津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

それぞれ、来年四月オープンだそうです。

2011-11-30 16:40:21 | 徒然

 熊本県立美術館の細川コレクション永青文庫展示室はいささか狭いなーと感じていたのだが、本館二階の第一展示室が常設展示室になるらしく改装工事が行われている。オープンは4月になるらしい。一方ご本家・東京小石川の永青文庫の方も来年四月まで休館らしい。館内整備とあるが、その他「細川家の至宝展」があちこちで開催され、お忙しいこともあるのだろう。

 しかし熊本県立美術館に常設展示室が出来るということは有りがたいことではある。
新幹線開通以来熊本城来城者数はなかなか良い出足らしいし、細川コレクション永青文庫展示室もそのお役に立っていることは間違いない。

 現在開催されている「参勤交代-大名たちの大移動」が終わると、次回は細川コレクションの展示は「中国の美術 -石仏の美-」である。
         http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20120107-0325_chugokubijyutsu/index.html

 一級品を現物で見る。心が豊かになりまさに至福の時となる。

 

 

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必見BSプレミアム

2011-11-29 18:15:28 | 史料

BSプレミアム 12月1日(木) 午前9時30分~11時10分

BSアーカイブス HV特集▽大坂図屏風の謎~オーストリアの古城に眠る秀吉の夢~

オーストリアの古城で豊臣秀吉の時代の大坂を描いた金屏(びょう)風が発見された。いつ何のために描かれたのか。なぜオーストリアにあったのか。屏風に秘められた謎に迫る

 

再放送 BSプレミアム 12月2日(金)【1日深夜】 午前1時00分~2時40分

BSプレミアム 12月2日(木) 午前9時30分~11時30分
BSアーカイブス HV特集「蘇(よみがえ)る桃山文化~熊本城本丸御殿復元~」

黒鉄ヒロシ,【キャスター】滝島雅子

再放送 BSプレミアム 12月3日(土)【2日深夜】 午前1時10分~3時10分

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バンジージャンプ、専門家が橋でテスト 五木村

2011-11-29 09:54:48 | 熊本

  心臓の悪い人にはお勧めできない映像ですが、「五木の子守唄」の里でバンジージャンプは如何ですか。
といっても実現は一寸先になりそうですが・・・・・

                          http://kumanichi.com/news/local/main/20111128005.shtml

                          http://www.youtube.com/watch?v=z44-AtJ5kjw

 

 

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綿考輯録から--いろいろ消息..2

2011-11-29 09:23:33 | 史料

■永禄十一年 今年藤孝君御息女御出生 名伊也、始一色義有之室、後嫁吉田卜部兼治

■永禄十二年 今年米田壱岐朱求政青竜寺に来て、藤孝君の御扶助に預り候
          (前室 藤孝君の御姉佐々木越中守殿之一族馬淵丹後守実冬娘)

■元亀元年三月朔日 御実父三淵伊賀守晴員入道宗薫翁卒去 七十一歳

■元亀二年 今年、藤孝君四子御出生 出家妙庵、還族幸隆

■天正七年 今年御女子御出生、名千、後長岡与九郎孝以に嫁せらる、一ニ八女と有

■天正八年 三月十八日、叙従四位下侍従ニ被任候

■天正九年 藤孝君御女伊也一色義有に嫁せられ候(14歳)
        義有始は五郎と云、左兵衛督と改らる。天正九年十二月朔日義有男子誕生、五郎と名付らる、藤孝君
        甚御喜悦被成候、其以前妾腹に女子有之候へ共早世なり。

■天正十年 御母公御卒去、御法号智慶院殿三俶宗宝大姉

■  同   六月二日未明、織田信長生害 (一説六月三日)藤孝君御剃髪、忠興君御家督

■  同   七月廿三日 御弟峰永宗西堂遷化四十一歳、元常君御末子也

■  同   (九月八日、忠興丹後宮津に義弟・一色義有を招き殺害・・・綿考輯録・藤孝公には記載なし)

■天正十三年 十月六日、法印に叙せられ候(二位と云事も此節叙せられたるにや、証書見当不申候・・・)

