津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和元年」を読む (3)

2023-04-29 09:41:01 | 先祖附

忠興文書-元和元年 (慶長廿年)7月13日元和改元

 (6月6日、忠興二男興秋、父ノ命にゟ自刃ス)

101、(慶長廿年)閏六月七日書状
 ・不干の茶入れのこと
 ・忠利家康ニ謁ス、珎重候事
 ・此状いや(吉田兼治室)へ可被届候

102、(慶長廿年)閏六月廿五日書状
 ・家康へノ進物、金地院へ示、上州披露被申候様ニ可被仕候
 ・秀忠ヘノ進物、土井大炊・佐渡殿へ申遣候間、その意披露被仕候様可被仕候
 ・河内飯森ニテ油断アリシ諸大名ノ糾明
 ・小笠原忠政(忠真)ノ容態ヲ問フ
 ・大和口合戦ニツキ伊達政宗辨疏スト風説
 ・筑紫広門秀忠ニ謁ス
 ・金森可重ノ遺蹟相続
 ・伊東長次ノ訊問

103、(慶長廿年)閏六月廿九日書状
 ・秀忠(7月19日伏見着)、家康(8月4日京都着)下向の期日
 ・諸国城割ノ觸状到来門司城(沼田延元預かり)ヲ破却ス    参考:近世初期における諸国城割と地域社会―藩政成立史序説―
 ・中津城ハ土井利勝ト談合次第タルベシ                      永青文庫研究 5 1-25, 2022 
 
・幕府城割ノ方針
 ・武家諸法度ノ發布
 ・大政大臣ニナルヨリモ(??)帰国ノ賜暇ヲ望ム
 ・筑紫広門ノ召抱ハ辞退スベシ

 7月13日元和改元)

104、七月廿六日書状
 ・小笠原秀政・忠脩父子ノ葬儀ノ日取ヲ聞キタシ
 ・日本国中普請十年御免ノ報

105、八月十六日書状
 ・槻木ノ一番鷹給候
 ・田中忠政帰路小倉ヲ過ル              大坂夏の陣に遅参、七年間の江戸滞留を命じられている。
 ・八月四日家康駿府帰還ノ為京都ヲ發ス

106、九月廿九日書状
 ・蜂須賀至鎮ヨリ鷂(はいたか)を贈ラル

107、十月二日書状
 ・平野長泰ノ状受取
 ・秀忠旗本諸士ノ大坂役ノ戦状ヲ糾明ス
 ・光壽院ノ為、人ヲ下ス
 ・東へ越年、知申間敷こと
 ・城昌茂改易

108、十二月三日書状
 ・十一月廿八日吉田(京)ニ著

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■昭和の日

2023-04-29 06:32:43 | 徒然

 昭和生まれの私からすると、今日4月29日はやはり「天皇誕生日」でなければならない。
昭和天皇の御逝去後、この日はどうなるのかと思っていたら「昭和の日」となったが、平成・令和と時代が変わっても違和感が感じる。
過日、江國滋著の「滋酔郎 俳句館」という文庫本を読んでいたら、昭和天皇に関する「拝謁記」という面白い一文にであった。
昭和56年(1981)12月17日のことだそうだが、いわゆる「東京やなぎ句会」の連中が忘年会を兼ねて伊豆下田に一泊の予定で足を延ばしたのだそうな。
熱海の先の「宇佐美駅」に近づき減速したとき、上りホームに警官が多数立っているという。
何事かと思っているうちにお召列車の通過であることが判り、江國氏らが乗る列車が両陛下の目の前で停車したそうな。
上下線の隣同士の線路の上で、両陛下のお召列車の目の前で止った。句会の連中の驚くまい事か、窓越しに鈴なりになり手を振り、あの小沢昭一にいたってはガラスにおでこをくっつけて「陛下、小沢でございます」と叫ぶと、両陛下はお気づきになり(?)御手を振られたという。
その感激の中の小沢に代わって六丁目(永六輔)の一句   あれは小沢かと皇后にご下問
残念ながら小沢の感想は、彼の一連の著作を眺めてみても出てきていないように思える。
昭和56年12月、両陛下はどちらへお出ましであったのか、WEBで探してみたがよく判らなかった。
やなぎ句会のその日の下田での句会は、さぞかしその話で賑わったことであろう。

 まさに昭和の人たちが名を連ねた「東京やなぎ句会」も、大方が亡くなられてしまった。
私はやなぎ句会の本を数冊持っていて、今でも時折ページをめくっているが、いい雰囲気だなあ、うらやましいなあと思いながら癒されている。
小沢昭一、昭和元年の生まれで「昭一」かと思ったら、昭和4年の生まれであった。小沢氏52歳の時の話である。




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