津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■足のあどが痛とうございます(再)

2023-01-31 17:33:00 | 徒然
 
■足のあどが痛うございます・・

 土日と散歩をさぼったので、今日は少し距離を伸ばそうと思って外へ出た。ダウンを羽織って歩き出すと、手や耳は冷たいものの快適な感じである。5.2㌔コースの予定だったが、少々足を......
 

 一年前にこんなことを書いていた。その後何も改善していなくて、いまだに歩くと痛い。
履きなれた散歩用の靴も両足共あどの部分が摩耗していて、そろそろ捨てようと思っているのだが、これは歩き方がまずいのだろう。
加齢すると、あどから着地するから痛みが出るし、靴も摩耗するという事だろう。
明日からの散歩では、歩き方に注意を払って歩いてみたいと思う。
一月も今日で終わり、年寄りの時間の経過は早く感じるというが、一日は早いとは思わないが、一月・一年の何と早い事か。
幾つまで生きるかは、天のみぞ知るだが、いずれにしてもそんな時が瞬く間にやってくるように思う。
大事に生きなければならない。

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■本能寺からお玉が池へ ~その①~

2023-01-31 06:49:55 | 先祖附

   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2019:4:5日発行 第56号
     本能寺からお玉が池へ ~その①~      医師・西岡  曉

 

 ・・・・・・春に会いましょう
 最後の歌(HURRY  GO  ROUNDO)でこう歌った歌手がいました。
あれからもう20年になりますが、この誌上では、皆様とまたお逢い出来る倖を噛みしめる春です。春を迎えてお届けするのは、申し訳ありませんが、深大寺にも吉祥寺にも関係ないお話になります。「本能寺の変」が三百年後の「東大医学部」の誕生に関わっているというお話です。
「そんな馬鹿な・・?」と思われるかもしれませんが、そこはそれ(?)同じ病院のよしみで、この度はこのお話にお付き合い頂ければ幸いです。
始めにお断りしておきますが、登場される皆様の敬称は(原則として)略させて頂きます。

[1] ガラシャ
「本能寺の変」から東大医学部の誕生へ、などと随分大風呂敷を広げましたが、このお話は、まずは本能寺の変(→山崎の戦→清須会議という激動の年)から始まります。今から440年も大昔のお話です。
1579年(天正6~7年)は、織田信長(1534~1582)が安土城(@滋賀県近江八幡市)を築いた年です。この年は、明智光秀(1534~1582)の娘たちにとって大きな転機の年でした。
明智光秀にはガラシャの他に3人の娘がいたというのは、皆様には初耳かも知れません。実は光秀には、娘が4人いました。(名前と生没年は「明智一族  三宅家の史料」によりましたが、異説もあります。)

   長女・岸(1552~1582)
   次女・里(1554~1582)
   三女・玉、洗礼名ガラシャ(1564~1600)
   四女・辰(1566~1593)

