津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

本のリサイクルフェア

2010-01-31 13:00:08 | 熊本

2010年は『国民読書年』なのだそうな。何時から始まったのか知らないが、熊本県立図書館では
「本のリサイクルフェア--よかよか本まつり」というものを催している。
今年はその国民読書年記念行事と銘打って開催されようだ。
家庭で眠っている本を提供してもらって、県内の公共図書館・公民館・学校図書室へ配布し蔵書
の充実を図り、一般の皆さんにも無料で配布されている。
昨年は偶然最終日に出くわし、数冊の本を頂戴して帰った。

  【本の募集期間】
   受付期間:平成22年1月30日(土)から2月1日(月)まで
   受付時間:9時30分から15時15分まで
   受付場所:県立図書館1F玄関ロビー
   対象:  ★児童書:絵本、読み物、図鑑など
         ★一般書:単行本、文庫、新書、全集、双書、辞書など

  【一般配布】
   配布日時:平成22年2月13日(土)から15日(月)まで
   配布時間:9時30分から15時15分まで
   配布場所:県立図書館3F大研修室
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西山禎一著 「熊本藩藩士便覧」

2010-01-31 08:13:05 | 書籍・読書
 過日芦屋在住のMT氏から伺って承知していたが、上記図書について熊本日日新聞紙上において
紹介された。以下同新聞の記事を全文引用する。

   著者は宮崎県都城市在住で元都城高専教授。2007年熊本藩士の役職者を時系列
   でまとめた「熊本藩役職者一覧」を完成させた。
   今回は侍帳、御書出、御礼式など22点を取り上げ、それぞれの史料にきさいさ
   れた藩士の氏名、隠居や死亡年、知行高などを五十音順にまとめた。
   「真源院様御代御侍免撫帳」では、各藩士のその後を書いた欄も。
   石高を増された者もいれば、「溺死」「乱心」の記述も見え興味深い。
                                   (非売品、細川藩政史研究会)
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齊護卿遺事 ・・ 3

2010-01-31 08:11:39 | 歴史
一、常の御膳の時、奉りぬる御手拭の上に、小さにひねりたる紙をさし置せれしを、跡に
   て見たれば、いと細き砂子にてぞ有ける、こは定めて假の中にかまじりたらむを、人し
   れず、かくはなし給ひつらん、かゝる事も重賢君の御心もちひさせられしとひとしき
   御事なり、いつの年にか有けん、江戸往來の道中御小休の所にて、御褥を奉りしに、それ
   が縁に縫針の遣りありて、いさゝか御足を刺しけり、かしこき事なれば、それ奉れるも
   のゝかたに申しきけんやなど申すを聞召して、ゆめ/\、沙汰ばしすなとのたまひし
   が、猶も御心おちゐ給はぬにや、又近侍どもに、先の敷物の事かたくなもらしそと、かへ

   すがえす制し給ひけり
一、いつにか有けん、小島と云る浦を逍遥せられし事のありけるに、御やすらひ所にて、御
   供の■に、御酒賜ふとて、近侍清原次兵衛行酒の役に立けるが、一人/\につぎ渡しぬ
   るに、大槻弾蔵一口飲みて、こは酒にあらず、醤油なりとて、並居る人に、いかに酒と思へ
   るかと問へば、いな酒にはあらずと云ふ、君きこしめして、それは次兵衛が今持來る間
   に、ざれ事しつるならん、其過怠に次兵衛も一口は飲みてみよとのたまへば、次兵衛も其
   醤油を一杯のみてけり、そこに並居し上下、皆ゑつぼに入て、中々一座の興とは成りぬ、
   もとより、次兵衛は行酒にたてるのみなるを、そのあやまてる本を糾されなば、ふかく
   かしこまりぬる者も出來んとて、若き次兵衛が戯にとりなさせ給ひしならむとおも
   ひ奉れば、あまりのかたじけなさに、一口の醤油のからかりしもおぼえずのみしなり
   と、後々まで、次兵衛ひそかに子どもらにかたりきかせしとぞ
一、近習に初てめされし若侍、配膳つかまりしに、事なれざる程なれば、あやまちて、御
   もの打こぼし、御膝をさへ汚し奉りしかば、いたくかしこまり入りてぞ有ける、上司も
   いとかしこしとて、恐れ入りてこそ候へと申上げしに、不調法こそ尤なれ、昨日まで馬
   はせ太刀鉾打ふりぬる事のみせしものが、いかでかよくし得てん、くるしからず、とく出
   てつかへよとぞのたまひける
一、或冬のことなりしが、殊に寒かりける日、御猟ありし、されば御歸の程を計ひて御浴場
   の設せしに、はや御歸館ぞといふに、御垢つかふまつる近習目附御湯殿にありて、入ら
   せ給ふを待ち奉るに、何か御用おはしまして、直に奥へ入らせらる、さらば今暫はさて
   おはしまさんとて、御湯の加減をも心せずばあらじと思ふうちに、御湯殿に入らせら
   れて、御浴なし給ひぬ、いかでかくは速にあらせられしぞと、いぶかしう思ひ奉りしに、
   あとにて承れば、奥にては女房達の心にて、ことに寒き日なれば、御酒あたゝめ御肴調
   じて待ち奉りをり、先づこゝにと、とゞめ奉りしかど、御湯殿には、例の近習目附が、浴衣
   のみして待ち居らんものを、いかで心なく物くひ酒のみてあるべきやと急がせ給ひ
   し故なりと、其時垢に参りし内田新右衛門肝に銘じて忝なかりしとなん申しける
一、御強記のほど、殊にいみじかりけり、近侍渡邊十右衛門、初て御側につかまつれる
   に、仰せられしは、先つ年、時習館の生徒らが説經きかせられし時、汝が講ぜしは尚書周官
   にてありしよな、よく講じぬと宣ひぬ、おほくの生徒にてありしかば、大かたはひとし
   なみなるを、其時を過ては、誰は是これは誰と記得せん事、いともかたかめるを、末生學
   問の若輩が講釈を能くわすれおはしまさぬぞ有難かりける、又同人に仰られしは、汝
   剣術は武蔵流にて、山東彦右衛門が弟子よな、先年汝は流儀の五法をつかひしなりと  
   のたまひき、武術御覧などの時には、御家中の若輩二百人もあらむを、覺えおかせ給ひ

