津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

愚隠押籠の訳

2009-05-31 18:48:52 | 歴史
 内膳家四代忠季(忠重)は、宝永五年(1708)隠居して愚隠と称した。手の病であったとされる。嫡子忠英(忠雄--後、時習館惣教)は十歳であった。細川家家記は「享保三年(1718)五月廿八日、忠季愚隠故アリテ、ソノ子忠英ニ預ケ押籠ラル」と記す。さて此の原因は何だろうと思って「細川忠雄家譜」を読み出したのだが、さすがに書いてない。細川本家は此の時期、内膳家をかなり好意的に遇している。そんな中での出来事である。原因は何か、そしてその期間はどのくらいであったのか、興味は尽きない。愚隠は元文四年(1739)五月、六十三歳で歿している。
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「江戸の風格」

2009-05-31 14:35:37 | 書籍・読書

江戸の風格

著者:  野口武彦 
出版社名:日本経済新聞出版社
販売価格:1,575円(税込)

東京には時間の古層へ降り立つマンホールの蓋が散在する―
その見えない入り口、江戸の詩歌・随想・戯作に導かれ時空を
旅するコラム集。近年の礼賛本に背を向け江戸のアブナイ本質
に迫る毒のある東京案内決定版!!
江戸・東京の変化の様子がわかる地図数枚を挟み込み、地名
や言葉で江戸をたどれるよう索引も充実。


【目次】
見えない入り口に導かれて

第一章 江戸の風光をめぐる
第二章 江戸の風姿をたずねる
第三章 江戸の風趣をあじわう
第四章 江戸の風聞をたどる

●地図
●索引


 私は東京生まれなのだが、祖父母・父を亡くして父祖の地に帰った。以来熊本ジゴロウである。最近無性に東京へ出たいと考える時が有る。一月ばかり時間を作って、切絵図を小脇に抱えていろいろな所を尋ねてみたいという、密かな想いである。叶わぬ事と判っているから、勢いこういう本が出ると飛びついてしまう。今日の熊本日日新聞の「読書・BOOK」欄に山本博文先生の評でこの本が紹介されているが。なかなかの好書、ご一読をお薦めする。

コメント (2)

本日多忙二付キ

2009-05-30 18:13:45 | 徒然
 午前中は熊本史談会の例会、午後二時~五時までは熊本大学永青文庫センター設立記念講演会出席、実り多い一日を過した。後者の永青文庫設立記念講演会は、主催者の発言にあったように学外からの出席者が多く、250程の座席が埋ってしまった。一般市民のこのセンター設立に対する期待の大きさが伺えたし、夫々の講演も大変満足いくものであった。
そして私は又出かけなければ成らない。今日の「米田家家臣中山宗俊覚書」は、■ だらけで誠に申し訳ないが、今日の仕事として一応UPすることにした。(チェックは明日以降とさせていただきます 深謝)
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米田家臣中山宗俊覚書 (二)

2009-05-30 18:11:56 | 歴史
一 明智日向守殿謀反之刻忠興公御前様丹後國山中に御送被遊候
  儀ハ天正十年夏信長公信忠公御父子様御上洛忠興公備中
  國高松城為御加勢被成筈にて御用意調候上信長公御
  
  父子様御上洛を被聞召米田壱岐守者佐久間甚九郎御勘気
  御許有て今度信長様へ可為御供旨求政へ御密用被仰付
  五月末丹後より上洛仕求政は京今出川相國寺門前の屋敷に
  着仕の処に六月二日の大騒動なり此時求政は次田ィ男藤十郎私云後与左衛門
   貞正于今十二歳
相國寺塔中唯長老に入学の兼約有て幸と召連
  罷登居候又早田道鬼齊と云武功の牢人を育置是も同道にて相登
  り候道鬼齊ハ上方にも無隠大達者ものなり信長公御父子様御自害
  の時丹後への注進に則道鬼斎を申付差下候口上ハ今度の大変永禄
  八年以来の今日にて御座候御高恩の信長公の御事に御座候間讐

  を被報度可被思召候得共御勢微にして御一身乃働に不成事に候
  第一敵味方ともに不分明世中に候求政とくと様子を伺一両日
  中に帰国可仕候夫迄は下への御出勢を被止御蟄居可然旨注進
  仕候右道鬼齊十六里の道を三時余りに駆付候此時之儀丹後に
  て注進之有之候得共求政カ注進より先に風聞も無之由候藤
  孝様御父子様御前にて米田助左衛門御用に付罷出申候此注進を
  被聞召御父子暫時無御云葉御憾慟御悌泣無限御様子に■
  良久敷して忠興様被仰候ハ如此成悪逆無道不仁者に縁を組て
  の人の舌頭に懸る事無是非被思召候由御述懐至極被遊候是