 1579年、明智岸は、夫・荒く村次(生没年不詳)の父・村重(1535~1586)が前の年に信長への謀反に及んだため、村次が離縁して実家の明智家に戻っていましたが、この間まで姑だっただし(変わった名前ですが、村重夫人の お名前です)を始め荒木の一族郎党670人(多数の妻子を含みます)もが処刑されたのを聞いて悲嘆にくれます。
 明智里は、父光秀が攻め落とした丹波国八上城(@兵庫県篠山市)主になった明智光忠(1540?~1682)に嫁ぎます。
 明智玉は、信長の命で、信長の長男・信忠(1555~1582)の家臣・長岡(後の細川)忠興(1563~1643)に嫁ぎます。
 明智辰は、同じく信長の命で、父光秀が縄張り(設計)した近江国大溝城(@滋賀県高島市)主になった信長の甥・津田信澄(1558?~1582)に嫁ぎます。
この年信澄は、荒木一族を捕えて京に護送する役を信長から拝命しています。
荒木村重の謀反をめぐる悲劇で岸が負った心身の深手が癒えたか癒えないかの1580年、父光秀は岸を家臣・三宅弥平治と再婚させます。
ついで(では、失礼ですか?)に言っておくと、この1580年は後日登場していただく予定の信忠の長男(=信長の孫)・織田秀信が岐阜で誕生した年でもあります。
 明智岸が再婚した三宅弥平治は、明智秀満(1536?~1582)と名を改め、1581年、(信長から丹波国を与えられた光秀が築いた)福知山城の城主になりました。
その年、秀満と岸の間に男子が生まれます。光秀には既に初孫として玉(後のガラシャ)の息子(後の細川忠隆)がありましたから、岸の息子(後の三宅重利)は、光秀の二人目の孫になりますが、玉の息子は長岡家の跡取り(の予定でしたが、実際はガラシャの死のとばっちり(?)で勘当され、同じくガラシャの子である弟・忠利が長岡改め細川家を継ぐことになります。)ですから、明智家にとってはこの子・藤兵衛が光秀の初孫のように思えたかもしれません。
 そして、三年後・・・・・・。
 我が家の先祖と伝わる(ことは、三年前既に一部の皆様にはお話ししました。)明智光秀は、「本能寺の変」を起こします。
1582年6月21日(天正10年6月2日)、光秀は「天下布武」を旗印に十余年にわたって共に駆けてきたきた(主君であり同志である)信長を討ち果たすことになります。
しかし残念ながら「三日天下」に終り、羽柴秀吉(1537~1598)斃されます。

 明智家の滅亡を受けて、光秀の娘たちはどうなったのでしょうか?
岸と里は、明智の城=坂本城(@滋賀県大津市)で自害して果てました。
玉は、明智家を離れていたので死は免れ、夫・長岡忠興によって丹後国の味土野(現・京丹後市弥栄町)という処に1年8か月の間幽閉されました。
後に大坂(現・大阪)の長岡屋敷に戻ることを許された玉は、1583年に次男・興秋(おきあき:1583~1615)、1586年に三男(で後に細川家を継ぐ)忠利を産みましたが、1587年2月、夫・忠興が九州に出陣した際に、侍女の清原マリア(生没年不詳、清少納言と同じ清原氏の儒学者・清原枝賢の娘・いと)から洗礼を受け、明智ガラシャ(当時は夫婦別姓ですから、夫の苗字になってはいません。
「細川ガラシャ」というのは明治以降に使われる通称ですが、当時の細川家は「長岡」を称していましたので、現代の夫婦同姓風にするなら「長岡ガラシャ」でしょう。)となりました。
 ここでもしご存知なら、キリスト教の「アヴェマリアの祈り」を思い出してください。
現代日本語では、「アヴェ、マリア、恵に満ちた方、主はあなたとともにおられます。・・・・・・・」とと始まるお祈りです。
ガラシャの時代、この祈りは「ガラサみちみち玉ふマリアに御礼をなし奉る・・・・・」と唱えられました。ラテン語では(ガラシャの時代も今も)、「Ave Maria、gratia plena、Dominus tecum・・・・・」となりますが、このgratiaをスペイン語にするとgracia、当時の日本語カナ書きでは「ガラシャ」となり、これが明智玉の洗礼名です。
なお「ガラサ」というのは、ポルトガル語のgraçaのカナ書です。