   ぬるこそいみじかりけれ、されば、御内の侍外様につかふまつれるものは、年始五節句
   のをりならでは、御前に出づる事稀なるを、それさへ能く見志らせ舊ひしとなん
一、學校を設けせられし以來は、御代々の初には、必ず諸士の文武を御覧ぜらるゝ
   事なり、君襲封の初、時は十二月の半頃、最寒かりし日、數々の武術御覧有べきとの命
   ありしかば、師範/\は餘多の弟子を率ゐて、暁より館に参りつどいひ、日出る頃より始
   めさせ給ひ、終りにまかでぬる者は、夜亥の刻頃にもなりぬ、さて其夜、奥殿にいらせ給
   ひしかば、老たる女房どもの、けふはこの寒きに朝まだきより、表にのみおはして、いか
   ぶ倦んじ給ひつらんと聞えあげしに、いなさにあらず、若者どもが、かねての業を競ひ
   励める有様いとめざましき、其中には今日初て覧し武術もありき、中々寒をも覺えず、い
   で今夜は心よく寝るとぞ仰せられける
一、天保の八九年頃にや、御家中の上下を賑恤せしめ給ふ事ありけり、其旨布告せらるべ
   き文の稿本を、有司より奉りしに、文中華飾過たることありしを御覧じて、國民を済ふ
   は國守の任なり、それに何ぞや、恩きせがましき事を、故らにいふに及ばんや、かやうに
   恩きせがましき事を聞せては、中々に受るものも快からじとのたまひて、其文は削り
   改めしめ給ひぬ
一、同じ頃に屋有けん、或侯の家内の亂出来ぬ、その本は、侯の最愛せられし妾が奸悪より
  
   おこれる事にて、嫡を廃して、己がうめる庶子を世嗣にせんとのたくみばりしを、老臣
   ども、いたく心を悩しぬれど、侯は愛に溺れて、老臣らが諫にも志たがはれず、事巳に迫
   りて、殆どあやふく、世にあらはれなば、忽ち一家の傾覆に及びなんするを、君いかにし
   て聞及ばせ給ひけん、遠き慮りをめぐらせられ、人知れず計らはせ給ふ旨おはしけれ
   ば、其侯の家全きを得て、穏しく治りぬとぞ、されば、そこの家臣らは、竊に君の徳澤を戴
   き奉りて、神の如く仰ぎ奉りしとぞ
一、いつの年にか、中國路を歴させ給ひしに、備中國矢掛の宿にて、鍼醫金子民壽御鍼つか
   ふまつりしに、いかに民壽、此所の名産と聞ゆる柚べしかひたりやと宣ふ、民壽承り、い
   かにも求め候ひむと答へ奉る、そはいかばかりかとのたまへば、只一本をこそときこ
   え奉るを、わらはせ奉ひて、さても志はきやつかな、今少し増して買はましと物をと宣ふ、
   民壽かしこまり、さあらば、恐れながら上にはいかほどめし給ひしやらむと申上れば、我
   は五十本ぞとのたまふ、さては民壽が身にて、一本は猶過分にや候ひなん、上の志ろし
   めす御高になぞらへ侍らば、上には五六十もめし給ふべきを、上こそ中々志はくはお
   はしましけれと、きこえ上ければ、あはれいはれけり、上が上より下が下まで、分限とい
   ふものゝあなるは、民壽がことわれるが如し、此心得だに違はずは、世に程々に渡りな
   ん、あなかしこ、分限をなわすれそとのたまひて却て御感にぞあづかりける
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球磨川・荒瀬ダム撤去へ

2010-01-30 09:41:55 | 熊本
             ja.wikipedia.org/wiki/荒瀬ダム

 潮谷前知事が打ち出していた八代市坂本の荒瀬ダム(県営・水力発電用)撤去の意向は、蒲島知事への交代により一転存続の方向へ向っていた。地元自治体などの撤去へ向けての請願などに対しても、頑なに対応していた知事だが、三月末できれる水利権の継続が国交省の意向で不可能な情勢となってきた。
新規での申請は受理されないであろうとの県の判断が示されたようで、知事にとっては大きな誤算で有ったようだ。これも政権交代が影響しているのだろう。東大の政治学者出身の知事でさえ読めなかったという訳だ。撤去へと再び大きく舵が切られるが、此の財政難のおりさて着工となるといつの事やら分からない。
ともあれダムが撤去され、球磨川がかっての清流に戻ることは喜ばしい事だ。

 球磨川の上流の川辺川ダム問題については、作らない方向への意見集約がなされているが、50数年翻弄されつづけた、地元五木村への暖かい生活再建への施策が望まれる。かって身近に有った川辺川の清らかな流れは、代替地からははるかに低く遠くにしか見えない。「五木の子守唄」がなお一層切なく聞える。
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齊護卿遺事 ・・ 2

2010-01-30 09:08:22 | 歴史
一、■力殊に勝れおはしませり、然れども、自ら誇らせらるゝ事なし、たま/\御酒まいり
   たる興にまかせられ、御心おかせ給ふ者も侍らぬおり、碁盤これはよのつねよりは厚く重しの片脚を
   とりて、御目の上にあまたゝびさし上げなどし給ふに、聊勞し給ふ御気色おはしまさ
   ず、或時綱利君の御肩入弓とて、普通にこえたる大弓を御側にたて置せられしを、近侍
   の若輩等引き試んとするに、面を皺め體をふるはしても、■のあたりまでも引得ず、そ
   れも再度とはなし得ぬを、君には何の御利器いれ給ふともなく、七度八度つゞけざまに
   引しをらせ給ふ、此弓の事は、重賢君にもいとたやすく引かせ給ひしを、唐僧が見て驚
   きまつりしといふ事、同君の御遺事にも載られたり、又或時西洋銃の鐡丸、廻り尺もあ
   るべきを、近侍の若輩頭上にさゝげむとするに、皆膝をかため、腰をすゑ、一身の力をき
   はめても、えあげざるを御覧じて、それこゝにとのたまひて、肩衣めしながら、御片手も
   て十回ばかり指あげ給ふに、いさゝか勞し給ふ有様おはしまさゞりけり、かゝれば凡
   そ普通の者の力ニ十人がほどはかねさせ給ひぬらむとこそおしはかり奉りぬれ
一、御馬めし給ふに、かりそめにも、御形をくづし給ふ事おはしまさず、手綱とり給ふ手も
   と厳にぞおはしましける、いつの年の初にか、御乗初の日、関東馬に涼風と名づけられ
   しをめし給はんとあり、此馬はいと能く足かきもこゝろきかぬさまの風情なれば、御
   馬役どもゝ、こはおかせ給ひて、他のこそはと申上しかど、たゞその涼風索出でよとの