  政も共に忙然たり是政申上候ハ光秀の悪逆無道前以察知す
  へき様なし光秀の常道時の御縁結なれハ無力事にて候自己
  の道を守るより外無他儀と申候忠興公御意にて不仁者の子
  なれハ内室にハ難成候然共日本に身を可拠所もなく独身者
  なり如何可被成哉と御意なり是政申上候ハ我妻ハ光秀妻女の
  兄弟也藤孝様御夫婦様被聘て嫁申候私以御同意にて候先私
  領之内山谷中三戸屋に有徳成山伏あり功者ものにて候此山伏
  宅に暫蟄居可然と申上る藤孝様も可然と被仰此儀決定し
  河喜多五郎右衛門後石見明智家より附参候勇の者なり其外一両■是政の妻女并
  是政の家老木崎大炊助夫婦小川権六 小川権六と云ハ是政妻女の親族なり佐々木家の  
   末葉武功の者也 / 又木崎大炊助も隠なき武勇の誉れある者也大炊助死後に妻女ハ  山姥の名得たる奇怪の女也 
   後ハ山に入二度行方不知也 大炊助男木崎縫殿介と云者ハ一色義有御討果の時真下
   梶之助宮津を切抜一宮居城弓の木へ一騎歸候に米田助右衛門鈴峠にて出合助右衛門馬上より 
   梶之助を鑓にて突倒候縫殿助真下の首を取に懸候処を真下突伏られるなり鑓の
   柄をたくりより木崎の膝頭をわり付候去とも真下は首を取手拭にて膝頭を巻馬
   上にて弓木に駆付先城中の水の手を一番に取切人を付置大手へ廻り笠を出
   し城中を招き人数の命を助可申と和を入一色後室御男子を無恙請取申候其
   後縫殿介を忠興公御仕立被成有馬の湯に疵為養生被遣無程平愈夫より直に智音あつて
   堺へ来り塩風呂へ入疵の口より血出堺にて果候縫殿介の男木崎牛之助と申者ハ豊前にて監物是
   季御當家を退候時分京迄跡をしたひ上京して監物へ暇乞仕罷下候監物様置候家臣
   共不残御直ニ被召出先知被下候牛之助も被召出筈之処相家老塩木左助と云もの讒言申上牛
   之助不被召出候此左助後入道仕浄林と申候北の丸御番被仰付置候を御堀を越石垣を傳
   ひ上り御櫓に乗込浄林を討果し申候御城内に忍入候罪によりて虎責に被仰付虎の
   首に抱き付虎を扑殺す後に牛割に被仰付候強力世に隠なき事也
 等を御
  附山中に被送山伏宅に蟄居なり其後秀吉公の依命て再会前々の

  ことく御成候慶長五年石田三成謀反の時関東出勢の諸将の妻子
  を大坂城中に取込申由に付忠興様御留守を守る者共の内小笠原
  正斎秀林院様へ御添キ被成也御供可仕旨申上候へは曽て無御承引
  亡父天魔の所為にや不思議に天下に悪名を残し候事無是非候事也
  我女なから可死すをのかれ落人と成忠興公へ對面すへき様なし正斎介錯
  仕れ石見死骸を隠し家に火を懸よとの御意なり石見御尤至極死
  出三途の御供可仕と申上候其時助左衛門是政の妻女の妹おしもと申婦人
  附居申候此女ハ江州和泉の城主入江兵衛尉と申者の妻女也兵衛尉今入江傳左衛門祖   
   父仁左衛門と申者の父なり
山崎合戦ニ討死後家と成由緒を以今秀林院様へ

  来居申候其まヽ死用意をして罷出候処に秀林院様被仰候ハ此有様を
  誰か忠興公其外子共へ傳へ聞を可申者もなく候現世後世迄の厚恩
  に思召候旨此遺言夫々の形見忠興公其外与一郎忠隆与五郎興秋光
  千代忠利後内記又改越中守私云御系図ニハ御幼名阿光とあり無恙帰陣の上津ふさに傳候ハゝ如何
  計なる安堵にて可有之候と偏に頼思召の由にて無是非御形見の品を
  御遺書を請取奴婢に形をかへ忍ひ出頓て御帰陳の上御遺戒のことく
  申届候御自害の説色々申すなし候おしもより外に慥成訳知ハ無之候天下に貞女の御   
  名を残され香敷佳名を止られたる也憾慟々々
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米田家臣中山宗俊覚書 (一)

2009-05-29 13:27:42 | 歴史
綿考輯録によく引用されているのが、この「米田家臣中山宗俊覚書」である。今回はこれをご紹介したい。

          米田家臣中山宗俊覚書

一 幽齋様 公方家にて御知行の事天文五年冬将軍
   義晴公の御嫡子十一歳にて御元服義藤公と奉申被任
   征夷将軍後義輝公此年幽齋様十三歳にて御元服藤
   の御一字御拝領藤孝と御改為御鼻紙料江州大津辺坂本
   にて御知行三百石御拝領其後 公方義昭公永禄十一年
   御帰洛被任征夷将軍永禄の依勲功岩成主税助か出城青龍
   寺を被進候是迄ハ 公方家より御恩地也其後元亀四年天
   正改元西郊桂川を限り三十余郷一職等信長公より御恩地也

