津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「丹後三家物語」15・幽齋忠興不和に成事

2021-08-31 16:12:38 | 先祖附

 慶長五庚子のとし、奥州會津の城主長尾景勝御征罰の時、細川越中守忠興は、家康公の御味方にて宮津
より出陣せられける。幽齋は隠居之身なれば、田部の城に居給て忠興計出られける。斯て忠興雑兵どもに
三千の人數にて、六月十一日宮津の城を出馬なり、御暇乞申さんとて、田部の城へ立より其夜は田部に宿
陣たり、幽齋は天守にのぼり、軍勢の行列を見物してぞおはしける。忠興は若州を輕て近江路へ打出んと
丹若の境なる吉坂まで押れける。爰に若州熊川には近年關所有けるが敦賀の城主大谷刑部少輔下知をくは
へ熊川の關所を彌堅固にして往來たやすからざるよし聞えければ、忠興申されしは若州より近江路へ打出
んとおもへども存子細の有ければ、丹波路を行べしとて吉坂より取て返し丹波路を山家へかゝり伏見へこ
そ出られける。幽齋此事を聞給ひ怒て申されけるやうは、刑部少輔が計ひとして忠興を可支子細もなし。
頃日世間物念の時節なればいかにも關所へ行かゝり子細を見届可通を吉坂迄押たる陣を取て返し、丹波路
へ出し事は不覺悟の至也。忠興存命仕自然に歸陣したりとも對面はすまじきとて豁歯を嚙て被怒けるが、
                             こらえず
又無程小野木、田部をせめし時勅命とは云ながら今少不怺して幽齋城をわたされて京都へのぼり給ひけれ
ば、忠興も不悦、互に隔心出來り漸々不和に成けるが、後は次第に募つゝ父子の間の侍ども、一日に両度
迄鑓を合せし事有けり。

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■BSで映画鑑賞「山桜」

2021-08-31 16:06:58 | 徒然

 昼食後しばらくしてTVのチャンネルをかちゃ/\していたところ、BSで時代劇をやっている。
田中麗奈の役どころの武家のご新造が、離婚して婚家を去るシーンから見始めたが、何の作品かわからないまましばら見ていてこれは藤沢周平の作品の映画化だなと確信した。最後のテロップで「山桜」という作品であることが判った。

                   山桜
 2008年の作品らしいが、この藤沢の短編小説がが映画化されていたことは知らなかったが、いかにもしっとりとした藤沢作品が見事に映画化されていた。

 かっては縁談を断った侍(東山)が、藩の上層部の不正を追及して籠舎に入れられる。主人公は婚家には後添いとして嫁ぐが、まるで下女のごとくに扱われ、あるきっかけで離縁となる。
叔母の墓参りに詣でた折、侍に山桜の一枝を折ってもらったことがあった。そんな思い出にひたりながら、侍の無事を願うのである。
その思いはまた燃えるような心情である。
東北の山々に雪が降り積もり、春が訪れ小川の流れに緑が目立ち、そしてまた山桜が咲いた。
そんな山桜の一もとを携えて、主のいない侍の家を訪れる。一人家を守る母親は彼女の来訪を心から喜んでくれる。
籠舎にある小窓からも山桜がみえる。参勤で江戸に在った藩主が桜咲く国元へ急ぎ帰国の歩を進めている。
希望の春の到来を予感させながら、映画は「終」となる。

 時代劇と呼ばれるジャンルの映画は、かっての隆盛期とは比べ物にならないほど数が減った。
しかし、このような「文芸作品」としての時代劇は、見事な進化をとげている。藤沢周平の小説の力を改めて感じざるを得ない。
全編見ることが出来なかったが、本当に良い作品であった。そのうちにDVDでも借りて全編見てみたいと思う。

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■宝暦期、大村荘助の人物評(一)

2021-08-31 07:12:21 | 人物

 少々間が明いたが、熊本出身の津山藩士・大村荘介が表した「肥後経済録」からその人物評を取り上げてみたいと思う。
荘介は宝暦七年(34歳)まで兄・大村源内の厄介とし源内の知行地の玉名で過ごしている。それから京に上り熊本出身の高名な儒者・西依儀兵衛の許に寄宿した。
41歳になって江戸で津山藩に招かれて儒学を教授し66歳で同国で没した。

