津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

心に留めたい一文・・朝日新聞より

2011-09-30 18:19:33 | memo


無限の前に腕を振る 中也の詩 3.11後の心救う  朝日新聞から引用

 〈風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、/無限の前に腕を振る。〉――81年前に書かれた中原中也の詩の言葉が、東日本大震災を目の当たりにした詩人たちの心をつかんでいる。

 その一人は、佐々木幹郎(63)だ。中也の故郷・山口市で、18日にあった講演会「詩のことばは、何を救うか?」などで、この体験にふれた。

 東京で暮らす佐々木は、3.11以後の不安と恐怖のなかで詩を書き、自分の詩に絶望する。「半世紀近く書いてきたのに、あの惨状を表現する言葉がなく、情けなかった。本能的に技術でまとめようとしているのも嫌でならなかった」

 ふいに長詩「盲目の秋」の冒頭が心に浮かび、新しい顔を見せる。「そうか、今は無限の前に腕を振るしかないと、中也の言葉に救われる思いがした。中也は東日本大震災を体験して書いたのでは、と錯覚するほどだった」。『新編中原中也全集』の編集委員を務めた佐々木が、改めて中也の詩の普遍性に驚いた。

 「盲目の秋」はこの後、〈その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、/それもやがては潰れてしまふ。〉とつづく。もちろん大津波を表現した詩ではない。22歳の中也は、愛する長谷川泰子に去られ、喪失の苦しみを切々とうたいあげた。発表の8カ月後、泰子はほかの男の子供を産み、中也が名づけ親になる。

 そんな生々しい人生の物語は昇華され、静けさをたたえた永遠の喪失感が、3.11を経た人の心をやさしくつつむのだろう。詩の力は不思議だ。

 8月に佐々木は、地盤沈下したままの宮城県気仙沼市を取材で訪れ、夕日を見ながら思った。「中也はすごい。本当にまいった。この光景を前にしたら、あの詩の言葉以上のものはない」

 3.11以後、詩の朗読会の雰囲気が変わったのを佐々木は感じる。本当の言葉を求め、聴衆が聴き耳を立てる。これほどこわい批評者はかつてなかった。

 「震災以前からとうに、私たちは言葉から見捨てられていたのではないか。あまりに安易に使ってきたために。がれきのなかから言葉を探しだしたい」

 詩文集『生首』で4月に中原中也賞を受けた辺見庸(67)も、3.11の惨状に「盲目の秋」を重ねあわせている。辺見は深い心労から贈呈式を欠席し、こんなメッセージを寄せた。

 〈無残な映像のみが次から次へとつきつけられるのに、危機の深さと意味をかたり、わたしたちのたましいの居場所をおしえることばがないのです。つらいことです。言葉はいま、現実のできごとにあらかたおいていかれています〉

 故郷の宮城県石巻市を襲う大津波の映像を初めて見たとき、〈風が立ち、浪が騒ぎ、/無限の前に腕を振る。〉という言葉が、体の奥深くから自然にわいてきた。あの光景にこれほどふさわしい詩の表現を、辺見も知らない。

 その後、連作「眼(め)の海――わたしの死者たちに」27編を「文学界」6月号に発表するなど、辺見は詩を書きつづける。無限の前に腕を振るように。(白石明彦)

 

 