   たまふゆゑに、止事をえず奉るしに、責め給ふにつけて、足なみ常にかはり、あはれよき
   御馬かなと見奉るほどなりしかば、御馬役のともがらも、皆我を折て感じ奉りぬとなん
一、御心やりには、養禽盆植をも愛し給ふといへども、必ず珍禽奇類の價貴き物を求め給
   はず、只世に有りふれたる物のみにして、鳥は雛を生育せしめ給ふを慰とはせられぬ、
   草木の盆を朝夕に移し置せらるゝ中にも、殊に重きは手づからなし給す事常なりけり
一、御中年より、菊を愛でおぼし立てさせ給ひ、近侍の中、それらの事心得たる者に命せて、江
   戸にては、平井新田の別業にうゑさせられ、花の時、御園にうつさしめ給ひ、其種を御國
   の御園にもうゑしめ給ひけり、かゝれども、聊も費なからむことにぞ心を用ひけられ
   る、結ひ立るませ竹も、年々に取りかへさせられず、古きをかこひて、足らざるをのみ補は
   せらる、花の銘しるさせらるゝ木札も、新に作らしめたまはず、不用になりぬる文箱や
   うの物のそこなはれたるなどもて、つくらしめ給ふ、玩物に費をかけさせ給はざる御
   心もちひは、偏に重賢君の跡にしたがはせ給ふなりけり
一、江戸御往來のをりにも、轎のうちに小さき花瓶をおかせられ、時々の花を折りとり、さ
   し給ひて、慰とせられぬ、ある時、中国路にて、歩侍の中より、君のかく花をめでさせらる

   るを伺い知りて、山櫻のやゝ大きなる枝を折り來て奉りしかば、こはいかに心得ぬ事
   をしつるかな、是は花を愛するにてはなくして、花にあだしつるなりとて、御心にかな
   はせられざりき
一、御襲封の初より、政事に怠らせ給はず、言路を開き、温厚寛裕をもて侍せらるゝにより
   仕うまつる者も、言を盡し易かりけり、常に忿恚の色をあらはしたまはず、たま/\御
   旨に怍ふ事ありても、其後は元に變らせ給ふ事なかりきが、かゝれば、下よりも怨み奉る
   事あらず、殊に監察の言を納れ給へり、たとひ義定せしめ給ひしことを變させ給ふ事
   などのあるは、監察の言によらせ給へるなり
一、重臣を侍せらるゝこと、きはめて優におはしましき、政事の間を得させられては、月花
   のをりにふれて、奥殿に莚を設け、又は水前寺或は川尻の漁舟等に召供せられ、ことに
   江戸にては、遠情を慰め給ふみ心にや、一入にいたはり興をつくさしめ給ひ、石小田新
   田にては、放鷹釣魚をも許したまひけりき
一、江戸のゆきかひはさらなり、いづくへわたらせ給ふにも、御供つかふまつれるものど
   もの勞をいたはらせらるゝ御心ふかくおはしましけり、夏のいとあつき日にも、乗り物
   のうちにて、扇ならし給はず、冬のいみじう寒きにも、御手を爐にあて給はず、煙草をも
   めさゞりけり、さりとて、火爐煙草の具奉らざるにはあらず、こは御供に立ぬる上下

   ものども、さる字すべきならねば、御身のみ安らかにおがしまさじとの御心づかひな
   るべし、漁猟のをりとても、志かなり、厳寒の節、筒網取りあつかひぬる近侍の勞をおぼし
   めしては、御自らもいさゝか御手などあたゝめ給ふ事なく、御網の時は屢、御手を水に
   ひたさせ給ふ、また江戸往來の長途にては、外様のものにも、程ゝによりて詞かけ給ひ、
   年久しく仕へ奉れるには、特に名を呼ばせられて、勞を慰め給ふ事おはしましぬ、又新
   役の者には、其程に應ぜられ、御用命じ給ひ、とにかくに勤めくるしまぬ様にとの御心
   づかひおはしましぬ、江戸はさらなり、いづかたにても、公家方を初め、幕府の権家等に
   御行逢の振合等おろそかならざる御事にて、すべて役々の職掌を心限りに盡さしめ
   給へりしかば、いづれも能く差はまりてつかへ奉りぬ、是等の事は、御供方にて、年久し
   くつかへ奉りし人々の話なり
一、或時、江戸にて、妙解院に御参詣ありしに、院主あるじして、のどかに御物語どもあり
   しかば、御歸りは夜になりむ、さて御側の衆より、御乗物は玄関の上にかきあげさせよ、
   そこより直にめし給はんとの事なりしに、その事つかさどれる松田覺兵衛思へらく、
   是は必ず君の御心にはあらじ、大かた院主の心いれなるべし、さりながら、いかで此寺
   にいらせ給ひて、禮儀欫せ給ふ事おはしまさんやとて、うべなはずして、例のまゝのぞ
   つかふまつりける、かくて御乗物ちかく御供に立ち侍りしに、御詞かけさせたまひて、

