津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お姫さん

2016-09-30 20:36:31 | 徒然

 下垂瞼気味の処に涙点がはれて、目の開閉に違和感がある。今度は右目が痛かゆい・・・・
鏡をのぞいたら右目の下まぶたにお姫さんが出来ている。熊本ではいわゆる「ものもらい=麦粒腫」のことを「お姫さん」というが、言葉の由来を知らない。
熊本・福岡・大分に多い言葉だが、熊本がだんとつに多い。三県とも細川家に関係ある県だが、「お姫さん」は細川家由来だろうか?
「ものもらい」よりも優雅だとおもうが、74の爺様には似合わないこと甚だしい。

ちなみにロート製薬のサイトに「ものもらいMAP」という面白いものがあるが、これを見るとなんといっても「お姫さん」が秀逸だ。

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■「推参者・・・おれも 真源院様御子」

2016-09-30 08:48:32 | 史料

 高名な方の二代目で失敗した人は結構多い。ここで取り上げる興津才右衛門もその一人かもしれない。
細川三齋公に殉死したあの興津弥五右衛門の嫡子である。
以下の文章は、堀内傳右衛門が書き残した「旦夕覚書」にあるものである。
「推参者(馬鹿者)」と叱りつけた綱利公、「おれも真源院様(光尚公)御子」とまで言わせたその仔細について、傳右衛門は承知しないと書いている。
元禄二年(1689)家禄を召し上げられ閉門を仰せつけられ、二年後の妙解院(忠利公)の没後五十年にあたり許された。
嫡男に祖父・弥五右衛門の家禄が与えられた。 

(四代)興津才右衛門は今の(五代)彌五右衛門父にて候、若き時より御家中一番の口利、細川丹後殿(宇土支藩・二代藩主行孝)なと初として御一門中御家老中御懇比に候 妙應院様(綱利)・若狭守様(綱利弟・利重)も御懇比にて御直にも被召仕愚意を申上候程の者にて何そと申せは才右衛門被召仕候、戸越御屋敷の内廣過たる御沙汰江戸ゟ申来御せはめ被成候時、才右衛門江戸へ被遣借銀願申候、惣銀所の御目附御中小姓末松勘助に逢申今度願上申候銀高にてもへし被申候はゝ誓言にて御断申江戸御断可申由を勘助聞故、其時分氏家甚左衛門殿御奉行上野古勘助右才右衛門誓言にて申候事内意申如願埒明申候、才右衛門方々にて埒明たる自満咄の沙汰のみおれは合點せぬ惣躰つもりは調物の代過不足もなくて不叶事願の銀高不足候はゝ重ても成間敷物にてなく心まゝ誓言唯今才右衛門は御家中一人の口聞上にも能思召故、御家中歴々迄譽被申候由おれは今度の誓文にて才右衛門を夫程には思はぬと被申候 同名(堀部)文左衛門は別て咄被申拙者も折々出合申候、或時才右衛門十左衛門殿(山名氏)へ参候て御免被成候へとて其儘羽織むき申候、在宅にて着仕候 うしろに大紋付たる帷子着いたし今日舎人殿奥方気色見廻りに参候大勢の見廻衆就夫羽織借用仕候て参候、惣躰在宅故勘略仕御寺参りの上下帷子の外には持不申なとゝ申候故、十左衛門殿御申候はいかにも御理屈承候併先日そなたの庭を見申候、大石を澤山に御求と見申候定て銀子出し御調はよもや有間敷候、百姓共に持せ取寄被申候共大勢に定て粮米は出し可被申候左様成つもりにて帷子布の羽織は出来可申候、ソナタの數寄には目か見へぬと云ふたれは才右衛門一言出す別の咄にて歸り候と拙者へ御咄被成候、いか様才右衛門何の角のとしかり申候へとも亦唯者にては無御座と申候、舎人殿にはひたしくは不参候、才右衛門は學好にて五経も自筆にて書たると承候、色々才右衛門か咄多く候、右之通に申たる者にて信少なく發明口きゝの名斗と存候、御鉄炮三十挺御預沼田小兵衛殿組にて其時分何か御用にて被召出候へは私儀今度御鉄炮御加増殊に一番備の小兵衛組に被 仰付難有由申候へは一番二番は存まし推参成る儀と御機嫌そこね申なと沙汰仕候、藤田助之進父子死骸片つけ申刻も北關に被遣候何そと申は被召仕候、其後御鉄炮頭衆と打寄足輕共鉄炮稽古の儀は昔は不斷隙々にはうたせ候や其時分は御鷹野多く三月朔日か九月朔日か定り年始の打初ゟ外には打事は成不申候、唯今も其通と存候、然る處に仲間とせり合有無に才右衛門は打せ可申と申たる儀御吟味被成才右衛門にきひ敷閉門被 仰付候て知行被召上唯今之彌五右衛門に貮百石祖父跡と被 仰付候、才右衛門は百石加増にて三百石被下候右の仕合にて病死仕候、つく/\存候へは中間申合時節を待たる稽古させ候はゝ不残御用に立可申候、才右衛門三拾挺計上手に成候ても差ての事は有間敷候、我利口たて斗にて中間にすくれたると自満斗にて信實の忠とは不存候、天罰と存候、才右衛門程成る者も又出来不申との噂のみに御座候つる、然れ共右の様子にて御意に叶不申は御直にも申上候、推参者と御意江戸にて若狭守様にも先御代之事のみ申時節しらぬ我満者にて何哉覧申上候得はおれも 真源院様御子なとゝ以の外御腹立られ候、わけは覺不申候、真實の忠ならは鉄炮稽古も中間申合候て致延引才右衛門果候ても跡々迄も御用に立様に仕事に候、拙者承候てもいくらも不實の事と存事有之候へ共事永くかゝれ不申候、兎角利口發明も不實にては天の罰めに逢申候、兎角入被申たる儀尤に存書置候 


