津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

正保二年「御扶持方御切米御帳」から

2009-04-17 15:51:41 | 歴史
 正保二年というと、三齋が十二月二日に亡くなった年である。そして五月十九日には宮本武蔵が亡くなっている。そんな正保二年の「御扶持方御切米御帳」が興味深い。
「御合力米」として次のようにある。(抜粋)

 ・百五拾人扶持         小代下総(下総守・親泰)
     小代氏は、荒尾地方を治めた国衆、佐々成政に対抗したが秀吉の許に下り
     加藤清正家臣となった。加藤家侍帳に「四千百三十五石五斗三升」とある。
     「真源院様御代御侍名」に人持衆併組迯衆 百五十人扶持とあるが、この
     記録のほうが古い。
     初代、子・市正(清兵衛 下総・至休)についても、「寛文四年六月・御侍帳」
     に御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百五十人扶持とある。
     二代、五郎兵衛・親重にいたり、人持衆并組外衆四百石(甚左衛門組)とな
     った。(御侍帳・元禄五年比カ)
 ・百人扶持            朽木内匠頭
     細川藤孝の実兄・三渕藤英の二男・昭貞の嫡男(二代目)である。
     部屋住の身分で千石を拝領したとされるが、それ以前のものであろう。
 ・五十人扶持          三池左兵衛             
 ・五十人扶持          三池善大夫
     この人は式部少輔・親家(左馬之丞) 加藤清正臣・二千四十八石(加藤家
     侍帳・時習館本)の嫡子である。
     善大夫・親次  
         人持衆并組外衆 五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
         御知行御合力米御御扶持方被遣衆・五十人扶持 
                       (寛文四年六月・御侍帳)とあり
         細川綱利公御書出に貞享五年・三百石拝領とある。
 ・七人扶持拾八石       宮本武蔵
     武蔵はこの年に亡くなっている。合力米三百石と記す文書も見受けられる
     が、この記録は現実的で興味深い。
 ・九拾石             三宅藤左衛門
 ・三拾六石            三宅新兵衛
 ・拾八石             三宅左京
     この三人は三宅藤兵衛の子である。
     綿考輯録(巻60-P242)にある、寛永拾九年十二月九日三宅藤右衛門・新兵
     衛・左京ニ御合力米被下候留書とまったく同じ物である。
                覚
            一、米九拾石     三宅藤右衛門
            一、同三拾六石    三宅新兵衛
            一、同拾八石     三宅左京
               右之合力米毎年可相渡者也
                 寛永拾九年十二月九日   御印
                            奉行中
           考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし  

 ・金小判三十両         細田清印
     これは荒木攝津守村重の孫・荒木左馬介(細田栖隠)のことである。
     たびたびこのブログでも紹介してきた。
     義母の為に細川家に預けられるが、処分直後の記録として面白い。

     【参考】
    寛永廿一年(正保元年)五月十日御老中より之奉書 (綿考輯録・巻六十一)
     一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指
     置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
       五月十日                   阿部対馬守
                                阿部豊後守
            細川肥後守殿           松平伊豆守
                                           

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