   夜もふけぬ、いかにこうじたらむ、寺詣の歸さには、少し似つかはしからねど、眞夜中な
   れば、苦しからじ、このごろ獲つる鳬あり、それ賜ひてん、必ずあらはに禮など申すに及
   ばぬぞと宣ひ、御歸館のうへにて、其鳥を下し賜はりぬ、こは寺にて御乗物の事を志ろ
   しめして、御心に叶はせ給ひての事ならむと、藕に思ひ奉り、いかともかたじけなかりけ
   る事なりきと、覺兵衛申しぬ
一、冬のいみじう寒き日の御猟に、獲させ給ひし鳥の、河中また井手にも落入りたるを取
   上がんとて、御供の者ども、水にひたり入れるを、御心ぐるしうぞ思し召ける、或時、白
   河筋なる薄場といへる所にて打とめ給へる雁の、水中にながれ行くを、向の岸にあり
   ける農夫が取上げ奉らんとて、河中に渡り入るを御覧じて、あれをとゞめよとのたまふ
   により、聲々によばひけれども、きこえずや有けん、股の上まで水にひたりて、其雁をと
   りえてけり、いかにこゞえもしつらん、何ぞとらせよかしとのたまふにより、御取次役
   奉りぬといらへ奉れども、猶御心おちゑ給はぬ御気色にて、たゆたはせ給ふにより、竹
   筒に銭を入れて、河越しに投げ與へけるを見給ひて、其所たゝせられけり
一、つかふまつれるものども、職事につき、おもはざる過ち出来ぬるを、あながちに咎め
   らるゝ事おはしまさず、大かたは御ゆるし蒙りぬれば、かへりて後をつゝしむの心ふ
   かゝりけり、御飼禽などの尤も愛し給ふをあやまちて籠をもぬけしめ、其外御慰の具
   取あつかふとて、損ひなしゝを、かしこまり申上げぬれば、予が慰の物なるを、あやまち
   したりとて、侍共がいたくかしこまりなんは、中々に心いたきわざなりとぞのたまひ
   ける、夏の日いみじくあつきをり、御櫛つかふまつれる者の汗出て拭ひあへず、一滴御
   衣の上におとしかけぬ、あなかしこしとて、上司もてかしこまり申上げしに、暑きをり
   汗出でぬるは、あたりまへの事なり、殊にくしけづるは、骨折る事なれば、汗出でなん、そ
   の汗いだすまじきと心せば、髪結はん事かたかるべし、汗の出るを心になかけそとの
   たまひけり
  
  
  
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清源院様御手紙

2010-01-30 09:07:48 | 熊本
 清源院とは細川重賢の同母妹・軌姫(幾姫)のことである。享保十年江戸生まれ、延享二年正月
宇土藩主・細川興里と婚礼整う(同年十月興里死去)、寛政六年江戸にて卒・70歳
甥である細川治年の継嗣問題に関し、婚家の甥立禮を説得して宗家を継がしめる事に尽力した。

   +---宗孝
   |
   +---重賢------治年===齊茲---齊樹===齊護
   |
   +---清源院
        ∥
   +---興里
   |
   +---興文--+---埴(治年室)
           |
           +---立禮(齊茲)
           |
           +---立之------------立政(齊護)

 この清源院の手紙が、宇土市・市立図書館の「宇土の明治・大正・昭和」展に特別展示されている。
立禮に宛てたものである。(熊本日日新聞は6代和泉守としているが、7代の間違いである)
この手紙については、2009/10/10のブログでご紹介したものだが、早くも展観が実現した。
会期4月末まで。ぜひとも拝観したいと思っている。         
                                         1/30熊本日日新聞から
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細川家家臣・中根氏

2010-01-29 11:07:25 | 歴史
 中根氏といえば平清盛の伯父・忠正を祖とする戸沢・中根・服部氏があり、後年徳川家光の側衆を勤めた正盛が著名である。その家紋は「抱き茗荷」だとされる。

 細川家家臣中根氏の家紋も「抱き茗荷」である。一族であることは間違いないところであろう。
初代市左衛門(御鉄炮頭衆 千石)以来、御番頭を輩出する家柄で、明治に至たった。
三代次兵衛・正春(御物奉行-小兵衛組・千石 御侍帳・元禄五年比カ)の室が、奥田権左衛門(初代)女・きちであるため「転切支丹奥田権左衛門・系図」に中根氏も名を連ねている。

 又、分家・市十郎家(500石)があり、その資料「中根家文書」が熊本市立図書館に収蔵されている。

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山本秀煌氏の論考

2010-01-29 08:24:27 | 歴史
 ガラシャ夫人の最後については、有名な「霜女覚書」とともに「小須賀覚書」なるものが存在することが知られている。(芥川龍之介の「糸女覚書」を引用している、歴史家があるが言語道断の話である)その小須賀覚書は当サイトでもご紹介しているが、出典は山本秀煌氏の「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」である。(昭和5年1月20日山田聖天堂発行)この山本秀煌氏の肩書きを見ると、「日本基督教会宣教師」とある。なるほどと納得させられるが「小須賀覚書」が何所から出てきたものかが、はきとしない。またこの本を手に入れたいと長年チャレンジしているが、これは絶望に近い。

 さて、ガラシャ夫人の生涯のさい、介錯役を勤めた小笠原少斎の三男が、切支丹殉教者として列福(平成19年)された小笠原玄也である。家族や奉公人ら15人と共に1636年殉教し、共に列福された。いろいろ調べている内に、山本秀煌氏の著書に「西教史談」(大正15年)があり、ここに「加賀山隼人正と其の一族の殉教」という項があることを知った。55ページに及ぶ膨大な論考である。加賀山隼人正は細川家家臣6,000石、小笠原玄也の岳父(妻・みやの実父)であるが、こちらは細川家の手により誅伐された。いとこの加賀山半左衛門、その息子も日出藩木下家によって命を絶たれた。共に列福された。

 山本秀煌氏のこの論考は、出典資料も確かなものでこれら関係者を知る上で、一等の資料といえよう。(国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で御覧いただける)いろいろな論文に引用されていることが窺える。キリスト教史として捉えられているが、細川家の歴史を考える上で大変すばらしい業績といえる。               
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齊護卿遺事 ・・ 1

2010-01-29 08:12:05 | 歴史
一、齊護卿の寛洪大度におはし、徳量のほどをたとへ奉らんは、いともかしこかれと、所謂
   洋々たる大江の濁すとも、にごらず、澄せずも、すまずよいふべき有様になんおはしま
   しける、まづ、近うつかへ奉る男女にかぎらず、殊遇特愛の目ざましかる事もあらざれ
   ば、又不慮に職を遞かれ遂に身の品貶されて、冤苦に沈めるものも聞えざりけり、近侍
   のみしかあるにあらず、大臣をして用ひざるに、恨ましめずといへる聖旨にも叶はせ
   給へる事どもぞ、おはしましける、君の徳量のかくあらせられしかば、當時の諸大名に
   して信じ慕はせ給ひしかたがたも多かりけらし、近頃京都守衛として、諸大名及び諸
   藩士上洛せるに、我藩士の内、伊豫の宇和島侯の見参に入りし者のありけるに、侯の曰く、
   そこが先君と吾と才の程較べたらむに、さまで劣るべうは覺えねど、徳量におきては、
   梯たてゝも及びがたかりける君にておはしけるよと、かへすがへすのたまひしとぞ、此
   侯は諸大名の中にても、殊に豪邁の聞えありけるに、かくしものたまへるは、實に信服
   せられし事どものおはしましたるにこそあめれ、凡そ寛洪簡重の徳を以て、三十年餘