 大坂に戻った忠興は、ガラシャのキリシタン入信に激怒し、しかのみならず5人の側室を持つと宣言するなど夫婦仲は最悪となって、ガラシャは離婚を望むようになります。それに対して大坂の教会では(キリシタンの教義では、離婚は大罪なので)、「一つの十字架を捨てれば、別のもっと重い十字架を背負うことになる」と、「一つの十字架」としての結婚生活を続けるように勧めました。離婚をあきらめたガラシャは、1597年(慶長2年)長崎での26成人(その内20人が日本人)の殉教の報を受けて、自身も殉教を望むようになり、その準備を始めます。
 1600年6月、忠興が会津征伐(=上杉討伐)に出陣するにあたって、妻・ガラシャに危機(例えば、人質にされそうな時)に臨んでは自害するように命じました。これを受けてガラシャは、危機に際して武士の妻として自害することが自殺を禁じたキリシタンの教義に反するものにならないよう神父たちと協議を重ねて備えました。ガラシャの心中を察するに、夫の命で自害することが神から授けられた十字架であり、自分なりの「殉教」だと考えたのではないでしょうか。
 そして1600年8月25日(慶長5年7月17日)、ガラシャの最後の日が来ます。その最後は、ガラシャの望み通りのものでした。
ガラシャの望みを知ってか知らずか、翌年、夫・忠興が熱望して京で執り行われたガラシャの一周忌ミサで、ヴィンセンテ修道士(日本人)が誓書「ヨハネ黙示録」の「主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」との言葉を引いて、「ガラシャの徳と善き死について述べたところ越中殿(忠興)とその家臣たちは感きわまり、涙を抑えることができず泣きぬれた」(イエスズ会「1601年の二本年報」)のでした。
 
 散りぬべき時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 このガラシャの辞世の歌は有名ですが、ガラシャの思いとどう繋がるかは余り還みられていません。
この歌に詠まれた「時」とは、実家の土岐明智家の「土岐」と、誓書「コへレトの言葉」の「何事にも時があり、雨の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時 ・・・・・」の「死ぬ時」とを重ねたものではないでしょうか?
教会の公式見解はどうであれ、ガラシャ自身の思いは、「主に結ばれて死ぬ」こと、即ち日本26聖人に倣った「殉教」だったと、私は思うのです。
と言うのも、ガラシャの死後100年程後のウイーンで、ガラシャの最後を「殉教」として描いたオペラが上演され、マリー・アントワネット(1755~1793)を始めとするハブスグルブ家の貴婦人たちに深い感銘を与えたと言うのです。
 イエスズ会の「1600年の日本年表」には、こうあります。「この夫人の死は、日本中で大いに悲しまれた。ドナ・ガラシャは、キリシタンである一人の息子(興秋)と二人の娘(長姫・多羅姫)を遣した。」

 ガラシャの話が長くなりましたが、妹の辰は明智家滅亡後、幼子だった息子(後の織田昌澄:1579~1641)辰本人もまだ16歳の幼妻でした。)を連れて(ガラシャの長岡家ではなく、当時羽柴方でしたが、夫・津田信澄に仕えたことがある)藤堂高虎(1556~1630)の保護を求めます。(長姉・岸の系統の)三宅家の記録では、辰は1593年(豊臣秀頼誕生の年)没とありますが、藤堂家の記録では、1603年(家康の孫で7歳だった)千姫が秀頼に嫁いだ際に(本人ではなく徳川家の意向のようですが)千姫付の奥女中となって大坂城に入った、とあります。すると息子の昌澄は、藤堂家を辞して母を追うかのように大坂城に入り、秀頼に仕えることになります。
 そして、皆様ご存知「大坂夏の陣」・・・・・・・
豊臣方の昌澄は、大恩ある藤堂高虎らの徳川方と激闘の末敗れ、秀よりは大坂城と運命を共にして果てましたが、昌澄は高虎の執り成しで死を免じられ、後年二代將軍秀忠に仕えました。母明智辰の行く末については、残念ながら記録がありません。
言い忘れましたが、本能寺の変当時大坂城主だったのは、辰の夫・津田信澄で、信澄は本能寺の変の3日後、(信長の三男)織田信孝と丹羽長秀に「本能寺の変は、光秀と信澄の共謀だ」との言いがかり(?)をつけられて、攻め殺されてしまいます。そう、信澄最後の地、それも大坂城なのでした。

 

