津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■朝の散歩

2014-07-31 10:03:15 | 徒然

 ここ十日程起床してすぐ30分ばかりの散歩をしている。日中は異常な暑さだから、途中で熱中症にでもなり野ざらしになりかねない。
6時に起きて顔も洗わないまますぐ出かける。今の季節は、ちょうど蝉しぐれが沸きだす時間帯である。
私が住んでいる所はまさに坂の町で、コースには上り下りが結構あって運動にはもってこいである。
膝が悪いことも有って用心をしながらのペースで歩いているのだが、今朝などは足のむくみもあってスピードが上がらず、30分のいつものコースが40分もかかるという塩梅である。
帰ってシャワーをあびて朝食をとるのだが、食事の量はいつも通りなのだが吸収が良いと見えて、いささか体重が増加気味である。
体重を落として血圧を下げたいという魂胆なのだが、体重もその内には落ちてくるだろう。血圧は15くらいはダウンしている。

奥方は「いつまで続くことやら」と言った目で見ているようだが、「歩きすぎじゃないの」と心配もしてくれる。
2020年頃までやり遂げたい目標がある。がんばろう・・・・・・ 

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■松寿庵先生 第109講

2014-07-31 09:49:28 | 史料

                                   宮部鼎蔵 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%BC%8E%E8%94%B5

                                                

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■待ち遠しい「信長からの手紙」展

2014-07-30 21:20:29 | 展覧会
細川コレクション展 細川コレクション展示室

第Ⅲ期<特集>信長からの手紙

最終更新日[2014年3月25日]
重要文化財指定記念
細川コレクションの信長文書59通、一挙公開!
会期
2014年10月10日(金)~2014年12月14日(日)
作品保護のため、会期中に展示替えを行います
 
会場
熊本県立美術館 細川コレクション展示室
(別棟+本館二階展示室第1室)
 
休館日
毎週月曜日
ただし、月曜日が祝日の場合は開館し、翌日休館
 
観覧料
一般420円(300円)、大学生250円(190円)
 
■( )内は20名以上の団体料金
■この料金で「細川コレクション」「美術館コレクション」の両方をご覧になれます。
■高校生以下 無料/障がい者手帳をお持ちの方 無料
※展示室ごとの個別の料金もございます。詳しくは受付にておたずね下さい。
元亀4年7月10日付織田信長朱印状
 
 

特集「信長からの手紙」【本館二階展示室第1室】

 2013年6月に、細川コレクションの中世文書266通が国の重要文化財に指定されたことを記念する展覧会。その中から織田信長発給文書59通を一挙に公開し、乱世を駆け抜けた信長の実像に迫ります。 

 なお、特集「信長からの手紙」が終了した後、12月16日から12月23日にかけては、宮本武蔵ゆかりの品々や近世屏風の名品を特別展示する予定です。

常設展示【別棟展示室】

 別棟展示室を会場とする常設展示では、細川家に伝わった貴重な武具や絵画、織田信長以前に記された細川家文書を展示し、細川家の歴史と美術を紹介します。

 

関連イベント

特別講演会

「細川家伝来の織田信長文書」

【日時】10月18日(土)13:30~15:00
【場所】本館講堂
【聴講料】無料
【申込】不要

【講師】熊本大学文学部附属永青文庫研究センター 教授 稲葉継陽 氏

  

特別講演会

「信長にとっての天正3年」

【日時】11月22日(土) 13:30~15:00
【場所】本館講堂
【聴講料】無料
【申込】不要

【関連展覧会】第Ⅲ期細川コレクション展 特集「信長からの手紙」

【講師】東京大学史料編纂所 准教授  金子 拓 氏

 
 
 
 
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■井上平太のお墓・・・

2014-07-30 11:33:03 | 人物

 昨日の朝Dr.T先生から電話「暇ですか~」10:00にお約束をして某喫茶店で一時間ほどお喋りする。忠利公を荼毘に付した再建なった春日寺を見たいと仰るので熊本駅春日口近くの同寺へ車を向ける。何とも様変わりしてしまった同寺内を散策、荼毘所や大友宗麟の二男・松野道孝とその一族のお墓を確認、途中で昼食を取って谷尾崎の梅林公園にある宮本武蔵の座禅石を拝見、それから神風連の五人の烈士が自害したという谷尾崎日吉神社に向い拝礼する。

そして井上平太のお墓を、只先生の記憶(20年ほど前)をたよりに山中をさまようが、ついに発見できず・・・帰途に就いた。この井上平太と言う人物は、雲弘流剣術、伯耆流居合術の達人でのちには大日本武徳会剣道教士、居合術範士、弓道範士となった人だが、一方では新選組の近藤勇を付け狙った人物として知られている。後には警察官となったが、こちらの逸話が小泉八雲に「停車場にて」という小説に登場している。