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■140回忌

2016-09-30 06:40:35 | 歴史

 高祖父・上田久兵衛が明治10年の今日、罪なき死を得139年、つまり140回忌となった。
熊本は今日も雨、旧宅があった城山半田の川沿いには、彼が愛した萩の花が雨に濡れて頭を垂れていることだろう。
禅定寺にある碑もこのたびの熊本地震で、無残に折れて倒れている。お墓も多大な被害を受けている。
復旧の目途も見えない。わが家の仏壇に燈明をあげて、ただ手を合わせるばかりである。

        秋風ノタヨリニキケバ古サトノ  萩カ花妻 今サカリナリ  上田休(久兵衛)

 

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■小笠原少斎一族のお墓

2016-09-29 07:04:46 | 熊本地震

 熊本史談会の若い友人N君が「今小笠原少斎のお墓に来ています。」と昨日の15時すぎに電話で報告があった。
本家のお墓は墓石が倒れたり、笠石が落ちたりと大変な被害らしい。
分家のお墓は雑草に覆われて確認もできない状態らしいが、これも相当被害が出ているらしい。
小笠原家のお墓の場所を知る人はそう多くはあるまい。随分以前、昨年亡くなられたTドクターとN君と私と三人で出かけたことが有った。
かっての常楽寺の跡だというが、今では小笠原家のお墓があるのみで、とてもお寺があった所だとは思えないような場所である。
電話を受けた時我が家のあたりはバケツをひっくり返したような雨、お墓のあたりは小雨だといっていたが、熊本の歴史が大好き人間N君らしい行動だ。
仕事の貴重な休日をさいてのことだが、多くの写真をメールで送ってくれた。
10月の史談会例会で報告をしてくれることを頼む。N君ごくろうさま、そして感謝。

                 ■小笠原少齋のお墓

 

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■将軍のアーカイブス

2016-09-29 07:04:34 | 書籍・読書

               ウイキペディア「紅葉山文庫」から 紅葉山文庫が入る蔵列(『江戸図屏風』)

 私は10日ほど前から、福井保氏著の「紅葉山文庫」という本を読んでいる。150㌻に満たない本だが、まだ読了出来ていないのは内容のマニアックさによる。
紅葉山文庫とは、江戸城内にあった将軍専用の図書館といったものだ。
しかし、許可を得てこの貴重な図書を拝見した個人がいろいろいる。一番多いのは天文方や暦算方などが多いそうだが、その他細井広沢などの名前があった。著名な書家であるが、書の手本として拝見したらしい。其の師が旧・熊本藩士の北嶋雪山であることは良く知られており、誇らしく思える。
夏目漱石も「草枕」のなかでさらりと広沢を紹介しているが、雪山のことなどもすっかり承知の上でのことであろう。
一方願い出て借用しこれを丸々筆耕した人物などは、その後の出入りが禁じられている。あくまで閲覧が目的であったことが判る。
残念ながら閲覧者に熊本人の名前は見えないし、また熊本から献上した書物なども見受けられない。

