津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

おゝ笑い

2009-11-30 18:52:52 | 書籍・読書
 森鴎外の「都甲太兵衛」を読みたいと思って、「青空文庫」を検索・・・?ない。
ならばと直接検索すると・・なんと・・
「都甲太兵衛」は私のサイトのなかにあった。(津々堂電子図書館)

メタボなお腹が上下するほど笑ってしまった。67爺の爺ingは相当進んでいる。
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細川齊護公「道の記」--3

2009-11-30 16:41:52 | 歴史
 十二日
 夜明て、桑名のむまやたちいでぬれば、ほとなく、日もさしいでぬ、四
 日市のむまやを過ぎて、石薬師のむまやにて、晝のかれいひつかひ
 て、庄野亀山のむまや/\もうち過ぎれば、ひもかたぶくころになり
 ぬ、猶行き/\て関のむまやちかくになりぬれば、日も暮ぬ、川水に月
 がけの清くやどれるを見て、

  すゞか川やそ瀬の波にせきとめて関のこなたにすめる月かげ

 十三日
 けふも、きのふにおなじく、そら晴れぬ、明方に関のやどり立出しに、
 ほどなく、筆捨山といふ處にきたりぬ。この山は、むかし、狩野某が
 ■にもうつしがたき風景なればとて、筆捨てたりといひ傳へたる、
 げにたゝめる巌のけしきなど、見所あり、やゝうちながめてゆくほ
 どに、坂の下むまやにきたりて、志ばしやすらひ、すゞか峠を越ゆ
 とて、

  すゞか山きり立こめてたび衣ぬれそふつゆをはらひかねつる

 ほどなく、田村川といふをわたりて、土山につきぬ、こゝにて、ひるの
 かれいひつかひて、松の尾川といふをわたれば、右のかたに布引山
 をうちながめつゝ、水口のむまやもすぎて、横田川といふをわたり
 て、日のかたぶくころ、石部のやどりにつきぬ。

 十四日
 きのふに同じく、そらはれぬ、辰の刻ばかりに、石部のむまやを立
 出て、草津に志ばしやすみて、猶行き/\て、勢田の長橋をわたる、湖
 目もはるばるに詠られければ、

  音もせでさゝなみよする鳰の海や夏をよそなる風のすゞしさ

 三上山幽に見えて、ながめはあかぬものから、あすはみやこにいづ
 れば何くれと心いそがれて、未満るころ、大津のやどりにつきぬ。

 十五日
 けふは、みやこに出なんとことのうれしければ、夜をこめて、大津のむ
 まやたちいでぬ、一里あまりゆきしに、松山につゝじの花の今を盛
 りとさきしを見て、

  来て見れば今を盛りのいはつゝじいはねど春の色ぞのこれる

 ほどなく、都にいでゝ、三條の橋をわたれば、大路をゆきかふ人之さ
 まも、ひなのなが路をすぎきぬる目には、いとめづらし、今出川の御
 館にまゐりつきぬれば、
 おほおば君の、日ごろまちたまひけむ御けしきにて、いとうる
 はしく、いろ/\のさかなどもの御まうけありて、おほみきたまは
 りける、おんいつくしみのかたじけなさに、

  けふこゝにたび路のうさも忘られて君の情をあふぐうれしさ

 けふは今宮のまつりのよし、きこえさせ給ひければ、

  めぐり来てけふいかなればいま宮の神の恵みにあへるわが身ぞ

 夜に入りぬれば、月がけのさやかにすめるを見て、東の方のいとゞ
 おもひ出られて、こゝろのうちに思ひつゞけける。

  すむかげはいずくもそらもかはらねど都の月を君に見せばや

 御物語はつきしなれと、あやにくなる夏の夜の、ほどなく亥過る
 ころにもはやなりけむ、御いとままして、御館を立出で、丑満つこ
 ろに伏見のやどりにつきぬるに、なほそら晴れて、月のさやかなれ
 ば、うちも寝られぬまゝに、

  明る夜も知らでながむる月影にふし見の里は名のみなりけり

 十六日
 ひるごろともおもふほどに、伏見のやとりを立いでゝ、ふねにのり
 て淀川をくだる、淀の水車を見て

  とことはにめぐる車はくちもせでいく代馴るらんよどの川水

 くだりゆくまゝに、日も暮むれば、今宵は枚方といふところに、ふね
 をつなぎぬ、川つらの月を見て

  見るまゝに夏をそよなる淀川やきよきながれに月をやとして
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小須賀覚書とは・・?