■  同   今年孝之主御誕生 茶智丸・与次郎・与十郎・中務少輔

■天正十四年 四月一日 山城国西岡にて三千石を御在料として秀吉公より御拝領

■  同   今年大徳寺玉甫和尚 紹は古渓宗陳の法嗣藤孝君の御実弟也 入院有之、是秀吉公の命に依てなり、即幽齋君を御奉行に被仰付候

■天正十五年 七月十七日 蓮丸主御早世、賢勝院梅林宗香童子 

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くまモン“全国制覇” ゆるキャラグランプリ

2011-11-28 10:06:37 | 熊本

                                      
                        http://kumanichi.com/news/local/main/20111128002.shtml


                             熊本のゆるキャラ「くまもん」がついに全国制覇。
                                   349体のトップ、すばらしい。

                                        おめでとう

 

                                 http://www.kumamon-tokyo.com/

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細川内膳家と希首座の祠

2011-11-28 08:36:58 | 歴史

 忠興公の大徳寺の僧・希首座殺害事件について私はその詳細を知りえないでいた。熊本県立図書館の敷地内で偶然見かけた祠が、まさにこれに関係するものだと知り青天の霹靂の思いであった。

(財)島田美術館の先々代・島田真富氏が「江津荘物語」という一文を二回に亘り某雑誌に掲載されていた。江津荘とは旧・細川内膳家の下屋敷(現・熊本県立図書館)のことだが、一時期井関農機株式会社が所有していた。その時期「江津荘」と称していたのだろう。
この一文の中で氏は次の資料を紹介しておられる。これが事件の全容であろう。

【慶長十九年二月十七日大徳寺之出家希首座仔細川有之(ママ・仔細有之カ)三齋様御手討被成候処出家を左様被成物には無御座候と申上二つに成候由依之大徳寺之僧故板倉伊賀守勝重まで訴状を指出候へば伊賀守被申候は成らぬ迄も越中守殿身躰を此専にて亡ぼし可申と被思候や夫ならば一山何れも江戸へ訴訟あるべし、若し又夫に不被思候はゞ御分別あるべし、大徳寺に替えて越中殿の身躰を御潰しなさるべきとはよもや公義に被思召間敷と存候と被申候へばおのずから泣寝入に成候由 此儀に付希首座弟速水孫兵衛を御成敗被仰附候 仕手は松山権兵衛元重・松岡久左衛門也 江戸御普請の石場伊豆国宇佐美にて諸国の者入込み候間騒敷無之密宿に仕留め可申旨被仰付候に付首尾能仕留申候 其後御手討の御刀は希首座と被名付平日御秘蔵の腰剣也しが希首座の祟りにや不思議の事共有之により毎年二月同日追善の法要を営まれしにより変事も止みたりと也  本浄院様へ御譲被成代々伝来

 

三齋忠興公は天正十年九月八日、妹聟一色好義有を丹後宮津の城に招きこれを殺した。細川家の歴史の中で、汚点とも言うべきこの事件に、希首座殺害の事件も連動しているのである。殺された二人は、この一色義有の子供であるといわれている。親の敵を討つべく義有の子・希首座は大徳寺に出入りする忠興を狙い、この寺の僧となり機会をうかがっていた。それは事前に忠興の知るところとなり、逆に殺害される結果を招いたとされる。大徳寺側も僧の殺害、それも寺内であることを怒り幕府に申立をしているが、事は細川家擁護の処置と成りうやむやのうちに終わっている。弟、速水又兵衛も殺害されるなど、忠興のこだわりの深さが異常にも思える。
忠興の妹・伊也にも男子が在ったが、この人は愛宕山福寿院に入山したが若くしてなくなった。殺された二人は異腹であることは間違いないが、史料では伺えない存在である。

異常さは希首座を殺害した刀に、その名前を銘したことでも伺えるが、以後忠興公周辺で異常なことが頻発するため、霊を弔う事をして平常に戻ったという。そしてこの刀は細川内膳家に伝えられ、その屋敷跡が井関農機株式会社に移つたのちも、希首座が亡くなった二月十七日に慰霊の行事が執り行われた事を、島田真富氏が「江津荘物語」に記しているのである。

先の文面の最後部に希首座と命名された刀は、本浄院様へ御譲被成代々伝来とあるが、この本浄院とは細川忠隆の嫡男・次男忠清の事である。

しかし私が調べた内膳家に伝わる「細川忠雄家譜」に於いては、久しく絶交状態にあった忠興と忠隆が対面した折に内膳家に渡ったとされる。以下その顛末である。

  忠興公御隠居以後御上京之節者
  
吉田江被遊御逗留 内膳様御先祖忠隆公休無様御事ニ者
  二十年余御對顔無御座候処寛永三丙
  寅年之冬数十年御遠之處被成御座
  候頃共御老年ニ被為成候ニ付被遊御對顔
  度被思召上候旨ニ付忠隆公之下京北野
  邸江被為入忽親子之御中被遊       
  御和親御互ニ御機嫌能此節御對顔
  之事被遊御満悦候