一 幽齋様實ハ 公方義晴公の御子也此段舟橋家に詳也以前ハ
   船橋家を高倉と申候此時より舟橋に改りて今船橋と申候其
   比船橋環翠軒宗尤実名宣賢公と申候宣賢公息女後
   号智慶院殿 公方義晴公の宿直等被成懐妊なり然処に
   後奈良院より近衛尚通公の女を義昭公に被聘之不能辞叓
   して懐妊智慶院殿を三渕伊賀守晴員後妻に被下候也      
   晴員居宅は室町花の御御所近隣といへとも本宅へハ不入置は懐
   婦を東山の麓黒崎の別墅 藤孝公栄産の地之其後若狭少将木下勝俊入道長嘯遁世の地と成暫蟄居之由 其後
   聴松院と云寺に成南禅寺塔中に今存せり幽齋様ハ義輝公ハ二歳の御兄なり
 に被移置て晴員無逢見栄産

   あつて暫して被嫁なり世挙て晴員の貞心を令感
   心となり藤孝公五歳の時初て義晴公御對面其後
   公方御所并船橋家にて御養育と云御成長に随て
   船橋家にて御勧学なり米田壱岐守求政ハ船橋家縁
   属の盟有にて藤孝公と学友之求政藤孝公にハ九ッにて
   公方御膳番たると也又天文十九年藤孝公十七歳の御歳
   公方義晴公薨し賜ひ夫より 公方義輝公へ御近臣也船
   橋宣賢公其男業賢公其男枝賢公其男秀賢公の室者
   佐々木越中守娘なり越中守室壽光院殿と申ハ藤孝公の姉

   君也佐々木没落の後ハ丹後國へ御呼下し御養置候則息女
   を三齋様御猶子に被成右秀賢公へ被嫁に付秀賢公ハ
   三齋様御婿の御盟なり秀賢公の男秀相公の室寂照
   院殿と申ハ吉田の神主三位兼治卿の娘なり寂照院殿御
   母堂は幽齋様の御息女にて丹後屋形一色五郎義有
   後左兵衛尉と云へりの御後室浄勝院殿也
一 右一色殿御後室浄勝院笹原五右衛門と申仁に被嫁候由申候
   得共虚説にて候一色殿御果被成候て脇へ終に不被嫁直に二位
   殿へ再縁之 篠原五右衛門と申は飯川豊前古名と承傳候飯川

   は治部三郎左衛門婿にて沼田上野介光兼の孫婿にて候
                        或ハ曰治部三郎左衛門藤通の娘ハ沼田上野介光長妻とあり
一 浄勝院殿一色殿にて御男子一人御出生候是ハ愛宕山福壽院幸
   能と申候幸隆様の後住に被成候幸隆様ハ 後還俗被成妙庵様と申豊前へ御呼下竜王之城に
   て御死去筑紫左近室御兼様と申ハ妙庵様の御息女なり
 妙庵様ハ三齋様御舎弟にて候福
   壽院幸能法印と申ハ一色殿一人の御男子にて候其跡ハ皆吉田
   兼治公にて八人御男子御女子御誕生候男子一人二位殿家督
   吉田神主左馬佐兼英と云一人ハ豊国大明神の神主萩原右衛門督萩原兼従
   末子一人福壽院住持幸賢法印也幸能法印の後住に御

   成候女子一人長束大蔵正家男長束半左衛門に嫁す慶長
   五年関ヶ原没落の後田中半左衛門と改丹後へ御呼取御養
   育田中元祖又助父之一人ハ阿野中納言殿に嫁す一人ハ船
   橋従三位秀相公へ嫁す是寂照院殿之一人ハ小笠原備前
   長元に嫁す一人ハ清田石見に嫁す浄勝院殿一腹九人御出
   世の内一人ハ一色殿其外の八人者二位殿にての御子也
一 一色殿御討果被成候ハ天正九年九月と云説有り異説之天正
   九年ハ御縁結此年御婚姻と之三年婿入なくて剰(アマツサエ)天正十
   一年志津嶽合戦に中川瀬兵衛討死秀吉方惣軍勢負

   軍と云沙汰有此時忠興公ハ水軍の御用意にて御船にて越國へ
   御迫り被成候処に其留守を被躊躇一色殿より軍船を被廻候然処
   に秀吉公大キに被得勝利天下一統秀吉公の手に随ひ候由に付
   夫より別て色立御隔意成様子に成候に付壱岐守謀略を尽
   し宮津へ婿入さ世まし御討果し被成候天正十一年九月と申候
   此一条十一年ハ非之御系譜ニモ十年トアリ
   日は不詳也 私考或云天正九年五月嫁娶同十年九月八日被害と云う 此一巻事長し爰に省略之
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Q&A 飯河妙佐

2009-05-29 08:41:41 | 歴史
「飯河妙佐と飯河豊前・肥後親子との関係ありや」とのご質問をいただいた。

飯河妙佐は清原宣賢の男である。ゆえに細川藤孝の叔父ということになる。
何故飯河氏を名乗ったかについては、承知していない。
一方飯河豊前・肥後父子は、沼田光兼の女婿である飯河山城守信堅の子・孫に当る。
原因がよくわからないが忠興の手により誅伐された。
そんな二人は幽齋からすれば、正室麝香の姉の子・孫ということになる。
飯河豊前は忠興とは従兄弟と言う間柄である。


