津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

皆中途半端につき・・・

2010-05-31 21:01:12 | 徒然
 1、細川護久家記 ・・ 2
 1、宇土細川家譜
           をタイピング中ですが皆中途半端です。

 1、ある方から八代にある十三重石塔に問い合わせをいただきましたが、
   恥ずかしながら私はその詳細を知りません。
   あわててWEBで調べたりしていますが、大した情報も有りません。
   図書館に出かけて調べようと思っていたら、明日は図書館はお休み・・・
   どうしようかと思案中・・・八代迄走ろうかと思っています。
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春子姫のこと

2010-05-30 22:51:28 | 歴史
5/19のブログでガラシャ夫人の幼名が「春子」であることを書いた。
2CH「細川ガラシャ」に次のような書き込みがあった。
   「784:人間七七四年 05/20(木) 21:22 R89h1NPC
          幼名は「春子」だそうな。」

 読んでいただいて有難うと申上げたいが、それにしても早い。
そろそろ此の名前が歩き出した。出典は「安國寺・土岐系図」と書いていただくとありがたいけど。
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細川護久家記・・ 1

2010-05-30 18:31:51 | 歴史
  細川護久家記 「乾」

 丁卯十月ヨリ戊辰閏四月迄
  御達願伺等并履歴

慶應三年丁卯十月十三日京師ニテ旧幕府大監ノ廻章ニ因リ詰合ノ家老田中典儀二條城ニ至ル 拾満石以上各藩重役一席ニテ閣老板倉伊賀守左之書付ヲ授ケ国家ノ大事件ニ付篤ト熟視シ思慮スル所は聊忌諱ヲ憚ラス建言スヘキ旨ヲ口陳ス
       我 皇国時運ノ沿革ヲ観ルニ昔
       王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ保平ノ乱政
       権武門二移テヨリ祖宗二至リ
       権武門二移テヨリ祖宗二至リ更二
       寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相受我其職ヲ
       奉スト難モ政刑当ヲ失フコト不少今日ノ形勢二
       至候モ畢竟薄徳ノ所致不堪慙懼候
       況ヤ當今外国ノ交際日二盛ナルニヨリ愈
       朝権一途二出不申候テハ綱紀難立候間従
       来ノ舊習ヲ改メ政権ヲ
       朝廷二帰シ廣ク天下ノ公儀ヲ尽シ
       聖断ヲ仰キ同心協力共二
       皇国ヲ保護仕候ハ必ス海外万国ト可並立候 我
       国家二盡所是不過之候 台去猶見込之儀モ
       有之候者聊忌諱ヲ不憚可申聞候
■参考:同上原文■
「臣慶喜、謹テ皇国時運之沿革ヲ考候二、昔シ王網紐ヲ解テ、相家権ヲ執テ、保平之乱、政権武門二移テヨリ祖宗二至リ、更二寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト難モ、政刑当ヲ失フコト不少、今日ノ形成二至候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候。況ヤ当今外国ノ交際日二盛ナルニヨリ、愈朝権一途二出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷二奉帰、広ク天下ノ公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共二皇国ヲ保護仕候ハ、必ス海外万国ト可並立候。臣慶喜、国家二尽ス所、是二不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸候へ相達置候。依之此段謹テ奏聞仕候。以上。詢。 十月十四日  慶喜」


前条ノ書付典儀披閲容易ナラサル事件ニ付退テ熟考シ所存ノ筋モアラハ建言セン事ヲ告テ退ケレ共其翌日ハ右書付奏聞ヲ遂ラレタル由也 扨此席ニテ越中守休息上京スヘキ旨ノ書簡大監ヨリ典儀へ渡ス