荘介の人物評にはかなり辛辣な部分もあるが、在熊34年間に彼が得た知識であり、これが世評として流言されていたのであろう。
ここではその侭をご紹介する。

 ■朽木内匠(朽木家6代・昭直、養子・実同氏氏昭子、享保18・正相続、城代・側大頭・備頭、安永5・12致仕)
    3,000石城代相勤申者、此者無役の時より世情にかゝはらす武具を嗜、武芸を好ミ申候ニ付、莫大の褒美給候

 有吉大膳(有吉本家11代、立邑、延享元年相続、宝暦12・8月蟄居33歳、大奉行堀平太左衛門呪詛事件による) 
    18,000石、代々家老ニて三人目の席ニて御座候、若年より不肖の趣ニ付色々世話も御座候得共、何分埒明不申候故隠居被仰付、弟
    を家督ニ被申付候、猶年若
ニ付席ハ先祖よりの席ニて居申候

 ■松井帯刀伜式部(松井本家8代・営之)
      いまた若年に御座候得共、器量抜群の者にて家老役被申付候、二十歳の時江戸相勤申候、年輩の者より諸事よく執捌申候て、君へ
     も貴重せられ候由ニ御座候

 ■尾藤金左衛門(5代知正・左着座)
       3,000石、甚た不肖の者ニて御座候、家老ニも侍大将ニも可相成家柄ニて候得とも不座被申付、物頭の上座ニなり申候
 ■松野亀右衛門(大友宗麟・二男利根川道孝の家系 6代・亀右衛門宝暦二年六月~宝暦四年三月 用人、
           7代・信次郎(亀右衛門)天明二年五月~寛政元年一月(病死)番頭)(不行跡について参考:松野亀右衛門御咎ニ付落書)

        父子先代側家老相勤申候処、不行跡ニて役儀被差除、閉門被申付候、伜只今亀右衛門と申候、又々家老ニ罷成申候
 ■筑紫権左衛門(5代・照門 享保十二年七月(物奉行)~元文三年七月 中小姓、元文三年七月~宝暦二年六月(被差除)番頭)
      700石、番頭数年相勤申候、淫乱の事有之、閉門被申付候、家久しき者故暇不申付、番頭ニ被申付候
 ■中西平助
    至て家久しき者ニ御座候得とも、代々小身ニて五人扶持拾石ニて至極貧究仕候、当平助は志有之ものにて、文武の芸別て委舗、且
    又細工をよく仕り、家居・家具・武具まて皆細工仕候ニ付、三四百石取者より道具持居申候、三四百石取者より道具持居候、しか
    れとも具足の細工は難成、代物無之押移り申候処、いつ迄待候ても求め申候期ハ無之候ニ付、女房の所持居申小袖を売払申候て具
    足を求申候、当時の風義具足は質ニ遣候ても女房に小袖をきせ申やうなる人情ニ候処、右の通り仕候ゆへ、諸人はなはだ珍しく
    存、評判におよひ申候、或ハ称シ、或はそしり候も有之候、此事君にも被聞召、まつ弐人扶持ニ五石の加増給候、猶取立被申度様
    子ニ候得とも、何の勤功も無之、其後急江戸詰被申付候、五日限出立仕候様と御座候処、諸用意ニ不及、兼て所持仕候事ゆへ何の
    差支も無之罷立申候、帰国の後又加増有之、其組の組頭ニ被申付候、其後年数相立、知行百石の蔵米給候、また武具細工巧者ニ
    付、城内武具の支配被申付候、其後又百石を地方ニ御直し給候、七代ニ至り俄ニ立身仕候、
    
     

 

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有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(三十一)孝心御賞美之手数

2021-08-30 11:54:06 | 先祖附

               〇孝心御賞美之手数

一、当代之人拝領物被仰付候ハ鷹之御間申渡之節於同御間頭同道渡候拝領物無之ハ当人出方無之組頭江同御間ニ而書付相渡
  候事
  当代の人で拝領物を仰付られるときは、鷹の御間で申渡しの節、同御間において頭同道にて渡すこと、拝領物が無ければ当人の出方はなく組頭へ同
    御間にて
書付を相渡す
一、無足拝領物被仰付候節ハ父兄同道中之間ニて申渡候拝領物無之ハ同御間ニ而組頭江書付相渡候
    但中之御間之節御目附列座者無之候事
  無足の者が拝領物仰付られたる節は、父兄同道にて中の間にて申渡すこと、拝領物が無い時は同御間にて組頭へ書付を相渡すこと
    但中の御間の節は、御目附列座は無い事
一、家類之分は却而口之間ニ而組頭等江書付相渡候事
  右之通文化十年八月相究候事
  家類の分は却て口之間にて組頭等へ書付相渡す事
    右の通り文化十年八月相究られる事