 清原宣賢---+--業賢---枝賢---国賢
         |       
         +--兼右
         |
         +--(飯河)妙佐 長岡治部少輔秋共 
         |          
         +----女            
              ∥-----細川藤孝
          三渕晴員       ∥----忠興              
                  +---麝香                
                  |
                  +----●               長岡賜姓
                  |   ∥----飯河宗祐(豊前)---宗信(肥後)
                  | 飯河信堅       忠興により誅伐さる
                  |
          沼田光兼---+---光延---延元

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講演会二件

2009-05-28 18:29:57 | 歴史
   ※ 熊本大学・永青文庫研究センター 設立記念講演会
         日時 2009年5月30日 (土)14:00~
         場所 熊本大学工学部百周年記念館 入場無料
 
 ■細川家と対外貿易    元・東京大学史料編纂所教授 加藤榮一 氏
 ■永青文庫資料の構成と歴史的位置  熊本大学准教授 稲葉継陽 氏
 ■熊本藩の地域行政と日本近代     熊本大学教授   吉村豊雄 氏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   ※ 熊本史学会総会
         日時 2009年6月6日(土)13:00~16:50
         場所 熊本県立図書館 大研修室(3階)
  《総会》(13:00~13:20) 非会員入場不可

  《研究発表》(13:20~15:30) 以下は非会員でも講聴可能だそうです。(無料)
 ■肥後細川家における系譜認識とその変遷について
           - 幽斎養父論をめぐる諸問題 -      山田貴司 氏
 ■近世の清正公信仰 - 二百年遠忌を中心に -       福西大輔 氏

  《特別講演》(15:40~16:50)
 ■近世肥後における伝統的河川工法の特徴と課題     大本照憲 氏
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お志も覚書

2009-05-28 09:11:52 | 歴史
 通常「霜女覚書」とよばれる書状は、その上包には「志う里ん院様御最後ノ覚書 志も 上ル」と書かれている。「お志も覚書」が本当だということになる。日頃この書状は活字化されたものに親しんでいるが、上妻文庫に上妻先生の写しがあり私はこれをコピーして持っている。これを読んでいると改めて上妻先生のすごさに驚嘆してしまう。写しの後書きに次のようにあった。

     右自筆之書付御花畑御蔵于今に至之由
 覚書ハ九条アリテ一行廿ニ三文字詰七十三行アリ字ノ大サ五分四角位 覚書ハ長サ
 五尺位幅一尺位延形日本紙ナリ
 以上朱書 昭和卅二年五月十二日鶴屋百貨店六階細川家家宝展ノ時写ス
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり上妻先生は、昭和32年地元の百貨店で催された細川家の家宝展で、志もの書状に出会い現場でこれを写し取られている。なんという凄さだろうか。そして頭書には次のように記されていたとされる。

     お志も覚書
   志由う里んゐんさ満御者奈され候志たいの事 (原書ニハ朱書ノ字体ニ書かれたり)
   志う里んゐん様御者て被成候次第乃事

真実を後世に伝える為に、寸分の間違いも許さないとされる先生の声を聞いたような気がする。
心すべし。
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細川内膳家・家譜 その十二(了)

2009-05-28 08:00:29 | 歴史
     一、宝永六年 友山様御不例御養生不
        被為叶五月朔日御遠行被成候松雲院殿
        春艘叟友山大居士ト奉号刻瑞岩寺ニ
        奉葬御遺骨ハ高野山織院奉納
     一、友山様御存生之内松井直之殿米田
        是庸殿を以御頼被成候者御家来共

        友山様御死後ハ御本家ニ被 召出往二
        被 召仕被下候様を御頼被置 綱利公
        夕山様之邸江御光駕之時も御茶之時
        数奇屋二而御直ニ被仰上候ハ速二頼置候
        家来共事ハ安心仕置度奉存候由被
        御意候右之通故宝永六年九月十七日
        士中をハ月番御家老之宅江被 召■
        輩ハ御奉行所江被 召出候而被 仰渡有之

          百六拾石       木村三郎右衛門
          百石          草刈作太夫
          百五十石       松本武右衛門
          百石          愛敬四郎助
          同            安藤善兵衛
          七拾石         草刈彦之進
          同            江上弥兵衛
        右之分御知行被下候
          五人扶持弐拾石   高井彦右衛門

          同           植野惣左衛門
        右御中小姓ニ被仰付候此奉ニ而中小姓なり
          三人扶持拾石    和斎権兵衛
          同           荒木吉右衛門
          同           富田助之允
          同           吉住角右衛門
        此両人は■連御■ニ而出候 何レも歩小
        姓ニ被召出候此方ニ而歩小姓也