現在は国立公文書館が所蔵するところだが、「将軍のアーカイブス」というサイトが興味深い。

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■二つの侍帳の違い

2016-09-28 12:34:37 | 書籍・読書

  ある方から「肥後細川家侍帳(一)(二)(三)(四)」と、「熊本藩侍帳集成」の内容の相違ついてご質問が有ったので、その違いをご説明しておく。

 肥後細川家侍帳(一)                                  熊本藩侍帳集成
    (1)妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳并軽輩末々共ニ」        (1)同左
    (2)肥後御入国宿割帳                                 (2)同左
        同右・欠                                      (3)寅十二印御侍帳
    (3)真源院様御代 御侍名附                              (4)同左
    (4)真源院様御代 御侍免撫帳                             (5)同左
    (5)寛文四年六月 御侍帳                               (6)同左
    (6)慶安三年ヨリ元禄四年迄 御暇被遣候御侍中之名附             (20)同左

 肥後細川家侍帳(二)
    (7)御侍帳 元禄初年比カ                               (7)同左
    (8)肥陽諸士鑑 (い)~(ち)                              (8)同左

 肥後細川家侍帳(三)
    (8)肥陽諸士鑑 (り)~(す)                              (8)同左

 肥後細川家侍帳(四)
    (9)御侍帳 享保八年写                                (9)同左
    (10)御国中御侍以呂波寄 中村                           (10)同左
    (11)肥後細川様家中御知行扣 全                             同左・欠
        同右・欠                                     (11)士席以上御礼之次第并名前御知行高
    (12)文政三年正月調 士席以上名禄 四宮姓                       (13)同左
    (13)肥後御家中新旧御知行附                              同左・欠
    (14)御家中知行六                                    (12)同左
    (15)御家中御知行高附                                 (17)同左
        同右・欠                                      (15)御侍帳(家紋入)
    (16)文久二年戌十二月十六日写之 肥後世襲士籍               (16)同左
                                                    (18)御侍帳
                                                    (19)十二組名附帳 

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■大日本近世史料「肥後藩人畜改帳」1~5巻

2016-09-28 08:43:38 | オークション

                ●0.14 【計5冊 大日本近世史料 肥後藩人畜改帳 1巻-5巻】

                   ●0.14 【計5冊 大日本近世史料 肥後藩人畜改帳 1巻-5巻】

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■あと四年「新・肥後細川藩侍帳」の整備

2016-09-27 13:56:56 | 徒然

2013:9:10 2020年を目指す を書いた。無為にすごして3年が経過、あと4年しかない。
資料を読み返してわが「新・肥後細川藩侍帳」を整備しようという計画である。
いろいろ間違いがありご指摘を受けている。その都度直してきたつもいだが、最近はサイトの方での修正はお休みして、原本(ワード原稿)で修正している。
少々狂いが生じたのは熊本県立図書館の長きにわたる閉館(?)状態もある。
まずは、諸家歴代当主のお名前の再確認と、刊本の各種「侍帳」の記述を正確に引用しているかを確認している。
ワード原稿はA4判で1,050頁に及んでいる。作業は川口恭子先生の「細川家家臣略系譜」を底本として歴代当主の再確認を完了し、松本寿三郎先生の一連の侍帳の一人一人の記事の転記にかかっているが、なにしろ膨大で遅々として進まない。

なんとか頑張って後世に繋ぎたいと思っている。
 

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■爺様の知恵熱

2016-09-26 10:49:11 | 徒然

 昨日は知道会の講演会に出席約、4時間一言も聞き逃すまいと耳をそばだたせて勉強をしてきた。

帰宅するとすっかり疲れてしまって頭が痛い。また血圧が上がって十時前には布団に入ったのだが、今度は右足に強烈なこむら返し・・・・・
ベッドの上で七転八倒、三十分ほどでようやく収まった。
今朝も起床すると相変わらずの頭痛、血圧を測ると153・79、そんなびっくりするほどの数字ではない。
汗をかいたので着替え、額に手を当てたら少々熱が有る。
最近は気温の変動が激しく、年寄りにはこたえるが熱発の原因に心当たりがない。風邪もひいていないし・・・・

ふと、そうだ昨日の講演会に少々気張り過ぎたかな~と思い至った。爺様の知恵熱だ。
そう思って深刻に考えずにいると、そのうちによくなるだろうと呑気な爺様である。
 

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■鉛筆・色鉛筆

2016-09-26 08:40:02 | 徒然

 いつもお世話になっている光永文煕先生の著「平成宇土・細川家系譜」は、我が座右の一二を争う史料である。
第五版が平成九年十月に自費出版(350部)された。その一部を所蔵している。
この版で加えられたのが重賢公や興文公についての詳しいエピソードである。