   の平治を得させられしが故に、ことさらに称挙し奉るべき蹟とては多く見えさせ給
   はず、その跡なきぞ、中々に盛徳の至りたるきはみなるべき
一、御在勤三十年餘の間、江戸登城謁見の式等、つひに塵ばかりの失あらせざりしな
   ど、いともありがたかりける御事なりきと、年久しく御城使つかまえまつりし老人の涙
   たれて物語をりき、恭謙を第一とせられければ、公務いさゝか怠り給ふ事おはしまさ
   ざりきとぞ覚えし
一、御襲封の初より、御規式の事ども、有司/\よりしらべ奉れるを御覧じては、御先代に
   かはれる事どもなきやと仰られて、聊も先格を違はせ給ふ事おはしまさず、殊に霊感
   院君の御跡をふませ給はんの御心ふかくおはしましぬ、奥ざまの御事にても、年ふり
   たる女房どもに、先代の御おきて見きゝ傳へたらむをば聞しめす事、いとも懇なりし
   御事なりきとぞ
一、常に御勤孝をむねとし給へば、
   諦了院老君(齊茲) 蓮性院大夫人(齊樹室) に事へさせ給へる事のうへにもけやけく挙称へ奉らん
   は中々にて、ただ數十年の間の御孝養一日の如くかはらせざりしこそ、最もめで
   たかりし御事なれ、されば五節句朔望の登城の御歸るさには、必ず白金の館に参り
   たまひぬるに、寒暑のいみじきをり、風雨のいたくあれぬる時には、かの御方より今日

   はな入らせ給ひそとの御便ありき、これさもおはしまさねば、御厭ひなく参り給ふが
   故の御心づかひなるべし
一、弘化二年の春、江戸青山より火出て延焼に及び、白金邸第も焦土となりぬ、大夫人には
   先づ假に目白臺なる新邸に移らせ給ひ、白金邸館を造らせ給ふほど、君いたく御心を
   盡させ給へり、いかで速につくり出してよ、大夫人には、ことに雷をきらはせ給へるに、
   目白館はかりそめなる所にて、御心もやすからじと思召せば、かねては倹約をむねと
   守らせ給へども、此度の事は、資用を増してだに、早く作り出してよと、おきてし給へり
   しほどに、初め工匠等が積り申しゝは、秋も半に至らずば落成せじといひしに、思ひの
   外速に成就しぬるは、ひとへに君の御眞實によれるなりとぞ申あへりける、君の萬に
   御心もちひたまへる御有様を、一橋家の御内にて、年老いたる女房達伺ひ奉りて申し
   しには、あはれ蓮性院君には、いみじき御果報こそおはしましけれけれ、守殿のかほどまで
   御奉行ならむには、實の母子も及ばじ、やむごとなきかたがたは、うはべの親しみこそ
   あれ、かたみに打とけさせたがたかめるを、此殿の御中らひには、さる御有様つゆほども
   見えさぬ給はぬなりと感じあへりきとなん
一、君宇土にいましゝ時より、専ら文武を學び給ひて、鳥獣草木の類、其外の玩弄の物を近
   づけ給はず、宗家御相續になりては、宿儒辛島才蔵が致仕し居けるを、優に微して、再勤

   せしめ給ひ、葉室直次郎、侍續につかへ奉るなどをはじめとして、經傳軍理の講義を聞
   しめす事等、終身廃し給はざりき、書を能し給ひ、馬術に長じ給へる事等は、ことさらに
   たゝへ奉るに及ばず、君はやく父君にわかれ給ひしに、御母君栄昌院夫人の、うち/\
   の御さとし厳にまし/\しに順がはせ給ひし志るしおはしまして、政事のうへにも
   めでたき御事どものあらせられしなるべしと、久しく咫尺し奉りし、大槻弾蔵などは、
   現に伺ひ知り奉りし事もありきとなん、されば常に容體温良、威厳を兼させ給ひ、奥殿
   燕居の時にも、袴を脱がせられざりきしを、有吉市郎兵衛此時御用人間を得て申上げけるは、
   前々の殿にも、かゝる御時には袴を脱ぎ給へりし、君にもさあらせられんこそよろし
   からめとありしに、いはけなき時よりのならはしにて、却てこゝろよきはとのたまひ
   し、これ等全く厳母君の御教訓の及ばせ給ひしにこそ
     栄昌院夫人の御事を■に伺ひまつるに、御本性貞正におはして、常にからやまとの
     古き正しき書を見そなはし、御座所には志かるべき書籍のみありて、玩弄の物なく、
     男子の室の如くなりきとぞ、世に賢夫人と稱し奉りしもうべなり、前世子慶前君永田
     町支邸より、本部に移らせ給へりしは、年僅に八つの御時にて、ひわづなる御身なり
     しに、はや時經をよく讀み給ひしとぞ、是れ厳祖母君栄昌院夫人の御さとしならず
     ば、いかでかくおはしまさむと、傳奉りし清成八十郎など申あへりし、君の末だ
     幼くおはしまし、時御側につかふまつれる少年に、蕃椒を喫せ給へりしを、御母夫
     人聞しめして、上下共に人にかはる事はなきとて、君にも蕃椒を甞させ給ひし
     とぞ、これにても、夫人の厳訓はかり知り奉るべし(編者云、夫人の事蹟は「谷の忍ぶ」という書に委し)
一、宇土にいましゝ時は、散樂の舞ならひ給ふ事なかりしを、諦了院老君の御心なぐさめ
   に近侍に能の舞をならはしめ、君にも勸めまゐらせらる、初め好まれざる事ながら、喜
   多に就て學び給ひしに、不日に驚くばかりによくしえ給ひしとぞ、それより後は御心
   やりのひとつとはなし給へり
一、また宇土にいましゝ時、江戸にて森越中守殿の許に、かたがた集はせらるゝ事ありし
   に、主人宴興を添へられんとて、鳥銃の伎をなす者をして、角的をうたしめらる、一座の
   中には、放發の機関しらぬ人もありて、ひゞきに驚くばかりの人も少からず、君には西
   國におひ立ち給ひ、必ず狩などにもなれ給ふらむ、いかで一發をと、主賓共に乞ひ申さ
   れしに、初はいなみ給へども、強て乞はれければ、さらばとて、はじめ放發しぬる者に習
   はせ給ふ躰にもてなし給ひ、三度はなち給へりしに、三つながら正鵠をはづさせ給は
   ず、満座嘆賞しあひしとぞ、こは宇土御内人有井一馬が物語なり
一、君尤も鳥銃の伎に長じ給ひしかば、常に御猟の幸多かり、野にあされる雁をあゆみよ
   らせ給ながら、ねらひ發ち給ふ、其機の迅速なること、人の及ぶきはにあらざりき
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玄旨法印 出雲詣で