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■「丹後三家物語」14・小野木縫殿頭切腹の事

2021-08-30 06:47:31 | 史料

 關ヶ原表、家康公御利運になりしかば、諸大名に御暇下され、國々へ歸られける。此等細川越中守忠
興、権現様へ被申上けるは、小野木縫殿頭が居城福知山は、幸某が在所へ歸る道なれば、通りかけに踏潰
し小野木が首を見て、可能通にて候と申されければ、家康もさよう思召處なり、忠興心次第たるべき旨御
有ければ、慶弔五年十月十七日、福知山の城を取巻て只一乗にと揉立ける。去る十月縫殿頭田部の城を責
けるゆへ、其意趣甚深ければ、小野木が首を見るまでは、日夜をわけじと下知せられける。此福知山の城
は巽の方よりさし出て岫崎に本城を取る、其下は蛇が鼻とて東西引廻したる、大河の内に堀を掘、此ほり
要用の堀なれば、峻事幾尋とい限なし、然るに萍有て淺見えければ、細川衆先手の人數われ先にと飛入ほ
どに、若干の人數溺死せり。うしろ堅固の繩と見えたり、忠興是を見られて、蛇が鼻おもては閣とて、南
之丘より攻ける所に、忠興の舊友山岡道阿彌はせ來り、扱に入ければ小野木城を開つゝ、則剃髪染衣と成
                              寿仙院
上方へ退けるが、忠興憤怒不醒而又兵を追かけさせ、龜山にて捕て壽全庵と云寺にて無敢腹を切せたり。
       
法名は松樹院殿□貞岳大居士と號せり。

 

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■四日ぶりの散歩

2021-08-29 16:04:03 | 徒然

 ひざ痛に悩まされ丸三日程散歩を休みましたが、今日は昼食後おそる/\歩いてみることにしました。
膝の調子を見ながら、具合が悪ければ引返すつもりでゆっくり歩いたのですが、意外と順調でAコース3.5㌔を(5,141歩)を50分で歩きとおしました。
階段の上り下りは用心しないとまた膝にぎくりときそうなので、用心に用心を重ねて無事帰宅と相成りました。
スマホが記録したデータによると、この散歩の消費カロリーは220キロカロリーですから、体重を落とすためにはまだまだ距離が足らないようです。6,000歩を目指してコース設定を変えてみようと思っています。
今日の熊本は良い天気になり風はあるのですが気温が33度ほどあり、汗びっしょりです。
朝晩の涼しさが感じられるようになる随兵寒合(ずいびょうがんや)の訪れ迄半月ほどとなり、夏の暑さもあと一息、ひざを用心しながら人気のない町中を歩き続けます。
日曜のせいかもしれませんが、行きかう車の他には、人に出会うことなく歩きましたが恐ろしい感じがします。
コロナに罹らない様、皆様十分にお気を付けください。

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■有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(三十)犬追物御賞賜申渡之式

2021-08-29 13:52:02 | 有吉家文書

   〇犬追物御賞賜申渡之式

一、御殿之中之御間ニ而此申渡於政府は無之申渡御間取平常之通
  御殿(花畑邸)の中の御間にて此の申渡し、政府(御奉行所においては申し渡しは無く御間取は平常の通
一、書付者例之通御奉行より差出之事
  書付は例の通り御奉行より差出しの事
一、繰出名附御小姓頭江相渡目録ハ御目附相渡候事
     但御小姓頭繰出ニて繰付共御使番口之間江罷出取計之事
  繰出名附は御小姓頭へ渡し、目録は御目附へ渡す事
     但御小姓頭繰出にて繰付け共、御使番口の間へ罷り出取計いの事
一、御小姓頭より案内有之西之入口より入例之座ニ坐着之事
  御小姓頭より案内が有り、西の入口より入り、例の座に坐着の事
一、御奉行・御目附列座有之西之二枚襖之所ニ東向南頭ニ坐着之事
  御奉行・御目附列座有り、西の二枚襖之所に東向・南頭に坐着の事
一、相済申渡之書附ハ其坐ニて御奉行へ相渡候事 此書付ハ御品物引渡等之しらへ有之由ニ付無間違様相渡可申候
     但御小姓頭被相渡候書付者無之候之事
  相済す申渡の書附は、其坐にて御奉行へ相渡す事 此書付は御品物引渡し等のしらへが有る由に付、間違いなき様相渡す可べき事
     但御小姓頭相渡されたる書付は無い事
一、相済候段御小姓頭より知らせ無之御目附江者御用番より為知候事
  相済したること御小姓頭より知らせは無く、御目附へは御用番(月番家老)より知らされる事
一、御請書差上候事
  御請書を差上げる事

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■やっけんぼり???