細川内膳家史料「細川忠雄家譜」の書き出し部分である。
二十数年対面することのなかった三齋公と長男・休無公(忠隆)が寛永三年冬にお会いになり、休無公始め御子たちとも対顔を果たされた。
三齋公は其節細川家に伝わる品々を休無公に差上げておられる。その中に「希首座」と命名された刀が含まれていた。

  希首座之御腰物別而御秘蔵之御道具ニ而候得共御譲被進候

三齋公はその後休無公に、八代領の相続を持ちかけられたとされるが、これを断り徳川直臣たらんことを望み、忠利公にその斡旋方を願われたらしい。しかしながら事成らずして、その御子は細川家一門として熊本へ下られることとなる。忠興公からこの刀を託された内膳家にとっては迷惑なことであったかもしれない。霊を鎮めるために、内膳家がわざわざ建てられたものであろうか。
それも下屋敷内に祀られたと言う事実も、この事件の深刻さを示しているように思える。
三齋公も罪なことを為さったものである。

 *希主座の読みについて、島田氏は刀の名前として「きつそ」と振り仮名をつけておられる。
  首座は通常「しゅっそ」または「しゅそ」とする。本当の読みは・・・?

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高麗門周辺の発掘調査

2011-11-27 14:54:23 | 史料

                                  
 
                                 手前が熊本駅(約500m)、奥が福岡方面である。

 左手に見えるのが新幹線の高架、その下を在来線が通っている。もともと右手のこの場所に在来線は走っていたのだが、ここに高架がつくられ現在の新幹線高架下から移設されることになる。いろいろ遣り繰りをしての工事だが、その前にこの場所にねむる遺構の発掘調査が行われている。右手の林のあたりにかっての高麗門があった。森の辺りから先は藩政時代は堀があった。その堀は高麗門のある辺りから場所をブルーシートの右手に場所を替えて坪井川に繋がっていた。今見えている石垣跡は二段ほどしかなく、妙解寺に至る参道の名残ではないかと考えられる。(妙解寺は新幹線高架の左側にある道を熊本駅側に約100メートル) 古い絵図を手許にしながら考えているのだが、どうも現在との位置関係がハッキリしないでイライラが募る。現場説明会が行われるときは、馳せ参じたいと思っている。

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虚子の句碑

2011-11-26 22:37:27 | 俳句

 熊本県立図書館の裏手には、水深2~30センチほどの水前寺成趣園(水前寺公園)から清冽な水が流れ出る川に添った遊歩道がある。
図書館の敷地はかっての細川内膳家の下屋敷で、一時期、井関農機株式会社の所有するところであった。
高浜虚子は熊本を三度訪れているが、昭和三年に来熊したさいここに宿泊した。そして詠んだ句が昭和三十年句碑となり、次女星野立子を迎えてその完成を祝った。現在芭蕉園と呼ばれているところであるが、湧水がきれいな池に面して立っている。遊歩道には背を向けているので判りづらいかもしれないが、大きな自然石の立派な句碑である。

 

                                     縦横に水のながれや芭蕉林 虚子


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今日もろもろ

2011-11-26 18:37:23 | 徒然

                               

                               右が肥後細川藩初代・忠利公、左が二代光尚公の墓所 
                               自衛隊北熊本駐屯地の隊員の皆様と地元有志の方々
                                  (右手に忠利公夫人・保寿院の墓所がある)

今日は9時から自衛隊北熊本駐屯地の皆様によって、妙解寺のお掃除が行われた。
これに出席の前、すぐ近所の九州新幹線の高架横で高麗門跡の発掘が行われている現場を訪ねて写真撮影、在来線の高架化着工前の調査だが旧河川の護岸の石垣(?)が90メートルほど表れている。もともとは川を埋め立てた所に鉄道を通したため、このような物が100年(?)ばかりの時をへて顔を出した。近々現場説明会もあるらしいから、顔を出したいと思っている。