2010-01-28 09:07:15 | 歴史
   此記は天正五年三月豊公島津氏を征伐せんとして九州に赴けり依て之をねぎらはんとして二十一日丹波城を發し
    山陽道を船路或は陸路にて名所を巡覧しつゝ長門より門司の関を渡り筑前に至り、歸路を山陽道にとりて難波に入
    られし迄の紀行文なり
    玄旨法印は其始めは三淵伊賀守晴員の子なり後細川氏を胃して細川藤孝と名乗り、従四位下侍従兼兵部太夫に
    叙任し丹波の田邊城に居りしが後剃髪して玄旨或は幽齋と號し二位の法印に叙せらる、幽齋且て藤原實隆より古
    今傳授を受け和歌の深奥を究めたり、公卿武将の氏門に来る多し、慶長十五年八月二十日卒す年七十七才


今年天正十五年三月の初、博陸殿下、九州大友島津私の鉾楯■と■めらる可き為に、御進發の
事あり、  (博陸殿下とは太閤秀吉を云ふ)
息與一郎同玄蕃允乗陣の上、家を逃れ入道せし身なれば、供奉の事にてもなかりしに、遥かなる
御陣の程を、徒に在國も空恐しき心地して、四月十九日に、舟をば熊野郡まで廻して、廿一日田
邊を出で、其日は宮津にとゞまり、廿二日松井城、松倉に着て、明なば出發すべき旅装ひせしに、
雨降出て、終日晴なましかば、松井子禅門と云出て抑留し、盃度々出して慰み暮し、其夜は止り
て廿四日、いとよく晴て、風も追手になると云へば、出立とて、是占山近ければ、

   必ずの旅の行方は善悪も問はでふみ見る足占の山

軍書に欲必則莫令卜問軍吉凶とあれば思よれり、かやうにして、港と云ふ所より、辰時斗りに出
船して、其日の暮に但馬因幡の境、居組と云處に船泊しける、旅宿いと所せくて、上なか下、らう
がはしき假枕し侍りて、

   主従は旅にしあれは里の名の居組にしたる假の宿■

廿六日、伯耆國御來屋より舟を出して、出雲國三保の関に上り、見物し侍りて、夫れより磯傳を行
くに、錦の浦と云へば、暫し船を停めて、

   船寄する錦の浦の夕波のたゝむや返る名残成らん

かやうに口すさびて、其わたり近きかゝと云ふ所、漁人の家に留まりぬ

   哀にも未だ乳を飲む■の子のかゝのあたりや離れさるらん

二十七日、雨音荒き故に、かゝより船出成難かるべき由を、船人申侍れば、さらば徒に暮さんも物
憂しとて、船をば浪間を待ちまはし侍べきよし申て、杵築も彌見物のため、徒歩にてたどり行く、道
の程三里斗り經て、木深くて、山のたゝずまゐたゞならぬ社有を見廻りて、社人と覚えたるに尋ね
侍りしに、之なん佐陁の大社なり、神体伊邪那美尊とおしえへけるに、しかじか物語し侍るに、日
もたけ雨もいたく降れば、衣あぶらん程の宿り求て、とゞまりぬ。

   千早振神の社や天地と別ち初めつる國の御柱

廿八日、佐陁を出て、秋鹿と云ふ所にて、湖水の小船に乗て、本田まで行に、生捕なりと船人の
云を聞て

   磯枕恨やおふの浦千鳥見果ぬ夢の醒むる名残に

かやうにして暮かゝる程に、杵築の社に至りて、寶前を初め、末社等、あなた彼方めぐりて尋ぬるに、
當社両神社神官千家北島、何も國造となん云ける、家々見物して、其後旅を宿かり出、椎の葉斗り
に盛たる飯など食ひて、休み居たる處に、若洲の葛西と云ふ者尋來りて對面しける、太鼓打つ人に
て、若き衆多く同道有て、一番きく可き由あれば、さらばとて催しけるに、両國造より、處につきたる
肴樽など、使にて送られける程に、笛鼓の役者共きわみて、夜更まで乱舞有けり、思ひかけぬ事な
りき
廿九日、朝なぎの程に、まはしつる者共めぐり來て、急ぎ船に乗れ、日もたけにけりと云へば、あは
ただしく

   此神の初てよめる言の葉を敷ふる歌や手向なるなん

逮干素戔鳥尊到出雲國初有三十一字詠とあれば、やう/\字の數を合はする斗り、手向にしたり
と云ふ心ざし計になん此短冊を千家方へ遣はけしけるに、両司なれば一方は如何と、主の云ひける
に、俄かなれば同歌を書てやりける、又當社本願より、發句所望なれば

   卯の花や神のい垣のゆふかづら

  (両司は千家北島の両宮司を云ふ)
かように書てやりけるに、千家方より、今の發句は北島にて連歌たるべし、吾方にては百韻興行す
べしとて、船に乗るに追附て、發句所望なり、忙はしきに成難よし、度々申せしかども、所のならひに
や、わりなく申されける程に、人の心を破らじとて思ひめぐらすに、折ふしほとゝぎすの名のりければ