2021-08-29 10:15:09 | 熊本

 先の大雨で熊本城の薬研堀が水堀に化したことが、某TV局のニュース番組で取り上げられ現在も映像が残されている。
                  https://www.fnn.jp/articles/-/224306
地元アナウンサーのコメントの跡に、違う人のように思われる人がコメントをしているのに「やっけんぼり」と言っているように聞こえる。「やげんぼり」「やっけんぼり」どちらが本当?

さてこの薬研堀、最近(26日ころ)どうやら水が引いたらしい。史談会の中村君が写真を添えて教えてくれた。

             Screenshot₋20210829₋081344₋2.pngから引用

 

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■「丹後三家物語」13・小野木縫殿頭田部の城攻撃 附 幽齋歌の事

2021-08-29 06:57:10 | 先祖附

 丹波福知山の城主、小野木縫殿頭は内々石田治部少輔三成に一味して、山陰道の敵味方を窺けるが、小
野木心に思ふやう、田部には細川幽齋居城せり、面の敵なればまづ丹後の兩城を可攻と、隣國近邊廻文し
軍勢を催しける。かゝる處に大阪城より小野木が許へ申來るは、細川越中守忠興が妻子自害せし上は、忠
興千に一も味方に不参事決定せり。急ぎ田部の城を可攻よし到來す。小野木に一味の人々は、藤掛三河
守、谷出羽守、高田豊後守、杉原伯耆守、別所豊後守、生駒左近、小出大和守、都合其勢一萬餘騎なり。
縫殿頭は福知山に在城し、陣代として舎弟神山喜三郎并竹元與右衛門といふ者に、人數を付てぞつかはし
ける。慶長五年七月廿日早天に、田部の城に押よせて、竹多束を付、仕寄をかまへ、大鐵炮を放かけ晝夜
                         しらかべ
をわかたず責ける程に、あまり鐵炮夥敷、西の大手は 堊 は少も不殘打落壁下地あらはりたり。當國の人
數は皆忠興に随て關東に下りければ、かたのごとくの無人の籠城危かりとは申せども、幽齋さすが老攻に
て大敵を事ともせず、防戰の手配り越度はすこしもなかりけり。爰に寄手の内但州山口の住人、赤澤主水
正手の者どもに云ける、城中はいかにも無勢と見へたるぞ、此城を攻事はわづか四五日の程なれども、防
箭の鐵炮中々まはらにすくなし倡やかた/\、某が手より乗入一手柄すべしと思ふはいかゞあらんと云け
れば、赤澤が手勢八十人然へしとぞ同じける。さらば潜に乗へしとて七月廿五日の未明に、大手の海際よ
り竹はしごを持より、鑰なわを打かけ、主水眞先に乗入ければ、手勢不殘乗入ける。とかくする内夜明け
れば城内是を見付てニの丸の櫓より筒先を揃て打ける間、群雀を闖ことくなれば、赤澤を初手勢八十人ひ
とりも不殘討れける。誠に赤澤其志は武けれ共小勢を以大城に向ひ、理不儘に働ゆへ、あへなき討死致け
る。神山喜三郎諸手へ觸廻しけるは、赤澤無下に討れたるとて猶豫有べからず、いざや不疼可攻とて、喜
三郎が手勢を以て各が持口をすすみける程に、諸勢おとらじと攻より既に外曲輪西南の隅を責破り、我も
/\と押込ける。此城三の丸堀廣く矢倉高し、霞のごとく鐵炮を打出しければ、寄手五六百人時の間に打
倒さる。喜三郎も手負て引兼けるを竹本與右衛門肩に縣て引ける門寄手も先引退、此後はよせての諸將示
合、力せめにする事停止とて、其手々々を固めめる。斯所に後陽成院此事叡聞まし/\て、細川の幽齋は
當時歌道の達者武家の和歌所としつる者ぞ、いかでか是を
失む、いそぎ兩陣和睦させよと宣下有ければ、
三條大納言田部に下り給ひ、勅命を演られける。因茲兩陣既に和談に成、九月十二日諸將圍を解ければ、
徳善院が名代前田主膳正城を請取在番す。此時幽齋年來相傳の源氏物語并廿一代集を禁裏へ捧奉り、一首
の歌をそへられたり。
    い に し へ も 今 も か は ら ぬ 世 の 中 に
         心 の た ね を 殘 す こ と の 葉
 其後幽齋上京して、しばらくの程東山吉田の邊に幽閉の住居せられける。

