろう。
 

                              一、古城の城は鹿子木参河守入道寂心築れしと云り、其後城越前守(親賢)居住のよし、
                              熊本町市日の初り城越前守古城に有し比子息の慰に成候儀、何そ珍ら敷儀致候様
                              にと新町へ申付られ候ヘハ、其後友枝なとの先祖新壱丁目へ市を立候て慰に出し候
                              由、其時より木にて獅子頭・雉子なと作りて出し候由、今に其雉子等昔の通りに不違
                              と云り、是熊本市(イチ)の初也といふ、一説には越前守子息機嫌不宜時右の市を拵て
                              見せしかハ機嫌直りしと云傳ふ


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■お安く読む・新潮文庫「幕末史」

2014-02-24 21:42:37 | イベント

 

   幕末史 (新潮文庫)
 
      新潮社

 

実は半藤氏の本は漱石先生に関するもの以外では、「日本の一番長い日」くらいしか読んだことがない。
私は幕末の勉強はあまり気が進まない。洒脱な半藤先生はどう幕末史をとらえておられるのか、非常に興味が沸いたのである。

内容紹介

嘉永六年(一八五三)六月、ペリー率いる米艦隊が浦賀沖に出現し、役人たちは周章狼狽する。やがて京の都はテロに震えだし、坂本龍馬も非業の死を遂げる。将軍慶喜は朝敵となり、江戸城は開城、戊辰戦争が起こる。新政府が樹立され、下野した西郷隆盛は西南戦争で城山の地に没す――。波乱に満ちた二十五年間と歴史を動かした様々な男たちを、著者独自の切り口で、語り尽くす。
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■愛藤寺城か岩尾城か・・?

2014-02-24 14:45:43 | 史料

「古今肥後見聞録」に藩主居館花畑邸について次のような記述がある。

一、國君花畑の大廣間ハ先主加藤清正の時矢部岩尾の城に有しを熊本に引て被建と云 今にも其節乃材木なりたる木なとハ大竹にて今や存さるなり

処が「古城考」をみると、岩尾城においてはこれらの記述はなく、同じ矢部の愛藤寺城の項に、秀吉により諸城破却の命が出たさいこれが潰され「此城の材木を以て、熊本花畑亭の広間を作ると云う」とある。さて真実やいかにというところだが、見聞録の編者・寺本直廉の勘違いだろうか・・・?
いずれにしろずいぶん遠いが、愛藤寺城は岩尾城より一段と山奥である。どのようにして運んだのだろうか。水運を利用してのことだと思われるが、仮にそうだとしても何処まで運びだしたのか、地図を眺めていても想像もつかない。
始めは阿蘇大宮司が在城、天正の頃には犬飼備後守が城代と成り、小西時代には結城彌平次、加藤時代に至って長尾豊前や加藤正直が城代を勤めたという。寺本直廉の記録によると垂木が大竹とあるから、萱葺の屋根の大きな建物であっただろうことが判る。 
資料によると1612年(慶長十七年)に破却されたという。そんな由緒をもつ建物が花畑館に移築された。


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■古今肥後見聞雑記から--小西家(行長)の家紋「剃刀請(そりうけ)」

2014-02-24 08:42:45 | 史料

寺本直廉の「古今肥後見聞雑記」をよんでいるがここに禅定寺に係る記事があった。その山門は宇土城に在った黒門を、宇土城落城後加藤清正家臣並河志摩守が請い受けて禅定寺の寺門としたと伝えられる。残念ながら蟻の害により取り壊され現在は見ることが出来ず残念ではある。
記述の中に小西氏の家紋が瓦として残されていたと記されている。破風の瓦というのがよく判らないが鬼瓦ではなかろうか。
いずれにしろ初見の史料であり、家紋の「剃刀請(そりうけ)」という名称も初めて知る珍しいものである。

 

一、熊本高麗門外禅定寺ハ先代加藤公の時家臣並河志摩守菩提寺なり (中略)