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■「拾集物語」を読む (十三の一)

2014-07-29 06:58:36 | 史料

 この項の前半は、寛文九年四月にこの地を知行地としていた中村伊織が、臼杵藩主・稲葉信通の招きによって同地を訪問するに当たり、渡邊玄察も御供をしその顛末を委しく書き残したものである。大変著名な武家能楽家・中村伊織を招き、能の教えを乞い師として歓待する信通の歓待ぶりが興味深い。

 

                         一、同(寛文)九つちのとの酉の年
                           此年はしか流行老人もはしかいたし候 此年の四
                           月豊後國うすき稲葉能登守様へ中村伊織殿被成御         稲葉信通:母は細川忠興女・多羅
                           成候に付供仕参上申候 今度中村殿能登守様へ被成
                           御出候分ヶは中村殿之御親父同庄兵衛殿天下御無類
                           之金春八郎太夫之秘傳御能之名人にて御座候 彼
                           庄兵衛殿にて能登様金春一流之能を被遊御伝習候
                           然ば此前も伊織殿豊後へ廿餘年前に御出被成候 そ

                           れより當年迄廿餘年御能之工夫被遊被成御座
                           候を庄兵衛殿に被遊御尋候 御同前に被思召上候故 
                           伊織殿へ被遊御逢被成御尋度被思召上候とて當太
                           守様被遊御在江戸候に付而江戸へ被仰進伊織事病
                           中にて御奉公被遊 御免被置候へ共臼杵へ被遣被
                           下候様にと被仰進候故病中とても何卒仕豊後うす
                           きへ参候て能登殿の御用相勤進候様にと従江戸被
                           仰出候に付臼杵へ被成御出候拙者儀は奥田一残公
                           直弟子に成候てはり傳授候故はりも薬も御道中
                           豊後へ御逗留中之御用に被召連候一生之間に 
                           か程分過之儀無之候有之間敷候其子細は能登様之
                           御領分之御地へ伊織殿被成御入候にあなたの御領
                           境より道橋新く被仰付そこ爰に大庄屋小庄屋罷出 
                           人夫を出し候拙者にも馬一匹に人夫両人にて用心
                           致道中令守護候のつのいちと申所迄は西村権左衛
                           門殿と申御侍百五拾石取御出被有候而あなた様よ
                           り御料理人衆色々御賄衆御見來にて結構至極なる
                           御料理にて候翌日臼杵へ御着被成候に段々御家老
                           衆御物頭衆より御使打向ひに規度致候御侍衆御出
                           被在候尤御郡奉行大庄屋道被出向御取持にて御
                           座候に乍慮外何の閊も無之御乗物之跡に子小姓拙
                           者両人馬上にて御城下せんば米屋又左衛門と申御
                           客屋之臺所之庭まで馬上にて参候分過之儀にて候
                           御侍小路町被成御通候すなを持ち置たんごを据置て
                           い主/\上下にて戸の外脇にしゃがみあなた様の
                           御客人と御座候故致公敬女童は物かけより忍び候
                           て見申候廿五日之御滞留にて御座候に伊織殿へは 
                           御馳走奉行に西村権左衛門殿小姓中私共へは多
                           田猪右衛門殿と申候御歩之衆御料理頭料理人両人
                           それに手代致候人四人荒仕子八人御逗留中替々被
                           相勤候茶道衆三日には替々被相勤候不断臺子をし
                           かけ被置不断に濃茶にてもうす茶にても被下候町
                           より五人宛毎日十五六七人之子共、かはる/\きうじ
                           致候御座敷へは伊織殿次之間には小姓拙者其下々
                           には御客屋之向ふの町人所に被召置候左候て廿五
                           日御料理一ツ料理とて其間に無御座候毎日嘉納帯
                           刀殿渡辺主水殿稲葉図書殿御三家老衆毎日かはり
                           かはりに御見廻にて候御逗留間に御能両度御座候 
                           能登様芭蕉・葵上御直に被遊候御次男市主様船辨慶
                           被遊御城定舞臺にて両度共に御能被遊候伊織殿は
                           能登様と御同座にて御見物其御次は御三人之御
                           家老其御次は御物頭衆其御次は御領内中御禮被仰
                           上候御出家衆其御次も御侍衆其御次に伊織殿之小
                           姓衆拙者共被召置候而茶道衆御付居間もなく御茶
                           被下多田猪右衛門殿御付居色々之御菓子被下能登
                           様御日中御膳被為上候時分に皆共へも御結構之御