 

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■「丹後三家物語」12・宮津ノ城自焼する事

2021-08-28 15:29:06 | 史料

 越中守忠興、宮津の城には、家臣篠原五右衛門と云者を留守居に殘し、關東へ出陣の跡、上方の亂によ
つて丹後、丹波の諸大名大軍を引率して、此國に寄來、田部宮津を攻けるよし聞ければ、篠原五右衛門、
幽齋へ伺申やう、某こんど宮津の留主を被仰付候へども、小勢にて中々此城持がたし、憨に籠城仕敵の為
落城せば、敵に威を増し候條城をば自焼仕り其御地へつほみ可申由羽檄を飛せて申ければ、幽齋いかにも
納得にて、七月十六日に五右衛門は宮津の城を焼はらひ、留主の人數を引連て田部の城に籠ける。

 

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■有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(廿九)口之間申渡之式

2021-08-28 08:43:07 | 有吉家文書

           ○ 口之間申渡之式

一御殿者中之間 東西之口御襖立ル 政府ハ口之間ニ而御奉行出方之口と坊主とも出ル口は建ニ不及 何茂御間取平常之通ニ
  候之事
    御殿は中の間 東西の口御襖立る、 政府(奉行所)は口の間にて御奉行出方の口と坊主とも出る口は建るに及ばず 何れも御間取平常の通のこと

一申渡ニ付諸書付者例之通御奉行より差出之事
 申渡に付諸書付は例の通り御奉行より差出す事
一重キ筋ハ御目附繰出軽筋ハ坊主繰出し右之境は機密ニて取調候事
    但御目附之節ハ繰出名付相渡坊主繰出之節ハ佐弐役より名付相渡候事
 重き筋は御目附繰出し、軽き筋は坊主繰出し、右の境は機密(間)にて取調べの事
    但御目附の節は繰出名付相渡し、坊主繰出の節は佐弐役より名付相渡しの事
一座着宜段申達候上御用番より竪畳壱枚半南より横畳二枚目之処ニ致座着左候而相済御用番座江参右書附者佐弐役江返し
 候書附次第ニハ坊主を以
返し候右書付返し候ニも不及候得共事柄次第ニハ於機密間入用之事も有之候間本行之通返し候
 事
 座着し終え申達しの上、御用番(月番家老)より竪畳壱枚半南より横畳二枚目の処に座着いたし、そうして御用番座へ参り、右書附は佐弐役へ返し
 たる書附次第には、坊主を以て返し、右書付返し候にも及ばなければ事柄次第には機密間において入用の事も有るので、本行の通り返す事

一御奉行・御目附列座之儀者依御用筋稀ニ者致列座候 目録渡之節ハ御目付列座勿論之事
    但御奉行列座有之節ハ申渡之書付於其座相渡列座無之節ハ相済候上直々御用番坐ニおゐて相渡候事
 御奉行・御目附列座のいことは、御用筋により稀には列座いたすこと、目録渡しの節は御目付の列座は勿論の事
    但御奉行列座が有る節は、申渡しの書付其座のおいて渡し、列座が無い節は相済の上直々に御用番坐におゐて渡す事
一御請書差上候事右申渡ハ御賞賜御用懸御手当類其外段々有之候事
 御請書を差上る事、右申渡しは御賞賜御用懸御手当類其外段々有之る事
一諸被仰出之書付渡候節も繰出等前条之通其節ハ文箱之蓋ニ書付数通次第之通入組口達も相済御奉行より御用番江差出候
 間 此書付不間違様御用番能見しらへ可申候且佐弐役より直ニ差出儀も有之候
 其儘致持参当人江致口達畢而書面相渡候事
 但口達之儀者元来手控なしニ申達候間口達書傍ニ差置候尤事之長キ儀ハ申渡之通ニもいたし候事