その一部に「補記」があり、少々興味深い一文が有る。
「宝暦十一年十二月ノ覚書ニ、茶色ノ色鉛筆ヲ用イテ図ヲ描キタルモノアリ、マタ鍵ノ使イ方ニツキ図示スルニ黒色ノ鉛筆ヲ使用セリ」

これは光永先生が書き込まれたものと思われるが、鉛筆・色鉛筆が日本で使い始められた歴史からすると、少々疑義を感じざるを得ない。
しかしこれが本当だとすると、「色鉛筆」などはその歴史を覆すことになる。( レファレンス共同データベース・色鉛筆の歴史が知りたい 参照)

問題は宝暦十一年十二月の覚書なるものの存在である。拝見したいものだが、果たしてどこにあるものやら・・・・・

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■豊臣・日出シンポジウム

2016-09-25 18:13:35 | 講演会

 大分の日出町教育委員会から案内状が送られてきた。「えっ何故」と思いながら封を切ると、高橋敏先生・氏家幹人先生をお迎えしての講演会である。
日出の藩主・木下延俊が禄の内5,000石を弟に分知したのは、その弟成る人物が秀頼の遺児・国松だからではないかという話がある。
そのことを高橋先生が御著「大阪落城異聞」で取り上げられた。
これは出かけて拝聴したいと考えたところだが、日出は少々遠い。思案のしどころである。 

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■本の処分 資料の整理

2016-09-24 11:55:13 | 徒然

 相もかわらずデスク周りは本と資料でぐちゃぐちゃ状態である。
なにせ部屋が狭く本棚が足りないから、押入れに入れっぱなしの段ボールも内容の確認さえ出来ずに四か月ほどが過ぎた。
そんな中でも新刊本の購入や、ヤフオクで落札した本で量は増えるばかりである。
これを解消するには古い本を捨てずばなるまいと決心した。ブックオフに持ち込もうかとも考えたが、数回に分けて資源ごみと相成った。
小説などの類を300冊ばかり廃棄した。

以前引っ越しを手伝ってくれた娘が、「二三年見ない・使わない物は捨てる」となかなか厳しいことを言っていた。
床に座り込んで仕分けをして、最後に一冊一冊目を通して別れを告げる。
中には一度処分して再度購入した本もある。また繰り返すことになるかもしれないが・・・・

資料の整理は遅々として進まない。収納している袋の中身を確認しながら、ようやく「先祖附」を選りだした。これがデスク脇に山となっている。
古文書資料や多くの上妻文庫その他のコピー類、プリントアウトしたいろんな論考類、全国の皆様から送られてきた資料やお手紙など、これを仕分けしてファイルしなければならない。

最近では作業がたたったのか、左目の上まぶたの涙点がはれてなんとも不愉快な感じ、加えて血圧のせいかふらふらもしている。いろいろ大変・・・・・

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■天和二年の九州巡見使

2016-09-23 08:57:49 | 歴史

 ■水戸徳川家と細川家 でも書いた処だが、我が家の二代目太左衛門は御役目柄(歩之御小姓)公式に熊本に入られる方々の案内役を仰せつかっている。
今日ご紹介するのは水戸の佐々介三郎の来熊(貞享二年)から遡ること四年前の九州巡見使一行の案内である。

延宝八年将軍職についた綱吉は翌九年(天和元年)二月三日、諸国へ巡見使を派遣するにあたって次のような巡見使条目を発布した。
「国々領主、代官に仰出さるヽは、今度諸国巡見命ぜらるヽといへども、国城の図つくるに非ず。人馬、戸口の点検に及ばず。御朱印券の外の人馬は、定の賃とりて滞なく出すべし。いずくを巡察すとも、使者、贈遣一切あるべからず。郷導のものなくて叶はざる所は、中にまかせいだすべし。所在酒掃に及ばず。道橋修造すべからず。しかし往行たよりよからぬはこの限にあらず。駅々の客舎営作すべからず。茶亭新につくるべからず。駅米豆その他地価もてうりあたふべし。其他の物もこれ亦同じかるべし。旅館あたらしき筵席を用ふるに及ばず。旧くともくるしからず。浴室、厠なき所はかろく営むべし。諸調度旧しともくるしからず。もしなき所はかろく設置べし。やどるべき家ゐ一村に三軒なくば、寺にてもまた他村をへだてヽも苦しからず。其地になき売物、他所より搬送してうらしむべからず。」 (細井計氏の論考・巡見使に関する一考察から)