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十二)時習館不時被為入高覧之式

2011-09-30 10:10:57 | 有吉家文書

一御刻限一ト時前例之所江罷出候事
    但大御目附も例之通一所ニ罷出候事
    三家嫡子見習ニ被罷出面々も出席
    不苦候事
一致出席候得者御奉行并助教学校
 御目附も詰間へ出方有之候事
    但御立後も右同断之事
一名付之手控者不時御入之節ハ差出
 不相成候事
    御注進左之通
    一御供廻  一御殿御立
一東紋より被為入御出迎例之通御居間
 北御敷出ニ罷出候事
    御奉行助教学校目附御中門外
    例之所ニ罷出候事
一拝聞之諸生者御入前講堂東之御入側
 西向ニ幾重も繰付有之候軽輩陪臣
 南之入側北向ニ例之所へ繰付有之候脱劒
 之事
 右軽輩陪臣之儀定日之講尺ニ
 御入之節者兼而講堂出席御免之向ニハ
 御目通不苦候處
 高覧ト申ハ諸生之学業御試ニ付
 軽輩陪丞相聞之儀何程ニ可有之哉と
 学校御目附江問合候處是又前条是輩ハ
 不苦由申来候後年疑惑茂可有之
 記置候事
    訓導句読師ハ東ノ中之御入側諸生
    之前ニ座着今日之説教人以下ハ箱段
    下之方ニ繰付有之訓導句読師
    習書師各請前々々より繰出有之候事
    御奉行学校目附者西外之御入側訓導之上ニ
    四本目之柱之元ニ座着之事
       但訓導句読師習書御入替ハ例
       之通候事
一被為入候上例之通御椽を廻り講堂ニ出西
 中之御入側御次入口二枚屏風外御屏
 風を左ニ取東向ニ座着大御目附者
 右手少シ引下り座着之事
一御見臺ハ南より横畳五枚目一間半之
 所江始より出有之候事
一御襖明立ニ大御目附御向詰有之候
 堂中御覧所より壱間計南ニ寄
 座着之事
一御襖明候ヘハ平伏説教人出懸候得者
 手を揚候事
    但御襖ハ南之方迄明東之方ハ明
    不申候得共是ハ臨時御模様違可
    申事
一上江者御控御本有之候事
    但同席之方ヘハ控本無之候事
一高覧之次第者説教臨時読一部
 読背誦席書ニて候事
    説教人娘一人宛繰出ニ相成堂中ニ
    入御詞儀夫より脱劒ニて御見臺之元江
    罷出候尤背誦席者二人組三人組ニ而
    罷出候事
       但軽輩陪丞ハ無御辞儀無刀ニ而
       罷出候事
一一部読相済御襖建此時平伏夫より
 御見臺入書道道具取出ニ相成尤詰間へ
 参候間合ハ無之居続候事
一夫より御向詰座着ニ相成猶襖
 明候間前条之通ニ候事
    席書之人数ニ応し候介添之面々一同ニ
    罷出毛氈之頭ノ方ニ座着此出様説
    経人之通ニ候席書出来之上介添より
    段々鏡板之上ニ載候事
       但以来者両側ニ御屏風立且々張
       付ニ相成候儀も有之候事
一席書等相済御襖立平伏之事
一召出有無者其節之御模様ニ応候尤
 被召出候得者例之通罷出候事
一御中入有無茂右同断之事
一夫より被遊御立候付御椽を廻御敷出
 例之所江罷出候事
一御立跡より直ニ出勤奉伺御機嫌候
 事
    但刻限次第ニハ直ニ引取候儀も有之
    候事

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上田久兵衛忌

2011-09-30 08:46:55 | 徒然

                    故里は萩が花満つ久兵衛忌  津々

 熊本は昨日の夕刻あたりから雨が降り出しました。今日は高祖父・上田久兵衛が刑死した日です。雨もまた一興かなと思います。
私は一人、この日を「萩花忌」と呼んでいます。久兵衛の辞世

                   秋風の便りに聞けば古里の
                          萩が花妻今盛りなり


 からとったものです。お天気がよければ久兵衛が妻を偲んだ我が家、熊本市城山の半田を訪ね、又禅定寺にお墓参りに行こうと思っていましたが残念な天気となりました。上の写真は獄中で髪の元結に爪楊枝で書き記した辞世ともいうべき詩作です。久兵衛の無念さを思うと胸がふさがります。想いをはせて一日静かにすごすことにしましょう。