 諸々の仰出される書付を渡す節も、繰出等前条の通り其節は文箱の蓋に書付数通次第の通り入れ組み、口達も相済御奉行より御用番へ差出し、 此
 の書付間違わぬ様御用番能く見しらへ申べきこと、且佐弐役より直に差出すことも有ること

 其まま持参いたし、当人へ口達いたし終わって書面を渡す事
 但口達のことは元来手控なしに申達すので、口達書傍に差置くこと尤の事で、長い儀事は申渡し通にもいたす事

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■「初手はの」を読む

2021-08-28 07:16:10 | 自分史

                

 史談会の若い友人・中村君から、先の例会の際「初手はの」という本(上下巻)二冊を頂戴した。
私はこの本の存在はよく知っていた。著編者が同姓であったからだ。明治18年生まれの真藤ミチヨ刀自が口述する久留米地方の様々な話を、娘さんの同アヤさんがまとめられたものである。
日本経済評論社が常民叢書の第一号として昭和55年12月に発刊されたものである。

 その下巻に久留米・真藤家の系図が掲載されている。その出自は、黒田藩の家士であったらしい。二代目が享保16年に久留米藩士となり明治に至っているようだが、初代とされる黒田藩の半右衛門から相当遡らなければ家祖には行きつかないようである。

 福岡市総合図書館に真藤(ア)家文書というものが寄託されている。実は野村望東尼のことを調べようと考えたとき、本当に偶然にこの文書の存在を知った。ここに望東尼に関する資料が含まれていたからだ。
そして寄託した方が同姓であり、ここに真藤に関する家系図その他の資料も残されているらしいが、この真藤家は秋月種実に仕えた矢野藤兵衛を家祖としているらしい。
我が家はもともとは、磯部姓で初代・庄左衛門であり、二代目が母方の姓を継いで真藤とした。
庄左衛門が兄・磯部長五郎と共に豊前に於いて召し出されたのは、元和九年閏八月のことである。
初代は三斎公に随い八代入りしている。二代目が母方の姓を継いだということは、豊前時代に結婚したということであろう。
豊前もしくは筑前に、二代目の生母となる真藤姓の家が存在していたことになる。

幕末の筑前・黒田藩は守旧派と勤皇派の路線争いが激しく、明治維新直前勤皇派は一掃され多くの人が死罪や流罪などに処された。その後すぐに今度は守旧派が同じ目を見ることになった。
勤皇派で流罪の刑になった人の中に、真藤某が居り、望東尼も在った。真藤(ア)家文書の真藤家はこのお宅であろうと推察している。「初手から」の久留米真藤家もここに繋がっているものと思われる。

 福岡市総合図書館に真藤(ア)家文書を拝見に行きたいとずっと思っているが延び延びになってまだ実現していない。
コロナ騒動が落ち着いたら、福岡まで出かけてみようと思っている。

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■「丹後三家物語」11・細川越中守内室大阪屋敷にて自害之事

2021-08-27 11:41:12 | 史料

 奥州會津の城主、長尾喜平治景勝は 時に上杉會津中納言 太閤御他界以後、繼目の御禮延引せり。因茲家康公より
上洛可有由度々使札に及よいへ共、更に承引なかりけり。左あらば景勝退治とて、大軍を催し給ひ、家康
公六月十六日大阪を御進發の時、細川越中守忠興も家康公の御供なり。爰に石田治部少輔三成は、内々家
康公と不和なるが、常に隠謀有けるにや、時節來と悦て、家康と一戦を遂、勝負を可決とぞ勇ける。此
石田三成は江州彦根に於て、僅に十八萬石の所帯なれば家康公に對敵すべき人にはあらねども秀吉公の御
時より五奉行の第一にて諸大名の心入、天下の風味を呑とかや、一味の歴々多かりけり。先七月十九日に
家康公の御留主居佐野肥後守を追ひ拂、其外此度關東下向の諸大名大阪に殘し置妻子達を悉本丸へ取込け
る。爰に越中守忠興の内室をも、城中へ可入とて催促數度に及びけれども曾て承引なかりければ、城より
人數を二千ばかりつかはして、細川の屋敷を取巻ける。内室是を見給ひて只一筋にと思ひ切、十歳の男子
と八歳の女子有しを手づからこれを刺殺、其刀にて自害せり。女性の身のしわざにはたけしとも奇特とも
例しすくなき次第也。忠興留守に殘されし三人の家來は小笠原正齋、河北石見、稲留伊賀といふ者なり、
正齋石見はからひて屋敷に火をかけ兩人も腹切て焔の中へ飛び入ぬ。稲留伊賀はゆへありて大阪いまだ無
事の時より越中に有けるが、主人の妻子自害有て屋敷も灰燼となりければ稲留聞てあきれはてとてもいひ
わけ立かたしと行方しれずに成にける。