                           料理被下候扠又能登守様之牧野御城より三里外
                           に御座候伊織殿御馳走之為に御牧之馬一所に被遊
                           御狩寄せ可被成御見せとて御粧りぶねにて海上三
                           里被為押候伊織殿は御座ふねに被召候我々にも舟
                           一艘被仰付右御馳走奉行多田猪右衛門殿臺所舟一
                           艘に御料理衆あらしこのり候て御出にて海上にて
                           御料理被下候彼牧狩は見物と申候ては又無類にて
                           候三里四方之牧野にせこ斗七千人其頭々は在中御
                           領分之庄屋村々組頭共七千人之外にて候能登守様
                           御名馬と申候とさごまに被為召岩石がけにても犬
                           の様にかけ上り申候名馬に被為召御直にあひづの
                           貝を御ふき被成候へは三里四方の野に罷材候から
                           すの様に見え候勢子共ときの聲をそろへあげ候て
                           じねん/\に馬を追下しいそ邊に一二町ほどに埒
                           を結ひ廻しかた/\は海埒の内は大堀三方はつい
                           ぢの内に牧の馬をこと/\くおひこみはだずりに
                           馬共間なく罷在候を足輕衆白衣半切を着し五十人
                           おひこみ被召置候馬のせなをふみ廻り候處につい
                           地の上より御馬上にて能登様被遊御覧いづれの馬
                           をとれと被仰出候馬を足輕衆頭尾前跡之足各手取
                           にめされゑいたふ/\と聲をして各塘を取て上
                           り前以より海邊に馬たて五十間こしらへ被置候に
                           くびたまをいれつなき被置候へは初而くびにつな
                           かゝり候故いやがり候てすなをほりはねつねつい
                           やはやめずらしき見物にて候數匹御取被遊候て被
                           遊御歸城候其御馬を伊織殿へ御見せ被成候て伊織
                           気に入候御馬を可被為拝領と被仰出候故被奉得其
                           意仰之通にて一疋御拝領候其上に御銀五十枚御拝
                           領被成候又御歸のかたに御城邊の海に大網を
                           おろさせ魚を引こみ御見せ可被成とて御定日にて
                           御座候へとも御意日の日南風つよく致相違候にて
                           御座候其翌日大あみ引共に被仰付内所にておろさ
                           せくまびき引こみ申候を生きながら五十本三四尺
                           づつも有之を大籠あたまに五十いれ候て御足輕
                           衆持参候て御意にてこそ御座候はん伊織殿座敷に
                           西村氏殿御もたせ御座候て一度に御出し候故はね
                           つとんつ天井ににはねあたりかべ障子にあたりとん
                           /\と申候事すさまじきほどに有之候まんまろく
                           してぶゑんのぶりにことならず候客屋主勿論権
                           左衛門殿猪右衛門殿御料理人衆其外にも被遣候て少
                           々鹽ぎり御土産に被成候扠又能登守様伊織殿
                           へ被成御拝領候一つに 帝王女御様の被遊
                           御作候御香箱ほしたるだい/\にて御つくり被成
                           候ふたの上にはからいぬのすゑひろをくわはたま
                           とり申所を御ほらせられ候ふちは金銀にて御座候
                           を一合箱二つには銀子五十枚三つには右書出候通
                           に御馬一疋四つにはから木の御脇息五つには御ね
                           り薬御合箱にいれさせられ牛黄圓延齢丹蘇合丹六
                           つには何首酒仙傳酒共申候右之色々被成御拝領候
                            女御様之被遊御作候御合箱之御故事は 内裏御
                           炎上御作事御奉行を能登様被遊御勤色々 御内裏
                           様被遊 御叡感其節従 女御右之御合箱能登殿に
                           被為拝領被成御所持被成御秘蔵候を今度乍病中臼
                           杵へ被成御出候御儀被成御太祝候とて此秘物被為
                           御拝領候との御事にて候      

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■クラウゼビッツ「戦争論」から「雑兵物語」まで

2014-07-28 09:57:32 | 講演会

 7月26日(土)午後2:00から熊本市立図書館で催された熊本歴史学研究会の講演会「熊本城惣構と高麗門--濫妨狼藉と城の機能」を拝聴に出かける。
講師は熊本大学・永青文庫センター長の稲葉継陽教授である。沢山の出席者で賑わっうなか、我々会員外の外様者も歓待していただいた。

