津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■齊茲公の御子消息

2015-05-30 12:06:16 | 先祖附

 度支彙函にある齊茲公の御子に関する記述を引き出してみた。

■職五郎(ヨリゴロウ、茲詮) 齊茲三男、寛政八年九月晦日に江戸で生まれた。生母は山科氏女・正操院

   (享和二年并文化元年、細川和泉守立之仮養子となる)

   一、(文化二年)職五郎様四月六日江府被成御發途候段申來候、此許御着之上所々御出之節、士席以上於途中御行列ニ参り懸り
      候節ハ、左ニ片付鑓ヲ伏せ被扣居御時宜可被仕候
   一、軽輩・陪臣下々共避候ニ不及、参り懸りニ平伏仕罷在候儀不苦候
   一、門前御通り之節、形儀手桶等指出候ニ不及候
     右之通被相心得、組々えも可被達候、以上
        五月八日                     奉行所

   一、(文化六年)來ル九日職五郎様三丁目御屋敷え御移徏之筈候、右御門前御塀内は御屋敷内同前之場形ニ付、下馬可仕候、
     尤家来末々迄堅可被申付候、此段觸之面々へも可被達候、以上
        二月朔日                     奉行所

   一、(文化九年)職五郎様、當春被成御出府筈ニて、此段御用番松平伊豆守え御届之御書付、舊臘十一日被遊御差出候處、無御
      滞被成御受取候段申來奉恐悦候、依之來月三日御發途之筈ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨、御用番被申聞候條、
      已下同断
        文化九申正月廿一日             御奉行中

   一、職五郎様(文政元年)先月二日夕より少御腹痛御熱候も被成御座、同八日より御両足御■(馬ニ夫)上御浮氣被為見、其後御
     食事も御乏敷御出来不出来ニ被為在候處、次第ニ御容躰被差重御療養務御叶、同十九日巳刻御死去之段御到来有之恐入
     候、依之御國中諸事穏便ニ相心得、繕作事は明後日迄被相止候、此段觸支配方えも可被相觸候、以上
        文政元寅五月朔日              奉行所 

■猪八郎 齊茲五男  
 
   一、(文化六年)長岡猪八郎殿三月十八日於御裏御誕生御達之事

   一、(文化六年)猪八郎様來ル廿二日五時之御供揃ニて、此元御發途之筈ニ候、此段觸之面々えも知せ置可申旨御用番被申聞
      候條被奉承知、觸支配方面々は可被相知せ置候、以上
        文化六年巳七月十九日            御奉行中

     (文化七年十二月廿九日江戸にて卒す、二歳)

 

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■白隠を読む

2015-05-29 09:32:27 | 書籍・読書

 永青文庫には護立侯が収集された「白隠禅師」に関する書画等約三百点が集蔵されているという。
これは護立侯が幼年期、胸を病み身体虚弱の中、白隠の著「夜船閑話」にふれられ健康を回復されたということから白隠に興味を持たれてのことらしい。
護煕様の著「ことばを旅する」にも紹介されている。(p100 古人刻苦光明必ず盛大なり)

私はかつて国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏先生から、御著「白隠 江戸の社会変革者」を御恵贈いただき、これを精読してきた。
その生涯において、俗に触れ社会の変革に積極的に動き回った禅僧白隠の生涯を知った。大変興味深い著であった。
また先頃「白隠 夜話閑話・藪柑子」(講談社・禅の古典10)を購入し、護立侯が納得された「内観」の法とはいったいどういうものかを知ろうと読み始めた。

二つの著を通して、白隠禅師の日常こそがまさしく健康の源ではないかと感じている。
白隠禅師84歳、護立侯87歳、禅師が説く「内観の秘法」は存在するように思える。 

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■松寿庵先生 第144講

2015-05-28 16:43:39 | 史料
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■慎

2015-05-28 09:15:19 | 歴史

 「御刑法方定式」の一番頭に次のような一文がある。

 死刑を執行候其日、御月番并堀平太左衛門・當番之御奉行は勤を引止宿いたし、を被仰付候
   但、御刑日之御用ハ、其節/\御順番ニ残ル御衆被有御助筈 以上

死刑が執行される日には月番の家老、大奉行の堀平太左衛門それに當番の奉行は自宅で静かに謹慎するよう仰付られたというのである。
下川原で死刑が執行される日などは、これを見ようと長六橋周辺は人でごった返したという。

鎌田浩氏の著「肥後藩庶民事件録」によると、この慎みについては「死刑判決については、人命重視から特に慎重な手続きが取られているが、さらに注目されるのが死刑日慎みの制度である。これは犯罪の発生は支配の不行き届きによるという考えから(中略)為政者自ら襟をただすという政治姿勢の一端をうかがいうる」と記している。