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■今日の散歩は図書館行き

2023-01-30 20:04:14 | 徒然

 今日は所用ついでに図書館行き、図書館まで歩き1時間半ほどを過ごし、資料を30枚ほどコピーしまた新しい史料を発見これは時間切れで後回しにして、図書館から10分くらいの所で会合に参加する。
難しい話であるが何とか収まればと思うし、そのために努力しようと思う。
帰りも徒歩、天気が良かったこともあり汗をかくほどで、往復6.8㌔を歩きとおした。
案の定、右足の「あど」が痛くなったが、きつさは感じない。
最近では糖尿病食にすっかり慣れて、体重も減り、来月の検査には良い結果が出るものと期待している。
81歳爺は頑張っております。

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■81爺奮闘記ーあばれるPC

2023-01-29 09:24:43 | 徒然

 ここ数日間わがPCのご機嫌が悪い。私は二つのアカウントをもって使い分けしようと思ったことがある。
その後これが面倒くさくなって、二つ並んでいた一方のタブを削除した。(削除しても機能は残っているのは当然である)
ある日突然、Googleから使っているGmailの設定変更を要求してきた。mailが開けなくなったのだ。
受信トレイには2,800件くらいの古いメールが残されている。これはまずいと汗が噴き出した。
要求の手順に従って変更を試みる。なかなかうまくいかない。81爺の能力はこの難関を超えることが出来ない。
何とか旧に復したがブックマークをクリックしてもいつもの画面には戻らない。
何故だ、しばらく放心状態になった。
その後、画面下に「封筒」印のGmailのタブがある事に気付きクリックすると、元の画面が現れた。
復帰したと思いブックマークのGmailをクリックするがこちらは駄目。何故だ???と大溜息・・・
それでも、タブの方のGmailは生きているからまずは一安心。いろんなメールが入ってくるのも確認された。
翌日、グーグルクロームを開いてみると、二つのアカウントの内どちらを使うかとの案内がある。
そして、いつも使うKマークと人型マークが出てくるに及んで漸く気が付いた。
ブックマーク欄とタブ欄は別のアカウントに連動していたのだ。
そこから、ブックマーク欄の機能をタブ欄の機能に変更する作業にかかり、四苦八苦して旧に復した。
なぜ正常に動いていたものが急にこのようになったのか、原因が判らない。
また起こりうるかもしれないが、ここで一つ勉強をしたから今度は簡単に復旧できそうである。

今一つある。きれいな画像をGooメールの「画像アップロード」で読み込むとこれが乱れて文字が正常に表示されなくなり難儀している。
最近セキュリティの案内がやたらと入るようになった。何か関係あるのかと思いながら、復旧の道筋を探っている。

81爺様の奮闘記にある。

 

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■熊本発BIG NEWS 古墳時代の鉄刀に象嵌の銘文 熊本城跡から出土

2023-01-29 07:46:14 | 新聞

古墳時代の鉄刀に象嵌の銘文 熊本城跡から出土、製作年月日か 江田船山古墳に続く県内2例目、国内では8例目

熊本日日新聞 | 2023年1月27日 21:34

 

熊本市と熊本大の合同調査で判明した、鉄刀の銘文部分(同市提供)
特別史跡・熊本城跡のNHK熊本放送会館跡地から出土した、象嵌の銘文が刻まれた鉄刀(熊本市提供)

 特別史跡・熊本城跡の千葉城地区(熊本市中央区)から昨年出土した古墳時代の鉄刀に、製作時期を示す象嵌[ぞうがん]銘文があることが27日、市と熊本大キャンパスミュージアム推進室との合同調査で明らかになった。県内での象嵌銘文刀剣の出土は江田船山古墳(和水町)に続く2例目で、国内は8例目という。

 会見した市熊本城調査研究センターは「兵庫県の箕谷[みいだに]二号墳から出土した象嵌銘文刀と製作時期などが類似しており、これらと比較することで当時の社会状況や国家形成を知る手掛かりにもなる」と話している。

 鉄刀は、旧NHK熊本放送会館跡地の南西側から見つかった。全長約55センチ(刃渡り約41センチ)、幅約3センチで、はみ出し鐔[つば]が残る。昨年10月に市と同大が実施したエックス線CT調査で、鐔に近い部分に象嵌手法で「甲子年五□□」(□は不明)の6文字が刻まれていることが分かったという。