     一、友山様御側ニ被召候女中津まと申候
        者是も■連御頼被成候処住人扶持被為拝領
        尼ニ成候而恵性ト申候後養子をし濱路喜
        三郎後七郎助ト申候両一性由緒ニ依而
        御本家様ニ被召出御中小姓迄ニ相成申候
     一、享保元年九月廿三日千葉城之邸
        御長屋より出火不残灰塵と成り御城
        下タ故別而御心遣被成候火慎り月番之
        御家老、物頭使者を以焼失之御達

        且又 御差扣之御伺被成候処御差扣
        ニハ不及由ニ而御座候事
     一、延享五年寛延ト改元今年十一月十九日
        重賢公杉水原御網懸御猟之時
        忠英公御誘引之節御■向ニ而此方御
        家来網懸巧者成ル者江御案内仕候様被
        仰出候二つき津幡十右衛門を忠英公
        重賢公之御目通ニ被■召候而御案内

        罷出候様被 仰付候依之津幡十左衛門坂井
        勘吾 右両人御先二立御案内仕候此節
        太守様御前ニ而御用人奥村安左衛門殿
        御小姓頭益田弥一右衛門殿江 忠英公被
        仰候ハ手前家来此邊勝手能存候
        者ニご案内仕候様被 仰付候間直ニ申
        付候 御聞置候様ニと被仰付候是ハ前々
        より御■向等者別而 太守様御目

        通ニ此方御家来は出来り候事故無
        御遠慮被 仰付け候由御噂被遊候此節
        御中小姓頭は岩越惣左衛門殿御使番ハ
        内山浅右衛門殿ニ而御座候由之事
     一、太守様御■駕之節此方様前々より
        佐野之御間ニ而御暇乞相済来り候
        書宝暦七丑年三月朔日御■駕

        之節より御玄関前ニ御出■被成候
        様ニ相成候

                (了)       
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柴任三左衛門の墓

2009-05-27 17:31:19 | 歴史
 在熊の宮本武蔵研究家・福田正秀氏からメールをいただいた。以前氏から柴任三左衛門のお墓が見つかったことをお聞きしていた。其のことが地元「神戸新聞」に掲載されたとのご連絡である。
       http://www.kobe-np.co.jp/news/touban/0001954972.shtml

 氏の著書「宮本武蔵研究論文」「宮本武蔵研究第2集・武州傳来記」は、その内容の濃密さに於いて稀有である。その中で、柴任三左衛門についても詳細に記述しておられるが、お墓の発見はまた新たな研究へと導かれることであろう。

 三左衛門の父・本庄喜介は細川忠利の死にあたり殉死している。
「追腹の衆妻子及びに兄弟付」には、次のようにある。

       御切米拾五石五人扶持
         本庄喜介
            右之女房
       百五十石 本庄角兵衛
       御目見ニ仕候 喜介二男歳十六・本庄熊介
            むすめ壱人
     「喜介切米扶持方、家屋敷共ニ無相違せかれ熊介ニ可遣也 印」

 この本庄熊介が、後の柴任三左衛門である。兄・角兵衛がすでに別禄を拝領していたことにより、熊介(三左衛門)が父・喜助の遺領を継いだ。宮本武蔵の二天一流の後継伝承者として高名である。その事蹟については省略するが、福田氏の著作を是非ともお読みいただきたい。
(又、氏の「加藤清正妻子の研究」は、新たな資料を得て大きく進展している事をご報告しておく)
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2009-05-27 15:20:52 | 徒然
 「細川内膳家・家譜」をなんとか読み終えることが出来た。(最終回は明日UP予定)
活字史料では窺い知れぬ新しい情報を得ることが出来て、満足感にひたっている。
100数頁の内約30頁ほどは、以前からの作業でタイピングを終えていたものだったが、残りの70数頁を12~3日の猛スピードで読んだので、伏字(■表示)が多くて完全読了とは成っておらず、今後■つぶしの作業がまっている。

 近々50年ぶりに再会をはたす、縁戚のH家の先祖附のタイピングを始めた。■があってはまずかろうと慎重に読んでいるが完全とは参らぬ。返還率95%くらいは達成したいと思うのだが・・・(コピー紙面の不鮮明や、悪筆(失礼)の影響もあることを、声を大にして言い訳としておきたい)

 津々堂の「くずし字解読-文字リスト」の数が、どんどん増えていく。
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熊本市有形文化財

2009-05-27 11:53:04 | 歴史
 2005年6月3日付ブログで、熊本日々新聞の報道を受けて、清田五郎太夫のご子孫を以下のようにご紹介した。

      【富合町釈迦堂にある清田家では、蔵を改装して「ふるさと郷土資料館」を開設された。
       当主清田泰興氏は元日本航空の機長さん、飛行時間は同社の №1だそうな。
       言わずと知れた清田五郎大夫のご子孫である】

 さて今日の熊本日々新聞は、同家を熊本市有形文化財にすることを、市の文化財保護委員会が答申したことを報じている。富合町の熊本市合併を受けてのことではあるが、多くの市民がこの郷土館を訪れて、「明治維新後の藩士の暮らしぶりを示す重要な建築物」と共に、数々の史料にも触れていただきたいと思う。
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細川内膳家・家譜 その十一