死刑の裁断は「口書」が刑法方奉行に上達され、大奉行と合議のうえその原案を「家老」「中老」合議にかけたのち藩主の裁許を得ることに成る。
しかしながら、鯉を生簀から盗んで死刑になったという事案もある。いささか腑に落ちないことではある。 

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■殿さまの食事

2015-05-27 07:00:40 | 史料

 度支彙函(タクシイカン)に「寛延より文化迄 節險號令(十二)」「文化より文政迄 節險號令(十三)」が126条にわたり記されている。
その中の一つに殿さまの食事についての記述がある。

 一、上之被召上物、朝御膳は御茶漬之御飯・御香物・御焼味噌・梅干之類ニて被召上、御料理ものハ不及申、御汁も不被召上候
 一、御夜食前、御吸物外ニ御在合之輕キ御肴一種ニて御酒被召上、御夜食ハ御香物・御焼味噌迄ニて被召上候
   右之通之御様子は當時之御定規ニて、御保養之為ニも可被為在候得共、兼て飲食之奢侈と被遊御意候ニ付、御誡旁々思召ニも
   可被為有難有儀御座候間、乍恐右之御様子御家中面々は不及申、末々ニ至迄奉存候ハヽ、分々之心得ニも可相成儀ニ付、今年
   柄之儀彼是組々えも無規度寄々可被申聞置候

現在熊本城内では細川家の御料理のメニュ「御料理方秘」を再現したとして、観光客に「本丸御膳」と称する御料理が出されているが、これは論外、毎日こんなものを食べていたら肥満・糖尿・痛風は間違いない。
例えば細川家を訪れた御使者に「うどん」を差し上げたという記録が残されている。

 

 

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■肥後銀行本店「肥後の里山ギャラリー」 スケジュール

2015-05-26 14:25:21 | 展覧会

                 5月7日にオープンした肥後銀行本店

(1)展覧会

会期展覧会名内容
平成27年5月25日(月)~6月27日(土) 開館記念展「細川護熙の世界」 細川氏の陶芸、書画等約50点
平成27年7月13日(月)~8月22日(土) 熊本の水と緑の風景展 油彩、日本画、水彩、版画、古写真32点
平成27年9月7日(月)~10月10日(土) 冨重写真所展 熊本の近代化と都市の風景   古写真、地図資料ほか約50点
平成27年10月26日(月)~11月28日(土) 第1回永青文庫展(細川家の茶道具) 茶入、茶碗、茶杓など茶道具と関係資料約50点
平成27年12月21日(月)~平成28年1月30日(土)   肥後銀行資料展 金融史関係資料、旧貨・紙幣等
平成28年2月22日(月)~3月26日(土) 熊本の現代作家(1)上村隆一展 油彩、デッサンなど約50点

(2)講座

開催日講座名
平成27年7月4日(土)
平成27年8月29日(土)
平成27年12月5日(土)
平成27年12月12日(土) 
平成28年2月6日(土)
平成28年2月13日(土)
古文書講座 細川家1
  〃   細川家2
  〃   細川家3
  〃   細川家4
  〃   加藤家1
  〃   加藤家2
平成27年12月19日(土) 永青文庫講座1

 

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■正立寺と清高院殿

2015-05-26 09:04:11 | 熊本

 横手の筒口にある正立寺は池上本門寺の末寺である。肥後国誌には次のようにある。
法華武州池上本門寺末寺 寛文二年常照院日輪上人開基之寺地三反三畝 元禄十四年ヨリ免許之寺中三十番神七面堂大黒天堂アリ

 藩法研究会発行の「藩法集7 熊本藩」(昭和41年3月第一刷)に面白い記事を見つけた。
高麗門外筒口正立寺屋敷三反壹畝拾五歩、御年貢上納仕候を、江戸池上本門寺末寺ニテ彼方上人より、清高院様え依願上納御免被成候事

 三反壹畝拾五歩に対する年貢が如何ほどのものであるのか承知しないが、正立寺としては出来るものならこれを逃れたいと思ったのであろう、本山の池上本門寺に頼み込んでいる。上の記事は何時頃のものか日時が良くわからないが、前後の記事から元禄八年以降、宝永四年の間の事である。
清高院とは細川綱利の生母で、宝永七年に九十二歳で亡くなり池上本門寺に埋葬された。
正立寺は清高院と池上本門寺の関係を承知のうえで、相談を持ちかけたことは想像できる。
まさに作戦は的中し、正高院様のお声懸りとでもいうことで一件落着したのであろう。御威光恐るべしである。