十月十五日傳奏日野大納言ヨリ留守居ヲ呼レ左ノ御書付ヲ渡サル
       祖宗以来御委任厚御以来被為在候得共
       方今宇内ノ形勢ヲ考察シ建白ノ旨趣尤ニ
       被 思食候間被 聞食候尚天下共ニ
       心盡力ヲ致シ 皇国ヲ維持可奉安
       宸襟 御沙汰候事
       大事件外夷一條ハ盡衆議其外諸大名
       同被 仰出等者
       朝廷於両役取扱自餘ノ儀ハ召ノ諸侯上
       京ノ上 御決定可有之夫迄ノ処徳川
       支配地市中取締等ハ先是迄ノ通ニテ
       ■テ可及
       御沙汰候事
       別紙之通被 仰出候而者被為在御用
       候間早々上京可有之旨
       御沙汰候事

十月十八日旧幕ヨリ建白如左
       此度
       王制御決定被為在候而者召之御諸侯参着
       之上篤ト衆議ヲ被為尽御綱紀御確定可
       相成儀ニ候得共外国御取扱之儀ハ尤御至重
       之儀ニテ時ヲ不計各國ヨリ申達候事件
       無之共難申候其砌相當之御取扱振
       相立居不申而者自然御不都合ノ儀モ可有
       之其他件々御評決相立不申而者
       朝威ニモ拘リ可申奉存候間差向詰合ノ
       諸侯諸藩士被召集被為盡衆議可
       然哉ト奉存候尤御沙汰次第私儀モ参
       内可仕奉存候此叚奉申上候以上
         十月十八日    慶喜

同廿日傳奏ヨリ留守居ヲ呼レ徳川氏ヨリ伺出ノ積書ヲ與ヘラレ見込ノ趣明朝巳ノ尅迄ニ差上ヘキ旨傳ヘラル
          召ノ諸侯上京迄ノ処取計向伺候廉々
       一當地三ヶ月詰并口々御固大名割御両役ニテ
         御取調ノ上夫々御達相成候哉又ハ是迄ノ
         手續ニテ取調申上候而ハ達方ハ御両役ニテ
         被成候哉
          此儀 朝廷ニハ御手馴ニモ無之御手ニモ被為
          及間敷萬一順番等狂候而ハ如何ニ付幕
          府ニテ御取調相成候ヲ御両役ニテ御達ニ
          相成候方可然見込申候
       一禁裏御料并御入用筋ノ儀御料所は小堀
         數馬ニテ取計御入用筋ハ是迄ノ通ノ取扱ニ
         仕置可申哉
          朝廷ニハ未タ御代官等夫々ノ御役方不被設
          候事ニ付是迄通ノ御取扱ニテ無之候而■
          御■辨リ無可申候
       一大宮御所御造立御入用国役金ノ儀ハ
         既達済ニハ相成居候得共其後収方等
         取扱ノ儀是迄ノ手續ニテ可然候哉左候者
         其段諸大名へ御両役ヨリ御達有之候様
         致度候
          此儀モ前条同様夫々ノ御役無■御手ニ難被及
          可有御■哉ニ付矢張是臣ノ御手續ニテ無之
          候而者辨兼可申候間其段諸候(侯)方ヘハ
          御両役ヨリ被成御座方ト奉存候
       一五街道脇往還宿々人馬ノ儀先是迄ノ道
         被成置候儀ニ御座候ハ其段御両役ヨリ
         御国中へ御觸達候儀可有之哉
          此儀是迄ノ振リニ違ヒ領主々々ノ心々ニ相成
          候者差寄此節 召被應候諸候(侯)方ノ迷
          惑ニモ相成可申候間右同断
       一山城大和近江丹後四ケ国并摂家宮門跡
         堂上方御家領其他寺社領大名領分ニ取扱
         来ル廉々ハ是迄ノ取扱呼出写ハ其主人
         々々掛合可申哉
          朝廷ニ其御役被成御設候迄ハ其迄ノ通ニテ
          無之候而ハ乱妨ノ基タルヘク候間伺ノ通タルへク
          奉存候
       一刑法ノ儀ハ召ノ諸候(侯)上京ノ上御取究可相成ト
         存候得共夫迄ノ処ハ仕来ノ通ニテ宜敷候哉
          御懲戒ハ暫キ難被廃候処
          朝廷往古ノ律ハ方今ノ時宜ニ協不申儀モ可有
          之候間追テ御取究迄ハ仕来ノ通タルヘクト
          奉存候
       一所司代并戸田大和守御附両人動向ハ先是迄
         ノ通ニテ宜敷候哉
          本文ノ役ニ如何様ノ動向■委ク不■■■ 
          候間如何様共見込付兼申候
       一兵庫開港ニ付金札通用ノ儀ハ諸人百姓融
        通ノ為ニテ既ニ申上済ニテ出来相成居候間通
        用相成候様仕度候
          金札ハ軽便ノ物ニ有之候得共現金ニテ融
          通不致訳ハ無ク自然ハ幕府ノ疲■ヨリ
          起候儀ニハ無之哉然ルニ改権奉還ノ上モ
          其侭融通被仰付候者列侯方各願立ニ相
          成候ハ必定ニテ是又不致差許而者難相成
          往々外夷へ被對候而者別テ混雑ヲ呈シ可申歟
          依之追テハ當時ノ札ヲ
          朝廷ノ御札ニモ可被成候得共先此侭致閣
          列侯方ノ御願ハ堅致禁候方歟此一条者
          桂念不少奉為候間篤ト御衆評■■
          ■候