2009-05-27 11:17:40 | 歴史
     一、同(元禄)十丁丑年七月 忠春公御隠居
        忠重公御家督御隠居料従
        綱利公地方千石被進其外万端御格之
        通ニ御座候
     一、元禄十二己卯年九月廿一日 忠重公之
        御嫡男御誕生従 御本家様諸事
        御格之通也御名熊千代次郎太郎内膳
        始忠雄公又忠亮公後忠英公ト被成御改候
     一、元禄十四年辛巳四月三日御灯燈御
        役之儀今迄両面ニ九曜被成御付左右之
        下タニ小ク桔梗之御印御座候処思召有之
        表九曜裏桔梗御付ケ被成左右之御印を
        御除ケ被成候尤是ハ御代ニ様之思召ニ被成候
        段月番之御家老衆江も御内意被仰連
        置候事
           但此節より番灯燈之役松笠菱之中之
           角■を印ニ付候様ニ被仰付候是迄ハ  
           番灯燈表九曜裏桔梗付候事
  
     一、同十七甲申年宝永と改元有 忠春公旧
        冬より御不例ニ被成る御座候処次第ニ被差重
        御補養無残所有之候得共終ニ御養生
        不被為叶二月廿五日御遠行被成候御年八十
        三法号本浄院殿月渓義水大居士祥雲山
        瑞岩寺ニ奉葬御病中間従 御本家様
        必多度御尋問有之其外前後御書通御
        使者等御格之通ニ御座候
     一、右御病気被差重候節御様躰為

        御尋宮村●之進殿御使者入来 御
        意之趣等済候上家司役中江被申後御
        用有之由ニ付大久保平左衛門・大久保角左衛門
        麻上下着用仕罷出候処於小書院為御意
        之趣●之進殿両人江被申聞候者半左衛門様
        御様躰被差重候由無御心元被思召上候
        各随分心を付候而御介抱之面々江入■候様
        可申聞旨被仰出候由被申聞候両人謹而
        御請申上候右御意之趣ニ付忠重公御礼
        被仰上●之進殿被■候上両人共麻上下

        ニ而●之進殿宅江罷越被仰候趣奉畏介抱
        仕候者中江も委ク申聞候段口上書持参仕候
     一、宝永五年正月十四日旅御家老三宅藤
        兵衛殿被成御呼忠重公御手之病強ク惣躰
        御気色不被勝候二付御隠居被成度被思召
        候段御家老中江申談早々達 御聞候
        様ニと被 仰聞候依之藤兵衛殿刻御家老
        中江被及■■一刻も早ク被仰候事故
        綱利公御在江戸ニ而被成御座候得とも右之

        趣被申上候処同三月十四日月番之御家老
        有吉四郎右衛門殿同役松井求馬殿大御目
        附岩間弥右衛門殿御屋敷江参上被致従
        綱利公仰之趣を被相述御隠居相済
        忠雄公様 此時十歳被為成候 御家督国中一番之上
        座諸事御格之通御相続有之忠雄公
        此時迄ハ次郎太郎様与申候一ト通之御礼者
        忠重公御不快故小笠原備前殿を以月番
        御家老衆江被仰達江戸江ハ御礼として

        大久保角左衛門を御使者ニ被差上品々御進
        上有之候大久保角左衛門江ハ従 御本家様より
        白銀被為拝領候忠重公早速御剃髪被成候
        而奉称(愚)隠様与               (愚・・欠)
     一、右御隠居之御達被成置候二付 次郎太郎
        様御家督被成候ハゝ御幼年之御事ニ付諸
        事何のも御成長まで相慎御本家集様
        江此方御家来より無礼等不仕様相心得可
        申旨被仰出候依之途中時宜相等之儀も

        御用番御家老衆江被仰入候而御席ニ
        御聞ニも達被置候様被仰入候依之入念左之
        通相心得候様被仰付候
           本家士中ニ對し我等者共無礼無く様
           相心得以来左之通可心得候有吉四郎右衛門
           江■等直ニ申聞置候入念事之由申候
     一、本家家老中江ハ我等士共大躰かがミ候
        程ニ礼式可致事
     一、同着座以下之者我等士共馬上ニ而行違
        候ハゝ知者ニ而無之とも下馬いたし可罷通事
     一、 同鉄炮頭江我等家司可為相乗余は馬より
        下り会尺すへし其上ニ而向下馬不致者江ハ
        以来双方言上之節ハ会尺無しニ可罷
        通事
     一、平士以下我等士中小姓以上之者及会尺
        相■致念比ニ目礼すへし■事ハ向之
        仕懸ニ可應事
           但向方より格別尾籠之阿以志らい
          
           有之ハ其由可申出候其者ニ限り以来
           会尺之儀可申付事
     一、本家之者江我等家来共より文通者各
        殿様文字など家格之通堅可相守尤向
        之仕懸ニ應し又者訳有之而極りより入念
        候儀ハ可但存念御申付置候格式より少しも
        不敬ニ無之様可心得事
           但向より格別無礼之者相有之ハ其由
           申 可出候其者ニ限り以来之文通可申付事
        右之通可心得者也        以上
             二月        忠重御判
                  士 名共へ