   ガラシャ夫人が二人の子供を手にかけたという話はここにも出てきている。いい加減な話に満ちた史料である。

 

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■有吉家文書解説‐「年中行事抜粋」(廿八)堅メ之式書抜

2021-08-27 06:50:00 | 有吉家文書

○堅メ之式書抜

一御條目相渡堅見届候間麻上下着罷出候様前日及達候事
 御條目を相渡し堅く見届けられ、麻裃を着け罷り出る様、前日達しになる事
    但兼而御条目相渡居候御役々ハ堅メ迄見届候
    但兼ねて御条目相渡し居り、御役々は堅め迄見届けること
一此堅メ之儀御殿又ハ政府之差別外ハ同席之同席ニ応候事
 此堅めのことは、御殿又は政府(奉行所)の差別外は、同席(家老)の同席に応じる事
一当日当人出答有之候ヘハ御奉行より文箱之蓋ニ諸書付入御用番江差出候左之通
 当日当人出答が有れば、御奉行より文箱の蓋に諸書付を入れ御用番(月版家老)へ差出すこと左の通り
    一繰出名附
    一誓詞   此三通所ニ鎰々有之
    一前書写
    一御條目
一夫より御目附を呼御用番より右繰出名附等三通相渡候ヘハ口之御間江参当人を口之間衝立外ニ繰付置誓詞板ニ乗硯江添
 此硯等者坊主より持出 御用番座着之向を通り衝立之迦ニ出置御目附猶詰間ニ罷出宜旨御用番江申達候事
 夫より御目附を呼び御用番より右の繰出名附等三通相渡せば、口の御間へ参り当人を口の間衝立の外に繰付置き誓詞板に乗硯添へる
 此硯等は坊主より持出し 御用番座着の向うを通り、衝立の迦に出置き、御目附猶詰間に罷り出宜しき旨御用番へ申達の事
一夫より御用番口之間江罷越西より一間を左江当南より一間を後ニシテ北向ニ座着此座着之間合御尊政府共同様 御條目相
 渡候節ハ文箱蓋
に入なから持参右横ニ差置候事 
 夫より御用番口之間へ罷越し、西より一間を左へ当南より一間を後にして北向に座着、此座着の間合御尊・政府共同様 御條目を渡す節は文箱蓋
 入なから持参、右横に差置く事
 

一御用番坐着之上御目附より当人を繰出候得ハ誓詞之前ニ罷出時宜有之候間一寸会尺いたし候夫より左之通及達候
 御用番坐着の上御目附より当人を繰出されれば、誓詞の前に罷り出お辞儀有れば一寸会釈いたし、夫より左の通り達に及ぶこと
    御條目を相渡候間、夫ニ而拝見之上堅メ之判元見届可申候
       但御条目不相渡節ハ勿論右之口上無之候
    御條目を渡し、夫にて拝見の上堅めの判元を見届けべく申すこと
       但御条目を渡さぬ節は勿論右の口上はないこと
一右之通申渡御條目相渡候間請取元之坐ニ帰拝見之上血判有之候得者御目附誓詞を板ニ載なから持参候間見届之段当人江
 申達左候得者御目附元之坐ニ直リ前書写を当人江相渡当人退去之上詰間江入候事
 右の通り申し渡し、御條目を渡し請取り元の坐に帰り拝見の上、血判があれば御目附誓詞を板に載せなから持参あるを見届け、当人へ申し達し、そ
 うあれば
御目附は元の坐に直リ、前書写を当人へ渡し当人退去の上詰間へ入る事
    但幾人ニても居続ニて手数同断
    但幾人にても居続にて手数は同断
一御用人并御近習一手は直ニ被召出有之由ニ付即日堅メ有之候其外ハ追而堅有之候尤御用之覚旧ニも可応事
 御用人并て御近習一手は直に召し出しが有る由に付、即日堅め有ること、其外は追って堅め有ること、尤御用の覚旧にも応ずべき事
    但御留守年ニても御用人ハ多即日ニ堅有之候尤翌日ニ成候儀も有之事
       天保三年二月五日御備頭澤村宮右衛門堅見届之節機密間より差出之口達書左之通
       御條目相渡之夫ニ而一ト通御拝見可有之直ニ堅之判見届可申候外ニ請場之書付等二通相渡候追而可有拝見
       候以上二月五日