右見込ノ趣朱書ヲ以テ十月廿一日
御所へ留守居持参差上退ク時傳奏ヨリ左ノ御書付與ヘラレ明日中ニ答書差上ヘキ旨傳ヘラル
   一近々上坂ノ聞有之候実美以下脱走人ノ事
   一外国ノ事
  右尚 召ノ諸侯上京公論衆議ノ上決定ニ
  相成候得共先差向取扱ノ處尋被下候事
          
     
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只今3,900円

2010-05-29 15:44:36 | 徒然
                      写真をクリックすると画面が大きくなります。
 ヤフーオークションにこのようなものが出ていた。

出品者の説明には次のようにある。
「文久元年十月の熊本藩より長州下関までの所用に伴う士分の通行手形です。
 細川越中当(守)門永屋猪兵衛と言う方は、万延元年から元治元年までの5年間山鹿郡代を
 努められた方で、明治戊辰の年、官軍側にて桑名討伐時、熊本藩の参謀を努められた方です。
 細川越中は、13代細川斉護公です。尚、文久三年六月に長州が英国艦砲撃を実行した2年前
 ですので、その事案に何か関係があるのではないでしょうか?資料的一品だと思います。」

 特段珍しいものではないが、「何の御用で?」という思いがする。
 旅をした今井喜兵衛についてはよく判らない。
    (ご子孫が判明しました。よく存じ上げている方で電話をいただきびっくりしました。23:10追記)

           往来
            細川越中守歩行之者今井喜平
            就用事長州下ノ関へ罷越候往来
            無夫儀御通可被下候以上
                  細川越中守内
            文久元年十月  永屋猪兵衛
             所之
              御改所
        (訓下し・津々堂)

 永屋猪兵衛
   永屋雲洞 名は昌知、通称猪兵衛、後伊平と改め雲洞と号す。藩に仕へ世禄二百石、奉
   行兼用人たり。明治戊辰世子に従ひ上京し官軍の桑名を討つや藩隊の参謀となりて之を
   援く。明治十七年七月没す。年六十八。墓は春日萬日山。

   万延元年十二月~元治元年四月 山本郡代(山鹿郡兼)
      同上          山鹿郡代(山本郡兼)
   慶応三年二月(大阪詰)~明治二年二月 奉行副役

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読んでみるか・・・蘇峰

2010-05-28 17:50:17 | 徒然
 最近徳富蘇峰の『近世日本国民史』を読んでみようかと想ったりしている。大正7年(1918年)に起稿し、昭和27年(1952年)に完結、織田信長の時代から西南戦争まで全100巻にまとめた膨大な史書である。