                          次回にて終了の予定です。

       
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細川内膳家・家譜 その十

2009-05-26 17:10:38 | 歴史
    一、元禄二己巳年 与八郎様御隠居御
       知行三千石を半左衛門様江御譲被成候
       御名友山様よと御改被成候段 綱利公
       御隠居料として益城郡之内ニ千石
       被進且又飽田郡之内筒口ニ而御屋敷
       被進候新宅御作事有之御■■被
       成候御家来木村三郎右衛門・草刈作太夫

       松本武右衛門・愛敬四郎助・安藤差兵衛
       草刈彦」之進・江上弥兵衛・高井彦左衛門
       植野惣左衛門・吉住丹兵衛・荒木甚兵衛・和
       斎権兵衛此分筒口御屋敷前通ニ引移
       申候
    一、同四年正月十一日 熊千代様御具足御
       召初候 忠隆公以来御旧例之通ニ而御座候
    一、元禄九年丙子正月廿一日於御花畑御
      
       能ヲ仰付候二つき朝五時より内膳様御拝
       見被成御出 太守様江ハ此節土蜘之
       脇を被遊候由御中入之時分内膳様江
       色々御咄等被遊候節能方之儀何ぞ
       御稽古被成候様御進メ被遊候処私儀
       至極無拍子ニ御座候而能方之儀ハ難
       稽古仕御座候旨被仰植え候へハ其元など
       能を致され候二何そ拍子ハいらず自

       分之楽ミ保養の■め稽古有之度旨
       御意ニ付脇を御稽古被成り候而其後御
       花畑ニ而半蔀之脇なと被成候
    一、同年二月九日 綱利公千葉城之御屋敷
       江被遊御入候 御入前竹原清大夫
       殿御使者ニ而鴨一折名酒一樽 五升 桑酒
       右之品御御■■御口上御請答御使者
       迎送御格之通ニ而御座候

    一、九ツ時打早速御花畑へ御時分宜敷
       御座候由為御案内 内膳様被遊御出候
       麻上下御着用御供之中不■麻
       上下着用仕候御用人衆江被仰置御
       ■座被成候
    一、太守様九半時分被為入候此節御門前
       石垣之方ニ付御家司一人御用人壱人
       御小姓頭一人罷出申候披露御座候二付

       何レも謹而罷在候
       御前内膳様御成口蹴復際ニ被遊御出
       迎候左候而御書院江被為 入御上段下之
       御間ぬめ敷居際ニ被遊御着座候 御
       熨斗を御前被差上候御茶御菓子者
       御近習より被差上候左候而直ニ奥江被為
       入奥様御目見相済御料理御膳

       内膳様被差上右御膳相済候而於御内
       證被進物左之通御小袖一御羽織一右
       御前江御小袖二奥様江白木御弓一張
       内膳様江右之通御■■御礼被仰上夫より
       御酒宴ニ相成御相伴衆追々被召出候
       御父子様左門様は御料理より御相伴被
       仰出候御用人衆其外御近習衆折々
       被出候御老女瀧野御側女中佐津

       右両人も太守様御目見被仰付候左候而
       御庭内江被遊 御出迎御屋敷も被遊
       御■大久保平右衛門庭迄被遊御出候夫より
       御物見ニ被為入少し之間被成御座小
       書院江被遊御入大久保平右衛門御目見被
       仰付候右相済小川源右衛門・服部貞右衛門・梅田
       久左衛門・■月小右衛門御目見被仰付候三宅

       藤助殿引廻被申候
    一、右相済三宅藤助殿より大久保平左衛門江尋之
       趣有之候ハ御家来御紋付之品は遺領之例有
       之候哉承度由依之平左衛門より追々之例有之たる儀
       相達候処暫仕候而大久保平左衛門・小川源右衛門・服部貞右衛門
       梅田久左衛門御用筋御座候旨春加し(すかし)の御間ニ揃
       申候処舎人殿より被仰渡候ハ今度被遊御感候
       ニ付右四人前後別而出精仕候段被為聞召届候
       依之九曜御紋付御上下壱具宛被為拝領旨

       被申渡御目録被相渡候謹而頂戴仕置候
       御父子様ニ右御目録差上御礼申上候
       太守様江御父子様より御礼被仰上候左候而
       又々奥江被為入候此節四方建付之御間ニ候
       以上
       友山様御家来共ニ相揃居御目見被
       仰付候
    一、大久保・小川・渡部・梅田拝領之御礼ニハ■■
       太守様御立後四十連舎人様御宅江御
       礼二罷出申候三宅藤助殿其外ハ翌朝参申候