妙解寺の方は昨年に引き続き一言皆様へ御礼の御挨拶、20分ほど「細川家と妙解寺」についてお話を申上げる。総勢200人余、広い園内もこれだけの人数にかかれば瞬く間である。昨年は積年の蔦や雑草に覆われていたが、今年は熊本市の手も入り意外と綺麗にしている。

私は史談会の例会に出席するために中途で失礼する。
海外からお問い合わせいただいた案件に付き、先祖附その他を中央郵便局から発送。

史談会では今日は有吉家文書の最終回である。長い間読み下しの作業と講師を担当された下津先生(下津棒庵ご子孫)が、今回を以って引退されることになった。福岡との県境・荒尾市からお通いいただいてご苦労をお掛けし、ただただ感謝である。例会終了後会員有志が出席し、下津先生を囲み昼食をとりながらのお別れの会を催す。次回からは新たな講師をお迎えしての再出発となる。

帰途、熊本県立図書館へ直行、希首座に関する資料を司書の方達のお手を煩わして調査、内膳家の絵図にもそれらしき書入れがあるのでカラーコピーをとる。島田美術館の先々代島田真富先生が、希首座について書かれた論考もコピー、また錦嚢移文にも記事が見受けられたのでこちらはコピー不可故デジカメ撮影する。
その折直接関係はないのだがすごい史料を見せられて、後日改めてデジカメ撮影を御願いした。

ついでといっては失礼だが、撮影途中で史談会会員のK家に関する資料を発見、これもデジカメ撮影。
史談会会員といえば館内でF氏とも遭遇、熱心に調べ物「細川家江戸藩邸について」の追加調査中、現195ページを250ページほどに補完して図書館への納本を目指しておられる。凄いの一言に尽きる。

帰り道懸案の、図書館裏の遊歩道から入った芭蕉園にある句碑を撮影、子規か虚子かハッキリしなかったのだが虚子が正解。

いずれそれぞれの写真を貼り付けようと思っている。多忙な一日疲れました。

 

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狩野君山老の書簡

2011-11-26 16:37:39 | 史料

 昭和15年4月、狩野君山老が小石川の細川侯爵邸の家職に宛てた書簡である。(内容写真は省略する)
内容は、近衛家の陽明文庫に匹敵するような、文庫の命名に関して侯爵家からのいくつかの案を示してのご下問に対しての返事である。
この時期「永青文庫」という名前は候補として登場していない。五六件の案に対し君山老は一つ/\解説をいれているが、どうやら全部お気に召さないらしい。永青文庫の創立は君山老死去後のこととなるが、命名に至る経緯が伺えて面白い。
又、住所には番地がなく細川侯爵御邸(下ノ御邸)と書かれていたり、切手が東郷平八郎元帥(四銭三枚-速達)であったり・・・これも又興味深い。

 家職とはわが祖父のことなのだが、君山老にとっては姪聟にあたる。宛名は個人名ではなく職名となっているし、添えられた私的な手紙もとても伯父甥の関係を伺わせるようなものではない。いかにも謹厳実直な人らしい感じが見て取れて微笑ましい。

これも某サイトのおかげで永青文庫の所蔵することを知った。
この時期私はまだ生まれていない。祖父の足跡をたどる上で貴重なものとなった。

    狩野直喜(君山) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E7%9B%B4%E5%96%9C  

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希首座の祠

2011-11-25 10:39:49 | 歴史

 逆光で写真の出来が良くないが、これが熊本県立図書館の裏手にある祠である。この場所は「江津花壇」と呼ばれた細川内膳家の下屋敷があった場所である。これは細川家に係るものだろうと思いながらも、また図書館に引き返えして確認することなく帰宅して、その日の顛末を一昨日のブログ「申し訳ないこと」にしたためた。

 いつも有意義な情報をお寄せいただくTさまから、そのブログにコメントをいただいた。

小さな祠について    2011-11-25 00:16:43
文章中の小さな祠についてですが、「希首座」の祠と呼ばれる細川忠興 縁のものです。
熊本県立図書館に、『はぐるま』という雑誌があり島田真富がこの事柄について詳しく書いておられます。御覧になられてはいかがでしょうか?