清高院は光尚公の側室で綱利と、弟で新田藩主で細川利重の生母である。綱利はその母亡きあと素晴らしい墓所を本門寺内に建立している。
歴代藩主の何方のお墓よりも際立っているように思える。贅沢を極めた母への綱利公の最後の贈り物となった。
このお墓は解体発掘されて調査が行われ、2002年坂詰秀一編 の『近世大名家墓所の調査 - 圓光院殿日仙榮壽大姉墓所、清高院殿妙秀日圓大姉墓所、高正院殿妙泉日流大姉墓所』なる調査報告書が作られた。高正院とは細川宜紀公の生母(利重公側室)である。

  

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■肥後の里山ギャラリー開館記念「細川護煕の世界」展

2015-05-25 16:56:19 | 展覧会

 肥後銀行本店が新築オープンして、1階に設けられた「肥後の里山ギャラリー開館記念」として、「細川護煕の世界」展が今日から開催されています。
熊本県立美術館の「細川茶碗まつり」と併せて御覧下さい。

 

          

                               

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■妙解寺全図

2015-05-25 08:14:57 | 歴史

        

 かっての妙解寺全域の図である、二つの川(井芹川・坪井川)に囲まれた建物は塔頭臨流庵、左手の二つの建物は左手・智照院、右手が寶光院(天岸和尚亡母寶光院のお墓)である。智照院の裏手の一段高い場所にあった光尚の弟・細川尚房一族のお墓は、JR九州の新幹線建設に先立ち調査が行われた。

                                   


井芹川に架かる橋や正門の四脚門は現在もこの絵図のままである。現在は北岡自然公園として市民の憩いの場となっているが、かっては安国寺側に入場門があったが、現在は閉じられたこの門は昭和30年水前寺の神水苑(刑部家下屋敷跡)から移設されたものである。

図の中央右寄りに見える大きな建物が、廃藩置県後細川家はここに移り住み「北岡邸」とよんだ建物である。昭和20年7月3日の熊本の空襲で焼失したが、幸いにも藩政史料が納められていた御蔵は焼け残り、永青文庫史料として熊本大学に寄託されている。


                                        

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■甲斐宗運の子孫たち

2015-05-24 10:46:57 | 歴史

熊本市新町三丁目十番に正教寺というお寺がある。肥後国誌によると御船城主甲斐宗運の子千代丸の開基によるという。
新二丁目内馬借町 真宗西派成満寺末寺慶長年中慶専開基之表口五間入十五間並ニテ免許ノ地ナリ
当寺由緒云開祖慶専ハ俗姓甲斐氏益城御船城主甲斐千代丸ト称ス 後ニ出家シテ慶専ト改メ慶長年中
当地ニ創立ス云々

日頃ご厚誼をいただいているS様も甲斐宗運の末裔だが、先頃ご提供いただいた系図によるとまさしくこのことが記されていた。
残念ながら正教寺様は西南の役に被災されて、貴重な記録をすべてなくされているという。残念の限りである。
玄察覚書ほか貴重な記録を残した渡邊玄察は、S様の遠祖早川(渡邊)丹波守秀貞からすると従兄弟の孫という関係に成る。
千代丸は早川秀貞の義叔父という関係である。
又加藤清正の側室(忠広・あま姫生母)である正応院は、宗運の弟・親房の女婿・玉目丹波守女である。
これらを網羅した系図をながめていると飽きることを知らない。 

S様のブログ こじょちゃんの戯言 は渡邊(早川)一族や甲斐一族に対する熱い想いで満ち溢れている。 

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■御恵贈御礼「兼見卿記・第四」

2015-05-23 14:10:46 | 書籍・読書

 待望の兼見卿記・第四(巻)が発刊され、校訂に携われた著者「橋本政宣・金子 拓・堀 新・遠藤珠紀先生」の御名をもって御恵贈を給わった。
伏して御礼を申し上げたい。

今般の第四(巻)は天正十八年正月から文禄元年(天正廿年)十二月までのものである。
細川家を勉強する者にとっては幽齋や忠興に関する記述や、幽齋女・伊与の婿にあたる兼治やその子兼従と云った人々の消息がみえて誠に興味深い。
豊臣秀吉の北条征伐から朝鮮出兵に至る軍事的動きや、聚楽第の建設、禁裏の造営、東山大仏の建設などとともに、秀吉の身内の不幸、また千利休の処罰など内容は盛り沢山である。