具体的に「熊本城惣構と高麗門」についてのお話かと思っていたら、話はクラウゼビッツの「戦争論」からはじまった。いささか面喰ってしまったが、話は縦横無尽で、「雑兵物語」での足軽たちの働きぶりや、足軽たちの拉致や略奪が正当化されていたことを示す種々の史料等が紹介される。
ちいさな城も土塁や堀を廻らせて小さな村落を取囲み、土民の安全を目的にしたことを絵図などを示しての説明である。
講演の主題である「熊本城惣構と高麗門」は、九州新幹線・在来線の高架化に伴う高麗門周辺や御成道の発掘調査に伴い発刊された「熊本県文化財調査報告書 第303集」に添うものだが、改めて見直されている「高麗門」の熊本城惣構の中での重要な位置づけへと導かれた。

約2時間余、質疑応答の活発さもこの会の歴史への意識の高さを伺わせていた。
私はこの報告書が予算不足とかで発行部数が少なく手に入れることが出来ない状況を苦言として申上げた。たいへん有意義な時間をすごさせていただいた。感謝。 

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■「拾集物語」を読む (十ニ)

2014-07-28 08:27:54 | 史料

                               一、同(寛文)八つちのへ申の年
                                 此年春中に大風三度同二月四日猶大風 此年之二
                                 月江戸十の物八つほどの火事と令風聞候 此年之
                                 二月廿五日に嶋原の御領主合力左近様御配所御城
                                 御番稲葉能登守様 此年之前年當二月比迄西より
                                 よる/\白気たつ 此年疱瘡流行 此年之三月十
                                 四日之夜熊本ゑんせうぐらに火入る 此年之春の
                                 大水に御普請所多令出来御普請奉行に中川梶右
                                 衛門殿柴任角兵衛殿碧川筋に御出被在候 此年之
                                 二月卅日に孫左衛門太兵衛高出入すむ此由之事別
                                 書に令細書入に遣候書状に有 此年太守様飯田山
                                 観音堂御建立被仰付候 此年當所天満宮社地之材
                                 木一本 公儀へ申上候て拝領仕修復いたし候 此
                                 年従公方様寺社に被 仰渡候御事を従御寺社御奉
                                 行衆被仰渡候 此年之十一月に舟津村まかどのの
                                 下道に剱死の者有之を公儀へ申上候へ共死候者も
                                 殺し候者もしれず候 此年十一月廿四日の寅の時
                                 にゆめに見候は熊本長谷寺の観音に参候處に厨子
                                 の御戸開きて御座候厨中之佛像白木にてきざみし
                                 くわんおんにて候蓮臺の座に自分両手を合せ打か
                                 け拝居候に忝も観世音被仰候は脉を見よと被仰左
                                 の御手をさしおろさせ候に蓮臺より下に御手
                                 下り申候心に奉存候は佛は偖も御自由成御事かな
                                 御足よりか下迄御手をさげさせられ候不思議と乍
                                 奉存左之御脉をうかゞひ上申候へは又右之御手を
                                 右之通に被遊候乍御両手うかゞひ奉り候に御脉ふ
                                 とく御手あたゝかに御座候そこで申上候は御中風
                                 らしく奉存候と申上候へば被仰候はいや/\中風
                                 を患ふ身にてはなく候と被仰候時分又申上候は偖
                                 は御中寒にてもと申上候へば中寒は尤と被仰候て
                                 なんぢか心に思ふ様に薬を得させよと被仰候と其
                                 ゆめさめ候それに付附子理中丸を調合仕丸め候て
                                 衣には抹香をかけ同氏孫兵衛にもたせ長谷へ道観
                                 音の隔子之内に奉納仕らせ候不思議なるゆめと難
                                 有奉存候 此年十一月十五日に當所彌右衛門より
                                 屋敷外の塘をすぐめて得申候 此年より野びらき
                                 銀■(表示不可)ずわりに被仰付候
                                 
                                  

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■「拾集物語」を読む (十一)