2009-11-30 07:38:13 | 歴史
 ガラシャ夫人の最後を記したものに「霜女覚書」の他に、「小須賀覚書」なるもの存在が知られる。
東大史料編纂所に謄写本が収蔵されている。
≪書目データ≫
    【書目ID】 00010236
    【史料種別】 謄写本
    【請求記号】 2040.5-33
    【書名】 小須賀覚書
    【著者名】
    【原蔵者】 松浦詮(長崎県北松浦郡平戸町)
    【出版事項】 北松浦郡役所託写
    【撮影・複本作成】 1887
    【形態】 3丁 (記録1点)
    【大きさ】 27cm
    【注記】 (天正15年-17年)

 私は「霜女覚書」を侍女であった霜女が書き記したのと同様、「小須賀覚書」も小須賀なる人がこの事件のみを、記し残したものかと理解していたのだが、どうも違うらしい。
というのは、いろいろ史料を見ている内に、参謀本部編の「日本戦史」(明治26~44・元真社)の中に「大木土佐清正ノ室ヲシテ難ヲ脱セシム」という項があり、その出典として「小須賀覚書」と記されているのを見つけた。東大史料編纂所の上記書目データの「注記」に(天正15年-17年)とある所からしても、どうやらこの時期の事柄の古記録を書き残したものであろうか。(但しガラシャの生害は慶長五年なのだが・・・?)

 いろいろ読んでいると、こんなおまけに出会うことがある。
肝心の大木土佐云々は、どうでも良くなってしまった。(目新しいものではなかった)
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足袋の発明

2009-11-29 14:09:59 | 徒然
 木綿の足袋の発明者は三齋の母であるという説がある。(樋口伝著:明治45.3 東京書画骨董雑誌社発行「茶道名人」-細川三齋-)つまり、幽齋藤孝夫人・麝香ということになる。
上記著書から該当部分を引用する。

    江村専齊の老人雑誌に依れば、木綿の足袋は三齋の母が初めて作って
    三齋に穿かせたといふ事である。之れは茶の湯にいづる時足が冷えるか
    ら、其れを慮ってこしらへたものといふ、惣じて官家にては、衣冠に足袋を
    附けてゐない、年齢とれば勅許の後 (したうず)をつける。しかし之は
    束帯の具である。武門諸式に於ては、冬春は用ゆるが、夏はゆるさない。
    おもふに昔は木綿足袋ではなく、革足袋ばかり穿つたのであらう。三齋が
    木綿の足袋を附けてから、遂に後世に流行するに到ったのである。

 「襪」は現在「下沓」と表記され、「しとうず」とよばれている。

    襪    fpouch.fc2web.com/shizouzu.html
    足袋  ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%A2%8B

 江村専齊なるひとがどのような人物なのかも判らないし、この説の信憑性もどうな
 のかも判らない。それはそうとして、現在のような足袋の形態の登場の仕方がよく
 理解できる。
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余計な御世話・・吉良上野

2009-11-29 11:01:23 | 歴史
 宝暦の改革をやってのけた重賢の曾祖母が、あの浪費家の清高院であることを考えると不思議な感じがする。清高院が細川家の財政破綻の元凶のような人物であるからだ。
歴史には「もしも」はないが、天草島原の乱が落ち着いた寛永十五年九月頃に持ち上がった、光尚の再婚の話が成り立っていたら、どうなっていたろうかと思ってしまう。清高院の登場もなかったろうし、綱利の誕生もありえない事になる。

 忠利は小倉小笠原藩の右近太夫(忠真)の息女を、息・光尚の再婚相手に考えている。忠利室保壽院からすれば姪であり、二人は従兄妹の関係でも有り願ってもない話であったろう。処が同時期、高家吉良上野の斡旋で八条殿息女との話が持ち上がっている。これらの事に関するいくつかの書状は、忠利の困惑振りを示している。結果としてこの二つの話は頓挫し「痛み分け」になった訳だが、原因が良く判らない。

