津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-慶長十九年」を読む (2)

2023-04-26 06:51:31 | 史料

忠興文書-慶長十九年   (12月大坂冬の陣勃発)
 70、六月二日書状
  ・曽我尚祐ノ病状を知らせよ
  ・隣の屋敷の事曽我尚祐に談合のこと
  ・久貝正俊改易について

 71、六月廿路九日書状
  ・仙石秀久没す、跡式兵太被仰付、いかようにも可被肝煎候、此由申遣候事
  ・江戸城石垣普請出来様
  ・藤堂高虎・福島正則家来同士の紛争・・藤堂高虎と仲良くすべし
  ・曽我尚祐本復のこと
  ・忠興癪を患う
  ・江戸・駿府にて頻に密議在り
  ・(五月四日)吉田浄慶没す

 72、七月十九日書状
  ・忠興の病状
  ・江戸城普請のことの報告については承知
  ・曽我尚祐本復のこと
  ・藤堂高虎・倉橋内匠・永田重利・山岡景長肝煎の事
  ・蜂須賀至鎮より四百両を借用す
  ・大風吹き家・櫓・田畑損ず、忠興作事のため中津へ赴く

 73、七月廿五日書状
  ・江戸へ銀子を下す
  ・藤堂高虎へ銀子借用の礼を述ぶ
  ・江戸町人と細川家水夫の争い
  ・仙石忠政へ状を遣わす、急ぎとどけよ
  ・福島正則のり物事、過酒か笑止
  ・土井利勝駿河へ使いす、様子は知れ申す間敷

 74、八月十八日書状
  ・家康の意向により江戸城普請切り上げ
  ・江戸屋敷作事の屋根の箔を送る
  ・忠利所持の鶉(うずら)を所望す
  ・麦粉到来の礼

 (8月豊臣家は梵鐘銘問題の弁明のため、片桐勝元を駿府へ派遣す)

 75、九月十九日書状
  ・江戸大風の被害(8月28日烈風により土民の家屋倒壊多し)につき御前前へ早打ちを以て見舞い状を送る
  ・細川家江戸屋敷も破損、被害状況判らず、損じた処を作事すべし
  ・忠利の状の到着が遅い

 76、十月三日書状
  ・幕府諸大名ノ誓紙ヲ徴ス
  ・上方ニ雑説
  ・(母)光壽院ノ湯治ヲ差止マス事
  ・忠利の書状が多い時は綴じて寄越すように

  ・急ぎの返事は「一書」に対し一々の返事不要

 (10月11日徳川家康出陣す・23日京都着、秀忠23日江戸出発)

 77、十月十五日書状
  ・大坂の儀に付、この状参着次第鉄炮ノ者ヲ残ラズ上坂セシムベシ
  ・此状、佐州・大炊殿、藤泉へ持可被届事
  ・国許別條ナシ

 78、十月十八日書状
  ・去六日忠利駿府ニテ家康ニス、珎重候事
  ・本佐州・金地院書状見申候、則返事遣候事
  ・藤堂高虎駿府ニ赴
  ・忠利上坂ハ本多正純・金地院ノ指図次第タルベシ
  ・普請ノ者共、早可上候
  ・忠興廿一日出船スベキ処家康ノ指図ニ従ヒ暫ク在国ス
  ・伊達政宗・上杉景勝・佐竹義宣大坂先手ヲ命ゼラル
  ・非常ノ時ハ(母)光壽院ヲ江戸城内ニ託スベシ、隠密肝要
  ・上坂相延候間、中津へ可越

 (11月19日木津川口の戦い。26日には鴫野今福の戦い、29日には博労淵の戦い野田・福島の戦い
 (12月3~4日 真田丸の戦い
 (5日、家康茶臼山ニ本陣を移す)

 79、十二月六日書状
  ・忠利、本田忠朝ㇳ森河内ニ陣取ル、
  ・景勝・佐竹勢ノ批評
  ・忠利、本雲洲(忠朝)ノ馳走ヲ受ク、忠興礼状ヲ遣ス
  ・忠興上坂ハ島津次第ノコト
  ・忠興上坂ノ上ハ忠利ト一手ト成ラン・人数九千
  ・御奉行衆ゟノ觸状届ク、上州ニ返事遣候
  ・上方ニテ薩摩ノ風評アル由ナレド別儀ナシ
  ・毛利高政・木下右衛門大夫ヘノ書状、忠利方ゟ可被届候事、
  ・毛利高政ゟ参候銀子、江戸へ送ル

 (12月16日ヨリ一斉砲撃)(20日京極家に於いて東西両軍の和議)(23日より和議の条件である堀の埋め立て始まる)

 (12月29日小倉出船、大船500余艘に馬乗組門司迄御出、大坂より御小早下り去ル23日東西御和睦、御帰国可被旨被諚出ノ由忠利君ゟ被仰越候間御帰陣す)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■灯台下暗しの引っ越し物件 | トップ | ■鳩野宗巴の西南の役観察‐西... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