これは有難い情報である。
希首座についての事件の真相は今一判らない。
また県立図書館に出かけて、ご紹介の本に触れることが楽しみである。T様に改めて感謝申上げる。

             (大徳寺・希首座 と検索すると、動画その他の情報がいろいろ見受けられます)

次回は天気の良い日に出かけて、芭蕉園の子規の句碑を撮影してこようと思っている。そして美しいカワセミが又飛来することを念じている。

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解説の間違い

2011-11-24 20:25:13 | 史料

 「綿考輯録-藤孝公」の巻尾に、刊行に大なるご尽力をされた土田將雄先生の解説--「綿考輯録」の成立まで--がある。

小野武次郎による「綿考輯録」の完成以前に存在した述作について述べておられる。

        イ)細川之御伝記   新美吉隆による墨付五二庁の小伝記とある。

        ロ)細川家伝  四冊  著者未詳で妙応院が公儀へ提出したものだそうだ。

        ハ)細川全記 十二冊  松井康之家臣・粟坂恕軒の筆になるものである。享保二年の作とされる。

        ニ)御家伝  十六冊  井沢長秀による。享保四年の作だとする。
                        資料とした引用書130が明記され、その他御家士所伝数部とある。

        ホ)御家譜  八冊
          細川御系譜 二冊  共に平野長看によるものであり、小野武次郎をして「精密なる仕立」「これにまさるはござあるまじく」
                        と絶賛し、この書を基本にしたとする。

        へ)幽齋公御年譜  九冊
          御年譜藤孝公  四冊

 これらの資料をベースにして、小野武次郎は綿考輯録の編纂に当るのだが、その詳細はCiNiiに土田將雄先生の「細川幽齋伝記の編纂について」を御覧いただきたい。

     http://ci.nii.ac.jp/els/110000187084.pdf?id=ART0000549132&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1322127536&cp=

さて(ロ)の表紙貼紙に下記の如く記されているという。

        此壱冊は貞享元年五月晦日、妙応院様より公儀江被遊御差出候控、御宝蔵ニ納リ居候より、寛政六年九月写置候
        御控ハ浅黄チリメンフクサに包、春慶塗桐箱ニ入、こより緒箱之銘張紙ニ而、細川家伝壱冊あさきふくさと記有之候
        事、御料紙越前奉書打紙表紙同紙也

処が後がいけない。校正にもっと神経を使うべきであったろうと悔やまれる。

        「妙応院とは光尚のことで」といきなりの間違いである。当然の事ながら綱利のことである。
        「貞享元年 一六八四 幕府に提出したものの写しである。藤孝についてはわずかの記事しかなく、忠興以下の事跡
         を記すにとどまる。光尚はかつて光貞を称し、細川系図(続群書類従巻第百四十)の奥書にその名が見える。
         寛永諸家系図伝との関係が考えられよう」

なんともいただけない。私は解説を特に大事に読むことを心がけている。これを読むと本文を読まずとも大意を知ることさえ出来る場合がある。生業の関係の建築雑誌、展覧会などの図録こんなところからあらたな情報や知識を得ることが出来る。
綿考輯録の場合再版はありえないかもしれないし、これは大変困ったことではある。

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だんしがしんだ

2011-11-24 17:34:06 | 徒然

                                現代落語論 (三一新書 507)

 立川談志師匠が亡くなった。私はこの「現代落語論」の初版本を購入して持っていたのだが、あちこち探したが出てこない。
処分したのであろうか。何度もよく読んだ本である。若くて真打になり、生意気な言いようが小気味よかった。
それは裏打ちされた実力とゆるぎない自信によるものだろう。

 志ん朝や馬生、円鏡、枝雀などが好きで、労音の落語会などがあると聞きにいった。上京すると鈴本や末広亭を覗いた。
残念ながら談志の実物にはお目にかかっていない。ジャズがすきだったらしいが、先代円楽も向こうを張ってジャズや洋画のことを喋っていたが、共に鬼籍の人となり天上界は賑わっていることだろう。

 今後このような人物が出てくるのだろうか。このような人が亡くなると跡の人が小さく見えてしまう。
息子がYouTubeで談志の落語を聴いている。

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申し訳ないこと・・・

2011-11-23 17:56:37 | 徒然

                                     Wiki-kawasemi1.jpg
                                   ウイキペディア・ギャラリーから

 昨日と一昨日は朝夕随分と冷え込み、冬の気配が一段と深まった感じでした。最高気温も13℃ほどで外に出る用もなく、昼からは「ハマスの息子」を10時間ほどかけて完読しました。今日はぐずついた天気でしたが昼から、某家の先祖附の合点のいかぬ記述を精査すべ本家分家三家の先祖附を読みに図書館に出向きました。調査対象のお宅の先祖附の書き込みに誤りがあることを確認して、一件落着・・・