 右近太夫の息女を調べてみると、福岡藩黒田光之室、守山藩松平頼元室がおられる。養女も二人あるが・・ 余計な穿鑿ではある。

 清高院に対して光尚は堕胎を命じたり、屋敷から出すように命じたりしている。これを諌めたのが保壽院附の岩間六兵衛だが、光尚は長く清高院を屋敷に上げることをせず、六兵衛の屋敷で過している。はたしてこの二人、仲はどうだったのだろうかと思ってしまう。
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信長の天下所司代

2009-11-28 22:37:28 | 書籍・読書

信長の天下所司代 - 筆頭吏僚村井貞勝 (中公新書)

谷口克広/著
中央公論社(中公新書)
価格:798円(税込)

村井貞勝の子孫が細川家家臣に在る。これは読まねばならないだろう。
実はPさんのブログでつい最近発売されたことを知った。明日は本屋へ走らなければならない。


  【本の内容】
元亀四年に足利義昭を追放した後、信長は「天下所司代」を置き、京都支配を行った。本能寺の変までの九年間、一貫してその任にあったのは村井貞勝である。彼は信長の絶大な信頼を得て、市政から朝廷・公家との折衝までを一手に担い、ルイス=フロイスからは「尊敬すべき異教徒」と呼ばれた。武功とは無縁の吏僚でありながら有能を認められて「天下」=京都を仕切り、織田政権の要となった村井貞勝の活躍に光を当てる。

 【目次】
第1部 「天下所司代」まで
      (信長の成長の蔭で京都での活躍)
第2部 「天下所司代」村井貞勝の日次記
      (天正元年(1573)・天正二年(1574)・天正三年(1575) ほか)
第3部 「天下所司代」村井貞勝の役割
      (「天下所司代」の仕事について「天下所司代」村井貞勝の評価)
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年賀状と「寅」

2009-11-28 21:22:24 | 徒然
                      朝日コムのサイトから南禅寺・群虎図                     
 毎年この時期になると、年賀状はどうしようかと頭が痛い。
郵便局の関係者は、年賀状を売るのにノルマがあるらしい。妻の友達が電話をしてきて、買ってほしいといってきた。息子さんの仕事の関係らしい。絵柄はどうしますかとのことだったが、30枚ほどだけ虎の絵にした。届いたのでよくよく見てみると、南禅寺の障壁画の「群虎図」の一部が採用されていた。上の図の右から二番目である。

 年賀状の虎の絵はいろいろ思い出があるが、随分以前本妙寺(加藤清正公菩提寺)の張子の虎を、版画にしようとがんばってみた事がある。加藤清正公の虎退治にあやかって、本妙寺では笹に首ふり張子を結んだものを売っていた。(今の時期はどうだか知らないが、頓写会のお祭りには売っているようだ)ところが年内に完了せず未完に終わった。私の年賀状つくりはいつもこんな調子で、投函するのは年が明けることがしょっちゅうだった。さて今年はどうしたものか・・・気分が乗らないとやらない性質だから・・・

 本妙寺には年内には一度訪ねなければならない用事が在る。あの張子の虎は今の時期売ってあるのか・・確認せねば成らぬ。
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到津(イトウヅ)氏

2009-11-28 19:34:44 | 歴史
 細川家家臣に到津氏が在る。これを「いとうづ氏」と読むことを知ったのは最近の事である。豊前で召し出されたと思われる家々を調べている内に、偶然判ったことだ。宇佐神宮の社家の一族だろう。大友家の家臣であった到津氏があるから、こちらの一族と考えるのが正解かもしれない。到津氏は出雲の千家、阿蘇の阿蘇家に並ぶ古い経歴が、はっきり判る氏だそうだが・・・まったく知らなかった。(ウイキペディアでもまだ取り上げられていない)
     www1.bbiq.jp/iwamiya/yu4/kemuri4_005.htm
     www.kmnh.jp/meishyo/top-01/040-itouzusya.htm
     www.e-obs.com/rekisi/kodai/komonjo/itozu.htm

何らかの情報をお持ちの方は、ご示教いただければ幸いである。
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細川齊護公「道の記」 -- 2

2009-11-28 10:48:16 | 歴史
 五日
 卯すぐるころ、三島のとまり立出しに、雨すこしふりて、明行く空も
 ほのぐらくなりぬ、巳の刻ともおぼしきころ、空はる、けふは名にお
 ふふじをながめばやと、たのしみしに、原のむまや行過るまでも、雲
 かゝりて見えざりしかば、いとくちおしかりしに、よしはらのむま
 や近くなりて、雲やゝはれ、ふじのみえければ、うれしさの餘りに、