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お手入れ

2011-09-29 15:24:59 | 徒然

                    蘭が香を手向けん母の忌日かな

 「するが蘭」という春蘭の一種です。
寄せ植え状態になっているので、根(バルブ)分けをしなければと思っています。
平成元年に盆栽好きの義父が亡くなり、十点ばかりが我が家に越してきましたが、松とか楓とかは手入れが難しく人に譲ったり枯らしたりして、盆栽以外の観葉植物数点が20数年長生きしています。
長生きの秘訣は、余り手がいらないということです。この鉢も本当は三~四株ほどに分けたほうが良いのですが、そうすると置き場所にも難儀するためこのような状態です。同様の鉢が三鉢ほどありますから、どうしようかと頭を抱えています。
八月・九月の暑い頃花を咲かせます。良い香りを放ちホッとさせてくれます。

お好きな方にお分けできないかな~と考えたりしています。

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澤潟屋~~

2011-09-29 10:35:10 | 徒然

 猿之助の甥(段四郎・長男)市川亀次郎が猿之助を継ぎ、長く絶縁状態であった猿之助の長男・香川照之が市川中車の名跡を継承するというニュースにはいささか驚いてしまった。亀次郎はともかく、香川照之については素晴らしい俳優だとはいえ、40うん歳からのチャレンジでは如何?と首を傾げたくなる。しかし、会見での熱い想いを見聞きするに付け、大いなる期待が持てそうである。

 澤潟屋の屋号は先祖の家業が薬屋だったことによるとされるが、外の歌舞伎の名門に比べると歴史が浅い。
そんなこともあって現・猿之助のスーパー歌舞伎という本当に「歌舞いた」新作歌舞伎は、新たな地歩を固めようとする猿之助のあせりの様なものを感じる。二人とも演劇に関する熱い思いは並外れたものがある。新たな澤潟屋の二枚看板と成ることは間違いない。

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十二)今晩御後禮来年御参勤之御供被仰付申渡之式

2011-09-28 09:16:15 | 有吉家文書

一御供被仰付候面々御次外様共ニ今
 晩御禮後御用有之候間相滞候様
 昼之内紙面ニて及達候事
    但今晩ハ御次士席以上表者御物
    頭列已上申渡候尤同道人無之候事
一昼之内御小姓頭御用人を詰間江呼
 今晩御礼後九曜之御間ニおゐて申渡
 有之候段申達候事
一夕方出仕之上猶又御小姓頭御用人を
 詰間江呼今晩呼出置之面々御礼相済
 候上例之通御間江繰付置知らせ有之
 候様申達候事
    但御小姓頭江者繰出名付相渡
    御用人江者其儀無之候事
一御用番一人相滞加番引取候間」列座
 等無之候事
一夫より御小姓頭御用人一同ニ案内有之
 御用番一人落間通毎々御板椽ハ不罷通九曜
 之御間江罷越此時御小姓頭ハ佐野
 御間まて案内いたし候事
    但玄猪申渡ハ何連之御間も同席
    并御奉行御目附列座無之候事
一御供被仰付候御用人ハ同御間中柱ニ
 南向ニ繰付有可之候間御用番九曜
 御間内南之御入側境中之柱之元下より
 三畳目ニ坐着申渡候事
    但九曜之御間中柱之御間境之御襖
    居候事
一夫より同御間へ御近習御次組脇以下士
 席已上繰付ニ相成候右繰付之内ニ御小姓
 より案内有之候付佐野御間ニ御小姓頭初
 着坐之面々繰付ニ相成候間例之處ニ
 坐着申渡候事
    但右之面々毎申渡候節之出處ニ
    始より繰付有之候事
    今晩当番并病中之面々ハ同役等より可有通
    達候家伝書付
一夫より直ニ鷹之御間ニ御物頭一同ニ繰付
 相成居候間右同断之事
一右相済猶又九曜之御間江参懸候得者
 御用人猶案内有之始之所ニ座着致し
 御近習一手ニ申渡候尤繰付候様子次第
 中柱御間入側江控居候事も有之候事
    但右御間中柱より北之様ニ南向幾側も
    繰付有之候御用人も一人西ノ方ニ罷出居
    御請合有之候事
一右相済詰間江御小姓より呼御供被
 仰付候御小姓組等之名附御用番坐
 にて相渡申渡有之候様申達候
 御吟味役等ハ御奉行江右同断
 御馬方等者御用人江右同断御右筆者
 御右筆頭江紙面ニて及達候事
一御請書即晩例之通ニて差上候事