このような厳しい規律の中で九州に入る巡見使第一号を迎えるにあたっては、藩庁の緊張も大変であったろうと思われるが、案内を担当した我がご先祖様もさぞかしと思うのである。
馳走等が厳禁されているなかで、太左衛門は逆に「御吸物御酒迄被下候 罷帰」っている。
さすがにこれは報告せずばなるまい一事である。「覚書」を残しているが、膨大な永青文庫の資料の中に埋もれているのだろう。
案外その後の巡見使の来熊にあたっての、手本になっているかもしれない。
 

        一天和元年酉八月朔日御巡見之御衆奥田八郎右衛門様・
         戸川杢之助様・柴田七左衛門様御国内御巡見被成候
         就而御用被仰付 川尻より薩摩境迄相勤 同十六日罷
         帰申候

        一同年八月廿三日於御花畑大木舎人殿被仰渡者 右御
         巡見之御供衆日向より御帰之節所々御宿等見繕諸事存
         寄之通ニ可仕由ニ而 御役人等差添南郷より南関迄
         罷越御用相勤 同廿九日罷帰申候上ニ而御褒美御銀弐
         枚被為拝領候

        一同年九月七日より右御巡見之御衆日向より又御国内
         江御越被成候付而御用被仰付 南郷高森より南関迄相
         勤申候 於南関奥田八郎左衛門(様・欠カ)より被為召候而 御側
         方其外之御方江も右之趣相伺候処 罷越候様ニと被仰
         聞候故 早速八郎左衛門様御旅宿へ参上仕候処 御居
         間之次へ被召寄 彼方様御家老(来カ)米山太郎兵衛・御目附役
         楢原又市郎を以段々御尋之儀共御座候を 御首尾罷申
         聞仕候処 委細被聞召届候由ニ而 段々御懇之御意其
         ニ御吸物御酒迄被下候 罷帰右御尋之趣一々申披候趣
         をも御側方ニ申上候 右之御用始終申勤申候趣 委細
         覚書ニも仕置申候

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■松寿庵先生・第204講

2016-09-23 08:49:01 | 史料

                           伊倉・切支丹墓碑

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■何を仕出かした佐七殿

2016-09-22 17:57:13 | 歴史

        陣佐七が先祖のかげ(お蔭)にてぬす(盗)しても 命たすかり七よ日のつい

過日■米田家息女尾藤家に嫁ぐでご紹介した落書の内、上記の狂句「陣佐七」云々の内容についてお問い合わせが有ったので、承知している範囲でご返事申し上げる。

陣佐七とは、天草島原の乱で天草四郎を討ち取った陣(陳)佐左衛門の分家筋の五代目当主・佐七兵衛である。
佐左衛門はこの働きで一躍千石の大身となり、これは嫡男吉太夫も相続している。処がこの吉太夫「 承応二年十月 御暇被遺候 」とあり、寛文四年六月・御侍帳には「御知行御合力米御御扶持方被遣衆・三十人扶持」とある。原因は判らない。
功名の家であるから、嫡家は弟・半右衛門に300石を頂戴して家を継ぎ明治に至った。
同じく弟・佐次右衛門に新知200石が与えられて分家を創家したが、佐次右衛門の曾孫であるこの佐七(佐七兵衛)に至り絶家した。
御歩頭などをつとめたが、「明和三年十一月廿八日 御知行被召上候」という処分を受けている。
資料としては、明和四年六月付の在宅願頭書(熊本市史資料編第三編p249)がある。
          陳左七兵衛御吟味之筋有之、明間ニ被留置候内、家内堀矢門屋敷借宅之処差違
          不申候而難成、左七兵衛弟寺川喜七郎より見締申候付、左七兵衛知行所之明屋
          ニ引取せ、幸喜七郎在宅近所ニ付、相慎居候内なから右願之通達ニ成候事

先祖附を見ても詳細を知ることは出来そうにないが、いずれにしても図書館の資料を見ることが出来ずお手上げ状態である。
この狂歌の最後の「七よ日のつい」がよく理解できないが、「七夜(または余)日の費」かな~と考えてみたが牢にでもいれられたのだろうか?
いつの日か真相にたどり着きたいと思っている。

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