  きてみればいよ/\高きふじのねや雲より上にふれる白ゆき

 浮しまが原をみて、

  ふじのねやすそのをかけて見渡せば心も空に浮きしまがはら

 午満るころに、ふじ川にきたりぬ、流れもいと清く、うち渡りて、

  乗りて行く駒にやかはん淵も瀬もきよき流れのふじ川の水

 このあたり、吹上のはまといひけるよし、聞えければ、

  ときならぬ雲かとばかりうら風の吹上のはまにたてる志ら波

 暮がたに、蒲原のむまやにつきぬ、このところは、荒磯ちかくて、よす
 がら、なみのおとの聞えければ、

  あら磯によせくる波のおと高久かたしくそでの夢ぞくだくる

 六日
 蒲原を立出て行く、けふもきのふにおなじく、きり立こめしが、ほど
 なく晴れて、日のひかりもいでぬ、由井もすぎて、薩埵山にかゝりぬ
 このあたりを、田子のうらとて、眺望もすぐれて、海道第一のおもし
 ろき所なれど、けふは曇りて、ふじも見えざれば、くちおしくて、

  名にいおふふじの高ねはうづもれて雲にぞつゞく田子の浦波
  たごの浦やふじのたかねは雲かけて雪にぞまがふ沖つ白なみ

 興津をすぎて、そら晴れぬ、このあたり、そで師がうらといふをきゝ
 て、

  故郷を志のぶなみだに浪ならで袖師がうらにほすひまぞなき

 すこし行きて、清見寺といふ所あり、この處は、向ふに三保の松原み
 えて、風景いはんかたなし、

  よせかへる志ら波とほく見渡せばみどりぞうかぶ三保の松原

 ほどなく、府中のむまやすぎて、丸子のやどりにつきぬ。

 七日
 丸子をたちいづ、けふもきのふにおなじく、そら曇りて、ほどなく、う
 つの山にかゝりければ、葛の細道のふるき跡をたづねて

  うつの山うつゝにわくるあさぎりや夢路をたどる葛のほそ道

 ほどなく、岡部のむまやもすぎて、藤枝の志ばしやすらひ、午満るこ
 ろ、島田をすぎて、大井川をわたる。

  こゝもまた名にながれたる大井川みやこ戀ひつゝ人や渡らん


 金谷のむまやもすぎて、さよの中山にかゝりぬ

  ちぎるぞよまた来む春も道ひろくかはらず越えんさよの中山

 日坂のむまやちかくなりぬれば、日も入りぬ、このごろは、そら曇り
 て月も見えず、今宵めづらしく月をながめて、

  旅衣きのふのそらにひきかえてうらめづらしくすめる月かげ
  こひしたふ心にふかくながむれば月にも君がおもかげにたつ

 ほどなく、掛川のやどりにつきぬ、このところよりは、あづまのほうに
 便あれば、

  みせばやと思ふ心をおしこめてみじかき筆にかきぞのこせし

 八日
 掛川のむまや立ちいでしに、夜べの空猶晴れて、けふはよき日和と
 はなりぬ、一里ばかりもゆきて、原川てふところは、川の流も清けれ
 ば、志ばし、このところにやすらひて、

  すむ人之こゝろもさぞとくみて知る清きながれのはら川の水

 袋井見附のむまやもうちすぎて、天龍川といふをわたりて、猶行く
 に、濱松のむまやちかくになりぬ、とおもふところに、馬籠橋てふあり、
 こゝは江戸と東との中なるよし、人びとのいひけるを聞きて

  東路のなかばと聞けばこしかたも都のそらもほどぞはるけき

 濱松のむまやに、日のかたぶくころつきぬ。

 九日
 濱松を立いでしに、明方雨ふりぬれど、志ばしにてやみぬ、二里ばか
 りもゆきて、舞阪のむまやより、いまぎれの船に乗りぬ、ふねのうち
 にて、そらよくはれて、丑寅の方に、ふじのみえければ、

  空晴れてけふこぐふねに思ひきやふじの高根の雪をみむとは

 けふは波風おだやかにて、あら井につきぬ、ふねよりあがりて、関を
 も通りすぎ、このむまやにやすらひけるうちに関守の何がしも訪
 ひきたりぬ、濱名の橋はいづこにかありけん、こゝなむ橋本とて、あ
 らはなる志づの家ゐのみありける。