2014-07-27 15:11:46 | 史料

                               一、同(寛文)七ひのとの未の年
                                 此年権現に石之燈炉自分寄進 此年邊田見東禪
                                 寺再建に從公儀被遊御免益城郡中奉加入佛供養に
                                 阿彌陀佛經講譯三月九日より同十一日迄説主鐵元
                                  此年同村浄徳寺遷堂建立 此年下益城正成寺建
                                 立かやの村之寺之事 此年四月二日に御船法光寺
                                 に開山之御影其外之御影不残入掛 此年之二三四月
                                 之間折々洪水 此年夏御船川希有之大水御船町中
                                 ほどより下町に水あぐる 此年之四月二日上早川
                                 村庄屋いかゞ存候哉當厳島宮雑材木にて上早川村
                                 より鳥居令建立鳥居之大工渡邊庄左衛門 此年之
                                 四月廿三日希有の大風 此年之四月下旬より五月
                                 上旬の間に折々洪水 此年之五月二日大洪水 此
                                 年之五月二日鳥小村上之堤きれ候而鳥小村ながる
                                 ゝ人多く死す 此年之八月多日太守様甲佐へ被為
                                 成候而被遊御滞座候 此年之九月三日より此屋敷
                                 をたてかゝり候薬王寺下邊之當屋敷地床に引掛る
                                 同廿日に移る 此年十二月廿五日に木像之彌陀拝
                                 請 此年京極丹後守様御配所 此年雷しげく所々
                                 に落雷 此年之夏國々御仕置御見聞可被遊とて御
                                 横目衆被成御廻國候諸國御同前 此年恵方之御筆
                                 三尊御来迎之繪像阿彌陀寺より拝請                                  

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書庫を建てる: 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト

2014-07-27 12:13:42 | 書籍・読書
   書庫を建てる: 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト
 
                             新潮社

 

30,000冊ほどの書籍や、沢山の著書の原稿やその調査記録、膨大な記録写真やそのネガフイルム、100数十台お持ちだというカメラ等々、Dr.T先生のご自宅に山となっているという。
先生の御歳の正確な所は存じ上げないが80歳前後である。そしてDrの最近の口癖は「図書館を建てたい」と仰る。
最近は随分本気になられたらしく、建築家の端くれである私もいろいろ助言申上げている。

この本は9坪ばかりの狭小スペースに、10,000冊収容の書庫を持つ住宅を建てられた施主と建築家の話しである。
これは技術論ではなく、施主と建築家が夢の実現に向けて織りなす、熱い思いが語られているのだろうと推察される。
建築関係の本には最近余り触れることも亡くなったが、ちょっと読んでみようと思うし、先生にも読んでいただければと考えたりしている。
 
先にも書いたが、ヤフオクで熊本の貴重な資料が拡散しようとしている。如何なる理由でこういう市場に出回ったのか知る由もないが、誠に残念な結果である。
先生の思いが何とか実現出来る様、いろいろ思いを致すこの頃である。 

 

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■「拾集物語」を読む (十の三)