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熊本史談会発行・・「現代語訳 肥後孝子傳」

2011-09-27 15:43:07 | 書籍・読書

                     

 わが熊本史談会の長老・90歳の高本保夫翁が今般、「現代語訳 肥後孝子傳」を上梓され発刊の運びとなった。氏は高名な肥後の儒者・高本紫のご子孫だが、日ごろから現今の殺伐とした世情に憂いの心をもたれ、特に親子の関係の素晴らしさを称えた中村忠亭の著「肥後孝子傳」の現代語訳版の発刊に心を注いでこられた。一年余心血を注がれ齢90歳の輝かしい御年を迎えられた今年出版に至られた。敬意を表すると共に、皆様にもぜひお読みいただきたいと、ご推薦申上げる。

     販売:熊本市上通り 舒文堂河島書店  http://www.abaj.gr.jp/jobundo/index-j.htm
             同     天野屋書店    http://www.kosho.ne.jp/~amanoya/

     定価:1,200円(税込み) 郵送料等につきましては、各書店にお問い合わせ下さい。


 中村忠亭著「肥後孝子傳」については、原文を近代デジタルライブラリの「肥後文献叢書」から御覧いただける。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766735/1

 尚、著者中村忠亭についての詳しいことについては、近代デジタルライブラリの「肥後先哲偉蹟」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778595 から 281/441 と打ち込んでいただくと御覧いただける。 


 【蛇足】 私の好きな小沢昭一氏(変哲)に、次のような句がある。

                貧にして孝子出づとや蕎麦の花

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有吉家文書「年中行事抜粋」(四十一)玄猪御禮之式

2011-09-27 13:45:25 | 有吉家文書

一玄猪御祝被仰出候段御用人より
 書付御用番江相達候付佐弐役江
 相渡候事
一夕七半時揃二而麻上下着仕之事
    但提灯なし二詰間江相揃候得者
    宜候事
一着服者兼房尤上下其餘之色         憲法小紋のこと 宮本武蔵と対決した吉岡一門は染物屋を家業としていた。
 ニて茂不苦候事                                その吉岡家により作られたものと伝えられる。
一御小姓頭より案内有之御一門ニ三家より
 進上之御餅有之
候事
一同席之御禮ハ鹿之御間ニ而被為
 受候付入口ニ御屏風かこひ出来御間取
 諸事年始之通候事
一御出座被為候上御小姓頭より猶知らせ
 有之候間御一門初一人宛帯劒ニ而
 罷出候事
 ○末之附紙爰ニ附
一御間入口ニ而御辞儀無之御向通より
 直ニ御三方之元ニ進出御餅を取頂
 戴之仕直ニ右江開引取歌仙御間
 元之坐ニ而御餅紙ニ包懐中夫より
 九曜之御間御椽側江且々参例之通
 御一門衆始列座之事
一右之通り御一門衆始九曜之御間江
 下り候ヘハ御上段御間取仕直しニ相成候
 併詰間へ引取之間合無之候事
一御出坐之時例之通平伏仕御一門衆御三方
 持出候得者手を揚候事
    但御向詰等例之通候事
 右御禮者御物頭列以上ニて候事
一夫より御次御礼相始同席者居続ニ
 座着御一門衆者御次御礼ニハ列座
 無之候尤退去之御間合無之候へハ
 居続ニ茂被致由之事
一夫より御出座之時諸事例之通候事
 付紙
    文化五年御在国之節不被遊
    御出座候付左之通相究候
一御一門衆始御家老御中老迄中柱
 之御間南之方江列座いたし謁御用人
 之上御三方一ツ九曜之御間御上段之
 三方より三畳目ニ差置候一人宛罷出
 順之頂戴直ニ南之側之列座之所ニ
 直り直御三方二上より四畳目二閣候上
 御備頭御留守居大頭両人完罷出
 御餅頂戴御椽頬之様退去各
 御三方取入候所ニ而御備頭御留守居
 大頭御礼口より罷出北之方ニ列座
 相成猶又御三宝五ツ上より差置候上
 御役付着座以上五人宛繰出候
 頂戴御椽頬之様ニ退出之事
 口之稜々付札
  ○此儀本行之通候處近年不図脱劒ニ
   相成御向通より二畳目御礼席
   にて御辞儀仕方ニ相成候處以前茂
   本行之通候上玄猪ハ於
   公儀茂御辞儀なし二御餅頂戴有之
   よしニ付御年限中旧被仰付候節
   帯劒御辞儀なしニ相成度其節申談
   可奉伺候事
     文政三年玄猪御礼之節
     御在国之時分付紙之通奉窺之処
     矢張脱劒ニて御礼申上候様被
     仰出候間以後脱劒ニ而御禮申上
     候之方ニ申談其通相決候事