   時鳥こゑの行くゑやうらの波

                          (了)            馬琴旅行文集より
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最近の熊本日日新聞から

2010-01-27 21:20:15 | 新聞
■1/19 「甲佐町の歴史を語る会」が、古文書の記述を基に所在不明だった江戸時代初期の用水路
      と見られる遺構を発見
      古文書・・「渡辺玄察日記」

■1/21 熊本市の春日小学校が、横井小楠「実学思想」に影響を与えた儒者・大塚退野の生涯をた
      どる読本を完成させた。

■1/23 万延元年遣米使節団から150年、木村鉄太らの歴史に光を

■1/25 昨年末、永青文庫が公益財団法人に
      寄付金が所得税控除対象に  (皆様の善意の寄付をお願いします)

■1/27 熊本市川尻町の「川尻船着場跡」と「外城蔵跡」を、国指定史跡申請へ
      川尻は細川家の数十万俵の米蔵(外城蔵・現在二棟が残る)があり、加勢側の水運を
      使って米が運ばれてきた。又ここから大坂方面へ運び出された。150mにわたる石段状
      の船着場が残る。(文責・津々堂)       
      参考サイト mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000370912170001

■1/26~1/28 復元へ 幻の宇土・網田焼 (上)(中)(下)
      かって宇土市(宇土細川藩領)網田(オウダ)では素晴らしい白磁の器を作っていた。
      藩の御用窯として貴重な作品を作り出したが、昭和の前期廃窯となった。現在その復
      元に向けて一人の陶工が頑張っている。あくまでも白く美しい網田白磁の復元は間じ
      かに迫っているようだ。関係者のご努力に感謝。 (文責・津々堂)
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旧陪臣代数及原禄根帳目録・個人別  準備中

2010-01-27 13:09:38 | 歴史
 わがサイトの「旧陪臣代数及原禄根帳目録」の評判がよろしくない。
これは細川家家臣に仕えた、いわゆる陪臣の方達の名簿だから、主家別にしてあるのだが、個
人名別に分けてくれないかとのリクエストがあった。実は「無禄士族基本帳」や「無禄卒帳」、「古
奉公帳」「浪人片付」等をアップしようと考えているのだが、順番をどうしたものかと思案中である。
「家禄奉還帳」等というものもあるが、これは勘弁してもらおうと思う。
云いたい放題の悪友が「町在」もやれというが、とんでもない話である。(俺を殺す気か)
まずは「旧陪臣代数及原禄根帳目録(個人別)」に取り掛かったのだが、なんとも気合が入らない。
それでもなんとか頑張って、図書館に納めようかとも思っている。 (しばらくかかりますけど)
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文武両道の戦国優将-細川幽齋・忠興・興秋

2010-01-27 08:16:40 | 書籍・読書
 ぴえーるさんから貴重な情報を戴いた。タイトルにある本が発刊されたそうだ。
   【上毛新聞ニュース】  http://www.raijin.com/news/a/14/news10.htm

自費出版の本だそうだが、著者の富岡市上高尾の新井雅成さんが、「興秋が長岡大学と名を変え、甘楽町造石の県史跡、法華経供養遺跡の巨大な石造り地蔵菩薩『造石地蔵尊』を建立したとする縁起に着想を得て、戦国武将三代の生き方を描いた」ものだそうで大変興味深い。
群馬県の上毛新聞に掲載された記事だが、熊本ではなかなか知る事のできぬニュースで、ただただぴえーるさんに感謝である。

そして、悲劇の人「細川興秋」をどう描かれたのか、興味が尽きない。
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風説秘話 ・・ 2

2010-01-27 08:10:32 | 歴史
一、松田宗寿咄に中昔或時乗馬ニ而大津街道を行く向より
   士壱人過ル時折節面際ニ馬泥を蹴懸し候ハ大に怒り兎
   角の言葉もなく直ニ斬懸たり馬上の士そ断る間もなく是
   も抜討にせし候歩士を真二ツに斬殺しぬ扨此旨達たるに歩
   士そ末た部屋住ニて御目見もせさりし者故馬上之士何の御
   構もなかりし也

一、西山大衛弟同傳喜不行跡ニ而一旦出奔さし候後虚無僧と
   成立帰密ニ大衛か許ニ居りしか或時兄弟口論抔せしか又深
   き功有たるや家の系図を盗取出奔す大衛方ニ手を延し
   吟味せしに廻り役之者捕来内々ニて大衛ニ渡したる故早速
   手打したり西山は家柄宜敷故系図を盗他国ニ可有付巧な
   り伴らんとの風説也

一、或云手打せんと思ふに問事様あらハ其詞未終内ニ斬遍し云
   放てそ必迯るもの也何連の者共不知を手討せハ其段連れハ
   死骸片付等の事ハ上より夫々に相成候由手討せし時そ所之
   辻番所に答又屋敷前ならハ屋敷江答へ町ならハ別當帳頭在
   ならは庄屋頭百姓等を呼云置へし無僕様の節者自分帰て達
   等致間人差越迄ハ頼置由可云也