  むかしべをとへども今はあとかたもなくただ橋本の名のみ残れり

 志ほみ坂をこえて、志らすがのむまやに、志ばしやすらひて、二川吉
 田御油のむまや/\もうちすぎて、暮過るころ、赤坂のやとりにつ
 きぬ。

 十日
 夜明方に、赤坂のとまり立出しに、そらくもりぬ、富士川のむまやをす
 ぎて、岡ざきのむまやにきたり、矢矧の橋本に、志ばしやすらひぬ、こ
 のはしは海道第一の橋なり

  武士の矢矧のはしの名にめでゝをさまる御代にわたるたび人

 二里ばかりゆきしに、雨ふり出ぬ、池鯉鮒のむまやにやすらひ、鳴海
 のむまやにて、思ひつゞけける。

  東路のひことも遠くなるみがたなほ志たはるゝ君がことのは

 雨もいよ/\ふるて、申すぐるころに、熱田のやどりにつきぬ。

 十一日
 けふもまた、きのふにおなじく雨ふりて、風もおだやかならざれば、
 桑名のわたりのふねはいでざれば、さやへ廻るべしとて、夜あけて、
 あつたのやどり立出ぬ、こゝの御社に詣でんこゝろざしはありな
 がら、何くれと、こゝろまかせねば、よそながらふしおがみて

  あつたなる神のめぐみを仰ぎつゝ心のうちにいのりてぞ行く

 夜べよりの雨にて、道もあしければ、からうじて、岩塚といふところ
 にきたりしに、風つよく吹き、雨も志きりにふりて、いとさむきおぼ
 えぬ、志ばし、この所にやすらひて、

  春過ぎて日かづへぬれど風さえて夏ともたれかいは塚のさと

 神守のむまやにきたりければ、雨もやみ風もなぎて、そら晴れぬ、さ
 やより川ふねに乗りて、申のはじめごろ、桑名のやどりにつきぬ、よ
 ひは空はれて、月隈なかりければ、

  このごろの旅の衣のものうさもわすれてめづる月のさやけき

 志ばしながめてふしぬ、猶夜半に目覺せしに、をりふし、千鳥のなき
 ければ、

  草枕さびしきとこに夢さめてなほあはれそふ千とり鳴くこゑ
 
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熊本の堀部家四家

2009-11-27 16:53:16 | 歴史

 赤穂浪士堀部弥兵衛・安兵衛の名跡を継いだご子孫が、細川家家臣であることを知ってびっくりなさる方が多い。熊本においては元々、堀部弥兵衛の兄・次郎左衛門を祖として三流がある。弥兵衛・安兵衛の子孫が熊本に在るというのは、これは弥兵衛の養子・文五郎が、義兄堀部安兵衛の跡をうけ名跡継ぎ、後年細川家に召し出されたためである。討ち入り当時文五郎も仲間に入りたかったようだが、これは弥兵衛の受け入れる所ではなかった。堀部家の跡を託しての事であろう。

竜田藩片桐出雲守家臣  同左・後浪人  正保4年来・肥後  慶安元年(1648)召出
   堀部助右衛門---弥兵衛---+--次郎左衛門---+--甚之允---+--三右衛門・・・・・・・・・・・→甚之允家
                |        |      |
                |        |      +--左近右衛門・・・・・・・・・→右学家
                |        |
                |        +--庄兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→庄兵衛家
                |               元禄16年(1703)召出
                +---弥兵衛-----+==安兵衛====文五郎・・・・・・・・・・・→文五郎家
                         |          ↑
                         +==文五郎-----------
                          弥兵衛妻わかの甥・忠見氏

熊本の堀部家史料によると、助右衛門・弥兵衛親子は竜田の片桐家の家臣であったとされる。寛永十二年片桐家を離れて浪人、次郎左衛門が妻の叔父・細川家家臣小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年熊本に来たとされる。慶安元年甚之允が、光尚により児小姓として召し出されている。赤穂浪士討ち入りから55年も前の話である。