 同センターによると、「甲子年[かしねん]」は鉄刀を製作した干支[えと]の年号で、下の3文字は製作月の「五月中」が考えられるという。装飾付大刀の形状から、古墳時代の終わりから飛鳥時代の前半のものとみられるが、「甲子年」の銘文から604年に製作された可能性が高いという。

 1962年に確認された古墳時代の横穴墓群10基の近くから出土しており、同センターは「もともと横穴墓にあった可能性がある。中央政府から熊本の有力者に贈られたものではないか」と見ている。

 江田船山古墳から出土した県内1例目は、日本最古級の文章が刻まれた古墳時代の銀象嵌銘大刀で、国宝に指定されている。同センターは「今後も調査を進め、刀剣の価値を検討していきたい」と話した。(鬼束実里)

NHK跡地の発掘調査で出土した、古墳時代の鉄製の刀(熊本市熊本城調査研究センター提供)
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■寒中駄句四句

2023-01-28 16:38:12 | 俳句

 この寒い中、朝散歩にも出ましたし、お昼から郵便物を投函にもでかけました。
お昼からは風も強くボタン雪が降ったりして、行きかえり1㌔に満たない距離が寒さで奮いあがるようでした。
今日は最高気温3℃だそうですが、風があるので随分寒く感じられます。南国熊本返上です。
明日いっぱいは寒いようですが、週明けから少しは寒さも落ち着くようです。少々背骨をのばしましょう。

             ふろふきに 寒忘る如盃重ね

             ベビーシューズ 歩みの先の菫かな

             山茶花をやたらと散らす 風のわざ

             一つところを目指して落ち葉の走りかな

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■「本能寺からお玉が池に」連載を前に

2023-01-28 09:13:50 | 徒然

 スフィンクスの肩の所に一人の人物が見える。
三宅復一(秀)なる人物なのだが、時に17歳という若さがそうさせたのであろう。
前に丁髷に帯刀した姿で整列しているのは「第2回遣欧使節(池田使節団)」の一行である。

復一は外国奉行支配・田辺太一のお付きとして、一行三十四人の一人として参加した。
三宅は、お玉が池種痘所(現東京大学医学部の起源)の創設に携わった医師三宅艮斎の長男である。
その姓・三宅を遡ると明智光秀の外孫・三宅藤兵衛一族に至る家系である。

 明智家の御一族(伝・三宅弥平次室の弟)である東京吉祥寺病院の医師・西岡先生は病院の機関紙に長く「本能寺からお玉が池に」を連載されている。
第1回からメールでお送りいただいているが、今回で13回になった。
お許しを得て、第1回からご紹介しようと思い至った。今回はそのプロローグである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

           細川忠興
             ‖
    明智光秀---+--ガラシャ
          |
          +---女
              ‖
  出雲---弥平次(明智左馬助 ---藤兵衛---+--藤右衛門---+--藤兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(細川家家臣・三宅平太郎家)
                   |         |
                   |      +--伊兵衛---+---重安
                   |            |
                   |            +---女
                   |            |
                   |            +---女
                   |              島原住三宅姓  ‖ 
                   |              休庵---元哉---+---玄碩---英庵---艮斎--
                   +---徳助重信               |    

                   |                      +---文泰            
                   +---加右衛門重豊
                   |
                   +---新兵衛重行---新兵衛---九郎兵衛重房---権兵衛・・・・・・・・・・(細川家家臣・三宅新十郎家)
                   |
                   +---庄之助(左京?)