 

 

【参考】 上記「御一門ニ三家より進上之御餅有之」 は下記のことに依り慣例化されたのであろうか

(前略)有吉将監立言は京都御屋敷御長屋ニ居候に、御出陳玄猪の日にて、立言餅を祝ひ立出ける時、妻心付、殿にも御祝可然と申て急なる折節故、器物も不有合、山折敷の有けるに乗せ持出候へは、藤孝君はや御馬に召れ候所に、玄猪の餅御祝被成候へと云て差上けれは、御出馬の折節、玄猪は能心付也と被仰馬上にて御祝、目出度御帰陳可被成と仰候、即御勝利なりけれは、御帰陳の上にても猶御賞美被成候、後々まて山折敷にて玄猪の餅差上候事は、段々御領知も重なり、旁以御吉例に被思召候に付、向後無懈怠差上候へとの御意有之候故と (綿考輯録第一巻p57)

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細川九曜紋を考える

2011-09-26 17:06:26 | 徒然

   
  九曜紋       細川九曜紋



  【理科系古希爺の暇つぶし】 

細川九曜紋の誕生は、細川宗孝公が殿中に於いて乱心者に襲われ落命されたことに端を発している。
より見やすく、他の類似の紋との違いを引き立たせようとしたものである。

そのデザインが誰の手に依り、どの様な経緯で為されたのかは定かでない。(何方かご存知でしたらお教え下さい)

その細川九曜の紋を睨み付けていたら、法則めいたものがある事に気づいた。
果たしてこれが正解なのか、家紋の専門家にお尋ねしなければならないところだが、大きな間違いはないと思う。
内側の星と外周の星との距離は、内側の星の半径の1/2である。外周の星の上下左右の四つの星と、45度(135・225・315度)方向にある四つの星の中心点を夫々つなぐと、夫々の星はそのライン上に外接していることがわかる。そのことによってこのデザインを美しく見せている。外の星の直系はこれにより自ずと導かれてくる。下図に示す通りである。

商売用のCADを駆使して書いてみたが、ほぼこんなものではないのか・・・ご笑覧/\

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築山家記

2011-09-26 08:37:45 | 歴史

 幽齋公の生年は天文三年四月だとされる。綿考輯録によると三説あるのだそうだが、定説とされている天文三年四月廿二日説は、幽齋公が誕生後米田源三郎(求政)とともに、生母智慶院に将軍からお付を命ぜられた築山家の家記によるものだとされる。綿考輯録にその様に記されている。上田将雄先生の「細川幽齋の出自について」をよむと、永青文庫に於いてはその「築山家記」が見つからないと記しておられる。

 私はまだ内容を確認していないが、それと思わせるものが宮村典太の膨大な古記録「雑撰録」に所収されている。
嫡家は淀に代々在住しながらも細川家から禄を頂戴している。細川家家臣略系譜をたどると、四つの分家があり細川家に仕えた。
幽齋公以来の根本家臣といえる。