2014-07-26 07:01:15 | 史料

                                 此年(寛文五年)夏秋に七度太守様上豊内へ被成御座候 此の
                                 年之春南條意心公御在宅所舟津村御出府被有御一           細川興秋女婿 
                                 家衆の御對面之儀従太守様被遊御免御出府被在左
                                 近殿其の外御一家に御對面被有候然れば意心公食
                                 傷被成候而以の外御煩被成候に左近殿御手醫衆其
                                 外町醫衆被召寄候へ共御在宅所にて數年御用つけ
                                 被成候渡邊玄察が薬をまいるべきと仰候由にて従
                                 左近殿御迎被下参上仕候處に左近殿御前に被召出
                                 御懇に被仰付両日來海市左衛門宅へ被召置御薬相
                                 應致候而御本復御在宅へ御歸被成候 此年之三月
                                 長門國長府之博士上早川村六谷長左衛門と云御百
                                 姓之所へ宿致罷在候而令病死候長三郎と云博士に
                                 て候彼長三郎病死致候との差出其砌は上下早川村
                                 木倉太郎兵衛手永の砌にて候故木倉へ上早川村よ
                                 り差出仕候御郡奉行弓削太郎右衛門殿へ太郎兵衛
                                 申上候へは渡邊氏療治勤申候へ共右之通と書加へ
                                 候様にと被仰其通に書上候由に候然ば其通従太守
                                 様長門國被仰遣候に付長門國御國主より太守様へ
                                 御禮に御使者被進候へば長門國より拙者へ御銀一
                                 枚被下候を従御前段々下り木倉御惣庄屋床へ下り
                                 御惣庄屋私宅へ持参候て右之通之いりわり被申達
                                 被為頂戴候實に三月廿八日に木倉氏右之通にて持
                                 参にて拝領仕候右之銀四拾目にて酒八斗買如此之
                                 䂓模祝と申候而當所衆中にふる舞候へば衆中も又
                                 祝とて同四年買被申候而大小人數九拾一人にて終
                                 日慰み候残る三匁は薬王寺へ奉納致候て長三郎が
                                 追善に御經を少々讀誦頼申候長三郎死候故死骸は
                                 不被遣候遺物之分は廿餘色御もたせ長門國へ遣さ
                                 れ右之通に候は彼長三郎病死故にて候上彼者に可
                                 令廻向と存如是に候右に書出候通に當所産神上下
                                 早川同前の厳島明神當地へ遷宮の砌上早川村庄屋
                                 兵左衛門不心得者にて神慮いかゞ敷候左候へは前々
                                 より上早川は拝殿を請取切修覆致をり候に庄屋不
                                 心得故今度之遷宮に取搆不申候故公儀に可申上か
                                 と奉存候へ共御事多公儀にいかゞと遠慮候而不申
                                 上候所之衆中はうるさい事に候早々御惣庄屋へ可
                                 申上事をと各申候へ共差扣拝殿を上早川村之代に
                                 拙者罷立候而四拾三匁大工に自分手銀を遣し竹木
                                 之儀は本社之餘分にて相調ふきくさは萬金丹を造
                                 候て方々醫用旦那中に設候而拝殿當分之通に建立
                                 致候左候處上早川村庄屋には右長三郎相煩候砌に
                                 不申上相果候てから申上候越度と御座候而過怠に
                                 たいまつ百丁被仰付玄察へは右之通に候物に似候
                                 申分にて候へ其時分了簡工夫致候に上早川村之代
                                 に罷立自銀四拾三匁出銀候而拝殿をたて申候神慮
                                 にては無之候哉上早川村にて右之博士右之通にて
                                 自分には上早川村之代にたち出銀致候分目致拝領
                                 候少しとは不申候上早川村庄屋には過怠被申付候
                                 爰を殊勝に奉存上早川村より人夫不出候故下早川
                                 之人夫迄にて拝殿も令成就候此一禮を遂させ可被
                                 下冥慮にて長門國より拝領致し候と了簡仕候故右之
                                 通に酒をかい衆中を呼候て衆中に申達候は拝殿を
                                 上早川村之代に自分罷立候而相立候處に人夫之俵
                                 は各之信力にて相調候此段神慮に被相叶上早川村
                                 にて長三郎如此と御座候て被下候御銀は各へ禮を
                                 いはせ可被成との御方便と奉察候故酒をかい各申
                                 請候然上は従明神被下候と思召候而明神へ社参候
                                 て御禮拝被致私宅へ参りのみ被申候へと申達其通
                                 にいたし候 此年之十二月権現之社木公儀へ申上
                                 候て少々拝領仕豊内御茶屋初而被成御立候 此年
                                 之十月より御小屋入明る四月御成就 此の年より
                                 砥用矢部之道安平村より上豊内村のさこのやうに
                                 なをる 此の年川尻大市に大坂よりおどり大夫下
                                 る 

                                  

                                 

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■公式記録に見える忠利公殉死と阿部一族誅伐事件・年表

2014-07-25 10:37:17 | 先祖附


    寛永18年
1月23日、忠利、阿部弥一右衛門宅を訪問。(日帳)
3月10日、忠利最後の書状

                                              
                 

                                             右のてくひより
                                             手なへ申計ニて候
                                             シに可申様ニハ
                                             無之候可心安
                                                     候

                                             以上

3月14日、忠利危篤         寺本八左衛門、枕頭に殉死を願い出る。 -→家老衆留意
3月17日、藩主忠利公死去    太田小十郎正信(18)殉死
4月17日、内藤長十郎元續(17)殉死  
4月26日、光貞(光尚)名代、堀平左衛門帰国「今度御供を申出シ候衆」に追い腹禁止を申し渡す
        (御意に背くなら跡式断絶)  ここに大田、内藤の名前がある?
4月26日、原田十次郎直之・大塚喜兵衛尉種次・橋谷市蔵重次(31)・野田喜兵衛尉重綱(69)・本庄喜助重政・
       林與左衛門正定・宮永勝左衛門尉宗祐(35)・伊藤太左衛門尉方高 以上八名殉死

4月27日、右田因幡統安(64)殉死 
4月27日付、寺本八左衛門正式に願い書差出す
4月28日、忠利、春日寺(釉雲院)にて荼毘に付す寺本八左衛門(54)殉死
4月29日、忠利遺骨、泰勝寺に収む
5月 1日、明石の御鷹春日寺の井戸に飛び込む(5:2日帳)
5月 2日、宗像加兵衛尉景定・ 同 吉太夫景好 兄弟殉死
5月 5日、光貞遺領相続の命あり、翌日登城御礼
5月19日、光貞江戸発駕
6月14日、光貞帰国
6月16日以前、阿部弥一右衛門尉通信・津崎五助長泰・井原十三郎吉正・小林理右衛門尉行秀 
                                                    以上四名殉死
 