不破杢助、家の若黨に殺害さる。その後の顛末・・
一、寛政中十二月廿九日夜長崎御留守居不破杢助若黨主を害し
   出奔し其旨残二人の若黨より宿元へ注進せり晦日朝彼若黨
   不見故出奔などそ不致やと方々尋れ共不見故此段杢助江可申
   と五比ニ帰り主人カ今を見ルに夜着の内より血流出たり是ハ如何
   と驚たれ共先御屋代何某を呼ニ遣一同ニ夜着を取見れハ
   三刀斬て留も丈夫ニ刺たり然共外科を呼見せしに勿論療治
   不及との事也若黨共寝間者杢助居間の次の間の二階にて
   程近きに殺害する時も一向不知且夜着より血流たらハ其侭
   取て見るべきに御屋代を呼て一同ニ見る事考不審也と人々云あへり
   扨杢助二子数太千次ハ早速早速此次第を達シ彼表江罷越遂吟味討捨
   度由願捨ニして正月三日宿を立杢助甥鎌田軍助興之允
   も同願捨ニして同伴し島原を越て同五日長崎ニ着て聞ハ最早
   敵ハ御屋代か許ニ捕在由也たれハ早速右之者渡呉候様申せしかハ
   御屋代返答に杢助様御跡役明日ハ爰許江御着之筈ニ御座候間
   其上ニ而御渡可申と也鎌田云不破兄弟父の仇を差置片時も待
   兼何分押當難き躰ニ候殊ニ今日者杢助一七日ニ候間旁以是
   非相渡可被呉と云たれハ御屋代も理ニ折れ渡したれハ杢助居間の
   庭の前ニて討たり又一説数太様五日八ツ比長崎ニ着せしに御留守
   居付之機密間物書方ニ逮在也早速渡呉可様云たれハ物書答て私
   義勿論其心得候得共上分の御差図を相待申明日御跡役御着之上ニ而
   御渡可申一存ニてハ不相成と云不破兄弟鎌田兄弟是を聞父の仇
   を置輡くも見合等と不能と云故鎌田云たるハ数太兄弟仇の
   在所を知からハ輡も差置可申哉是非押當置てハ自然如何躰
   の施義の振舞仕候も難斗其上彼者万一自滅にても致候而者
   口惜き次第なれハ是非/\御渡可被下跡の事ハ少も足下に難影
   懸申間敷某万端受合可申と云しかハ物書然ハ跡之儀私越度ニ相
   成不申様御書付可被下と云鎌田直ニ其旨書付渡たれハ物書又云
   此所は御屋敷内殊ニ公領之事ニ御座候故跡ニて死骸の取片付等
   如何と云鎌田夫ハ此方受取て後の事ニテ少も遣様御世話ニ及間敷
   候可致様ありとて意ニ受取御屋敷ニてハ如何と思しかばも仕方無れ
   ハ杢助子屋の庭ニ路地より引入しに賊首下より見詰間あらハ
   飛懸るべき勢なりしを数太抜討ニするを斬られしと振向しか
   者横頬を顎迄斬付たり二ノ太刀首打落し千次留を刺たり
   扨前ニ菓子を供へし木具ニ首を載供へき也然ニ胴は公領之
   事故可埋処もなく海に沈んも御番所近邊首無骸流んも憚有り
   寺も請取まじ葬禮者されす如何と思しに鎌田葬桶を
   買て是ニ逆様ニ蹈込銭少を添寺江遣せし候者無故障請取ぬ
   別而是旨者早速飛脚を以云遣し宿へ者八日暮比ニ知れける
   四人者十一日ニ長崎を立十五日ニ着此時首ハ持来し候と上よりハ
   御仕置なかりし故井手口ニ埋たるとぞ右の賊捕られし
   事者長崎御屋敷より一里斗ニ茂木と云湊あり彼者此所に
   参り船頭ニ銭を壱貫四百文を与へ何方とやらに渡呉候様頼此以前
   長崎中者早速船留の触ありし故船頭怪ミ此所者壱貫二百文
   之渡也とて二百文ハ返して二三日中便船あるべしとて兎角偽
   寄て茂木より半里斗ニ観音を安置せる岩窟隠置たり
   其後川尻の御加子共彼船頭の許ニ尋行しに不知と云う其■
   ニ公義の廻約行て尋し候者船頭倭て四日ニ窟ニ行便船あり
   と欺し候は彼者出来しに捕手共を見るより直ニ抜放て
   闘に既ニ手負も有■程なりしかとも大勢取巻終ニ捥し
   候者今者早々殺呉候エと頼しとかや扨連来り御屋代ニ内々
   ニ手渡したりケ様之■公義之手に渡て者江戸江御届何角
   甚隙取事なれども御屋代不破か恩顧を給し者ニ而早速
   手を廻し頼置しに依て如■也幼年之時杢助召使し者當
   時足軽ニ被召出居し候今度不破に従ひ長崎ニ罷越度願
   たれ共不相済故然らハ御給扶持差上罷越申度旨願ひたれ
   共不済故願捨にして長崎ニ行しとぞ杢助同姓同参平不勝
   手ニ付拝借奉願五十両斗も相済来し折節此変を聞て彼
   方へ差合たる又杢助弟何某其砌御手當也とて長崎江不
   行親類中の相談ニ茂不加との風説也
一、上野先生物語ニ先年江戸ニて十四五斗なるの少年町を通
   たるにあふれもの三人後より無手と抱き左右より手を捕て
   働より候され共言語道断ニ■■す少も不騒物をも不云し
   暫くして片手を捕たるもの少弛しを振放し脇差を抜て
   刺たれハ残も周■て弛処を脇差を置て刀二て抜打に一人
   を斬伏たり今一人ハ是を見て迯出す甚た落着たる
   仕方見事なりし故所之者共證人ニ立無故済しとぞ
  
  
  
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熊本弁講座 うう

2010-01-26 15:18:03 | 熊本
 熊本弁に関する問題です。さて次の言葉はなんと読むでしょうか。
    1)大頭       2)大番外

 細川護貞さまの著書を読みますと、細川家は屋敷内では熊本弁を使っていたと書かれていますが、
こんな言葉はまさかお使いではないでしょう。

    1)は ううあたま、2)は ううばんぎゃー と読みます。

 私の幼いときの写真は昭和28年の水害で流失し、その後親類に残されていたものをいただいた
僅かに数枚しか残されていません。 
その中に帰熊する前の小石川での写真が一枚有り、細川家邸内の井戸らしき物の前で遊んでいる
所ですが、危ないですねー。この写真を見ると
     うう頭井戸を覗いてかやり込み 
                  という狂句が頭に浮かびます。かやりは返りでしょうか。
                  (私は頭が相当でかいのです)

 はっきり覚えていませんが(少し違うかもしれませんが)
     ううばんぎゃー靴下はだしで靴はいて 
                  という句を思い出しますが、石田純一氏のように靴下を履か
                  ずに靴を履くのがはやっているようですが、昔の価値観から
                  すると「ううばんぎゃー」ということになります。
                  本当の熊本弁だと「はいて」は「ひゃーち」となりますが。
 山東某の「百間石垣うしろ飛び」等という話も、「ううばんぎゃーなこつ(事)」となります。

 私は熊本弁が少しがさつに感じて好きではなかったのですが、最近は歳のせいもあってか
通常の会話でもよく使うように成りました。   (67年前の写真を見ながら)
     
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