第一級史料が語りかける事柄の一つ/\を読み進めると、時間を忘れさせてしまうがまさに快感である。
みなさまにもぜひともご一読いただくようご推薦申し上げる。(感謝)

 

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■筒口村鐘ヶ淵

2015-05-23 09:52:31 | 地図散歩

 現在の横手1丁目、現在は水路となっている狭い流れがかっての袚川(井芹川)の名残で、禅定寺裏で曲の手に曲っている個所を「鐘ヶ淵」とよんでいた。
流れは昭和28年の熊本大水害の後、その土砂をもって水路部分を残して埋立てられ、現在では道路となっている。肥後国誌によると巾五間、深さ三間もある大きな淵であったというが、現在ではとても想像すら出来ない。
「鐘ヶ淵」という名の由来については色々な説が言われている。
   ・http://www.geocities.jp/sakuragaoka5364/html3/kanegafuti.html
   ・http://blog.goo.ne.jp/jokamachi-kumamoto/e/89d8ab399079907b21b3ca74c1f2c30f

真実は90度に屈曲したという意味で「曲ヶ淵」が本当であろう。大工さんが使う「曲尺」を「かね尺」という。

                              「曲尺」の画像検索結果

江戸から明治にかけて、 「鐘ヶ淵の雨乞い」という行事があり近隣の農民が雨にちなんだ龍や雷神などの仮装をして、作り物を引き太鼓を打ち鳴らして最後はこの鐘ヶ淵に至ったという。雨乞いの習俗は明治七年に規制されたが、貴重な記録が熊本市立博物館に収蔵されている。

 

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■「春画展」開催・・永青文庫

2015-05-22 07:31:43 | 展覧会

 永青文庫の細川護煕理事長は、9月19日から12月23日まで浮世絵「春画」の展覧会を開催されることを発表された。
日本では初の試みであり、大英博物館や各地の美術館、個人収集家など120点が集められるという。
護煕様の満面の笑みが印象深い。東京近郊の皆様お出かけに成りますか・・・・(以下熊本日々新聞から引用) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本初の「春画展」開催 9月、東京・永青文庫2015年05月21日 

 
 公益財団法人「永青文庫」(東京都文京区)の細川護熙理事長らは21日、都内で会見し、性愛を描いて江戸時代に流行した浮世絵「春画[しゅんが]」の展覧会を、9月から同文庫で開催すると発表した。春画をテーマにした展覧会は、日本初という。

 タイトルは「春画展」。永青文庫と識者らでつくる実行委が世界に誇れる日本文化を周知しようと企画。細川氏は「タブーを破り、日本芸術の大きな華を多くの人に味わってほしい」と語った。

 春画は制作当時、大名から庶民まで老若男女に広く愛され、ゴッホやピカソら海外の画家たちにも影響を与えたという。2013年にはイギリスの大英博物館で春画の展覧会が成功するなど、海外での評価は高い。一方、日本では、過激な性描写などが問題視されてきた。

 展示するのは肉筆画や版画などの約120点で、喜多川歌麿や葛飾北斎の作品も含む。大英博物館をはじめ、欧米や日本の美術館、個人コレクションから名品を集める。

 9月19日から12月23日まで。18歳未満入館禁止。入場料1500円。永青文庫TEL03(3941)0850。(岡恭子)

 

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■藩主母公の御墓

2015-05-22 07:19:20 | 歴史

 小沢町に西福寺(東光山了雲院)がある。慶長年中に開基されたお寺であるが、加藤忠広公の内室(蒲生飛騨守女・徳川家康孫娘)相高院殿の菩提寺として創建された。
加藤家没落後は細川家の菩提寺となり、細川家当主の生母のお墓が存在する。

細川宜記の側室で宗孝公の生母・映心院(鳥井園→喜和)のお墓がある。又、宗孝の二歳上で夭折(三歳)した女子・富、末弟・龍五郎(三歳)のお墓もここにある。映心院は二子・蔵、四子・八三郎も夭折し、これは江戸に葬られている。
十二子喜和は宗対馬守義如室、十四子千代が安藤対馬守信尹に嫁いだ。

又、細川齊護の側室で、護久の生母深水田鶴(興願院、水俣手永惣庄屋深水頼経次女・加藤傳之進養女)のお墓、その護久の側室で細川護成の生母深水ヌイ(慈雲院、深水頼寛三女)のお墓がある。

加藤家、細川家を通じて藩主母公の御墓が存在する。細川家の菩提寺妙解寺は目と鼻の先である。

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■松寿庵先生 第143講

2015-05-21 17:13:44 | 史料

                               本地垂迹 

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