津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長七年」を読む

2023-04-08 08:15:59 | 先祖附

忠興文書-慶長七年

  (慶長七年小倉を御居城ニ可被成と被思召、正月十五日鍬初被仰付候、廿六七日之比、小倉ニ御越被成御縄張被仰付、御家中ニも丁場
   の割被仰付、其後も度々御出被成候) 綿考輯録

 16、三月廿三日書状
   ・忠利より年頭の祝儀として鳥目三百疋が到来したことに対する礼  
          (「鳥目・疋」は、祝儀のときだけに使われるお金の単位で、1疋=銭10文 故に3,000文≒36,000円になる)
   ・家康に対しての対応に感謝
   ・陣脇差、兜、頬當について
   ・びろうどの陣羽織を送る、猩々緋の陣羽織を受け取った
   ・ししゆひかね(不詳)を送る
   ・雨みのを送る
   ・送った折箱を織田秀雄へ届けてほしいこと、見廻を怠らず、御用を聞き、馳走は簡用に
   ・居城を小倉へ替える事にした事、近々下國し普請の大形を申し付け、七月末~八月初に徳川秀忠御見舞の為に罷り下る予定
   ・所望の鞦(尻繋=しりがい)のことは承知した、鞍(くら)は送った

 17、三月廿三日書状16と同日の書状、伏見よりの書き込みあり)
   ・忠利が秀忠より拝領した馬を送ったことに対する礼
   ・忠利に大脇差(三原)を送ろうと思うが適当なものが見つからない、「信長」をと思うが忠利には似合わないだろう
   ・今度家康公に会いたいと考えているが、忠利の證人交代については態とこの度は申し上げないことにする
   ・近日下国して小倉城普請を指図して、その後江戸へ下る
   ・途中京都により父・幽齋へ知行を少し與へたい、母光壽院とも併せて忠利から文など届けてほしい
   ・てう(長)、たら(多羅)、與五郎(興秋)らも元気である事

 18、五月廿五日書状
   ・忠利が稲葉道通と懇ろになったことに付、自分の方から礼を申しておく

   ・お茶がなくなったとの事、信楽の壺(に入れて)を送ったこと  
   ・黒田長政との年貢先納の紛議解決した事
   ・下国のお許しを得るため伏見在城の家康公にお目にかかり、鷹まで拝領した事

 19、六月廿四日書状
   ・小倉城が見事に完成した事
   ・秀忠から巣兒鷂(巣で捕らえたハイタカ?)を拝領した由、法度(鷹狩に関してか)を間違わないように
   ・同上の他、(秀忠に関する報については)何事も知らせる事
   ・(意味不詳ー馬具に関する事か?)
   ・小姓二人、仲間の替り(交代か)を遣わした事
   ・くつ輪(=轡・はみ)を送ったこと
   ・忠利の身の回りの物は「あか・おく(奥の者か)」方へ送ったこと
   ・八月には江戸へ下る予定、春頃より目を患い左の目が見え兼ねている、養生をして備えたい

 20、八月八日書状
   ・重陽の祝儀として秀忠公に小袖を進上したい、各(幕府要職?)へも同様、届けてほしい
   ・江戸在勤の者の交代、中嶋左近・松山左兵衛尉を九月朔日に当地を立たせる、江戸在のものが一機の変わるのは
    まずかろうから良く談合の上来春までに帰国させること

 21、八月廿九日書状
   ・目を患ったことに対し、付け人を申し付けられたことに礼
   ・目の病に付秀忠公からお見舞いの書状が届いたこと、
   ・目の治療について去年の処置は散々だったが、今回はくすし(=薬師)を替え、少し良くなっている、「そこひ」にはならないだろう
   ・予定していた江戸参向は延引する、その時期についてはまた報告する
   ・過日、小倉城の現場に赴いたが大風にあい、今日は臥せっている、油断なく養生する
 
 22、十月晦日書状
   ・そちらに小姓七人・茶坊主一人を下した
   ・家康の上洛が今年なかならば急いで小倉へ通報してほしい、江戸でご越年でもその旨知らせてほしい、遅いと役に立たない
   ・忠利の花押が変わったようだが、当世流行にしてはよろしくない、「判は人の形」で吉凶をいうはおかしい

  (十一月中旬、小倉城御普請成就し、下旬御入城被成候 御普請相勤候面々御賞美の御意御座候 中ニも(有吉)武蔵守立行身代ニハ
   過分ニ人数持兼て心懸候故、軍役・普請等格別ニ手廻し宜敷被思召候由也) 綿考輯録-忠興公・上p418

 23、十二月二日書状
   ・来年正月には江戸へ赴き(家康・秀忠)御見廻をしたい、

 24、十二月廿二日書状
   ・今年内に上洛したいと思っていたが、国の作方のことで今年は出来ない、正月十日ころより伏見へ上り、十五六日ころ出立して
    江戸へ下りたい、
   ・先日の花押の件(22書状)について返事がないのはおかしい

   今年(慶長七年・時期不明)於江戸初而御屋敷拝領被成候」(綿考輯録・巻十七--忠興公・上p423
  (考ニ、四月十日忠利君二被進たる御書、并忠利君より(有吉)立行ニ被下たる五月七日の御書等の趣に候へハ、当春之砌御拝領被成候哉、
   いつれの御屋敷なるへきか、或説ニ、忠興君初而於江戸御拝領の御屋敷ハ、愛宕下藪小路之由、又一書に、慶長八年とあるハいふかし、
   又御上屋敷忠興様拝領之節迄ハ空地にて候ゆへ、地形悪く候、加藤主計頭様御拝領地ハ岡山ニて候故、彼地より土を運ひ埋上候而御屋
   敷ニ成候由、此時ハ只今の表御門之方三千坪はかりも有之、其後段々御添地有之由と云々、是今の竜の口御やしきと聞へ申候、此余御
   屋敷之事、忠興君二も忠利君二も上中下なと所々御屋敷有之たる御模様ニて、御作事ニ付而も思召の事等、数通の御書にも見へ候得共、
   いつれの所と申儀、其屋敷の成行もわかり不申候、将監橋際の御やしきハ坪数も広く有之たる由、乍然増上寺の隣ニて火災の憂無覚束
   を以、光尚君二至被差上、其替りニ今の白銀の御屋敷御拝領被成候)

 

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