 これは早々に図書館に出かけてコピーをしなければ成らないと思っている。系図は手許にあるのだが・・・・・

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柹原文書から「大木土佐(兼能)」・・読み下し文

2011-09-26 08:27:29 | 歴史


一勢州長嶋之城に一向宗一揆を發し信長公ニ 

 敵對申籠城仕候刻土佐殿代々一向宗之門 

 徒ニて御座候故長嶋に籠城被致候 信長公大 

 軍にて御攻候へ共落城不仕剰氏家卜全

 なとヽ申信長公御秘蔵之侍大将討死仕候

 其翌年信長公又大人数にて御取懸被成

 此度は扱ひを御入城を於明渡申者城中

 之者共不残一命を御助可被成候間早々明渡し

 申様ニとの御意ニ候 城中にも長々籠城し

 士卒草臥申候故任御意可申と御請申上

   段々罷出候處ニ信長公兼々よりの御謀にて

  堤之陰に鉄炮を御ふせ置城よりの人数過半

 罷出候時分ニ一度に鉄炮を放懸尽く御討殺

 被成候 其時節跡に残り候者弐百人計在之候

 此者共信長にたばかられ申段を大キにいき

 とふり弐百人之者共一同に心を合せ皆々

 甲冑をぬぎすはだニ罷成信長公御一門方

 之備へ無二無三について懸り信長公の御

 舎兄津田大隈守殿をはじめ歴々の御一門

 十余人討取其外能侍数多討取申候 土佐殿

 弐百人之内ニてすぐれて御かせき能敵弐人

 御討取被成候 弐百人計之者も過半討死いたし

 其場を切ぬけ申者僅四五十人在之其刻

 土佐殿御年二五六歳と承及候事

一長嶋之後土佐殿御浪人にて御入候処陸奥

 守殿信長公より越中國御拝領之刻土佐殿

 長嶋にての武功を御聞及ニ成知行三千石ニ而

 御呼被成其後陸奥守殿肥後江御入部之刻

  も御供にて御越候事

一陸奥守殿御家ニて加賀越中之合戦其外

  肥後の国ニて一揆蜂起仕候刻土佐殿度々の

 高名在之由承及候へとも其場所之様子委

 細之儀は不存候事

一陸奥守殿御身上相果申候已後秀吉公より

 加藤主計頭殿小西攝津守殿両人肥後国を

 被仰付候砌陸奥守殿家来ニて名ある武士をハ

 秀吉公より御書立被成御朱印にて主計頭殿

 摂津守殿両人に御付被成候 土佐殿も御墨付

 之内ニて主計頭殿へ御出先知無相違御取

 候事

一文禄元年高麗初入之刻主計頭殿おらん

 かいへ御働おらんかいの内裏御取懸被成候刻

 おらんかい人大勢ニて罷出半弓を射かけ

 てしげく防申候刻土佐殿一番に鑓を御入

 刻其日の一番鑓ニて御座候事

一かくなミ人十万ニて罷出候時節主計頭殿一手

 にて御追拂被成候 此時も土佐殿一番に鑓を

 御打込候事

一高麗にて主計頭殿よりはつかいと申城に

 土佐殿を城代として人数五百御預被成候事

一高麗より中帰朝之刻主計頭殿事人の

 讒言により秀吉公御前悪敷伏見ニて閉門

 被仰付候処其時節大地震ゆり申候刻主計頭殿

 土佐殿ニ御申にて閉門ニて御入候へ共此時節

 格別之事ニ候間御登城可被成と思召候か如何

 可被成哉と被仰候へは土佐殿一段御尤ニて御座候

   早々御登城被成候様ニとすヽめ被申刻土佐殿

   御供ニて被出候 主計頭殿御登城在之秀吉公へ

   直ニ御目見被成秀吉公御感ニて其後閉

   門御赦免被成候事

 一慶長五年石田治部少輔一乱之刻主計頭殿

   御内室大坂ニ御入候を治部少輔大坂城中江

 人質に取置申候主計頭殿儀 権現様

 御一味ニて御座候故御内室をぬすみ肥後へ

 下し申様ニと土佐殿に被仰付候其時節

 土佐殿大坂ニ御入候故右之通被仰付刻土佐殿

 調儀を以主計頭殿内梶原助兵衛と申老人と