堀部弥兵衛の史料を読むと、代々赤穂浅野家の家臣であったとされるが、熊本・堀部家(次郎右衛門流三家)の記録(先祖附)とは明らかに違っている。当然のことながら、赤穂義士に関する資料が多く伝えられているが、それとは全く趣を事にする、細川家家臣の生活ぶりを知る上での貴重な史料が、堀部甚之允家に残されている。(新・熊本市史-通史編第三巻・第四章「武士たちの生活」、「堀部家の生活」 p532に詳しい。)

そろそろ十二月、「忠臣蔵」の話などがぽつ/\出てくる季節になった。

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今日の新聞から

2009-11-27 12:23:29 | 新聞
今日の熊本日々新聞の13面に、次の記事が載っている。
■「絵画の好きなお殿様」は、県立美術館の学芸課参事の井形栄子さんの記事。
  昨日展観した「華ひらくルネッサンス-肥後文化の黄金期」についてである。
  これを読んでから出かければよかったと、ちょっと残念だが・・又出かけようと思う。

■【来年4月20日から「細川家の至宝展」東京国立博物館】とある。
  よくよく読むと、京都国立博物館・九州国立博物館と巡回するらしい。
  来年は藤孝公歿後400年、護立氏歿後40年、永青文庫創立60年にあたるという事で
  の企画らしい。うれしいなーと思ったら、スケジュールをみてびっくり・・・
     東京国立博物館 (2010) 4/20~6/6  
     京都国立博物館 (2011) 10/8~11/23
     九州国立博物館 (2012) 1/1~3/4

  九州は2年余りあとの事だった。来年之ことを言うと鬼が笑うというが、鬼に三度
  ほど笑ってもらわなければならぬ。
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澤村大學の「皆朱の鎗」

2009-11-26 15:50:31 | 歴史
常山紀談から 澤村大學

駿河を攻らるゝ時東照宮横目の人を召してむかしより皆朱の鎗の柄瑇瑁の柄ハ武勇
勝れたる者ならでハ持せざるに、近比は持をるものゝ数多有ときく、心得がたき事なり
改めよと仰出されけるに皆朱の柄の鎗持せ菖蒲革のたち付を着て通る者有誰ぞとと
問に細川越中が士澤村大學と答ふ此よしを申けれバ東照宮其大學ハ若き時才八とい
ひつるが小牧にての事なりし秀吉二重湟の軍兵を引取る時秀吉六万計青塚に陣せし
を吾小牧より押寄て引退く敵を打破る其時細川忠興秀吉の先陣に有て才八眞先に進
みて鎗を合せし有様今も猶目の前に見るがごとく覚えたりかゝる大剛の者に持すべし
とて其餘の者を禁ずる事よと仰られしかば澤村傳へ聞今更わが功名を世にあげたる
忝さと悦びけり

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

かつて、熊本県立熊本高校の校旗の柄が、この澤村大學の「皆朱の槍」であったらしい。
同校のサイトに貴重な情報がある。
【「校旗」の槍物語 】 http://www.kumamoto.bears.ed.jp/_2455/_2461.html
残念ながら昭和20年の空襲により焼失したらしいが、大変興味有る話しではある。
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熊本県立美術館・永青文庫展示室へ

2009-11-26 12:17:03 | 徒然
 今日の熊本は快晴で暖かくて・・・
所用で市役所まで出かけたついでに、熊本城内の県立美術館の永青文庫展示室へ出かける。城内駐車場の美術館に一番近い所まで車を入れて、痛い足を引きずって150メートルほどを歩く。「華ひらくルネッサンス-肥後文化の黄金期」が開催されているが、お目当ては齊茲公の「耇姫図」だったのだが、残念ながらこれは写真パネルの展示だった。嬉しかったのは「融姫図」が見れたことだった。意外と小さいサイズの絵が表装されているが、丸々とした手や足や指をしゃぶる後姿が、本当に可愛らしい。足を投げ出して座った姿を見ると、生まれて五ヶ月で亡くなったという記録が疑わしく思える。「耇姫」にしろ「融姫」にしろ齊茲晩年の子供だから、絵をとおしてその愛情が充分感じられて微笑ましい。「猫図」などはリトグラフにでもすれば、随分売れるんではないかと思うくらいの素晴らしい出来栄えである。齊茲公のすごい才能に感嘆しながらよい時間を過した。

 図書館を出ると正面に天守が見える。天気も良い事だし、久しぶりに登城してみようかとも考えたが、膝が悲鳴を上げそうな気がして断念・・・
最近は歩く事が億劫になり、メタボ指数が上昇中の津々堂です。
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   諱