6月17・18日、田中意徳に対し殉死制止
6月19日、田中意徳殉死
6月20日、田中意徳を除く十八人に跡式言渡し
6月23日、田中意徳跡式言渡し
9月29日、光貞参勤の為発駕

   寛永19年  
4月    妙解院菩提寺(妙解寺)建立の為、家中以下に賦課あり(百石に三歩役、その他は一分半役)
6月12日、光貞(光尚)帰国 この秋、光尚と改名ス 

   寛永20年
2月 9日、大徳寺天祐和尚着(日帳)
2月13日、妙解院追福の為一寺建立、妙解寺と号す、17日まで取越法要行わる。この月遺骨を移す 
2月17日、阿部権兵衛、焼香の際元結いをはらい、目安を上げる 即刻逮捕の上、組頭・藪三左衛門に御預
2月20日、大徳寺天祐和尚帰京の為出発(日帳)
2月21日阿部一族誅伐 、権兵衛も井手口に於いて「縛首」処刑さる。
3月     林外記、高麗門外に250坪の別宅拝領         (慶安2年12月、佐藤伝三郎に殺される)
3月14日、阿部権兵衛召仕以下の者、豊前の者四人、国の者八人、計十三人のうち、豊前以来の三人誅伐、
        他は放免さる。

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■暇人の手なぐさみ (三)

2014-07-25 06:59:52 | 史料

 こちらは支藩・宇土細川家の略系図である。宗家10代の齊茲公は宇土支藩7代目の立禮公が養子として入られた。12代齊護公も宇土支藩の出であり宗家は濃い宇土細川家の血が流れている。又護貞様の令室・温子様は近衛文麿公の令嬢だが、文麿公夫人・千代子様は宇土細川家出身の毛利高範氏の御息女である。現在の両細川家は、忠興公が愛してやまなかった細川立孝公からの流れと言っても過言ではない。

                            http://www.shinshindoh.com/pdf/20140709-01.pdf

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■「拾集物語」を読む (十のニ)

2014-07-24 11:41:10 | 史料

                                 此年従天下様日本寺社へ御下知状を御下給ふ
                                      定         社方に
                                 一諸社之禰宜神主等學神祇之道所其崇敬之神體彌
                                   可存知有來神事祭禮可勤之向後於怠慢者可取放
                                   神職事
                                   社家位階従前々以傳奏遂昇進輩彌可為其通事
                                 一無位之社人可着白張其外之装束は以吉田之訴状
                                   可着之事
                                 一神領一切不可賣買事
                                 一神社小破之時其相應常々可加修理事
                                     附神社無懈怠掃除可申付事
                                 右之條々可堅相守之若違犯之輩於有之者随科之輕
                                 重に可沙汰者也
                                      寛文五年七月日
                                 右之通書出去五年に被仰出候を六年と書出候は當
                                 年従阿蘇殿御書付被下候故如此に候
                                    寺院には
                                      定
                                 一諸法式不可相亂若不形儀之輩於有之者急度可沙
                                   汰事
                                 一不存一宗法式之僧侶不可為寺院住持事
                                    附立新義不可説奇恠之法事
                                 一本来之規式不可亂之縦雖為本寺對末寺不可有理
                                   不畫之沙汰也
                                 一檀越之輩雖為何寺在任其心従僧侶方不可相諍之
                                   事
                                 一結徒黨企諍不似合事業不可仕事
                                 一背国法輩到来之節於有其届無異儀可返事
                                 一寺院佛閣修覆時不可及美麗事
                                    附佛閣無懈怠掃除可申付事
                                 一寺領一切不可賣買之并不可入于質物之事
                                 一僧侶之衣體應其分際可着之并佛事作善之儀式檀
                                  那雖望之相應輕可仕事
                                 一無由緒者雖有弟子之望猥不令出家若無據子細有
                                  之は其所之領主代官へ相斷可任其心事
                                 右之條々諸宗共に可堅相守之此外先判之條數彌不
                                 可相背之若於違犯者随科輕重可沙汰之猶載下知状
                                 者也
                                     寛文五年七月十一日

                                 御下知状
                                     條々
                                 一僧侶之衣體應其分際可着之并佛事作善之儀式檀
                                   那雖望之相應輕可仕事
                                 一檀方建立由緒有之寺院住職之儀は為其旦那斗之
                                   條従本寺遂相談可仕其心事
                                 一以金銀不可致後任之誓約事
                                 一借在家構佛檀不可求利用事
                                 一他人者勿論親類之好雖有之等之寺院坊舎女人不可抱
                                   置之但有來妻帯者可為各別事
                                 右之條々可相守之若於違犯者随科之輕重可有御沙
                                 汰之旨依仰執達如件
                                     同年同月日
                                                 大和守
                                                 美濃守
                                                 豊後守
                                                 雅楽正 