 私が中学生の時代をすごした学校のすぐ近所に、蘇峰が開いた「大江義塾」跡がある。
       www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/93_104_o.htm
29年(大水害の翌年)に入学したのだが、戦後のことだから元気な教師がいて、「蘇峰は戦争をあおった戦争犯罪人だ」と広言してはばからなかった。それが刷り込まれてしまっているので、どうもこの人は好きになれない。(蘆花の方がいい)

 『近世日本国民史』を読む分には関係なかろう。どの位の分量があるのかさえ判らないが、チャレンジしてみようかと考えている。
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細川内膳家の家紋

2010-05-28 17:24:21 | 徒然
                      熊本城の軒瓦--桔梗紋(熊本市HPより引用)
細川内膳家とは忠興の嫡男・忠隆の家系をさす。忠隆の孫に当る四代目・忠孝が内膳を名乗り、後代々の当主が内膳を名乗ったことからそう呼ばれている。
昨日土岐(明智)系図についてコメントしたが、ガラシャ夫人の血を間違いなく純粋に受け継いでいるのがこの内膳家である。そして家紋は桔梗紋である。

 忠興は忠隆を廃嫡後二十年程会うことを避けていたが(?)、寛永三年に再会この折に九曜紋を定紋とすることを認めている。「肥陽諸士鑑」はずっと後の時代のものだが、ここには紋は「桔梗紋」が記されている。しかし「明智桔梗」とよばれる桔梗紋ではなく、いかにも桔梗の花を思わせる「陰桔梗紋(?)」である。熊本城の軒瓦も桔梗紋(加藤家紋--旧・尾藤家の紋)だが、内膳家の紋によく似ていて、我々がよく承知している桔梗紋とは少し趣を異にして入る。

 【余談】 忠興は八代城を忠隆に継がせようとしている。しかし忠隆はこれを断っている。徳川家家臣となるべく忠利・光尚に尽力を頼んで進捗していたが、忠隆の死去(正保三年)に伴い頓挫してしまった。遣命により嫡男・忠恒(二代)、二男・忠春(三代)は家臣として仕える事になる。男系でガラシャの血は現在に受け継がれている。
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土岐系図

2010-05-27 18:58:23 | 歴史
 先にお訪ねした安國寺が所蔵されている土岐系図である。三宅家(明智左馬介系)から納められたものだが、それは安國寺の開祖・明厳梵徹和尚が明智光秀の末子であることによる。
ご紹介する写真はガラシャ夫人にかかわる部分(左ページ中央部)だが、今迄承知していなかった夫人の幼名がある。

            女子 細川越中守忠興室   幼名春子後ニ於玉ノ方ト云
            永禄七年正月十一日生母ハ牧ノ方也天正七年二月廿六日忠興ニ嫁ス
            慶長五年七月十七日於大阪自害ス年三十七
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細川護久家記

2010-05-27 18:05:13 | 徒然
 細川家譜は「廃藩置県」をもって終了している。これとは別に「細川護久家記」なるものが残されている。上下二巻は「乾」「坤」と名付けられており、上巻「乾」は115頁、下巻「坤」は明治7年から16年までの追記で88頁に及ぶものである。家譜では窺えない記録が見える。そして家譜の終了で途切れた細川家の歴史がここで又つながった。

 延べ200頁ほどだが一ト月はかかるなーと想いながら、またムズムズしてきた。
・・さてどうするか・・
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真偽のほどは?