 相談にて無難御内室を城中よりぬすみ出し

 肥後へ御下し候 此段主計頭殿大キに御感悦

 被成候 主計頭殿御内室は水野和泉守殿御息

 女ニて御座候を 権現様御養子被成主計頭へ

 被遣候紀州大納言様御前様御母儀様にて

 御座候事

一土佐殿大坂ニて中風を煩出し十死一生に

 有之候處主計頭殿土佐殿宿所へ御見舞

 被成土佐殿の頭を主計頭殿御ひざの上にのせ

 何とそして此度本復仕候へ其方相果候へハ

 我片うで落たると同前なりとて御落

 涙被成候由此御一言骨髄に徹し忝く

 被存追腹を被致候事根本此御一言より

 發り申候由承及申候事

一慶長十六年六月廿四日主計頭殿御死去

 被成候を其侭土佐殿宿所へ御帰柿原孫三郎

 を数奇屋へ御よび此度御供申覚悟之由

 被申渡候へは孫三郎申候ハ其段せんぎをとげ

 理のつよき方に御付可被成候私理ニ負ケ

 申候ハヾいかにも御供可被成候若又私申所理

 強御座候ハヾ御供之儀思召留り可被成とて

 段々主計頭殿へ土佐殿御奉公之品を

 かぞへたて扨申候は足軽之御奉公之御知行

 御加増も無之候結句殿様へ御不足ハ在之

 筈にて御供之儀ハ沙汰にも及不申事と

 申候処土佐殿御申候は此方之奉公と主人之

 恩賞とを算用づくに仕候は武士道にて

 無之候一言之情ニても万石之知行にも不

 被替事有之候其方なとが様なる武功之

 者我等内に召仕候も皆々殿様の御影にて

 こればかりもいか程の御加増にもかへぬ事候

 其外段々忝事共御申立かく存極め候上は

 誰人か申とても心底替り可申覚悟ニ無之候

 との事ニて六月廿五日辰ノ刻ニ切腹被成候

 兼而より数奇屋を新敷造作被成候其時分ハ

 未半造作ニて在之候由其数奇屋ニ而御切

 腹被成候事

    以上   

 

 

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柹原文書から「大木土佐(兼能)」・・原文

2011-09-25 15:27:14 | 歴史

 この文書は熊本歴研に所属され、「甲佐の歴史を語る会」で、甲佐手永関係の古文書等を勉強されているHH氏から提供されたものである。
加藤清正の鵜ノ瀬堰(熊本県・甲佐町)築堤の折り現場監督的役割を果たしたのが、柿原孫三郎鎮基という人物である。大友氏の幕下から天正の頃加藤家に随身し朝鮮の役などにも従った。禄高は始め100石、次第に累進して500石にまでなったとされる。加藤家改易の後は代々浪人して阿蘇に在住した。大木土佐に関してこのような文書が存在したことは喜ばしいことである。
HH氏のご了解の下、原文をご紹介する。又読み下しもすでに終えているが、これは後日としたい。

    https://mail.google.com/mail/?ui=2&ik=b2b2cab66b&view=att&th=130d46b1b4b7e671&disp=imgs

 

 すでにご紹介したことだが、HH氏はすばらしいサイト「古文書で読む参勤交代」を運営されている。

    http://www.ab.auone-net.jp/~xe2918/

鶴崎・剣八幡宮が所蔵する「大名行列絵図」が圧巻である。是非とも御覧いただきたい。

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「藤孝事記 古典文庫564」が届きました

2011-09-25 08:53:49 | 書籍・読書

 「日本の古本屋」で注文した「藤孝事記」が届いた。平成五年に出版された非売品である。
興味深い史料であり、幽齋の出自を伺わせる「舟橋家説」も間違いなく記載されている。