 熊本県立図書館は細川内膳家の下屋敷があったところですが、すぐ脇には水前寺成趣園から綺麗な湧き水が川となって江津湖に注いでいます。裏手に虚子の句碑があることを知っていましたから写真を取ろうと思い、図書館左手から裏へ廻り芭蕉園へ通じる薄暗い小道を行くと一坪にも満たない小さな祠がありました。これは内膳家に係る物だろうといろいろ調べたのですが良くわかりません。益々細くなる石段を降りて行くと突然視界が開け、湧き水の綺麗な直径20mほどの池に出会いました。全く始めての道をたどりましたので、句碑がある芭蕉園の裏手に出てしまったようです。反対側にカメラを構えている人が居られ、私が近づくのを見てカメラを離れられました。私はとっさに理解をして元来た道へ引返したのですが、申し訳ないことをしてしまいました。じつはこの池はカワセミが飛来する場所なのです。じっとシャッターチャンスを待っておられたのでしょう、3~40m離れていますから声を懸けるわけにも行かず、退散させていただきました。

大事なお休みを利用して来ておられたのこも知れず申し訳ない気持ちでいっぱいです。帰りの車の中は冷や汗ならぬ、本当に汗ばむほどの温かさでクーラーを弱にして走るほどでした。(反省)

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寿光院の証言

2011-11-22 09:01:47 | 歴史

【細川刑部太輔へ養子ニ被遣後ニ刑部太輔実子出来ルニ付、公方へ御取返シ候て三淵伊賀守智慶院ノ妹(養源院)婚タルニ付、三淵へ御預・・・】

「藤孝事記」にある「舟橋家説」のこの文章の細川刑部太輔とは一体誰なのか。後段の文章には次のようにある。
「右ハ舟橋枝賢卿ノ娘寿光院幽齋ト兄弟ノ様ニテ生立被申候故、能覚ラレ候て被申トノ事ニ候、
舟橋枝賢卿ノ後室ハ、細川刑部太輔ノ後ノ内室ニテ御座候、寿光院ト幽齋ト一代兄弟之様ニ御座候由ニ候」
これによると、幽齋と兄弟(ママ)のように育った寿光院の継母が細川刑部太輔の後室だから、この証言とも言うべき一文は信用に値するというのであろう。しかしながらこれを引用された小川剛士氏も「晴広カ」とされるように、綿考輯録に於いて忠興公やしゆゑいなる老女が云う「刑部少輔」であるかどうかは確定しがたい。

先にブログで「壽光院と寿光院」という文章を書いた。これは細川家家老米田家の重臣・中山宗俊が書いた記録に元ずくものだが、これによる記述と刑部太輔や寿光院の関係を書き加えると次のようになる。

                                                             (晴広カ)
                                       ● 元・細川刑部大輔後室
                                      ↓
                                      ●
                                      ∥       

                     清原宣賢--+--業賢---枝賢--+--(国賢)-------------秀賢
                            |                             ∥
                            |            +--寿光院 (六角禎承室) ∥
                            |                               ∥
                            +--智慶院--+--幽齋---忠興===============
                                 ∥  |                      ↑
                             細川晴員  +--壽光院                 |
                                         ∥----------------------
                                   佐々木越中守              

                             「米田家臣中山宗俊覚書」より作成 責・津々堂
                             ■■表示は小川剛氏の系図より引用

 私は山田康弘氏の「細川幽齋の養父について」を全面的に受け入れるものであるが、このブログ冒頭の「細川刑部太輔へ養子ニ被遣後ニ刑部太輔実子出来ルニ付、公方へ御取返シ候て・・」の項目に注目している。
細川元常の実子についてはどうか。所がこれは幽齋と殆んど同じ時期天文三年の四月に生まれた刑部少輔(彌九郎・頼勝)という人物だが幽齋よりも二十一日ばかり早い誕生であり、天文廿二年十一月に死去した。そして廿三年六月元常死去にに伴い幽齋が相続をしている。

養父問題はこの刑部太輔(晴広カ)に実子が出来たという時期などについて、証明が為されるならば更に補強されるものと思うのだが・・・・

 

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