2009-11-25 13:23:36 | 歴史
 お尋ねがあったので細川家歴代当主の「諱」について記す。

   1、藤孝   足利将軍義藤(義輝)より 天文15年12月

   2、忠興   織田信長嫡子信忠 より 天正6年

   3、忠辰 → (忠利) 徳川二代将軍秀忠 より 慶長5年(15歳)

   4、光利 → (光尚) 徳川三代将軍家光 より 寛永12年(16歳)  

   5、綱利   徳川四代将軍家綱 より  承應2年12月(11歳)

   6、宣紀   徳川六代将軍家宣 より  宝永6年(33歳)
    養子(新田藩利重二男利武)

   7、宗孝   徳川八代将軍吉宗 より  享保17年(14歳)

   8、重賢   徳川九代将軍家重 より  延享4年(32歳)

   9、治年   徳川十代将軍家治 より  安永3年(16歳)

   10、齊茲   徳川十一代将軍家齊 より  天明7年(29歳)
    養子(宇土細川藩7代当主・和泉守立禮)

   11、齊樹         同上        享和2年(14歳)

   12、齊護         同上        文政9年(23歳)
    養子(宇土細川家9代当主・中務少輔立政)

   13、(護順)→慶順→(韶邦) 徳川十二代将軍家慶 より 嘉永2年(15歳)   

   14、護久    以降「護」の字をもって通字としたと思われる。 
   15、護成
   16、護立
   17、護貞
   18、護煕
   19、護光  
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井戸(井門)亀右衛門

2009-11-25 08:30:16 | 歴史
  「古武士の面影」から・・  井戸亀右衛門

小野木縫殿助、江見源左兵衛共に丹波の郡主なり。年々互に地を争ひて相戦ふ。
江見が勢次第に迫り、僅かに孤城を守る。小野木之を囲み攻むる急なり。而して
小野木は又「誰か進んで江見が首を獲るぞ」と将士を励ます。井戸亀右衛門時に
二十七才、傍にありけるが進んで曰く「賎臣必らず江見が首を得ん」と。
其兄軍評議して席にあり。之を聞き「汝假令心に思ひ設くるも、場合悪くは手に廻
らぬものなり。若輩の致す所、且無禮の至りなり。疾く御前を退け」と荒かに怒る。
亀右衛門自若として答て曰く「賎臣が申す所、全く浮気にはあらず、毎に相撲を取
るには、世は廣ければ他国は知らず、丹波一州にあっては我片手に足る者も候は
ず。地に走るに駆足さらに我に似たる者も候はず。剣術に於ても皆怯るゝに足らず
候。賎臣未だ勝負の理虚實の形の如き辨はず候へば、何ぞ他に譲り候はんや。
即ち江見が首を取らん者は、賎臣を惜いて又誰か能し候ふべき」廣言彌々高し。
小野木曰く「兄が戒め元より弟を愛する心に出でたるもの、所謂遠慮あり。さりなが
ら彼が面相必ず仕遂げ得ん、必ず仕損ずまじきぞ」と先ず一理を付す。其夜亀右衛
門獨身敵の城中に忍び入り、縁の下に伏し江見を狙ふ。暁方に至り、江見未だ鎧
せず、小具足ばかりにて縁に出でたるを、折節四方に人は無し、亀右衛門走り出て
犇と捉へ、江見と引組むで揉合ひ、遂に其首を掻落しぬ。亀右衛門軈て大音揚げ、
「江戸(ママ)亀右衛門只今江見源三兵衛を打取つたり」と呼はれば、城兵敵を拒まん
とするに圖方を失ひ、戦ひに及ばずして逃げ散りければ、即ち江見か首一つにて城
は容易に陥りぬ。

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   幽齋の田邊城籠城にあたり、亀右衛門は小野木勢の中に在っての見事な働
   きぶりが認められ、のち細川氏に請われて召し出された。

    井門亀右衛門  
      千石 「藤」御鉄炮五拾挺頭  (於豊前小倉御侍帳)
      千石    御鉄炮頭衆 (御入国宿割帳)

   忠興の側近として八代に在った井門氏は、忠興死後宇土支藩立藩にあたり
   家老職として宇土へ赴いた。


 
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