    一、於奥仕舞被 仰付十番程有之御囃子も三
       番御座候高砂・東北・老松狂言も二番御座候 末
       廣・縄なひ右ハ上方より御呼下し被置候役者
       共相勤申候左候而御張二御酒宴有之五ツ半過
       御機嫌能本御門より御帰座被遊候
    一、御帰座早速 御父子様為御礼御花
       畑江御出万端之御礼被仰上候
    一、御立之節奥様江従太守様御意ニ而
       左之面々御残置囃子御見物被成候

       様被仰出候仕舞番附左之通
        東北 小右衛門   三輪 嘉門     雲林院 傳九郎
        山姥 嘉門      箙 傳九郎     春日龍神 小右衛門
        加茂 傳九郎    熊坂 小右衛門   祝言 嘉門
       右唱方上方役者相勤申候
    一、友枝源蔵桜間三左衛門被 召寄御帰座
       頃御祝之囃子表ニ而御客衆拝見有之
       候友枝桜間ハ御父子様御前江被召出為

       御祝物九曜御紋付御上下壱具宛被為拝領候
    一、太守様御立之節も御送御入之通其外
       共同前
    一、同十二日上方役者共明後十四日爰元罷立
       候二付被下物之儀三宅藤助殿より大久保平右衛門
       江紙面ニ而申来被下物左之通
    一、金子二粒塩鴨二簀巻   神原作太夫
    一、右同断            神原多助
    一、金子ニ粒           石崎平右衛門
    一、右同断            井口弥七

    一、右同断            安井市兵衛
    一、金子壱粒           神田平八
    一、同壱粒塩鴨二簀巻     原次郎左衛門
    一、右同断            松井三郎兵衛
    一、右同断            山中新三郎
       右之通御使的場源助古閑勘助両人ニ而
       相勤申候

      
      
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細川内膳家・家譜 その九

2009-05-26 07:58:05 | 歴史
                   西園寺随宜の墓(菊陽町HPより引用)
       http://portal.kumamoto-net.ne.jp/town_kikuyou/contents_dbpac/06sansaku/07.htm 

      一、寛文十年庚戌年八月十五日随宜様御
         病死入道水村之山上ニ奉葬
         圓明院殿月渓浄心大禅定門と奉号
         其後西園寺家御世継無之御養子御
         願被為済依之右随宜様之御息女御
         安様為御迎西園寺様之諸太夫井上
         伯耆守下着仕候てお安様并被召仕
         候女中五人同道ニ而帰京御婚礼有之

         右御登之節阿蘇坂梨之御晩所ニハ
         綱利公之御士財津貞右衛門相詰候処格
         別之御方御通故掃除等申付入念
         会尺仕候間御通被成候処差■無之
         して女中を出須事御国法之御掟を
         背キ違変せし越度ニ付貞右衛門が
         知行家屋敷被召上御暇被下浪人
         仕居候を右之由緒より其子財津十

         之進をハ此方御家ニ被召出候
      一、寛文年中従 綱利公被 仰出候者
         半左衛門方小笠原民部より聟舅之
         續とて両敬ニ挨拶有之由被聞召
         上候御家中江縁約被致候迚両敬者
         無用之事ニ被 思召上候被改可然旨
         依而 御意御両敬相止申候右之訳
         有之ニ付御家中ニ両敬ハ無之事

         延寶五丁巳年十ニ月廿九日御嫡子様
         出生御幼名熊千代丸 後内膳様 此御名
         綱利公被進候同六年飽田郡島崎村之
         内千原ニ御茶屋出来仕候
      一、延寶九辛酉年九月天和と改元此
         年御領知内用木村之百姓等野中
         弥三左衛門江手寄而訴訟之事有其
         旨趣共大久保又兵衛在方之仕置悪

         敷二重ニ免を掛ケ候由弥三左衛門より申出
         又兵衛越度之條数を以小川源右衛門丹羽
         次郎右衛門服部貞左衛門江被仰付糾明有之
         候処右三人ニ而及吟味又兵衛毛頭私欲無之
         近来算用詳ニ有之候へ共去々年代
         官原田武右衛門逐電仕候依之在方入組
         多ク漸クして決断之又兵衛越度無
         之虎口之難をのか連此浮論数月にして

         或ハ百姓強訴之ため徒黨連判仕或者
         耕作を止て大勢直訴ニ出て町小路ニ
         徘徊仕候間世間之取沙汰流布して
         御本家之御役人中讃談ニハ御家老
         大木舎人殿江相達評判不穏由ニ而小川
         源左衛門服部貞右衛門を以右之始終近来
         之算用舎人殿之内見ニ入算用演舌
         詳ニして事明白也依之百姓不届之段

         御達有之頭取之百姓牢舎追放有其
         後野中弥三左衛門却而私を守ニ仕留相聞越
         度有之御暇被下家断絶仕候
      一、天和三庚亥年 真光院殿恩逝去
      一、貞享元甲子年御領知郷原村之内ニ
         千原村之内替地御願早速相済候
      一、貞享二乙丑年 熊千代様 忠重公ナリ 九歳二而
         綱利公江始而 被成御對顔候


         http://d.hatena.ne.jp/muxia/
   ぴえーるさんのブログで、西園寺家に関するコメントをいただいています。感謝
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