2010-05-27 09:48:30 | 歴史
 「二天記」の次の記述については疑義がもたれている。

【又宮本次郎太夫ト云シモ武藏ノ親族ニテ無二ノ門弟ナリ 當理流稽古有テ相傳ノ卷物ミエタリ
 是ハ豐前ニ於テ忠利公三百石賜リ召抱ヘラル 宮本家ノコト爰ニ不記】

 武蔵の親族であったかどうかの真偽の程は武蔵研究家に委ねるとして、次郎大夫の召し出しに関しては下記資料からして明らかに間違っている。
                            甥        小幡氏
 宮本賢立---+--総兵衛===伝右衛門====伝右衛門===善右衛門・・・・・・・・・→宮本傳蔵家
         |           ↑
         +--伝右衛門・・・・・・
             次郎大夫

■賢立(賢三)宮本賢立知行打渡(天正十九年)        
  宮本賢立浪人ニ而京都に居住、幽斎様御目を被懸、御出入仕、連歌御興行なと度々被召
  寄候、其後天正三年毛利輝元ニ二百石ニ而有付、長州下関に居住、船手之役を勤申候

■総兵衛(傳兵衛)         
  賢立子宮本総兵衛文禄元年九月、三斎様高麗御出陳之節、下関ニ而右賢立以来之訳を以、
  惣兵衛所ニ御宿被成候、其節御渡海の御船、公儀より相渡候船数極り有之、御人数乗組
  の御手支ニ成候にて、御内証より総兵衛ニ被仰付、則御肝煎申上、不足分之御船才覚を
  以御つかへニ不成様御用に立申候由、此故を以御帰国以後、三斎様より段々御目を被掛
  候、然処様子有之、右総兵衛并弟次郎大夫兄弟共ニ慶長五年十一月下関を立退、直ニ丹
  後に罷越奉願候ニ付、豊前御入国後知行三百石被下候  (綿考輯録巻11-P110)
       細川忠興御書出(慶長十七年)三百石--豊前
       宮本惣兵衛知行目録(慶長十七年) 
   
■傳右衛門(実・弟 次郎大夫)  
    (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
    (2)長岡帯刀組 御合力米 十五石 (寛文四年六月・御侍帳)
        細川忠興御書出(元和二年)三百石
        宮本次郎大夫知行目録(元和二年)

  ・山本博文著「江戸城の宮廷政治」より          
    光尚の男子は夭折し後、室禰々も死去するが、禰々の産後の状態は忠興には報告されてい
    なかった。これは光尚の意向であったというが、忠興は激怒し禰々附の次郎大夫夫妻の扶持
    を召し放った。次郎大夫は一言の言い訳もせず、豊後鶴崎居住を願い出た。忠興の勘気のと
    けぬまま光尚、忠興が死去し次郎大夫の召し出しの機会は失われた。

  ・寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)          
        中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
        従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事

  ・関係文書 雑撰録-巻20 「宮本次郎太夫事」    
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錦旗

2010-05-26 20:49:07 | 歴史


                        宮さん宮さんお馬の前に
                        ヒラヒラするのは何じやいな
                        トコトンヤレ、トンヤレナ
                        あれは朝敵征伐せよとの
                        錦の御旗じや知らないか
                        トコトンヤレ、トンヤレナ

 戊辰戦争に於ける「錦旗」の威力は、精神的な重圧として幕府軍(賊軍とはあえて書かない)に大きく作用している。岩倉具視の側近玉松操のデザインだというが、発案者は岩倉なのだろうか、うまいことを考えたものではある。
            ja.wikipedia.org/wiki/錦の御旗

 国立公文書館・デジタルギャラリー で「戊辰所用錦旗及軍旗真図」などを見ることができるが、ウイキペディアで紹介されている写真もここから引用されたものであろう。
山口県関係のサイトを見ると、「錦旗」は岩倉家・有栖川家に一旒づつ残されているようだ。

                  
 細川家には頼有が後小松天皇から下されたという「錦旗」が残されている。
こちらは錦織の生地を二枚中央で縫い合わせてあり、下方約1/4がスリット状に成っている。上部に金色の日輪が配されその下に二列右に天照皇大神、左に八幡大菩薩とこれも金文字で書かれている。細川家譜-頼有譜には「元中七年(明徳元年)備中二万山二軍功アリテ、翌年三月十日鹿苑院義満ヨリ備後国ノ内八ヶ所ノ地ヲ宛行ウ、マタ三五ノ桐ノ紋ヲ免サレ後小松帝ヨリ錦旗ヲ下賜サル」とある。
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サイト改修工事完了