原本は九州大学付属図書館が所蔵している「細川文庫」蔵の「藤孝事記」である。
p4~p156が影印、p157~289が翻刻、以降p309迄解説に費やされている。
永青文庫に現れない文書が何故ここに集合しているのか・・・・
九州大学図書館が収蔵する細川文庫は「宇土細川家」から出た史料である。
終戦後、宇土細川家の文書が熊本の某古書籍店を通じて九州大学に納められたことを、その古書籍店の現当主からお聞きしたことがある。忠興が八代に持ち込んだ文書類は、本家に渡ることなく宇土細川家に伝えられた。
それが今日このような一級資料として登場している。
そして山田康弘氏の論考、「細川幽齋の祖父について」の強力な史料となった。

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小野武次郎の密意

2011-09-24 11:04:29 | 歴史

 

 山田康弘氏の「細川幽齋の養父について」は、大変センセイショナルで話題となった。

 その発端は細川忠興の言「幽齋は細川伊豆とやらん形(刑)部少とやらんにやしなはれ・・」云々によるものである。そして91歳の老女しゆゑいによって確認された。
綿考輯録の編者・小野武次郎も充分承知のことであり、悩みが深かったことが「藤孝公御養子ノ事」(永青文庫蔵)に伺われる。しかしながら巷間伝えられるように、幽齋は実父・晴員の兄・元常の養子となり忠興以降に繋がったとされている。武次郎は「余儀なき事」としているが、これが現在大揺れに揺れている。

 かって自衛隊第八師団の防衛館で「有吉家文書」が公開されたとき、細川家の系図が出品されていた。
当時ブログにも書いたが、これは忠興を細川経輝を養父とする系図であり大変吃驚したことを思い出している。記憶が定かではないが有吉様のお話では、藩主家から三家老家へ夫々下げ渡されたものではないかということであった。そういう認識が忠興公にあったことは、この一事をしても確実であろう。

 NiCiiで細川幽齋研究の第一人者・土田将雄氏の「細川幽齋の出自について」を読むことが出来る。ここに苦悩する小野武次郎の先の「藤孝公御養子ノ事」や「密意ノ覚」が記されている。小野武次郎の密意とはまさしく幽齋の出自に係ることであり、その最後の数行はまさに武次郎の苦悩を表している。
ご一読をお勧めする。

 

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地図散歩・新町-塩屋町界隈

2011-09-23 21:40:11 | 熊本

 熊本城の西の入口は熊本YMCA近くの法華坂下の新一丁目御門である。

                   http://shinmachi.otemo-yan.net/e150718.html

 この周辺にも大身の家臣の屋敷があった。
新町から上熊本へ至る市電が、蔚山町電停の先で左へクランクして進むが、その左手に大きな屋敷があり一帯を木下町と称していた。
秀吉の正室高臺院の甥に当る、木下延俊(日出藩主・室忠興妹加賀)の三男・延之(3,000石)を家祖とする木下家が、この重要地点を守るために代々屋敷をここに置いた。その故を以って木下町と称していたが、現在は新町3丁目と素っ気無い。

 昨日ご紹介した一連の地図を見ると、木下氏が入る前にはここが南条左衛門の屋敷であったことが判る。
細川興秋の娘・鍋姫を夫人とした南条元信のことである。鍋姫は幼くして父を亡くし、結婚後の晩年は元信が質(牢)屋暮らしを余儀なくされる事件が起きる。養嗣子・元知(忠利末子)は、時の藩主綱利に、陽明学徒追放に関して諫言し永蟄居の処分を受け、あたらの人生を棒に振った。そんな鍋姫は城内に住まいが在ったともいうが、南条家の屋敷がこの場所にあったとは新発見であった。
(追記:時代を遡った「加藤氏代熊本城図之圖」を見ていたら、同じ場所に南条若狭の名前があった。)
南条家にしろ、木下家にしろ細川家との縁によってこの重要な場所の守衛を任されていたのであろう。

新幹線の開通に当り、段山(だにやま)と呼ばれた一帯は、往時の地図とは比べようが無いように様変わりしてしまったが、ここ木下町は健在である。

 余禄として高祖父・上田久兵衛の先祖源右衛門の屋敷を塩屋町に発見、こういうことがあるから想像をたくましくして地図をながめてすごすのも、秋の夜長にはもってこいである。

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