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■花押

2023-01-27 07:10:16 | 花押

                    

 いつも思う事だが、花押の筆順がよく判らない。この花押は先にご紹介した「林平格」氏のものである。
非常にユニークなデザインが際立っている。まるで昆虫か何かを思わせる。伊達政宗の「鶺鴒」の花押を思い出した。
                 ■なんでも鑑定団「細川忠興宛 伊達政宗書状」
古文書の中では、「書判」とか「判形」とか表現されているものがこれである。
印鑑が普及するといわゆる「印形」へと変って行くが、例えば回覧される重要書類の閲覧の証として、書名・花押がならぶ文書など壮観である。
          

 手紙の最後に自分の花押を書いてくる友人がいる。「君なら私の遊び心を理解してくれると思うから」とあった。
最近は手紙もほとんどWordでタイピングして、宛名と署名だけを自筆する。そこで署名の後に花押を書き込みお返しをした。
後で「いい花押だ」と褒められたが、名前の一文字の隷書体 をアレンジしてみた。御披露はやめておくが・・・

 

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■熊本藩・大阪蔵屋敷と小笠原家

2023-01-26 08:14:48 | 史料

             

 こちらもヤフオクに出品されている物。大坂中の島の「蔵屋敷」の図だが、左端っこに細川家蔵屋敷の書き込みがあった。
この図の主役は「安志藩」着色された部分。右上には小倉御屋舗の書き込みが有る。
安志藩とは、忠利室・保壽院の長兄・小笠原忠脩を祖とするが、忠脩が父・小笠原秀政と共に戦死したため嫡子の長次は忠脩の弟・忠真に
育てられたため、小笠原本家は忠真が継ぐことになり、細川忠興の跡を受けて小倉藩主となった。

つまりこの地区は、小笠原一族の集まりを物語っている。興味深い。

 以前ご紹介した大坂中の島の「蔵屋敷配置図」を示しておく。
上の図とは方位が上下逆さまになっているし、若干の食い違いがあるのは二つの絵図の時代の相違か?


          

  ここでは安志藩の蔵屋敷は塩屋六ヱ門町の右手に見える。細川藩は小倉屋仁兵衛町の下に当たる。
          尚、細川家蔵屋敷の図については大阪蔵屋敷-2をご覧いただきたい。

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■資料として保存「元田永孚、薮 孤山書幅」

2023-01-26 06:46:53 | 史料

 二件ともヤフオクに出品されているものですが、こうして資料として保存させていただいています。

             

                  明治天皇侍讀・元田英孚書                藩校時習館二代目教授・藪 孤山書

 いづれも翻刻する必要がありますが、これは一苦労しそうです。更にこれを読み下すという事になると、100%私の手には負えません。
どなたかご援助の程を願いあげます。

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■林氏・開建山之覚

2023-01-25 09:12:08 | オークション

             古文書 江戸時代 文政 開墾 熊本藩 家老 長岡是容

         林平格氏の御赦免開建山之覚である。林平格は英三家の6代目。
         持座・長岡組 六百石で寛政四年七月(番方)~寛政八年十二月 高瀬町奉行・穿鑿頭ニ転
            文化十三年十一月(三拾挺頭)~文化十四年四月 鉄炮五拾挺頭
            文化十四年四月~^文政四年五月 奉行副役
         上記経歴からすると、奉行副役を辞めた直後あたりの記録である。

       

         御赦免開ー武士による開発、農民の野開きには反あたり六匁の運上が懸けられたが、
              武士の開発地には税が免除されたことからこう呼ばれる。
         建山ーーー武士の願い出による植林

第一項にある「畑開」壱町壱反 合志郡竹迫手永 鳥栖北村とあるが、この鳥栖という地名は、「隈本の消えた地名」で紹介されている現在では存在しない地名である。
鳥栖四村「本村」「辻村」「東村」「北村」が合併した。現在地でいえば合志市野々島である。
全国十三カ所に在ったという部民が五ヶ国に存在して、鳥を捕獲飼育して朝廷に献上する「鳥取部」として生業としていたという。

第二項は立山(建山)、右同大津手永 湯舩村は現在の菊池市旭志麓地区である。「湯船の溜池」が有名である。
第三項も立山(建山)で、上益城郡鯰手永 砥川村とある。ここは現在の益城町砥川だが、鯰手永に入っていたとは知らなかった。鯰にほど近い地区ではある。