    但御留守年(在府)にても御用人は多く、即日に堅め有ること、尤翌日に成ることも有る事
       天保三年二月五日御備頭澤村宮右衛門堅め見届の節、機密間より差出の口達書左の通
       御條目相渡し夫にて一と通り御拝見有て直に堅めの判を見届け申べきこと、外に請場の書付等に通、渡して追って拝見あるべきこと
       以上二月五日

一御日柄ニても堅不苦例文化五年四月十六日杉浦仁一郎・綾部四郎助御郡代当分被仰付候ニ付於御奉行所堅被仰付候節ニ
 而御奉行奥田権之允
より今日ハ御日柄之事ニ御座候得共先例不苦趣ニ付今日堅被仰付ニ申談候段前以御用番江口達有之
 筈之処無其儀失念之段申述
有之候事
 御日柄にても堅め苦しからぬ例、文化五年四月十六日杉浦仁一郎・綾部四郎助御郡代当分仰付られることに付、御奉行所に於いて堅め仰付られる節
 に
御奉行奥田権之允より、今日は御日柄の事に御座候得共、先例苦しからず趣に付今日堅め仰付られるに申談ずること、前以って御用番へ口達有る
 筈の処、其儀なく失念の段申述べ有る事

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■集英社新書「文豪と俳句 」

2021-08-26 16:39:18 | 書籍・読書

 俳句に関する新刊はないかと見つけていたら、この本を見出した。早速注文をしたところだが、楽しみにしている。
自分自身の俳句は「能力ないな~」と自認することしきりだが、俳句の本は「大好き」で本棚には多くの本が並んでいる。
少々隙間をあけて待つことにする。

   集英社新書<br> 文豪と俳句  

   集英社新書「文豪と俳句 」 岸本 尚毅【著】 価格 ¥1,034(本体¥940)集英社(2021/08発売)

【出版社内容情報】

文豪たちの俳句は、どこか違う。
いや、かなり違う。
             
それをさすがと言うべきか、やっぱり変と言うべきか──。
尾崎紅葉、森鴎外、夏目漱石、内田百間、幸田露伴、横光利一、室生犀星、宮沢賢治、永井荷風、芥川龍之介、泉鏡花、太宰治、川上弘美……。
著者は、近現代の小説家が詠んだ魔訶不思議で奥深い俳句の数々を、ときに芭蕉、虚子といった俳人の名句と比較しながら詳細に読み解いていく。
俳句愛好家、小説好きにはもちろん、教養書としても満足の一冊。

【目次】
はじめに
〈幸田露伴〉の章―─露伴流俳句の楽しみ方
〈尾崎紅葉〉の章―─三十五歳の晩年
〈泉鏡花〉の章―─鏡花的世界の精巧なミニチュア
〈森鴎外〉の章―─陸軍軍医部長の戦場のユーモア
〈芥川龍之介〉の章―─違いのわかる男
〈内田百間〉の章―─「現代随一の文章家」の俳句
〈横光利一〉の章──作中人物に俳句を作らせる
〈宮沢賢治〉の章―─俳句を突き破って現れる詩人の圭角
〈室生犀星〉の章―─美しい「うた」の背景
〈太宰治〉の章―─俳句の向こうに人間が見えてしまう
〈川上弘美〉の章―─小説をヒントに読み解く俳句の謎
〈夏目漱石・永井荷風〉の章―─文豪句合わせ十番勝負
おわりに―─俳句を「読む」ということ

【著者略歴】
岸本尚毅(きしもと なおき)
1961一年、岡山県生まれ。俳人。「天為」「秀」同人。角川俳句賞などの選考委員、「NHK俳句」選者(2018、21年度)、岩手日報・山陽新聞文芸欄選者など。
著書に『生き方としての俳句』、『十七音の可能性』(NHKカルチャーラジオテキスト)、共著『ひらめく!作れる!俳句ドリル』など。俳人協会評論賞、俳人協会新人賞などを受賞。

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