  右禅定寺焼亡之節並河志摩守より自分書院を引直し先禅定寺本堂の仮屋に建し由今以其節之侭にて並河あか書院を建直したる家也 竹のたる木を其
  侭にて今に存す 屋根下地迄其節の侭のよし草葺なり 同寺外の冠木門ハ宇土城に有し黒門也しを宇土落城の節並河持来て建るといふ 於今其節の柱
  門道具甚タ丈夫に梓の木なり 其外瓦等まて残れり破風の瓦に小西氏の紋今にあり 左に出す

                                              
                                            此紋剃刀(ソリ)請と云由

  並河志摩守か墓禅定寺にあり前廉ハ魂屋有しを中比ゟ施主そし魂屋の修覆も難成故今南門の左の方に有観音堂に引直して建たり 今の観音堂ハ並河
  の魂屋なり 彫物等多くへして金具も有念入し物也 (以下略)

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■30分散歩

2014-02-23 15:37:54 | 徒然

 今日は朝から良い天気、ぼんやりと午前中を過ごしたが、昼食後暖かさに誘われてちょっと外へ出てみる。
デジカメひとつを手にしてぶらぶら散歩、ようやくギックリ腰も完治状態になったがまずは用心第一。
我が家の周辺はどっちへ向かっても坂道である。運動にはもってこいなのだが、久しぶりに歩くと足にくる。
通りの脇のいつもは気が付かない崖地が満開の花をつけた梅林であることに驚いたし、さくらんぼうを附ける桜は今が満開であることも知った。
写真でもとろうかと思ったら、電池がすっかり上がってしまっている。何ともおそまつな話ではある。
あまり無理をしないようにと、ある場所でひょいと路地に入ったら思いがけない近道となって帰りついてしまって行程30分の散歩と相成った。
最近高止まり気味の血圧が気に成っているのだが、この陽気であれば散歩を続けて成果を出したいものだと思っている。 

 


 

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■古今肥後見聞雑記を読み始める

2014-02-23 10:31:38 | 徒然

 先に熊本史談会で上妻文庫の「肥後諷刺文学」を取り上げたことがあった。この中で出典として目立ったのが、寺本直簾の貴重な記録集「古今肥後見聞雑記」などが取り上げられていた。採用されている記事はその一部分であるから、すべてを知りたいと思い資料を取り寄せようとおもいいたった。

熊本県立図書館にはつぎのような古文書としての収蔵品が見られる。制作年代順に並べてみると次のように成る。

               1 古今肥後見聞雑記(大石文庫)               
               2 藻塩草 巻95 写   宮村典太編     1909
               3 古今肥後見聞雑記 同附録補抄 (古)  1916  宇野嘉太郎 写 (侯爵細川家・肥後藩史編纂事務所用箋)
               4 古今肥後見聞雑記(古)            1938
               5 上妻文庫 127    上妻博之 写・編  1941

原本そのものは見受けられないが(1)は原本のコピーである。著者の者と思われる印判が見受けられる。
以降この写しが世に出回ったらしく、それぞれが借り受けて写本を作っている。
今般は割と判読が容易である上妻文庫の107頁をコピーした。 

さて内容であるが時系列にはなって居らず、その内容は多岐である。
直廉は頭書に次のように記している。

       我山水の癖有りて常に地理を見るを楽とし、若年の頃より肥州の神社・佛閣・古墳・旧跡に経歴し村老乃傳語を尋ね見聞に随ひて書集め侍る、
       凡肥後は大國とて境内の事蹟を速に委くする事あたわず、唯見當り聞出せし儘に書さらし置し反古を拾ひ採て九牛か一毛を記し■見聞雑記と
       名付たるものなりし
               于時天明り(ママ)かなる四ツのとし末の秋毫を雁回山の東中原山林に記
                                                  好古齋直廉 

つれづれの時折にタイピングをしてご紹介していこうと思っている。

コメント (2)
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異字同訓の使い分け

2014-02-23 07:58:58 | 徒然

                     http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/pdf/ijidoukun_140221.pdf

 今般発表された「異字同訓の使い分け」、見て見るとなかなか深いものがありますね~

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