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■正真正銘マイナス6℃の朝

2023-01-25 08:42:33 | 熊本

 今朝の熊本は随分冷え込みました。ちょうど起床する6時頃が気温が一番下がる時期ですが、5時頃には寒さで目が覚めました。
温度計を外に出しましたら7時前マイナス6度を示しました。積雪はないものの熊本市内では経験した事のないような気温です。
お天道様が顔を出しましたが、昼頃までは氷点下の気温が続きそうです。
そんな中、奥方はなにやら用があるらしく重装備で出かけます。私の朝散歩は少々気温が上がってからに致しましょう。
コーヒーカップを両手で抱え込み手を温めているありさまです。

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■於「熊本県立美術館本館・永青文庫展示室」峯

2023-01-24 19:37:50 | 展覧会

      ■細川韶邦夫人峯君

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■大寒波到来とコロナ

2023-01-24 09:59:59 | 先祖附

 南国熊本に大寒波がやってくる。午後から氷点下になるようだから、その前に思い切って散歩に出た。
ダウンを羽織り、この冬初めてネックウォーマーをつけ手袋を付けての重装備である。
身を切るような風が冷たい。思わず足早になるが時折これを風が押し戻すようである。
マスクの中に息がこもり、息苦しく感じる。いつものAコース3.2㌔を45分程で歩いた。
夕方から翌朝まではー3~4℃となると予報されているが、今晩はお鍋などを食べて温かくして早寝が一番のようだ。

 娘一家は娘と今年大学を出て東京へ旅立つ長男がコロナに罹った。
旦那は用心のために実家に避難、長女と二男は一緒に生活しているが、今のところ陽性になったとは聞かない。
ここ数日が正念場といった処、買い物にも出られず長女がコンビニからいろいろ仕入れているらしく、奥方が心配しているが、濃厚接触者になるから来るなと言われている。

歳時記を見ていたら、楠本健吉の句に 子が病めば怒涛の如し寒波来  とあった。

皆様の御地も同様だと思いますが、ご用心・ご自愛ください。

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15:30分頃から吹雪状態となり、瞬く間にご近所の屋根が真っ白になりました。
ベランダも細かい雪が暴れまわっています。このままいけば明日の朝は数センチの積雪は間違いないかもしれません。
風が強く、風鈴の緒が吹き千切れるほどです。暖房はしていますが、足元に深々と冷気が広がってくるのが判ります。

 

   
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■「綱利の歌」ではない・・

2023-01-23 06:58:40 | オークション

            【模写】【細川綱利】13553 色紙 書 和歌 紙本 江戸中期の熊本藩3代藩主 肥後 在銘

   

  さらりとは読みこなせず、自分の力のなさに呆然とする。出品者から読み下しが添付されていて、納得した次第である。

  五代・綱利の和歌だとある。実際には次のように書かれている

          ちとせまて か可れ累
                松も介ふよ利ハ
             君耳飛可れ亭
               よろ川代や
                   經舞

  

      この和歌は綱利の作ではない。大中臣能宣の作として紹介されている。
  
       千とせまでかぎれる松もけふよりは君にひかれて万代よろづよやへむ(拾遺24)

   【通釈】千年までと寿命が限られる松も、今日からは、あなたに引かれて万年の命を保つでしょう。

  最後の二文字を「經舞」としたのは綱利のオリジナルであり上記の説明書では「ひむ」と解説されているが「へむ」が正式であ
  ることが判る。
  一行目の「かかれる」は「かぎれる=限れる」であり、「可」の文字を当てたことは不適切である。
  五票目の最後の文字は「舞」だと解説してあるが、「舞」ではなく「藤」ではないのか。
  もっとも「舞」も「藤」も「む」とは読まないと思うのだが、和歌などの文字はとんと判らぬ身としては少々首をかしげている。

  お詳しい方がおられたらご教示いただきたい。

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