                                     制法
                                 一於當堂晨昏勤行不可懈怠事
                                 一可除堂中塵事
                                 一僧伽各可着宗衣事
                                 一若出市中行悪事可出堂中事
                                 一起居動止可如法事
                                 右此旨趣随宣不可懈怠者也
                                     制法跋 

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■松寿庵先生 第108講

2014-07-24 10:57:42 | 史料
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■先祖附 松本(助左衛門)家

2014-07-24 07:56:16 | 先祖附

 旧姓平田、初代因幡の室はガラシャ夫人の御側近くに在った小侍従である。嫡男・平田彦三は金工家として名をなしている。
その為甥・彦之進を養嗣子トシ因幡娘と娶せ二代目とした。 

 

                                               百五拾石 松本助左衛門
                               初代
                               一、先祖平田因幡儀江州佐々木之氏族ニ而近江
                                 之内領地仕居申候処佐々木家没落ニ付離散
                                 仕
                                 権現様尾州名護屋江被成 御座候刻奉仕
                                 其後江戸江御移被遊候節御供被仰付候得共
                                 京都江難見放親類共多居申候ニ付御断申上
                                 浪人ニ而京都江居住仕候処

                                 三齋様兼々御懇意被仰付是非丹後江
                                 参候様ニと米田宗堅老を以度々被仰下難
                                 就止趣ニ付丹後宮津江罷越候得は被為留置
                                 種々御懇意被仰付百石之御合力米被為
                                 拝領
                                 秀林院様江被召仕候小侍従と申女因幡江
                                 嫁娶被仰付御奉公相勤居申候慶長五年
                                 七月石田治部少輔逆心ニ而田邊御城江人数

                                 差向候刻因幡儀加納曲斎と一同ニ宮津之
                                 町所を地焼仕御城江籠候得共
                                 幽齋様御櫓被成御預堅相守敵を坊働申候
                                 左候而御利運ニ成
                                 三齋様関東ゟ被遊御帰陳候付因幡儀御途中迄
                                 罷出候処籠城之次第被聞召上御感之旨被仰出
                                 夫ゟ直小野木縫殿助御責被成候付福知山江被召連
                                 罷越相働申候其後豊前江御入国之上丹後已来

                                 忠義御感之旨御意ニ而御知行三百五拾石被為
                                 拝領名字御改被下松本因幡と御書出被成下候而
                                 御城北の御丸を被成御預度々被為掛御腰候其後
                                 三齋様御灸治被遊候節灸之御相伴被 仰付
                                 御前相勤申候處不図気■悪敷■入仕候ニ付
                                 御直ニ御薬等被為拝領候得共快気不仕宿所江
                                 引取病死仕候右因幡江被下候小侍従儀は明智
                                 日向主殿ゟ 秀林院様江被御附置候女ニ而

                                 御座候 太閤秀吉公御代伏見之御城為
                                 御見物諸御大名様之奥方被為 召候刻
                                 秀林院様江は 御出被遊間敷由ニ而山内と
                                 申所江御立退被成候然共御出不被遊候而ハ難
                                 ニ為叶趣ニ付而小侍従申上候は乍恐私儀奉以
                                 御面躰候由常々何も申候間憚多奉存候得共
                                 御名代罷出申度旨奉願間御城江罷出
                                 高蔵主御取次ニ而 秀吉公御前江被 罷出

                                 御機嫌能御直ニ御茶被下御小袖被為拝領
                                 首尾好罷帰其後右御禮罷出相勤申候ケ様
                                 之儀ニ付因幡果候以後も後家江御合力米被為
                                 拝領娘屋々江段々御懇ニ而被成下御文等于今
                                 所持仕居候小侍従儀は於豊前仲津病死
                                 仕候因幡嫡子平田彦三儀は各別御知行
                                 百石被為拝領當御国江被御供仕罷越八代ニ而
                                 病死仕候

                               二代
                               一、高祖父松本彦之進儀実は先祖因幡甥ニ而
                                 御座候を養子ニ被仰付因幡娘屋々と申女幼少ゟ
                                 御側江被召仕候を嫁娶被仰付因幡為跡式
                                 於豊前御知行貮百五拾石被為拝領當御国江
                                 御入国之節御供仕罷越御郡奉行等相勤寛永
                                 廿一年病死仕候

 

                               参照 平田家の人々


                                 
                                  

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