2010-05-26 17:17:00 | 徒然
 各位様

 なんとも不細工なサイトに長くお付き合いいただいておりましたが、今般いささか改修工事にかかり
本日一応UPいたしました。調整のため不具合が出るかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

                                         管理人・津々堂
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明治維新を読む・・ 5

2010-05-26 08:42:34 | 書籍・読書
天皇の世紀〈1〉黒船
大佛 次郎
朝日新聞社

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              第一巻  黒船
              第二巻  大獄
              第三巻  有志者
              第四巻  攘夷
              第五巻  長州
              第六巻  奇兵隊
              第七巻  大政奉還
              第八巻  江戸攻め
              第九巻  武士の城
              第十巻  金城自壊


私は初版本(昭和44~49年)を持っていたのですが、引越しの際処分してしまいました。交通事故で三週間ほど入院した際一生懸命読んだ
ものですが完読には至りませんでした。再度チャレンジです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 文藝春秋社からも文庫判(文春文庫)で全12巻、毎月順次刊行されました。
 (第一巻:2010年01月10日 初版)一年がかりで読みましょうか・・・

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明治維新を読む・・ 4

2010-05-25 20:42:20 | 書籍・読書
坂本龍馬と明治維新
マリアス・B. ジャンセン
時事通信出版局

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【内容】(「BOOK」データベースより)
時空を越え、波頭を越えて蘇る等身大の龍馬像!龍馬の原点はここに―。司馬遼太郎氏が『竜馬がゆく』執筆の際、最も参考にしたといわれるファン待望の名著、完全復活。

【著者略歴】 (「BOOK著者紹介情報」より)
■平尾 道雄
明治33年生、大正12年日本大学宗教科を中退して、侯爵山内家家史編修所に入り、史学専攻、著述に従事し、昭和27年高知新聞社嘱託となる。高知大学、高知女子大学の講師、四国学院大学教授などを勤め、現在に至る。昭和54年5月17日、高知市で歿

■浜田 亀吉
明治18年高知市新町に誕生、市立商業学校卒業後、明治42年渡米、各地に労働苦学して大正15年帰国。平凡社英和辞典や英文毎日の編集に参加した。昭和37年11月23日、高知市山手町で歿

            先の「龍馬復活」でご紹介した本です。

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龍馬復活

2010-05-25 16:44:18 | 徒然
 大河ドラマ「龍馬伝」でまたぞろ龍馬人気が復活した。龍馬の人気は、司馬遼太郎の長編小説『竜馬がゆく』によるものであることは何方にも異存ないところであろう。この小説は「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から約四年に渡り連載され、其の途中1963年から追いかけるように単行本が発刊された。私も無我夢中で呼んだものだ。昭和54(1979)年5月17日私は平山道雄著「坂本龍馬・海援隊始末記」を購入した。奇しくもその日に平尾氏が亡くなられた。「翌朝の新聞にて五月十七日平尾道雄死去さるを知る、奇しき事」と本に書き込み、新聞の死亡記事を切り抜いて挟んでいる。この原本に当るものは昭和四年発刊だそうだが、司馬氏もこの本を随分読み込まれたらしい。またこの平尾氏と浜田亀吉氏の訳によるアルマス・B・ジャンセン著の『坂本龍馬と明治維新』(原本・Sakamoto Ryoma and the Meiji Restoration)を、司馬氏は一気呵成に読んだと語っている。最近想い至って早速購入の手配をした。
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明治維新を読む・・ 3

2010-05-25 09:13:21 | 歴史
戊辰戦争―敗者の明治維新 (中公新書 (455))
佐々木 克
中央公論新社

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